文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


摂理の十字路

一九七二年七月九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十九巻』


 存在するすべての物は摂理によって、言い換えれば、ある主体があって、その主体の統治のもとで存続しています。私たちが「摂理」という言葉を考えるときには、絶対的な主体を肯定して話さないわけにはいきません。

◆原因と結果、主体と対象が完全に一つになるところに幸福がある

 被造世界について見ても、あるいは歴史的な私たち人間について見ても、それらは結果物に違いありません。結果が現れるためには、原因によって過程を通らなければなりません。そこから外れては結果が形成されないのです。そして、結果がより次元の高い原因に属するようになると、その結果はより価値ある目的を追求できるのです。

 しかし、高い次元にある原因が、結果に対して食い違った立場の方向をとっては、原因の追求する結果を迎えることはできないのです。あくまでもその原因が追求する結果に向かって一致した方向を取らなければならないのですが、そこから離脱すると、その結果は原因に符合することができません。それゆえ原因と結果においては過程があり、その過程にはただ一つの方向しかないのであって、二つの方向はあり得ないのです。

 このように考えてみるときに、今日の私たち人間は、原因的な存在ではないのです。完全な原因の存在ならば、それ自体は完全な結果をその場で占めることができなければならないのです。そうしてこそ完全な原因と完全な結果がその場で一つに統一されて、そこで完全な喜びが形成されるのです。

 完全な喜びというものは、ある一方に偏っては形成されません。例えば、二人が会って話すときに、甲という人が話すその言葉に乙という人が完全に一つになるときに、話す人もうれしいのであり、聞き手もうれしいのです。幸福というものも、一人だけの立場では形成されないのです。必ず原因と結果、あるいは主体と対象が完全に一つになるところにのみ幸福があるのです。

 こういう観点ですべての存在の原因と結果について考えてみるときに、存在するものには原因に連結させることのできる方向があるのであり、結果に向かう方向があらざるを得ないのです。それゆえ私たち人間自体について見るとき、私たち人間自体が完全な結果の立場にあるならば、この人間には原因に戻ろうとする願いがあるのです。

 しかし、私たち人間自体について見ると、完全な結果の立場に置かれていると見ることができません。私個人について考えてみるときに、私がもしある絶対的な原因者がいて、その原因者の前に完全な結果者としていつも一致することができ、原因者が追求する、正に完全な対象であるという立場にあるならば、私は人間として最高の結果の立場に立ったのです。そのような立場に立ったなら、その個人は、この世界のいかなる人間を代表しても恥ずかしくない存在なのです。

 また、そういう結果的な存在としてある家庭が出てくれば、その家庭はいかなる時代を通しても恥ずかしくない家庭なのです。そういう家庭が連結されて築かれた国があるならば、その国は神様が、絶対者が追求する、原因的で理想的な国に適合した国に違いないのです。そういう国があるならば、その国は、そこで新しい何かを追求することよりも、原因者と一つになることによって幸福を感じるでしょう。

 あるいは、そういう世界があれば、その世界も同じです。世界がどんなに複雑多端な立場にあったとしても、絶対的な原因が願う結果に立った世界になるといっても、その世界が未来を通してもう一つの結果の存在世界を願うのではなく、そこで終わりを結ぶのです。結果として完成した存在は、原因である主体を再び受け継ぐことのできる立場に戻っていくのです。そのようになるときに、世界的な結果の立場に立ったその世界は、初めて世界的な幸福を追求できるのです。

◆原因を受け継ぎ過程を吸収した結実

 目ならば目も、やはり同じです。見る角度が偏れば、一風変わった角度の視覚を私たちが感じるようになるのです。私たちの手足や体全部が一つの形態として、相対的条件を備えて現れるのには副作用を感じないけれど、それが欠如するときには、欠如した以上の副作用を感じるようになるのです。

 このように考える時、「一人では駄目だ」という結論を下すことができます。どんなに結果が立派でも、その結果が結果のための目的から成されたものでは駄目で、原因が追求するとおりになされたものでなければなりません。原因が追求する過程で離脱した、その結果の目的体はあり得ないのです。その原因と、過程と、方向が一致した立場において、初めて完結、完成の結果になるのであり、そうなるとき、原因を受け継ぐのであり、過程を吸収した完全な結実が結ばれるのです。

 一つの木の実について話すならば、その一つの実が完全な実だというとき、十年育った木から取った実は、十年間のその木の運命のすべてを受け継いだものなのです。それは刈り取られた結果ですが、その刈り取られた結果は、それ自体としてのみ存在するのではなく、その木が経てきた因縁から抜け出すことはできないのです。したがって一年ならば一年間、すなわち春夏秋冬の風霜、変動期のすべての刺激とか、すべての蘇生の感じがその実に完全に投入されているのです。そのような過程をたどり、その実が、十年の歳月を経た木の結実になることができるのです。

 一つの実は、その原因となる木の因縁から抜け出すことはできないのです。一年ならば一年を中心として、葉が出て、花が咲き、実になる時まで、その指向性から抜け出すことはできません。それをすべて吸収して育った木が、ある科に属した木として完全な木であれば、その木の実は完全なのです。もしその木が足りないならば、足りない分だけ、それに該当する実が結ばれるようになるのです。

 これを推測してみるときに、私たち人間も同じではないでしょうか。私たち一個人を見ると、一つの木の葉と同じなのです。その木の葉は、木の葉としてだけあるのではないのです。その木の葉が太陽の光を受けて炭酸同化作用をするのは、その木の葉自体の生の目的をえり分けていくためでもあるのですが、木全体の目的に沿って作用するのです。このようにして木の葉が存在しているのです。

 このように考えてみるとき、私たち人間も同じです。私自身について見れば、父母がいて、その父母の上にはまた父母がいて、ずーっと歴史時代を経て先祖をたどっていくと、最も最初の先祖まで上がっていくはずです。その先祖に従ってある絶対者から出発していたなら、天下を治める絶対者の前で、「人はこうでなければならない。こういった者が完全な人だ」と言って、結果的な一人の男性ならば男性、女性ならば女性が出発をするのではないでしょうか。

 男性と女性について見ると、男性は男性によって生まれたのではなく、女性は女性によって生まれたのではありません。横的関係について見れば、これらは主体と対象の関係になっています。ですから男性も男性のために生まれたのではないし、女性も女性のために生まれたのではありません。お互いのために生まれました。

 このように見る時に、本来生まれる時、男性のために生まれたのではないのが男性であり、女性のために生まれたのではないのが女性だということが分かります。女性がもっている目的は、女性だけでは成すことができません。男性と共に、または男性を通すことによってのみ成されるのです。そこに男性の喜びがあるのであり、女性の喜びがあるのだということは言うまでもないのです。

 この公理を認めるようになると、「進化論」が問題になるのです。また、私たちがこの公理を立てていくようになるときには、今日のいわゆる共産主義哲学として世界的な問題になっている「弁証法」が問題になるのです。それらの言う「相反した立場で、互いに矛盾した立場で対立物が闘争して発展する」という内容は、天理の原則に当てはまらないのです。

◆作用の原則

 力学において力の作用を見るとき、入ってくる力と出ていく力は同じではありません。ある作用をしたときには、入ってくる力よりも出ていく力のほうが必ず小さいのです。入力と出力が同じではあり得ません。入力よりも出力が小さいのです。

 こういう観点で見るとき、アメーバが作用をして、どのようにより大きい物になるのでしょうか。これが問題になります。そのようになるには、二つの要因が必要です。アメーバ全体が自体より大きいものを創造することのできる主体的な創造の能力をもっているか、そうでなければ別の所から力を引き込むことのできる誘導力をもっているかという、この二種類の要因が必要です。この二種類の要因がなければ発展できないのです。

 発展は、どこから形成されるのでしょうか。相対的な条件の環境がそろって、互いによりプラスになることのできる、マイナスもプラスもプラスになることのできる、二つのものがより優れた次元に到達できるところでのみ発展が可能なのです。これが今日、先生の提唱する論理です。

 存在の起源の問題について見るとき、存在するためには運動をしなければならないのですが、運動をしようとするなら力がなければなりません。力はどこから出てくるのでしょうか。一人では力が出てくることはありません。主体と対象関係がなければなりません。存在しようとするなら作用が必要なのであり、作用しようとするなら、必ず主体と対象がなければなりません。

 国家ならば国家間で親交をするときでも、互いにより良い共同的な目的を追求するところでのみ可能なのです。共産世界と民主世界が激烈な闘争をしてきている中で、近世になって和解のムードが起こってきています。ここで、二つの世界がより良くなることのできる目的観を設定して出発するならば、間違いなく二つの世界は統一されるでしょう。

 ここで必要なものとは何でしょうか。よりプラスになることのできる内容を確保して、マイナスになり得る未完成分野を補充しても、余力をもち、自分についてくることのできる新しい目的形態を提示すれば、世界は一つになるはずです。

 すべての存在物は、より良いものを追求するようになっています。なぜ、より良いものを追求し作用できるようになっているのでしょうか。最高の絶対者がいるとすると、最高の絶対者である主体の前に相対的な絶対性を賦与しようとすると、そのような創造観で造らざるを得ません。

 それゆえ、存在する前に力がなければなりません。力があるためには、作用をしなければなりません。作用するにおいては、一人ですることはありません。例えば、誰もいないのに自分一人で話していれば、それは狂った人です。また、どんなに世界的に立派な人だとしても、その人が一人でいるなら、彼は言うまでもなく哀れな人です。妻もなく、家庭もないなら哀れな人です。どんなに立派な人でも、国がなくなるときには、彼は哀れな人です。それは、なぜそうなのでしょうか。より価値的な環境の基台をもっていないからです。それは個人としてもそうで、家庭についてもそうで、国についてもそうで、世界についてもそうです。

 では、哀れな民族とは、いかなる民族でしょうか。世界のために貢献できない民族です。世界に貢献すると、なぜ哀れでないのでしょうか。世界に貢献することによって、世界の原因であられる絶対的な主体と一つになることができます。また、世界的な結果を総合し、先鋒に立って主体を迎えることができ、その民族を通して幸福の道が開かれ、幸福を迎えるにおいて先頭に立つことができるので、より幸福だというのです。

◆一つの起源から始まった結果の世界は必然的に一つ

 こういうことを考えれば、今日の私たちは、存在物に間違いありません。皆さんが存在物であることに間違いない限り、皆さんは相対的観念から抜け出ることができません。それゆえ主体と対象の関係において、縦的主体と横的主体がなければなりません。そうしてこそ理想が成されるのです。

 今日の幸福とか理想とかは、より良い結果的な存在が形成されなければならないのです。その結果的な存在というのは、個人も結果的な存在であり、家庭も家庭として結果的な存在です。あるいは社会ならば社会として、その国ならば国として結果的な存在です。その結果が追求するものは、二つの世界にはなり得ないのです。その世界は一つにならなければなりません。

 もし二つの世界を追求する主体があるならば、そのような主体は絶対的な存在とはなり得ません。原因的な主体が二つの結果を追求するならば、それは絶対的な存在ではありません。「絶対的」という言葉は、ただ一つです。完全な起源というものは、二つでなく一つです。それゆえ、一つの起源から始まった結果の世界は、必然的に一つでなければならないのです。

 こういう観点で今日、歴史時代を経てきた人類を一度見つめてみるとき、この人類というものは現時代に生まれた産物ではなくて、歴史的な産物だというのです。私たちの先祖がそのように歩んできたので、それを受け継いだのです。そこから抜け出ることはできないし、超越することはできません。それは継承的です。方向を新しく設定できないのです。因縁づけられた方向のもとで、それに追従する方向は認めるものの、新しく設定された方向は認めることができません。なぜでしょうか。原因が追求する方向は一つだからです。

 それでは今日、人間について考えてみるとき、人間は原因が追求する本来の主体の前に相対的価値をもつことのできる個人的な出発をしたでしょうか。したとするなら、幸福がどんなものかを体験した先祖がいるはずです。男性ならば男性一人で幸福を感じて、「私だけは幸福な人だ」とは言えないのです。「幸福」というものは、その個人に限られたものではありません。

 その個人は全体を代表し、全体の原因になる主体の幸福に代わった相対的存在であるので、彼は神様に喜びを及ぼすことのできる幸福の要因を反応させた主体に違いないのです。

 したがって、私が喜べば主体であられるその方も喜ばれるのです。私が踊りを踊ったなら、その主体も踊りを踊ったことでしょう。そういう個人は、「人生においてこのようなことが幸福だ」ということを感じて生きたことでしょう。そういう男性がいたならば、その男性と共に生きた女性がいたはずです。女性も、「こういうのが幸福だ」ということを感じて生きたのではないでしょうか。

 このような男性と女性が私たちの本来の先祖だったなら、幸福な基台の上に愛を中心とした家庭を形成したはずであり、そのような家庭で生まれた息子と娘がいたはずであり、その息子と娘は母親と父親の幸福をそのままそっくり受け継ぐことのできる、「これが人生の幸福だ」という伝統を提唱できる歴史的な何かがあったはずです。

 父親と母親が愛する立場は天道の原則と一致した、原則に帰一した立場です。原因であると同時に結果を反映させ、結果であると同時に原因を反映させる、最高の価値追求を確かめる立場です。そしてより良いあすの願いを追求できる、加重的な目的を描くことのできる立場です。そのような立場が、幸福な立場ではないでしょうか。

 その幸福な立場は、すべて引き寄せるような立場ではありません。幸福が訪ねて来るときには、与えたいのです。皆さんの心も、そうではないですか。このように考えてみるとき、人類始祖が真の幸福を描いて生きていたなら、それが歴史的な伝統として残ったはずです。

 そうすれば、真の夫婦の道理はどうでなければならないのでしょうか。それは既に帰結し出発したでしょう。真の父母も、既に設定されたでしょう。真の子女の道理もまた、既に明らかにされたはずです。そうして、その息子は横的な親戚関係において、「このように生きるのが伝統を通した、原因が追求する方向に一致した結果的な氏族だ」と言うことができるのです。

◆天地のパターンとしての個人の原形があってこそ

 そして、氏族を通して数えきれないほど拡大され、構成された、絶対的な原因を通した結果的な国がなければならないのです。その国が、帰結点に立たなければなりません。このようになった世界は、主体と相反するのではなく、いつも相応、相和することができ、より高次的な目的を互いに刺激させることのできる、現実的な基盤をもとうとするでしょう。そこに、初めて幸福があるのです。

 結論づければ、天地のパターンとしての、個人のその原形がなければなりません。このごろの時代はオートメーション時代であるので、型があれば、それを置いて一回だけ作動するようにすれば、カタカタと音をたてながら、同じ模様が刷られて出てきます。そのような型があるでしょう。何万個、何百万個でも印刷することのできる型のような人を、神様は喜ばれるのです。そのような、ある主体がなければなりません。

 方向においても、東西南北や三六〇度に従って、角度と位置が違った立場に、ある円形にならなければならないという何かがあったのではないでしょうか。人間として絶対的な原因を追求し、その原因が追求していく方向と一致することのできる結果になり、その結果において原因を内在させ、また再び自分からの第二の方向を設定できる種がなければなりません。春に種を蒔いて秋に刈り入れ、再び訪れる新しい春を迎えて種を蒔くようになる時に、初めに蒔いた春の種自体に代わることができてこそ完全な種になるのです。

 では人間において、芽が出て実を結ぶというのはどういうことでしょうか。「今私たちが生きていることが芽が出て実を結ぶということだろう」と、そう思いますか。実を結ぶということは、私たち人間の理想です。秋になって刈り入れる時になると、稲は稲同士で、全部一つの俵に入っていくのであって、稲が、「私はとうもろこしの俵に、きびの俵に、小豆の俵に、豆の俵に入って行く」と言いますか。それは主人が分けるままに、一つの俵に入っていくようになっています。豆は豆同士で、小豆は小豆同士で、一つの俵に詰めるのです。

 今日歴史時代を見てみると、今の時は秋の季節です。人類歴史が収穫期にあるというのです。ですから、やせこけた枝のみが残ります。その枝も、過酷な風が吹けば折れてしまうのです。そうすると、根だけ残るのではないのでしょうか。そのような時が来ました。

◆絶対圏的方向をもっているところから絶対的な統一圏が成される

 今日民主世界自体について見ると、民主世界が探し求めている理想郷というものは、今日の現時点を超越することのできる何らの主体性ももっていないし、相対性ももっていません。共産主義も共産主義を中心として世界制覇を夢見てきたけれども、今はかえって紛争しているのを私たちは目の当たりにしているではありませんか。それでは統一の形態をもつことができません。分裂に分裂を重ねて、個人共産主義化段階まで下りていくでしょう。

 また、今日の自由民主世界の結実が個人主義思想です。アメリカに行ってみると、ヒッピー族がいます。彼らは、「そのように生きるのが良い」と言うけれど、私が見るには、良くありません。原則に立っていません。絶対的に吸収できる要件を備えて一致した絶対圏、ただ一つの方向をもっているところから絶対的な統一圏が繰り広げられるのです。ところが、彼らはそうではありません。

 それはわがままです。彼らに国があるでしょうか。国はありません。彼らには家庭もありません。師匠がいるでしょうか。師匠もいません。動物性を中心として、「あなたと私は同じだ」と言うのです。秩序がありません。おばあさんと夫婦生活をする孫もいるという話を私は聞きました。それは動物のすることです。ここには天道もないし、人倫道徳もないし、国やそのすべてのものがないのです。個人主義化され、極端な肉の満足を味わおうという、ふしだらな現実圏内で生きているのです。それではおしまいです。そこから、どんな理想的な人間が出てくるでしょうか。それは滅びることです。滅びないようになったときには、ここに立っている先生が、滅びるようにさせるでしょう。

 現在の文明を見ると、人類の文明は温帯文明です。昔の熱帯文明を経て、今は温帯文明圏内で秋を迎える時が来ました。そうすると、人間世界において真の春の日、中和文明を迎えるようになるのです。春の季節の文明圏は、人類歴史上になかったというのです。

 今日、人間の価値が、このように落ちるとは思ってもみませんでした。病気になったのを治すためには、病気になった結果を中心として治療してはいけないのです。根を引き抜いてしまわなければなりません。過った原因を、選んで引き抜かなければならないのです。これが問題になっています。種は種ですが、正しい種ではなく、中身のないものがあるならば、そのような種を望む人がいるでしょうか。

◆人類が願い、原因者が願う世界のパターン

 このように考えてみるとき、個人的にある摂理的な主体がいるとすると、その主体が見て、「人はこうでなければならない」と言うことのできる型がなければなりません。人には男性と女性があります。したがって、男性と女性になるべきある型がなければならないのですが、それが正に家庭です。

 そして、その家庭に対するあるパターンがなければなりません。世界的完成圏をつくることにおいて、一つの家庭は世界を構成する付属品です。その付属品はどうでなければならない、というパターンがなければなりません。皆さんの家庭が、「天倫大道に代わって執行できる代表的家庭だ」と言える人がいますか。そのような家庭はまだないのです。その次に、氏族ならば氏族も同じです。今まで、国家ならば国家において、「天倫が願う国家はこうでなければならない」という、あるパターンがなかったというのです。

 今日の世界を中心として見るとき、「これは人類が願い、摂理の主体である原因者が願う世界のパターンだ」と言うことができるものがあるでしょうか。ありません。けれども、人間はより高次的なものを、より統一的なものを探していくのです。そうでなければならないのです。一つから出発したので、それはどんなに伸びていき、どんなに多くなったとしても、最後には一つに帰結しなければならないのです。

 このような観点から見るとき、今日人間のパターンをどこから求めるのでしょうか。個人のパターン、国家のパターン、世界のパターンがどこにあるのでしょうか。共産主義や民主主義がそれを代行することができ、ある宗派がそれを代行することができるでしょうか。ある家庭がそれを受け継ぐことのできる家庭になるために、今進んでいるでしょうか。そうではないのです。

 人間は否定から出発したので、否定的な結論を下すほかはないのです。否定的な出発をしたので、否定的な決定をすることによって清算しなければなりません。現実を否定しなければ、ここで勝利するとか、超越できる道はないのです。方法をどんなに模索しても、目的を知らなければ解決する道がないのです。ですから、否定して克服してみようと身もだえするのが、今日の私たちの現実です。

 「人間が否定から出発したので、これを否定して、肯定的な自我を再発見しろ」と提唱してきたのが、宗教が出現するようになった動機です。宗教はそのような使命をもっているのです。

 イエス様が「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言ったのですが、これは背理的な論法です。「先に来た者が後になり、後に来た者が先になる」と言いました。全部反対のことを言ったのです。イエス様を信じれば生きると言わなければならないのに、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きんと言いました。その話はすなわち、否定することのできない人は肯定を発見することができないということです。

 このような観点から考えてみるとき、今日の私たちは十字路に立っています。この現実的な世界を直視するときに、私はどこに立っているのでしょうか。不合格品が合格品になるのだという戦いの局面に私が立っているということを、皆さんは知らなければなりません。では、私が不合格品の圏を否定してしまい、合格品になることのできる道をどのように模索すればいいのでしょうか。ここには新しい宇宙的な革命が提示されなければなりません。個人的な革命ではありません。個人として宇宙的な革命を誰が提唱するのでしょうか。

 今日の個人主義思想が、「すべての革命をする」と言いましたが、環境を超越したものでもないし、克服したものでもありません。押されていきながら、次元が下がりながら、落伍していく立場で革命をしてきたのです。それは、結局は滅んでいくことなのです。

◆人は神様を絶対視することなくして帰る道がない

 それでは、私が立つ立場とはどんな所でしょうか。摂理的な十字路圏に立っているのです。そこには、左に行く道もあるし、右に行く道もあります。

 今日、真の人間はどこにいるでしょうか。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と、このようにイエス様がゲッセマネの園で自分の一身をみな否定する立場、生死の岐路に立って神様を抱き抱えて不安や心配のない立場に立ったので、人生のただ一つの歴史的な方向が設定されたのと同様に、今の世の中もそのようにしなければなりません。「私の思いのままにしないでください、私の思いのままにしないでください」と言わなければなりません。

 ところが今日の右翼も左翼も、すべて人間を中心とした考え方です。良心主義や、私だけ中心として生きればいいというのは、みな人本主義です。人本主義の出現は人間の堕落によるものです。神本主義を中心とした人本主義の形成は認めることができますが、神本主義を否定した人本主義の形成は認めることはできません。これを克服するためには人本主義を否定して、神本主義の肯定から人本主義の肯定を重ねて追求しなければなりません。それゆえ人は神様にしがみついて、神様を絶対視せずには帰る道がないという結論を下すことができるのです。

 イエス様のゲッセマネの園での祈祷は、死の道を行くとしても天の道に従っていかなければならないということを、人類歴史の全般の事実として見せてくれたのです。それは今、私たちにも同様に適用されるのです。皆さん個人も同じです。混乱した環境を受け継いで、「私の利益だけを一箇所に集めれば良い」と、このように考えれば滅びるのです。また、自分の党派の利益だけを夢見る人も滅びます。けれども自分の生命を捨てながらも、神様のために最後まで弁護し、また、「自分が生きていること、団体が健在であること、国があることは、その中心である天道のためにある」と擁護し、進み出ることのできる個人や、団体や、民族や、国家は、生きていくのです。今の時が、そのような時なのです。

◆イエス様の十字路

 イエス様はゲッセマネの園で、「父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷なさいました。けれどもイエス様はその場で、「あなたのみ意は私のみ旨であり、私のみ旨はあなたのみ意でございます」と、こういう祈祷をなさらなければならなかったのです。

 イエス様は、なぜそのような祈祷をするようになったのでしょうか。イエス様が願われた弟子のパターンがあったはずです。そして、イエス様に従う信徒はこうでなければならないというパターンがあったはずです。約束したメシヤを送るようになれば、ユダヤ教はメシヤを迎えるとき、このようにしなければならないというパターンがあったはずです。

 ところが、そこに合格したユダヤ教になることができず、そこに合格するイスラエルの国になることができなかったのです。それでイエス様は、心で第二イスラエルの国とユダヤ教を思い焦がれるほかなかったのです。

 イエス様が心で思い焦がれたユダヤ教とイスラエルの国が、内外に完全に一つになったならば、どうなっていたでしょうか。神様は、イスラエルの国のために、ユダヤ教のために、数千年前にメシヤを送ってくれると約束なさったのですが、そのような約束をしたその民と教会が、神様のみ意のままに一つになっていたなら、イエス様がそのような祈祷をされたでしょうか。「あなたのみ意は私のみ旨であり、私のみ旨があなたのみ意です。あなたが立てた教会と国をしっかりと治めなければならないではありませんか」と、このように祈祷しなければなりませんでした。

 そうしなければならなかったにもかかわらず、国と教会が神様が指導なさろうとした立場とは食い違っていたために、国を取り、教会を取ろうとすると神様に背くようになり、神様に従っていこうとすると、国と教会に反するようになりました。こうした中で、イエス様は教会を捨て、イスラエルの国を捨ててでも神様に従っていかざるを得ない立場に立ったので、そのような祈祷をするしかなかったのです。ですから、イエス様はかわいそうな方です。

 イエス様は、死ぬために来られた方ではありません。無力に倒れるために来られたイエス様ではありません。イスラエルを動員し、今のアブラハムの後孫として祝福を受けた十二支派のアラブ圏の民族を動員して、強大なローマ帝国に対抗していくのに不足のない環境が自然にできていなければなりませんでした。

 その時、ローマのすべての政治風土は弱まっていました。ピラトが総督として治めている小さなイスラエルの国で民乱が起こることを恐れたのを見ると、どれほど行政力が及ばなかったかという事実が一目で分かるではありませんか。

 神様が探していたイスラエルの国とユダヤ教は、どうしなければならなかったのでしょうか。イエス様が考えるには、教会と国はこうでなければならないという基準があったのですが、そういう国や教会はありませんでした。ですから、イエス様が反対を受けたのではありませんか。

 イスラエルの国とユダヤ教がイエス様のみ意のままにし、神様のみ意のままにしていたなら、誰がイエス様に反対し、誰が殺したでしょうか。ピラトは生かそうとしたのに、「バラバを生かして、イエスを殺せ。イエスを十字架につけよ」と誰が言ったのですか。ユダヤ民族が言ったのです。ピラトの妻までも夢を見て、ピラトに「イエス様に手をつけるな」と勧告したのを見れば、イエス様は死ぬようにはなっていなかったのです。

 そういうことを見ると、イエス様は正に十字路に立っていました。摂理の国と摂理の教会を背負い、この世の国とこの世の教会に近づくとき、イエス様は正に十字路に立っていたのです。右側の教会と右側の国は本来イエス様が追求し、願って来た教会と国であるにもかかわらず、左側の教会ができ、左側の国ができました。これは、イエス様のみ意に背くことではありませんか。これを防御するためには、イエス様が犠牲にならざるを得ませんでした。したがって、イエス様が再度、この地上に来られる時まで、ユダヤの国は地で顔を上げることができないのです。

 それゆえイスラエル民族は、二千年の歴史路程をたどりながら、数多くの民族の銃刀の前に、あるいは馬のひづめに踏みつけられて犠牲の祭物になったのではありませんか。一九四八年を中心として、初めて国連の協助を受けて独立をしたということは幸運なことでした。イエス様に反対したイスラエル、ローマ帝国よりももっと大きな世界的な反対圏をもって、孤独な立場で独立したけれども、かき分けていかなければならない道において、堅固に守りを固めた城のような怨 讐の基盤が残っていたのです。

◆完全な種と沃土

 昔は「イエス様を信じる人」と言えば、高く評価されました。あるいは、宗教を信じる人を高く評価しました。今日この時代においては、だんだんそれが下がりつつあります。科学が発達したこの時においては、すべてが分科制度になっているために、細部的な原則に従って一つの分科の中に数多くの人々が糾合されています。

 それで、「それを超越しては人間の価値追求を認めることができない。物質的相対世界を迎えたこの時において宗教は必要か」と、こういう時に入ってきたのです。「宗教は必要ない。宗教が願う理想なんて必要あるのか。宗教が願う人格、宗教が願う家庭、宗教が願う国家観、世界観なんか必要ない!」と、このように主張しているのです。

 このような世界の前に、神様が摂理を推進してこられるならば、神様はどのようにされるでしょうか。絶対的な宗教と、絶対的な神様を中心とした思想を中心となさるはずです。

 では今日、この歴史的な終末の時代において、物質文明が一番端に置かれている現時代において、ここに残るものとは何でしょうか。神様がいらっしゃり、世界が落ちていく落葉のようにならないことを願われるならば、ここに何かがなければならないのではないでしょうか。この世に反対になるもの、神様が提示する絶対的な宗教、絶対的な国家観、絶対的な思想観をもってくる、そういう何かがなければならないのではないでしょうか。このようにして、もう一つの新しい十字架の形成がこの地上に成されなければなりません。

 植えられた畑によって、種の結実は変わるのです。ここで、石だらけの畑に蒔くのか、沃土に蒔くのかという問題が起こるのです。悪なる人に蒔くのか、善なる人に蒔くのかという問題が起こるのです。神様は収穫された結実をもって、石だらけの畑と、とげだらけの畑に蒔くことを願うのではなく、沃土にばら蒔くことを願うはずです。この地上に、神様が沃土として設定し、準備したのが宗教なのです。

 それでは、沃土だと主張している宗教が、本当に沃土になっているでしょうか。沃土というのは種のためにだけ存在しなければなりません。種が必要な要素を吸収するときに、百の要素を吸収できるとすると百の要素を備えて、その相対的エキスを種全体に供給できてこそ、完全な沃土になるのです。

 その完全な種のようなものがキリスト教でいう再臨主なのですが、その方は「この地上に来る」と言いました。メシヤ思想を中心として見るとき、彼が来る時は沃土に向かって来るはずです。では沃土になることのできる教会がありますか。沃土というものは自分のためにあるのではなく、種のためにあります。種のためにあるのですが、種が百ぐらいの必要な要素の吸収力をもっていれば、千、万の要素を備えてもっているほど、それは「沃土」と言えるのです。

 こういう沃土となることのできる宗教や国がありますか。すべて石だらけの畑であり、すべてとげだらけの畑です。沃土というものは、自分のためにあるのではありません。

 ところで、子女たる私たちが神様と分かれたなら、終わりの日に審判を受けるにしても、または称賛されるにしても、再び会う日が来るのです。それは間違いありません。息子が父母の前に親不孝をしたとすると、再び会ってもう一度談判をしてこそ縁を切るか切らないか、分かれるか、情を切るかということが起こるでしょう。親不孝をしたからといって、飛び出したからといって、「こいつ! 出ていったのだから私とは関係ない!」と言って関係を切ってしまう父母はいません。

 出ていったなら再び帰ってきて会える日を待ち、帰ってきた時には、昔そうであったことをもう一度回想して、自分自ら自責して悔い改める立場で、本然の孝の姿をもって現れることを望み、またそのような立場で息子を迎えることを望むのが父母の心です。息子は、そのようにできる要因をもつべきではありませんか。ところが、帰ってきても悔い改めることができずに、「ふん、何だ!」と言うときには分かれるのです。

◆宗教の基台と終わり日の人間

 人間が堕落したので、主体であられ、原因であられるその方が人類の父であり、父母の立場にいらっしゃるならば、その父母は人類に対し、再び会う日を待ち焦がれているのではないでしょうか。会うためには、荷物をまとめて持ってくるのではないでしょうか。孝子として来るならば、もっと良いものを与えようと、ふろしき包みにみな包んで持って来られるのではないでしょうか。

 もしこれを受け入れないならば、この倍になる審判を受けるようになるでしょう。そういう歴史的な終末時代が来なければならないし、終わりの日が来なければならないのです。終わりの日とは何でしょうか。審判する父母を迎えるのか、称賛し歓迎する父母を迎えるのか、この二つのうちの一つの父母を迎える日が、終わりの日です。

 人間がそれを準備しなければならないし、人間が審判を受けて追い出される群れになってはいけないので、人間にそれを教育するために宗教の基盤を広めてきたのです。そういう人間が悔い改めて神様を絶対視し、絶対的に原因を主体とすることのできる姿になることを願うのが、神様の本意ではないでしょうか。これが、摂理の中心思想ではないでしょうか。

 ところがその時になって、「私はこれこれこのようにしてこうなりました。私がこのように本来どおり帰ってきて父母を訪ねようとしたのですが、追い出されて手ぶらで戻ってくるのでは面目が立たないので、体面上、威信上、お金でも集めて贈り物を買ってこようとして、今このように来ました」と、こういう弁解は必要ありません。そこには贈り物は必要ありません。骨身に染みるような心から張り裂けて出てくる「悔い改めの心」が必要なのです。それだけが通じるというのです。

 それで、「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイ四・一七)と言いました。イエス様は、「解放しなさい。天国は近づいた」とは言いませんでした。「悔い改めなさい。天国は近づいた」というこの言葉は、人類の共同的な標語なのです。親不孝をし、自分の主張どおりにしたからです。

 父母の主張に従ってこそ自分の主張が成立するのに、父母を押しのけて自己主張をしたのではありませんか。不忠とは何でしょうか。国王を差し置いて自分を主張したことが不忠なのです。親不孝とは何でしょうか。父母を差し置いて自分を主張したのが親不孝なのです。そうなっているのです。それで宗教は、何を教えてくれたのでしょうか。「神様に絶対従順でありなさい」、これを教えてくれたのです。

 これから、二つの分かれ道が出てくるのです。言い換えれば、今日のこの世界、混濁したこの地上において、人間として人倫道徳を論議しながら、国家観、世界観を願っていますが、これだけをもってしては駄目なのです。ここに風変わりな何かがあって、神様が提示する新しい天道を明らかにして、すべての人類が一つの共同的なパターンの原則を備えた、新しい世界の形態として接近しなければならないのではないでしょうか。その時が、いわゆる終わりの日だというのです。

 ですから、終わりの日とはどのようなものでしょうか。沃土になった所に順応できる人が来なければなりません。失った息子に会おうとして来るその父母が、今までのすべてのものを再び探して荷物を全部まとめて来るに違いないのです。そこには、完全な個人もいるでしょうし、完全な家庭もあるでしょうし、完全な国もあるでしょうし、完全な世界もあるでしょう。それだけでなく、天上天下を統一できる、充満した愛の内容が宿っているはずです。

 それを占領するときには、誰よりもそれを一度に抱き締めて、父の胸に抱かれて入っていくことができるのです。その場は、「私が骨ならばあなたは肉だ」と骨と肉が一つになり得る、共感できる立場であり、喜悦の涙で一つになり得る立場ではないでしょうか。

◆宗教に再臨思想のある理由

 それでは、終わりの日を迎える私たち聖徒の立場は、どうあらねばならないでしょうか。「私はその人が慕わしい。その家庭が慕わしいし、その国が慕わしいし、その世界が慕わしい」と、こう言いながらすべてを忘れてしまって、「神様!
 来てください!」と言うことのできる人がいたとするならば、どうでしょうか。 もし来られる日には、「私はこのように精誠を尽くします。個人として地上でしたかったすべてのことを私がみなしてみたけれど、これに足りないようなので、それ以上いたします。一人の男性として一人の女性を迎えたならば、家庭はこういう家庭をつくり、国はこういう国をつくろうと思います。父であられる神様が願う、すなわち原因が願う世界をつくります。しかし、主体の念願どおり成されるものがなければ、そこに相対的な形態でも備えます」と準備できる心をもって、「あなたが探している息子はこうでしょう。あなたが探している家庭はこうでしょう。あなたが探している国はこうでしょう。あなたが探している世界はこうではありませんか」と言いながら、それを実現してさしあげて、「それを見て感動なさる父を迎えたい」と言う人が出てきたときに、神様がここに訪ねてきて、すべてを抱いて愛することのできる道ができるのではないでしょうか。このようにならなければならないのです。

 イエス様も、十字架上で滅びるしかないイスラエル民族とユダヤ教と連結された世界を見つめて「あなたが私を許してくださるなら、私が死んでも彼らを許してくださり、私を送ってくださるならば最初に来たイスラエルの国に再び送ってください」と、こう言ったのです。死んでいきながらも怨 讐のために福を祈ってあげたのです。「私を許してくださった神様、あなたの愛があるならば、私を通して彼らをも許してください」と、こういう進言の理念が今日、世界の救いの道が延長した動機になったのではありませんか。それを知らなければなりません。

 ですから、個人を代表できる人が必要であり、家庭を代表できる人が必要であり、民族を代表できる人が必要であり、国を代表できる人が必要であり、世界を代表できる人が必要なのです。人が十人いても駄目で、一人を通さなければならないのです。神様は、絶対的な神様であられるので、絶対的な神様が、絶対的な一人の個人を通して出発しなければならないのが原則ではありませんか。ところが、人間の世の中にはそのような人がいないために、「再び神様の愛する息子を送る」と言われたのです。

 それで、宗教に再臨思想があるのです。主が来て審判の公約を提示するのは、滅びるようにするためのものではありません。個人が家庭と共に称賛され、氏族と民族をかけて称賛され、国家と世界をかけて称賛され、天地に代わって称賛されて立ち上がれば、神様が反対する群れを打とうとする時に「私を許してくださるなら、彼らを許してください」と言える、ある国家を代表した天の側の、宗教を代表した天の側の、世界を代表した天の側の、個人を代表した天の側の証し人と、弁護する人がいてこそ、滅びるしかない個人がよみがえるはずであり、家庭がよみがえるはずであり、国がよみがえるはずであり、世界がよみがえるはずです。今日そのようなことのできる宗教があり、そのようにできる信仰をもった宗教人がいるでしょうか。いないというのです。いないので、滅びるのは当然だというのです。

 今日、神学で神を学ぶのですが、学んで知ることでは心情は分かりません。愛によって生きなければなりません。愛を通して体 恤的な生活をしなければならないのです。それで、神様が悲しまれるときに自分も悲しみを感じるのであり、神様が喜ぶときに我知らずうれしくなるのです。

 孝子は、どのようにするのが孝子なのでしょうか。千万里離れているとしても、父母の愛はいつもその孝子の傍らにあるのです。神様の遍在性において、神様はどこに存在されるのでしょうか。知識的な内容に存在されるのではありません。知識というもの、個性真理体というものは、それによって原因と動機が終わって、そのような形態、すなわち再び第二対象を、相手の世界で追求するものなのです。

 しかし、愛はそうではないのです。極と極を超えて遍在を妥当に、可能にするものは子供を愛する思慕の心、子供に向かった父母の心です。愛に通じるその道において、父母は遍在するのです。どこでも、いないところがないのです。それは愛のみが可能です。愛のみが、その息子を完全に支配することができるのです。そうではないですか。全能な権限は、そこに該当するのです。

 それゆえ神様を知り、知るだけでなく、神様と共に生きようというのです。神様が人間を教育して何をなさりたかったのでしょうか。教育して、頭だけ大きくしようというのではありません。伝えてもらい、教えてもらったなら、「行え」と言うのです。「共に生きろ」と言うのです。「生きながら喜ぼう」と言うのです。喜ぶために愛そうというのです。私たちは、このような立場に向かって進んでいるのです。

 そのようになれば、皆さんが神様の遍在性をどのように感じるでしょうか。空気を神様の息のように感じ、台風が吹いたら、それを神様の鼻息のように感じなさいというのです。流れる水があれば、それを、神様がこの世界のために受難の道を克服してきながら流された汗のように感じなさいというのです。

 太陽を見つめるときは、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していると知って、神様の愛を太陽から学べというのです。神様の心情を体 恤するにおいて、一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てておいたものが、自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように感じ、一人ぶつぶつつぶやくことのできる人がいたなら、その人は聖人に近いのです。

 幸福は、どこにありますか。愛にあるのです。「信仰と希望と愛、この三つは常にあるが、その中で一番は愛だ」と言いました。愛は、無限な遍在性をもっているのです。愛は、無限の存続性をもっているのです。無限の可能性をもっているのです。無限の生命力が、そこで設定されるのです。

 大きな希望をもって、大きな目的を達成するためには、時間的な距離が必要なのです。ところが、その過程を経ていき、その過程がより大きな次元における目的を達成できる日を追求するためには、時間に従っていき、より前進的な刺激を追求しなければならないのです。その刺激を、どこで受けるのでしょうか。知識からでしょうか。到底望めません。知識はそれを「そうだ」と結論を出せば、全部終わってしまうのです。

◆主体的な愛は中心を失って酔うことのできるもの

 皆さん、神様の愛を受けることのできる、宇宙を代表した息子を考えてみてください。御飯を食べても、一人でいても、神様が見えるでしょうか。見えません。それをどのように実感するのでしょうか。この宇宙の万物は、神様のすべての属性をもっています。神様を象徴的に描いておいたものです。キャンバスと同じです。それを眺めて、酔って喜ばなければなりません。

 自分が描いた作品を中心として、昼も夜も酔って眺めて、涙を流して感嘆する人がいたなら、それを描いた画家が、それを見て気分を悪くするでしょうか。「こいつ、なんで泣くのだ」と言うでしょうか。そのような人がいたなら連れてきて、茶の間に通して「なぜそうしているのか」と聞きながら、理由を話させるのではないでしょうか。「ああ、素晴らしい、ああ、慕わしい、ああ、一緒にいたい」と言ったといって、「気が狂っている」と言いますか。

 皆さんが神様を知らなくても、神様の万宇宙にいっぱい詰まっている遍在性が、知識的な主体としていらっしゃるよりも、愛として存在されるので、「私がどのように愛の同感圏を各分野で、民族を越えて世界を通して体恤できるのだろうか」という立場で、神様を再認識するのです。

 それで、神様の愛に立脚した立場に私が立っているという信念をもっていくとき、その愛は個人的な愛ではありません。主体的な愛です。その愛は、誰かに与えたあとで「やー、君にあげたよ」と、このように頭に記憶して、「これくらいあげたんだから……」と、こういう商売根性の愛ではありません。「私が百ぐらいあげたんだから君は私に百一ぐらいくれるべきだ」と、このように願って与えるのではありません。与えながら、恥ずかしがるのです。与えてから、恥ずかしく思わなければなりません。

 父母は、愛する息子にどんなに良い服を着せてあげても、「この地に数多くの王子、王女が生まれ死んでいったではないか。私の息子がその王子たちに劣ると言うのか。私の娘がその王女たちに劣ると言うのか」と、こう言いながら、それ以上愛したいという心をもつのです。したがって、そのような立場で着せてあげた服を考えるときに、世界のその誰よりも、世界のいかなる息子よりもより愛したい父母の心は、より良い服を着せてあげるために涙ににじんだ立場にあるために、そのような父母には、息子がどんなに入り込んでいっても終わりがないのです。

 それゆえ、そこに初めて、酔いしれる愛があるのです。終わりがあれば酔わないのです。一回回っても酔いません。何回も回るときに、中心を失って酔うのです。酔いしれる愛でなければならないのです。

 それゆえ、与えて忘れてしまうことのできる愛、すなわち与えて私が与えたと手帳に記録するのではなく、与えたあとで受けようという心でなく、与えてしまって相手が感謝するところにおいて、受けなくても受けたよりもっと良いという心をもたなければなりません。与える人も申し訳なくて、受ける人も申し訳なくなるときに、その愛だけは永遠に残るのです。「えーい、私の勝手だ」と言って、その次には「ない」と言うのではいけないのです。二人が授け受けてからも、その愛はなくならないようでなければなりません。こういう理想的な夫婦にならなければなりません。

 ところが、妻が夫を愛し、夫が妻を愛して、「ああ、あなたは私が愛するよりもっと愛してください」と言ったなら、それは壊れてしまう愛なのです。愛しても、「私はまだまだ足りません。私はまだ未熟です」と、このように愛したものが一つの基台になり、それが根本となってそこで穀類を刈り取ることのできる、資本の残る愛でなければなりません。そうしてこそ、理想的な家庭になり、国を見つけ出し、みな見つけ出せるのです。

 今は、どんな時でしょうか。終わりの日です。ところが、このパターンの個人、家庭、氏族、民族、国家が、歴史のいつの時代に代表して現れたことがあったでしょうか。ありませんでした。神様に離反した人間の前において、今まで人間歴史は何をしてきたのでしょうか。完全な男性一人を探してきたのですが、見つけることができなかったのです。

 宗教が出現して、何をしたのでしょうか。神様がパターンとして描いていた理想型である一人の男性を、再び探し出そうとしました。その標準に沿って、その標準と一体となる対象の実体を描いてみるために、数多くの宗教の教祖たちが努力しましたが、それはいまだに形成されていません。それゆえ再臨思想があるのです。男性一人を探し出すことができなかったのです。

◆神様の理想とするパターンを中心として真の男性と女性が対面しなければ……

 したがって、男性を探し出すことのできなかった圏内では、夫妻が成立しないのです。それで「独身生活をしろ」と言ったのです。真の個人がいないので、国が必要ないのです。真の国は、真の個人から始まるのです。家庭も必要ないのです。真の男性から、真の女性から始まるのです。まずなければならないのが、真の男性と真の女性ではありませんか。歴史時代に、いまだに真の男性と真の女性のパターンを探し出すことができなかったのです。

 イエス様は、有り難くも神様の愛を受ける「ひとり子」という名前をもって来ました。それゆえ神様の愛、純粋な伝統を受け継いで、そこに相反する内容をもった息子でなく、本質的な愛に和することのできる歴史時代の一人の男性的代表者であり、新郎として来るのです。そうして新婦を迎えることによって、初めて人間世界の前に、男性と女性が神様の理想とするパターンを中心として対面するのです。これが、キリスト教の願う再臨思想です。

 この家庭が現れる前には、どんなに世界に家庭があるとしても、神様の眼中にはないのです。パターンを探し出せというのです。そのような家庭での父母が息子を愛する道理が、今日の人倫道徳の原則になるのではないでしょうか。父母、夫婦、子女の因縁、神様の描く今日の統一教会でいう四位基台の原則に立脚した、理想的な本然の形態の基準をどのように決定するかというのです。

 世界を掛けて統一、平和を夢見るには、こういう基本問題が残っているので、これを解決せずして「統一世界」は訪れないのです。基本問題における、個人的な男性のパターンと女性のパターンを中心として、家庭的パターンを形成するところから、統一の世界は築かれるということを皆さんは知らなければなりません。

 そのような時が、いつでも来るのではありません。そのようなパターンを中心として考えてみるとき、イエス様はそういう個人的パターン、家庭的パターンを成し遂げることができる代表者として来られた方なのです。それでイエス様を中心として、「あなたが成し遂げたかった家庭を成し遂げてください」という理想的なパターンを成し遂げなければならなかったのです。しかし、それを成し遂げることができなかったでしょう? なぜそうなったのでしょうか。沃土がなかったからです。

 イエス様には、摂理に立脚したパターンがあったはずであり、そこから民族的パターンが出てきたはずであり、国家的パターンが出てきたはずであり、その国家を中心として世界的パターンが形成されたはずです。そうなっていたならば、この歴史時代にはそのパターン形態の規格に従って、新しい民族、新しい世界が形成されていたでしょう。それにもかかわらず、それを成し遂げられなかったゆえに、再度そういうパターンを成し遂げなければならないので、一人の男性に代わって再び世界を訪ねて来なければならないのです。この時が、終わりの日です。

 これが、歴史始まって以来、イエス様の時に成されなければならなかったのですが、再びこの時になって、個人と家庭と氏族と民族と国家と世界がそのパターンによって平面的な舞台でみな連結されるならば、個人から家庭、家庭から氏族、氏族から民族、民族から国家、国家から世界まで一度にそのパターンを通過して乗り越えることができるのです。この時が、終わりの日です。

◆終わりの日に勝利的な十字路を経てこそ理想世界が実現される

 そのため、今の時にはどのようにしなければならないのでしょうか。摂理上において、個人的十字路を通過して、家庭的十字路を通過しなければなりません。あるいは氏族的、民族的、国家的十字路を通過しなければなりません。また世界的十字路を通過しなければなりません。通過するのには皆さん自身をもってしては駄目なのです。駄目だというのです。パターンに従って、そこに一致する時にのみ可能なのです。これが一度に、個人を越えてしまえば、家庭が待ち、家庭を越えてしまえば、氏族が待って……。こういう時が来るので、悪なる世界の人倫道徳の形態をそのままにしておいてはいけないので、みな引き裂いておいたのです。国と国もばらばらになり、氏族と氏族の間で戦いが起こり、家庭と家庭の間で戦いが起こり、夫は妻を信じることができず、妻は夫を信じることができず、息子は父母を信じることができず、このようにすべて壊れてしまい、互いに相手の悪口を言う時が、終わりの日なのです。

 これは悪い兆しのようですが、ここに、ある良い対策さえあれば、新しく再編成できるのです。そのために神様が可能な舞台を形成したのが、今日の混乱した、終わりの日です。

 したがって、終わりの日になればなるほど混乱が起こるのです。息子は父母が分からなくなり、父母は息子が分からなくなり、夫は妻が分からなくなり、妻は夫が分からなくなり、弟子は師が分からなくなるのです。国と民がみな別々に分かれるのです。これは悪いことではありません。

 それで私たちは、個人的十字路を正しく乗り越えて、家庭的十字路、氏族的十字路、民族的十字路、国家的十字路、世界的十字路を通過しなければなりません。先ほど話したのと同じように、勝利的十字路を経て、一方が怨 讐の国ならば、それをつぶしてしまい、審判してしまうのでなく、神様に「私どもを哀れに思われるなら、彼らも許してください」と言わなければなりません。そうしてこそカインとアベルの戦いの歴史は、統一の基準が形成されることにより、初めて統一の帰一点に戻ることができるのです。カインとアベルが戦って血を流した歴史なので、血を流すことなしには戻れないのです。

 そのためには、そういう個人が必要であり、そういう家庭、そういう氏族、国、世界が必要です。そういう世界がないので、それを見つけ出そうというのが「統一思想」です。私たちは、個人の十字路に立っていますが、国家の十字路に立っており、国家の十字路に立っているだけでなく、世界の十字路に立っており、世界の十字路に立っているだけでなく、天地の霊界と肉界の十字路に立って、神様の愛を中心として代身的な、原因の前において原因が追求する結果的な実体を成し遂げるために、より全体の価値に代わることのできる中心の立場を決定するために、進んでいっている群れだということを皆さんは知らなければなりません。

 この道をたどっていったのちに、神様は皆さんの父になるのであり、世界が父のものなので世界もまた皆さんのものになるのであり、神様の家庭と神様の国は、皆さんの家庭と皆さんの国であるがゆえに、どんなにみすぼらしい皆さんであっても、万軍の主であり、万王の王であられるその方の息子、娘になるのです。そうなれば、天国に記憶される王女になることができるのであり、王子になることもできるのではないでしょうか。それが聖書で言う、「最初の復活」です。

 私たちは十字路を、どのように越えるのでしょうか。自分の妻を胸に抱いて自分だけを考えるのでなく、妻を胸に抱いたならば国を考えなければならないし、国を胸に抱いたならば世界を考えなければならないし、世界を胸に抱いたならば天地を考えなければなりません。これを段階的に、正常にとどまることのない行路を経ていくようになると、すべての怨讐が待っている十字路は消えてしまい、平坦な通りに入っていき、解放の自由化が形成されるようになり、天地に平和の王国、神様の願われる理想世界は実現されるでしょう。

 こういうことを皆さんが知って、そこに邁進し、その一路に沿って服従していくことが、私たちの行くべき道だということをはっきりと知らなければなりません。













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