文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


真なる人と罪

一九七三年八月五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第六十八巻』


 この世の人々は、堕落したことも知らずにいて、またその中で、信仰するという人々も、堕落がどのようになされたかということをよく知らずにいます。また、本然の人間がどのようなものなのか、その基準もはっきり知らずにいるというのです。漠然と神様を信じ、神様を中心として漠然とした息子の立場で信ずれば、救いを得られるというのが、一般的な信仰観なのです。

◆救援摂理の目的と真なる人が行くべき道

 では、信仰しながら、望むものとは何でしょうか。あるいは救いの目的とは何かというとき、それは言うまでもなく、真なる人にならなければならないという結論に到達するのです。真なる人、その中には、男性と女性がいます。

 では、神側から尋ねるときは、どう答えるでしょうか。神様の願いは何でしょうか。やはり神様も真なる人、すなわち真なる男性と真なる女性を願われるのです。

 信仰者として最高に願うものは、完成した人です。完成した人は、真なる人です。神様が救援摂理の目的を推進してきたその目的はどこにあるでしょうか。これもやはり完成した人であると同時に、真なる人にあります。

 では、神様が見たい人とはどのような人でしょうか。真なる男性と真なる女性を見たいというのです。ところが、堕落によって真なる男性と真なる女性を見ることができなくなったのです。ですから、復帰は真なる人を捜すことです。真なる人を捜すにおいては創造原則において、男性を先に造ったので、真なる男性に出会わなければなりません。真なる男性に出会って、神様が本来志された、願われたところの目的を達成してみようというのが、救援摂理の目的であらざるを得ないのです。

 では、真なる人、真なる男性はどのような道を行かなければならないのでしょうか。それは言うまでもなく、神様の愛を受ける最初の息子にならなければなりません。その息子は養子ではありません。神様の血統を通して、神様の愛の過程を通して血統を受け継いだ息子にならなければなりません。その次には、真なる兄さんにならなければなりません。エデンの園のアダムとエバを中心として見るときに、アダムは、エバの兄さんです。したがって、神様が見たい真なる人は、どうしなければならないでしょうか。真なる兄さんとして完成しなければなりません。

 それから、範囲を少し広めて、現在の人々を見るとき、男性は兄さんになるか、そうでなければ弟にならなければなりません。すなわち、女性においては兄さんになるか、弟になり、男性においても兄さんになるか、弟にならなければなりません。これが男性の行くべき道です。

 その次に、真なる夫にならなければなりません。真なる夫になったなら、真なる夫だけで終わるのではありません。男兄弟がいる場合には、弟もいるでしょうし、弟の家庭もあるはずです。それゆえ、神様の立場から見れば、真なるおじさんが必要なのです。したがって、真なるおじさんにならなければなりません。その次の願いは何でしょうか。真なるお父さんになり、真なるおじいさんにならなければなりません。これが男性の行くべき道だというのです。

 結局は、真なる息子として、真なる兄さんとして、真なる夫、真なるおじさん、真なるお父さん、真なるおじいさんとして行くべき道が男性の行くべき道です。

 その次には、真なる王として行かなければなりません。そうでなければならないのです。家庭の中心だけではなく、社会を経て、一国の成り立ちを見つめるとき、王として行かなければなりません。これが男性の行くべき道です。

 すなわち、男性が行くべき道は神様の直系の血統の因縁をもって生まれた息子、娘の立場で、真なる兄さんとなり、真なる夫となり、真なるお父さんとなり、それから真なるおじさんとなり、真なるおじいさんとなり、それから真なる王にならなければなりません。これが人類のうち、男性として行くべき過程において、必要な標準です。

◆復帰摂理歴史は真なる男性を捜すための歴史

 さあ、このように見るとき、この地上に果たして神様のみ意に一〇〇パーセント一致した真なる息子がいたでしょうか。そのような男性はいなかったというのです。ですから、今まで神様が尋ねきた歴史は、一人の真なる男性、一人の真なる息子としてふさわしい立場に立つことのできるその息子を探し求めてきたのです。その息子を標準とし、今まで役事してきたのです。では、その歴史とは何でしょうか。息子を再創造するための歴史にすぎません。真なる息子として生まれるためには、再創造の過程を経なければなりません。

 この地上で堕落した人間は何を願うのでしょうか。真なる男性であるとか、真なる女性になることを願います。では、真なる人になり得る道を行くためには、どうしなければならないでしょうか。
 堕落した人間をもってしては、到底不可能です。堕落したという言葉は、落ちたという意味です。落ちたという言葉は、正常ではなく、故障したということであり、病気になったということです。

 それゆえ、堕落した位置からは真なる人を望み得る道がありません。ですから、神様は歴史時代を経て、神様の真なる血統と心情をもった一人の息子をつくりあげて送るために、今まで苦労してこられたと、このように見るのです。

 そのような使命をもってくるお方とは誰でしょうか。一人の真なる息子が現れる前には、真なる兄さんも登場することができず、真なる夫も登場することができず、真なる男性としてのお父さんも登場することはできません。また、真なるおじさん、真なるおじいさん、真なる王も登場することはできません。神様が公式的に「そうだ」と言うとしても、世界を代表し得る王位まで占める真なる男性が出現するのではありません。真なる息子が現れる前には、「ああ、私が願っていた、望んでいた男性だ」と言うことのできる帰結点を下すことはできないのです。そのような人は、真なる息子になれないのです。

 では、天国という所は、どのような所でしょうか。偽りの息子が行って暮らす所ではありません。真なる息子が行って暮らす所です。真なる人は真なる息子にならなければならず、真なる人は真なる兄さんにならなければならず、真なる夫として、今、語ったそのすべての内的な因縁を備えた人にならなければなりません。

 では、真なる人の要素を堕落した人間の世の中で、どこから探し出すのでしょうか。堕落した人間同士からは絶対に探し出すことはできません。神様が再びつくる歴史過程を経て、真なる息子が生まれる前には、不可能です。ですから、真なる息子として登場するお方が誰かというと、救世主です。

 真なる息子にならなくては、真なる兄さんになり得る道は出てこないのです。真なる兄さんにならなくては、真なる夫は出てきません。エバが真だというとき、兄さんが真でなくなれば、問題がもはや生じます。皆さんは神様の真なる息子を見たことがありますか。天国に行くという人たちは、天の国に行くという人たちなのに、天の国は王のいない国ではありません。そうではないですか。国には王が中心存在としていなければならないのです。

 では、天の国は、どのように形成されるのでしょうか。王が登場する前に、おじいさんから親戚の関係を中心として、真なるおじさんの過程を経て、真なるお母さんとお父さんの過程を経て、真なる兄弟の過程を経て、真なる息子の過程をみな経た人たちを代表する土台の上に立つのが天の国の王です。王は一番最後に行ってなるのです。このように一国の中には、氏族が入り、家庭が入り、みな入るのです。

◆イエス様はが真なる息子の使命を果たしたのか

 イエス様は「神様の息子だ」と言いましたが、神様は愛することができませんでした。十字架にかかって死ぬようになりましたが、なぜ死の場から引っ張り出して保護してあげられる息子になれな
かったのでしょうか。これが蕩減路程において、いまだに罪から脱け出すべき運命に立っているために、真なる息子の立場に立てなかったために、彼を解放させられない神様になったというのです。ですから、イエス様が死ぬとき、背を向けなければならなかった事実を、私たちはここから知ることができるのです。

 盲目的に無条件に信じてはならないのです。神様が本当に世の中に一人しかいない息子として送ったその息子が死ぬのに、なぜ背を向けるのかというのです。全く、そのような父母がどこにいますか。私たちが、そのような父母を信じていて天国に行けますか。保障されますか。イエス様の願いさえも成してくれないのに、イエス様のその切実な祈祷さえも聞いてくれないのに、息子を死の場に送り出したそのような立場に立った神様を、私たちが信じ、「天国に行こう」と言うことができますか。

 では、なぜそうしたのでしょうか。ここには私たち人間が知らない内的段階が多くあったからです。病気になった人を手術して、生かそうという人は、その病気になった人を手術するにおいて、誰よりも病人を愛さなければなりません。今まで病気になって、腐っていくこの罪悪の世を完全に救うために責任を負った立場、すなわち、救いの荷を負った立場に立ったので、救いの使命を果たす前には、神様の愛を受けられないのです。

 ですから、イエス様は神様の愛を受けられずに逝ったというのです。イエス様が神様の愛を受けたなら、あの村この村へと追い払われるでしょうか。家庭から追われ、村から追われ、国から追われ、教会から追われるでしょうか。神様がそのようにしたでしょうか。真なる息子は神様の愛を受けなければなりません。

 このような観点から見るとき、今日、この世に神様の真なる息子がいたのかというのです。「私は間違いなく神様の真なる息子である」と思える人がいますか。歴史的に複雑な内容がジグザグにからまったものを解き、それをみな是正する前には、真なる息子が現れないというのです。そのように複雑だというのです。

 神様はたくさんの能力をもっていらっしゃいますが、もつれたものをそのごとくに解いていかれる立場にあられるのです。しかし、それを解くにおいては、神様が解くことはできないのです。人間が解かなければなりません。人間が解かなければ神様のみ旨が成されません。それゆえ、神様のみ旨が成されない立場では、愛する人をも身代わりに蕩減の祭物にして、それを延長させる作戦をしていくのが神様の摂理の延長なのです。

 では、神様が見たいと思う人は真なる男性ですが、神様が本当に真なる男性に一度出会ったことがあるでしょうか。出会えなかったのです。新郎になろうと身もだえして死んでいったイエス様に出会っただけです。

 イエス様はこの地に来て、神様の愛を受ける息子として、エデンの園で堕落しなかったアダムの立場を身代わりして、エバのような妹をこの上なく愛することのできる、兄弟をこの上なく愛することのできる立場に立つことができなかったというのです。

 お母さんと弟たちが弟子たちの前に来て、イエス様と会おうとするとき、弟子たちが報告するのに「先生の兄弟たちとお母さんが来て探しています」というとき、イエス様は何と言いましたか。
 「私の母と兄弟はどこにいるか。神様のみ旨のとおりに行う者が私の母であり、兄弟である」と言いました。

 皆さん、無条件に信じてはならないのです。イエス様が兄さんになりたい気持ち、兄さんの愛をもってはいましたが、神様が喜ばれる立場で愛することができなかったのです。イエス様には妹がいたはずです。けれども、愛することができなかったのです。弟妹たちを愛することができなかったのです。愛したかったけれど、愛を与えることができないうえに、受けることのできる弟妹になれなかったというのです。

 それから、兄弟を愛したのちに、アダムが行くべき運命の道はどのような道でしょうか。夫でしょう。神様の愛を根こそぎ独占したのちには、彼以外には誰も愛することのできないただ一人として、霊肉を標準として、永遠の愛を契約することのできる、真なる夫婦として愛することのできるそのような家主にならなければならないのです。しかし、イエス様はそのような家主になれませんでした。

◆イエス様の願いとそれを信じる者の願い

 イエス様に「あなたの願いとは何ですか」と尋ねれば、「私は真なる男性になることが願いである。神様の真なる息子になるのが願いであり、神様が愛する妹を愛したいのが願いである」と言うことでしょう。「その次のあなたの願いは何ですか」と尋ねれば、「神様の愛する娘をこの上なく愛する、この上なく愛される夫になりたい。その次には、息子、娘を愛することのできる父母になりたい」と言うことでしょう。父母にだけなっていいでしょうか。「隣家親戚があれば、おじさんになりたい。おじいさんになりたい。その氏族の族長になりたい」と言うことでしょう。これが男性の願いです。

 このように見るとき、イエス様は父母のみ旨も果たすことができず、願いの成就もできず、中間で死んでしまったので、天国に行けず、楽園に行っていらっしゃるのです。楽園はどこかというと、汽車に乗るために待つ待合室のような所です。

 では、イエス様を信じる人々に「あなたの願いは何でしょうか」と問えば、漠然と「新婦になることである!」と言います。「では、新婦になるためには、どうしなければならないのか」と言うと、「そのまま信ずればいい」と言います。しかし、信じるためには、真なる男性に出会うために真なる新婦に代わることのできる立場に立たなければなりません。

 では、男性も新婦になろうと言いますが、男性が新婦になるすべがありますか。これは無条件に男性も新婦、女性も新婦、全く、そのような方法がどこにありますか。これは人倫道徳にもないのです。

 今日のキリスト教は、新婦となって、新郎であられるイエス様を迎えるためのものです。ところが、男性がどうして新婦になり、新郎を迎えることができますか。

 私たちの原理を中心として見るとき、男性は天使長型であり、女性は新婦の立場にあります。ところが、サタンがエバを奪っていったので、真なる男性が来て、再び奪ってこなければなりません。復帰してこなければならないのです。言い換えれば、主であられるメシヤは失った女性を捜すためにくるのです。それゆえ、新婦という言葉が必要であり、新郎という言葉が必要なのです。ですから、キリスト教は新婦宗教であり、新婦宗教なので、女性宗教です。

 終わりの日には、女性団結運動をしなければなりません。女性たちの願いとは何かというと、神様の愛を受ける娘となり、兄さんと弟を愛し、その次には妻になることです。それから、お母さんになることです。おばさんになることです。おばあさんになることです。全部、相対的立場なのです。

 イエス様は息子として、この地に来て、独りぼっちで逝くのが願いではありません。神様がそのようにするためにイエス様を送ったのではありません。

◆真なる男性、真なる女性になるためには

 では、統一教会の教会員たちの願いとは何でしょうか。理想完成、個性完成という言葉を使っていますが、完成というのはどういうことでしょうか。真なる男性となり、真なる女性となることです。そうなるためには、どうしなければならないでしょうか。神様と愛の因縁を結ばなければなりません。神様と愛の因縁を結び、再度、復活した生命圏を体 恤しなくては、神様の国に入ることはできません。

 統一教会ではこれを再現させ、公式的な過程のような道を、このような価値的な結果を誓わせ、このすべての過程を経ることのできる環境、あるいは全体復帰の基準をわきまえて行こうというのです。これが統一教会の教会員たちの行くべき道です。

 そうするためには、皆さんがどうしなければならないでしょうか。皆さんは「私は神様の息子となり、娘にならなければならない。私の体にあるサタンの要素、堕落性をもったサタンの血統がここに込められているので、これをきれいにぬぐい去らなければならない」と言いながら、歴史的な罪を悔い改めなければなりません。したがって、私は歴史的な罪の結実体だという自覚をもたなければなりません。皆さんは歴史的な罪悪の結実体です。

 皆さんの先祖の中には、殺人、強盗をした人もいるでしょうし、ありとあらゆる人々がいることでしょう。数多くの先祖を中心として見るとき、先祖の中にそのような人がいましたが、今の時になって出てきていないだけのことです。また、先祖の中にはいなかったけれども、今の時になって出てきただけのことです。そのような先祖たちもおり、そのような罪ある姿を見せる千態万状の先祖が、今日、皆さんの先祖から氏族圏を中心として、みな連結されているというのです。

 それゆえ、皆さんが真なる男性となり、女性となるためには、どうしなければならないでしょうか。堕落したことを自覚しなければなりません。「私は歴史的な罪の実である」と自覚しなければなりません。

 皆さんは歴史的な罪の結実であるので、歴史的な悔い改めをしなければなりません。これが皆さんが信者としてわきまえていくべき信仰生活の第一条です。ですから、悔い改めなければなりません。

 皆さんは今、青い葉のようですが、中途で離れることもあり得るというのです。秋になって実を結ぶ助けになるそのような葉っぱとしての存在ではなく、実とは何ら関係のない葉っぱとして、中途で離れ得る葉っぱにすぎないというのです。それゆえ、皆さんは歴史的な罪を悔い改めなければなりません。

 皆さんを見れば、皆さんが「誰それは容姿がああだ」と言いますが、あのように見えるのは、現在の自分の父母が生んでくれたということだけで、生まれたのではありません。それは自分の先祖、自分の父母の血統を通して、先祖のその何かを千分の一、万分の一ずつ受けて生まれたのです。約百兆の細胞から成るこの体は、数千万代の先祖たちの血の一筋一筋を分けて総合し、出てきた株式会社と同じだというのです。それが完璧でないだけであって、その要素は四方にからんでいるというのです。

 それゆえ、私には歴史的な罪を断つべき責任があります。無慈悲に清算しなければなりません。自分と闘いなさいというのです。自分にある権威と権勢をみな投入して、自分を征服するのに、最前線に立って、「お前は私の命令どおりにしなければならないのであり、私の願いどおりにしなければならない」と言いながら、自分に対して号令をして出発する歩みが信仰生活の第一歩です。

 皆さんの心を白い白紙にさっと広げ、それを細かくのぞいてみることのできる望遠鏡があって、じっとのぞいてみるとすれば、皆さんが天国に行くことのできる人だと思いますか。もし、何億万倍に拡大する望遠鏡で見るならば、びっくりすることでしょう。

 神様がそれを目で御覧になるなら、何億万倍の拡大鏡よりも拡大させて見ることのできる目でみな御覧になる神様に、罪人が「ああ、天のお父様」と言えば、神様の気持ちはどうでしょうか。そのお父様という言葉が快いでしょうか。地獄の入り口にも行けないそのような立場にいながら、ずうずうしく「私は神様の息子です」とは言えないというのです。

 ですから、宗教では「温和謙遜でありなさい。犠牲奉仕しなさい。あなた方に教えてあげるものはそれしかない」と、そのように追い立てるのです。それしかないのです。信仰の道は順応の道であって、自主の道ではありません。主張の道ではありません。これを知らなければなりません。

 なぜなら、自己を否定しなければならないので、歴史を否定させなければなりません。ここに黒い水があるのに、それを是正するといって、消えますか。否定しなければなりません。完全否定しなければなりません。否定されるときまで、否定しなければならないのです。では、皆さんの手がどれほど善でしょうか。皆さんの目がどれほど善でしょうか。皆さんの耳がどれほど善でしょうか。根本問題はここから解かなければなりません。

 それゆえ、神様の前に出ていって、祈祷することに恥ずかしさを一〇〇パーセント感じる立場、目を開けて神様を見つめるのに、目が恥ずかしさを感じ、全細胞が恥ずかしさを感じ、身の置き所を知らないほどに千年の恨みを抱き、あえぎ得る自らを発見するのが信仰者の正常な軌道の道ではないでしょうか。

 神様がいらっしゃるなら、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」というそのみ言が今日、このような立場で、深刻な立場にいる人に対してはこれ以上適切な救いのみ言がないということを感じることができなければなりません。

 私の中に先祖の血がぬたくり回っているというのです。それゆえ、断食をして血を抜いてしまうのです。そのような過程を経なければなりません。歴史的な罪の結実体なので、歴史的な罪の結実を否定するこのような勝負を決める闘いがなければなりません。生命を懸け、これを否定させるためには、自分の肉の生命をみな殺して、否定させ、残ったその力が復活の動機になって、再度、生命を備え、誕生しなければなりません。そうしてこそ、神様が管理、干渉なさることができ、天国に連結され得るそのような生命体になるのであって、サタン世界圏内にある生命体をもってでは駄目です。

◆宗教の道は受難の道、逆説の道、克服の道

 皆さんは、皆さん自身を歴史的な罪の結実として見なければなりません。それから、そのような氏族なら氏族として見なければなりません。氏族は現実として見るとき、すべての民族と関係しています。数千代の氏族の根を受けたので、それを延長して平面的に見れば、国になります。それゆえ、私はこの国が民族の罪に責任をもつべき罪の後孫です。

 言い換えれば、「私はこの民族が受ける罪の代価を代わりに受けなければならない。この世界を連結させることのできるこの世界の罪を、現在に受ける罪の代価を私が代わりに受けなければならない」このような自我を感じなければならないというのです。それが、メシヤとして来られたイエス様が感じた道なのです。私が生きればこの世が生き、私が死ねばこの世が死ぬという、そのような境地まで、そのような自覚をした段階にまで進まなければなりません。

 では、これを切るためにはどうしなければならないでしょうか。自分が反対に帰っていくのです。自分が反対に帰り、その次にも反対に帰らなければなりません。そうでなければ、上に上がるかしなければなりません。この二つの道しかないのです。そのままは行けないのです。下に突破して帰る道と、上に飛躍する道しかありません。

 それゆえ、宗教者たちが行く道は、荒唐無稽の道であり、誰しもが行ける道ではないというのです。下に突破していこうとするので、行きづらい道であり、超越していこうとするので、荒唐無稽な道です。ですから、宗教者たちが行く道は、受難の道であり、荒唐無稽な道です。

 本当に、天の国に行くことを望めば、夫が怨 讐になるのです。イエス様のみ言のように、自分の家の家族が怨讐なのです。その言葉が成就せずには終わりの日を迎え、メシヤであられる主を新郎として侍ることのできる道がないのです。誰が怨讐になるでしょうか。男性の前に女性が怨讐になり、兄弟が怨讐になり、父母が怨讐になり、おじいさんが怨讐になり、その国までも怨讐になるのです。

 したがって、悪なる者たちが主体となったこれに勝たなくては、神様の前に行くことができません。これを超越する前には、神様はこれを取ることができません。もし、その中にあるものを取れば、サタンがもって、遊び、戯れた、残り物に対するのと同じ立場なので、それを取ることはできません。

 そのような観点から見るときに、聖書観ははっきりしているというのです。皆さんが聖書を見れば、それが理論的ではなく、前後が合わない逆説的な論理のようですが、逆説的なので、真理の道と接することができるのです。

 現実に勝たなければなりません。現実の罪悪世界に代わって、自分が責任を負い、自分が蕩減すると同時に、勝たなければなりません。そうでなければ、皆さんの前に死が訪れるのです。ですから、未来を克服しなければなりません。未来の死に対して、地獄なのか、天国なのかという問題を克服しなければなりません。地獄に行くのか、天国に行くのかというのは、死んで決定することではありません。この地上で決定しなければなりません。決定してチケットを買って行かなければなりません。

 歴史的な罪を悔い改め、世界的な罪を悔い改め、現実的サタン圏でサタン側の個人を屈服させなければなりません。女性で言えば、サタン側の個人を屈服させ、サタン側の息子を完全に屈服させてこそ、神様の愛を受けることのできる娘の資格を得るのです。その次には、サタン側の兄さん、サタン側の夫を屈服させなければならず、サタン側のお父さん、サタン側のおじいさん、サタン側の王を屈服させてこそ、エバの解放圏が生まれるのです。

 皆さんはそのようなことを考えたことがありますか。「私は統一教会を信じているので、天国に行く」、そのようなでたらめはないのです。それがそのようなどんぶり勘定からはなっていないのです。ですから、本当に神様を信じるためには、家庭を捨てろという話、兄弟を捨てろという話、それがみな妥当な話なのです。父母を断ち、越えていかなければなりません。後ろに抜け出ていけば勝たなければなりません。越えていかなければなりません。ですから、今まで統一教会は受難の道を歩んできたのです。民族の前に踏まれながら、踏まれる道をかき分けてきたのです。そのように踏まれながらも、今まで滅びなかったのです。岩山を突破していったのです。生命のある木の根は、岩をも壊していくのと同様に、その場から飛躍するのです。韓国で妨害すれば、妨害線を越え、外国にまで行って、基盤をつくり、堂々と登場するのです。

 文先生が知恵があって、そうなのではありません。天運が行く道を、法度に従えば、誰でもみなそのようになるのです。それゆえ、信仰の道は現実の克服と飛躍、あるいは超越の道です。それを知らない人は、地獄に行きます。天国には行けないのです。この世を完全に克服した者であり、この世を完全に超越した者であってこそ、天国に入るのです。そうでなく、一端だけ、一条件でも残れば、サタンが引っ張っていくのです。

 このような問題を見るとき、どれほど信仰の道が困難かということが分かります。一国の国王に
なって、今や最後の栄枯盛衰を前におき、呻吟する運命の道よりも何百倍、何千倍深刻な問題だというのです。皆さんの人生は簡単ではないのです。自分の人生というものは、最高の権威をもった万王の王の権威まで見つめ、進んでいく道なので、そのことが簡単ではないということを、皆さんは知らなければなりません。

◆先に犠牲になり、愛し、尽くそうとし、死なんとする人となれ

 では、皆さんはどの程度でしょうか。私たち統一教会の教会員たちは「食口」と言いますが、いつ皆さんは兄さんとして、いつ姉さんとして、いつ弟妹として愛したことがあるかというのです。「エデンの園がいくら広く、いくら世界が広いといっても、それはみなやめにして、あなた方同士、兄弟同士、私たち食口同士暮らすのを見たい」と言いながら、神様が訪ねてくるに値しますか。神様が記念し、記念するだけでなく宣伝し、「誰それ兄弟はどこにいるか。そのような兄弟が見たいので、私はそこに行って暮らそう」と言える、訪ねてくることのできるそのような兄弟の因縁をもっているかというのです。もっていますか。

 ですから、マタイによる福音書五章四十八節の「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉は何についていう言葉でしょうか。言葉だけではありません。神様御自身が見たい人は、どのような人でしょうか。一人として息子の愛を受け、一人として兄さんの愛を受け、一人として兄貴であるとか弟の愛をみな受け、一人として妻と夫の愛を神様が喜ばれ得る最高の理想的な場で根こそぎ受けるのです。それだけでなく、神様の愛の中で、息子、娘を愛する真なる父母となり、真なるおじさんとなり、真なるおじいさんとなり、真なる王になるのが願いだというのです。

 神様の立場から、皆さんをそのような観点から見るとき、どれほど差があるでしょうか。それは皆さんがよく知っていると思います。自分はどの級にいるかということをよく知っていると思います。ですから、「平和をつくり出す人は神の子である」という言葉を私たちに教えてくれたのです。

 なぜ平和をつくり出す人は神の子だとおっしゃったのでしょうか。平和をつくり出そうとすれば、主人以上の役を果たさなければなりません。十人の複雑なことを和解させようとすれば、十人以上の十字架を負わなくては、和解させることはできないのです。そうなるのです。どういうことかというと、十字架を代わりに負うことのできる立場に立ったかということです。それに従って、和解が生まれるのです。そのように行く道でのみ、神の子が生まれるということなのです。

 ここで語っている人は、習慣的な道を行く人ではありません。今までこの原理が提示し、原則が提示する、そのような立場で先頭に立ち、走ってきた人なのです。私は公席で、「神様が文先生を愛さなければ、神様がいらっしゃらない」ということを断言し、この道を歩んでいるのです。そのような道を今まで開拓してきた人なのです。

 皆さんを愛するにおいて、この道理をどのように経ていくのでしょうか。神様の前に私が愛を受けようといって、神様の愛を受けるのは、愛ではありません。自分が願わなくても、神様が愛さざるを得ない立場で愛を受けることのできるその道をどのように求めていくのでしょうか。愛を受けようと、自分が何かになろうという人は駄目です。絶対に駄目なのです。

 「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言いました。もてなしを受けようとする者は駄目なのです。すなわち、もてなそうとする者は、もてなしを受けるようになるのです。反対なのです。

◆新郎新婦となり、真なる父母になるのがイエス様の願い

 神様が見たい人は本性的な路程を中心として尋ね求めていかなければなりません。神様が愛することのできる最初の男性、神様が愛することのできる最初の女性、この二人が出会うことができれば、ここから初めて神様が「ああ、この地上に今から希望をおくことができる」とおっしゃるというの
です。

 神様の摂理のみ旨は、堕落したアダムとエバよりましな男性と女性を願い進んできたのです。それが再臨思想を中心として、メシヤが来て、新郎新婦として出会うのです。それが黙示録で言う小羊の婚宴です。

 小羊の婚宴をして、何をするのでしょうか。父母になるのです。イエス様の願いとは何でしょうか。新郎新婦になることだけが願いではありません。新郎新婦になって、真なる父母になるのです。それがイエス様の願いです。

 男性として生まれれば、男性の欲望が何かというのです。男性として生まれ、そのまま死ぬのが欲望ですか。天下を振動させ、そこで一人の主体としての男性となって、天下が見下ろす中で、一人の新婦に出会い、すてきなウエディング・マーチを響かせたいのが男性の欲望なのです。大学に行くのも、出世をするのも、すべてそこに帰結するのです。ほかのものはないのです。

 ではイエス様の欲望とは何でしょうか。天下を救うことです。天下を救えばどうなるのですか。
 一人で救って死ねば、それはかわいそうな王になるのです。天下をすべて自分の手の中に入れたとしても、「ああ!
 天下が全部自分の手の中に入ったので私は幸福だ」とは言えないのです。一人でそのようになったなら、「何が幸福か、お前が死ねば終わりなのに」と言うのです。天下を統一したとしても、そのそばに妻がいてこそ、多くの人々が彼を見て、「ああ、幸福な聖君よ」と言うのです。そうでなければ、いくら継続してうまくやるといっても、幸福な聖君ではありません。かわいそうな聖君です。それゆえ、イエス様は堂々と結婚しなければなりません。

 それが文先生の願いです。それは間違いないでしょう? 「イエス様、あなたの願いは何ですか?」「私は新郎になりたい」、「その次には何ですか?」「その次にもそれです。それで終わりです」。そうですか。それで終わりではないのです。

 新郎新婦になって何をするのでしょうか。イエス様も男性なので、息子、娘をもちたいでしょうか、もちたくないでしょうか。聖人の先祖なら、男性として生まれたなら、息子、娘をもちたいでしょうか、もちたくないでしょうか。神様も息子、娘をもちたく思われるのに、神様の息子であるイエス様が息子、娘をもちたくないかというのです。それは生理的な欲望なのです。

 ですから、何をしようというのですか。真なる父母、それから真なるおじさんになりたいし、その次には、おじいさんになりたいというのです。それで終わるのではありません。その次には王です。ですから、イエス様は万王の王だといったのです。万王の王には一日ではなれません。それは一人の新婦に出会うところから、家庭を求めるところから、形成され始めるのです。

 では、神様の理想世界にはどのような人々が入って暮らせるのでしょうか。生まれながらに神様の愛を受ける一〇〇パーセント善の息子であり、生まれながらに完全な原則に合格したそのような兄さんであり、あるいは弟妹であり、それから神様の愛に合格した夫であり、お父さんであり、おじさんであり、おじいさんであり、王として登場する人です。そうしてこそ、そのような人が王につくのです。そのような人々であってこそ、王の位置につくのです。

 これを見れば、イエス様はみ旨を成せなかったというのです。それゆえ、皆さんはイエス様より駄目では、天国に行けないのです。イエス様より、勝らなければなりません。その勝り得る方法を教えてあげようというのです。

◆一生の間悔い改めても、足らない歴史的な罪人であることを悟るべし

 皆さんに罪があるなら、何が罪でしょうか。神様の息子になれなかったことが罪です。神様の娘になれなかったことが罪です。私たちは罪人です。誰もが罪人です。それを知らなければなりません。神様が願う兄さんになれず、兄弟になれなかったのが罪です。

 その次には、何が罪でしょうか。神様が願う新郎新婦になれなかったことが罪です。ここには結婚して息子、娘を生んで生活する人々がたくさんいますが、神様が願う新郎新婦にはなれなかったのです。それが罪です。神様が願われるおじさんになれず、神様が願うおじいさんになれず、神様が願う王の道理を守れなかったことが罪です。ですから、どれほどの罪人かをよく知らなければなりません。

 本来、誰彼を問わず、天上王国世界において、皇太子として生まれることのできる権威をもったことが人間の特権です。それが人間の価値です。王女の権威をもって生まれるのが、本来の人間の権威でした。ところが、その権威が失墜したので、父母の前に不孝な人はその権威を喪失したのと同様に、喪失した比例に従って、不孝の烙印が押されるのです。ですから、私たちが神様の前にどれほど不孝をし、どれほど不忠をし、どれほど許されない罪人かということを、皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、皆さんがいつ本当に神様の愛を受ける息子になるために、娘になるために、生命を懸けて一度努力をしてみたでしょうか。何もないのです。これを見るときに、残るのは悔い改めしかないのです。悔い改めなければなりません。

 兄弟同士いるのに、自分を中心としてどうこう言う者は罪人です。罪人がほかにいるのではありません。本然の男性の行く道、あるいは本然の女性の行く道と、神様が願う善のみ旨を中心として見るとき、そこに不合格な各段階、分野に置かれたそれ自体が罪だということを、認識しなければなりません。

 女性としての行くべき道を女性が失ったので、天上天下に許されない罪人だということを自覚しなければなりません。それゆえ、その罪を許されるためには、夜も昼も、十年の歳月を経ても駄目なら、三十年の歳月をかけて悔い改めるという気持ちをもたなければならないというのです。なぜでしょうか。三時代を経てくるからです。蘇生、長成、完成を反対に上がらなければならないので、三時代以上、苦労の道を行かなければならないのです。

◆歴史的な罪を許されるただ一つの道

 この堕落世界においては、自分一人だけ動くようにはなっていません。堕落したアダムは男性を代表するので、アダム一人が堕落しましたが、その一人が堕落することによって、個人だけでなく、家庭、氏族、国家、世界まですべて引っ掛かったのです。そうして世界人類になったのです。これを復帰するためには、世界に打ち勝ち、国家に打ち勝ち、民族に打ち勝ち、それから氏族に打ち勝ち、家庭に打ち勝ち、個人に打ち勝たなければならないのです。そうでなくては、復帰ができないのです。これがとてつもない課業です。

 それゆえ、今まで天国に行った人はいませんでした。全部、楽園に行っているので、再度烙印を押して天国に行かなければなりません。そうするためには、天上法を皆さんが知らなければならないのです。個人から家庭にどのように進み、家庭から氏族にどのように進み、氏族から民族にどのように進み、民族から国家にどのように進み、国家から世界にどのように進むかを知らなければなりません。

 このように進むだけでなく、世界から再び戻ってこなければ、救えないのです。自分だけ救われては、天国に入れません。自分が救われなければならず、人を救ってあげてこそ、天国に入ることができます。

 自分が救われたのは、神様の協助を受けたからです。ですから、神様の代役者になって、救ってあげなければなりません。そのように救ってあげることによって、神様の信任を受けるようになれば、神様が愛する人として、初めて息子の資格を取得し始めるのです。そこで初めて希望的な兄弟の道、希望的な新郎新婦の道、希望的な父母の道、希望的な親戚の道、希望的な王の道が生まれるようになるのです。このようなとてつもない過程に立っているのが、今日の人間だというのです。

 もし、皆さんがこれを現実で問題視せず、これを打破するために地上で精誠を捧げず、努力しなければ、その道を永遠に行くことができないのです。永遠に行けないのです。

 では、この地上に来られるメシヤというお方はどのような存在なのでしょうか。メシヤは息子として神様の愛を受けることのできる代表者です。メシヤは息子の中の王であり、兄さんの中の王であり、夫の中の王であり、おじさんの中の王であり、お父さんの中の王であり、おじいさんの中の王であり、王の中の王です。そのような歴史の記録をもってこられるお方です。王がいく種類になりますか。 息子としての王、兄さんとしての王、夫としての王、お父さんとしての王、おじさんとしての王、おじいさんとしての王、王としての王、七つの王です。そのような君王、歴史始まって以来、空前絶後の神様の特権をもってこられるお方です。

 そのようなお方を誰が捕まえて殺したのかというと、堕落した人間たちが捕まえて殺しました。そうでなくても、許されない罪人であるにもかかわらず、ここに加えて、メシヤを捕まえて殺しました。ですから、これを自覚しなくては帰る道がありません。メシヤがそのようなお方なので、メシヤを殺した罪を悔い改めなくては、天国に行けません。神様の立場から見れば、私たち人類を代表して死んだのです。また、ローマはサタンの国を代表して殺したのです。このようなとてつもない罪を犯した人間なので、悔い改めなくては救いの道を行くことができないということを、皆さんは知らなければなりません。

 イエス様はどのようなお方として来られたのでしょうか。真正な息子として来たし、兄さんとして、夫として、それから真正なお父さんとして、真正なおじさんとして、真正なおじいさんとして、真正な王として来られたお方であるにもかかわらず、このお方を捕まえて殺したのです。一人だけ殺しても許されないのに、歴史始まって以来、全体を総合した大王の権威をもって来られたそのお方を殺した罪は、何で許しを受けるのでしょうか。許すすべがないというのです。

 それゆえ、許しを受けられるたった一つの道は、死を覚悟してイエス様のために生命を捧げ、祭物になることです。その道以外には、許される道がありません。結論がそれです。ですから、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言うのです。


◆歴史的な罪を悔い改める道を教えてあげるために現れた統一教会

 皆さん、世の中では自分のお母さんやお父さんを殺せば、許されない罪人です。ところが、このお方は真なるお方です。真なる息子であり、真なる兄さんであり、真なる夫であり、真なるお父さんであり、真なるおじさんであり、真なるおじいさんであり、真なる君王として来た、歴史始まって以来たったお一人しかいないお方です。人類はそのお方を殺したサタンの元凶たちなのです。そのような罪人がどこに行って、頭を上げ、じたばたしながら、自分の主張をしたりするのですか。

 統一教会は、何をするためにこの世に現れたのでしょうか。この罪を悔い改めることのできる道を教えてあげようとして現れたのです。そうするためには、どのような自覚をもたなければならないで
しょうか。信仰で救いを得るそのような内容よりも、どのような自覚をもたなければならないでしょうか。悪なる世界を代表した自覚をもたなければなりません。数多くの王を代表した自覚、数多くの夫を代表した自覚、数多くの息子を代表した自覚、そうして、イエス様の前で堂々と自分を主張するのではなく、イエス様に対して生命を捧げようという自覚をもたなければなりません。

 そのような立場で死んでいきながらも、イエス様を愛し、人類を愛し、逝こうとするなら、イエス様の前にあって相対的刺激になって、救いの道を訪ねていけるというのです。

 ですから、世界を代表した自覚をもたなければなりません。男性も世界を代表した自覚をもたなければならず、女性も世界を代表した自覚をもたなければなりません。歴史的な勝利の祭物にならなければならないという自覚、時代的な勝利の主体にならなければならないという自覚をしなければならないというのです。メシヤを殺したので、自覚しなければならないそのような立場で、殺したそのお方の前で、自分が死んで蕩減し、そのお方の哀れみが自分に及ぶことによって、彼と共に復活の栄光に参与しようという心をもたなければなりません。そうでなくては、天国に入ることができないというのが原則なのです。

 それゆえ、先生が行く道はそれを標準として行く道なのです。眠るにおいて、歴史始まって以来一番眠らなかった男になろうというのです。苦労をするにおいても、一番たくさん苦労する人になろうというのです。ですから、私はしなかったことがないのです。人間がすることで、できないことがないのです。今までこの復帰の途上において、誰よりも深刻な立場で苦労の道を経て、民族が反対し、世界の人が反対する場で、それを堂々とかき分け、今日のこの勝利的基盤を築いてきたのです。

◆真なる人になるために、一番下から犠牲奉仕せよ

 皆さんは互いが犠牲奉仕し、自分が及ぼすことのできる影響がどのように現れるかを中心として、行かなければなりません。そのような道を行かなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。そして、真なる人と罪ということを、いつも考えなければなりません。

 自分の子供を指導するとき、「お前、立派な人になりなさい」と教えるだけでなく、「立派な人になるためには、これこれこのような道を経なければならない」と教えてあげなければならないのです。お父さんならお父さんとしての責任を果たし、兄なら兄としての責任を果たし、姉なら姉としての責任を果たすのです。言い換えれば、真なる男性、真なる女性の道を行くことができる、真なる兄さん、真なる兄弟、真なる夫婦、真なる親族の因縁をわきまえて行くことができなければなりません。そして、そのような法度に外れない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て、一国の民となることのできる道が生まれることでしょう。

 忠臣は自分の子供を後回しにして、その国の民を育てるのです。それをすることができなければならないのです。また、私たちは和合し、統一しなければなりません。そうすることによって、一国を形成しなければなりません。また、私たちは天の国を見つめて行くので、(相手は)東側に入るというが、自分は西側にいるから、東側と関係ないといっては駄目です。天の国は東西で回っています。立体的に回るのです。それゆえ、彼が私であり、私が彼になり得る、このような理想的な世界に向かっていくので、互いがなくてはならないのです。

 ですから、ただ人知れないうちに、静かな所に訪ね入り、瞑想をしながら、神様と相談したいし、解決したいのです。人間だけでは駄目なので、神様と共に一勝負し、かえって自然を慕い、かえって天を慕いながら、長年本然の人間を慕いながら行く道が、信仰の道ではないかというのです。

















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