文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


三時代のための責任

一九七三年八月一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第六十八巻』


 きょう皆さんにお話しする題目は「三時代のための責任」です。

◆現在の基点

 私たちが一日一日を生活するとき、あるいはこの瞬間について見ても、それは現在にだけつながっているのではありません。「現在」という時、現在を切ってみれば、必ず過去が現在の先端までつながっていることが分かります。

 今私が話しているこの瞬間、ここには必ず過去がつながっているのです。またこの瞬間には、今私が考えている未来がつながっているのです。

 このように考えれば、真の現在の基点はどこでしょうか。この時私たちは、一つの線で表示できるものと、線で表示できない、観念的な境地までの現在を考えざるを得ないのです。このような現在、ないといえばなく、あるといえばあるような現在の一点、現在の一つの線が、今日私たちの日常生活の方向を左右しているということは、恐ろしくも驚くべき事実であらざるを得ないのです。

 一日について見れば、そこにはきのうがあり、あすがあるのです。一カ月を中心として見れば、先月があって来月が来るのです。一年を中心として見れば、昨年があって来年が来るのです。青年時代について見れば、少年時代があって未来の壮年時代があるのです。このように現時代を中心としてみれば、過去の時代があると同時に、未来の時代が連結するという事実を私たちは否定できないのです。

 今日というこの日、現在の位置というのは、過ぎ去る過程にあるとも見ることができると同時に、今後考えもしない未来を迎える瞬間点にあるとも考えることができるのです。過去と現在と未来というものは、一点で動いているというのです。したがって、その現在は、過去を否定する現在であり得ず、未来を否定する現在であり得ないのです。

◆現在に輝く価値の基準

 では、現在に輝く価値の基準はどのようなものでしようか。輝く過去を受け継いだ位置であり、輝く未来を開くことができる位置でその方向を正しく指示できる位置なのです。そのような位置になることができずに、輝く現在の位置を占めることができないのです。私たちが息を吸うのを見ても、息を吸うこと自体が、既に過去を懐かしがり、未来を訪ねているという事実を私たちは考えることができるのです。

 このように見ると、一生もそういう運命の路程を、現在の先端に連結して残されたものであり、歴史もそういう一生を合わせた因縁を連結させて、現在とか未来、あるいは過去とか現実、現世界、現世代ということを築いていくのです。

 その中で歴史的な一時、ある瞬間、歴史を代表する時が、過去のある時になったり、現在の時になることもあるはずなのです。また、未来のどんな時にもなれるのです。したがって、過去は過去のまま、現在は現在のまま、未来は未来のまま、それが切断されて自分勝手に動いたのでは、一つの目的の方向を正しくえり分けていくことができないのです。

 私が行列の中に一員として立って、列を合わせるようになれば、必ず前を合わせて、後ろを合わせることができるような姿勢を取らなければならないのです。あるいは「右へならえ」と言えば、必ず左右関係を見て、右側や左側の方向を合わせずには、標準とする直線の一列を描き出せないのです。

 それと同様に、歴史は、ある人が他のある人のパターンを受け継いでも、それが自分勝手な方向を取ってはならないのです。本来の人間が願う目的、またはこの天地を創造なさった創造主がいるならば、その創造主が願う目的と、私たちが一生を通じて願う目的と、私たちの子孫が願う目的が自分勝手に動いてはならないのです。

◆現在は三時代を連結することができる中心点

 ですから現在は、厳粛な立場で過去を受け継がなければなりません。自分勝手に右側に偏ってはならず、左側に偏ってもならないのです。左右と前後関係、さらには上下関係をえり分けながら過去を受け継ぐことのできる厳粛な位置での現在は容認されますが、これらすべてのものを否定して、これを重要視しない立場で過去を受け継ぐならば、その現在は重要な価値の位置を占めることができないのです。

 現在だけでなく未来に対してもそうです。現在をより輝かせることができる未来と連結する現在の位置を設定しなくては、私たちの希望とか願いとか、より輝くあすを迎えることができないということは言うまでもないのです。

 こういう観点で、現在の位置が貴重だということを私たちは知らなければなりません。それで先生は現在の位置で「私」ということを考える時はいつも、「私」一人を考えることを認めないのです。

 「私」というようになれば、そこには必ず過去があり、現在があり、未来がつながっているのです。それだけでなく、左右があり上下があるのです。前後、左右、上下関係で連結しなければならないというのです。その前後、左右、上下が自分勝手でなく、東西南北ならば東西南北、高低ならば高低において、同じ天宙の方位と平行線に置くことができ、いつも一致することのできる位置を取っていかなければならないというのです。

 上と下を連結させるためには、きょうの「私」が中心になるのです。「私」というのが勝手に立ったといって、「過去の上に合わせてくれ。下に合わせてくれ」と、そのようになっていません。「私」というのは、あくまでも上と下の中間位置にあるので、これがそれれば全部それるというのです。そのような上下関係を調整することのできる、一つの基点がどういうものかといえば、それが現実なのです。また、左右を中心として見ると、左右を調整することのできる中心点も、結局は現在なのです。前後を見てもやはり同様なのです。

 こういう立場で見ると、今日私たちの現在の立場というのは、三時代を連結することのできる一つの中心点であり、三段階を連結することのできる一つの中心点なのです。過去と現在が一致しないところでは、統一を成すことができないのです。

 神様にも目的があり、誰にでも必ず目的があります。ところが、その目的が現在でなく未来のことであるほど、方向性が明確でなければならないのです。その目的が大きければ大きいほど、一年ほどで達成するものではなく、人間の一生の間で達成するものでもありません。数世紀、あるいは数千年歴史を通じてその方向を合わせて、数多くの世代、数多くの人間像をたどってこそ達成されるのです。

 歴史性について考えてみれば、今日私たちの一生というのは極めて短いのです。永遠な歴史路程について見ると、私たちの一生というのは一点にすぎないのです。したがって、ある方向があればその方向に向かって、私たちはいつも一致しなければならないのです。

 もし神様が一つの方向を設定したならば、神様はいつもその方向に向かっていこうとするはずなのです。神様が主導する民族がいれば、その民族もその方向に向かっていくのです。民族の歴史もこの方向を通じて編まれて、その方向を通じて残そうとすることは間違いない事実なのです。

 このような摂理的歴史の方向を私たちが考えると、現在に連結されたところをたどって未来があり、現在が連結されるその場に過去が連結するというのです。ですから、今日の私たちは現在の摂理上に置かれている個人であっても、その個人は個人から始まったのではないと言うことができます。その個人は個人だけではないというのです。その個人は、あくまでも明確な一つの起源から、ある線を描いてきたというのです。その過程で、個人になったその一点というものは、重要な位置だということを皆さんが知らなければならないのです。

◆歴史的運命の一瞬

 一瞬に、その方向が連結するか、しないかということが、自らの生涯路程にひっくり返っているという事実、入れ違っているという事実を、私たちはここで考えずにはいられないのです。

 では、それがどのようにして分かれていくのでしょうか。その方向がどのようにそれていくのでしょうか。一瞬の考えによって方向が変わり、また、ある人に対する対人関係によって一瞬にその方向が変更することもあるのです。

 ある瞬間に一言言うことによって、方向が逆になることもあり、ある瞬間にぶつかった一つの問題によって、方向が変更することもあります。また、感じること、私たちの五官で感じるすべての感情を通じて、その方向の先端が鋭敏に行ったり来たりしているという事実を、皆さんは考えなければならないのです。

 私が今東方に向けて立ったのですが、本当に東方に向けて立ったかというと、東方に向けて立ったとはいうが、本当に東方に立っていると言えないのです。それを知らないのです。東方を中心として、東西南北の線を描いた、その線の中心に向かって立ったとは言えないというのです。「東の方に立った。東側に立った」このように話すことはできますが、私は東の方向に完全に一致した位置にいるので、「私を見習え」と言える立場に立ったかどうかは分からないのです。

 けれども、歴史的方向が必ず目的に向かっていくならば、その歴史が流れる方向に一番近い道というのは一つしかないのです。それを、私たち人間は知りませんが、絶対者がいらっしゃるならば、その方はその一つの方向を知って、正確にその方向に合わせ、前後左右の度数を合わせてそちらに前進させることは間違いないのです。

 皆さんが何か計器のようなもの、電気メーターのようなものを見ると、それを正確にゼロに合わせるように調節し、それを中心に計数的な数を増加して何かを計るでしょう? 左に何度になったのか、右に何度になったのか、上下関係がどのようになったのかということを測定するのと同様に、私たちの人生行路もそのような運命に立っているのではないかというと、これは言うまでもないのです。

 そういう立場に立った私、そういう立場に立ったきょう、そういう立場に立ったこの瞬間というものは真に深刻なのです。歴史的興亡の運命の道に差し掛かることも、きょうそうなったのではありません。きょうの中で、ある一点でそうなるのです。その一点はきょうのある時間でもなく、ある分でもなく、ある秒なのです。瞬間なのです。カチカチというその瞬間に、歴史的方向が行ったり来たりするというのです。

 皆さんの体が病気になったとすれば、病気が一度に突然現れるのではありません。ある時に、一点から影響が及び、マイナス方向に、あるいは左の方向に、あるいは下の方に出発したその瞬間が、病気のかかり始めです。そこから、その点を加えるようになり、その環境を加えるようになれば、それはだんだん下りていくようになり、それを再び押し上げようとすれば、人間がすべての生命を傾けて努力しなければならないのです。このような病気を私たちは考えざるを得ないのです。

 こういう観点で見ると、私たちの人生は何のために生まれたのでしょうか。私が生まれたのは何のために生まれたのですか。「私が生きるために生まれた」と、そのように考えればそれはあまりにも単純なのです。私が生きるのに、何をして生きていくのですか。ただ御飯でも食べて息子、娘を生んで、ただ日常的、習慣的な行路をたどっていくならば、それは今まで現れては去っていった人間たちと同じ回転運動を残すにすぎないというのです。

 そのような人間は歴史時代に、一点を切っておいた存在、すなわち砂煙のように虚空に飛び交って、いかなる関係とも因縁を結べない存在であることに間違いないというのです。どんなに優秀だといっても、彼は孤独な者であり、全体の連合体になっている組織社会には、不必要な存在ではありませんか。彼を何に使うのですか。もし自分勝手に自分が必要だと考えてどこかにくっついても、それによって方向が傾くこともあり、それによって障害にもなり、それによって妨害にもなるのではないでしょうか。そういう私になってはならないのです。

◆歴史的総合実体としての私の責任

 「私」という存在は、ある体制内の関連的な生命圏をもって生まれ、数百、数千代の先祖たちのすべての生命の要因を関係づけ、関連づけて生まれたがゆえに、その多くの生命のあらゆる方向を代表できる現在の位置に立たなければならないのです。自分の先祖がたどってきた、過去全体の方向を総合した実体にならなければならないのです。

 歴史的な先祖を代表した先鋒に立った「私」が、うまくすれば歴史的な善なる先祖の方向を延長させることもできるのです。しかし、誤るようになれば、どんなに良い先祖がいるといっても、彼らが歩んだ道を、洗いざらいへし折ってしまうことになり、否定的な結果をもたらし、善なる先祖の功績を完全に無視してしまい、完全に零点に化する結果をもたらすことにもなるのです。こういうことを考えると、きょうの「現実」ということが、そのように簡単なものではないというのです。慎重で深刻なのが現実だということを皆さんが考えなければならないのです。

 私が見るものもそうです。見るにも過去、現在、未来があり、考えるにも過去、現在、未来があり、行動するにも過去、現在、未来があるのです。全部がそういう関係性をもち、生涯の路程をえり分けていくのが、私たちの人生ではないでしょうか。ここで善なる人と悪なる人が決定されるのです。過去に善なる人が決定されたのではなく、未来に善なる人が決定されるのではありません。悪なる人も過去に決定されたのではなく、未来に決定されるのでもありません。いつ決定されるのでしょうか。きょうなのです。この瞬間だというのです。この瞬間に善なる人が決定されるのであり、この瞬間に悪なる人も決定されるのです。きょう、この厳然な現実を通して決定されるのです。

 その現実に責任を負うことができる人が誰かといえば、他人ではなく私だというのです。その現実を中心として、私が責任を負った立場で行動したがゆえに、その現在は、歴史的関係に登場する瞬間になるしかありません。また、未来の歴史路程に登場する瞬間にならざるを得ません。このような普遍妥当な運命圏をもっているのが、現在だということを知らなければなりません。

 それを個人的に見てもそうであり、あるいはある民族の歴史を見てもそうであり、世界史を中心として見てもそうであり、歴史的なすべてを超越して、神様の摂理史を中心として見ても、そのような関係にあるという事実は否定できないのです。どんなに過去がよく流れてきたとしても、方向が一度それれば、そしてそれが永遠に続くようになれば目的とそれてしまうのです。

 それゆえ、人間は毎日のように調整しなければならないというのです。毎日のように調整するだけでなく、すべての勝敗の結果は、現時点の瞬間で決定されるために、瞬間ごとに調整することのできる人にならなければなりません。そうでなければ、いつどんな時に悪なる位置に、あるいは失敗の位置にぶつかり破産するか分からないのです。こういう運命の道に立っているということを、皆さんが考えなければならないというのです。「ああ、きのうできなかったならば、あすすればいい」と言えばそれで終わりますが、きのうできなかったならば、ここで必ず過去に穴が掘られるはずだというのです。

◆世界人類は、三時代が連結した一つの直線の道を行かねば

 世界史を中心としてある聖人を追慕するという時、彼らをなぜ追慕するようになるのですか。過ぎた日の人であって、現在にいる私たちがその人と何の関係があって、その人が提示した方向、「世界の人間はこのようになるべきだ」と提示した方向に全部が合わせようとするのかというのです。

 では、偉人とはどんな人でしょうか。国家的な運命、ある民族の運命を見つめて、その民族が善なる民族になることができる、あるいは成功することのできる方向を提示するようになれば、彼を民族の愛国者だということができるのです。さらには、世界が善に成り得る方向を提示した人を聖人というのです。それゆえ、愛国者よりも愛国者を越えて聖人に方向を合わせようとするのです。

 現実の一瞬というのは、途方もなく恐ろしいものです。ここにはどんな威嚇よりも、もっと恐ろしい内容があるのです。千年を滅びるようにすることもでき、万年史を滅びるようにすることもできるのが、今日現実の中で渦巻いているという事実を皆さんは知らなければなりません。

 したがって、皆さんが朝起きれば「きょうはこのように歩もう。方向をよく合わせて、線を引いて歩まなければならない。一日の線を引いて歩まなければならない」と言わなければなりません。あるいは一カ月を生活する時、必ず「このように歩まなければならない」と言って、線を引いて暮らさなければなりません。

 その線が徹底していて、間違いなく完全な線であるほど、その瞬間瞬間を連結する一日の中で、ある瞬間を完全に線を引かずには、完全な一日、一カ月として残せないのではないでしょうか。完全な一カ月を残すことができなければ、そこで完全な一年が無駄になるのであり、完全な一年が無駄になる日には、永遠な理念も無駄なものに帰結してしまうのです。

 それゆえ、私たちは瞬間でも、責任をもたない生活をすることができません。責任を負わなければなりません。責任を負うということは容易なことではありません。ある団体の責任を負うとすれば、その団体の方向を提示しなければならないのです。ある家庭に責任を負ったとすれば、必ず方向を中心として責任が伴うのであって、方向もなくただむやみにしては責任者になることはできません。

 歴史的な責任者になるためには、過去、現在の歴史観を通じて、その方向に一致することのできる責任的内容をもって立たなければなりません。そのようになれば、彼は責任者としての任務を全うしたと言えるのであって、そのようにできなければ、その責任者に「責任追及」ということが起きるのです。歴史的に追及するのであり、時代的に追及するのであり、未来的に追及するのです。このように見ると、きょう一日の瞬間が、どれほど途方もない瞬間かということを知らなければなりません。

 成功が他の所で始まるのではありません。ある相対的なものから始まるのではなく、きょう、私から始まるのです。私を中心とした時間圏内で左右されるというのです。時間圏内で左右されるのですが、その時の方向設定いかんによって千態万状に変わるのです。それによって千態万状の形に変化した状態が、そこで展開するようになっています。

◆歴史と現在と未来と神様が願う道

 過去を無視した現在があり得ないために、人間は過去を描くのです。「聖賢の教えがここまで届いた。このように届いた、今、届きつつある。この方が歩もうとしたことがこれであるので、私はそこに合わせなければ」と言わなければなりません。そうするには、いつも過去を見なければならないのです。また、いつも未来を見なければなりません。このように考えると、私たち人間は一人では生きられないというのです。そのような観点で見ると、私たちは歴史と共に生きていることを知らなければなりません。

 人間ならば誰を問わず中心になろうとします。誰でも出世して成功し、「私が中心存在になれば良い」と考えるでしょう? その中心存在になるということは何でしょうか。それは人類を統合した一つの中心線上に立ってみたいということなのです。人それぞれには、そのような一つの線があるのですが、ある人は長く、ある人は短くと全部が異なります。差が出るのです。けれども、神様がいらっしゃるならば、神様が願う道、歴史が願う道、現在が願う道、未来が願う道は二つではなく一つです。二つはあり得ません。このような人間を見れば、事情に縛られて生きる、あるいは因縁に縛られている、また関係をつくってすべてが成されていく、このように見ることができます。

 では人生を中心として、私たち人間が必要とするあらゆる事情だとか、何の因縁であるという内容をひっくるめて見てみると、これをどこに合わせなければなりませんか。「ああ、私はきょう用事がある。その用事に合わせなければならない、み旨も何も、用事に合わせなければならない」と言えば、それは既に間違っているのです。歴史時代と反対の立場に立つようになれば、そこには必ず反対に該当する報応が即刻に臨むのです。

 話すことも、「自分は気分が悪い」と言って、勝手にしてみろというのです。「それは自分なりの方向です、自分なりの生き方です」と、そう言ってはなりません。話をする時は、必ず歴史と合わせなければなりません。過去と合わせなければならず、未来と合わせなくてはなりません。

◆終わりの日の目的に向けて、今日の方向を合わせていかねば

 個人的な未来よりも家庭的な未来が遠いのです。個人の完成時代、理想時代が来たあとで、家庭の理想世界が来るようになっています。家庭的な理想よりも、氏族的な未来はもっと遠いのです。氏族よりも民族、民族よりも国家、国家よりも世界、世界よりも神様のみ旨は、一番あとになるのです。大きいほどあとになるのです。それゆえ、宗教は終わりの日を標 榜し、そこに合わせようとします。宗教のすべての内容を見てみれば、終わりの日、終末時代に適合した完成を標準として、全部教えてくれているというのです。

 不信者が宗教を見れば愚かに見えるのですが、宗教人はそれを本当に素晴らしく思うというのです。そうして、その終わりに方向を合わせようとします。それが違ったとしても、終わりの点と合わせようとします。そうして、それが間違ったとしても、それは普通の人、自分勝手に行く人、あるいは家庭的目的を中心として行く人や、国家的目的のために行く人とは比較にもなりません。彼ら(普通の人)は家庭的目的や、国家的目的をもってぐるぐる回っていますが、宗教人はそれでも終着点を見つめて、後日を見つめて行くというのです。

 そのような歴史性を備えた宗教歴史が長かったのです。民族の歴史より長かったというのです。私たちの家庭的な暮らしよりも長い、この歴史の内容と価値を保有しているというのです。個人が歩むことよりも長い歴史を経てきたのです。神様がいらっしゃるならば、神様もそうされるでしょう。神様が人間を通じて橋渡しをして行こうとすると、こういう道があれば、この道を行こうとする人を中心に摂理せざるを得ません。

 こういう観点で見ると、そういう大目的に向かって方向を合わせようとする人物がいれば、その人物は歴史的な時代に影響を及ぼす人になるはずであり、そのような思想があれば、歴史時代に必然的な影響を及ぼす思想になるのです。その思想圏内で国が動くのです。個人が動くことはもちろんであり、家庭が動くことはもちろんであり、国家が動くことはもちろんであり、世界が動くことができる圏もそこから起きるのです。ところが、そうせずに私が中心になっているのに、そこに世界が動くと思いますか。家庭の中に、私たちの家庭生活を中心とした観に世界が入ることができますか。できないのです。

 遠くの目標に向かって、今日の方向を合わせようとする人が愚かな人ではなく、歴史を愛して、未来を愛して、現在を勝利のものとして連結するために努力する群れだということを、私たちはここで考えざるを得ないというのです。

 それゆえ、人は終わりの日を見つめて行かなければなりません。成功を願ってもすぐさま、若い時代に成功しようという人、若い時代に成功して喜ぼうという人は小人になるのです。一生をたどり、一代をすべて投入し成功を願う人も、その一代に成功したとすれば、成功した人だといえますが、志がある人は一代でなく何十代を経て、私の一代にできなければ私の後代何十代、あるいは何千代を通じてでも、このみ旨を成し遂げるというのです。

 そうして、何千代が間違いなくその方向を通じて歩んだという氏族がいるならば、またそのような民族がいるならば、神様の摂理は必ずそのような氏族と民族を通じて集約的に成されるのです。代表で推薦してでも、そのような氏族と民族を通じて世界史的な完成の志を立てるのです。

◆人類歴史は因果応報の歴史

 このように見ると、今日、現在というものを勝手に生きることはできません。皆さんが一生を生きる間には、朝に気分良く出掛けるや否や、突然の出来事が起こることもあり、思いもよらない友人に会うこともあります。昔の知り合いに会うこともあるでしょう。そのように道端で会って因縁となった人とやりとりして行動したことが、自分の一代に致命的な運命をもたらすこともあります。どこの誰かが会おうという時、願わない約束をして会う場合、その道が人生において、最後の道にもなり得るのです。

 長い歴史について見れば、現在には関係がないけれど、歴史時代の先祖から関係があって、私の時代に蕩減の結末をつけようという因果応報の歴史があります。したがって、今日私の前にある人が現れたならば、その人は偶然な存在ではありません。

 万一、彼が私との瞬間的な出会いで、私の一生を破綻させるようなことがあり、私を殺すようなことがあっても、死ぬその時に、私がどのように死ぬかということが問題です。刃物で刺されて死ぬという最後の道を行く運命に立っても、私が死ぬ瞬間にどの方向を携えて死ぬかということが問題です。自分の欲望をもって死ぬ日には、罠に落ちるのです。しかし、人類のための公的な欲望をもって、そういう方向に曲げておいて死ねば、彼の代を再び引き継いで、その方向について行くことができる人が必ず生まれるというのです。

 そして、そのような先祖を通じて、この時代に生まれた現在の氏族はどうなるでしょうか。彼らが関係を結ぶことができる、内的な因縁を立てなければ方向を失うために、その方向を残すために、神様はその人が不意の運命にぶつかったとすれば、他の人を通じてでも必ずバトンを受け継いで、方向を選んで行けるようにするのです。ある人を中心として始めれば、その人を中心として代を継げば良いでしょう? もし父がそういう使命に責任を負って代を継いだ時、その息子と娘が再びその代を継続することができれば、神様は間違いなくその息子、娘を立てるというのです。

 けれども、その人に息子と娘がなく、また、いたとしても代を継ぐことのできる息子と娘であり得ないときはどうするでしょうか。仕方なくその親戚の中で代を継ぐ人を探すのであり、もし親戚中にもいないときは、その近所でその一族と婚姻の関係を結んでいる八親等までを連結させるのです。関係のある血族がそれを受け継ぐことができないときは、その親戚の中から、親戚の中にもいないときは、その近所の人の中で、それを受け継ぐ人を探すというのです。そうすればその近所の人が福を受けるのです。

◆人生行路の目的

 ですから、私たちの一生をむやみに送ることができないのです。私がどこへ行くのか。角度を測定しなければなりません。探索班が未知の新しい世界を探索しに行く時は、必ず経度何度、緯度何度というように角度を測りながら行くのです。そうしなければ大事になるというのです。その方向が分からなければ、どこへ行くかも分からないのです。それと同様に、私たちの日常生活も角度を測定し、何度どこへ行って、何度上がって、何度下りていって、何度左右へ行くということを、わきまえることができる現在の位置を確定せずには安心して行けないのです。

 人々は、人生が何であるのか、人生はどのように生まれたのか、どのように成されてきたのか、人生が行く行路はどこなのか、ということを知らないために、嘆かわしく結論づけて「人生行路は苦海だ」というのです。苦海ですが、知っている苦海ならば有益だというのです。知りつつ行く苦海というのは、希望があるというのです。けれども、知らずに行く苦海である時はどうしますか。安心して御飯を食べることができますか。皆さんが安心して結婚することができますか。何がそれを保障するのかというのです。保障できないのです。

 このように考えると、私たちは一切の内容を再び糾明しなければなりません。真っ暗な夜中に、方向も知らずに行っていると考えれば、どのように生きることができますか。行けば行くほど見込みがない立場で、皆さんは黙っていられるでしょうか。声をあげて誰かを呼ぶか、死に向かって飛躍するか、超越するかしなければならないのです。

 見込みがなければ、振り返って後ろに戻ってくるか、再び出発をするかという賭けをせざるを得ないのが人生行路であるゆえに、過去の数多くの志のある人や、聖賢賢哲はそのようなことのゆえに生涯を捧げて、死の境界線を往来しながら闘っていったのです。また、今後そのように闘う人々が現れることは間違いない事実だというのです。そういう行路を通るのが人生なのです。

 皆さんは、いつ一家庭の責任を負ったと考えてみましたか。「私の家庭は間違いなく、この世界の人類が歩むことのできる、標本的な家庭となるべく歩む」と考えてみなさい。深刻な問題なのです。「いい加減に流れて、なるがままに生きる」と言いますが、なるがままに生きますか。

 それゆえ、知っている人がいればその方を訪ねて、その方と共に談判をし、その方と共に解決点を立て、きょうの私の位置がいかなる位置か、現実を確定することのできる基盤を設けなければなりません。そうしなくては幸福を探すことができないのです。幸福は現実を離れた位置では探せないものではないでしょうか。未来の幸福ではありません。現実に保障のない未来はあり得ないのです。現実が、過去の結実として登場する、幸福の基点にならなければならず、過去の結実の位置にない現実は、理想的な基点であった過去まで否定することのできる内容にぶつかるのです。

◆現実は歴史的標準点であり未来の起源

 歴史的な結実を、現在で打診しなければなりません。未来の新しい起源と出発を誓うべき位置、そういう内容を決定して前進しなければならない位置が、現実だというのです。

 それゆえ、その現実は歴史的な標準点なのです。過去から現在まで願ってきた、歴史的な標準点にならなければなりません。現実とは何でしょうか。現実は、歩みくる歴史時代に、願われた一つの標準点になるべき時だというのです。

 私から四方が広がるのです。未来と過去は連関性がありません。過去は未来の社会を、横的に連結していないのです。また未来は、過去のどんな時も横的につながっていないのです。それはすべてが点です。私に、そのすべての目的点が集約されています。またその次に、私から目的点を指向して拡大していくのです。それゆえ、皆さんはあすの希望がより一層大きいことを願うのです。

 調整ということはどこで可能かといえば、現実です。未来に行って調整することはできません。過去に調整したというのも駄目だというのです。いつも現実です。皆さんが、過去と焦点を合わせているにもかかわらず、そこから一歩だけそれるようになれば、自分個人だけが滅びるのではありません。自分の一族が滅びることもあるのです。

 イエス様が四千年のユダヤ教歴史、イスラエル歴史を代表して現れた時に、四千年歴史の方向はどこに集約されましたか。イエス様に集約されました。ところが、その焦点がそれたがゆえに、四千年歴史は完全に倒れるようになったのです。霊肉を中心として直行しなければならないのに、霊的に歩んだために、思いがけないところに行きました。突然霊界に上って、霊・肉が分かれたので、再び下りてきてそれを縛っておかなければなりません。そこには蕩減が起きます。高く上ってそれを引き下ろすので、いたずらな消耗がなされて蕩減が起きるのです。

 私がうれしいので「ハッハッ」と笑うとしても、あるいは愛する人同士で、「私たちは幸せだ」と言っても、その幸福を保障できますか。その幸福が未来と関係しますか。あすと関係性をもてますか。それを知らなければ、それは幸福ではありません。

 もし、一人滅びるようになれば、自分一人で滅びると決心して一人で滅びればいいのに、家庭が滅びるようになれば、どれほど悲惨でしょうか。子が悲惨に倒れるのを見なければならず、妻、あるいは夫が悲惨に倒れるのを見なければならないので、それがどれほど悲惨でしょうか。

◆歴史的結実を成し遂げるべき私

 そのような観点で見ると、皆さんが心を合わせなければなりません。こういう面で、蕩減復帰という言葉は本当に有り難いのです。蕩減復帰しようとするなら、過去に失敗したことをそのまま現在に展開して、それより勝らなければなりません。勝らなければ方向が設定されません。それより劣ってはならないのです。少しでも勝れば、前進できる方向が開かれるのです。

 それで、歴史的な偉人の業績を、現在の私たちは受け継ごうとするのです。四大聖人が残した功績とは何でしょうか。彼らは自分勝手に生きたのではありません。彼らは、人生で歩むことのできる代表的な道を人類を代表して提示しました。

 ところがその標準が遠かったというのです。個人として歩み、氏族として歩み、国家が歩み、世界が歩まなければならないというその標準が、漠然と東の方向だというようになっているのです。東の方向に、ゼロの地点に調整ができず、少し傾くとか、少し右に行くとかして偏ることは偏ったのですが、東に行くことだけは間違いないというのです。

 ところでその聖人は、みな宗教指導者だというのです。彼らは、自分一人だけで歩んだ道ではなく、神様の摂理的観と一致することができる目的を描いて歩んだがゆえに、そこに歴史的な人類が動員されたということは否定できない事実なのです。

 現実に、キリスト教ならばキリスト教の一日一日があります。ところがキリスト教の一日一日、現在のキリスト教としての位置とは、どんな位置でしょうか。上がっていくのか、下がっていくのか、左に偏っているのか、ということを考えもしないのです。「ただそのまま行けばいい」と言うのです。「キリスト教の伝統を、ただそのままついていけばよい」と言いますが、それは良いことだというのです。歴史を合わせようとすることは良いけれど、それがイエス様が願った、願いの基準と一致するでしょうか。異なるとすれば、このキリスト教は没落していくというのです。どんなに良い基台をつくっておいたとしても、方向が違えば仕方がないのです。

 それゆえ、過去の一致点を確定することのできる現実で、未来の一致点が出発することができる、今日の現実的基盤を備えなければならないのです。過去は過去なり、現在は現在なりに分離して、私の心と体が行き違ったようになってはならないのです。どのように直線を引くかという、運命圏内に立っているということを知らなければなりません。

 現実がこのような一点に置かれているのに、「私」という現実的中心存在を持ち出して、一つの時代、この時だけを見て生きる人は、最も危険な存在なのです。そのような人は四方へ行っても崩れていくのです。今日「私」というものを引っ張り出そうとすれば、歴史を代表した私にならなければなりません。「私」という現実の基盤というのは、歴史的な標準点になっており、歴史の焦点を代表したがゆえに、歴史的な代表の結実なのです。

 したがって、私個人を中心としてもそうですが、我が国と民族はもちろん、人類を代表した立場で、私が歴史的結実の位置に立ったと言える確信が立たなければなりません。どんな位置でも、代表の位置に立ったと言えるならば、彼は歴史的先端に立っているのです。

 ここで、世界史的な先端に立った代表的な「私」だという自覚を、どのようにするかということが、価値設定の一つの基点になることを皆さんは知らなければなりません。それがむやみにされては、価値的なものであり得ないのです。歴史時代を代表した「私」というとき、過去の歴史よりも下がっていくのではなく、より輝く価値をプラスさせることのできる「私」であれば、私を通じて発展的な未来が継承されるかもしれませんが、歴史時代より劣る「私」であるときはそのようになることができません。このように見ると、「イエス様を信じる人は、イエス様が描いた理想を現実的な理想観として携えなさい!」ということは妥当な結論です。

 そのような立場を調整するのが現実なのです。肉屋に行けば水平秤で計るでしょう? その水平秤を見れば、真ん中に行ったり来たりするのがありますね? それが物を置けば重さによって動くのです。そこに標点が、調整点があるのです。

 それと同様に、現実は調整点です。ところが、違うところに合わせればなんにもならないのです。そのようになっているのが、今日の人生の路程を歩んで行く現在の立場であり、現実の立場であり、瞬間の立場であることを私たちは知らなければなりません。この瞬間に誤るようになれば、サタン側になるのであり、上手に成せば、天の側になることができます。

 神様がこういう歴史時代をたどりながらも、完成の一時を迎えられないのは、現実をなくしたためです。あらゆる先祖が失敗したのは、ある現実で失敗したのです。瞬間に誤ってしまったためなのです。

◆現在とは歴史的結実点、時代的中心点、未来の出発点

 このように考えると、今日私たちが立っている位置は、一つの時代ではありません。三時代をつないでいます。過去の時代を代表した位置であり、未来を連結する位置です。今日というこの位置は過去を代表し、現在にはこの世界が入っています。現在は人類の中心になるのです。現実というのは、過去の世界人類全体を代表した位置であり、この世界を代表した中心点です。

 家庭を代表した中心点を合わせたならば、また国家の中心点を合わせなければなりません。国家基準を中心としたならば、また世界の中心点を合わせなければならないというのです。ですから、初めから世界のための中心点を合わせておけば、他のものは合わせる必要がありません。

 現在というものは、何の中心点にならなければならないでしょうか。世界人類を代表した、世界的な中心点に合わせなければなりません。犠牲ではなく、苦労でもなく、死ぬことがあっても行かなければならないのです。現実はどういうものでしょうか。未来の出発点です。現実というのは歴史的結実点であり、時代的中心点であり、未来に対しては出発点なのです。

 それゆえ、今までどんなに上手に成したとしても、ここで私が一言誤れば滅びるのです。そのように怖いのです。三時代の元凶がうずくまっている位置です。失敗の元凶がうずくまっている位置であり、三時代のサタンの矢が集中した位置です。

 それゆえサタンは、このような点を試すのです。「お前が歴史的な代表の位置に立ったのか。現実的な中心存在として立ったのか」と言うとき、立てなかったとすれば、地獄の門を開けて入っていくようになっているのです。それでは復帰できないのです。復帰完成の点は二つですか。一つしかありません。完成の判を押す場が二つの場でしょうか。一箇所で押すのです。未来の出発点がなくなれば、天国理想も何もすべて不正だというのです。皆さんがこれを確実に知らなければなりません。

◆現実とは三時代のための責任をとらなければならない中心点

 朝、目覚めて起きれば、「ああ、このようになったのだな!」「ああ、先祖たちが私に合わせているんだな!」と、こう言いながら上手に合わせて行けば、先祖たちの道が高速道路のように開かれるのです。

 トンネルを掘る時も同様だというのです。良い所に高速道路があれば、みな高速道路へ行くでしょう?
 ですから、そこが現実的な中心点になるのです。その次には未来的な出発点です。そこから希望の出発をするのです。そこからは、行けども行けども希望です。行けども行けども絶望ではありません。このような立場に立ったことを知らなければなりません。

 それゆえ、三時代のための責任はどこにあるでしょうか。過去にあるのではありません。現実にあります。そういう歴史観をもっているということは、驚くべき事実であることを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんが歴史を代表した位置で、どれほど努力しましたか。人類が行くべき中心的な立場を正しく、きれいに磨くためにどれほど努力しましたか。未来の子孫の前に、十字架とか受難の道を残さないためにどれほど苦労しましたか。昼も夜も歴史的方向に合わせて行かなければならないのです。国家基準を越える時まで、誤って合わせていくようになれば悲運に消えていくのです。先生もそのような観点で、現在の立場よりもあすの開拓者の立場で、現在の位置で基準を合わせて行くのではなく、一時代先んじた位置で現在の基準を調整しているのです。一つの時代を先立って行かなければならないのです。

 現実というものは、三時代に責任をもって決定づけるべき中心点であることを、皆さんは知らなければなりません。これは深刻な問題です。さじを一度取ることが、敗者のわびしい道を歩むようにすることもできるし、私が考えるその場で、滅びる運命の兆しが芽生えることもあるのであり、一日勝手に行動したことが、一生を滅ぼすこともあるのです。それゆえ、きょう一日は幸福であろうと考えやすいけれど、一日がどれほど恐ろしいか知らないのです。また、一つのことを誓うとき、天が設定した目標と目的に向けて基準を合わせて歩んでいくきょうを、迎える皆さんにならなければなりません。

















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