文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


神様に対する体恤と私たちの自覚

一九七二年六月二十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十八巻』


 きょうのみ言の題目は「神様に対する体 恤と私たちの自覚」です。信仰生活をする人において、神様との関係を離れてはその生活が成立しません。言い換えれば、神様がいらっしゃるとすれば、その神様と私たち、または私がどれだけ密接な関係をもっているのか、あるいは生活過程でその関係をもつのはもちろん、その生活を通して一生という生涯路程をどのように連結していくかという問題が最も重要なのです。

◆どれだけ天と共に生きようとしたか

 もし、堕落圏内にいる人間を救おうとされる神様がいらっしゃるとすれば、その神様は、二十四時間ならば二十四時間、いつもこの地上に生きている人間に対して無関心ではいられないということを知らなければなりません。

 この地上の堕落した世界においても、愛する子女をもった父母がいるとすれば、その父母も子に関しては二十四時間、自分が目を開けて意識がある限り、いつも思っているのです。子を思う以上に困難なことが生じればどうか分かりませんが、そうでない限り、いつも息子を思わざるを得ないのが、堕落した世界であっても父母の心情であることを私たちは知っています。

 このような心情から推測すると、堕落していない本然の世界の主体であられる神様がいらっしゃるならば、その神様が今日人類を御自身の子女として見つめている限り、その子女に対して無関心ではいられないということは言うまでもありません。これは当然の事実です。二十四時間、私たちを案じていらっしゃる天があります。それは言葉のみならず、事実だということを感じる人がいるならば、その人は天から遠くにいるのではないという事実を自ら感じるはずです。

 私が行くにしても来るにしても、いかなる行路に立っていても、あるいはいかなる環境に置かれていても、その場には私だけがいるのではなく、天が共にあり、私が見て感じるすべて、あるいは環境にあるすべてのものを認識するのは、私だけが認識するのではなく、私の見る視線を通して神様が私に要求する、そのような同感の視線がここに添えられていて、私が差し出す手には天の同情の手が宿っている立場に立っている、ということを私たちは忘れがちなのです。見て感じて感覚するすべては、天と主体・対象関係において一体的な行動をしているということを実際に感じる人がいるならば、その人は、悪なる立場に行こうとしても行くことができません。

 このような観点から考えるとき、天は私たち人間に対してそのようにしているのにもかかわらず、私たち人間は天に対して共にあろうとしたか、というのです。こういう問題を考えると、皆さんの生活を分析すれば分析するほど、「親不孝」と言わざるを得ないという結論を下すしかありません。

 真の父母の心情をもってこられたその神様が、父親的な愛をもたれた主体であられることを思うときに、私たちがどれほど神様のために気遣い、「その方が心配してはいけない」と自分の生活を節制し、あるいは「その方が苦痛を感じてはならない」と自分の環境を整理して、天を中心として自分の環境的なすべてを相対的条件として一致化させるために、随時努力をしているでしょうか。そのような努力をしている人であるならば、その人は、一人でいても一人でいるのではありません。

 もしそういう立場にあって天が同情し、天が見て「私がお前を守った甲斐があった」という時には、天はそのような人に、どのように対するでしょうか。その人が被害を被ったり、あるいは害を加えられるような環境に置かれれば、それは天が害を被る立場であり、天の悲しみが直接的に連結される立場であるがゆえに、その環境が悪なる環境ならば悪なる環境であるほど、悪に勝利させるよりも、善なる天の前に屈服するように、そのように打開していくであろうということは言うまでもありません。

 こういう観点で見ると、そのような生活的な基盤やある根拠地を、皆さんの生活の裏面で、あるいは生活の表面で確定することなくして、天を体 恤するということは極めて難しいことです。

◆生活の中での神様に対する体恤が私たちの生命の要因

 皆さん、「愛」と言っても、これは漠然とした言葉です。愛というものは一人で、言葉だけでは理解できません。「父母の愛」という話をどんなに説明してみても、父母のいない人にとっては、それは達することのできない境地です。あるいは、「夫婦の愛」をどんなに説明したところで、一人で暮らしている人には理解できないのです。また、「父母の愛がどんなに大きいか」と言っても、子女を生んで育てたことがなく、このような体験をしたことのない人にとっては、それは達することのできない境地なのです。

 結局は、自分が感じることのできる主体や対象圏内において、相手と自分との行動的な一致点をもつことにおいて、相手が好むことを自分が好み、相手の願いが自分の願いとなり、相手の一切が自分の一切に連結するその立場において、その相手に対して愛の感覚を覚えるというのが私たちの日常生活であることを考えれば、「神様」と言っても、漠然としているのです。その漠然とした神様が、どのような環境で私と共に一致点を感じ、出発点を提示するのか、これが最も重要だというのです。

 皆さんが、祈祷する時間にだけそのような因縁を結ぶことができるとすれば、その祈祷時間以上の環境を私の生活圏内に連結させるための努力をせずには、神様と同行しているという事実を体恤するのは不可能なのです。神様と私たち人間について考えてみると、神様というと高いように感じますが、神様はいかなる神様かというと、父親なのです。「私たち人間は神様の子だ、私は息子だ。息子でも、二人といない息子だ。神様はその息子の父親なのだが、世界に数多くいる父親のその誰とも比較できない最高の父親だ」というのです。

 そういう内情的な面を、皆さんの信仰生活において、いかに内心でその幅を広げ、その圏を広めることができるかという問題、それを考えるだけでなく、実践生活において、実践環境において、それをどのように適応させるかという問題を取り上げて考えると、「私の愛する父親が望んでいる心情的要求、すなわち愛のお父様が要求しているのはこれではないか。それゆえ、私はこのように実践しなければならない」となるべきなのです。

 自分と共に実践するその一日の生活、あるいは一カ月の生活はもちろんのこと、一生の生活をそのように考えて、自分一人で報告し、自分一人で感じることのできる生活をするところから、初めて体恤というものが始まるのです。漠然と祈祷していてできるものではありません。

 神霊的な体験のある人において、やっかいなこととは大概何でしょうか。祈祷や集会をする時にはそのようなことを感じるけれど、生活面における同化した体恤圏、または同化させることのできる体恤圏に関しては忘れてしまうのを、私たちは折に触れて見るのです。そうであってはいけないのです。私が祈祷をしてもしなくても、その環境において天が共に役事しているということを感じることのできる自我をいかにして確認し、確定するかということが最も重要なのです。それゆえ、神様に対する体 恤が私たちの生命の要因となることを、皆さんは知らなければなりません。

◆立体的な立場で神様の心情を体恤しなさい

 「神様がいる」というのは言葉だけのことではありません。原理を通して主体と対象の関係を中心として見るときに、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私がいる前からいたのではないか、私が考える前からいたのではないか、私のすべての感覚、私の一切を主管する天でないか、という立場なのです。それを認識することが、何よりも重要な問題です。

 認識してから知ることが原則ではないでしょうか。知ってから認識するのが原則でなく、認識してから知るようになっているというのです。私たちが寒いときには、寒いということを分かっていて感じるのではなく、寒ければ、寒いということを感じて分かるのではないでしょうか。これと同様に、神様がいらっしゃるならば、神様がいらっしゃることを皆さんは細胞で感じるべきなのです。その境地が問題なのです。言い換えれば、私たちがいかにして体恤的立場を確定するかということ、これが問題だというのです。

 それが、いかなる環境で認識されるのかというと、皆さんは神秘的な祈祷の中で、祈祷時間にだけそうなることを願っているのではないでしょうか。大多数の人は、自分が精誠を尽くすその時間にそのような縁が結ばれるのです。もちろんそうです。私たちが常習化した罪悪圏内で、このような生活圏をもっているために、善とは程遠いところにあるがゆえに、精誠をすべて尽くして体と心が統一されるその線に近づけば近づくほど、接触点が近づくことは間違いないのですが、それが正常でしょうか。私たちの生活面において、それが正常だとはいえないのです。

 私が聞き、話すこれらすべてのことも、平面的でなく、立体的でなければなりません。「あなた」と呼べば「お前」と返ってくるのも、その響く音波の伝達としてだけではなく、その裏面には必ず心情的内情が天とともに加えられているという立場で話し、聞くにおいても、やはりそのような面を聞くことができるような、体恤的な立場が何よりも貴いのではないでしょうか。

 このような生活を皆さんがするならば、飛ぶ鳥の鳴く声を聞くのも、偶然ではありません。吹く風の音も、偶然ではありません。朝に昇る太陽の光も、自分には無限な何かを教えてくれるのです。このような環境的基台の上で、これをどのように自分が体恤するか、私がいかにして体で感じ、体験し、それをどのように感じるかが問題だというのです。

 宗教は考えることから出発するのでなく、体恤から始まるのです。宗教の認識というのは、ある観念的な知識的論理を通してなされるのではなく、実質的で実際的な体験を通してなされるのです。体験をもつことのできない信仰は、長く続く信仰とはなり得ず、体験をもち得ない信仰の立場では、自信をもつことができないのです。どんなに自信をもったとしても、環境が変わってくれば、その人自身も偏るようになるのです。

 それでは寂しいとき、その寂しさは私だけの寂しさなのでしょうか。寂しかった天があるゆえ、天と共に寂しがることのできる立場に立ったとすれば、私が寂しい以前に、まず天が寂しがっていることを感じることができるならば、これは不幸な人ではないということができます。

 喜ぶのも、私だけが喜ぶのでなく、天と共に喜ぶのです。私が喜ぶ前に、まず天が喜ぶのです。私は平面的に喜びますが、神様は立体的な立場に立って、喜びを感じながら喜ぶ私を御覧になり、私に同調し、私の歌に、あるいは私の踊りに刺激を加え、喜びを増幅されるのです。

 そのような環境で天が私を抱くことのできる立場に立つとすれば、どれほど幸福なことでしょうか。そのような立場を体験した人がいるならば、その体験した瞬間というものは永遠に忘れようにも忘れることができないのです。

 どこに行っても、その感覚は私を支配しているのです。山に行っても、野に行っても、家に行っても、都市に行っても、職場に行っても、一人密室にいても、場所を問わず、自分がうれしかったと感じたそのすべての因縁というものは、いつも自分の心と自分の生活目標の中で、自分の生活環境を収拾しながらあすに引っ張っていくことを感じることができるのです。

◆体 恤的感情を実現してこそ新しい自覚が形成される

 ですから一人でいても考えるのは、「うれしかったその時を再現させよう」ということです。あるいは、孤独で悲しかったときに、神様が私に「強く雄々しくあれ」と勧告したことがあったとすれば、そのような立場で、新しい決意と新しい覚悟をし得る心を再現することができるのではないかと思うのです。

 そのような立場を直接感じ、そのような環境で自分の信仰生活を維持していく人があるならば、それは不幸な人ではなく、幸福な人なのです。その人の当面している環境や、生活する舞台がどんなに悲惨で惨めでも、その人は不幸な人ではありません。孤独で惨めな環境は、その人にとって孤独と惨めさに終わるのではなく、その孤独は未来により大きな希望を要求し、その惨めさは現在のみならず未来に新しい願いを要求する原動力となるのです。そうして初めて、信仰の価値が分かるのです。

 そういう環境で、やっと私だけではないというそのような境地で、自分自らが「私はこういう人間である。神様がいらっしゃる。その神様とは、全知全能な神様であられる。神様と私とは一つだ」という自覚をした立場に立って、自らのすべての所信を一つの目的に、決定的に集中させて勇み立つとき、そこには新しいことが起こるのです。人間には想像できない、新しい結果が起こるようになるのです。

 そのよう体恤的な立場において、自らの新しい自覚をどのように確定するのでしょうか。暴風雨が吹きすさぶといった環境の先端に立ったとしても、押し出されはしないという自覚、いかなる困難な死線が私の前を遮ることがあったとしても、それは問題にならないという自覚をもたなければなりません。

 また、「神様は生きていらっしゃる。神様はすべての悪を審判する公義の主人公であられ、善に対しては絶対的な保護の権限、悪に対しては絶対的な審判の権限をもっていらっしゃる。私は善なる立場に立っているがゆえ、悪を除去することのできる主体的な側ではないのか」と、このように自覚する立場に立って初めて、神様に代わることのできる道が開かれるのです。

 ヨシュアとカレブを代わりに立てて、少数の群れを率いてカナンの祝福の地を求めていくように命令された神様は、まずどんな命令をされたかというと、「強く雄々しくあれ」とおっしゃいました。それは、ただ漠然とした立場で「強く雄々しくあれ」とおっしゃったのではなく、「天が共にあるので強く雄々しくあれ」とおっしゃったのです。

 神様は、皆さんの困難に備えて背後で背水の陣を敷き、皆さんのところへ来て、皆さんに同伴しているという事実を知らなければなりません。苦痛が加重されるほど、その苦痛は皆さんを滅ぼそうとする苦痛ではなく、皆さんの価値を打診するための苦痛だというのです。神様は、そのように見ようとされるのです。

 困難にぶつからせるのは、その困難によって、その人に被害を被らせ、マイナスとなるようにするためではなく、悪なるサタン世界の前に、悪なる歴史時代の人類の前に、失敗の原則に従ってきた人類の前に、また失敗の原則を提示するサタンの前に、彼らとは違うということを提示するための一つの条件にすぎないのです。

 その受難の道を克服することによって、歴史はそこに頭を下げるようになるのです。皆さんが困難な環境を打開して進み出るとき、その環境に置かれていた人類は、新しい望みの人物として追求するようになるのです。これは歴史的な事実です。

 それゆえそういうことを、神様に対する体 恤的感情をどれだけ自分の生活の周辺に誘導し、実現化するかということが問題です。その実現化させる事実が、自分を中心として表現化するとき、自分にだけでなく、自分の生活周辺に、新しい自覚圏を形成することができるのです。

◆完全な対象が現れれば主体形成は自然となされる

 完全な主体があれば完全な対象が生まれる、というのが天地の理致です。完全なものが現れれば、主体形成は自然となされるのです。なぜでしょうか。不完全な圏内であるほど完全なものが現れれば、「その完全を追求して、そこへ行け」とか「行くな」とか言わなくても、必ずついていくようになっているのです。

 どのようについていくのでしょうか。人間には欲望があります。欲望によって優秀な人もそうでない人も、たやすく良くなることができる道があるとするならば、誰でもその道を行こうとするのです。したがって、自分がたやすく良くなることができるような主体に会ったなら、本心は分かるというのです。

 それは、世の中でもそうではないでしょうか。皆さんが道ですれ違うのを、ちらりと見ただけなのに、なんとなく心の引かれる人がいます。またある人に会うと、「何かをくれ」と言うわけでもないのに嫌な人がいます。「くれ」と言うわけでもないのに、見ただけでも気分が悪いのです。これは、その先祖から、自分とは相反する因縁が結ばれているためです。そのような子孫であれば、必ずそうだというのです。

 それゆえ人間の心は、磁石のようなものです。磁石の粉のようなものなのです。神様が絶対的な磁石の主体だとすれば、人間は小さな磁石の粉のようなものだというのです。そうして人間は引きずられていくのです。「引きずられていく」ということが必要だというのです。

 皆さんが道を行ったり、あるいは市場に行くとき「きょう買い物に行けば、どんな人に会うだろうか」というときは、自分という観念から抜け出し、このような観念をもって行きなさいというのです。「私は小さい磁石なのだから神様が役事されているならば、必ず神様と授受をしているはずだ。授受しているのだから、強い磁石の作用をするはずではないか。だから私がその近くへ行けば、私の心を引っ張るものがあるのではないか」と、そこを訪ねていくのです。そのような生活態度が必要なのです。商店に行くにしても、自分の心が引っ張られる所に行って物を買うのです。皆さんは、自意的にせよ、故意的にせよ、このような生活習慣を育てていかなければなりません。

 子供たちが言葉を覚える時に、言葉を覚えるその息子は、お父さんということを分かって「お父さん」と言うのでしょうか。お父さんという言葉の意味を知らずに「お父さん」と言うとき、その息子は、お父さんとは何かが分かるのかということです。それは習慣化されていくうちに「ああ!
 そういうわけで、これがお父さんなんだなあ!」と思うようになるのです。子供たちが言葉を学ぶのを見ると、本当に不思議です。抽象名詞のようなものも、みなどのように知って納得するのでしょうか。それを説明して分からせようとすると、百科事典がみな動員されなければならないはずなのに、何事もないように、そういう言葉をしっかり習っていっているのです。

 信仰生活は、正にそうでなければならないのです。そうするには、皆さんは生活面で、細部的な分野にたくさん接していかなければなりません。たくさん接すると、自然的習慣性によって分かるようになっています。説明に先立ち、自然と自分の解明圏が開かれるようになっています。そのように皆さんはいつも、「私は小さい磁石のような鉄の粉だ」という思いをもたなければなりません。

 では、自分の心はどこに行かなければならないでしょうか。皆さん、朝起きれば、ただそのまま起きて、きのう生きていたその人、金なにがしならば金なにがし、朴なにがしならば朴なにがし、私がきのうの夜寝たので、寝て起きた私は、きのうのその人と変わらない、このように考えてはならないのです。

 子供のような心をもたなければなりません。子供は主体に対して、すべて要求するのが総合的な面なのです。幼い子供においては、お母さん以外には願うものがありません。ほかには欲望の対象がないのです。お母さんだとすれば、お母さんのことばかり考えるのです。すべての生命が、感覚器官とか意識機関が、すべてお母さんに動員されているのです。お乳を飲んでからもお母さん、お乳を飲むためにもお母さん、お母さんしか知らないのです。

 そのような意味において、子供の心情をもたなければならないのです。そうなれば、皆さんが一人で寝る時も、お母さんの懐に抱かれて、お父さんの懐に抱かれて寝るのと同じなのです。

 皆さんがそのような生活をするようになれば、寝て起きて、自分で自分の手を見ても、手が光るのを感じるのです。「私は私ではない」と感じる、そのような境地があるのです。あるときは深い懐に抱かれて無限な愛の圏内にひたる、そのような圏があるというのです。

◆信仰生活には体 恤的感情の体得が必要

 「神様がすべてしてくれるなら、私は信じる。そうしてくれないのに、どうして信仰生活をするのか」と言うけれど、そうではないというのです。天が全部してくれるのではないのです。人間が堕落したがゆえに、人間の求めていくべき復帰の行路があるのではないかというのです。

 では復帰行路の道は、何をもって接近させるのでしょうか。行動で接近させるものではないのです。心で接近させるのです。心しかありません。行動でしようとするならば、六千年を築いてくるということをしなければならないのです。

 けれども心は、本性を通じて直行できるのです。心は何よりも速く、何よりも近く、ここに接することができるのです。心の道以外にはないのです。そのように心で感じて、心で和し、心で喜び、心でそこに対することのできる姿勢が必要なのです。

 神様の愛を受けている人は、自分の主体として侍って生きているその父の愛を受けていることを考えれば、愛する方のすべてを貴く感じるのではないかというのです。ここから、すべてのものが収拾されるのです。愛する人のハンカチ一つを持って、一生を孤独な立場で生活したとしても、その環境を克服することのできる主導的な力がそこにあるということを、私たちはこの世でも見ることができます。

 それと同じように、神様が愛する人を、自分も愛するのです。愛そうとするのです。愛そうとするその人を、私が破綻させることができるでしょうか。その人に協助しなければならないのではないでしょうか。神様の愛する人を、私が蔑視することができますか。歓迎すべきではないでしょうか。

 ここですべてがつながれ、すべてが発展の動機となっているという事実を、今日信仰をもつ人々は、信仰生活をしていながらも知らずにいるのです。それを知らないということは、どういうことでしょうか。そのような生活をしていないということです。それゆえ、「お父様」と言っても、その「お父様」という言葉が骨髄から響いてきません。しかし、天の父は骨髄が響き出し、骨髄が反応を感じることのできる立場にいらっしゃるお父様だというのです。その父は、この世の父親とは違うということです。

 私たちが呼ぶそのお父様は、どれほど苦労されたことでしょうか。数千年間、人類を探し求めてさまよいながら苦労してこられたのは、誰のためでしょうか。結局は、私一人のためです。神様が全世界を動員し、歴史を動員し、宇宙を動員し、今活動しているのは、ひとえに愛する息子、娘一人を探し求めるためなのです。

 それは、イエス様という特定の方だけが行く道ではありません。イエス様を送ったのは、仲保者としてであって、道を開拓させるための先鋒者として送ったにすぎず、その根本の愛の主体として送ったのではないのです。愛の道を開拓し、万民をその愛に参加させるための共同的な目的を開放するために来られた方であって、イエス様自身の目的を成し遂げるために来られた方ではないのです。

 これが問題なのです。皆さんは、寝ながらも「お父様」、独り言にも「お父様」と言うようでなければなりません。世の中で、人々が自分の相手を懐かしがる、それ以上の懐かしさが込み上がらなければならないのです。そうして御飯を食べることも忘れ、眠ることも忘れて、その生活の裏側に天の父に対する慕わしさをもって「お父様」と言えば、天の父がいなくても、その手をつかむことができるのです。そのような、夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言うと、お父様の懐に抱かれるのです。このような表現的圏内において、体 恤的感情をいかにして体得するかということが、信仰生活において何よりも貴いということを、皆さんは知らなければなりません。

 そのような体恤の感度、感じるその度数、その量がどれほどかということが、その人の信仰基準になるのです。そういう愛の心情をもっているならば、どこかに移動して「私がこれをしなければならない」と言うときには、「天よ、共にあってください」と言う前に、既に神様は共にあるのです。そのようなことを皆さんが感じるようになれば、「有り難い神様」ということになるのです。

 世の中で、人間を信じるということは容易です。世の中で、人間が相対して話し合ってする信義というものは、言葉で「そのとおり、間違いない」と確かめて、「そうだ」と言えるかもしれませんが、神様の私たちに対する信義というのは、「そうだ」と言って確かめることはできません。確かめる必要もないのです。もはやそれ以上の立場に立った天の信義は、既にその決定的な立場を占めて、すべての問題に臨んでいるということを発見するのです。そうなれば、「ああ! 私は幸福な人だ」ということを感じるのです。

◆父子の関係の心情を体得して外面化させなさい

 結局、信仰生活というのは、外面的な環境と現在の自らの立場を和合させるものではないのです。内面的な生活の裏面を中心として、天と私との関係、父子の関係の心情を体得し、天と私は一つだという心情を体得して初めて、それを内面から外面化させることなのです。

 このようにして全体の前に適応できる人ならば、その人は、天の息子であり、娘に違いないことでしょう。そのように生きる人は、天国生活を代行する人となるに違いないということを、皆さんは知らなければなりません。

 こういう観点で考えると、皆さんが今まで霊的に体験したことは、あまりにも惜しいものが多いのです。皆さんが努力をしなかったとしても、その背後に、天と、歴史始まって以来の大勢の先祖たちが努力した基盤があるのです。そういう基盤を通して伝えられる過程において、多くの犠牲の代価が払われたということを皆さんは忘れてはなりません。

 それゆえ仕事を終えて振り返る時は、「お父様、きょうの仕事はどうでしたか」と考えるようでなければなりません。「私が自分を中心として神様の前に負債を負うようなことをしたか、私が神様の前に負債を蕩減することをしたか」と。負債を負うようなことをしたとするなら、仕事を終えて振り返るときには、涙をにじませる自分を発見できてこそ、正常な人です。

 ある仕事を終えて振り返るとき、「お父様、ありがとうございます」という心がなければ、顔を上げることもできず、それ自体を離れることができずに、涙をのんで帰ってきてからも、悔い改める生活を続けなければなりません。そうでない人は、「天の生活ができない人だ」と考えられるのです。これが、伝統的信仰生活だと思わなければなりません。「お父様」と言って祈祷する時、その「お父様」という言葉にも、千態万状の差があるのです。

 皆さん、文字を書くこと、すなわち書道をとってみても、小学生がもし「天」という字を書くとすれば、ものさしで測って、きっかりと書くのです。そう書けば名筆のようで、初心者はそれが最高に良く書けたと思うかもしれませんが、専門家の目には違うのです。専門家は違うというのです。いい加減に書いたようでも、いい加減のように書いたそれが、地上の全体の標準にぴったりと合っています。そこが違うのです。

 それゆえ、信仰生活に自信をもってはならないのです。自信をもつ人は、愚かな人です。孝の道に自信をもつ人がいるならば、孝はそこで終わるのです。忠義の道に自信をもって自分を認識する者は、そこから下がっていくのです。自分一人で自信をもつということは、死んだのと同じことです。神様が共にいて自信をもてばいいのです。神様が共にいてくださるので、そこでは自信をもたなければなりません。そうなれば、自動的に自信をもつようになるのです。

◆神様とと共に同化できる体 恤圏

 皆さんが公的な壇上に立つとき、その心は死刑場に行く心情そのものになることでしょう。それは、さながら公判廷で判事の峻 厳な判決を待つ、その瞬間に立つ男の心情のようでしょう。すなわち、祭物だというのです。数多くの生命にこの時間、私が責任をもっているのです。善い一言で生かすこともでき、一言間違えれば殺すことにもなるのです。医者が注射を間違えて打てば、その生命を犠牲にしてしまうのと同じような立場です。最も恐ろしい立場なのです。その位置には、天が共にいらっしゃるということです。それゆえ、行けば行くほど頭を上げるのでなく、行けば行くほど頭を下げなければなりません。

 自分はいい加減に過ごしてきたのに、天は内外を分けて私を守っていたということを考えるとき、不孝甚だしい自分を回想しては、神様の有り難さを感じることが多くなければならないのです。それゆえ、その不孝甚だしい恥ずかしさ、その責任が全うできないのであれば、どんなことが起こっても仕方がないという心をもたなければなりません。

 このような事実を皆さんが感じて、自分の生活はこうでなければならないというのが公式化された形態で現れ、それが自分の生活を通して展開されなければなりません。そうして、その生活が神様と一致し、同化され得る環境として現れることのできる体恤圏がつくられ、そのような人と共にいれば、その人のそばに行けば行くほど、離れたくなくなるものです。他の世界は死亡圏なのに、この世界は天の圏なので、訳もなく近くに行きたいのです。「訳もなく」ではなくて、事実がそうなのです。体は知らないので「訳もなく」という言葉が出てきますが、本心は知っているので、事実がそうなのです。しきりとそこへ行きたいのです。これは数学の公式よりも確かな公式のように、皆さんの生活に反映されることを、皆さんは知らなければならないのです。

 それゆえ神様に対する体恤は、「神様がいるのかいないのか分からない」と言うのでは、到底望めません。神様と共にある立場で、「神様は歴史を超越された方ではないか。時代を超越された方ではないか」ということを感じながら、自分が何かを聞いたとすれば、これは現在ではないのです。現在のみで終わるものではありません。ここには必ず歴史性があるのです。

 これがここに来るまでには、どのような道を来たのでしょうか。ですからここで、物質に対する価値観も公認しなければなりません。そこには、こうなる過程において因縁を結んだ人も、製作者も入るのです。これ一つとっても、歴史的な物だというのです。それゆえ自分を考えるときは、私のために天の功がどれほど大きかったかということを感じなければなりません。そうなれば、私はこのようにつまらなく生きることはできません。いい加減に価値のない挙動はできないというのです。

◆すべての存在が投入されて投影された私であることを自覚しなさい

 このような生活は、故意にでもそのようにしていかなければなりません。「私が神様の前に本当に行きたがっている心を知っているではありませんか。この心だけは、間違いありません。私には天と共に生きたいという心があるのです。確かなことではないですか」という思いが、どこの誰が否定しても、否定することのできない確かな思いである限り、その人は天と共に生きることができるのです。それが公式というものです。深い浅いの差、高い低いの差、広い狭いの差はあるかもしれませんが、その範囲にあって接しているということは事実です。

 何を中心として見ても、近ければ熱意が強いのであり、遠ければそれと比例的な立場の熱意を感じるのと同様に、今日私たちが神様を中心として見ても、同じ立場で感じることのできるのが公式的な原則です。それゆえ皆さんが「私」と言うとき、神様を中心として自分が東側に立っているか、西側に立っているかということです。知りたければ、祈祷してみてください。私がどの方向に合わせれば祈祷がよくできるのか分かるのです。それは電波と同じです。アンテナを電波の方向と合わせると、よく通じるように、祈祷してみれば分かります。

 そのように祈祷する人々には、「神様がいない、いる」というような言葉は必要ありません。御飯を食べようとスプーンを持つときも、自動的に感じる何かがあるのです。私たち人というものは、自分一人だけではありません。人とはどんな存在でしょうか。

 人というものは、私一人ではないのです。宇宙の共同的な縁を総合して、結実体として現れたものです。そのような人間には、万物の総合相がすべて入っているのであり、私たちの先祖から受け継いだ数多くの素性が、すべて投入されているのです。

 金なにがしというときも、そのなにがし一人ではありません。彼には植物、鉱物、動物、すべての万物の形態が入っています。今、顔を自分の顔だと感じていますが、その顔になるまでには数万年の歴史を経てきました。数万年にわたって先祖たちの血を受け継いで、今のような形になったのです。それは奇跡的な実体です。

 それだけではなく、その背後には、天の因縁がついてきたので、その人が残っているのです。天の因縁ということを考えると、無限な曲折の因縁をたどり、今日の自分が築かれてきたことを知らなければなりません。

 万物のすべての関係的存在が投入され、投影された実体が自分なのです。「私」と言うとき、「私」というものは今日皆さんが限られた立場での、常習化した自分の立場での「私」ではないのです。この共同目的に代わることのできる主体的な立場で、自我を自覚しなければならないのです。

 人は、そう成っているのです。それゆえ、一人で動くからといって、一人で動くのではなく、宇宙が動くことであり、歴史が動いているということです。そのような意識で自分を実現するとき、この人は偉大なことをすることができます。たとえ制限されたこの地で話したとしても、その話を世界に向かって宣布していることになるのです。

 人とは、そのような存在です。そうではないですか。父母の顔に似ていない子供は、昔の先祖に似ているのです。自分の髪の毛や細胞の一部分にも、自分の何千代前の先祖の分子がみな投入されているのです。宇宙が動いて私一人を造成し、歴史が動いて私一人を形成しているのです。そのような実感をしなければなりません。それは結実なのです。「その結実を輝く結実として現して、栄光の結実として顕現させなさい。花が咲き、香りを漂わすことのできる自分自身となり、実を結ぶべきではないか」と、このような因縁を結んだとして、その因縁の主体が誰かというと、人ではなく、天なのです。

 天は、そこで宇宙的な自我を発見し、体 恤的な心情について論議する者を、冷遇できないのです。天がそのような者を冷遇するならば、存続できないのです。そういう自覚圏内に立って、神様に対する体恤を感じる人は、何でもできます。それゆえ信じる者には、不可能というものがないのです。ここで信じるというのは、自覚した立場で信じることを意味します。

◆神様を体恤するにおいて最も重要なこと

 堕落とは何でしょうか。先後関係が逆になったことです。上が下になり、下が上になって、先のものが後になり、後のものが先になって、相対となるべきものが主体になり、主体となるべきものが相対になったのです。先後関係が食い違ったのです。

 ですから、どちらが主体かというとき「天のものが主体である」という絶対的な観念が必要です。「私」というときに、私が主体ではありません。私は、天の前に対象として立った「私」です。その対象としての私というものは主体の要件に一致化できなければ、対象の価値はなくなるのです。それが原理観です。私の目も、口も、手足も、私の全体も、対象としての私です。主体がいなくなれば生命もないということです。

 女性にとって夫がいなくなれば、生命がないということです。いくら「ある」と言っても、ないのです。いくら人情の厚い町内で住んだとしても、一人で住んでいれば、誰彼となく来ては手を出そうとするのです。それが自動的な原則なのです。それゆえ、ねずみを獲れない猫のように、稼ぎのない夫でも必要なのです。皆さんの主体は誰ですか。天です。皆さんは天のためにあるのです。

 孝の道とは、どんな道でしょうか。自らの主体意識が勃発すれば、親孝行の道は壊れてしまうのです。「母親、父親とは何か。母親、父親は、母親、父親だ」とこうなれば、もう一つの主体意識が出発するのです。そうではないですか。「母親、父親というのだから、母親、父親だ。その年寄りが私を生んでくれたというにすぎないさ。私が『生んでくれ』と言って生んだのではなくて、自分たちがそうしたくて生んだのだ」と、このようになったらおしまいです。そうなっては、どちらも壊れてしまいます。孝というものは、主体意識をもたないのです。「私は対象だ」と、このようにならなければならないのです。

 忠というものも、そうなのです。忠臣が、「国王は国王にすぎない。私が勉強して知っていることは国王より多い。彼の目と私の目と、何が違うのか。同じようについているのに。その体と私の体と、何が違うのか。同じではないのか。その体より私の体ほうが、ましといえばましなのに……」と、こうなれば、忠臣の道は壊れてしまうのです。主体と対象の関係が食い違うようになれば、そうなるのです。

 国の中心である国王とは、どんな方でしょうか。国王は、歴史を受け継いだその国民を代表して、共同的な責任をもった責任者であり、全体を代表した者です。そして全体の前に立った私は、その何分の一かに該当する私なのです。だから違うというのです。

 では、父母とは何でしょうか。自分の血族や氏族を中心として、この氏族が正しく立てるか立てないかという重要な責任を担った中心存在なのです。その父母の前に災いが起これば、自分にも災いが起こるのと同じで、その方が完全で、被害を被ることなく、その方がより光るためには、主体を主体として侍り、対象は対象として順応していかなければなりません。

 そうすることによって、その関係に肉がついて育つのではないかということです。このように考えると、その主体のためというのは、結局は自分のためなのです。最後まで主体のために生きれば、結局は自分に帰ってくるのです。結局は、主体までも占領することができるのです。

 孝の道とは、忠の道とは何でしょうか。主体に対し、完全に占領しようとすることです。

 信仰生活もそれと同じです。今日、信徒たちの中で誰かが一度「私が主体だ」と言う一言を聞いただけで、かっとなり、血を見ることになってやっと、「それみろ」と言う人が出てきたとするならば、そのような人は、天国に行こうとしても行くことはできません。天国というのは、そのようになっていません。主体と対象の関係においての順応の法度に従って、原理原則に和合できる道を行くようになっているのであって、自分がもう一つの主体になり、「ああだこうだ」と言うようにはなっていません。

 皆さんは、常に神様に対する体 恤を、どのようにしなければならないのでしょうか。体恤するにおいて最も重要なことは、「私は対象だ」ということです。対象なのに「良いときだけ対象で、悪いときは対象でない」と言う人がいます。良いときだけ対象で、悪いときは対象でないということがありますか。夫が死ぬような立場に入れば、妻も死ぬ運命にぶつかるのです。夫が死ぬような立場に入ったときに、「あら、あなた、死ぬ立場に入って良かったわ。私は荷物をまとめるわ」と言う妻は、滅びる人です。夫も同じです。妻が死ぬ立場に入ったのに、「ああ、死んで良かった。私はもう一度結婚できる」と言う夫は、滅びるのです。

◆互いに「ため」に生きる対象と主体は滅びない

 ですから、「ため」に生きる対象と、「ため」に生きる主体は、滅びません。皆さんは、それを知らなければなりません。「ため」に生きる主体があれば、「ため」に生きている限り、対象がなかったとしても、対象は現れるようになっています。対象が「ため」に生きているのに、その主体が現れなかったとしても、最後まで行けば現れるようになっています。「私が始めたのだから死ぬまでなし、私の一代で成せなければ何代かかってもする」と言わなければならないのです。何代でも待てば待つほど悪いものではありません。それは、神様が世界的な祝福をしてくださろうと待っているのです。「お前たちは根気のある一族であるから、お前の子孫の代になるまで、十代でも二十代でも待って、この世界的な、歴史的な祝福をお前の一族に与えよう」と、天はこのように考えるのです。

 そのためには、一日待って祝福の願いを成就しますか、一年待って成就するでしょうか。「一日待つ」と言うならば、それは小さいはえのようなものです。それは、誰が見ても大した祝福ではありません。それゆえ、終わりまで耐える者が救いを得るのです。その「救い」とは、普通の救いではなく、最高のものを指して言うものです。「終わりまで」というのは、何百年、何千年もかかるかもしれません。

 それゆえキリスト教は、今まで二千年間犠牲になってきたのです。「来る、来ると言ったイエス様は、なぜこんなにも来ないのでしょうか。イエス様は詐欺師だ」とさえ考えられるほどに待ったのに、どれほど待ちわびては死に、どれほど犠牲になったか知れないのに、どうして来ないのでしょうか。待ちに待って、疲れに疲れ果ててみな疲れ落ち、最後にたった一人残るまで、天は待つことでしょう。

 なぜでしょうか。一等賞を与えようとして、そうするのです。一等賞は、最後に二人いたのでは与えられないのです。そうでしょう。一人だけ残らなければなりません。そのように考えていく信仰者の生活というものは、誰が認めてくれるとか認めてくれないとかが問題ではありません。

 世の中では、あらゆる階層的な発展、秩序というものが必要です。木を見ると、虫に食われた木があります。その葉の半分を虫に食われた木を見て、「私は虫に食われた木は嫌だ」と言って葉を全部取ってしまえば、その木は死んでしまいます。春が来るまで虫に食われずに、その日を願って待たなければなりません。皆さんに対して、このように考えているのです。それが先生の心情です。

 皆さんを一〇〇パーセントは信じていません。また、皆さんに「先生を一〇〇パーセント信じなさい」というのではありません。「信じるならば信じ、信じないのなら信じるな」ということです。けれども皆さんに対して、教えることは正しく教えてあげるのです。それは間違いありません。霊界に行っても、先生を讒訴できないのです。「お前にこのように教えてあげたか、あげなかったか」と言えば、「はい、教えてもらいました」と言うはずです。では「なぜそうしなかったのか」と聞かれたら、どうしますか。私は、責任を追及されるようなことはしないのです。だから先生は、今まで皆さんを指導してきたのです。

 主体と対象の関係において、絶対的に主体のために生き、対象のために生きる人は滅びません。主体と対象がなければ分かりませんが、あれば滅びないのです。もし、絶対的に「ため」に生きたにもかかわらず滅びる立場に立つことになったなら、神様は創造の神様であるので、造ってでも成してくださるのです。信仰者において、心配したり、他人を利用してのさばる人は、いつかは滅びることになるのです。自分の弁明に口が忙しい人は、長く続かないのです。

◆絶対的に主体のためにに生きてこそ体 恤的な信仰圏内に入る

 皆さんが考えるときは常に、「天は主体だ」と考えなければなりません。「私の目の主体は天だ。だから私が見るとき、一人で見るのではなく、主体のために見なければならない」と思うべきなのです。

 夫が妻に対しても、妻が夫に対しても、「あなたは私を本当に愛していますか」と聞いた時、「愛しているが、この目だけ除いて、すべてを本当に愛している」と答えたなら、うれしいでしょうか。一方の目を除いて、そのほかは「本当に愛している」と言うと……。この一つの目が問題です。「そうであればいい」と言う人がいますか。

 主体と対象の関係の、このような因縁を確実に知ったとすれば、すべてのものが、主体のために存在するものとならなければなりません。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また食べることもそうです。御飯を食べるときも、「ああ、おいしい。ああ、おいしい」と食べるのは自分のために食べることですが、主体のために食べれば、「本当に有り難いことだ」と思うのです。「このような環境に私を連れてきてくれたので、きょうこのような立場で御飯を食べるのだな」と考えれば、一人で食べることにはならないのです。それは、主体のために食べることなのです。寝ることも、そうです。「ああ、私が偉いのでこのように、こういう立場で寝られるのだ」というのではありません。「ああ、天が率いて滅びる運命として終わっても悔いのない私が、今日このようになったのは、その滅びる運命を防ぐために、天が何度も苦労した功があるからだ。本当に感謝する」と、このようでなければならないのです。

 それゆえ、主体のための対象の立場には、不平というものがあってはなりません。不平を言えますか。不平は妄動です。破綻です。信仰の道は不平を許しません。それゆえ、感謝あるのみなのです。皆さん、それを知らなければなりません。

 天はいつも主体としていらっしゃるので、主体と相関した運命をもって、それを離脱する生活の法度、生活の形態はあり得ないのです。ですから報告をしなければなりません。どこに一人でいても、一人でいるのではないのです。どこかへ行って座っても、前後に天が来て、共に座ることを感じるのです。そうして、何を鑑賞するようになるのかというと、心からそれを感じるのです。天のお父様はこれらのすべての様子を見つめて、どのように感じるでしょうか。この国を見つめるときは、どのように感じるのでしょうか。その歴史、その世界がそうならば、そこに必ず関係を結んで入ってくるのです。このような問題などを中心として、いつも皆さんが、「天は主体だ」ということを忘れてはいけないことを、確実に知らなければなりません。さもなければ、体 恤的な信仰圏内に入っていけないのです。

 天理というものは、順序を正しく守るところに成立するのです。それゆえ主体と対象の関係で、天は絶対的な主体だという立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は、対象になることができません。自分は絶対的な主体の前に、絶対的な対象になろうというのですから、絶対的に一つなのです。したがって、見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入って愛することまでも、すべて対象と主体の立場に立って、天のためにすることなのです。一切がそのようになっています。そのような家庭は滅びません。

 主体と対象が良く授け良く受けたか、良く受けられなかったに比例して、結果が現れるのです。それで、統一教会で私が祝福してあげた祝福家庭に対して、「君たちの容姿は勝手に生じたが、君たちの心性いかんによって、天の恵みを受けることのできる道が開かれるのだ」と言うのです。ある父母から生まれた息子がいるならば、その子を見て父母を知ることができます。どれくらい信仰に関心をもち、天がそこに同調でき、天が共に動くことのできる環境的条件をもってきたかということが、自分の息子、娘を通じて証されるのです。

◆主体と対象関係を生活で徹底化しなければ

 さて皆さん、神様に対する体恤は必要でしょう? したいでしょう? ですから何かの問題にぶつかったなら、自分一人で対処してはいけないというのです。先生が幼い時のころの修養の一つの表題が、それでした。「すべてのことは尋ねて決定しなさい、天に聞いて決定しなさい」ということです。万事を尋ねて、決定しなさいということです。それが絶対必要なのです。皆さんが手紙を書くにしても、それが主体と対象の関係から外れない立場で書かなければなりません。皆さん、特に結婚前の若い男女は、そうでなければなりません。このごろの若い人々、この険悪な世の中の風潮に、ただ従っていく者たちがいるのです。手紙一枚でも、自分勝手に書いてはならないのです。

 皆さんがそのような生活をしてみるならば、自分の考えでも、きょうはうまくいきそうにないし、良くないようでもあるし、思いがけないことが起こるのです。こういうことをよく見分けて、皆さんの生活の軌道として、それに沿って生活しなければなりません。自分はどんな生活をしているかということを知っています。もう既に知っているのです。このようにも生きてみたし、あのようにも生きてみたからです。

 体 恤信仰において、一番重要な要件とは何でしょうか。主体と対象の関係です。「神様はいつも主体だ」として、私を愛している神様なので、私が深刻ならば深刻なほど、神様は私のことを忘れることはできない、傍観してはいられない、ここに共にいらっしゃるということを感じなければなりません。ゆえに、祈祷に先立ち、感謝することのできる生活形態がつくられるとき、そこには天が共にいらっしゃるのです。それは、初めは感じられないのですが、ある段階に入ると感じられるようになるのです。

 冬と春について考えると、冬と春がいつ変わったのか分かりますか。冬が終われば春が始まるのですが、いつまでが冬で、いつからが春だということが分かる人はいますか。それを感じる人がいますか。同じことです。いつが境界線なのか分からないので、いつも「こうなるものだ。冬が過ぎれば間違いなく春が来るのだ」と知っているにすぎません。これと同様に皆さんも、「間違いなくこうなる」ということを知っていなければなりません。知っていてこそ、「ああ、そうなった」と感じるようになります。そうなれば、私がある段階に入ったということが分かるのです。

 それゆえ、この主体と対象の関係を生活的な面で徹底化させるのです。「このようにしよう、国のためにこのようにしよう」と言うとき、国のためにしようというのはどういうことでしょうか。それは、天が国に役事することに参与しようということです。

◆体恤の立場

 先生自身は今まで一生の間、借りをつくるまいとしてきました。私が恩徳を受けたならば、返さなければ、御飯がのどを通らない人なのです。世話になろうとして生まれた人ではありません。皆さんも、このような生活を徹底化しなければなりません。そうしてこそ、その家の威信が立つのです。天国の威信が立つのです。そうでなければ、天の伝統の威信が立たないのです。それゆえ天のために、主体のために生きようという思いが身にしみるようになれば、その主体は現実的に現れることのできない主体であるがゆえに、相対的な世界で借りをつくるべきでないことに違いないのです。これが信仰生活というものです。そのような人は、どこへ行っても歓迎を受けるのです。損害を負わせる人は、どこへ行っても排斥され、利益を及ぼす人は歓迎されるのです。

 このような諸般の問題、主体と対象の関係の正常な実現のいかんを、どのように適応させるかという問題を中心として、皆さんは努力しなければなりません。そうでなくては、体恤というものはあり得ません。

 文を書くにしても、一人でただ書くよりも、「この文は誰のために書こう。愛する天のお父様のために書こう。愛する食口たちのために書こう」とするならば、どれほど意義があるでしょうか。「愛する未来の国を支えるために、私が文を書くのではないのか。私が夜を徹して仕事をするのも、その日の朝を、私が目覚めて迎えたいという願いをもったからであり、きょうのこの時間、この夕べ、夜を明かすことによって、願いが成就される一瞬のために、私が条件を立てることのできる一日となるのではないか」と考えれば、夜を明かす日も、疲れる日ではなく、願いを促す刺激的な時間として受け入れることができるのです。

 そうなれば、神様も人と同じです。神様が本当にそうだとすればです。神様のために公的な立場に立ち、疲れて倒れる人がいたとすれば、天はそれを知らないとされるでしょうか。それゆえ孝子は父母を泣かせるのであり、忠臣は国王を泣かせるのです。烈女は夫を泣かせるのです。力ずくで力を出させるのではありません。過ぎた日を見つめるときに、自動的に完全に包囲されて、自らのすべての事情をありのまま告げることのできる能動的な力をもっているのが孝の道であり、忠の道ではないでしょうか。皆さんは、これを知らなければなりません。

 それゆえ父母は、孝子を見ては、隠れて涙を流すのです。千を与えても足りないと感じ、与えながらも恥を感じるのが父母の心であることを皆さんは知らなければなりません。与えて誇る心ではなく、与えても恥ずかしいと感じるのです。そのような父母の心を知らなければなりません。その心の前では、何でも与えざるを得ない方であるがゆえに、すべてを与えても誇ることができず、もっと与えたいと思うのが父母の心であるということを知らなければなりません。

 そのような父母を主体として侍るならば、その人は不幸な人ではありません。それゆえ皆さんが生活面でお父様を、天を涙させることができなければなりません。私の一代において天が私と共に痛哭した事実があるならば、そのような人は滅びません。孝子を前に置いて、孝子のゆえに涙を流す父母は不幸な父母ではありません。幸福な父母です。その涙は悲しみの涙ではなく、希望の涙であり、喜悦の涙であり、感謝の涙ではないかということです。

 そうであるほど自分が置かれた部署において、新しい自覚圏を拡大して、自分でなければならないという自覚、天が保証できる人がいないので、私たちでなければならないという自覚をもたなければなりません。私たちでなければならないという自覚をもった人として、自分だけの自覚ではなく、天を主体として迎えた立場で自覚をもって、体 恤的な環境圏と、生活圏と、時代的な権限をもたなければなりません。そうして皆さんが新しい目的意識に燃えて進むところに、神様のみ旨が成し遂げられるということを、皆さんは心に銘じなければなりません。

 それゆえ天は、私がなくてはならないという自覚よりも、そのような体恤の環境を皆さんが備えなければなりません。体恤しなければなりません。感じなければならないのです。私がしなければ、こうなるということを感じなければなりません。そのためには遠い立場にいてはなりません。いつも主体と対象の関係で接し、見て、聞いて、食べて、寝るという一切の生活を、私一人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにするのだということを表面化させて、感じなければなりません。

 このようなことを感じる立場で、天が共にある立場で、新しい自覚をもち、世界へ勇み立つとき、そこで初めて天のみ旨がなされるということを、皆さんが分かってくれることを願います。




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