文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


統一方案と私

一九七二年六月一日
韓国の南山聖地 『文鮮明先生み言選集第六十一巻』


 堕落の歴史をたどってきた人間においては、人と人同士の間に隔たりが生じたということを私たちは知っています。そういう隔たりはアダムとエバから始まり、それが歴史をたどりながら、数多くの族属の間に生じ、数多くの国家と国家の間に生じたことを知っています。

 人間同士の関係だけでなく、神様と人間の間にもやはり壁が生じました。また、善の主体であられる神様と悪の主体的立場で善に反対している悪神の間にも、このような壁が生じたのです。堕落によって、統一の運勢というものをこの宇宙は、またこの天宙は迎えられなかったというのです。そういう立場に立っている天と地であり、その中で生きている数多くの国家であり、その中で生きている私たち人間なのです。

 私たち個人について見ても、私たち自体内で心と体に隔たりがあるのです。心と体をどのように一つにするかということが、今までの人類歴史の苦労の基盤であり、その道を解決するために今でも歴史は一つの方向に進んでいっているというのです。そういう立場で、私たちは生きています。

◆統一の道は個人から開始しなければ

 今日この世界は平和を願っています。万民は一つの統一された理想世界を夢見ています。その理想世界というのは、私たち個人個人を通じなくては成すことができないのです。私たち個人個人がそのような理想の基盤を確保し、その環境を広める過程をたどらずには、その世界に到達できないのです。

 このように考えるとき、統一のその日が来るのをどこから迎えなければなりませんか。歴史の終末時代であるこの時に、世界を中心としてその日を迎えることができるかという問題を考えれば考えるほど、これは不可能だと結論づけられるのです。また、国を中心としてそれが可能なのかというと、これも不可能なことなのです。私たちが一つの社会を見ても、社会でも互いに競争しています。互いに紛争しているのです。家庭を中心として見ても、相反した立場をとるという、そういう関係があることを私たちは知っています。

 さらには、私たち個人においても体と心が闘争しているのを見ると、この平和の道、統一の道というものを他の所で求めるのではなく、私たち個人から模索するほかに道はないのです。ある一人が完全に天を代表し、地を代表し、国家を代表し、あるいは民族を代表し、特定の家庭を代表し、全人類を代表して、統一された実体を成し遂げずには、統一の出発をすることができないのです。人類がこのような歴史過程をたどってきたということを知っている私たちにとって、問題は一人の人なのです。

 その一人は天を代表しており、この地を代表しており、歴史を代表しており、人類を代表しており、全体を代表した一人の人間として統一された自我、すなわちそのような人格をもって来る中心存在なのです。そのような存在なくして統一であるとか、理想であるとか、平和の世界とかいうものは、私たちがどんなに待ち焦がれたとしても、成すことができないのです。

 それゆえ神様は、一つの中心を探しているのです。では、その中心をどのように立てなければなりませんか。その中心を世界で立てようとするよりも、まず個人で立てなければならないのです。個人を中心とした世界的な一人の代表者が現れずには、統一的な出発をすることができないために、天はこの一人の中心を探してきたということを、私たちは知らなければなりません。

 この一人が立つことができる場が、メシヤが立つことができる場であり、その一人が現れることが歴史的な願いであり、のみならず摂理的な目的でもあるのです。この一人が現れることによって初めて、この一人は天に代わることができる個人的な出発をすることができ、また統一され得ない人間を代表し、統一された一つの標準になることができるのです。

 この一人は心と体が一つになれると同時に、初めて統一的な一人の個人が成立することによって、その個人を通じて家庭を形成することができるのです。完全な一人が現れることによって、その完全な一人を標準とし環境を収拾できる相対的立場をとるようになれば、その一人の男性を通して、一人の女性を統一するようになるので、ここで初めて一つの家庭が出発することができるのです。その家庭を中心として見ると、その家庭を代表した父母は宇宙を代表し、こうあるべきだという一つのモデルが生じることができるのです。

 その父母を中心として生まれた息子と娘は、父母と完全に一つになることができなければなりません。この地上に数多くの子女たちがいますが、その子女が標準的な子女と一つになれる立場に連結しなければなりません。言い換えれば、父母は父母なりに連結することができる代表的な中心を設定しなければならず、子女は子女なりに中心を代表できる、その中心と一つになれる道をえり分けなければなりません。

 それで、父母と子が一つになるという立場を世界の多くの家庭が標準として、一つになる道についていくことによって初めて、一つの家庭的な統一運勢が起きるのです。その家庭を通して氏族、氏族を通して民族、民族を通して国家、国家を通して世界へと、このような発展的な過程をたどらずには、世界まで統一する役事を私たちは果たすことができません。

◆中心存在は神様の愛で相対的環境を再創造

 ですから、あくまでも天を主としたその中心的な存在が問題になるのです。その中心的な存在が行く道、その個人は何のための歩みをするのでしょうか。個人のための歩みではないのです。その個人は家庭をたどっていかなければならず、世界へと行く道を歩まなければならないのです。その個人が世界だけでなく天地を統一して、神様と永遠な愛で結ばれることができる勝利の一時を迎えるようになる時、初めて人間が願う愛の世界、平和の世界が繰り広げられるのです。

 言い換えれば、統一的な基盤を人間同士の間で備えたとしても、その中に神様の愛が投入されなければ、その世界がどんなに統一の形態を備えたとしても、理想にはなれないのです。神様の愛を中心として永遠の世界が繰り広げられるのであり、神様の愛を中心として平和の世界が繰り広げられるのであって、自分の利益を中心とした、人間の変化する愛を中心としては、平和の世界、統一の世界は成されないのです。

 このように、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで行ける中心点を連結させることができる道がなければなりません。その道は、発展できる道でなければなりません。発展するためにはより大きく、より広い環境と因縁を結ばなければなりません。このように考えると、この地上に天が送った中心存在が来て何をするのかといえば、主体である自分を中心として、相対的環境を再創造して、相対的な価値の存在を設定することなのです。

 その中心存在が一人の男性として来れば、その男性は一人の女性を再創造しなければならないのです。そうして一つの夫婦を築いたならば、その夫婦は子女を中心として家庭を築き、その家庭を一つの母体として全体の環境を、再創造の環境へと進めていかなければなりません。家庭は氏族に、氏族は民族に、民族は国家に、国家は世界へと漸進的発展をたどっていかなければならないというのです。

 では、今この地上に生きている人間にとって問題になることとは何でしょうか。自分が立てる中心を探すことができずにいることなのです。ある中心を標準として、私自体を収拾してえり分け、その中心と一つになることができる自我を、どのように確保するかということを知らずにいるというのです。それゆえ、この中心存在を探して一つにならなければならないのです。

 その次に、家庭を中心として見ると、家庭も同じです。世界に散っている家庭は、この家庭を標準にして一つの形態を備えなければならないのです。また、家庭は氏族を中心として一つの形態を備えなければなりません。民族もやはり同様であり、国家も同様であり、世界も同様です。天地も、やはりそのような道を歩まざるを得ないのです。

 では、この中心存在が行くべき直線路線とは、いかなる道でしょうか。これは再創造の道であると同時に、開拓の道に違いありません。開拓の道であると同時に、漸進的に発展する道であるために、個人から家庭へと移行するには、そのまま移行することはできないのです。家庭を成すためには、家庭が成り立ち、家庭が完成する時まで犠牲になり、自らのすべての力を投入しなければなりません。それは避けられない結論です。

 その中心存在が行かなければならない正しい方向は、個人を犠牲にして、家庭を探していく賭けをしなければならないのです。その次には、家庭を探してその家庭を中心として、中心的な家庭が設定されたならば、その家庭は氏族のために犠牲になり、その氏族の中心として発展していかざるを得ないのです。

 また、その氏族は氏族自体を中心として、そこに落ち着いて自分たちのための立場に立っては、統一の世界、また平和の世界は訪れないのです。氏族ならば氏族を犠牲にして民族を収拾しなければならず、その民族が氏族を拡大した一つの統一的な民族として現れるようになって、初めてこの世界民族の中心を備えることができるのではないでしょうか。このように見ると、その中心が率いる氏族が犠牲とならずには、民族的発展を拡大することはできないのではないでしょうか。したがって、犠牲にならなければならないのです。

 民族も、やはり同じです。民族が一つの国家を形成するためにはどのようにしなければなりませんか。その民族を中心として全体が一つになることは不可能なのです。歴史をそのようにたどり、そういう願いをもってきましたが、一つになれなかったのを見ると、その民族を中心としては自動的に順応し統一されないのではないでしょうか。このような観点で見ると、この民族も、やはり全世界の民族の前に犠牲になり、自分と一つになれる道を模索してあげるという賭けをしなくては、一つの統一的国家を形成できないのではないでしょうか。それは言うまでもないことなのです。

 このように見ると、一つの国が形成されたならば、その国を中心として自動的に世界が統一されるのではありません。世界に向かって一つになることができる作用を提示するためには、その国もやはり犠牲となり、開拓の道を通らざるを得ないのです。それで、その世界がその国を中心として統一的な環境を備えるとき、初めてこの地球星に平和の起源が成されるのであって、そのほかにはどんなに期待しても、平和はどこに来るのかという問題については、方向を見分けることができないのです。

 そこには完全な一つの中心存在が現れて、個人から、家庭、氏族、民族、国家を経て、世界まで統一的な形態を備えるところにおいて初めて平和が成されるために、この統一の道というのはそのまま成されるのではないのです。ここに、莫大な犠牲の代価を払わずには成すことができないという結論を下すことができます。

◆統一できるただ一つの秘法

 これから、統一をするためにはどうしなければならないかということが問題になるのです。一つの道についてお互いが自分を主張して、自分自身のためにすべてを吸収する道だけを探すならば、統一は成されないのです。統一できるただ一つの秘法は、ある特定の一箇所で、他の所のために犠牲になり影響を及ぼすことです。そうして、その主導権を誰がつかんでいくのですか。上から下までその影響を受けて、そこに順応せざるを得ない主体的環境の基盤を分かつところでのみ、統一方案を考えるしかないということが自動的な結論なのです。

 これは、私たち個人について見ても同じです。私たちの体と心を一つにするところにおいて、体は体なりに、心は心なりに互いに主張する立場では、統一は不可能なのです。心ならば心自体が中心になって、体のために犠牲になりながら、どんなに困難な外的環境があっても、そのすべてを克服する主導的な力をもった良心的な人ならば、どんなに体が困難な環境を抜け出そうとしても、抜け出せないようにこれを引っ張っていくことができるということを私たちは知ることができるのです。

 それと同様に、全体の環境がその影響を受けまいとしても受けざるを得ない主体的な使命を、あるいは中心的な使命をすることによって統一が起きるのです。皆さんの友人関係においても、互いに仲が悪くなったとき、もう一度良い絆を結ぶためには、それまで以上に苦労をしなければ昔以上の良い環境を、あるいは友人関係を見つけることができないのです。

 これと同様に、私たちが統一を願うときにも、主体的に使命に耐えて責任を全うすることによって、責任をもったすべての結果を全体が公認して、全体が順応できる一つの立場を設定するところでのみ統一の望みがあるのです。世の中のこともそうですが、天の摂理のみ旨も同じです。

 それゆえ、天は今までこの地上に一つの中心存在を送るために、数千年という長い歳月を通じて犠牲になりました。そのように数千年間犠牲になり、統一するために努力しましたが、統一できませんでした。今日の歴史時代を統一するには、数千年の歴史的受難を蕩減できる基台の上でのみ統一できるのであって、その基台以下では統一できないというのが原理の観なのです。

 今日、歴史時代のすべての受難の責任を負うことができる人とは、歴史時代の受難の実として現れた困難があれば、その困難を自分のこととして消化するために責任をもっていく人なのです。そのような人は、たとえ現在に生きていても、歴史的なすべての悲しみ、歴史的に統一の因縁を結べなかった、そのすべての内容を越えることを覚悟した人だと見ざるを得ないのです。

 このような観点で見ると、メシヤという中心存在が出てくれば、そのメシヤも当然この世界の平和を願うはずです。彼が立つべき立場はいかなる立場かといえば、今まで歴史時代の受難の道に残ったことをどのように消化して、どのように押し出すかという立場で、その環境に押し出されていくという立場でなく、その環境を追い出すことができる決定的な中心存在の立場です。そのような立場を確保せずには、歴史的に待ち焦がれてきた統一の起源を準備できないのです。

 皆さん自身について見るときも、同じです。皆さんも新しい道を行かなければなりません。心と体が一つになっていない人が、「それを自分の思いのままにできる人になる」と言うならば、その人が新しい人になるためには、自分が生きてきた一生で誤ったすべてを一掃してしまうことができる主体的な決意をし、その場で、今まで間違った環境的なすべての与件を押し出すことができるところから、初めて一つの新しい人格が出発するのです。

 このような観点で見ると、今日この国、この民族を中心として統一を願えば願うほど、歴史的な韓民族の受難の道を越えることができる新しい決意をどこから模索するのかという問題を、私たちは考えてみなければなりません。

 現在のこの難しい問題に責任を負うことができ、その主体的な使命を誰が成すのかということが、最も重要な問題だと見ているのです。

 このような観点で見ると、今日食口たちは、統一の理念をもって現れたのです。「宗教を代表して宗教を統一してみよう。宗教統一を拡大して国家統一を成し、国家統一を経て世界統一の理念を、どんな面であれ、展開できれば展開してみよう」と努力するために現れた群れなのです。

◆主体の前に絶対服従することが統一の出発点

 では、彼らが行くべき道はどんな道かといえば、一つの道しかありません。個人から家庭へ進まなければならず、家庭から氏族へ進まなければならず、氏族から民族、民族から国家、国家から世界へ、世界からは天宙に、天宙を経て神様の世界を抱いて、自由に愛し得るその立場まで進まなければならないのです。このように一方通行の道しかないのです。

 御飯を食べるのも、この道のために、一生を犠牲にしてもこの道を開拓するために、この道を拡大するために行かなければならない運命を担った者が、皆さんです。また、皆さんだけでなく、世界人類がそういう悲運に包まれているのです。その道を開拓することは、簡単ではないのです。

 私たち個人個人が、心と体を統一することができない自分を見ると、失望するようになります。心はこのように願うのに、体はその反対を願います。使徒パウロも、やはり心と体が願わない道に行っていることを知って、心は願うが体は反対であるので、肉体が弱いという立場で嘆息したということを私たちは知っています。

 この心と体を一つにするために歴史が動員されて、戦ってきました。ここには神様の摂理も加わり、サタンも加わって戦ってきています。このような私を、どのように思いのままにできるようにするかということが最も大きな問題です。

 これは、堕落した私たち自身では成せないというのです。そこに堕落しない本然の一つの人格を標準にして、そこに連結させるための運動をすることが歴史時代の宗教の使命なのです。それゆえメシヤ思想は、宗教を中心としていなければならないのです。

 メシヤが来る時は一人で来るものの、彼は自分一人の歴史をもって来るのではありません。これは天の歴史を代表し、人類歴史を代表してすべての受難の道を越えて、統一的な価値をもって来るべき方ではありませんか。彼には、歴史の悲しみが宿っているのです。その歴史の悲しみを打倒するために、誰よりも決意した信念をもって、戦って勝利できる自身の歴史をもって来なければならないのです。彼と共に一つになるところでのみ、統一の出発をすることができるのです。

 今日御飯を食べて生きることは、現在のためだけではありません。結婚していない未成年者たちは、何のために戦っていかなければならないかといえば、真の個人を探すために戦うことはもちろんですが、真の個人が一つの中心とともに相対を備えるために戦っていくのです。その主体が願うことにおいて、相対としてできないことがないというのです。それを「できない」と言うときには、統一は不可能なのです。

 できないというこの条件を自分が知りながらも、いまだにもっているときには、その主体と私とはそれくらいの距離が生じるのです。その主体の前に「すべきだ」と言うときは、できないという一切の内容が成立してはならないのです。そのような立場に立たないためには、主体の前に絶対服従しろというのです。絶対服従とはどういうことですか。順応できない内容を完全に否定してしまおうというのです。順応できないことに比例して、反発する内容が残るために、これを完全に除去させるためには絶対従順、絶対服従が必要なのです。これだけが解決の方案です。これが最後の結論であらざるを得ないのです。

 それゆえ「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言うのです。その言葉は、死を覚悟して命を懸けて立ち向かえということなのです。堕落した人間が自分の主張ができる内容があるというようになれば、それは天と完全に一つになれないのです。そこに「自分を弁解できる環境がある」と言えば、その環境と自分の弁解の要件が、この前に妨げの道になるのであり、壁になるのです。妨げの道と壁を完全に壊そうとするなら、神様を中心として絶対服従しろというのです。

 それゆえ、イエス様もゲッセマネの園で祈祷したこととは何かといえば、私の思いどおりになるなということなのです。「わが父よ、……わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言った、その帰結点を願わざるを得ないのです。

 メシヤとして世の人を代表して来たがゆえに、人間の事情をよく知っているメシヤ、すなわちイエス様は、人間を代表して立つときは天の前に相反し、天を代表して立つときは人間の前に相反します。この食い違った道で、二者択一をしなければならないのですが、そうするのに人間世界の側に立ったなら、天との壁がふさがってしまいます。そのようなことができる立場に立っているのがメシヤです。かといって、これを捨てることができない立場に立っているのが、またメシヤなのです。

 それゆえ私のみ旨も、すなわち救い主として人間を救うためのみ旨もありますが、不純の要因を容認しない神様のみ旨を中心として見ると、自分を否定して天のみ旨を主張して立たざるを得ない、メシヤの苦しい立場を、私たちはここでうかがうことができるのです。

 それと同様に、イエス様も、自分の思いを中心としないで、完全否定の立場をわきまえて逝ったのです。そこにおいては、絶対服従です。ここで初めて、イエス様が死んで復活できる道が開けたのです。もし自らの思いを強調して自分の弁解をしたならば、復活も何もないのです。それは避けられない結論なのです。

◆統一方案は愛

 このように見ると、私たちはみ旨の道をどのように前進させ、発展させるのですか。個人は家庭のために統一しなければなりません。統一するためには犠牲にならなければなりません。統一するためには再創造の歴史がなければなりません。再創造の歴史とは何かといえば、自分のエネルギーを投入することです。

 創造歴史とは何でしょうか。神様自身も万物を造るとき、ただ考えどおり造ったのではありません。そこには、自らの力とエネルギーを投入しました。

 自分から消耗戦争をしたのです。これが完全に投入されたあとには、そのまま帰ってこれないのです。帰ってくる時には、何が帰ってくるのですか。愛というものが帰ってくるのです。言い換えれば、十ほどの力を投入したのですが、その十ほどの力の投入を受けて十ほどの価値の対象になったのに、その対象がどのように十以上の力で帰ってこれる道を発見するのですか。それを発見しなくては、神様も継続的な作用、継続的な意欲、継続的な希望をもてないのです。

 帰ってくる時には、何を中心として帰ってくるのですか。ただ投入された力のままでは駄目なのです。そこには愛というものがあるというのです。その愛は何でしょうか。十ぐらいプラスになったものが、自らの理念全体に代わるものに合わさって帰ってくるために、神様はすべてを犠牲にして投入しても喜ぶことができるのです。言い換えれば、愛がなければ帰ってこれないのです。

 父母が子を愛する時は、すべてを与えます。みな投入します。父母がそのように投入し、子が自分の愛の心に対して喜ぶその顔を見るとき、またその父母を喜んでくれて父母の愛する姿を懐かしがるのを見るとき、父母の苦労はここで喜びに変わるのです。このように喜ぶことができるのは、愛を除いてはあり得ないというのです。

 「喜び」という言葉、「幸福」という言葉、あるいは「理想」という言葉は、すべて一人についての言葉ではありません。皆さんは、一人で喜べますか。喜べないのです。一人で喜んだところで、それは良いことではあり得ないのです。一人で理想を夢見たところで、それは理想になれないのです。

 愛も同じです。「愛」も孤立的な個体を中心としてなされるのではありません。相対的観念です。その相対的観念を一つに結んであげられるものとは何でしょうか。知識でもなく、人間の権力でもありません。それは愛しかないのです。

 それゆえ、統一方案は愛です。人間と神様の間の隔たりを統一するのは、人格ではありません。他のどんなことでもなく、愛です。神様から始まる愛を、完全に受けることができる立場に立つのです。

 その愛を受けるための立場に立とうとすれば、完全に一つにならなければなりません。完全に一つになるには、同じ立場で一つになるのではありません。主体と対象の立場で一つにならなければなりません。主体と対象の立場で一つになるには、主体は完全に与えようとしなければならず、主体が完全に与えようとするその場で、対象は完全に受けようとしなければならないのです。こういう関係にならなければなりません。

 百を与えようとする主体がいれば、「私は百を受けなければならない」と言わなければならないのです。百を受けようとすれば、私に自分というものを残しておいては受けることができません。天が百を与えようとするのに、私たち人間が、自分という考えとか、自分という主張とか、自分の何かを中心とし、自分の欲望を中心として受けようとすれば、またそれを残して受けようとすれば、百を満たし得る立場が生じません。自分の欲望があり希望があれば、それが八十、七十、六十、五十になるではありませんか。百をみな受けることができないのです。

 それゆえ百を完全に受けようとするならば、自分がもっているすべてを空にし、すべてをなくして、すべてを否認しなさいというのです。その立場とは、どんな立場でしょうか。全体を捨てて絶対服従する立場です。完全に服従していくようになれば、その人を占領できるというのです。

 孝子とは何でしょうか。父母の意志、父母の言葉など、父母の一切の前に、服従する行動をとる人が孝子です。忠臣もそうではないですか。愛国者も、国のためにすべて服従し祭物になった人ではないかというのです。そのようになっています。

 例えて言えば、最高の高気圧圏に最下の低気圧圏が生じると、ここにはものすごい台風圏が起きます。もしそこに遮る人がいれば、すべて巻き込まれていきます。それは、どれほど速いでしょうか。高ければ高いほど、空であればあるほど、真空になればなるほど、これが一時に一つになるのです。そうではありませんか。その統一の強度というのは、その差が大きければ大きいほど強いというのです。それゆえ、今日信仰世界において、「服従」という術語が、どれほど有り難いかを知らなければなりません。

 言い換えれば、台風が吹いてくるときに、それが強い台風であるほど、高気圧圏と低気圧圏が合う所で完全に真空状態が起きれば、これは急速に吸い込まれていきます。滝は流れる水よりもはるかに速いのです。それと同様に、これは滝のように降り注ぐのです。これを妨げる力がありません。みな散らばっていきます。

 神様が高気圧圏の愛をもっていて、人間は低気圧圏として欽慕の対象になるならば、その間に吹く愛の力で連結されれば、妨げる何もないのです。

◆犠牲と服従は統一の元肥

 一家庭について見てもそうではないですか。夫に対して絶対順応するようになれば、順応したその妻は、夫を完全に占領してしまうのです。そうでありませんか。父母の前に絶対順応するその息子は、父母のすべてを占領できるのです。そこで主体的権限を堂々と主張できるのです。それゆえ父母は、そのような息子と娘があれば、その息子、娘にすべてを相続させようとするのです。同じなのです。

 こういう観点で見ると、信仰するときにどうして「天を中心として絶対服従」という言葉が出てきたのでしょうか。堕落した人間から見れば、これは息が詰まるように嫌な言葉ですが、神側から見るときには、ものすごい贈り物です。

 従順ということが悪いことだと思ったのに、従順になったあとは、その環境に私が参席できるのです。そうではないですか。難しい環境でお互いが志を立てて、そのみ旨の前に絶対服従する人は、早く成功するのです。また、成功するところにお互いが加担し、その道を一緒に行った人は、成功した立場に共に参席できるのです。同様の理致なのです。

 それゆえ、人は決心したなら直行しろというのです。直行しようとするなら、決心したその目標の前に絶対服従しなければならないのです。服従しない人は成功できません。服従すれば成功します。そのようになっています。

 それゆえ今日、まして統一の道を願い、み旨がこの地上に成されることを願う群れは、天が既に主体になっているということを知らなければなりません。その主体が行くべき方向がどうだということも知らなければなりません。個人は家庭のために犠牲になり、家庭は氏族のために、氏族は民族に、民族は国家のために犠牲にならなければならないという段階的な前進路程を、すべて知るべきだというのです。

 ここで、私たちが投入しなければならないことは何でしょうか。自分自身を投入しなければならないのです。心と体を別々に投入するのではなく、心と体を一つにして、一度にすべて投入しなければなりません。

 自分が犠牲になる立場に出るようになれば、そうなのです。犠牲の立場が悪いと思っていたのに、ある目的のために犠牲になってしまえば、心と体が自動的に統一された価値をもって、そこに参加することになるのです。

 心と体が一つにならなくて闘う私自身ですが、ある目的のために犠牲になろうと、「命まで投入する」と言って立つときには、心と体は統一された立場で投入されるのです。死の立場を覚悟して立つというのは、既に統一されたのです。その目的に対しては、心と体が二股ではなくて、一つになったのです。

 人は、何を中心として分かれたのですか。生死の問題によって分かれたのです。生命を中心として心と体が闘っているほどに、一つの死の道を中心として犠牲になると立ち上がることは、それ自体は既に統一性を備えているのです。それゆえ、犠牲になった祭物の前には頭を下げるのです。皆さんも祭物の前に頭を下げるでしょう。祭物の前に、なぜ頭を下げるのですか。これは犠牲になったからなのです。主体の前に犠牲になったので、彼は完全に一つになった立場を表したのです。そのような価値が設定されるのです。

 それゆえ父母が子を愛するときには、心と体を別々に愛するのではありません。一つです。それで貴いというのです。けれども、子が父母を愛するときは、心と体が一つになったのではありません。心と体が一つになっていないのです。しかし、唯一父母が子を愛するときには、生命を超えて愛するのです。これは既に愛を中心として一つになったというのです。

 それゆえ、この地上の人間世界がたとえ堕落した世界ではあっても、父母の愛が一つの情緒的な根になっているというのです。

 では神様のみ旨を中心として見ると、神様のみ旨をどのように成し遂げるのでしょうか。神様を絶対視しなければなりません。神様は主体であられます。私たちは主体であられる神様を中心として、対象の立場で完全に犠牲を覚悟して、完全に一つになれる立場ですべてを克服しなければなりません。「何千年たっても私は落ちることができない。何万年の受難の道でも私は行かずにおれない」という決心を越えれば、信じるままになるというのです。このような立場で、天をつかんで死を覚悟して飛び込むようになれば、統一の源泉は開くようになるのです。

 それゆえ、絶対服従の極みは、生命の終わりまで服従の道を催促するのです。これが人間世界にとって悪いことでしょうか。違います。これは、堕落した人間世界において、統一する一つの秘法になるのです。

 皆さんが、今現在に現れた情勢を見るとき、そのようなことができる自身になっていますか。全体が一つになって、統一ということを中心として、自分の一切を犠牲にしてしまい一線を確保して、北方ならば北方全般にわたり、その影響を及ぼすことができる主体的権限だけをもつならば、私たちは一歩前進するようになるのです。相対しようとしたのにもかかわらず、その人々が相対してくれないで、退くときは私たちが退くのではなく、その人々が退くことになるために、そのまま決心をして出ていくようになれば、私たちは退いた立場と同じくらい前進できるのです。ここから、統一の道は始まるのです。

 南北韓を中心として見ると、私たちが、韓国にとって一番難しいことを踏んで越えることができる群れになってこそ、統一的な主体者になるのです。このような観点から、私たちは民族のために犠牲になろうというのです。

◆神様の喜びは統一を通じて

 私たちは、今や行く道を知りました。結婚していない男性は、神様のみ旨を中心として家庭を探していくのです。家庭を探し祝福を受けるためには、すべてにおいて個人的に犠牲になることができなければなりません。そのように、犠牲になることを願う目的観の前に、全体を吸収することができる完全なマイナス的存在の男性と女性が一つに合わさるようになります。この男性と女性が一つに合わさっても、主体の前にはやはり完全なマイナスです。

 この夫婦というのはどこへ行くのでしょうか。み旨というその道に向かって、二人が合わさって氏族のために投入するのです。氏族は、民族のために投入するのです。民族は、国家のために投入するのです。国家は、世界のために投入するのです。世界は、天宙のために投入するのです。天宙は、神様のために投入するのです。一番最後は、神様の愛なのです。信仰と希望と愛、この三つは常にありますが、その中で一番は愛だというので、一番最後に残るのが神様の愛なのです。

 今まで悲しかった神様の顔に、喜びの顔色が広がるようにしようとすれば、今まで悲しかったこと以上の良いことが起こらなければ、喜びの明るい顔が表れないのではないですか。それが原則です。父母が憤り怒っているのに、「お母さん、お父さん、どうしたんですか。喜んでください」と言えば喜ぶでしょうか。無理なことだというのです。憤るようにした、悲しかったその事情以上の何かをもって見せてあげるとか、それ以上の価値のものを父母の前に因縁づけることによって、初めて父母は悲しかったことを越えて、喜ぶことのできる道が現れてくるのです。

 このような原則を見ると、一番最後に天地が初めて統一できる内容をもって、人類が堕落することによって悲痛であった神様の心を慰労できる道を人間が模索することができ、あるいは刺激を与えることができてのみ、神様に喜びが与えられるのです。それは、とやかく言う必要がありません。このような過程をたどるところでのみ、初めて統一の日が来て、統一の環境が来るだろうと見るのです。

 それゆえ、目的のために絶対順応しなければならず、絶対服従しなければならないのです。そうでない人は成功できません。世の中がそうだというのです。

 主体の前に絶対服従しなければなりません。家庭は個人の主体であり、氏族は家庭の主体であり、民族は氏族の主体であり、国家は民族の主体であり、世界は国家の主体であり、天宙はこの被造世界の主体です。被造世界の主体の天宙が、主体の立場で終わりまで来ましたが、それが主体に立つことができません。神様の愛の前には対象に立たなければなりません。対象に立たなければならない立場に立っているので被造世界は絶対服従圏であり、絶対従順圏です。絶対犠牲になるべき運命に立っているのです。そのようにさえなれば、神様の愛は自動的に分かるのです。

 それゆえ私たちの行く道を知らなければなりません。個人は家庭のために犠牲にならなければならず、家庭は氏族のために犠牲にならなければならず、氏族は民族のために、民族は国家のために犠牲にならなければならないのです。

◆祭物の姿勢

 完全な主体であられる神様の前に私たちが立つときには、今まで個人も主体としての環境を収拾し発展的な主体を立ててきましたが、個人の前に国家が主体であり、国家は世界の前に対象になって、世界は国家の前に主体になります。世界は天宙を主体としますが、この主体がいつも主体で終わっては理想がないのです。

 主体だけがあっていいですか。相対を迎えてこそ理想が出てきます。それゆえ、思春期になれば男性は男性自身だけを考えるのではありません。誰を考えるかといえば、相対になる女性を考えるのです。女性を考えて思春期が始まるのです。その時は、自分だけを考える人はいないのです。

 それゆえ、良い悪いということは自分を考えるところから始まるのではありません。それを知らなければなりません。良いというその出発が、自分を考えるところから始まるのではありません。相対から始まったゆえに、相対のためになるところから出発するのです。

 男性は、男性のために生まれたのではなく女性のために生まれ、女性は、女性のために生まれたのではなく男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のためではありません。自分のために生まれたのではない者たちなのに、自分を主張しているのです。自分を中心とした思想を壊してしまわなければなりません。それだけ壊してしまえば、統一の世界は開かれるというのです。

 サタンが堕落したのは、自己覚醒からです。そこから堕落が始まりました。自分が残っている人は復帰されないのです。み旨に対して弁解することは、エデンの園でエバに対し弁解した天使長と同じです。天を訪ねていくには、感謝と満足しかないのです。皆さんはそれをえり分けておかなければなりません。祭物が不平を言えば、大事が起きるというのです。

 アブラハムがイサクをぎゅうぎゅうに縛って祭物として差し出そうとするとき、イサクが反抗したとするなら、それが祭物なりますか。お父さんが自分をぎゅうぎゅうに縛っても「お父さんに何か訳があるのだろう。お父さんのしたいとおりにしてください」と言いながら、「私をここまで連れてきたお父さんが、私を殺そうとするんだな」という考えをせずに、思いどおりにしてもかまわないと考えなければならないのです。反抗する日には、大事が起きるというのです。刀を持って立つお父さんに対して、反抗しながら足でけ飛ばしたならば、それが祭物になるでしょうか。

 イエス様は、言うならば小羊です。小羊に力がありますか。羊というのは本来、毛を刈っても反抗することのない、すなわち従順屈服する代表的な存在です。羊も大きい羊ではありません。イエス様を小羊といいました。それは何のことかといえば、服従の祭物をいうのです。反抗の祭物ではありません。そうでなくては天国へ行くことができません。

 天国は、順応の世界です。完全なプラスの前に、完全な対象になるためのものです。

 烈女とはどのような人でしょうか。夫しか知らない人が烈女です。孝子とはどのような人でしょうか。父母しか知らない人が孝子です。忠臣とはどのような人でしょうか。国王しか知らない人が忠臣です。愛国者は、その国民とその国しか知らない人です。それゆえ愛国者は、自分の妻もけってしまい、自分の息子、娘が犠牲になる立場に入っていって身を滅ぼしたとしても、国だけを考えるのです。

 寝ても覚めても、食べて寝ることすべてを自分のためにする人々は、神様の怨 讐です。食べることもみ旨のために、あなたのために、寝ることもあなたのために、行くこともあなたのために、生まれたこともあなたのために、死ぬこともあなたのために、これがどれほどすてきな相対かというのです。

 理想相対とは、そのような立場に立った人たちのことです。理想世界は、どこから始まりますか。そういうところで一つになって、初めて始まるのです。そうしてこそ、「全体を犠牲にして探したことが、初めて成されるのでどれほど良いことか」というようなことが起きるのです。

 それゆえ宗教では「服従しろ」と言います。自由がありません。孝子の行く道は父母の前に自由がないのです。忠臣が行く道は国王の前に自由がありません。自由がないことが悪いのですか。それが幸福な道なのです。

◆私たちがもたなければならない統一方案の姿勢

 私たちは、いかなる姿勢をとるべきでしょうか。統一方案の姿勢をもたなければなりません。統一方案の姿勢とはどんなものですか。問題はそれです。そのみ旨の前に、あるいは目的の前に絶対服従することです。私たちは神様のみ旨を知りました。そのみ旨を中心にするにも、神様の愛と心情を中心として絶対服従しなさいというのです。そこで神様の愛を中心として絶対服従するとき、自らの力量以上に尽くしたというときには、かまわないのです。それ以上できないということを知ったとき、それ以上できない人間の限界線を知っているために、その責任を全うしたあとには神様に責任があるのであって、人間に責任があるのではありません。

 皆さん、大きい碾き臼を知っていますか。碾き臼の間に穀物を入れて回せば、皮がむけます。皮がむける間にふるわれて、弱いものはみな引き裂かれて糠になり、屑米になって押されていくのです。それゆえ、固く完全に実った人でこそ、碾き臼に回されれば、主人が願う完全な米ならば米として収められるのではないかというのです。弱いものはねじり出されるのです。

 私は誰のために生きているかということなのです。「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言いました。聖書のみ言は真によく教えてくれました。宇宙の原則を中心としてよく教えてくれたのです。このような問題について見ると、否定できない事実なのです。

 成功を願う人がいるならば、その目的のために犠牲になる生活をしなければなりません。そういう人は早く出世するのです。勉強する人、国家試験ならば国家試験を中心としてその目的を願う時、昼も夜も犠牲になり、そこに絶対服従し、時間を投入して全生命を投入すれば、その試験にパスする成功の時間が近づくのです。それは理致です。神様のみ旨を成すことも同じです。それゆえ先生は、皆さんを投入するのです。

 そうしたなら、滅びるかというのです。先生が滅びましたか。界隈では成功した人なのです。私にはうらやましいことはありません。どこへ行ってもとどまる所があり、どの国でも行こうとすれば行くことができる基盤をすべて築いておきました。この道を行ってみると間違いない道であるので、神様が生きている限り、天がある限り、この道は必ず残るようになっているのです。そのようなことが残ってこそ、神様が悪なるサタンの世の中に威信を立てることができるのです。ですから「死なんとする者は生きる」という言葉、統一はそこから起きるのです。

◆統一の道

 統一できる道を知らなければ行けませんが、知っている群れにおいては、行かないことが怨 讐です。その道は絶対服従であり、従順の道であるので、服従し従順に行くことによって何が起きますか。私が国のために犠牲になり服従し従順にしようと立ち上がるならば、氏族は既に統一された価値の立場に決定づけられるのです。私個人、家庭、氏族、このように闘っていかなければならないのに、国のために一度に犠牲になろうと飛び込めば、どうなるでしょうか。個人統一、家庭統一、氏族統一をすることができなかったとしても、国を統一するために犠牲になれば、氏族統一をして飛び越える立場に行くことができるのです。

 皆さんが愛国者だというとき、その愛国者がみな近所で孝行した人ですか。そのように思いますか。また、今まで生きるときに全体が仰ぎ見るように生活した人ではないのです。国が困難で滅びるその時に出て行き、独り国のために犠牲になっていくようになれば、これは氏族の上に立つのです。それは何の話かというと、個人、家庭、氏族圏は勝利的結果を収められなかったとしても、ジャンプして国のために自分を犠牲にする覚悟で立つならば、氏族勝利圏は取り戻せるというのです。

 このように考えるようになれば、先生の思想が真に見事だというのです。「天宙のために私は死ぬ」と言って立つならば、世界勝利圏を占めるようになります。また「神様の愛のために私は狂った。神様の愛の世界のために私は生きる」と、こうなれば天宙を越えられるのです。

◆統一は血の汗と犠牲と服従と順応の道でなされる

 今私たちは、統一方案を知りました。皆さんは統一族属になって、統一国のために犠牲にならなければなりません。

 問題は「すべてを克服できることならば、私一人をみ旨のために捧げよう。困難な立場があれば、私がまず行ってそれを成し遂げなければならない」と考えるのです。それのほかに統一の方案はありません。成功の道はそれしかないのです。

 そのためには祭物が必要なのです。捧げる時、かすを捧げることができますか。村で氏神に祭祀を捧げるとき、牛をほふるにしても、欠陥のあるものを買ってきてほふりますか。そうではありません。一番良い雌の子牛を選びます。村の氏神に捧げる牛も、良い牛をよりすぐります。ところが死ぬようなもの、今は生きる道がなくて、こうしてもああしても死ぬようなもの、それは神様も嫌うというのです。それは祭物になれません。

 同様に、堂々としていて何をしても能力があり、何をしてもやり遂げることのできる、そのような人でなければなりません。力を出して一回だけ打てば、みな荒れ地にしてしまうような人、すべての容貌を備えた人が必要なのです。実力を備えて、内外を備えて価値あることを天の前に捧げなければなりません。そこで比例的にみ旨の版図が広まるのであり、早く成されるのです。

 これから皆さんは、一致団結し、この国のどこの誰よりももっと深刻な立場に立って、国運を心配しながら天を抱いて祈祷をして、内外のすべての心情を高い立場に立てるために努力しなければなりません。

 統一のその日は、私たちの血の汗と、私たちの犠牲と、私たちの服従と、私たちの順応の道で起きるということを皆さんが確実に知って、これからそのように動く皆さんになってくれるよう願います。そうしてこそ、この国が生きる道が生じるのです。
















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