文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


完全復帰

 一九七二年五月二十一日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十七巻』


 私たちはこの地上に生きている数多くの人類が、罪悪の世の中に生きているということを知っています。一生をいくら善良に生きたという人がいても、臨終に際し、自らの生涯を反省してみるとき、自分が果たして善良に生きただろうかと考えるならば、善良に生きた自分自身よりも善良に生きられなかった自分自身を発見せざるを得ないのです。

◆善と悪の岐路に立つ人間

 私たちの一生において、善なることと悪なることを一つ一つ抜き出してみるとしましょう。ここで、最後に善が残ることを願うのが人間の願いですが、善よりは悪が残りやすいのが、私たちの人生行路というものです。

 一つの時代の数多くの人類を総合してみるとき、個人の善と悪を取り除いてみるならば、善よりも悪が残ると考えられます。ですから、この地上に生きている人は、善なる人ではなく悪なる人であり、またこの社会は、善なる社会ではなく悪なる社会であるという結論が出てくるのです。

 歴史路程について長い人類史を観察してみても、真を受け継いで真の歴史にならなければならないにもかかわらず、かえって真よりは悪が残り、悪の歴史が続いてきたという結論を下すようになるのです。ですから私たちは、この世は、善なる世の中ではなく悪なる世の中だと考えざるを得ないのです。

 では、世の中がなぜこのように悪くなったのでしょうか。善が最初に出発して善の種を植えていたなら、植えられたとおりに刈り取るので、善の結果が必ず現れたはずです。しかし、善が最初に植えられたのではなく、悪が先に植えられたのです。善なる土台の上に悪が植えられたのです。これが問題になるのです。

 悪なる土台の上に悪が植えられたとするなら、それは悪のまま続くしかありませんが、善なる土台の上に悪が植えられたので、善なる面と悪なる面がひっくり返りながら歴史は巡るのです。善なる土台の上に悪が植えられたために、最後に残るのは善ではなく悪が残らざるを得ないということを、私たちは全体を推し量ってみて結論づけることができます。それゆえ、今日私たちが生きているこの世は、悪の支配権内にあるということが分かります。言い換えれば、善が全体を主管しているのではなく、悪が主管しているというのです。

 人間は、悪から出発したがゆえに悪なる存在としているしかありませんが、もし善なる絶対者がいらっしゃるならば、その絶対者はどうなさるでしょうか。あるいは絶対者がいる反面、その絶対者に反対する悪なるサタンがいるならば、そのサタンとはいかなる存在でしょうか。こういう問題を考えてみるとき、神様だけは絶対的な立場で善でなければならないのです。その方は、始めも善でなければならず、過程も善でなければならず、終わりも善でなければならないのです。それは間違いない事実です。その方が歩んできた過去も、摂理を推進している現在も、未来も、その方においては善だけが残るのであり、悪というものはあり得ないのです。

 その反対であるサタンがいるならば、そのサタンとはいかなる存在でしょうか。彼においては、善というものはあり得ないのです。彼は、出発から悪であり、過程も悪であり、結果も悪なのです。神様の前に、もしサタンが善なる立場を取ることができるならば、私たち人間が善なる道を探していくにおいて、混線を来さざるを得ません。それゆえ悪は、あくまでも悪なる立場にあるしかないのです。始めも終わりも、サタンは悪でなければならないのです。私たちは、このような結論を下さざるを得ません。

 ところで、善なる神様とその反対の悪なるサタン、両者の間に挟まっているのが、私たち人間です。それゆえ、一生を通して私が善を追求しながら歩むようになるときには、善なる神様が共にあり、その反対に立つようになるときは、悪なるサタンが共にあるのです。これが、現在の私たち人間の運命であるということを私たちは知っています。

 一生の路程において、善なる神様を慕いながら、善だけを残すことができる道をどのように立てていくかということが、人間が何よりも希望することに違いないのです。したがって、絶対的な善を中心としていらっしゃる神様を私たち人間が絶対的に信じ、その方と一つになり得る道を模索するところにおいてのみ、私たちの人生行路が善に始まり、善の過程をたどり、善の結実を結ぶことができるのです。私たちが一生を生きたのちに、善と悪を一つ一つ取り除いてみるとき、悪が善より多ければ悪なる主管圏内に帰結するのであり、善が悪より一つでも多く残るときには、善なる主管圏内に帰結するというのです。

◆完全なる対象的な善の実体を願う神様

 私たち人間の最高の希望は、完全に善なるものとなることです。マタイによる福音書第五章四十八節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。絶対的であり、善の主体であられる神様が私たち人間を本当に愛することを希望するとき、その愛の対象の立場に立つことのできるのが人間であるとします。そうすれば、人間は絶対的な神様の相対的な存在として、善なる存在として立つことを最高に願うのではないでしょうか。その相対的な存在が悪なる立場に立ってうめき、サタンの前に讒訴を受ける立場に立つことを願わないのが、善なる主体ではないでしょうか。これは、言うまでもないのです。それゆえ、完全な善の主体としていらっしゃる神様は、人間に対して完全な対象的な善の実体であることを願うのです。

 では、生まれる時からそうであることを願うでしょうか。また、生まれて一生の間そのように生きることを願うでしょうか。もちろん、そうでしょう。今までもそうでしたが、未来においても善であることを願う神様に違いありません。

 私たち人間が生まれる時から一生の間、善であることを願う神様ではないでしょうか。現在だけでなく、未来の人間に対しても善なることを願うのではないでしょうか。現在と未来もそうであるなら、過去においてもそうであることを願われた神様に違いないのではないでしょうか。そうであったはずです。では、過去において神様が善なる基台を残すために、努力したことがなければならないのです。そうでなければならないのです。

 アダムとエバが堕落した以後に、どのようになったのでしょうか。神様とサタンの間で自ら悪を除去してしまい、善なる立場を決定づけて善なる立場に行くべきアダムとエバでした。しかし、アダムとエバ自体としてはそのようにできないために、善の主体であられる神様がここに介入し、神様とアダム・エバとを連結できる一つの善の基準を決定できる場をもたなければならないのです。

 それが決定される場は、人間が願う最高の基準を中心として決定されなければならないのです。生まれる時から、また成長しても幸福であることを願うのが人間ですが、人間が願うその幸福の最高の中心は何でしょうか。神様を父母として侍ることのできる息子、娘の立場として、アダムとエバが創造されたなら、父母の前に息子、娘として最高の愛を受けることのできる場がアダムとエバが願う最高の希望の場なのです。

 問題は愛です。神様がアダムとエバを愛するならば、アダムとエバはいかなる立場で愛されたいでしょうか。神様の息子として、神様の娘として愛される立場を願うのです。その愛は、完全な愛です。息子として、娘として、完全な愛を受けなければならないのです。

◆堕落により神様の完全な愛を受けられない人間

 堕落したという事実は、神様の息子として一生の間、完全に愛を受けることのできるその場を完成できないことをいうのです。堕落しなかったならば、アダムとエバは絶対的な神様を父母として侍り、息子として一生の間、神様の満ち足りた愛を受けたであろうし、完全な愛を受けたなら、愛の歴史において神様を中心として完全な出発をしたことでしょう。そういう歴史的な出発をすべき私たちの人間始祖が、そうすることができず、そこに到達できなかったのです。これが堕落です。

 完全な愛の主体であられる神様は、完全な愛を施すために人間を創造されたにもかかわらず、愛することができませんでした。それで神様は、堕落した人間ゆえに、悲しみの立場に立たざるを得なかったというのです。

 神様は絶対者であられるので、絶対的な神様が計画したことも絶対的な結果をもたらすべきであったにもかかわらず、人間が堕落することによって、そのような結果をもたらすことができませんでした。また、絶対的な愛を中心として出発すべきであったにもかかわらず、人間が堕落したことにより、その出発ができませんでした。ゆえに、これを必ず成就しなければ絶対的な神様としての権威と位置を維持できないのです。

 それゆえ、神様はそういう基準を再び探し出すために、困難を克服して歩んでこざるを得ないと、私たちはここで結論を下すことができるのです。息子として、神様の愛を中心として完全な出発ができなかったのが堕落です。

 では、息子として完全な愛を受けたのちにはどのようになるでしょうか。完全な夫婦として愛を受けなければならないのです。アダムは男性として生まれ、エバは女性として生まれました。彼らが堕落せずに完全な愛を受ける立場で成熟し、すなわち神様の愛の懐から生まれ育ち、正に神様の円熟した愛の圏内で成熟したならば、彼らは神様の喜ぶ夫婦として、完全な愛の圏内で出発したでしょう。それは言うまでもありません。

 そのようになったならば、その夫婦は不幸だったでしょうか。そうではありません。その夫婦こそは、絶対的な神様の喜ぶ立場に立ったので、神様の愛とともにその夫婦が一つになり、絶対的な愛を中心として相対的な立場に立っているアダムとエバは、正に幸福であったはずです。

 神様がもっている物は、相対的な立場にある彼らの物となり、神様が喜ぶその喜びは、神様だけの喜びでなく、相対的な存在の喜びにもなるために、主体としていらっしゃる神様の喜びは、アダムとエバの喜びとなるのです。すなわち、神様の喜びがアダムの喜びとなり、神様の喜びがエバの喜びとなり、アダムの喜びがエバの喜びとなり、エバの喜びがアダムの喜びとなり、アダムとエバの喜びが神様の喜びになる、正に統一された喜びだというのです。人間と神様がどのような面においても、お互いに不足なく、偏りのない、満ち足りた愛を備えることのできる立場が、円熟な夫婦として愛を受ける立場なのです。

 しかし、アダムとエバは、そういう出発ができなかったのです。それが、堕落のもたらした結果なのです。

 それだけでなく、その次には父母として完全な愛を受けることができなかったので、その父母が子供を生んでも、子供を完全に愛することができないのです。その父母が完全な愛を体 恤したならば、子供にも完全な愛を与えることができるのです。完全な愛を体恤できない立場で子供を生んで愛するならば、その愛は自分たちが体恤した以下の愛であって、それ以上の愛ではないのです。

 このように考えてみるとき、神様が堕落していない本然の真の父母として、子供を愛することができたかといえば、愛することができなかったというのです。

 今日、この地上でも父母の愛について話しています。堕落した世の中の父母も、生命を顧みないで子供を愛します。

 堕落の愛で因縁づけられたその父母も、生命を犠牲にして子供を愛するのを見るとき、堕落せずに完全な子女として、完全な夫婦として、完全な父母として、神様の完全な愛を受けて子供を生んだならば、その子供を愛する心はどれほど強かったでしょうか。それは完全な基準なので、最高に強かったはずです。

 神様もその愛を押しのけることはできないのです。その愛の前に神様も涙を流し、その愛がなければ悲しみを感じざるを得ないので、その愛で絶対者も主管できるのです。

◆神様が人間を創造された理由

 幸福というものは、相対的な要件を通して成り立つのです。情緒的な分野のない幸福というものはあり得ません。幸福は完全な相対的要件を備えて授受する情緒的な基盤をもつようになれば、ここで四方性が自分と関係を結ぶようになります。しかし、相対的要件が整わないときは孤独なのです。孤独には満足や、希望というものはあり得ません。

 このように考えてみるとき、人間が完全な神様の愛を中心として父子の関係を結び、横的に子女になる歴史が展開したならば、その歴史はどれほど驚くべき歴史になったことでしょうか。そのようになっていたなら、縦的な立場に立ち、神様と絶対的な愛を中心として連結されるのはもちろん、その縦的な愛が再び父母を中心として、横的に自分の子孫に連結される、すなわち、神様がアダムとエバを愛するのと同じように、アダムとエバが神様の愛と一致した立場で神様のような立場に立ち、横的に子女を愛することのできる基盤が成立するのです。

 そうなるならば、その子女に対する立場も、神様と一致できる立場になるということを、私たちはここで知らなければならないのです。ゆえに、神様の愛は結局、アダムとエバを通してその子女に行くのです。

 その子女の愛は、子女の愛として終わるのではありません。その子女の愛は、父母を通して因縁づけられるので、それが父母の前に返す基盤になったとすれば、それは「統一原理」でいう、愛を中心とした理想的な四位基台なのです。

 では、神様がいらっしゃるならば、その方には人が必要です。人は、誰が創造したのですか。神様が創造されました。神様は人を必要としはしますが、人をいくらでも創造することのできる能力のある主体者です。これを考えてみるとき、神様は、その人自体が必要なのではないということが分かります。人は造ることができるというのです。では、物質は必要でしょうか。物質も、神様が造ったのです。

 ではなぜ、人を必要とするのでしょうか。人自体は必要でないのに、なぜ必要とするのでしょうか。このような問題について考えてみるとき、その人というものは愛の対象とするために必要なのであって、他の目的があって必要とするのではない、ということが分かります。神様が物質を必要とするでしょうか。権力を必要とするでしょうか。神様には、それはみな必要ないのです。そのようなものはみなもっています。

 神様は絶対者なので、彼の権限を凌駕できる存在はこの世にはないのです。神様がすべてのものを創造したので、ほかに必要なものは存在世界にはないのです。神様が必要とするものは権力でもなく、お金でもありません。神様が知識を必要としますか。必要なものは知識でもありません。

 では、人をなぜ創造したのでしょうか。人の姿を見るために創造したのではありません。ではなぜ創造したのでしょうか。自分の中に相手を備えて作用をし、刺激を感じることのできる、新しい何かを感じるために創造したのです。その他のものは、既にみなもっているのです。それでは、それは何でしょうか。愛の感情を誘発することのできる対象の実体が必要なので人を創造したのです。

 神様の中には、美があるならばそれ以上の美がないほどに、みなそろっています。自分自体よりもそういう内省的なものを相手に反映させて、ここで反応してくる刺激によって、範囲の広い美しい愛の雰囲気を形成するために人を創造したのです。

 したがって、父母が愛する息子と遠方に、地の果てに離れているといっても、それは別れているのではありません。遠ざかれば遠ざかるほど、その愛が遠ざかるのではありません。本当に愛する人間同士は、離れれば離れるほど近づくことを願うのです。そうではありませんか。ここに距離というものはないのです。愛の世界でのみ、距離を超越できるのです。それ以外には、そのようにはできないのです。

 では、無限な神様、無限な存在であられる神様が、その無限圏に通じることができる素性とは何でしょうか。能力ではありません。権勢というものも、その限界圏を越えることはできないのです。その限界圏を越えることができるものとは何でしょうか。それは、愛の力しかないのです。無限なる世界、永遠なる世界を管理できるその本質は権勢でもなく、知識でもありません。愛の力でなくてはならないのです。私たちは、このように考えるしかないというのです。これを考えてみるとき、神様は対象的な愛を必要とするために人間を創造されたのです。

 では、愛はどのように現れるでしょうか。民の愛としてまず現れるでしょうか。民の愛として先に現れるのではありません。兄弟の愛としてまず現れるのでもありません。愛が現れる道を追求してみるとき、愛が現れる一番最初の道は父母の愛です。

◆無限圏に通じることができる素性は愛

 絶対的な神様が、真の愛の伝統を立てるには、いかなる伝統から立てなければならないでしょうか。父母としての愛の伝統をまず立てなければならないのです。それゆえ、神様は父親に違いないのです。神様は父親です。父親として息子を愛する伝統を継承し、真の愛の出発を見なければならないのです。父母として息子を完全に愛し、息子として、すなわち息子、娘として完全な愛の因縁を結ぶことを願ったはずではないでしょうか。そのようになっています。

 その次には何でしょうか。それが成されたのちには、夫婦の愛の因縁を結ばなければなりません。その次には、その夫婦が神様に似て、神様と共に喜ぶことのできる圏をもたなければなりません。神様が父母の愛を備え、息子の愛を備え、夫婦の愛を備えて子女を愛するように、彼らも子女を懐に抱いて愛するようになるとき、ここで一つの軌道を備えて横的に発展するのではないでしょうか。

 それゆえ、父親として完全に愛さなければなりません。完全な愛を受けたその息子と娘が、完全な夫婦としての愛を築くことを神様も願うのです。夫婦の愛を築いたのちには、父母として愛を成し遂げなければならないのです。すなわち、神様がアダムとエバを愛するように、人間も自分と全く同じ立場で子供を愛することを希望してこそ、これが縦横に一致するというのです。

 世の中のどこに幸福があるでしょうか。人間を離れて未来の世界に幸福があるのではないのです。幸福がどこにあるかといえば、自分が出発したその場にあるのです。それゆえ、歴史は幸福を探し求めていくのではなく、幸福の基準の前に歩調を合わせる歴史にならなければならないのです。それにもかかわらず、今日の私たちはそういう原則の基準を失ってしまったために、未来の幸福を追い求める人間になったというのです。

◆完全な愛

 それでは、愛というものは何でしょうか。一〇〇パーセント対象のためにすることです。そのような立場でのみ愛が成立するのです。愛が成立するところにおいて、「私のためになせ」というのでは、完全な愛は成立しません。

 完全な愛は一〇〇パーセント人のための立場で成立するのです。それが原則です。分かりましたか。自分を中心とするところで、愛が成立するのではありません。完全に対象のためになす立場から、完全な愛が始まるのです。人間はそのような目的をもって生まれ、そのような立場にあるために、それを否定できないのです。

 したがって、愛は完全に人のためにするものです。人のために生まれたというところで愛が成立するのであって、私のために生まれたというところには愛がないというのです。愛する夫婦ならば、夫婦間で互いに「ため」に生きることによって愛が成立するのであって、「君は私のために」というところで愛が成立しますか。それは一時的です。それは相手の気分に合わせる愛であって、本物の愛にはならないというのです。このような観点から見るとき、人間は愛の理想のために生まれたのです。

 人のためにすることが、どうして良いのでしょうか。父親や母親、あるいは学校で教育をするときに、みな「君、良いことをしなさい」と言います。では果たして、どのようにすることが良いことなのでしょうか。出ていって人をげんこつで殴り倒すのが良いことなのではなく、人のために自分を犠牲にするのが良いことです。したがって、善良な人や良い人とは、自分を犠牲にする人です。

◆より大きなことのために犠牲になれば、愛の中心者となる

 結局、犠牲になる人は、愛を誘発させることのできる主体になるのです。国のために犠牲になる人は、国の愛を誘発させることができ、家庭のために犠牲になる人は、家庭の愛を誘発させることができ、同志のために犠牲になる人は、同志の愛を誘発させることができるのです。それゆえ、私たち人間は知りませんが、人のために犠牲になることは良いことなのです。

 宗教は、何を教えてくれるのでしょうか。神様の愛を教えてくれます。また、神様の愛の目的を達成しなければならない使命をもっているために、宗教は犠牲を教えてくれるのです。それは当然なことです。宗教は、自体を中心として世界を制覇しようとしてはならないのです。

 先生は、「犠牲になれ」と教えています。先生は、「より大きな国のために犠牲になれ」と言います。この国、この民族に、今まで現れたことのない犠牲の心をもって国のために犠牲になれば、今まで歴史上に現れたことのない愛国精神がここで現れるようになるのです。国民を愛する新しい伝統がここに立てられるようになるとき、その伝統を立てた団体は滅びないのです。今日、先生が国のためにすることは、国を完全に抱き、その国をして世界のために犠牲になるようにしようというのです。

 では、その国はどのようになるでしょうか。世界人類の前に、新しい高次的な世界の愛、愛国ではなく博愛主義的な世界の愛の伝統を、新しく植えるようになるのです。それさえ植えるならば、万民は、その愛の道を好むはずです。それは、過去にも好んだでしょうし、現在も好み、未来にも好むはずです。これを凌駕する時間性、観念性というものはありません。すべてがこれを標準として終着するようになっています。これが母体であり、起源であるゆえに、その愛だけが人類に必要なのです。

 その愛を中心とした平和の世界を追求することが原則であるがゆえに、先生の思想は、国が復帰される日には、その民を集めて世界人類のために犠牲になれと教えるのです。これが先生の探そうとする国です。

 そのようになれば滅びるでしょうか。「滅べ」と言っても滅びません。なぜ滅びないのでしょうか。神様が狂ったように好むからです。神様が好むところには、打つ人はいないのです。神様が嫌えば、サタンが来て打ち、悪党の侵犯を受ける可能性がありますが、神様が狂ったように好むところに誰かが侵犯したなら、容赦しないのです。

 悪神と善神の闘争は、何を中心としてするのでしょうか。愛を中心としてするということを、皆さんは知らなければなりません。結局、人のために、より大きいことのために犠牲になるとき、犠牲になろうという愛の心をもって進む日には、善神が管理するのであり、そうではなく、自分を中心として人を犠牲にして自分を愛する人は、反対に悪神が主管するのです。このように、はっきりと分かれるのです。

 本来、人間は人のために生まれました。人のために犠牲になるために生まれたのです。人のために犠牲になれば、どのようになるでしょうか。愛の伝統が立つだけでなく、彼は愛の中心者になるのです。間違いなく愛の中心者になるのです。

 学校で、いわばその学級全体のために仕事をする人が学級長になるのと同じです。同じ立場にありながらも、人のために生きる立場に立った人が学級長になるのです。一つの国の国民ならば、誰よりも自分の国を愛し、自分の国のために生きるならば、その人は民族的な中心者になるのです。

 愛の中心者になって何をするのでしょうか。頂上に立つのです。中心者は頂上に上っていくのです。頂上に上がっていくようになれば、自動的に群れを指導することができ、主管することができます。主管者になるというのです。これが天理原則です。これを確実に知らなければなりません。

 では、「完全」はどこから始まるのでしょうか。人間の「完全」というものは、どこから出発するのかといえば、私から出発するのです。その完全は、愛を中心としてあり得るのです。いかに堕落した人間が無知な頭脳で考えるとしても、愛を中心として完全を追求するようになっているのです。

◆完全復帰の出発は自己否定するところから

 愛を中心として出発することのできる完全な基準はどこでしょうか。それが「私」です。「私」という立場は、本来、人のために生まれました。人のためになる立場、人のために出発する立場、これが最高の完全な立場です。復帰完成、完全復帰できる人は、人のためにのみ生きた人です。結論がそのようになるのです。

 神様は今どのようにしていらっしゃるのでしょうか。神様は完全な方であるために、人のために今まで生きてこられた方です。ところが、まだ絶対的な基準に到達した相手がいないために、相手が絶対的な基準に到達する時まで、苦労されるのです。

 では、完全復帰はどこから始まるのでしょうか。それは、自己を完全に否定する立場からです。ですから、イエス様は真に偉大な方なのです。「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言われたのを見るとき、イエス様は偉大であり、聖書は偉大だというのです。

 死のうとすることは完全否定です。死のうとする者が生きるので、その人は希望があるのです。生命があるので希望があるのです。

 その方は十字架に行くようになった時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。これを見るとき、その方は自分勝手に生きた人でしょうか。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言ったのですから、父のみ意のままに生きた人です。お父様のために生まれたというのです。

 その次に、その方が十字架に亡くなるとき、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)と、このように怨 讐のために福を祈ったのです。それは誰のためだったでしょうか。自分のためでしたか。怨讐のためだったのです。怨讐ですが、怨讐が望むことのできる立場に立ったというのです。それゆえ、怨讐は彼の支配下にあるというのです。正に完全に人のために、怨讐のために福を祈ったのですから、彼は完全に人のために生きたのです。

 それゆえ、その方の伝統は歴史を支配せざるを得ないのです。そうでなければ、神様がいないという結論が出てくるのです。神様がそういう方なのに、神様に似たその方が滅びるようになれば、天道はないということです。神様もいないのです。

 ところが、その方に似た息子の姿が地上に現れたので、彼の動きが、神様の願いを成し遂げる行動であるのは当然なことです。彼の思想が世界を制覇したのを見るとき、神様はいらっしゃるというのです。

 このような観点から、既にもっているものは私のものだから、「私のものだ」と言う必要がありません。既に私のものになったのだから、与えようとしなければなりません。そのように神様は考えていらっしゃいます。ですから、神様の息子、娘もそのように考えなければならないというのです。

 では、愛の等級はどのようになっているでしょうか。より大きいことのために犠牲になるほど愛の等級は高まるのです。それゆえ、家庭のために犠牲になることよりも、家庭までも国のために犠牲にする人があれば、彼は愛国者になるのであり、愛国者の家庭になるのです。しかし、愛国者の家庭だけであってはならないのです。さらに家庭と氏族を率いて、国のために犠牲になれば、愛国者だけでなく、愛国氏族になるのです。

◆より大きいことのために犠牲になれば滅びない

 国を建てて私の手中に入れるのだというのと、国を建てて世界の中に入れるということとは違うのです。私の手中に入れようとすれば悪であり、これを世界に、神様の前に捧げようとすれば善になるのです。

 より大きなことのために犠牲になれば、滅びないで残るのです。神様はそういう群れによって完全復帰を計画できるのであって、そのほかのことでは完全復帰というのは夢にも見ないのです。

 それゆえ、復帰の思想は「私はあなたのためにあり、私は家庭のためにあり、家庭は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためにある」というのです。では、神様は何のためにいらっしゃるのでしょうか。神様は愛のためにいらっしゃいます。こうしてこそ、平和の世界が築かれるのです。

 男性は家庭のために、すなわち相手のために、父母は子供のために、家庭は国のためになければならないのです。より大きなことのためにという、この高貴な伝統を受け継ぐことのできる民族思想を一元化させて国をつくらなければならないのです。そういう国が成されれば、その国はこのような思想を中心として世界化するためにあるのであり、その世界は神様のためにあるのです。

 神様は主体であり、世界はその相手なので、互いが互いのためにあるのです。神様は誰のためにいらっしゃるのでしょうか。神様は相手のためにいらっしゃるのです。その主体と相手は何のために存在するのでしょうか。愛のために存在するのです。ここで初めて、すべてが完成を目の当たりにすることができるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それゆえ、完全完成の出発は、私にあります。私が世界のために犠牲になるとき、完全完成が出発するのです。私が神様のために犠牲になることが、完全完成の出発です。そして神様のために、より一次元高めて、神様の愛のために出発しなければならないのです。

 聖書を見れば、イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言いました。ここで、どうして「愛」を抜いたのでしょうか。今後、統一教会が聖書を改正するならば、先生は「愛」を採り入れようと思います。「私は道であり、真理であり、生命であり、愛である」とです。愛を入れるようになれば、神様も好み、イエス様も好むはずです。「私は道であり、真理であり、命であり、愛であるから、誰もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできず、神様も幸福になり得ない」と、このようにしようというのです。これが原則です。

 信仰と希望と愛、この三つは常にありますが、その中で一番のものは愛です。そういう伝統的な歴史が裏づけられているためです。今までこれを知らないでいたというのです。ここで知ったので、そのとおりに生きていかなければなりません。

◆宗教は棟になるという教え

 聖書を見れば「真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)とあります。堕落はしたけれども、真理を知って真理どおりに行う人は解放されるというのです。ですから、イエス様もそのように生きたのです。

 聖人という名前をもった人々の中に、自分のために生きた人がいるでしょうか。聖人を見れば、最も弱者で、最も不出来な人です。自分は優秀だと、自分を主張した人が一人もいないのです。聖人は何を主張したかといえば、神様を主張しました。すべて神様のみ意を中心として生きた人々です。ですから、聖人たちはすべて宗教の宗主になっているのです。

 イエス様はキリスト教の宗主であり、釈迦は仏教の宗主であり、孔子は儒教の宗主であり、マホメットはイスラム教の宗主です。彼らはみな、自分を主張した人々ではありません。主体であられる神様のために生きた人々です。「この宇宙の中心は絶対的な神様であるがゆえ、宇宙はその絶対的な神様のためになければならない」ということを、始めから終わりまで主張したのです。それが内面的、心情的基準においてどれほど広く深いかによって、聖人の等位が決定されるのです。

 こういう意味からキリスト教のイエス様という方を見るとき、彼は、ガリラヤの浜辺で漁夫を連れて暮らしていたそのときには、信じられない若者でした。けれども彼は、「私は神のひとり子である」と主張しました。ひとり子だけでなく「私は人類の新郎である。真の息子の愛の伝統を立てなければならず、真の夫の伝統を立てなければならない。私は人類の父である」と言いました。すべてを話したというのです。こういう意味で、真の息子の愛、真の夫婦の愛、真の父の愛、この三つに対して、キリスト教だけが神様を中心として議論したことを見るとき、キリスト教が世界的な宗教にならざるを得ないという結論が自動的に出てくるのです。

 英雄は、世の中からあがめ慕われません。力で世界を自分の思いどおりにしてみようという英雄が、自由にできるでしょうか。そうはできません。それは、完全な絶対者の前に反発することです。反発すれば遠ざかるでしょう。遠ざかれば人間世界から追放されるのです。ですから、宗教は「絶対的なその方の前にマイナスになれ」と教えるのです。

 悪は、絶対者の前にもう一つのプラスの立場を取ろうとするのです。反面、善は他のプラスではなく、絶対的なプラスの前に絶対的なマイナスになろうとするのです。それが何かといえば「私には何もない。人のために生きる」というのです。それで、自分というものは自動的になくなるのです。

 これは気圧でいえば、神様が高気圧圏であれば、私は低気圧圏にならなければならないのです。私が低気圧圏ならば、高気圧に対して、どんなに「来るな」と言っても、来るようになっているのです。低気圧になればなるほど、吹き荒れるのです。それが台風です。そのようになる日には、愛の台風が吹いてきます。これを考えてみるとき、宗教の教えは偉大だ、ということを皆さんは知らなければならないのです。

 宗教というものは、棟になる教えです。棟は一番上ではありませんか。宗教の教えの骨子とは何でしょうか。「犠牲になれ」というのです。そのようにすれば滅びるようですが、滅びません。完全に滅びる日には、かえってひっくり返るというのです。台風が吹くというのです。これが絶対的な主体の前に、絶対的なプラスの前に、絶対的なマイナスになって一つになる運動だというのです。

 この宇宙の終末時代には、この台風が吹けば歴史が飛んでいき、人類が飛んでいき、世界が飛んでいき、民主主義が飛んでいき、すべて飛んでいくというのです。

 このような原則で宇宙は形成され、それが未完成であるために、再度完成させるためには人のために存在する絶対的な価値を追求しなければなりません。そのようにしてのみ、勝利が完全であり得るのです。

 堕落とは何でしょうか。自分を完成の基準と見て、自分を主張し、自慢したのが堕落です。自分を主張したのが堕落です。神様が「善悪の実を取って食べるな」と言ったのに、「善悪の実を取って食べれば神様のようになる」と考えて、取って食べてしまいました。これは自己自慢です。それが堕落の動機です。そのような人間が神様に再び会おうとするなら、自分を中心として自慢するのではなく、神様を中心として自慢しなければなりません。

 神様は絶対的な主体なのですが、その主体の前に自分は相対的立場から位置を探していかなければならないのです。完全な立場とは何かといえば、相対的立場であるゆえに、人のために犠牲にならなければなりません。その立場のほかにはないということを、皆さんは知らなければなりません。ここで初めて完全復帰の出発になるのであり、そのように進む人は完全復帰の過程を行く人です。完全復帰の過程だけでなく、完全復帰の完成まで行くことができるのです。

◆完全復帰の出発地

 では、皆さんは何のために生きなければならないでしょうか。神様が願う理想の国のために生きなければならないのです。神様が願う理想の国がこの地にあるでしょうか。ないのです。ですから、神様の願う理想の国のために犠牲になることは、善なることです。

 先生は、いかなる考えをもっているでしょうか。大韓民国だけを良くしようという考えではありません。大韓民国を犠牲にしてでも世界を救おうという思想をもった人です。そのようにしてでも大韓民国が世界を救う日には、大韓民国は世界の中心国家になるのです。「中心者になるな」と言っても、中心者になるのです。「主管者になるな」と言っても、主管者になるのです。

 これが最も早い道であるので、この道をとっていく人は賢い人です。神様のように賢い人です。

 完全復帰は、私個人から出発するのです。御飯を食べても、自分のために御飯を食べるという人々は完全復帰の道を行けないのです。御飯を食べても、世界のために食べよう、仕事をしても、鎌の柄で土地を耕しても、世界のために耕すという思想をもたなければならないのです。もちろん、何でも国のためでなければならないのです。国を探し建てたのちには、世界を救わなければならないのです。国は、世界を救うために必要なのです。このような思想からのみ完全復帰の道が開かれるのであって、そのほかには道があり得ないのです。

 先生が見る観は、そうだというのです。先生自身も、そのように生きようとしています。御飯を食べるにも、きょう私が何のために食べるのかといえば、この世界のために、この国のために食べて寝るのです。

 先生は一生の間、借金をして暮らしてきました。それが普通の人と違います。皆さんを苦労させても、統一教会の信徒を苦労させても、民族を救わなければならないというのです。それで、着ている服も脱ぎなさいというのです。あるものをみな奪って、苦労させるのです。国を救うためには、全体を犠牲にして進まなければならないのです。

◆極と極から善の文明が出発する

 歴史は、極めて衰退している途上で、新しいものが発展し出てくるのです。また、極めて栄えている中で新しいものが胎動するのです。

 サタン世界が栄えている時には、善が敗れる立場にあるのですが、栄えている世の中から排斥されるものの中から、善なる群れが出てくるのです。滅びて衰退しても、そこからまた善は発展するのです。谷間でなければ、絶頂時代から新しい文化は出発するのです。これは歴史的事実です。

 公的な基準が退廃するようになるときには、必ず新しい公的思潮が登場するようになるのです。神様がいらっしゃるので、そうなるというのです。公的な思潮が退廃するということは何かといえば、この世的な面が栄えるという意味です。どの文化圏でも栄えたのちには、必ず滅びるのです。

 なぜそうなのでしょうか。人倫道徳が、人のために生きようとする思想がなくなるために衰退するのです。そして、失敗した人、貧しい人々がお金を一銭でも多く集めようとするでしょう。そのような世の中は、滅びるようになっています。そこで、反対になる思想が出てこなければなりません。したがって、極と極から新しい善の文明が出発するということを、皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、すべてが確実でなければなりません。自分を犠牲にし、自分の全体を忘れ、公的な方面に行こうとする人は、発展するようになっています。これが先生の観であり、神様が見る観です。

 ですから、皆さんは食べても寝ても、この原則から抜け出してはならないのです。この原則から抜け出す人は完全復帰の道を発見できないということを、はっきりと悟るように願います。


















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