文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


み旨の完成と私たちの使命

一九七四年十二月三十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七十四巻』


 きょう、皆さんにお話ししたいことは「み旨の完成と私たちの使命」という題目のみ言です。

◆神様の救援摂理

 人が行く道には、個人の行く道があると同時に、個人を連結して家庭の行く道があり、また氏族の行く道があって、民族の行く道があり、それから国家の行く道があり、一つの世界が行かなければならない道があるのです。さらには、今日この肉身をもった私たち人間世界だけでなく、この肉身以外の世界、天上世界あるいは霊界という霊の世界にも行かなければならない道があるのです。

 本来人間が行く道を、みな行くことができなかったがゆえに、私たちは世界と共に、私たち統一教会の用語で「天宙」という名詞をもった霊界と肉界が一つになって越えていかなければならない、そして神様に戻らなければならない道を残しているのです。

 このような道を一段階一段階、漸進的過程で上昇するためには、必ずある原則をたどらなければなりません。人間として果たさなければならない責任、すなわち個人として果たさなければならない責任、家庭として果たさなければならない責任、氏族、民族、国家、世界、さらには霊界まで合わせて果たさなければならない責任的過程を、ここで解決しなくては越えていくことができないと見るのが、今日の人類歴史の路程なのです。

 このような漸進的段階の路程を知らない人間だったがゆえに、この人間を悟らせる宗教歴史を通した摂理のみ旨も延長されたのです。このような段階的に清算しなければならない問題が残っているために、この長い間の歴史を神様も完遂することができずに延長してきたのです。この段階的なすべての解決点を、神様御自身がすれば問題は簡単です。

 しかし、本来堕落というものは、神様が責任を負った立場で行われたことではなく、人間の責任下で行われたことであるために、神様は責任を負うことはできないのです。その国の国民が間違ったことを、大統領が直接責任を負えないのと同じです。自分が犯した罪は、自分が清算する条件をもたなければなりません。

 同じように、人類の先祖が堕落することによって、神様の前に罪を犯したのですが、それは神様が清算してあげられないものです。したがって人間自身がその罪を清算できる道を敷かなければならないのですが、その道を敷く中で責任を完遂し、人間の罪を清算しようとすることが、宗教を通した神様の救援摂理なのです。

 人類の先祖が堕落したその日から、私たち人間の世界は、神様のみ旨が成された世界ではなく、神様のみ旨が成されていない悲しい世界、堕落した世界になったのです。すなわち、故障した世界になってしまい、医者が必要になり、修理する責任者を必要とするようになったというのです。したがって、また調整を受けなければならない運命の道を行くべき立場にあるということが、今日私たち人間世界の悲しみなのです。この悲しみをもたらした張本人は、神様の怨 讐であるサタンだと、今日の宗教は主張しています。

 一般の人々は分かりませんが、祈祷をするとか、あるいは神秘の世界に入っていくようになれば、霊的存在があるということを確信できるようになります。これは否定できない、極めて体験しやすい事実です。

 サタンによって堕落がもたらされ、罪をもつようになりました。人間はそこに拘束を受けているために、この拘束を解かずには神様に戻れないのです。これはどんぶり勘定式にするのではありません。例えば、ひもを右に十回縛ったならば、解くためには左に十回解くべきだというのです。解かなければ戻ることはできないのです

 このような曲折が人間世界に残っているために、人間はまだ神様に対してはっきりと知ることができず、人間とは何かをはっきりと知ることができないのです。はっきりと分からない人間によってつづられた歴史がどこに行くのか、いまだ未解明の過程にとどまっているのです。

◆神様の人間救援の責任

 それゆえに、現世に至ってどのような面においても、世界の人では今後中心的ないかなる理想的形態をも備えることはできない、という結論を下すことができるのです。このような時代に、私たちの願う道があると、跳躍をするか飛躍をしなければならないという話を多くしているのです。

 跳躍をして飛躍をするには、確実で正確な目的を中心として、そのような方向に従った飛躍と跳躍をしなければなりません。目的観が設定されず、方向が決定されずに飛躍したところで、また跳躍したところで、どこに行くのかという問題になるのです。

 このような実情を見る時、どのようにしてこのようになったのでしょうか。これは人間が病気になれば、病気になった所を治して行かなければならないのに、道を誤って行ったためです。病気になったのにその病気を治せない立場に立つことによって、死ぬほかない暗澹たる世界へ進んでいく立場になったのです。これは個人の立場でも世界の立場でも同じです。

 このような観点から、「人間の救いに誰が責任をもつことができるのか」という問題を考えるならば、人間は責任を負うことができないというのです。病気になった人が、自らの病気に責任をもつことはできません。ここには必ず医者を必要とするのです。このような観点から見る時に、人間救援摂理のすべての道を敷くことも、神様以外にはできないというのです。怨 讐がつかんでいるものを解くためには、その怨讐よりすべての面で勝り、すべての面を備えたお方でなければならないのであり、そのようなお方は神様しかいないので、神様だけが救援摂理をすることができるという結論が出てくるのです。

 それでは、今までの全体歴史について見るとき、いつ神様のみ旨がなされたでしょうか。なされなかったというのです。個人完成し、この歴史時代の人類全体を支配していたサタンに敵対して血戦を行って勝利し、神様から「やあ、真なる勝利をなした」と公認を受けた人がいるかというと、いなかったのです。

 個人がそのような公認を受けた歴史がなく、家庭がそのような公認を受けた歴史がなかったというのです。また歴史的にそのような公認を受けた氏族がなく、民族、国家、世界がまだそのような公認を受けられないでいます。皆さんは、「ヤコブがイスラエルという名前を受けたではないか」と言うかもしれませんが、それは選民圏なのです。

 歴史的限界を中心として、神様のみ旨の中にあってその時の時代、僕の時代の基準を中心としては勝利しましたが、養子の時代とか息子の時代、父母の時代圏を中心としては勝利できていないのです。それゆえにイスラエル選民は、縦的基盤を拡大するための摂理を続けてきたということを、私たちは知らなければなりません。

 このように見る時、誰が勝利するのでしょうか。ある哲人が勝利するのでもなく、ある偉人や英雄が出てきてもできないのです。それは力でもできないのであり、知識でもできないのであり、またお金でもできないのです。権力や知識やお金ではできないというのです。

 もし、できる道があるならば、どこから来るのでしょうか。人としては不可能です。既に故障した私たちでは不可能であるために、その根本であり、あらゆる力の源泉である、すべての全体生命の源泉である、サタンよりもっと強い主体がいるならば、そのお方から可能だということを私たちはここで追求せざるを得ないです。そのようなお方が、神様だというのです。神様によってのみそれが可能だというのです。

 ですから、堕落した私たちが神様に戻らなければならないのです。人間へ帰ることでなく、神様に戻らなければなりません。神様に戻ろうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか。すべてをもって、そのまま戻ろうとしてはならないというのです。清算して戻らなければなりません。私が結んでいる権力や、私が結んでいる金力や、私が結んでいる知識は、すべて人為的な関係で成立したものであって、天意的関係で連結したものではないのです。

 それゆえ、ここでどのような公式が出てくるかというと、堕落した結果を否定しなければならないということです。「否定しなくては絶対に清算できない。清算しようとするなら、まず否定的な立場を取りなさい」ということが、宗教で主張せざるを得ない内容として登場すると見るのです。否定すべきだというのです。自分の権力を否定して、自分の知識を否定して、自らのすべての金力を否定しなさいというのです。

 ここで、完全な宗教が完全にもとがえすためには、完全否定から始めなければならないという結論が出てくるようになるのです。それで高等な宗教であるほど、現実を克服する問題を強要するのです。このように環境の克服問題を強調することが、本然の天意に応じ、天意に対し一つの方向を取っていくのに不可避な条件として残っているためだ、ということを私たちはここで分かるのです。

◆歴史的主流宗教

 このように見る時に、長い間の歴史時代に数多くの宗教がありましたが、その宗教の中に、ある一人が立っていれば、東西南北、四方があっても正面から眺めることができるのは一方向だけであるのと同様に、三六〇度方向に数多くの宗教がありますが、その数多くの宗教がすべて中心になるのでなく、正面を通して永生を望むことのできる一つの宗教だけが神様と直通する基盤を敷いてくるのです。それゆえ、宗教の中にも主流宗教があるべきだ、という結論が出てくるのです。

 では、その主流は、どのようにならなければならないのでしょうか。神様のみ旨の前に一致し得る方向を備えなければならないので、神様が要求するそのみ旨と完全に一つにならなければなりません。み旨の完成は、どこから出てくるのでしょうか。神様のみ旨と完全に一つになるところから出てくるのです。誰が一つにならなければならないのでしょうか。人が一つにならなければなりません。では、神様が一つなるようにしてくれるのでしょうか。そうではありません。そのようにできる環境と道はすべてつくってくれますが、行くのは私が行かなければならないのではありませんか。それで「信仰の道」という言葉が出てくるのです。また、「宗教の道」というのが出てくるのです。

 その道は、お母さん、お父さんに見せて、「自分の代わりに行ってくれ」と言っても、お母さんが自分の代わりに行くことはできず、お父さんが自分の代わりに行くことはできない道です。各自が行かなければならないのです。万民が共通的な立場で、昔のおじいさんや今後の数千代の子孫を問わず、どこの誰もがその道を行かなければならないのですが、その道を短縮させるためには、昔の信仰の先祖が行った姿に従っていかなければならないという結論が出てきます。したがって、その道を行くにおいて中心的な方向へ行く宗教思潮がなければならないことを、ここで私たちは知ることができるのです。

 それでは、歴史時代において中心的な宗教とはどのような宗教でしょうか。人間堕落に起源をおいた宗教の中で、長い歴史をもちながら終わりの日に、永遠に向けて宗教を終結させることができ、未来の目的時代まで一貫した方向で続けていくことができる宗教があるならば、その宗教を私たちは歴史の主流宗教と認めることができるのです。

 では、そのような宗教は、まずどこから始まらなければならないのでしょうか。人間から始まったものは、そのような宗教になることができないのです。神様から始まらなければなりません。神様から始まるのですが、善と悪を混ぜてするのではなく、善悪を確実に分けて、善の道はこうで悪なる道はこうだということを、完全に分別していかなければならないのです。善悪を分別させ、宗教の方向性を分別していくことは不可避なことなのです。

 このような観点から見る時、歴史的な宗教の中で、どの宗教よりもキリスト教を中心とした思想が主流になったということは、創世記で知ることができるのです。

 創世記第一章によれば、神様が天地を創造したという、直接的な天地との関係をぴたっと結んで出発するのです。そして、人と神様の関係に対してまで結論づけたのですが、それが何かというと、「神様と人間とは父子の関係だ」というのです。これは驚くべき結論です。「神様と人間とは父子の関係だ」と結論づけたという事実は、偉大な発見です。

 では、人間はどのようにしなければならないのでしょうか。父母と共に行かなければならないというのです。死んでも父母と共に死ななければならないというのです。

 このようなことを考える時、今日私たちが神様をお父様とし、私たち人間が彼の息子というようになれば、ここで私たちは永遠なる神様の前に永遠なる息子になるのです。神様が永遠なる生命の主体であるために、私たちは永遠なる生命の主体の前に相対的な子女の位置に立つがゆえに、永生できるというのです

 宗教を通して結局、何をしようというのですか。宗教を通して成功しようというならば、その成功の限界点とは何ですか。お金をもうけることでもなく、世界を征服することでもありません。愛を中心として一番近い位置に行こうというのです。その愛は、人間の愛ではありません。神様を中心として一番近い位置に行こうするその結論点とは何でしょうか。神様と人間が一番近い道、その道は夫婦関係でもありません。兄弟関係でもありません。父子の関係なのです。

◆天国に行こうとするなら

 子女の位置に行かなければならないのですが、どのようにして行かなければならないのでしょうか。その方法を知らない時は、「しゃにむに信じて行く」と、このようになるのです。しかし、「しゃにむに信じて行けばよい。しゃにむに行えばよい」ということが通じる時代は、既に過ぎました。旧約時代、新約時代には、それが通じましたが、今の時代は通じないというのです。しゃにむに信じる宗教、しゃにむに行わなければならないという宗教は、今後自分の位置をつかめずに、定着できなくなるのです。

 宗教が天の前に出ていく場合には、神様が要求する、天の側が要求する提示条件を残さなければならないのです。また、もしサタンがあの北方で、神様が南方ならば、北方の人が南方に来ようというなら、そこをパスできる内容をもたなくてはなりません。北方で公認して、南方でも公認しなくてはなりません。

 それゆえ、「サタンの公認を受けて、神様の公認を受けなければならない」という結論が出てくるのです。「そのような法がどこにあるのか」と言うかもしれませんが、天国に行くためにはサタンの公認を受けなければなりません。サタンが放してくれなければなりません。そうしてこのようにサタンが放してくれたと、神様が主張できる内容をもたなければなりません。

 神様の前に行くにおいて絶対的なものは愛です。では、愛でどのように行くのですか。それは一度になるようになっていません。救援摂理の段階を見る時、落ちるにはどこまで落ちるのでしょうか。神様の息子になるべき人間が落ちて、どこまで落ちたのでしょうか。とても激しく落ちてしまったというのです。いくら愛する息子であっても、死ぬ位置に落ちるようになれば、それは考えただけでも気分が悪いのです。ところが、人間はどれほど落ちたでしょうか。死ぬほど落ちたというのです。神様が相対できないくらい落ちたというのです。

 落ちてどこへ行ったのでしょうか。僕に行きました。それでは、誰に引きずられて落ちたのでしょうか。サタンに引きずられて落ちたのです。サタンはどのような存在ですか。神様の前には僕です。そのような僕に引きずられましたが、その僕の愛を受ける息子の位置にも立つことができないのです。その僕と、彼らに引きずられた私たち人間は怨 讐なのです。

 それで、その僕たるサタンの前に、「僕の僕」と言われるようになったのです。僕の僕、怨讐である僕の、その僕のような扱いを受けたのが人間です。それゆえ、人生というのは悲惨であり、絶望の中をさまよいながら行くのです。

◆復帰の道

 では、その僕の僕からどこへ行かなければならないのでしょうか。そのまま行けば、永遠に僕で終わるので、逆に行かなければなりません。僕の僕の位置を捨てて主人になったサタンと対決し、道をふさいでいるのを討って整備し、乗り越えなければならないのです。僕の僕が行かなければならない道は、主人である僕に勝たなければならないのです。主人の僕に勝たなければ、行くことはできないのです。そうではないですか。僕に勝たないと、行くことができないというのです。

 それは、神様とサタンが、公法によって公開裁判をするのです。検事はサタンの側であり、弁護士は天の側です。この検事と弁護士が法的条項により戦うのです。それは国家ならば、国家に利益を与えるようになる時は「善の人だ」と言い、国家に損害を及ぼすようになる時は「悪なる人だ」と言うのと同じです。

 このような戦いが行われていることを、今日、私たち人の世では知らないし、その戦いが私たちの個人生活には影響がないようですが、霊的主体である神様とサタンが歴史を通じてそのような戦いを展開してきたのです。

 ですから、ここで人間が神様の法を中心として神様のところに行くことのできる条件を備えれば、サタンがある法を中心として、人間をその法にかけて「おい、あなたは解放してあげる」と言わざるを得ないのです。「解放してあげる。行きなさい」と、このように言うのです。また神様は「君がまた入ることを願うならば入ることができる」と言うのです。いくら寂しかった神様でも、その内容さえ備えて入っていくようになれば、間違いなく通過させるようになっています。これが原則です。

 これを統一教会では、いわゆる「原理」というのです。その原理というものは何かの化学や科学の原理ではありません。物理学の原理ではありません。これは、堕落した人間が本郷に行く道を帰っていくにおいて、復帰するための人生の原則です。堕落した世界が行かなければならない道だというのです。

 それでは、個人的にその僕に勝ったならば、その次には、どのような段階に上がるようになるのでしょうか。僕に勝ったがゆえにサタンが屈服するようになれば、それからどこへ行きますか。養子の段階に入っていきます。養子に上がります。逆に上がるのです。僕の名前をもってその主人の前に、いくら関係を結んでも息子の位置に行くことはできないのです。絶対にできません。ですから、息子の位置には行くことができなくても、息子を身代わりすることのできる位置にでも行こうとするので、養子という言葉が出てきたのです。聖書のローマ人への手紙第八章を見れば、「アバ、父よ」と呼んで、養子になることを願うという内容があります。そのように私たちの人生の道は、養子になることを願うのです。

 しかし、養子というものがいくら良くできたとしても、片目の不自由な実子ほどにもなれないのです。それが理解できますか。ある億万長者のおじいさんが、すべての財産を相続させなければならないのですが、息子がいなくて養子に相続をするようになりました。その養子は優秀で、その国で一番優れた人物で、内外共にすべて備えていたとしても、その養子を見つめる老人の気持ちはどうでしょうか。「片目が不自由であっても、息子がいたならば良い」と考えますか、考えませんか。考えない人は、父子の関係の分からない人です。父子関係の価値が分からない人だというのです。

 そのように見る時、天地を創造した神様は、養子をもらって宇宙を相続させたいと思うでしょうか。私たち人間でも「それは仕方なくそうするのであって!」と、このように言うのです。私たち人間がそうならば、神様はどうでしょうか。「神様、宇宙で一番優れた、すべての面において人間としては歴史上最高に優秀な人がいるのですが、彼を養子として宇宙を相続させてください!」と言うと、神様は「そうか、それは良い知らせだ」と言いますか。

 このように見る時に、神様が宗教を通じて探す人、神様の真の息子を送りたいことでしょう。これは自然な考えです。それゆえ、養子的宗教時代から直系的子女時代に、その相続を受けることができる、あるいは因縁を連結させることができる道がなければなりません。

 では、僕が養子の位置に行こうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は世界的なお方であるために、歴史的なお方であるために、絶対的な唯一のお方であるために、そのお方の前に養子として入っていくことのできる人は、善のために生きた歴史的な代表にならなければなりません。そのような人でなければ、神様は選ぶことができないのです。

 アブラハムのような人は、自分の息子まで祭物として捧げながらも神様についていきました。それゆえに信仰の先祖になることができたのです。祝福は、そこでなされるのです。祝福は、そこから出てくるのです。ですから世界的でなければなりません。世界的な人にならなければなりません。

 「私が近所でこれくらいするので、私を立てて世界を救ってください!」と言ったとしても、彼を通じて世界を救うことができますか。世界的な中心存在になるためには世界的な基盤を築き、そこで勝利する過程をたどらなければなりません。そうする時、彼は世界的な代表、世界的な中心者になることができるのです。

 神様も同じです。僕の中から世界的な存在、神様のために生きるにおいて歴史を代表し、時代を代表できる最高の先端に上がったただ一つの存在がなくては、真の僕から養子へ連結できません。これを知らなければなりません。また、養子から直系の息子の段階に入っていくには、どうならなければならないのでしょうか。これも世界的でなければなりません。

◆メシヤ思想

 今から神様の息子がこの地上に来るといって、その時「おいおい、世界的個人基盤を築け。世界的家庭基盤を築け。世界的民族基盤を築け。世界的国家基盤を築け」と言っていては、既に遅いのです。

 それで天は、世界救道の道を広めることよって、特定の民族を用いて僕の立場から世界で一番優れた僕の群れへと、特別に訓練させるのです。数多くの民族がいますが、その中で一つの民族を選び、世界で一番優れた民族として訓練させなければなりません。それは、僕の僕の段階から僕の段階、養子の段階を経て息子の段階にまで至るためには不可避なのです。

 そのような特殊な民族がいなければならないのですが、歴史時代にそのような民族がいたでしょうか。このような観点から「宗教」という名詞をおいて見るときに、選民思想があったという事実は驚くべきことです。歴史時代にそのような人がいて、そのような民族を代表してイスラエル民族がいたという事実は、驚くべき事実です。イスラエル民族は、神様の経綸の中でかなめとされた特定の民族だということを、このような観点から私たちは認めざるを得ないのです。そのような民族がイスラエル民族なのです。

 このようなイスラエル民族を立てて、数千年歴史時代をたどりながら屈辱と試練を克服し、失望と絶望に当面しながらもそれを越えたのです。波がすてきなのは、上がった波が大きいといって、その大きいのがすてきなのではありません。また、上がったその波がぐっと下りていったとして、そこで終わるのではありません。上がって、ぐっと下りていって、下りていって、またぐっと上がるということがすてきなのです。

 歴史も同じです。そのように屈曲の多い歴史時代を経なければなりません。そのような悲惨な歴史過程において、神様が愛する民族は、どのような民族も遭わなかった悲惨な民族史の背景を残さなければなりません。いかなる受難の道でも後退する弱者の群れでなく、前進して克服していく群れなのです。次元の高い所に向かって、倒れればまた起きて前進し、死ぬ日には、あすの後継者の前に遺言として前進を命令できる民族にならなければなりません。

 それが何かというと、特殊な民族です。イスラエル国がそうではないですか。皆さん、第二次大戦の時、ヒトラーが六百万を超えるイスラエル人を殺害しました。ところがその民族は、現在痕跡がなくなったり、減ったのではありません。荒波に乗って入っていき落ちたのですが、生き残ったのです。滅亡、破綻の境地で消えていくそのような滅亡の与件を退け、希望の独立した主権国家としてこの土地に現れ、近世二十世紀文明の後半期において、世界的な注目の対象国家になったのがイスラエル民族です。

 その民族が行く道には、試練が多かったのです。包囲されたそのアラブ国家の包囲網を切り開いていかなければならないのです。ここで後退するようになれば、歴史的に過ぎたすべての波が消えてしまうのです、ここでより一層波を高めて前進し、世界を巻き込む一つの道があれば、その民族は世界に自慢することのできる民族になるはずです。

 そのような余力とそのような未来観をもった思想があるのかという時に、それがメシヤ思想だというのです。一番偉大なことは、それです。いくら山中に入って暮らし、いくら谷底に入っていったとしても、そこでメシヤに出会う日には飛躍するというのです。

 では、メシヤとはどのようなお方でしょうか。目的観を確実に提示するために来られるお方であり、確実な方向をもって来られるお方です。それゆえに彼と共に立って、その目的に向かうようになる時は、一時にその目的を成し遂げられる人になるのであり、一時にその方向と一致することのできる民族になるのです。そのような民族は、今後、歴史的転換期において偉大な中心的使命を果たすことができると見るのです。これがメシヤ思想です。ユダヤ人がもつメシヤ思想だというのです。

◆メシヤの位置

 では、四千年前に約束したメシヤがイスラエル民族に送られましたが、そのメシヤとして来られたお方はどのような存在かということを、皆さんは知らなければなりません。メシヤとして来られたお方はどのような存在でしょうか。まず神様のみ旨の中で個人完成の標準を探し立てなければなりません。それは一代だけではないのです。過去、現在、未来を通じて立てるようになるのです。

 それゆえ、神様が手を挙げて、「おお、人類歴史上において人間としてサタンを個人的に身動きできないように、一から百まで一〇〇パーセント屈服させた代表者である」と言うことができる者はメシヤ以外にはあり得ません。

 それは、どういう問題圏に入っていかなければならないのでしょうか。心情問題圏に入っていかなければなりません。言葉または法では駄目なのです。心情問題に入っていかなければなりません。ですから、そうすることのできる人が来なければならないというのです。

 そのような個人的にみ旨を完成したモデルがいなければなりません。そのモデルは一時的なモデルではありません。三十三年間いて、逝きましたが、一時的モデルではなく永遠のモデルであり、堕落した人類が完全にみな完成して、そのモデル型を備えて、帰る時まで残るべき使命をもったモデルです。そのようなモデルが現れなければなりません。

 そのようなモデル的個人の使命を果たして、神様が「そうだ」と公認できなければなりません。内的、外的なすべての具備条件を備え、判断できる権限をもって来られるお方が誰かというと、救世主です。そのお方は法に引っ掛かったものを解放しなければならず、サタンの法で支配する王を身動きできないように屈服させることができなければなりません。

 そうするためには、国際法だとか、今は国際法も国家を制御できませんが、より大きな公義の法度によって完備された、解決点を提示できる法がなければなりません。そのようになる時は、低い分野の法的条件を超越できるので、そこで解放が起こるのです。世の中と同じなのです。歴史時代を代表して神様のみ旨の個人的完成完結を見て、来られたお方がメシヤです。

 ではメシヤという立場は、どのような立場でしょうか。神様のみ旨を完成すべき立場から見るとき、今までの六千年歴史時代を通して見ても、中心存在がなかったというのです。尺度がなかったのです。メートルなら、そのメートルの原器は一つしかないのです。千万個のメートル計器があっても、それが合うか合わないか、どこかに行って大体合わせてみて、合わないときには、いくら大きいもので作っても、捨てるのです。

 それは、なぜそうでしょうか。万民公義によってこの世代の前に、公法規定の上に立っているからです。人々は互いに自分がいい立場に立とうとするので、法がなければならないのです。それを無視する人は、今日、この組織社会で否定されるのです。

 その次にすべきこととは何でしょうか。神様は家庭的モデルをもつことができませんでした。神様は欲が深いお方です。人は誰に似ましたか。人をよく見ると、結果的存在なので、原因に似たというのです。いくら考えても、自分が原因となる存在ではないからです。原因と結果は相応するものなので、ここでは相応点を取り、対象的帰一点を追求しなければならないのが、相対的関係においての原則です。

 ですから、私がこのようになったのは、その原因の前にそのように一つになるためになったのだという話です。神様がそうなので、私がそうだというのです。私が欲張りであれば、神様も一番の欲張りだというのです。人間は反法度的な欲張りですが、神様は法度的な欲張りなのです。それが違います。

 ですから、私たちもその道理に従えば、欲の目的を達成できます。神様がその目的をみな成し遂げるとしても、私は神様の法度に従いさえすれば、神様の立場、天の国の最上にでも行くことができるというのです。

 では皆さんは、個人的完成を完了したモデル型のメシヤに出会いたいですか、家庭的すべてのことを完結した人類の過去、現在の家庭的モデル型の責任を負ったメシヤに出会いたいですか。それは尋ねてみるまでもないでしょう。尋ねる必要がどこにありますか。それは小学校の子供たち、幼稚園の子供たちに尋ねてみても、みな満点を取るはずですが、同じなのです。

 では、その次の段階はどうですか。家庭を完結することのできるメシヤを迎えたいですか、氏族を完結し、天意を完成させることのできる責任を負ったメシヤを迎えたいですか、国家を中心として数多くの国家のモデル型として完成し、世界に入っていくことのできるメシヤ的責任を負ったお方を迎えたいですか。それも尋ねる必要はないでしょう。欲が深いから! みんなそうです。一番最後には何かというと、天宙までです。

 このような観点からこの宇宙を見つめ、神様の摂理観を見つめるとき、イエス様はどのような男でしょうか。このような深刻な問題について、昼夜の別なく悩んだ代表者です。これは想像して語る話ではありません。知らない人々はただ手探りして、捕まえたものがあれば「ああ、これは私のもの!」と言うというのです。それはもっといいというのです。イエス様は、世界史的な立場で最も深刻だった人です。

◆歴史的終末時代の到来

 皆さん、レスリングのようなものをたまに見るでしょう? レスリングのチャンピオンたちが戦うのを見ると、どれくらい熾烈ですか。普通の人々は見ただけでも、とても手に汗をかくのです。ところが、その人々が戦うにおいて、秘法は多くありません。相手より一つだけ多くもつのです。一つの秘法だけ多くもっていれば、打ち勝つのです。

 それゆえ、世界的に蹂 躙しているサタンを処断し、追放するためには、それ以上の知恵をもたなければなりません。この世界に対し自分が理想世界の完成を目標として前進するなら、私たちの怨 讐になる世界を率いるある代表が、自分の目前に現れるというのです。これは当然の結論です。死亡の力があったなら、その死亡の力が前に現れて四つに組み合うのです。このような世界が近づけば、歴史的終末時代なので、この上ない腐敗時代が来るのです。この上ない混乱時代が来るだろうというのです。なぜでしょうか。神様が歴史時代に語ることのできない秩序の時代、語ることのできない希望の時代をもたらそうとするなら、悪はその反対を行い、この環境を惑わそうとするというのです。

 それゆえ、終わりの日が近づけば近づくほど、あらゆるこの世的秩序に破綻が生じるのです。サタンは必ずそうすることでしょう。父母が子供を理解できず、息子が父母を理解できず、夫が妻を理解できず、妻が夫を理解できず、国の主権者がその民を理解できず、民がその主権者を理解できず、すべて二つに分かれるというのです。そのような時が来るというのです。これは私たちが、理論的に推理し、そのような世界の姿を座っていても考えることができるのです。

 そうして、自分を信じようとするので、これがどこに立たなければならないのか分かりますか。竜巻が吹き、洪水になって、うず巻きができたりするのを見るので、大変です。ですから、「私をちょっと救ってくれ! 私をちょっと救ってくれって!」と言うようになるのです。ですから大変なことになったのです。行こうとすると行くこともできず、死のうとすると死ぬこともできず、生きようとすると生きることもできない、そのような時代になるのです。

 そのようになった次には、どのようなことが起こるでしょうか。神様とサタンが怨讐なら、サタンは「神様、あなたが救おうという人々はあのざまです。あの格好をちょっと見なさい、みっともないですね! あなたの息子、娘にしようという本然の人間があれなので、みっともないですね!」と言うことでしょう。そうすれば、神様は気分がいいでしょうか。神様は胸が詰まるのです。そのような時になれば、メシヤが来ることのできる時になるのです。メシヤが来る可能性がある時代に移るというのです。

 いかなる主権思想もこの世界に向かって叫ぶことができず、いかなる宗教思想もこの世界に向かって叫ぶことができず、いかなる国民、いかなる個人、あるいはいかなる家庭的な倫理も世界に向かって叫ぶことのできない時代が来ます。そのような混乱した世界が来たなら、終わりの日が来たと思いなさいというのです。正に、その時が今です。

 問題はどこにあるのでしょうか。自分自体に中心を立てるしかありません。国の中心をほかの所で探す道はないのであり、世界の中心をほかの所で探す道はないのであり、社会の中心、団体の中心、家庭の中心をほかの所で探す道はないというのです。そのように語り、そのように探していき、絶望の巣窟に入ってしまったのです。

 それゆえ、今からどこで探さなければならないのでしょうか。世界を代表できることも私から、家庭を代表することも私から、国家を代表することも私からです。自らを探さなければなりません。その私は、今日の私ではありません。そうすることのできる代表的存在がいたでしょうか。自分がそのような人を渇望して探すことを望むこの時点で、そのような自分に代わることのできる一人の人がいるなら、その人は億千万金を与えても取り換えられないのです。この国とこの世界を与えても取り換えられないのです。「その人は私に絶対的に必要な人だ」という結論は、妥当な結論ではないかというのです。

 それゆえ、今日、世界で個人的中心をどこに行って探すのでしょうか。これが問題なのです。また、この世界万民が共通的に通じることができ、共通的に帰一できる、世界と民族の前に支援できる家庭的基底の中心点はどこでしょうか。青少年たちがわきまえるべき倫理の基点はどこにあるのでしょうか。国家民族が行くべき道を示す、永遠不滅の歴史を支配でき、一つの単一民族を形成することのできる伝統的中心思想とは何でしょうか。人間だけでは、いくら努力をしても駄目です。するとおりにみなやってみて絶望した私たちでは、希望をもつことができません。

 そのような絶対的な中心があるなら、その中心は個人を身代わりした絶対的中心であり、家庭を代身した絶対的中心であり、氏族、民族、国家を代表した絶対的中心であるに違いないのです。そのようなお方がいらっしゃるなら、そのお方を通してこそ可能なのです。そのお方を通してのみ、一つの道を模索することができるというのは当然の結論です。

 そのお方と関係を結ぶためには、どのようにすべきでしょうか。思想の道で探すことができるのではなく、宗教の道で探すしかないという結論が出てきます。宗教の中の真なる宗教で探さなければならないというのです。そうするためには、今日、人為的に自分が自分の中心を、どこで探すのでしょうか。今日、形成されたそれ自体では探すことはできません。堕落した自体を開発に開発を重ねて、深い本性の原則によって天理に順応できる、本然の自分の姿勢を発見する道しかないというのです。これを仏教では「座禅」だとか、「参禅」と言うのです。

 今の時は、国をつかんでももっと大きい傷を受けるようになり、思いがけない中心に流れていくのです。世界をつかんでももっと遠く遠くに行くというのです。どのような父母をつかんでももっと遠くに行くというのです。ですから、仕方なく自分を中心としてかがんで座って考えるしかない時になったというのです。そのような時が来たのです。

 自分を見いだすためには、どうしなければならないでしょうか。つかんでいては、四方で落ちそうになるので、仕方なく頭を下げて考えるしかないというのです。このような時になったということを知らなければならないのです。民族も頭を下げて考えなければならず、個人も頭を下げて考えなければならず、家庭も頭を下げて考えなければならず、世界も頭を下げて考えなければなりません。さらには、歴史があれば歴史も頭を下げて考えるべき時が来たというのです。私たち人間だけが頭を下げて考えるのではなく、神様も頭を下げて考えるのです。

◆み旨の完成

 では、その考えがどこに行く考えにならなければならないでしょうか。自分に行く考えをもつのではないのです。自分が考え、祈祷をするなら、自分を通じて世界に行き、天に帰る考えをもたなければならないのです。そうして、歴史的なあらゆる批判をみなしておいて、そこに頭を下げ、天に帰る一つの道を模索することができれば、そこから人間と神様との関係を中心とした新しい文化世界創造の起源が形成されるだろう、このように見るのです。それゆえ、私たちはこの点を中心として行こうというのです。自分自身が堕落性をもって生まれた後孫であるので、堕落の仮面をかぶっては駄目なので、捨てなさいというのです。

 ですから、このような高貴な価値の因縁を探すためには、いかなる迫害があっても、それを克服して来なさいというのです。今日の父母と家庭とすべての世界はサタン主管圏であるので、サタンはここに国の力を加重させ、氏族の力を加重させ、宗教の力を加重させて、サタン主管圏内のあらゆるものを総動員し、一つの中心を破綻するために総攻撃する立場に立つことでしょう。そのような立場で新しい道の摸索が可能だというのです。

 では、み旨の完成はどこでするのでしょうか。ある王宮で踊り、笛を吹き、酒を飲み、歌うところでみ旨の完成が行われるのではないのです。生きるか死ぬかというところでみ旨の完成が行われるのです。

 ですから、イエス様はこれを正確に眺めて「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言いました。個人的に死なんとする者は個人的に生きるでしょうし、家庭を率い、死なんとする者は家庭的に生きるでしょうし、民族を率い、死のうとする人は民族的に生きるでしょうし、世界を率い、死のうとする人は世界的に生きるだろうというのです。

 それでイエス様が解き明かしたみ言と共に、キリスト教徒たちは個人的に死ぬ道を行き、家庭的に死ぬ道を行き、氏族的に死ぬ道を行き、民族的に死ぬ道を行き、全体が宗教的に死ぬ道を自発的に行きました。そのような道を歩いてきたのがキリスト教ではないかというのです。

 では、「死」という単語を使った目的は何でしょうか。生の意味を知るためです。では、生の価値は誰がよく知っていますか。生きようとする人は知りません。死ぬ窮地に入って、生死の岐路で天をつかんで生の価値を探ってみた人でなくては知らないのです。

 では、そのみ旨はどこから出発しなければならないのでしょうか。個人を探すところにおいても、いくら個人を探すといっても、私個人から始めるのではありません。天から出発しなければなりません。私個人の復帰も、家庭から、氏族、国家、世界、天に共に連結されて、しなければなりません。一つ一つ別々に離れて蕩減するのではなく、一時に一度に蕩減できる国家基盤、世界基盤があったなら、万民がその公法によって一時に解放され得る道があるはずですが、分かれて段階的に十年、二十年あるいは数百年このように越えれば、大変なことになります。

 このような総括的な中心の基準を段階的に越えることができると同時に、神様のみ旨の完成を代表してすることができ、サタンが屈服できる中心存在として送ろうというお方がメシヤです。このようなメシヤがいれば私は生命を差し出して行かなければならないし、天下を捨てても行かなければなりません。自分の生命が千個あるなら、それをみな捧げても彼に従わなければならないでしょう。

 彼が一つの国家基準を越えるようになれば、国家を越えたその基準によって世界国家が公式的に一度に越えることができるのです。そこで国家が勝利した基準を立て、その公式法度に入っていくようになるときは、氏族的な公式基準も無難に突破するようになるのであり、家庭的な公式基準も突破するようになるのであり、個人全体も公式基準を突破するようになるのです。その国の大統領だけ一つの法度をしっかりと越えるようになれば、その国は救われやすいというのです。

 一国の大統領がその国の政策をうまく立てれば、その国に発展があり、大統領一人が方向を正しく立てて、効果的な結果をその当代に生じるようにすれば、その国の有名な大統領になるのと同じです。

◆メシヤ降臨とイスラエル

 皆さんが頭を下げ、個人の中心を探しているとき、そこに家庭的基準になることのできる中心、あるいは氏族的中心と民族的中心と世界の中心と天宙の中心と神様の心臓部まで全部貫き、一度に解決できるそのようなお方が来られるなら、どれほどいいでしょうか。

 神様は全能であられるのに、それくらいの考えももたないのかというのです。そのようなお方を迎える日には、そのお方が一度巡回すれば、失った国も再び復帰することができるのです、失った世界も再び立てることができ、神様が今までサタンに追放され、嘲弄されたそのすべての悲しみも、一時に解決できるのです。

 そのような準備をしてきたのがキリスト教です。キリスト教がもし来られる主を中心として一つになっていたなら、七年以内に世界は一つになっていたことでしょう。

 ですから、キリスト教徒たちは賢くなるな、愚鈍になりなさいといったのです。その代わり、メシヤだけしか知らないからいいのです。ですから、そのお方が「行け!」と言えば、石の畑でも行くのです。「左の道に行きなさい!」と言えば、自分の考えるのと反対の道でも行くのです。問題は簡単なのです。そのような訓練をさせなければなりません。六千年かかっても、アダム一人を探せなかった摂理歴史をされた神様が、それはどれほど無念で悲しかったでしょうか。

 そのような事実をよく御存じの神様は、愛する人類を救うためには、そのような悲しい歴史段階をすべて越えなくては不可能だということを、一代で失ったものは一代で蕩減復帰しなければならない使命が残っていることをよく御存じなのです。ですから、このような世界史的な代表として責任を担った使命者をメシヤという名前、救世主という名を備え、必ず送らなければならないのです。

 彼のために第一次イスラエル民族は、希望をかけてイスラエル建国理念を再編成しなければなりません。第一イスラエル民族が荒野時代を経ながら闘いの道を誓ったように、私たちは夜も昼も訓練をしなければなりません。

◆メシヤの使命

 神様のみ旨はどこを通して成されるのでしょうか。人間を通してなされるのですが、そのみ旨を成すためにこの地上に来ては逝った、天が送った人々がいたというのです。彼らがアダムから、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイエス時代の洗礼ヨハネをはじめとしてそれ以後に来ては逝った、十二支派を中心とした十二使徒と七十門徒と百二十門徒です。そうして、霊的父母の基準を中心として、霊的基準を実体に完結させる天的な仕事を準備するのがキリスト教の使命です。キリスト教はこのような使命のもとで世界的な発展をしてきたのです。

 それで今日まで、全世界的に数多くの犠牲を支払ってきたのです。そのような数多くの犠牲の代価で今日の世界的版図を成し遂げたのがキリスト教です。

 では、イエス様が来て、しなければならなかった使命とは何でしょうか。天上天国を完結すると同時に、地上天国を完結することでした。その完結というものは何でしょうか。神様のみ旨を成すことです。その神様のみ旨が成される源泉はどこでしょうか。堕落しなかった本然の世界です。

 では、堕落しなかった本然の世界とはどのような世界でしょうか。そこは神様の愛の中にある地上天国です。天上天国まで直行できる兄弟の伝統を設定した所です。その次には夫婦的伝統、父母的伝統、罪のない真の息子、娘の伝統、その次には罪のない氏族、罪のない民族、罪のない国、罪のない世界が生まれる所が本然の世界ではなかったかというのです。それは神様の愛を中心として成されるというのです。それが地上天国だというのです。

 堕落はその反対なのです。その反対になることによって、誰が王になったのでしょうか。天上天国になっていたなら、神様が王になるはずですが、サタンが王になったのです。このサタンが王になることによって、サタン的な、堕落の兄弟の伝統を結び、夫婦の伝統を結び、父母の伝統を結び、子女の伝統を結び、氏族、民族、国家、世界の伝統を結ぶようになりました。これを清算してしまい、サタンから世界を復帰しなければなりません。そうして全世界的に一時に復帰して、神様の前に帰るために、来られるお方がメシヤです。これがメシヤの使命です。それゆえ、メシヤは万王の王だというのです。

 メシヤはサタンの国全体、この国々を全部なくしてしまい、人類を全部復帰して、このサタンの国の主権者である、サタンを追放してしまわなければならないのです。本然の世界ではサタンは容認されないのです。そうして帰らなければなりません。

 救援摂理というのはその過程的なものとして、歴史時代に現れたのです。この救援摂理を完結するためのものが宗教であり、その中間的橋の役割をするのが宗教だというのです。

 では、四千年を準備してイエス様を送りましたが、イエス様は何をするために来ましたか。天国を成すために、神様のみ旨を成すために来ました。では、どうすれば神様のみ旨を成し、そのみ旨を受け継ぐようになるのでしょうか。サタンの主権を壊してしまい、サタン主権者を屈服させなければなりません。その次に神様のみ意の世界に帰るのです。そうして、そこで神様のみ旨を成し遂げるのです。それでメシヤが来なければならないのです。

 イスラエル民族と一つとなったなら、世界へ通じることができたローマ帝国を、イエス様が死んでキリスト教を中心として四百年にわたって征服するのではなく、生きながら四十年以内に征服してしまって一つにしていたなら、それが中心になっていたなら、世界は一時に地上の一国に帰ってきたことでしょう。

◆イエス降臨の目的

 では、イエス様が死ぬようになった動機とは何でしょうか。どのようにして死ぬようになったのでしょうか。個人から個人の橋を架けられず、家庭の橋を架けられず、氏族の橋を架けられず、民族の橋を架けられず、国家の橋を架けられなかったからです。イエス様が死ぬことによって地上天国を完結できなかったので、地上天国を完結するためには、それを蕩減復帰しなければなりません。

 それゆえ、イエス様と反対にしなければならないというのです。イエス様ができなかったことをしなければなりません。イエス様が成せなかった地上天国を成すためには、家庭を成さなければなりません。さっき話したように、家庭的モデルを完結しなければなりません。個人自体ではサタンを屈服させることのできる権威とサタンの国に対して勝利できる能力をもちましたが、家庭的にサタンを屈服させてサタン世界に立てることのできる権威をもてなかったのです。そのような権威を氏族的にももてませんでした。民族的にももてませんでした。国家的にももてませんでした。その国民全体が反対をしました。

 一人も「イエス様に従った」とは言えないではないですか。世界的な一つの地上天国のために四千年間準備したものが、全部が反対し、相対的基盤が一時に完全に崩れたので、孤立無援なのです。ですから、死ぬしかないでしょう。

 イエス個人を守るものがなくなり、イエス家庭を守るものがなくなり、氏族を守ることができる、民族を守ることができる、国家を守ることができる基盤がなくなったので、サタンが直接イエス様と対決したのです。それゆえ、足場がないイエス様は死んでもみ旨を成さなければならないので、霊的基盤を立てたのです。イエス様の体に対することのできる基盤を世界にまで連結させるべきなのに、これができないので、霊的基準まで二つともなくなれば駄目なので、霊的基準を中心として連結させたのがキリスト教です。

 ですから、キリスト教はイエス様が行った道についていくのです。十字架の道に従っていくのです。イエス様が血を流したので、キリスト教も血を流しながら行くのです。個人的に血を流し、家庭的に血を流し、氏族的に血を流し、民族的に血を流し、国家的に血を流す、歴史的に悲惨な流血劇が生まれるのです。

 それゆえ、終わりの日になるに従って、イスラエル民族は個人的に犠牲になり、家庭的に犠牲になり、民族的に犠牲になり、国家的に犧牲になりました。ヒトラーの六百万虐殺は、個人、家庭、氏族、民族が一時に犠牲の祭物になったのではないかというのです。

 それゆえ、再び来られる主は雲に乗ってきては駄目なのです。雲に乗ってくるというのは、根拠のない話です。イエス様が雲に乗ってきますか。待ってみなさい。それは理論的に合いません。

 アダムが失敗したのをイエス様が後のアダムとして来て、完成しようとしますが、後のアダムとして霊肉を中心として地上に天国を成し、神様の愛の中で結ばれた兄弟の伝統がこの地球上に残り得なかったので、その兄弟の伝統を成し、新しい夫婦の伝統、新しい父母の伝統を成し、罪のない息子、娘を生み、神様が直接主管なさる家庭から、氏族、国家を成し、単一アダム国家、単一アダム民族を成そうとするのです。

 ところが、イエス様が十字架で亡くなったのです。その根本原因は十二弟子が一つになれなかったところにあります。十二弟子のうち三弟子、高弟と一つになれず、それから七十門徒が一つなれず、百二十門徒が一つなれず、その次には国と世界が一つになれなかったので死にました。ですから、これを蕩減復帰しなければならないというのです。

◆イエス様を中心としたみ旨

 では、イエスが結婚していたなら、死んだでしょうか。イエス様が結婚していたなら、息子、娘を生んだはずです。その罪のない息子、娘を全部連れて、接ぎ木する役事をするようになれば、息子、娘だけでも、カイン・アベル蕩減復帰原則において、絶対服従だけするようになれば、一度に氏族編成、民族編成がみななされるのです。

 そうなれば、全部イエス様の指揮下に入るようになって、イエス様は直ちにイスラエル国の王になるのです。そうなっていたなら、誰が捕まえて殺したでしょうか。その時のローマの政治勢力というのは、とても疲労困憊している時でした。イエス様がその時に旗だけ掲げれば、アラブ圏内にいたエジプトの十二支派が一度に団結し、ローマに入っていくことができました。死んで入っていくのではなく、生きて入っていってこそいいのです。追い出され追われていくのでなく、歓迎を受けながらローマに入城しなければならなかったのです。

 そうであったなら、アラブ圏内は既に統一されていたので、今日のイスラム教圏というものはな
かったはずです。その当時のローマも仕方がありませんでした。思想的な主導者、責任者になって率いるイエス様の前に、ローマは戦うこともなかったのです。伝道作戦だけすれば、できるようになっていました。火だけつければできるようになっていました。電気のスイッチを上げれば火がちょうどつくように、なるようになっていたのです。

 そのようにしたなら、イエス様が三十三年以後、七年以内でローマを平定できたはずです。そうしていたなら、ローマ民族を越えて世界的基盤を築いたでしょうし、そうなれば、今日のキリスト教はなかったはずです。今日のカトリック教会だとか、ホーリネス教会、メソジスト教会、長老派教会のようなものはなかったはずです。これはイスラエル民族史の延長です。

 イエス様が結婚しなければならないという話は、普遍妥当な話ではないかというのです。イエス様が独身だったので、本当に結婚したかったというのです。結婚する場合には、花嫁なら誰でもいいのではありません。世界で一番の花嫁を求めなければならないのです。イエス様はイスラエル歴史を通じて、選民の中で民族を代表した一人の女性を求めてきたのです。その女性に会うために来たのです。

 それは、誰がならなければならなかったのか知っていますか。ザカリヤ家庭とヨセフ家庭が一つとなったなら、家庭的に宴会をし、息子、娘を生み、場を整え、死んでもイエス家庭を通じて世界に延長できる足場になったことでしょう。これを中心としてキリスト教圏、新しいイスラエル圏世界主義を宣布すべきだったのが本来のみ旨でした。

 ところが、そのみ旨を成せなかったので、イエス様が再び来なければならないのです。再び来るにおいて、メシヤは絶対的な神様のみ旨のために来るので、その神様のみ旨が二つではなく一つであるように、その道も一つです。二つではありません。一つのみ旨を成すために来るメシヤが地上に来る方法も、一つの方法であって、二つの方法はないというのです。

 では、一人のメシヤがこの地に来て、しなければならないこととは何でしょうか。世界的な新しい家庭を編成し、新しい氏族、民族、国家を編成しなければなりませんが、それを果たせずに逝ったので、再び来てそれを代わってしなければならないでしょう。出張に行った会社員が事務をすべて済ませたなら、何をしにもう一度出張に行きますか。同じです。

 メシヤが再び来る方法は、一つだというのです。絶対的な神様の一つのみ旨を成すために来る絶対的な神様の息子が行く道は、いつも永遠不変です。それゆえ、イエス様が肉身で来て、み旨を成せなかったので、再び来るときも、肉身で来なければならないということは、妥当な理論です。

◆み旨の完成と神様の解放

 ですから、先生は「神様の恨みを解こう! イエス解怨、聖霊解怨、歴史的なすべての先祖たちが失敗したものをみな収拾しよう!」と言うのです。

 今まではアブラハムをどのように解放させたでしょうか。それを知らなかったのです。モーセが失敗したのをどうすべきか知らなかったのです。アブラハムが知らなかったのです。イサク、ヤコブが知らなかったのです。洗礼ヨハネも知らなかったのです。イエス様自身もはっきりと知らなかったのです。それをどうしなければならないでしょうか。私はイエス様に会ってみて、洗礼ヨハネに会ってみました。みな会ってみて、みな知っているので、話すのです。

 み旨の完成と私たちの使命ということの結論を付けるなら、今からは生命を注いで最後の激戦場に臨む厳粛な精兵になろうという結論しか下すことはできません。歴史的な恨みの峠を埋めることのできる道があるなら、その道を行かなければなりません。そうなれば、自分一代に願った願いを成就できなくとも、千年、万年その場から称賛の声が聞こえることでしょう。

















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