文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


侍る生活

一九七五年五月一日
韓国の清平聖地 『文鮮明先生み言選集第七十八巻』


 今後、皆さんが考えるべきことは、侍る生活を実践しなければならない時に入っていくということです。

◆侍る生活の必要性

 それでは侍る生活をしようとするなら、一番最初に誰に侍らなければならないでしょうか。神様に侍らなければならないのです。神様に侍る目的は、結局私が良くなるためのものです。私が良くなるには神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受けないと、どんなに外的に自分が良くなろうと努力してみたところで効果がありません。神様の愛がとどまることができる人にならなくては良くなることができないのです。

 今日まで統一教会は、迫害の中で真に難しい道を歩んできましたが、今まで滅びず発展してきたのは、神様のみ旨の中にあって神様の愛を受けることのできる立場にあったためです。神様の愛を受ける団体や人は、神様が保護するというのです。

 父母は愛する子があれば、子が考えなくてもいつも思っているのです。この世の中でもそうです。夫婦ならば、夫婦の間で愛する妻や夫に対しては、その当事者が知らなくても考えてあげ、福を祈ってあげ、あるいは助けることのできる道をつくってあげようとします。このような夫婦の愛によって因縁が生じるのです。

 国に対してもそうです。国を愛する人がいるという時、国を愛するその心に感動を受けて、その国民がその人を通して福を受けるようになるというのです。その国を愛する人によって国民全体が福を受けるようになるというのです。それゆえ、その国においてすべての国民が愛国者になることを願わなければなりません。愛国者が多くなればその国は興るのです。それはなぜそうなのかと言えば、一国のすべての存在物が生まれてくるときに、本来、神様の愛の中で保護を受けて生まれたためです。

 したがって神様の愛を受ける存在の前には、我知らず引かれていくというのです。人も引かれていき、お金も引かれていき、すべての万有の存在が引かれていくのです。それはこの実体世界もそうですが、霊的世界も同じです。そのようにだんだん神様の愛をたくさん受ければたくさん受けるほど大きくなっていくことによって、それは自動的に一つの中心的な個人になることができるのであり、団体になることができるのです。また、国民を通して愛を受けることのできる基盤を築けば、世界を動かすことのできる一つの国家になるというのです。

 それが原則であるがゆえに、皆さんは侍る生活をしなければならないのです。このように、侍る生活は何ゆえしなければならないかという問題について考えてみるとき、神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。

 したがって、皆さんはまず神様に侍らなければなりません。神様の愛を受けようとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。神様が私たち人間に完全な愛をもって来られるので、私たちも完全な内容を投入しなければならないのです。

 「至誠ならば感天」という韓国の格言があるのですが、真にそれは天理に通じた言葉です。「精誠を込める」というとき、精誠を込めるとは内外をみな尽くすということです。言行深思とすべての実践と、内外のすべての私たちの良心生活圏までもすっかり合わせて捧げるということです。それが精誠です。

 そこで「精」は精神のことを言い、「誠」はみ言を意味する言偏に、成し遂げるという意味の「成」を合わせたものです。それゆえ内外のすべてを成し遂げて捧げるという意味です。そのようになってこそ感天、天が感動するというのです。天が感動することによってその人を考えて、考えるだけなく考えが常にとどまるようになれば、そこには愛が訪ねてくるのです。すべての考えがそこにとどまるようになると愛が連結するのです。

 考えるところに人の心が動くのです。それゆえ精誠を込める立場に立ってこそ、神様の愛を受けることができるのです。神様が私たち人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠ですべてのことを捧げれば、そこで初めて神様の愛を感じて、神様を愛することができるというのです。

 本来、人間が堕落したがゆえに、皆さん自身が神様を愛することができないのです。したがって、神様のために精誠を込めることによって神様の愛が私に尋ねてくるのであり、その愛を通して神様を知って神様を愛せるようになるというのです。愛の根源は神様です。

◆堕落人間が神様の愛を受けることのできる道

 私たちがこの愛の歴史を見ると、愛は神様から出発したけれども、それが移されてきた道は、昔アダムとエバの時代にはアダムに移されたのです。アダムを通して愛の歴史が連結してきたのです。

 その話は、神様の愛はお父さんを通じて連結してきたということです。その次に、お父さんを通したその愛は、お母さんを通して移されるようになります。このようにお母さん、お父さんの愛が合わさって結実するようになります。夫婦が愛で一つになることによって、本来の神様の対象的な深い愛をもつことができるというのです。

 夫婦が互いに愛をやりとりすることのできる立場で初めて、第二の愛の主人公になることができるというのが原理観です。第一の愛の主人公は神様ですが、第二の愛の主人公は、アダムとエバが一つになることによって父母になることから始まるのです。

 したがって、父母は愛の第二の主人公だというのです。そのように愛の歴史は神様から父母を通して息子に連結するのです。これが、本来の愛が由来した伝統的歴史だというのです。

 では、私たちが神様の愛を受けようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。これが問題です。今まで人々は「宗教を信じて救いを受けよう」と言ってきたのですが、ここで救いを受けるという言葉の意味は、神様の愛を受けることです。そのために今まで人々は道主を信じてきたというのです。

 各宗教ごとに主人がいるのですが、その宗教の主人とはどんな人でしょうか。人間は堕落することによって父母を失いました。放浪者のような孤児になったのです。こういう立場にあるために、この人々を神様が父母の代わりに愛の因縁を受けるようにしなくては、天の愛圏である内的救いの道理に入っていくことができません。

 したがって神様は道主を送り、道主を神様の愛を受ける息子のような立場に立て、父的使命を代行するようにするのです。そうして神様の愛の圏内に第二次的に入っていこうとするのが宗教だというのです。

◆神様の愛の出発

 キリスト教を見れば、これを備えているというのです。聖父、聖子、聖霊が正にそれです。聖子から聖霊までお父さん神、お母さん神を中心として信じて出てきたということは驚くべきことです。これは、人間がしたことではないというのです。

 天がこのような愛の理想を実現できる一つの母体として地上に宗教的な形態を備えたのですが、そこに第二の神様のような愛の主人公の形態を自ら残すことができるようにしておいたものがキリスト教です。それゆえ「キリスト教は全宗教の中心になることができる」という論理もここで成立するのです。

 神様の愛の摂理はこのような経路を通してくるので、今日の私たちが神様を信じて、また霊肉を中心とした父母に侍るのです。これは驚くべきことです。

 霊界にいる霊人や地上にいる人間において、最高の望みは神様の愛を受けることです。最高の願いも神様の愛を受けることです。ところが今までは、霊界の基準が分かれていました。今までは霊肉の実体として、神様の愛を受けることのできる父母を人間がどんなに探し出そうとしても探し出すことができず、もとうとしてももつことができなかったそのような歴史時代を経てきました。けれども今私たち統一教会時代になって、霊肉を中心とした父母の起源をもつことができるということは驚くべき事実です。

 それゆえ今日、この地上において霊肉を中心として神様の愛を完成的段階に橋渡しすることのできる責任者が、来られる主だというのです。来られる主がこの地上の主人公だというのです。

 では、そういう主人公になろうとするなら何をもたなければならないでしょうか。武器を持ってなるのではなく、権力をもってなるのではなく、何かの言葉をもってなるのではありません。それは正に愛です。公認された愛の立場でその人格が完成する時、それは万世に通じます。どこでも通じないところがありません。霊界でも王宮でも地上世界でも、どこにでもみな通じるのです。

 それで今日すべての人間は、これから来られる主人公を探しているのですが、その主人公はお父さん、お母さんだというのです。このように考えてみるとき、キリスト教で「新郎新婦」とうまく結論を下したというのです。来られる主は父として来るのであり、新婦は母として登場するのです。それが実体を備えて現れるようになる時、神様の愛は彼らを通して初めて出発するというのです。

 今日、私たち統一教会は神様の愛を受けるために信じるのですが、信じるにはどのように信じなければならないかというのです。神様の愛を中心として第二次的な愛の主人のような立場で、霊肉の完成的基盤の上に立ったのが真の父母です。それでその真の父母を中心として至誠をみな尽くす道しかないという結論に達するのです。

 そういう生活が「侍る生活」です。過去には霊界に対して、神様に対して精誠を込めたり祭祀を捧げたりしたのですが、今からはそのようなことをしなくてもよいというのです。

 今では自分の生活が祭祀であるというのです。神様の愛の圏内で美しく生き、その愛を受ける人として権威を立てることのできる生活をすることが祭祀より優るというのです。そのような時になったゆえに、侍る生活を皆さんがしなければならないのです。

◆侍る生活は精誠により真の父母と一つになる生活

 では、侍る生活とはどんな生活でしょうか。至誠をみな尽くす生活です。昔は霊的に神様に対し精誠を込めましたが、今日では実体的な父母の前に孝誠をみな尽くすのです。そのように孝誠を至誠の限り尽くす道が国に対する忠誠の起こりになり、万民に対して万国を代表した聖賢の生き方だったのです。

 したがって今日、この地上で、平面的な立場で父母に侍り孝誠をみな尽くすという事実は、国の忠臣の道理を受け継ぐことができ、世界の聖人の道理を受け継ぐことができる価値あることなのです。それゆえ神様、あるいは真の父母の前に孝子の名前をもって、孝子として公認を受けるということは偉大で驚くべきことです。その場に立つようになるならばイエス様もうらやむはずであり、今までの歴史時代のいかなる道主たちもうらやむということを皆さんは知らなければなりません。

 これから真の父母と皆さんは鉄石のように固く一つにならなければなりません。この関係はこの宇宙のいかなるものによっても切り離すことはできず、ここには異議がないというのです。自分のお母さんとお父さんに対して説明を通してそれを「違う」と言うことのできる論理があり得ますか。力でもって「違う」と言うことができますか。そのようなことは天下にありません。

 それは神様もできず、その誰もができないのと同様に、皆さんが精誠を込めて真の父母と一つになれば、誰もそれについてくることはできないのです。そこで自分だけがもつことのできる、最高の精誠を込めた基盤をもつことによって、神様の愛が父母を通して自身に宿るようになるのです。

 そういう立場に立つことによって、初めて皆さんは原理で教えてくれる神様の愛を中心として、真の父母を中心として初めて皆さんの前に愛がとどまることができるので、四位基台を完成できるというのです。これが侍る立場だということを知らなければなりません。それ以外に他の道はないというのです。

 これから神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受ける道が、その道です。神様の愛はアダムとエバから始まります。彼らが完全に一つになれば、神様と一つになることのできる主体対象関係になるので、第二の主体になるのです。それによって、実体をもった神様の愛の機関になるというのです。その機関を中心として、昔イエス様を信じた以上、道に対し精誠を込めた以上、至誠をみな尽くし孝誠の道理を成せば、自動的に神様の愛の圏内に入っていくことができるのです。

 より一層有り難いことは、昔はどんなに霊的に精誠を込めても、その精誠に対する反応を受けることのできる主体になれなかったけれども、今はそうではないというのです。父母があってその父母に精誠を込めるようになれば、その父母が霊的に反応してもくれるのですが、実体的に会うようになるならば、その父母がどんなに初めて会ったとしても、そばにいることを好むというのです。

 精誠を込めた人はそうだというのです。先生が「それ、それ、なぜ出てくるのか」という人々は精誠を込めなかった人です。精誠を込めた人は、いくら見ても嫌ではないというのです。外的な姿はどんなにみすぼらしくても天の前に精誠を込めれば、その本性が愛の主体の前に対象的な立場に立つので、その完全な対象と完全な主体の間に神様の愛が自然ににじみ出て作用をします。したがって自然に一つになります。いなければ寂しいというのです。この世に生きる楽しみがないというのです。

 それで一番おもしろい話が、御父母様のする話です。また、御父母様が一番喜ぶことが息子、娘が今、何をしているという話、自慢する話、うまくいっている話です。それが父母の楽しみであり、神様の喜びだということを皆さんが知らなければなりません。

◆精誠の重要性

 では、天国はどこにあるでしょうか。空中から落ちてくるのではありません。天国は父母と子の間にやりとりする生活的な舞台が大きく、その中にあるすべての被造物を自らの生活で理想の条件として利用できるおもしろさを一〇〇パーセント享受することのできる所です。そういう所が天国です。天国が別の所にあるのではありません。

 それゆえ仕事をしても、御父母様のためにする仕事がどれほど良いかというのです。私が違うことをしても、私がどんなに苦労をしても、その仕事が父母の命令に従って天道を明らかにすることができ、万民を解放できる驚くべき価値のある仕事だとすれば、それがどれほど有り難く、どれほど福の多いことなのか分かりません。ですから難しくても感謝して、不平不満をもたない生活にならなければなりません。そういう生活がなされるようになる時、その人は天国人になれます

 その場は皆さんが考えるような、そんなに漠然とした立場ではありません。直接的にお父様、お母様が私の皮膚にぶつかってきて、私の精神にぶつかってくるのです。

 そのようなことが心からの感動の爆発として自分を刺激することを感じれば、その人は既に天国の中で生きている人です。そのようになれば、既にちょっと人に対すれば「あの人は悪い人で、あの人は良い人だ」ということが分かります。そのようになれば皆さんが想像できない、次元の高い直接主管圏内に入ってくるのです。それが原理観です。そのように生きてみてください。

 もし皆さんが、「私がこの品物を先生に差し上げようと三年精誠を込めたにもかかわらず、持っていって差し上げることができません」と、こう言いながら、西方にいる人は東方に向けて、また東方にいる人は西方に向けて御父母様のいらっしゃる天を眺めて、一年の四季を送りながら、季節が変化すれば変化するほど、そこに沿って心がより切実になるならば直接通じます。

 自分があげたい以上のものを受けたことで感謝する、そういう心をもっていけばいくほど仕事がうまくいき、霊的世界が明るくなるというのです。結局は精誠を込めなければならないのです。

 精誠を込めることが重要だということを皆さんが知らなければなりません。皆さんが鏡を見て「この目が御父母様に会いたくて涙を何度流し、この口が御父母様の解怨成就をどれほど叫んでみたことか、この耳が御父母様のうれしい消息を聞くことをどれほど待ち焦がれ、この手がどれほど御父母様の地で血を流して仕事をしたのか。それができないことが恨だ」こういう心を感じなければなりません。その道を尋ねていくことが幸福であり、その道で天と因縁を結ぶことが幸福な道だということを知って行く人は真に幸福な人です。

 その人は誰も支配することができないのです。その人を動かすことのできる人は父母しかいないのであり、その人を感動させることのできる人も父母しかいないのであり、その人を幸福にする人も父母しかいないのです。また、父母もそうです。父母を幸福にできるのはその息子しかないのです。また、父母を喜ばせてさしあげることのできる人もその息子しかないのです。

 父母の願いがあるならば、父母自体にあるのではなく、その息子にあるのです。そうしてその父母の代を継いで、天国の継代を億千万代に相続できる道がここで繰り広げられるということを皆さんは知らなければなりません。

◆愛する心で常に精誠を込めてこそ神様の愛が共にある

 ですから、これからは侍る生活をしなければなりません。夫婦の間でもそうです。夫婦が今まで暮らしてきたのを見れば、言葉では共にすると言うけれども、実際には共にしない家庭が多いのです。自分の主張は自分の主張のままであり、主体・対象関係においては心情的に一つになれなくて、天の前に連結したその何ものもありません。昔と変わったことが何もないのです。それはそういう原則的な愛ができなかったためです。神様に侍る生活において合格した立場に立つことができなかったためにそうだというのです。今後、そのような面で特別に皆さんが努力しなければならないでしょう。

 寝ても覚めても皆さんの考えの中には天が共にあり、父母と共にあると考えなければなりません。「御父母様が何千年ぶりに尋ねてこられた!」と、このように考えてみなければなりません。その父母が何千年ぶりに一度尋ねてくるために、数多くの善なる先祖たちが犠牲の代価を払い、数多くの世界が今まで滅びながら、数多くの国がふらつきながらも立ち上がり、また滅びては立ち上がるという瀬戸際を歩いてきました。

 そうして幸い侍ったその父母、その誰よりも先に侍り精誠を込めたいその父母、そうして「たとえ我が家がわらぶきの家だとしても、その父母が行った道を振り返って尋ねてきて留まることができたならば……、そういう父母に侍ってみることができたら……」と、慕う生活をしなければならないのです。農業をしてもそうだというのです。「ああ、御父母様が来られたならばこれを差し上げなければ」というのが天地の道理です。

 天地といえば天と地をいいます。天地の道理とは何でしょうか。夫婦二人が一つになっていく道、すなわち愛の道をいうのです。それゆえ、愛があればすべてが幸福になるけれど、愛がなくなればすべてが不幸になるのです。愛があればすべてが和動するけれど、愛がなければ荒れ果てて荒野になるのです。問題はそこにあるというのです。

 御父母様が自分の地域に来られれば、御父母様の話を聞いてみたくて、ひたすらに十里の道も飛んでいくことのできる心がなければなりません。教区長とか教域長を通して伝達する消息があれば「私がまず行かなければならない」と、こう言える人にならなければなりません。皆さんはこのような心をもって、今後自分の生活舞台に実現させなければなりません。

 これだけをまず備えれば、どんなに世界に出て行っても恥ずかしくないはずです。例えば御飯を食べても、水を飲んでも、どこに行っても、座っても立っても、誰に対そうが、御父母様の前での幼い心情を彼らの前に見せることができれば、それで満点なのです。

 その場では、知識が重要なのでありません。博士学位が通じるのではありません。それはけんかをしたり、収拾するときに必要なのです。暮らす時に、学位をもって暮らしますか。神様の前で「私は○○博士だ!」と、そう言っては暮らせません。お父さんが息子に「やあやあ、哲学博士なにがし、数学博士なにがし」と、そのようにはできません。御父母様の前では、そのようなことはすべて必要ありません。

 神様の愛を誘導できるただ一つの道は、「至誠ならば感天」それしかないというのです。水を見ても御父母様を考え、何を見ても御父母様を考えなければなりません。先生はそのような人です。

◆侍る生活と天国実現

 先生は清 平が本当に好きです。自然を好む人なのです。一人でいれば心情が乾ききってしまいますが、自然を眺めれば多様な刺激を感じるようになります。それぞれこの宇宙の中に、主人公のためにその存在の姿を表しているということが、どれほど美しいかというのです。

 それで先生は、すべて主体と対象のような感じがするのです。山を見ても真にかわいそうに見え、じっとしていても呼んでいるような霊感が来るのです。自然がそのようなことを見せてくれて、私がそれを感じるようになるのです。そのようなことは一般の人はよく知らないのです。そのような世界を感じられない人は知らないのです。そのようなことを皆さんが考えなければなりません。

 言い換えれば、侍る生活は遠くにあるのではないです。神様の愛の役事は父と母を通してなされるのですが、彼らが一つになれば第二の愛の主体として現れるのです。アダムとエバが一つになっていたなら堕落はなかったのに、これが壊れたのです。それで、これを再現させるための真の父母の愛を中心として、対象的な横的基盤を拡大させる仕事が復帰歴史です。このような生活舞台を備えてこそ地上に天国実現が可能だというのです。

 天国は神様に侍って、御父母様に侍って、愛されて生きる所です。神様と御父母様に侍って、互いに愛する所が天国なのです。

 皆さんがこの愛を夫と妻に適用して、同僚の間に適用しなければなりません。私が御父母様に会いたいのと同様に、父母は自分の兄弟を自分よりももっと愛することを願います。事実がそうなのです。自分の父母には孝行すると言いながら兄弟同士けんかするようになれば、その孝行は成立しないというのです。

 父母は自分を思ってくれる心よりも、兄弟同士がより「ため」に生きることを願うのです。たとえ父母を世話することができなくても「お母さん、すこし待ってください。私は弟(妹)を愛してきます」と言えば、「こいつ、今後役に立つやつだ」と、そういうのが父母の心です。

 それと同様に、兄弟を父母以上に愛するという人は、天国の境界線内で永遠に暮らせる人です。しかし、兄弟を父母のように愛することができない人は、ここから外れるのです。このように、その道理の根本を悟ってみれば簡単だというのです。

 ですから私たち食口の間で一つになるか、なれないかということが問題です。父母の前に孝行できないそういう立場に立ったならば、父母のために自分が精誠を込めたことを、父母の代わりに自分の食口のために与えなさい。そうすれば、父母に孝行した以上のものとして天が受け入れるのです。そのような人は必ず祝福を受けるのです。

◆神様の愛を実現する所は家庭

 祝福の中で一番重要なこととは何でしょうか。お金ではなく、名誉でもありません。権力でもありません。息子、娘がうまくいくことです。皆さんがそれを知らなければなりません。祝福の中で一番良い福は、息子、娘が天の愛を受けることができるように生まれることです。

 そこから、その息子が私より神様の愛をたくさん受ければ、どのようになるでしょうか。山の谷間で降りてきた送電線のようなものを見れば、たるんでいるけれども、片方でつかんで引っ張ればぴんと張ります。同様に息子が天の愛をたくさん受けるようになれば、私がある程度落ちたとしてもぐっと上がることができるのです。恵みを受けるのです。

 そのようにして三代が自分以上にどんどん発展するようになれば、一つの世代を飛躍できるというのです。したがって、福の中の一番の福はお金でも権力でもなく、神様の愛の中に生まれた立派な息子、娘をもつことです。先生は相当にそのような面に関心があります。次に生まれる息子、娘がどのように生まれるかということが、千万金よりもっと重要なのです。

 しかも皆さんが直接的に真の父母を中心としてそのような心情の基盤を築くようになれば、統一教会の道運をもって生まれるのです。天地の運勢をもって生まれます。ある家の父母を見れば、豆のはじけた皮ぐらいにしかならないのに、息子、娘は立派に生まれるそのような場合があります。だから観相家や、四柱によって運勢を占う人までも驚くのです。「どうやってあんな家庭で生まれたのか」と言うのです。それは統一教会の道運があるからです。

 ところが「私が統一教会に入って何年にもなるのに……」こう言いながら、「自分のことを知ってくれ」と言う人がいるのですが、それはよく分かっていない人です。神様が認めて、私の父母が認めて、私の息子、娘が認めればそれでいいのです。

 「誰かを通して認めてくれ」と言ってはなりません。「認めてくれるなら認めて、嫌ならやめろ」そうでなければなりません。神様が認めて、父母が認めて、息子、娘が認めればいいのです。世の中の人がどんなに何といっても、夫婦が一つになって私と一緒に幸福で、私と一緒に感謝すれば、それは幸福な家庭になるのです。四位基台の理想を実現した基盤を備えればいいのです。こういうことを知って、これからは皆さんが家庭でそのような生活をしなければなりません。神様の愛を実践しなさいというのです。

◆精誠さえ尽くせば神様が共にある

 神様の愛はどこから来るのでしょうか。来る秘法は、他のところにあるのではありません。御父母様のために至誠を尽くし、神様のために至誠を尽くせばいいのです。神様のために至誠を尽くせば漠然としているけれども、御父母様のために至誠を尽くせば平面的に運勢が動くので、すべての面で直感的に悟ることが多いというのです。

 例えば、過去のキリスト教徒は上がる時精誠を多く尽くしました。個人で国家基準まで上がることが蕩減復帰路程です。ですから難しかったのです。一段階上がってから間違って一段階落ちれば、上がることができません。そこで巡っている途中で一生を終えるのです。精誠を込めて何段階か行ってからまた落ちれば、そこで滅びるのです。これが国家基準まで上がってくるために、数十万年もかかったのです。ですから霊的な基準を中心として、今までどれほど苦労したかというのです。

 それゆえ昔は、イエス様を信じても道に通じるのが真に難しかったのです。直接指導を受けるというのは真に困難でした。ましてや、愛という心情を感じることは真に難しかったというのです。それが原理的にあり得たでしょうか。堕落圏であるのに、本然の神様の愛がとどまることができますか。

 今までの宗教は、神様の愛ゆえに蕩減の役事をしました。神様を知らなかったなら苦労をしなくてもよかったのに……。宗教を信じることで、かえって罰を受けました。何の罰を受けたのかといえば、サタンが総攻撃し、世の中には今悪質的に罰を受ける動きがいくらでもあるのです。罰を受ける、そのような生活をしてきたというのです。

 ところが今の時代において、私たち統一教会では平面的だというのです。真の父母を中心とした基準になっているために、皆さんが一週間だけ精誠を込めれば通じるというのです。通じることができるのです。必ず御父母様が現れます。先生が現れて教えてくれるのです。これがどれほどの革命なのか知らないのです。

 昔イエス様を信じた人が、霊的にとか祈祷中にイエス様に会うことが簡単だったと思いますか。七年、二十一年の精誠を込めて、初めて何度か会えたというのです。そうして一段階一段階動くことができることを教えてくれるのです。しかし今日、統一教会の信徒はあまりにも簡単だというのです。これは平面的に、あまりにも易しい段階に入ってきたためです。

 また、神様の愛を中心として連結することのできる時代に入ってきたがゆえに、神様の愛の行く所ではすべてのサタン世界は自然に解放されるのです。神様の愛がとどまる所は、サタンの不可侵圏です。これが原理です。

 原理ということは完成圏でもたらされたことをいいます。完成圏は父母がいらっしゃる所なのですが、今日父母がいらっしゃるその完成圏に立っていれば、息子、娘は未完成な人間だといっても、父母の愛を受けることのできる保護圏内に立つことができるのです。

 したがって、父母さえしっかり自分のものにしていれば、サタンがどんなにうようよしていても、そこでは堕落できないという結論が出てくるのです。それが可能なのが私たちの教会であるからには、皆さんが生きている間にここでその心情を体得することができなければ、霊界に行ってこれが何万年、何千万年かかるか分かりません。

 この地上にいるとき、このような感じを皆さんが体験することが、肉身をもったこの驚くべき価値のある時代だということを知らなければなりません。肉身を脱いでしまえば、それが不可能だというのです。どうしますか。人は永遠に地上で生きるのではありません。短い肉身のある期間に皆さんがこれをしなければなりません。裕福に暮らしているからといってそれをするのではなく、貧困な暮らしをしているからといってそれができないのではありません。自分が置かれている立場、立場において、父母に侍る愛の心を誘発させることができなければならないというのです。

◆侍る伝統を世界的に立てていかなければならない私たち

 したがって侍る生活圏を、これから皆さんが拡大していかなければなりません。これが国家基準を越えて世界時代に向かう私たちの使命として、この伝統を立てなければなりません。皆さんがこの伝統さえ立てる日には、今後の世界にいかなる民族が現れても恥ずかしくないはずです。皆さんの権威を堂々と立てても余るでしょう。

 皆さんが、木の枝のように、根から幹が出て枝が広がれば順次的に葉が開くのと同様に、皆さんの伝統の前において、すべての人々が接ぎ木をして走るようになっています。あとで入ってきて、「ああ、私が幹になろう」と言ってはいけないのです。

 こういうことを知って、これから正に侍る生活をしなければなりません。皆さんが侍る生活をするようにしました。それで今まで敬拝しなさいと指示しました。ところがある祝福家庭は「ああ、それしなかったら良いのに」と、そのような人々がいるというのです。その日が来ることを待ち、時間を待ち焦がれて座って、自分が夜を明かしながら、その時間を準備することのできる心をもってみなさいというのです。その時間が、どれほど福の多い時間なのか知らないのです。

 教会でしろということは、全部が自分の生命の代わりにできるという「忠」の心をもてというのです。「忠」というのは何でしょうか。「忠」は中心になった心を立てることです。

 中心になった心とは何ですか。それは自分の心ではありません。父母が中心であり、神様が中心です。その心を立てることが「忠」ではないですか。そのようになっています。ですから皆さんがそのように知って、侍る生活をすることによって、神様の愛の圏内に入っていくことができます。そうすれば、神様の保護圏内にいることができるということを知らなければなりません。これからは、これをしなければなりません。

 それで先生の家庭も、今後はできれば複雑な環境をだんだん避けようとするのです。私一人でそのような境地を感じることができるけれども、お母様とか子供たちがその境地の生活ができるためには、簡素化できる生活が必要だというのです。生活を簡素化しなければならないのです。

 み旨を中心にした生活を、どのようにするのですか。そうするには学校や幼稚園も、み旨を中心にした学校、幼稚園にならなければなりません。生活のすべての環境も、そのような人々がそろって暮らさなければならないのです。これが問題になるのです。生活的雰囲気をどのように造成するかが問題です。

 その次には、一生の間生きていくにおいて接する環境を、そのようにできる環境に早くつくっておかなければならないということを先生は考えています。したがって、原理原則に一致しないものがあり、心的に荷物になり、心に傷を受ける立場に立てば、これは大きな打撃だというのです。

 先生が今では霊界に対して威信を立てました。数多くの道主が、結局はこの統一教会一つのために傍系的な立場で橋渡しをしました。それで、この一つの本然の主流が曲がらないのです。主流が曲がらないようにするためには、四方で協助していかなければならないのです。そうしなければ曲がってしまうというのです。

 そのように犠牲になった傍系的な数多くの宗教を、みな解放してあげました。天使も今までアダム再創造の役事に多くの苦労をしました。しかし解怨はできませんでした。それは神様もそうで、イエス様もそうで、数多くの宗教もそうで、御父母様もそうなのです。それで先生が神様の解怨成就式、その次には父母様解怨成就式、その次にはこの全世界に代わって解怨成就式までしたのです。

 そういう地上の天国が可能であり得る時になったのですが、先生に侍る皆さんに対して、今一番心配することは、今までの皆さんの生活態度を完全に革命しなければならないという事実です。自分たちだけで、巣をつくって入っている人がいます。それは天のためにしていることではありません。

 この愛の原則を中心として、皆さんの家庭を再度実験して構成し、新しい伝統を立て、侍る生活の起源をきちんと準備しなければなりません。この侍る生活を連結させることによって天国実現が可能なことを今悟り、その道に沿ってあすから実践躬 行できる皆さんになってくれるよう願います。



















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