文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


因縁の行路

一九七二年七月十六日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十九巻』


 人が世の中で生きていくにおいて、自分一人では生きていけないことを、私たちはよく知っています。「私」という自分自身を見れば、自分一人だけでは生きていけないのです。

◆因縁と運命の道

 私が一つの所に立つためには、前後左右の四方がなければならず、相互関係が連結する位置を備えなければなりません。そうなれば、「私」の位置が決定されるのです。また、その決定された位置で自分の方向を整えるようになれば、その人がいかなる人かということが区別されるのです。その人がいい人か、悪い人かということが、何により決定されるかといえば、その人が置かれている位置で、方向を見分けていくときに決定されるのです。

 このように見ると、私たち個人が、そういう立場に立っているのは偶然ではありません。そこには必ずある運命が連結しているために、そのような立場に立つしかないのです。

 上下関係について見れば、父母がいて、先には子孫がいなければならないのですが、これを歴史的に見れば、過去があり、現在があり、次に未来に通じるのです。これを自分を中心として見れば、左右と通じ、前後と通じるのです。このように私たち個人は、上下、前後、左右の関係により存続し、位置を決定して方向をとっていくのです。

 この関係というものは、ただ成されるのではありません。この関係が結ばれる前に、必ず因縁がなければならないのです。道を行く途中で思いがけなく一人の人に会ったことが因縁となり、その因縁によって一生になくてはならない、勝敗を決する重大な結果をもたらすことを感じたり、あるいは見たりすることもあります。

 すべてのことに、偶然ということはないのです。偶然のようですが、歴史時代を経てきた人生であるからには、その人生の背後には、私たちには分からなくても、そのような因縁が結ばれているということを知らなければなりません。その会った当事者同士は、一時代圏内にありますが、彼らが会う前の背後というものは、歴史性を帯びているのです。その歴史過程には個人が同参できるのであり、また家庭、氏族、民族、国家、全体が加担して入っていくのです。それだけでなく、一つの国を過ぎて、異邦、さらには全世界がその圏内に加担できるのです。

 人間を中心としてもたらされたこの世界だけではなく、天があれば天までもその背後に介在しているということが考えられるのです。したがって二人が会ったのは、瞬間的な、一時的な基準により成されたのではありません。

 一人の男性と一人の女性が夫婦になれば、その夫婦になったのが二十代ならば二十代、三十代ならば三十代の平面的な人生を過ごした人として会ったのではないのです。縦横、また前後、左右を中心とした膨大な因縁の運命の道が連結して、ある一つの時点で対面したのです。

 そう考えれば、結婚という問題は歴史的な事件だといえるのです。二人が生きていくことは、二人だけが生きていくのではなく、歴史的な人生を代わりに生きていくという結論が出てくるのです。もし神様がいて、そこに神様の因縁が加担されているとすれば、彼らは歴史的な夫婦であるばかりではなく、天倫を代弁できる夫婦として因縁が結ばれていると考えられます。

 ここには平面的に見れば、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を連結させることのできる因縁が連結されていて、縦的な面で見ると、天倫が加担されていると見ることができます。

◆人間の幸、不幸と因縁

 人が人生行路を経ていく過程で現れる生活感情やすべてのことは、その人の生活としてだけ終結されるのではありません。それは歴史的な原因を通して因縁を結んだものであり、その帰結点を願って彼らを引っ張っていくために及ぼされる結果というものは、その個人だけに限定されるものではありません。ゆえに、歴史的な内容が内包された生活をしていく、と私たちは見なければなりません。

 それゆえ、私一人が良くなっていては、喜べる立場にはなれないということを知らなければなりません。男性が一人で喜んでいては家庭が平和ではあり得ず、女性が一人で喜んでいては家庭が幸福ではあり得ないのです。また、その二人が幸せだといって、その家庭が幸福なのではありません。

 現在のこの時点というのは、因縁を通した関係によって成された結果であるがゆえに、その結果はより価値的な因縁を追求するためにあるのであり、その結果を通してより価値的な関係を立体的な面で発展させるためにあるのであり、彼らの幸福は、彼らだけのための幸福ではないのです。彼らの幸福は、過去の不幸を埋め合わせるための幸福にもなり得るのであり、過去に幸福な時があったとすれば、その基準を越えてより良くなれる立場に立つための幸福にもなり得るのです。

 世の中のすべての存在形態は、直線ではありません。それは、上下、高低、動く方向によって発展していくために、高かったものは低くなるのであり、低かったものは高まるのです。運命の道がこのようにすれ違って交差しながら発展していく歴史であることを私たちが知れば、皆さんの生活というものは毎日、毎日変わるのです。

 皆さんの気分も朝夕に変わります。「朝は気分が良かったが、夕方は何だか気分が悪い」、または「春は運が良かったが、夏は運が悪い」、または「昨年は運が良かったが、今年は運が悪い」、または「青年時代は運が良かったが、老年時代は運が悪い」と、このように行き違うすべてのことが、私たちが願ってそのような結果になったのかといえば、そうではありません。

 誰しも永遠の幸福を追求し、願わない人がどこにいるのかというけれども、幸福が続かない場合がたくさんあります。幸福になるのを切に願っているにもかかわらず、不幸が迫ってくるのはいかなる原因のためでしょうか。現実的な舞台が、ある因縁の拍子に合わせて展開されるためです。こういう事実を考えてみると、私たちは運命だけのせいにすることはできないということを知らなければなりません。

 また、因縁によって関係が設定されるのです。そして、その関係は必ず悪くなるか、良くなるかという結論になります。それゆえ、「私が喜び得る関係になるか、悲しくなる関係になるか。私が自慢できる関係になるか、私にとって恥ずかしい関係になるか」ということは、関係を通して必ず結果が現れるので、その関係というものは自分が主動になっているようですが、自分だけの主動で成されるのではありません。ここには必ず、歴史時代のある因縁が連結しているのです。

 始める時に主動的因縁があれば、過程にも主動的因縁が連結され、それがある時になって主動的結果として因縁が結ばれるのです。ですから、その結果が良いものとして現れるか、悪いものとして現れるかということは、自分の一代によって左右されるのではなく、先代から先祖が積んできた功績の因縁によって左右されます。

◆幸福と善の起源

 それなら、善とはどんなものでしょうか。善というものは、自分を中心とするところには成立されないのです。相手のためにするところで成立するのです。自分のためにするところに善があるのではなく、相手のためにするところに善があるのです。

 神様も一日一日天地万物を造り、その万物に対して「見るに良し、善であれ」と言われました。「見るに良し、善であれ」という、その善の出発はどこから始まったのでしょうか。私が一人でいるから善だという、そんな話はありません。相対的な被造物を造っておいて、その被造物を眺めて慈しむ心の姿勢、被造物を愛する心をもつ立場が善だという、歴史的伝統が立てられたのです。

 私たちが「良い人」と言う時、その良い人とはどんな人でしょうか。自分を中心として環境を消化するために動く人ではなく、自分が消化されて環境を動かした人です。そのような人が、善なる人に間違いありません。

 仏教を信じる人々は、積善と慈悲を話します。善を積みなさいということは、どんなことをいうのでしょうか。人のために功績を立てるときに、善が積まれていくのです。善が積まれて完全に成し遂げられるようになれば、その善は相手のものでもないのであり、主体のものでもない立場に立つようになるのです。家庭でも同じです。夫婦が完全に一つになって、夫婦一心を成せば、その夫婦は夫だけのためではないのであり、妻だけのためでもありません。夫婦一心が成されれば、その夫婦は公的なものです。既に夫婦が一つになったときは、それは公的なものです。

 公的ということは、どういうことなのでしょうか。ある環境が主体者と中心的な内容を結合させて、その主体が動くところに完全に歩調を合わせて一致を成せば、そこに善なる土台が起こるのです。甲と乙、二人が一つになるとき、甲という存在によって、あるいは乙という存在によって一つになれば、それは甲のものだけでもないのであり、乙のものだけでもありません。それは二人のものです。その善も二人だけのものではありません。それは全体を代表した、全体のものだというのです。

 幸福というのは、どこから出てくるのでしょうか。完全な幸福というものは、どこで設定されるのでしょうか。私一人だけ幸福になって、幸福が設定されるのではありません。二人とも幸福になるとき、幸福が設定されるのです。二人とも幸福であるとは、どういうことでしょうか。より高い次元の因縁を連結させることができなければならないのです。甲が東から来て、乙は西から来たとすれば、東西が連結するときに幸福が訪れてきて、完全な善が決定されるのです。

 そのように完全な善が決定されることによって、完全な幸福感を感じるようになるのです。なぜそうなのでしょうか。それは因縁についてくる過程において、関係を結んできた数多くの歴史的事件が初めて花を咲かせる時間であるからです。そのような因縁を通して見ると、それは因縁の復活であり、関係を通して見ると、一つの結実として登場する立場なのです。それゆえ、その場が幸福な立場であり、善なる立場です。

◆愛、幸福、慈悲が設定される立場

 では、慈悲とは何でしょうか。完全な善が成立して、誰々のものではなく、より大きいもののために与えることができ、より大きいもののために相対できる立場に立つようになるときに、慈悲の心が出発できるのです。そういう主体の心をもって愛するようになれば、より高い次元の境地が起こってきます。そこで初めて「慈悲深い主体」と言え、「慈悲深い対象だ」と言えるのです。

 自分を中心として横的に愛するからといって、「あ! 慈悲深い主体、慈悲深い対象」とは言えません。二人が一つになって、一つにならない環境を越えた立場で中心になって、一つになっていないところの模範になる公的な立場で公的な主体になって、より公的な基準についてくる人々のために愛の心が流れるようになるときに、慈悲の心が設定されることが分かります。愛もここで繰り広げられるのであり、より次元の高い幸福の要因もここで起こるのです。

 それゆえ皆さんは、より大きいものを中心として、一つにならなければなりません。なぜより大きいものを中心として一つにならなければならないのでしょうか。一つになることによって、そこで自分を越えた立場で、より慈悲深い愛の主体、より慈悲深い善なる主体、より慈悲深い愛の中心が芽生えるためです。愛の中心が大きくなることによって、本来の絶対的な慈悲の主人であり、愛の主体であり、善の主体であられる神様の前に近づき入っていけるがゆえに、私たちはより大きいものと一つにならなければならないのです。

 私たちがより有名な人、より立派な人と一つになろうとするのは、彼と私が一つになれば、彼のものでもなく、私のものでもない、一つの公的なものとして残るためです。この公的なものを主体が相手に再び与える境地で、慈悲と愛の基台が設定されるというのです。

 それゆえ、皆さんは自分一人で生まれたのではありません。一人で生まれた存在はいません。必ず二つの存在が一つになって、そこで「私」という愛を受けることのできる実体が生まれたことは言うまでもないことです。皆さんは、父母の愛を通じて一つになった血統的な基台を通して生まれたのです。より高い基台で生まれたがゆえに、その父母は私を愛さざるを得ないのです。

 お母さん、お父さんがお互いに愛し合わなくても、けんかをしても、私を愛さざるを得ないのはどうしてでしょうか。一つになった基準の上で、より次元の高い対象の存在として生まれたからです。それは、人間が必然的な希望の基準として追求していかなければならない対象であり、人間本然の行路なのです。

◆歴史的因縁と私

 善というのは、一人で成されるのではありません。必ず協同しなければなりません。より新しい革命を提示する歴史的な運動も、やはり同じです。ある思想があって、その思想を中心として、主体者と対象がお互いに一つになったとすれば、その思想は、主体者に属する主唱者の思想か、またはついてくる人の思想でしょうか。それは、ついてくる人の思想であると同時に、提唱した人、すなわち指導する人の思想なのです。

 その思想を中心として一つになれば、その一つになった思想は提唱した人のものだけでもなく、ついてくる人のものだけでもありません。それは、新しい主体の因縁をもって、歴史時代に新しい運動を提示できる善の母体になり、愛の母体になり、生命の起源になるということを、私たちは歴史時代を通して、私たちの生活環境を通して毎日のように感じたり、見たりしているのです。

 このように見ると、皆さん自身もそういう運命の道を見分けていかなければなりません。個人がそのようにするので、国も同じです。一つの国を見ると、その国も一つの国としてあるだけではいけません。一つの国が、主体的な立場で世界に影響を及ぼそうとすれば、世界は、その国家の理念と政策と一つにならなければならないのです。そのようにして一つになったその世界は、その一つの国でもないのであり、世界でもありません。それはより公的な、高い次元の新しいものとして登場して、歴史を新しい方向に率いていかなければならないのです。

 このような観点で考えてみると、「私」というのは、現在の私によって存在するようになったのではなく、必ず因縁を通して存在しているという事実を知らなければなりません。その因縁の道というのは、一方通行ではないのです。南なら南だけを通ってくるのではありません。数千、数万の先祖を経て、私が生まれたのです。

 その先祖の中には、南に向かっていった人もいたであろうし、北、東、西、あるいは上下に行った人もいたでしょう。千態万状の因縁をもった人々が、私という一つの生命体をつくるために歴史的な功を残していったというのです。彼らの中には上がったり、下りたりした先祖もいたであろうし、あるいは前に行く先祖がいる反面、後ろに後退した先祖もいたであろうし、様々な姿であったのではないでしょうか。

 そういう因縁の道を歩んできた人が、ある一つの出発の基点で前進しなければならないのにもかかわらず、前進できず後退するようになるときは、基準から後退しただけの道を蕩減せずには越えることができないのです。それで蕩減が起こるのです。先祖が引っ張ってきたにもかかわらず、自分の代に来てそれを後退させたら、歴史的な蕩減を受けなければならないのです。

 このような悲運の因縁を経てくる歴史圏内に生きている私たち人間であるがゆえに、人間一人の生涯路程には、千態万状なことが起こるのです。きょうは、こうしたら良かったのに、そのようにならないのです。あすは、あのようになることを願うのに、そのようにならないのです。あるいは、青春時代にはこうであることを願うのに、そのようにならないのです。思いどおりにならないのです。

 人の欲望は、いつも今より優れていることを追求するようになっています。今より優れていることを願い、前進することを願うのであって、後退しようとする人は一人もいないのです。ところが、現在生きている人間を見れば、前進しようとするのに、後退しなければならない状況が起こるのです。人間の欲望は前に行こうとするけれども、反対のその因縁を蕩減するためには、反対の道を行かなければならないのです。

 そのような環境で、反対に回っていくべきなのにもかかわらず、前に行こうとしては必ず打ちのめされるのです。病気になったり、あるいは不幸なことが起きるのは、そのような時を通じて、急激に変わる方向の差によって蕩減が起こるからです。それで、個人ならば個人が蕩減をするのであり、家庭ならば家庭が蕩減をするのであり、国家ならば国家が蕩減をするのです。

 皆さんには運命というものがあります。幼い時から運命があるのです。最近見ると、骨相学を研究する人が多いです。手相や人相を見て何がどうだと話をしますが、人というものは歴史的な産物です。耳一つだけ見ても、自分の耳がお母さんの耳に似なかったというのです。

 今の私は先代から連結した、すべての先祖の血と肉を受け継いだ一つの総合した実体としてつくられた存在であるがゆえに、先祖の万物像を代表した立場にあるのです。したがって、現在ある私の姿は、先祖から因縁を結んだその関係を抜け出せません。人は必ず、その反映の結果としての生涯を歩いていかなければならないのです。それゆえ、自動的に高い、低いが起こるのです。これは、自然の道理なのです。

 このような人生の道を歩いていく人間が、これをどのように免れるのでしょうか。これを越えることのできる方案はないのでしょうか。不幸な人には、この不幸の環境を克服して越えられる方案はないのでしょうか。

 あるならば、その方案とは何でしょうか。先祖がもった目的以上の目的をもちなさいというのです。問題はそれです。落ちて下りてきたならば、その落ちて下りてきたのを原状復帰しようとするなら、反対にそれ以上上がらなければならないのです。すなわち、先祖がもたらしたすべての生活方法を克服しなさいというのです。そのような運動をしなければならないのです。

◆因縁の革命をすべき私たち

 皆さんは数千万代の先祖をもちました。先祖の中に、善なる先祖が多かったのか、悪なる先祖が多かったのかといえば、善なる先祖が多かったという人は比較的に少ないでしょう。それはどうしてですか。一生を生きて臨終する瞬間になって、「私が一生の間善なることをたくさんしたのか、悪なることをたくさんしたのか」と回顧してみると、善なることよりも悪なることを多くしたという結論を誰もが下すということを見れば、私たちの先祖のすべてが善なる人になれなかったということが分かります。

 比較的に悪なる先祖が多かったということを考えてみると、私は、「善良であり得る新しい、革新的な運動を提示しなければならない」という心をもたなければならないのです。そうするには、これを克服して越えることのできる方案を模索せざるを得ないのです。

 それで、人間は因縁の革命をしなければならないのです。私がある因縁の結果生まれた存在として、その運命に、その環境にただついていっては、悲惨な立場で破綻する結果にしかなりません。それゆえ、これを革命しなければなりません。反対の道を行かなければならないのです。

 もし、神様がいらっしゃるならば、そういう歴史的な因縁に従って生きている人間を眺めて、「そこでお前が好きなように生きなさい!」と言って、人間を救うことができるでしょうか。絶対に救えません。それゆえ、神様がいらっしゃるならば、反対の行路を提示しなければなりません。それは避けられないことです。

 私たちの先祖は、どのように生きてきたのでしょうか。先祖は、自分を中心として自分の妻、自分の夫、自分の息子、娘、自分のお母さん、お父さんの自我完成、自我目的を成就させるために、自分の一族、自分の家庭を中心に生きたというのです。私の父母もそのように生き、祖父母、高祖父母もそのように生きてきました。

 それで、神様は自分の家庭のために生きては抜け出す道がないから、反対の道を提示するのです。「家庭のために生きるな!
 自分を中心として生きるな!」というのです。神様がいらっしゃるならば、この運動を提示するというのです。

 それゆえ、人類歴史の中で、善なる人は自分のために生きた人ではなく、他の人のために生きた人でした。他の人のために生きるということは、いかなるもののために生きる人間でしょうか。同じ時代に生まれた者として、村のために生きる人は、自分の家のために生きる人より優れている人です。町のために生きる人は、その村のために生きる人より優れた人です。市のために生きる人は、町のために生きる人より優れた人です。

 家庭が尊敬する人より、その村が信任する人にならなければなりません。村だけでなく町で、町だけでなく市で、市だけでなく県で、県だけでなく国で、国だけでなく世界で信任を受けなければなりません。欲望が行く道はそのようになっているのです。小さなことを追求するのではなく、大きいことを追求するのです。

◆「ため」に生きなさい

 このような歴史的な悪の結果としてもたらされた、その因縁の不純分子として生まれた私自身であることを発見したとすれば、もし神様がいらっしゃるなら神様はどんな作戦をなさるのでしょうか。これを維持させる作戦ではなく、破綻させる作戦をなさるのです。反対の道に、反対になる極の方向を経て生かす運動をせざるを得ないのです。このような結論が出てくるのです。

 それゆえ、宗教では反対の道を提示するのです。人間を中心として見れば、人間のために生きなさいというのではありません。神様と人は主体と対象の関係として、一つは南極であり、一つは北極と同じです。南極にいる人を見て、南極のために生きなさいと教えません。「北極のために生きなさい!
 北極を眺めて生きなさい」と教えざるを得ないのです。「あなたのために死のうとするのではなく、神様のために、北極のために死ね!」と、これが今までの宗教の教えなのです。事実、宗教がそのようになっているのを見ると、歴史的な摂理の背後に神様がいらっしゃることを認めざるを得ません。

 私たち人間は、何をしなければならないのでしょうか。神様は原因的な存在で、人間は結果的な存在ですから、原因的な存在のために生きなければならないのです。それで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言ったのです。逆になっているのです。

 それから、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言います。では、何の目的もなく死にますか。神様のために死のうとする人は生き、自分のために生きようとする人は死ぬというのです。それを知らなければなりません。

 そういう反対的教訓があるのを見ると、それは完全な宗教思想です。完全な宗教、完全な神様がいらっしゃるならば、その神様は罪悪になった因縁圏内に固着されている人間を解放させるために、一時に革命をしなければならないのです。それで、人間を信じないで、人間の思想を信じないで神様の思想を信じなさいというのです。これが、人間を救うための神様の最大の秘法ではないでしょうか。そのような結論が出てくるのです。

 完全な宗教とはいかなるものでしょうか。自我否定を教える宗教です。自我否定を自覚すると同時に、その次には何でしょうか。「他我」という言葉は変に聞こえるかもしれませんが、他我すなわち他人のために生きなさいというのです。その他人は、ただの他人ではありません。一つになる目的を中心とした他人です。相対的な私だというのです。神様が造られた天地万物は、造られた物としてだけあるのでなく、自らの性相を発展させたもう一つの我だというのです。

 それゆえ、自我は私を通して形成されるのではありません。そのようなことができるようになれば、私たちは完成した人です。ただ完成できるなら、私たちには希望があり得ません。自我完成は自我を通してなされるのではなく、他我を通して、別のものを通して成されるのです。

 聖書を見れば、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)と言ったではないですか。隣人を愛することは、他人を愛することではないのです。大きい環境を自分のように愛し、その愛したものが帰ってくるようになるときは、今の立場ではなく、より次元の高い、全体を包括した、全体が一つになった立場で、愛の主体格を備えることができるのです。

 そうなれば、それがより高い環境に向かって出発できる第二基台になるのです。その基台は第三基台、第四基台として、次元を高めて神様にまで上がるようになっています。それゆえ、人は高次的な希望をもつのです。

◆メシヤが愛をもってくる理由

 皆さんが世界的な人物になることは、易しいことですか。容易ではありません。「村で愛されて、称賛されるような人になったから、これぐらいならいい」と言うかもしれませんが、そこで終わってはならないのです。その環境を土台に、第二の出発をまたしなければなりません。その次は、範囲を広めて、町を通じ、市を通じ、県を通じ、国を通じ、世界を通じていかなければなりません。そうしてこそ初めて跳躍できます。

 地球が一つのミサイル基地のようになって、人工衛星の基地のようになって押し進めなければなりません。どんなに良い人工衛星を造ったとしても、押してくれる推進力がなくなれば、そのような基台がなくなれば崩れるのです。

 しっかりした基台、すなわちいかなる力で押しても、それを反対に押しのけることのできる基台があってこそ人工衛星を飛ばせるのと同じだというのです。宇宙的な跳躍を願って、神様に直行できる心情的ミサイルを発射するようになれば、それを迎える日には、天地はその愛の前に爆破されるのです。爆破されれば、こっぱみじんに砕けるのではなく、こっぱみじんに砕けたものが統一されるのではないかと、このように考えられるというのです。

 では、愛はどこから始まらなければならないのでしょうか。本来、愛の起源は神様です。神様を起源として、神様の息子、娘から始まるのです。そのほかには、人間本来の理想的な愛は出発できる道がありません。

 それが本来の因縁なのにもかかわらず、その因縁を無視し、あきらめてしまって出発したのが堕落です。その放棄した位置を克服するためには、放棄しなかった位置以上の位置を愛する運動をしなければならないのです。

 メシヤとはいかなる人でしょうか。神様を愛せる息子として出てくる人です。神様が、愛する息子を愛せなかったので、愛せない神様の息子を愛するための運動を連結させる方です。

 人間は、神様の息子、娘として愛されることができませんでした。神様の息子と愛の因縁をもてませんでした。神様の息子と愛の因縁をもってこそ神様のもとに戻れるので、人間を神様の愛の主体に戻すことが、メシヤが愛をもってくる目的であり、彼がすべき責任です。

 メシヤが男性として来れば、男性だけではいけないので、そのメシヤを愛せる人、メシヤが愛することのできる神様の娘がいなければなりません。これが、キリスト教でいう「新郎新婦」です。「終わりの日には新郎新婦が来る!」。これは結局、愛を愛らしくもてなかった人間に、愛らしい愛を探してあげようというのです。

 不倫なる愛によって、神様と離別したものが、本然の理想的な愛が立つことによって、原則的な愛の世界に入っていくために、その世界は幸福な世界であり、理想世界になるのです。それが宗教的に見ると、地上天国であり、天上天国になるのではないでしょうか。

◆誰よりも神様を愛せ

 その位置を探し求めようとするなら、復帰をしなければなりません。そうでしょう。独身の男女がお互いにとにかく好きで結婚したのですが、過去をじっと見てみると、愛するその人が他の人を愛したことがあるというのです。そうなれば、喜ぶ人がいますか。

 また、夫を黙って見ていて、浮気をしているようであれば、喜ぶ人がいますか。今まで良かったことがひっくり返るのです。すべて上が下になり、下が上になろうとするのです。堕落した人間もそうなので、神様も同じだというのです。

 神様が息子を迎えようとするとき、怨 讐の息子として生まれて怨讐の愛を受けながら、よだれをだらだら流しながら、「あー、とってもいい」と言って生きている息子のそんな姿を眺めている神様が、そういう息子を愛したいでしょうか。とんでもありません。そのような人は愛したくないのです。見るだけでもただ憎らしく、そのようにし得る人であるほど神様が見れば、神様の心はいかばかりでしょうか。

 こういう観点で聖書を見れば、「誰よりも私を愛せよ」というみ言は、人間において偉大な福音だというのです。未完成であり、絶望圏内の歴史的因縁を抜け出せない人生について見れば、そのような人間の前に「誰よりも私を愛せよ」と言ったのは、これは宇宙的な革命です。宇宙的な革命であると同時に、私たち人間の前に極めて素晴らしい福音です。

 より愛せば、どのようになるのでしょうか。愛せなくてそうなのであって、もっと愛せばどのようになるのでしょうか。運が開けるというのです。人間世界で想像できない高次的な愛の世界が、初めて門を開けるのではないでしょうか。愛の世界が顕現されるのではないでしょうか。

 新しい天地で活気を帯び、歓喜と喜びに満ちた姿で、天地を自分のもののように愛するために第一歩を踏み出す自分が、いかに幸福で、いかに素晴らしいでしょうか。

 それを見れば、神様もうらやましがります。「いいな、お前だけ行かずに私も連れていっておくれ!」と言われるのです。神様もそれを見て、威信上行くことはできなくても、心では待ち焦がれるのです。そんな時、「神様、行きましょう」と言わなければなりません。待ち焦がれてもいないのに、「行きましょう」と言ったとして、行くと思いますか。同じです。人間と同じです。

 それゆえ、イエス様はこの地に来て、「誰よりも自分を愛せよ」と言いました。「妻をより愛してもいけないのであり、父母を愛してもいけないのであり、息子、娘をより愛してもいけないのであり、誰よりも私を愛さずには私の弟子になれない」と言いました。これは革命的な話です。破綻させ、破壊しているような話ですが、建設と希望の交差がここで起こるのです。

◆新しい人生観、世界観、宇宙観の出発点

 ここで、皆さん自身について一度考えてみてください。私が天国に行けるか、行けないか、天国の民なのかどうか、天国の伝統を受け継げる血統になれるのか、なれないのか、一度考えてみましょう。良いものがあれば良いものは私のもの、悪いものはあなたのもの!
 それでは完成の世界、理想の世界が成し遂げられません。そういう観点で世界を眺めたイエス様は、「人生はこのように行かなければならない」と決定したというのです。簡単だというのです。反対に行かなければならないのです。世の中の人々が恨みを晴らそうとすることとは反対にしなければならないから、イエス様は、「怨讐を愛しなさい!」と言ったのです。そこで新しい正義と新しい文化の起源が起こって、新しい個人の人生観と新しい世界観と新しい宇宙観が起こったことは言うまでもないことです。

 皆さん、率直に話してみましょう。独身の男性がいて、友達と話をするとき、「君はまだ結婚していないけれど、将来どんなお嫁さんをもらうの?

 女学校を卒業した女性と結婚するの? 男女共学の学校を卒業した女性と結婚するの?」と聞くなら、今社会制度がこうだから、その男性は、「やー、おれは男女共学を卒業した女性は考えていない」と答えるのです。先生が保守的なので、そのように話すのかもしれませんが、それは保守的ではなく進取的だというのです。

 男女共学の学校を卒業した女子中学生、高校生、または大学生なら、「大学生の女性を妻に迎える」と言う人がいますか。本当に愛そうとするなら、誰一人も横目で見ない、他の考えをしない、そのような女性を相手に願うのです。「男女共学の大学を卒業した女性は、別の面に円熟していて生活するのが少し大変だ」と言います。自分の夫に接するとき、既に自分が大学に通った時のクラスの男子学生と比較するというのです。私より勉強できた誰々は顔がこうで、私も勉強ができたから、プロポーズした第一号、第二号、第三号、そのように比較して分析するというのです。「そのような学生をボイコットしたのに、こういう不肖者に会ってしまった」と言うのです。

 このように見れば、男性ならば処女を願い、女性ならば童貞を願うのです。このように考えるならば、神様がどれほどねたみ、嫉妬が多いか分かりますか。神様はねたむにも天下の大王であり、嫉妬するにも天下の大王です。「私だけ愛しなさい! その代わり私もあなたを死ぬほど愛する」と言うのです。それが悪いことでしょうか。ねたみも良く、嫉妬も良いのです。それゆえ、絶対的な愛で愛せるというのです。

 このように見ると、ねたみが悪いことですか。嫉妬が悪いことですか。愛するようになった立場で自分だけ愛せよとねたみ、嫉妬することが悪いことですか。それは防御的垣根です。誰もが侵犯できない絶対的な防御的垣根です。

◆新しい世界の文化形成の起源

 このように見ると、宗教の有り難いことは、「神様を絶対信じなさい」と言ったことです。これが革命の本位です。「絶対信じなさい! 愚痴を言うな」というのです。愚痴を言ってみたところで白紙一枚の差です。人間の間で何の罪が多くてどうだというけれど、神様の立場から平面的に見れば白紙一枚の差です。「秀でている」と言ったところで、しかり、「できそこない」と言ったところで、しかり、そんなものなのです。

 ですから、「絶対的に信じなさい」というのです。絶対的に信じれば、一時に突破口が生じて越えることのできる道ができます。絶対的な信仰は、運命の道を革新できるという結論が出てきます。また因縁も正すことができ、関係も改善できるのです。新しい時代へと発展させるためには、今まで歴史的に固着されたその関係を改善しなければならないのです。その場は新しい信仰から、信仰は新しい理念から、新しい理念は新しい思想から出発するのです。

 それで、その理念と思想を提唱した人物とは、今日私たちが言う「世界的な聖賢たち」ではないでしょうか。その聖賢たちが追求したこととは何でしょうか。その骨子の思想は、自分を中心にした思想ではありません。人間世界で見れば、彼らは弱者でした。自分の主張はなく、ひたすら天でした。

 因縁のいたずらは、皆さんの運命の前にもってきた悲しみと悲劇を展開させてきているのですが、それを克服するためには、どのようにしなければならないのでしょうか。反対の道を追求するしか道はありません。絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じて越えなければならないのです。

 ある川を飛び越える場合を考えてみましょう。幅跳びにおいて、自らの記録があります。自分の記録が四メートルないし五メートルくらいならば、四メートルくらいの道は簡単に越えることができますが、五メートルという限界線を飛び越えようとすれば、今までなかった悲壮な覚悟をもって、死を覚悟して跳び越えなければなりません。その道しかないのです。

 飛び越えなければならないのに、「飛び越えようか、やめようか! 私は自信がないけれども、足が越えてくれるだろう」と、このように思いますか。「私は自信ないけれども、足が越えてくれるだろう」と思って走る人がいるでしょうか。まず心が問題です。「良い峠である。これは問題ではない」と言って、深刻な心で、それを跳び越えても余りある信念をもって行動してこそ越えられる可能性があるのであって、越えることができるだろうか、できないだろうか、やめようかと思ってはいけません。それでは間違いなく、行く途中で落ちるのです。

 絶対的な信念をもたなければなりません。それは、冒険を追求していく開拓者の行脚の路程では避けられません。「信じる者にはできないことがない」と言いました。その権威が、どれほど素晴らしいですか。それが、神様が人間を求道するための最高の標語ではないでしょうか。「信じる者にはできないことがない!」。運命は、ここで行き違うということを知らなければなりません。

 激動する世界史的な現実を眺めるとき、現実のいかなる主義や思想もそれを克服して越えられると自負できる絶対的な信仰観と生活理念をもって出るようになるときは、その信仰観と生活理念を通じて改革が起こり、新しい世界の文化が形成され始めるでしょう。

 それゆえ、先生は「統一思想」を主張せざるを得ません。しかし、「統一思想」だけではいけません。それが理念化されなければならないのです。理念は、考える相応思想です。思想が理念化されなければならないのです。そして、理念は体系化されなければならないのです。一つから二つ、二つから三つに前進的な体系化が行われなければならないのです。

 思想は、理念を展開させなければならないのです。そうしてこそ、その理念は初めて生活法度になり、実践の場を形成するようになって、それが新しい文化を成すのです。その実践の場においては、理念が高次的であるから、行動も高次的な行動をしなければなりません。そのためには、自分が行くべき目的観に対する強力な考えが先んじなければなりません。構想する考え、それが先立たなくては駄目です。自信をもたなければならないのです。

◆神様が臨在される立場

 皆さんが何かをするとき、「自信があるか」と尋ねるでしょう。少しだけ他の新しいことをするにしても、「君、自信あるか」とこのように聞くでしょう。仕事をするまでは自信があるか、ないか分からないのに、「自信があるか」と聞くのは、私の心が決まり、それ以上越せるかということです。その話はどういうことかといえば、現在当面した問題を克服できる心の方向が整っているかという意味です。そういう心が備わっていれば、心が行くままに体が行くために、変わらず行くようになっているのです。

 イエス様の奇跡のようなものも、同じです。病人のために祈祷するときも、そうです。三つの心に通じなければなりません。神様の心に通じなければならず、私の心に通じなければならず、物の心に通じなければなりません。病気になった人を見れば、体がやつれたのを見て、自分が痛みを感じ、この病人を神様が見れば、どれほど息が詰まるでしょうか。こうして、父母の心情で哀れに痛ましく思いながら、病人という思いではなく彼をつかめば、一遍に病気が良くなるというのです。

 彼を病人と思うより、失った息子、娘、あるいは十年、千年の間探した息子、娘に会ったような愛の心がここに覆われて、その環境を越えることのできる心情の因縁が起これば、すぐに病気が良くなるというのです。奇跡は、特に変わったことではありません。それを同化させることのできる立場、「彼は私であり、私は彼である」という立場、創造原理どおりに二つが一つになるところには、神様が臨在されるのです。神様が臨在されれば、再創造の運動が起こるのです。私の願いがどんなに大きくても、再創造の能力が加えられてこそ、新しい結果が成されるのです。原理が、そのようになっています。

 皆さんもそうなのです。自分の夫は、世に二人とない夫だというのです。その人が未婚の男性として、自分と結婚して一生の間自分だけのために、男性として世界に二人とない、真に尊敬に値する男性です。ところが、自分が過去に失敗があったとすれば、いつも罪責感から抜け出せないのです。それを話さず隠して暮らしたとしても、一生の間罪責感を受けるのです。夫が良くしてくれれば良くしてくれるほど、罪責感を感じるのです。「私は足りない」と、このように思わざるを得ないのです。心がそうなのです。心は偽ることはできないのです。ですから、純粋なその方の前には、純粋な女性にならなければならないのが原則ではないでしょうか。

 こういう観点から、純粋な神様の前に私がどれほど純粋でなかったかという問題を中心として見ると、次元の高い立場で新しい心の本性、心の畑をどのように開発しなければならないかという問題を考えざるを得ないのです。神様はこういう方ですが、私たちは堕落の子孫です。これは背信です。皆さんの先祖が、今まで神様をどれほど背信しましたか。

◆神様が尋ねる愛

 こういう自分を発見するときは、涙で悔い改めなければなりません。涙のない人は、伝統的な信仰の道を行く人ではありません。涙を流すなら、どれほど流さなければならないでしょうか。自分の過去を考えるとき、恥ずかしい自分を回想するときは、恥ずかしくて悔い改めの涙を、そういう自分がこういう恩賜の立場にあることを考えるときには、おそれ多くて感謝の涙を、私の生活の中で誇れるがものがなければ、恥ずかしさとかしこまりの涙を、このような涙を流すしかないのです。

 私は、まだ喜びの涙を流せないのです。その方の前に何かをしてあげて、その方が喜ぶようになるとき、「きょうは私だけうれしいのでなく、あなたもうれしい!」と言って、彼が手を挙げて踊りながら私に「踊ろう」と引っ張り出すとき、その時に初めて喜びの姿でももてるのが人間ではないのでしょうか。

 ですから皆さんは、三大涙を流さなければならないのです。まず最初は、悲しみの涙、その次は、かしこまりの涙、その次は、自らの過去を考えたとき、許され得ない私自身が天の前に許しを受けるための、悔い改めの涙を流さなければなりません。許されない立場にある、このような者を愛すしかない神様に対するときは、おそれ多いのです。「どのようにして、あなたが私のような人を愛さざるを得ないのですか!」と、かしこまりの涙を流さなければならないのです。そうなる時までは、神様が中心となって、私のために主体的な役割をしたのではないでしょうか。

 私が喜べるためには、神様が要求することを私が代わりに返してあげて彼が喜ぶ立場に立って、その次に彼が私をリードして立てて喜ぶ、その場で喜ばなければならないのです。それが今日、堕落した人間として、神様に対する心情の道を開発する正常な路程ではないでしょうか。

 神様の前では、みな子供にならなければならないのです。子供を見ればそうでしょう。こんなにお母さんを困らせてもです。お母さんが自分のために死ぬ立場になってひどい傷を負ったのにもかかわらず、その息子はお母さんの前でえんえん泣くのです。えんえん泣くのに、「私の腕を見なさい、こんなになった腕を見てどうして泣くの!」とお母さんがそう言いますか。

 きのう、そのお母さんは自分の息子、娘のために傷を負ったとしても、物心つかない子供が泣けば、その折れた腕であっても、またその子供のために与えようとします。それはなぜですか。何も知らない世間知らずですから、そうするよりほかないのです。そのような意味から、聖書に「幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ一八・三)とあるのです。そこにはもちろん、子供のように物心がつかず純真でなければなりませんが、父母の心がいつも子供から離れないように、いつも神様の気をひくことができ、神様の慈悲の心と同情の心が離れない人になってこそ天国に行く、ということについて言ったのです。

 そうしようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。物心つかない子供のように神様の愛を恋しがって神様を一番好きになれる立場に立たなければなりません。そうすれば許されるのです。世の中がどうであっても、神様だけ好きにならなければならないのです。子供は、お母さんのほかに他の人を知っていますか。どんなに醜くても、お母さんのところに行くようになっています。お母さんしか知りません。一つしか知らないのです。

 そのような意味から、「子供のようであればできる」という、この比喩の言葉は妥当だと見なければなりません。無知で何も知らない子供ではないのです。一筋、ただお母さんしか知らないそういう愛、愛の道において、神様はそのような純潔な愛を尋ねてこられるのです。横を見て、他の人に対して関心をもつこと、そのようなことは神様と関係ありません。聖書の骨髄思想は、こういう因縁を説明するためのものであることを知らなければなりません。

◆運命と運勢

 このような観点から、皆さんの顔がどんなに醜くても、心配するなというのです。生まれつきのその顔で何十倍、より強力な真心を込めて神様を絶対的に信じるようになれば、その人の運命の道が変わるというのです。

 そうして、自分の先祖以上になり、水平線から落ちて降りてきたものを踏んで上がらなければなりません。それまではサタンが反対します。その道をたどっていけば、悪なるサタンが無慈悲に襲いかかり、強く打ってくるのです。

 悪の主体なるサタンは、歴史上のすべての先祖を悪なる道に落としたがゆえに、何の功労もなくそれを抜け出そうと神様を信じて進む人においては、サタンが、歴史的な先祖を打って捕まえた方法でずっと打つというのです。しかし、先祖がサタンの前に経ていったそのような信念ではなく、それ以上の高次的な信念をもって、ある過程を経ていけば、上がるようになるのです。上がっていって越すようになれば、その次からは開き始めるのです。

 統一教会員を見れば、そのような面があります。ある人は、伝道に行けば、他の人には何もないけれど、行くや否や、人がただ御飯をもってきてくれて、ついて回るというのです。人がぞろぞろついて回ります。その人を見れば、小学校しか出ていなくて、人柄を見ても大したものではありません。けれども、その人が涙を流せば、その近所が涙を流して、その人が明け方に起きれば、全体が明け方に起きるのです。

 それは、世の中で力を出せず犠牲になった多くの先祖の、天の恵みを受けられ得る因縁によって、その時に生まれて、その線を越えることのできる立場に立ったためです。天の運勢、天の昼の運勢を迎え得る立場に立ったためです。それゆえその人は、どこに行こうが被害がないのです。

 しかし、その反対の人がいます。顔もいいのですが、しかし、どこに配置をしてもひどく苦労します。それは昔、先祖が豊かに暮らしたからです。それが蕩減の道に入ってからは、逆に立たなければならない立場になるのです。それを抜け出して上がるには、時間が必要だというのです。

 それゆえ、その期間には必ず邪悪な気運があり、困難があるのです。それを克服できない人は、それ以上絶対上がれません。運命の因縁を越えて、勝利の位置に上がれないのです。それゆえ歴史も公平で、人類の運命の道も公平だと見るのです。

 このように見ると、このようなサインカーブというのは、一個人がそうであり、一家庭がそうです。また、一つの氏族がそうであり、一つの民族もそうです。そのカーブが大きいだけであって、民族もそうだというのです。世界を見れば、世界もそうだというのです。一つが下りていく運勢なら、一つは上がる運勢なのです。サインカーブ、これが審判台です。

◆世界主義時代の到来

 知恵深い人とは、どんな人でしょうか。どうであったとしても、拍子を合わせられる人です。宗教は、そのようにしてきたのです。数千年の運を迎えよう! 数千年苦労してきたが、一時に訪ねてくる数千年の運を迎えようというのです。ここから出発して、この期間に千年の運勢を迎えようというのです。

 それで個人の生活を革命し、家庭生活を革命し、親戚や氏族の生活を革命しなければならないのです。宗教人がその国の民として、民族として生まれて背信者の道を行き、山中で修道をしたのは何のためでしょうか。他の見方をすれば、人間としては落伍者のような立場に立ったのですが、それはどういうことでしょうか。一つの国の国運を競っていくのではなく、世界の運勢に波長を合わせるためのものです。そのような群れが宗教人です。

 それで、キリスト教では、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ二四・一三)と言いました。その終わりの日とはいつでしょうか。下り坂を行く悲運の歴史が、このように谷間の悲惨な運勢が、新しい解放圏の歴史として繰り広げられて上昇できる、内外が交差する瞬間が歴史時代に訪れることを、宗教は言い続けてきました。その時が、終わりの日です。

 そういう時代において、新しい運勢に乗り、千年王国を地上天国に向けていかなければなりません。そうして勝利の日を迎えるようになるとき、そこにおいて幸福になるのです。ここでどんなに幸福になったところで、そこに到達できません。ここは、すべて地獄です。

 では、皆さんは個人の運命を尊重しますか。個人の運命を打開するために生きず、国家の運命を越えなければなりません。そうすれば歴史は、世界的な思想の時代に登場するのです。神様がいらっしゃる限り、世界主義時代が来るというのです。神様は世界の終着点に向かっていくのに、ただ行くのではなく、教えて、そして行きます。世界的な終末、世界的な思想時代が到来するのです。

 その思想時代には、何をもって連結させなければならないでしょうか。人情ではなく、天情を結合できる思想でなければなりません。その思想の中に天情を結合できるのです。人情に通じることのできる思想もあるでしょうが、天情に通じることのできる思想、人情と天情を結合できる統一的な思想でなければならないのです。神様が降りてくれば天情をもって降りてきて、人間が上がるならば人情をもって上がるために、人情と天情が一点に合わさり得る合一点が必ずあるのですが、それがどこかといえば、人間が願う最大の希望の場、対面の場ではないでしょうか。

 その場が人でいえば、真の男性が真の女性に会う場であり、真の地が真の天に会う場であり、真の人情が真の天情と結合できる場ではないのでしょうか。人情でもあり天情であり、天情でもあり人情、人情と天情が合わさって人情でもなく天情でもないものになり、新しい幸福と理想的なすべてが和解して、そういう幸福の出発がこの地に起これば、それが地上天国であり、世界万民が希望する自由世界、自由の園ではないでしょうか。このように言うことができるのです。

 では、賢い人とはどんな人でしょうか。千年を恋しがって生き、万年を恋しがって生きる人です。万年を迎えるために生きる人です。皆さんは一日努力して、一日成功することを望みますか。一日努力して、それをすべてなくし、また一日努力してすべてなくす人になりますか。一日苦労し、二日苦労し、三日苦労し、十年苦労するけれども、それ以上になる二十年の幸福があればどうしますか。そうしたら、「二十年の幸福のために、十年苦労をしなければならないでしょう!」と言うのです。私たちが一生の間苦労すれば永生するように、幸福になり得る道を、神様が保障してくださいます。ですから、皆さん個人から勝利しなければなりません。

◆先生の思想は天宙主義

 今日、先生の思想は天宙主義です。「天宙主義」という言葉はおもしろいのです。「天宙」とは何でしょうか。家です。天宙主義は、「神様の家の主義」です。家がなぜ良いのでしょうか。家のない人は、かわいそうな人です。家をもっていない人は、故郷がない人です。そうでしょう。家は私が生まれた所であり、私が育った所であり、私が生きる所であり、私が死ぬ所です。

 人生の開始から、豊かに暮らそうが暮らすまいが、すべての因縁をここですべて解き、すべて展示して、のちには荷物をまとめてその家に行くのです。生まれる時にも、その家で泣いて生まれ、逝く時にも、泣いて逝こうが笑って逝こうが、その家から逝かなければならないのです。すべての開始と終わりを最終的に終結できる所が家です。そうでしょう。ですから、家が良いのです。

 今までその家は、どのようになっていたでしょうか。神様を除いた家になっていました。主人を除いた家になっていました。ですから、堕落した世界だというのです。神様を中心にした家ではなく、個人を中心とした家になっていました。

 皆さんは、これから天宙主義を描いていかなければなりません。天宙主義は家主義です。神様の家主義です。神様の家主義なので、その家の生活は神主義の暮らしです。神様は世界の王であり、世界のための暮らしを主導していく主体であるがゆえに、そういう暮らしをしなければなりません。それゆえ、皆さんは自分のために生きてはなりません。自分の夫や自分の妻だけのために生きてはなりません。そのようになっていません。昔とは違うのです。したがって、私たちは家庭を中心として世界へ行くのです。

 堕落は、家庭で始まったのです。家庭で神様に侍ることができなかったので、家庭でまず成し遂げなければなりません。それが復帰です。悲運の歴史を経て落ちて下りてきたので、上がらなければならないのに、世の中と組んでは駄目です。神様だけを考えなければなりません。神様だけ考えずには、上がる道がないのです。

 今日、堕落の悲運圏内に生きている「私」という存在は、原因によってもたらされた結果的な存在であるがゆえに、その結果を抜け出すためには、個人が個人のために生きるのではなく、より大きいもののために生きなければなりません。生きた基準によって善の実績基盤を築くことができれば、その善は自分のものではなく、全体のものにならなければなりません。愛を中心として男性と女性が一つになれば、その家庭の愛というものは男性のものでもなく、女性のものでもないのです。

 それゆえ、ただそのまま戻れません。絶対的な信仰と、絶対的な信念をもった者だけが戻れるために、この道を経ていかずには因縁と人情の道を、因縁と関係している今までの自分の過去の歴史を清算できません。こういう観点から、皆さんは革命家にならなければなりません。皆さんは皆さんの一代において、世界史的な革命を提示すべき偉大な革命家であり、世界を正すことのできる偉大な先鋒者になることを自覚しなければなりません。

 そういう信念が先んじなければなりません。その信念のために立ち居振る舞い、その信念を通して一方通行するようになるときには、それは必ず終わりが来るのです。その果てには大海があるのです。支流として、人が見るには北に流れると思っていたのに、方向転換して一曲がりして流れるようになるときは、南へ流れていたときより先んじることのできる道もあるのです。

◆天国の民になる道

 皆さんはこれから、「君は本当に国を愛したか! 教会を愛したか! 神様を愛したか! 師を愛したか! 神様の家庭を愛したか!」ということを再度批判しなければならないのです。

 天が因縁づけてくれたこの因縁を、この地上に立った自分の家庭の因縁を通して、氏族、民族、国家、世界を経て、永遠の福地である天国の基台を成し遂げることを願って大切に結んであげたその因縁をばらばらに崩れるようにして、自分勝手に分岐ごとに分かれたそのような因縁を抱いて、今日の幸福を夢見る人は滅びるのです。こういう悲愴な時が来ました。

 堕落の悲運の行路をけって、復帰の勝利の因縁を再び回復して、神様だけを中心として神様を愛することに狂い、神様の人を愛することに狂い、神様の氏族を率いることに狂い、神様の民を抱いて指導するのに狂うことのできる皆さんにならなければなりません。

 そのような心をもって生まれて、そのような心をもって生き、そのような心をもって死ぬ人は天国の民になるのであり、天国の家庭の食口になるであろうし、神様の息子、娘になることは間違いないことを知って、こういう目的をもって国を挙げて出動しなければならないことを皆さんが記憶してくれることを願いながら語りました。
















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