文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


み旨と私たちの生涯

一九七二年六月四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十七巻』


 地上に生きている人間は、誰彼を問わず一日の生活を迎えて、生涯の路程を見つめながら生きています。この生活の中で、善なること悪なることが決定され、神とサタンの役事が連結しているのです。

◆永遠のみ旨の目的と方向が一致した生活、生涯にならなければならない

 では、私たちの一日の生活において、善のほうをどのように残すかということと、私たち各個人の生活の中で悪をどのように退治するかということが、信仰生活をする人にとって重要な問題にならざるを得ないのです。

 み旨の道といえば、それは漠然としたみ旨ではありません。具体的なみ旨です。そのみ旨が指向する目的があれば、その目的に向かっていける方向がなければなりません。どんなに目的があるといっても、方向が一致しなければ、その目的は私たちと関係ないのです。

 それが遠ければ遠いほどないがしろにするのではなく、その方向に対して、私たちはより格別に考えなければなりません。その目的が近ければ、その方向を合わせやすいかもしれませんが、目的とすることが遠ければ遠いほど、その目的を達成するための、その目的と一致する結果を得るための方向に合わせていくことは、極めて難しいのです。その目的が目の前に見えれば、方向を無視したり、考えなくても一遍に行けますが、その目的が遠ければ遠いほど、その方向があいまいになるのです。

 このみ旨の中には、個人的なみ旨もあれば、家庭的なみ旨もあり、民族的なみ旨もあり、世界的なみ旨もあり、最後には天宙主義というみ旨もあるのです。神様が、天と地が一つになり得るみ旨を中心とし、その目的を中心としていれば、私たち人間もその目的を異にしてはならないのです。また、神様が行く方向と私たちの行く方向が一致せずには、神様が願うその目的地に到達することは、不可能だということを知らなければなりません。

 個人がこの地上に生まれて、成功するかしないか、また生活を通して目的を成し遂げることのできる一日一日を残すか残せないかという問題は、どこにあるのでしょうか。その目的を中心として、その目的に対する確実な観点を立てて、そこに的中できる方向、一致できる方向をどのように備えていくかが、何よりも重要な問題なのです。

 どんなに一つの目的をもって出発したとしても、その方向から外れれば、その目的とは関係なくなるのです。したがって、目的をもって進むときはいつも、方向の一致という問題を、私たちは注目しなければならないのです。

 この方向一致ということを中心として見れば、その目的と私は直線上に立たなければならないのです。目的と私とはいつも相対的関係ですから、私たちは直線上でその目的と相対する立場に立たなければなりません。私たちが生活するのを見ても、右足を動かして左足を動かすとき、その目的と直線に一致する位置を取らずには、必ず行き違うものです。

 したがって中庸を取り、その目的と方向がはっきり直線上で一致させ得る自分を発見するところから、目的の結果を達成できるのであって、その直線を無視し、その直線と一致できない時間的な基台上に立てば、目的を成就できるその道から脱線していくことを、私たちは知らなければなりません。

 私たちが話すか、あるいは見て感じる、すなわち五官を通して感じる時においても、自分一人で感じてはならないのです。私一人で感じるという、そのような立場に立ってはなりません。その目的と一致する方向をもった立場で感じる時、その場は、共同的な目的に向けて共同的な方向をとった立場であるがゆえに、神様は必ず共にいらっしゃらざるを得ないのです。これが食い違うようになれば、神様は共にはいらっしゃらないのです。

 なぜそうなのでしょうか。方向が間違っていれば、苦労したすべてが水泡に帰してしまうからです。そこに協助するようになれば、協助しただけ利益になるのではなく、必ず互いに消耗するのです。無駄になるために、そのような立場に立つようになれば、神様が協助できず、共にできないのは当然のことです。

 私たちが朝起きてから、感じるすべての感覚や動作が一つの目的を中心として、いつも直線上に帰一できなければなりません。その点を失うようになる時は、み旨と私とは関係を結べないということを私たちは否定できないのです。

 一日は二十四時間ですが、これを半分に分ければ昼と夜になります。その昼と夜をまた分ければ、朝、昼、夕方、夜になります。夜も十二時を中心として半分に分けると、夜と明け方に分かれます。一日を中心として見れば、朝、昼、夕方があります。一日は短いけれども、春夏秋冬に分けたのと同じです。朝は春と同じであり、昼は夏と同じであり、夕方は秋と同じであり、夜は冬と同じです。これをより細分して見ると、一時間の中でもそういう始まりがあり、過程があり、終点があって、次は成敗の栄誉と恥辱があるのです。

◆信仰者は日々の生活を正しくしなければならない

 すべてがこのような関係で連結すると見れば、私たち人間の一生も同じではないかというのです。幼年時代があれば、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代があって、老年時代があります。小さくても大きくても、その形態において、そのような過程を経ていくのです。

 生涯といえば、一生をいいます。生涯というのは長いことをいいます。生まれて少年時代を経て、青年時代を経て、壮年時代を経て老年時代まで、すなわち、生まれてから死ぬまでの過程をいうのです。その過程が、生活を通して連結されるのです。その生活というのは、私たちが一日一日生きていくことをいうのです。

 したがって、生活が誤るようになれば、生涯も誤った結果をもたらすはずです。どんなに立派な生涯を残そうとしても、一日一日の生活が誤るときには、その生涯は必ず誤った結果に到達するということは、どうすることもできない結論なのです。

 これを見れば、信仰者として一番重要視すべきこととは何でしょうか。自分の一生を神様のために捧げると誓っても、その誓うことが問題ではなく、一日一日の生活をどれほど正しく捧げたかが問題なのです。一日の生活を、生涯のどんな価値よりも、もっと重要視せずには生きがいのある生涯が出てこないということは言うまでもありません。

 このように見れば、私たちは一日を何げなく始めますが、この一日が、私たちが願う永遠のみ旨の目的に、その方向が食い違って行くのか、まっすぐ行くのかということを、いつも考えなければならないのです。考えもしない不意の行動によって、永遠のみ旨の道の前に反逆者になり得ることも、その一日の生活の中で起こるのです。これをより細分してみれば、一時間圏内にもそのような境界線に左右されるのであり、その一時間、あるいは一分、一秒が問題なのです。その一分、一秒を間違えば、この方向が永遠に行き違うのです。

 こういう重大な問題が、きょう一日よりは一時間、さらには一分にあって瞬時に左右するという事実を考えれば、一日を重要視するよりも一時間を重要視しなければならないし、一時間を重要視するよりも一分、一秒を重要視しなければならないのです。こういう問題が、私たちにかかわっているということを考えなければなりません。

 皆さんが知っているように、羅針盤は南北を指しています。どんなに東に、あるいは西の方に向きを変えても、それは南北に向くのです。他の力の制裁を受けて避けられない、そういう立場にあっても、その力の作用がなくなれば、自動的に南北に向くのです。言い換えれば、反対に向きを変えてもそこに順応するのではなく、そこに対抗して自分本来の方向に向かって戻ろうとする力の作用がいつもあるのではないかというのです。それは、私たちがよく知っていることです。

 それと同様に、私たち人間自身も神様を中心にして、南北の方向を示す羅針盤のように一つの方向を指示できなければなりません。もし、その方向が食い違うようになれば、食い違いの差ほどの何かがなければなりません。羅針盤を東西の反対方向に向けておけば、自分の位置に戻ろうとする力の作用があるように、私たちには神様に向かう良心の方向性があって、私たちが反対の方向に向きを変えれば、内的な面で、自らの心はその反対の作用をしているという事実が分かるようになる何かがなければなりません。

 そういう作用がなければ、私たち人間は一生を通して神様のみ旨と一致できず、その目的に帰一することもできないでしょう。そういう作用は、古今東西を問わず、いかなる人にもあるのです。その作用とは何ですか。良心の作用です。より純粋な磁石で作った羅針盤であるほど、より南北に一致する方向を指向するのと同じように、純粋な良心をもった人であるほど、その方向はいつも一致するようになるものです。

 それゆえ、人は誰彼を問わず、毎日のように方向を一致させることのできる生活を描いていかなければなりません。ここに善悪の環境がぶつかるのです。左に偏ることもあり、右に偏ることもあるのです。まるで羅針盤の位置を少しだけ移動すれば、中心を探すために左側、右側を行ったり来たりしながら南北と一致する方向に向かうように、皆さん自身も、いつでも一つの目的、その目的と一致する立場を描いていくべきではないかというのです。あたかも私たち人間の生活が、そのような立場に立っているのではないかということを考えれば、私たちの一日が、重要な一日に間違いなく、一時間が重要な一時間でないはずがないのです。

 瞬間の境界線というのは、一日、一時間によって決定されるのではありません。一分、一秒という瞬間を中心として、善悪が判決されていくのではないかというのです。こういう問題について見ると、一日を永遠のように感じることのできる価値がこの一日の中にあるのであり、一時間を一日のような価値の内容で決定できるのがその一時間にあるのであり、一時間は分、秒でも決定できるのです。そのような内容が、ごくわずかな瞬間にあるということを考えてみれば、神様のみ旨は変わるでしょうか。み旨は永遠です。神様のみ旨は変わりません。私たち人間がどんなに変わり、環境がどんなに変わっても、神様のみ旨は変わることができないのです。

 変えることのできないみ旨は、個人が行くみ旨もあり、家庭が行くみ旨もあり、国家が行くみ旨もあるのであり、あるいは世界の人類が、共同的に行くみ旨もあるのです。

 私たちが永遠の世界に行って、永遠に神様のみ旨の中で生活するようになるときは、盲目的であり、無秩序であり、無方向の立場で生きるのではなく、永遠のあるみ旨を中心とした生活から、永遠な生涯が始まるのではないだろうかというのです。こういう問題を考えるとき、私たちが生きている一日の生活というものが、どれほど深刻な生活かというのです。

 死ぬことも瞬時に決定されるのであり、生まれることも瞬時に決定されるのです。私たち人間が生まれること、死ぬことが瞬時に起こり、私たちの一生の運命が一時間、一分、一秒、一瞬に左右されるとすれば、私たちが生きる一日の生活自体が、最も重要だということを知らなければなりません。

 私が悲しむことも、この瞬間から始まるのです。一日を計画して、その計画どおりに悲しむのではありません。もちろん悲しみの動機はあるでしょうが、悲しいという事実は瞬間に結論づけられるのです。うれしいということもやはり朝のように、昼のように、夕方のように、夜のように過程を経るでしょうが、そのうれしいということの終点を見ることのできる時点は、瞬間だというのです。このような問題について見ると、私たちが一度呼吸をして、一度動作することも、み旨とともに一致できるようにしなければならないのです。

 皆さんが射撃場に行って、射撃をしてみれば分かりますが、銃を射って標的に合わせようとすれば、銃の端とターゲットが一致しなければなりません。前の照星と後ろの照門とターゲットが一致しなければならないのです。少しでも食い違う時は、東西四方にそれるのです。よく見えないターゲットの中心点を打つということは、極めて難しいのです。

 さて、永遠において一生の間標的に合わせなければならないなら、言い換えれば、出発したものが永遠に行って的中させなければならないという立場であれば、どれほど難しいでしょうか。

 私たち人間も撃たれた鉄砲玉のように、一生を通して一つの目的に向かっていくのではないでしょうか。行くことは行くのです。食べたり、寝たり、起きたり、反復した生活をしているけれども、何かに向かって行っているのです。では、どこへ行くのですか。これが問題です。一日はどこへ行きますか。私が出発した点と結果の点が一致したのか、私が生きてきた生活がみ旨が行く方向と一致したのかということを見れば、深刻な問題に違いないのです。

◆み旨の出発点と直線になるように方向を合わせるべき信仰者

 人間は、生まれたときの姿は似ているけれども、行こうとする姿は東西四方に行き交うのです。こういうことをしているのが、今までの人類だというのです。こういう道を行かなければならない、あるいはこのような思想をもたなければならないと、今まで多くの人が方向を提示しました。

 それらを見れば、人間がお互いに行こうとするその方向と、神様がみ旨を中心として行く方向とは違うというのです。すなわち、一つの善を中心として見れば、千態万状だというのです。また出発点が、東西南北でそれぞれ違います。ある人はここで出発したり、ある人はあそこから出発したりと、みな違うというのです。

 そのような環境について見れば、神様が行こうとするみ旨の出発点、これが問題にならざるを得ないのです。その出発点から、どんな線を引いていくのでしょうか。その線と一致する生涯を残さない人になってはいけません。彼は、不幸な人です。その人が、善を中心にするとか、あるいは神様のみ旨を中心として、その方向と一致する比例により、千態万状の差が起こるのです。

 自分が、どんなに公平でないと主張しても、このような原則から見れば、公平ではないと主張するそれ自体が、不公平な立場に立った場合もあり得るというのです。公平でないと見るその立場が、ある時にはみ旨の方向と一致する公平な立場の場合もあるのです。

 したがって、人生行路というものは簡単なものではありません。その行路を正さなければならないのです。本来人間は、その行路をまっすぐに行くために生まれたのです。ですから、見るものも、その行路と一致するために見るべきなのが原則ではないかというのです。

 目で見る中心点とはどこですか。その目的と直線になれる方向を正しく見るために、目があるのではないでしょうか。それは言うまでもありません。では、鼻はなぜあるのでしょうか。その直線といつも相対的関係をもって方向を失わないように、先頭でリードするために鼻があるのではないでしょうか。全部がそのようになるのです。口はなぜあるのでしょうか。その目的に向かっていくのに栄養を補給するためにあるのではないでしょうか。

 ではなぜ行くのでしょうか。もちろん何かをするために出たり入ったりするのですが、それ自体がその目的の方向と一致できる歩みを残すために出たり入ったりするのではないでしょうか。この直線と関係を結ぶようにして、その結果に一致できる点を見分けるために、私たちの耳、目、口、鼻と四肢が生じたのではないのでしょうか。

 そういう立場にあるべき私自身が、そこに一致できなくなれば、どんなに私が貴重だとしても、どんなに立派だとしても、無価値なものに落ちて破綻してしまうでしょう。ですから、私たちが話したり、あるいは寝たり、起きたりするすべてのことが、この一つの線を基準にしなければならないのです。

 今日、人間は自分の方向を考えますか。考えません。私は当然正しい方向に一致した立場で出発したし、今でも行っているという習慣的な観念にとらわれているのが、私たち人間の生活なのです。それが弊害です。

 羅針盤のように、どのくらい角度が間違ったかということを知って、これを自然に操縦できる作用をすれば分かりませんが、作用できないときには、私が故意にその作用をして方向を合わせるようにすべきではないかというのが、この世の人間たちとは違う生活をしている、信仰者の生活ではないだろうかというのです。

◆神様と人間が一致する点

 では、神様のみ旨があるとすれば、み旨とは何でしょうか。み旨の中には完成した個人がいなければなりません。み旨と一致できる男性と女性がいなければなりません。また、み旨と一致できる家庭がなければなりません。それは、言うまでもないことです。その家庭が行くべき目的地とは、どこでしょうか。国を探していくことです。み旨と一致できる国がなければならないのです。そうではないでしょうか。そして、み旨の中で一致できる世界がなければならないのです。

 この人間の世の中には、平面的な世界だけでなく、み旨の中に一致できる垂直線がなければなりません。しかし、その垂直線だけではいけません。垂直線に九〇度の角度になる平行線がなければなりません。言い換えれば、立体的な世界と、平面的な横的な世界がなければならないのです。九〇度を中心として、垂直線がとどまることができるのは一点しかないのです。別の点はあり得ません。違う点があれば、それは一度、二度角度が変わるのです。角度が変われば垂直ではありません。

 統一教会には「天宙主義」という言葉があるのですが、その天宙主義とは何でしょうか。垂直線と横の線が、九〇度で一致する方向をいいます。それは昼でも夜でも、昔も現在も未来も同じ角度にあるのです。いつ、どこにもってきて合わせても、九〇度に一致するのです。けれども、私たちは日常生活で、そのような生活をしているかという問題を考えてみると、深刻な問題にならざるを得ないのです。

 「み旨」と言えば、個人がとどまることができるみ旨、家庭がとどまることができるみ旨、国家がとどまることができるみ旨、世界がとどまることができるみ旨、神様と人間が共にとどまりたいみ旨があります。神様は縦的な存在であり、人間は横的な存在であるがゆえに、縦横が永遠に共存できるその点が、中心点なのです。横になったものが中心ということはありません。中心といえば、必ず垂直線なのです。横線には重心がないのです。横線上の一点を中心というのです。一点だけ占有する所が中心点になるのです。中心は二つになれますか。

 天があって地があれば、天と地が軸になって迎えて集まる所は一点しかないのです。この中心は、上にも一つしかなく、下にも一つしかないことが原則なのです。これは二つではありません。

 この一点の中に個人が立たなければならないのです。その一点の中に家庭が立たなければならないのです。ただ範囲が大きくなるのです。範囲が違うだけです。一点を中心として個人があり、一点を中心として家庭があり、一点を中心として国家があり、一点を中心として世界が連結しなければならないのです。この中心は永遠に同じです。そうすれば立つにも、その一点にすべてが集中して立てるのです。皆さんがこまを見れば分かるように、どんなに重いこまでも回り始めれば、軽いこまよりももっとよく回るのです。

 では、この地上にそのような軸が立ち得る位置がありますか。それがないのです。「個人が立ち得るみ旨の立場、あるいは個人が行けるみ旨の道、家庭が立ち得るみ旨の立場、あるいは家庭が行けるみ旨の道、国家が立ち得るみ旨の立場、あるいは国家が行けるみ旨の道、天地が一致できる、縦横が一点に帰結できる、神様のみ旨がすべて成されて人間のみ旨がすべて成し遂げられた」と言えるその点は、神様と人間が一致する立場です。

 神様と人間が分かれては、理想が出てこれません。理想とは、一人で成されるものではありません。理想は、相対的関係で起こるのです。一人だけで喜びが成り立てば、神様が天地万物を造る必要はないのです。喜びというものは、必ず相対的関係、いわば主体と対象の関係で起こるのです。

 理想というのは、一人で成し遂げるのではありません。主体と対象の関係で成されます。相対的関係で起こるのです。その相対的な存在が、お互いに食い違った立場で喜びが生じるのではありません。一点を中心として、同じ位置で会ってこそ喜びになるのです。

 主体と対象は、南北と同じです。もちろんその南北は、お互いに見つめながら、喜びもあります。しかし、見つめれば希望的な喜びはあるかもしれませんが、真の喜びというものは、お互いが一つになるところで生じるのです。一つになるには、どこでならなければならないのでしょうか。南の方を中心としておよそ三分の一くらいから、あるいは北方を中心として三分の一くらいで会うのではありません。真ん中に来て会えばいいのです。なぜそうすればいいのかといえば、真ん中に来てこそ垂直線と一致できる位置が完成するためです。

 そうすれば、この場に臨んで初めて中心が決定され、理想的になるからです。なぜ理想的ですか。平面的な感覚を超越して、立体的な、垂直的な感覚の世界が来るから、より幸福なのです。

 では、平になれる位置とはどこでしょうか。中央です。ここから見ても同じで、あそこから見ても同じで、回って見ても同じで、横に見ても同じで、四方が同じになれば、不平がなくなるのです。不平を言う人は滅びるのです。中央に来て、不平を言えば相対になれないのです。それが平になるようになれば、お互いが同じなのです。同じなら、どのようになるのでしょうか。一つにならなければならないでしょう。そこに幸福があるのです。

 神様が願うみ旨を中心として個人が立つ位置というのは、他の所にあるのではありません。その場は垂直点、中心点であるがゆえに、その中心点に個人が立たなければなりません。その中心に一つとなった夫婦が立たなければならないのです。そこが個人が立つべき立場であり、次は家庭が立つことができる立場です。国家も少し大きいだけであって、同じです。世界が立つ位置も、同じなのです。神様が立つ位置も、やはりそうです。

◆一致した相対なしには理想世界を成し遂げられない

 神様も個人についていくようになる時、天国の行路を行く人がいれば、間違いなくその個人についていこうとするはずです。サタン世界の道を行く人が、どんなに神様に「来い」と言っても、神様はついていかないのです。家庭も同じです。

 天国へ行ける道を行く家庭があれば、「ついてくるな」と言っても、神様はついてくるようになるのです。世の中もそうではないでしょうか。良いものがあれば、心が変わるのです。服を買うときを見ても、良い服、良くない服を見れば、既に良い服に目と心が行くようになります。そうでしょう。良くない服は、私の心にとどまろうとしないのです。より良いもの、より新しいものを求めようとします。

 神様は、天地万物をなぜ造りましたか。今日既成教会の信徒は、「神様は創造主で、私たち人間は被造物ですが、創造主と被造物は同じであり得ますか。違うのです」と言います。すなわち、神様はいつも一人で絶対的な立場、相対がない立場にいなければならないというのです。それ以上の不幸はないのです。どんなにお父さんが国の大統領の権限をもっていたとしても、お母さんが死んで一人で暮らしていれば、幸福ではないはずです。

 では神様は、結局は何ゆえに人を造ったのでしょうか。相対が必要だからです。相対の世界がなくては、理想の世界を成し遂げることができないためです。個人が一致できる生活、家庭が一致できる生活、氏族が一致できる生活、民族が一致できる生活、国家が一致できる生活、次には世界が一致できる生活、これはすべて意味があります。

 幸福な人とは、いかなる人でしょうか。「個人はこのように行かなければならない」という標準があれば、その標準へ行こうという人です。家庭はこのように行かなければならないといえば、その標準どおりに間違いなく行く人は、幸福な人です。もちろん現在は不幸かもしれませんが、その不幸は幸福の基肥になれるのです。ですから、国はこのように行かなければならないという、神様が引いて置いたパターンがなければならないのです。ところが現在、「世界はこのように行かなければならない」というものがありません。「天道は、神様はこのように来なければならない」ということを知らないのです。ですから重心がなく、方向がない、混乱した世の中だというのです。

 罪とは何でしょうか。中心を否定することです。方向を否定することが罪です。アダムとエバがエデンの園で堕落する時、天使が現れて「アダムとエバよ!
 神様がエデンの園のどの木の実でも取って食べなさいと言ったのか」と言った時、「いいえ。他のものはみな取って食べても、善悪の木の実だけは取って食べるなと言いました」という返事を聞いて、サタンが「そうではない」と中心を否定したのです。

 中心を否定することが、悪の起源だというのです。アダムとエバが、それを取って食べるなという方向に行こうとするのに、天使が「そうではない。方向はこうだ」と言ったのです。したがって、悪とは何でしょうか。中心を否定するのであり、方向をすれ違うようにするのが悪です。

◆目的は完全な中心の立場で発展させていかなければならないもの

 み旨の道は、個人の道と同じです。それゆえ目的に向かって行くとき、私が中心、すなわち主体ならば、目的が一つの対象になるのです。主体と対象が行く道は、いつも直線上で往来しなければならないのです。

 そのような関係で行かなければなりません。目的に向かっていくには、目的と私とは二つではなく、一つです。けさ御飯を食べるのも、目的のために食べるのであり、今私が仕事をするのも、目的のためにするのです。主体は対象のためにあるのであり、対象は主体のためにあるのです。出発は、目的のためにあるのです。同じだというのです。目的は、出発とともにあるのです。その二つが加重されればされるほど、遠ざかるのではなく、より一層一つになるのです。

 愛には犠牲が伴わなければならないのです。なぜこういう話をするのかといえば、愛というものは、それ自体のためにあるのではなく、相対のためにあるのです。この観念をはっきりと知らなかったのです。

 こういう観点で見れば、より大きい対象を探していこうというのが人生の道であり、より大きい主体を探していこうというのが人生の道です。私個人を中心として見れば、心と体が主体と対象になっていますが、家庭を中心として、より大きい主体と対象の関係が起こるのです。より広く、より大きい主体と対象を描くことが理想的です。

 人生は、どこへ行くのでしょうか。皆さんは、旅人のような人生だというでしょう。しかし、旅人のようでもありません。旅人が行くには、必ず目的があるのです。そうではないでしょうか。行く道が遠くなれば、旅人の身になるのです。一日に行けるなら、旅人の身にはならないのです。三日、四日、五日、一週間を過ぎてみると、自分の家がないから旅人の身になるのです。そうはいっても、目的のない旅人はいないのです。ですから、旅人にもなれない人生の道を今まで行っているのでないでしょうか。皆さんは、行く目的がありますか。

 行くその道が個人のための目的ならば、家庭もその目的のために行かなければなりません。個人の目的を否定する家庭はありません。個人の目的を生かす家庭です。民族の目的は家庭の目的を生かすことであり、世界の目的は国家の目的を生かしてあげ、神様の目的は世界の目的を否定するのではなく、生かしてあげることができれば理想的です。

 それゆえ、個人の生活を保障してあげられる家庭であり、家庭の生活を保障してあげられる国家であり、国家の生活を保障してあげられる世界であり、世界の生活を保障できる霊界であり、天上天下の生活を保障できる神様が主体にならなければならないのです。「そのような国は嫌いだ」と言えば、不幸になります。

 神様の中には世界の中心も入っていて、国の中心も入っていて、家庭の中心も入っていて、個人の中心も入っていなければなりません。そうであってこそ絶対的な主体になれるのであって、そうでなくては絶対的な主体になり得ません。真の個人が行く道は家庭と直通して、世界が行く道は神様と霊界と直通します。

 したがって、私個人が行くべきみ旨の道と、方向が一致するパターンがなければなりません。家庭はこのように行かなければならない、というものがなければなりません。国家はこのように行かなければならないというパターンがなければなりません。世界はこのように行くべきだという原則がなければなりません。その原則は、今の共産主義でも、民主主義でもありません。その原則はまだ出てこなかったのです。

 それゆえ、まだ中心を知らず、方向を知らないでいます。中心がない立場に立ち、方向がない立場に立ったので、善なる世界でしょうか、悪なる世界でしょうか。中心と方向が薄れれば薄れるほど、その世界は悪なる世界です。中心が明確で、方向が明確な世界は、善なる世界なのです。皆さんが善なる世界の人になるには、中心が明確でなければならず、方向が一致しなければならないのです。

 皆さんは、個人的に間違いない中心と一つの方向をもって行っています。もし、中心から外れるようになるときは、無慈悲に制裁を受けてください。方向が全部違うようになるときは、無慈悲に制裁を受けなさいというのです。どんなに強い制裁が加えられても、方向だけ正してくれるなら、有り難く思わなければなりません。中心をとってくれるときは、有り難く思わなければなりません。

◆統一教会は愛を中心として方向を合わせて行こうという教会

 統一教会は、何をしようというのでしょうか。み旨の道を見分けようというのが、統一教会です。み旨の道を知らずには、統一はあり得ません。個人が行くべきみ旨の道を、どのように行かなければならないのでしょうか。その標準がなければなりません。その標準を誰と定めますか。神様を標準とすれば良いのですが、神様は見えないからもどかしいのです。ですから、一番代表的な人を標準にしなければならないのではないでしょうか。では、その方とは誰でしょうか。神様の心に似て、神様の体に似て、神様の愛に似た、そういう人であれば良いのです。神様の体に似て、心に似て、愛に似れば良いのです。体と心が神様の行く道に似れば、一つになるのです。

 次に、愛とは何でしょうか。相対的な世界の理想的な存在の間で、一致できる絶対的な中心要因なのです。そこで理想が起こるのです。そのようなことができる人になろうとすれば、なれます。私が体と心が一つになり得る立場で、神様の愛のみ慕うことのできる方向さえ整えていれば、神様は絶対的な権限をもっているために、私が地の果てにあっても、いつも神様の愛は自然に来るようになっているものです。

 統一教会が行く道とは、どのようなものでしょうか。個人が行く道はこうすればいいという、代表的な標準人物とは誰でしょうか。歴史上の一番代表的な存在は、イエス・キリストだというのです。なぜイエス・キリストが中心になれるのでしょうか。イエス・キリスト以上の中心の内容を紹介した人がいないからです。何と言ったかといえば、「私は神様の息子である。私を見た者は神様を見た者だ」と言いました。この話は、神様と一つになったということです。

 しかし、イエス様は神様の息子になって、神様と一つにはなりましたが、成し遂げられなかったことが正に愛です。愛を成し遂げられなかったのです。それゆえイエス様は、その愛を成そうとしていらっしゃるのです。愛は一人で成し遂げることができないために、死ぬとき「新郎新婦」という遺言を残したのです。その遺言が成就される日、この地上に希望の家庭と、希望の国と、希望の世界が連結されるのです。

 こういう立場で見ると、イエス様は神様の愛を中心として誰よりも最高の内容を提示したというのです。中心を提示して、方向を正しく提示したのです。個人から家庭、氏族、民族、国家に行くにあたって、その方向と中心が行き違わず、いつも同じ位置で一致して行ける道を教えてくれたのです。

 では、この地上で皆さんは、どのように行かなければならないでしょうか。中心と合わせて行かなければなりません。すなわち、それを手本としなければなりません。歴史上に手本になれる、中心と一〇〇パーセント合致するモデルがなければなりません。それに見習って、だんだんと中心に近づいていける手本をつくるようにしなければ、神様がいないという結論が出てくるのです。歴史路程の聖人たちが、そのようなことをしました。

 統一教会は神主義を主張します。それは、神様を愛する主義です。永遠に愛して、永遠に愛され得る主義です。

 愛は、すべてを統一させることのできる原則です。その愛は、どこに現れなければなりませんか。個人に現れなければならず、家庭に現れなければならず、民族に現れなければならず、国家に現れなければならず、世界に現れなければならず、天地に充満した愛にならなければならないのです。それは、すべての人々が願う欲望です。

◆善が行く公式的路程

 では、統一教会が行く道とは、どのようなものでしょうか。家庭を成し、家庭が良く暮らすために行こうとするのでしょうか。違います。家庭よりは親戚、氏族がよく暮らすようにするためです。

 善は、人のためにするところでのみ出てくるのです。本来、存在するための始まりは、相対のためというところから出発したがゆえに、そうしなければならないのです。

 では、個人は何を願っていかなければならないでしょうか。家庭を願っていかなければなりません。家庭は氏族を願っていき、氏族は民族を、民族は国家を、国家は世界を願っていかなければなりません。その中には、個人があって、家庭があって、氏族があって、民族があって、国家があって、世界があります。このようになれば、このすべてが天の国家になるのです。それで、より大きいもののために犠牲になれというのです。これが善の行く公式的路程です。

 個人より大きいものが家庭であるがゆえに、家庭のために犠牲になるのが善です。家庭は氏族、氏族はより大きいその町内のために犠牲になり、家庭は町内のために生き、その親戚のために生きなさいというのです。そのように生きれば、絶対滅びることがありません。

 家庭を捨てても氏族のために出なければならないなら、間違いなく出ることができなければなりません。氏族を捨てても国のために行くべき道があるならば、皆さんがどんなに行くなと手をつかんでも行くことができなければなりません。これが、統一教会の文先生の思想です。世界のためには未練なく、世界のために出る覚悟をしなければならないのです。

 新しい文明圏は、新しい移動から始まるのです。これは歴史的な事実です。ヤコブの移動からイスラエルの家庭が出発し、イスラエル民族も移動からイスラエルが建国されて出てきました。しかし、世界的な移動のためにメシヤが出てきたのに、世界的な大移動に出発できなかったことがイエス様の恨になったのです。

 私たちが一日の生活をするにおいて、一日は一秒、一分から始まるのです。生活は、生涯の中心を立てるためにするのであり、命の中心を確定するために生活するのです。また、生涯の方向をすれ違わないようにするために何をするのでしょうか。生活するのです。生活は、一日一日の活動を通して積まれるのであり、それが正しく積まれなければ、生涯も行き違うようになります。生活と生涯は違います。生涯は、一生の全体について言うことで、生活は、一日、一時間あるいは一分、一秒についても言えます。いつでも、これを考えなければなりません。

◆「統一思想」の程度

 悪とは何でしょうか。中心を否定することです。中心をもたずに行動することは悪です。また、中心が備わったとしても、方向を異にして行動する時は悪です。ですから、いつも中心と方向を失うなというのです。悪は、中心が揺れることです。死んでも国のために、方向を一致させて死になさいというのです。中心をとって方向が一致した立場で、足一つでもそのために動いて死ぬようになれば、それが条件になるのです。中心と方向が行き違うようになるときは、何の意味もないのです。

 なぜそうなのでしょうか。エデンの園で中心を否定し、方向を否定するところに悪が出発したからです。原理的な基準を探していくにおいて、反対になる立場で行くべきなのが天理の法則、天道であるがゆえに、それを避けることはできず、そのような立場を取らなければならないのです。

 したがって、自分だけを考える人は滅びるのです。自分だけのために世界を制覇するという人は、滅びる者です。共産党は、「私のものは私のものであり、あなたのものも私のものだ」と言います。けれども、私たち統一教会の思想は、「私のものはあなたものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだ」というのです。これが「統一思想」なのです。

 自分自身に尋ねてみてください。私が中心の立場に立っているか、方向を整えて行っているかを自ら冷静に批判して、正しいこととそうでないことをえり分けて、正しいことは残しておき、そうでないことは整備していかなければならないのです。

 初めの出発から中心と方向を一致させていく人は、終わりと始まりを連結させることができるのです。最後の勝利は、主体のものであると同時に、始めから終わりまで行った人に帰ってくるのです。こういうことを知って、皆さんは中心をもって生き、中心をもって生活しなければなりません。

◆賢い人になって天の道を行かなければならない

 知恵深い人は、時を知る人です。時を迎えた人より賢い人は、時を合わせる人です。時を合わせる人より賢い人は、その時を合わせるために冒険をして命を懸けて立ち向かう人です。これが天道の行く道だということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは、中心の行く方向に合わせて一分、一秒を直視しながら行かなければならないことを、はっきり知らなければなりません。

 それゆえまばたきしたり、息をしたりする一切を、中心の方向に一致させなければなりません。遠い道を一日中歩いたり走ったりしたのち、初めて休む時も、「何をしてきたのだろうか」と考え、目さえ開けていれば、み旨の道を考えなさいというのです。反省してみなさいというのです。そのようにでもすれば、休んでも、景色を眺めても、心が楽でしょう。そうでなければ、涙を流して悔い改めなければならないのです。先生は、そのような生活をしています。

 それゆえ皆さんは、いつも中心と方向を合わせるために、ありったけの神経を集中させて生きるべきです。いつ、どんな時に脱線するか分からない危険千万な現実であることを知って、み旨のための生涯を、是正していける皆さんになってくれることを願いながら、語りました。

















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