文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


相続者

一九七五年八月三日
アメリカ 『文鮮明先生み言選集第七十九巻』


 きょう皆さんにお話しする題目は「相続者」です。

◆幸福よりは不幸の条件がより多い現実

 個人や家庭、あるいはいかなる国家やいかなる世界人でも、人は何かを願っています。私たち個人自体について見ても、個人自体が幸福かと一度尋ねれば「私は幸せだ。永遠に幸福な人だ」と、こう言える人が何人くらいいるかというのです。また、家庭において男性や女性が願うことは幸福な家庭です。幸福な家庭を願って準備しているのです。

 そのような観点で考えてみると、真に幸福な家庭はどれほどあるでしょうか。これが問題だというのです。大きく進んで、一国家や民族を中心として考えてみるときに、主権、あるいは国民全体について見れば、この国とこの国民が本当に幸福なのだろうか、こういう問題について考えてみるとき、問題が多いというのです。

 今、全世界に数十億にもなる人類が生きていますが、果たしてその国家や個人個人が、あるいは家庭が幸福かというときに、これが問題になっているのです。そこには偉大な宗教家もいるでしょうし、あるいは歴史上にまれな哲学者もいるでしょうし、科学者もいることでしょう。

 けれども、彼らが本当に人間世界に真の幸福をもたらすことができるのかというとき、そのようにできずにいるのです。それを願わない人がいなかったし、そのようなことのために努力しなかった人がいませんでした。しかし、私たちにもたらされた現在のすべての条件というのは、幸福だけではなく不幸の条件がもっと多いことを発見するのです。

◆幸福の主人

 ではいったい幸福の主人とは誰でしょうか。幸福の主人とは誰かというとき、皆さんが考えるには「私が幸福の主人だ」と言う人はいないのです。「この国が幸福の主人だ。この世界が幸福の主人だ。ある宗教が幸福の主人だ」と、そのようには主張できないというのです。

 あくまでも「私が幸福にならなければならない」という人は、主人ではないのです。被動的な立場にならなければならないのです。「その国が幸福でなければならない。いずれかの宗教が幸福を成し遂げる使命を果たさなければならない」と言わなければならないのであって、「私は幸福だから私と共にいればすべてが幸福だ」と言うことはできないのです。

 そのような観点で幸福の主人を知らず、幸福の出処を知らずに幸福を探すということ自体がこっけいではないかというのです。

 女性においては男性が幸福の主体になることができて、また家庭においては父母が幸福の主体になることができます。けれどもそれは私たちの生活の一面にはなるけれども、私たちの全体生活を通して私たちの思想的、理想的、理念的な見地では、それも限界性を抜け出せないことを発見するようになります。

 なぜそうなのかといえば、妻は夫を自分の幸福の主体として考えるけれども、その夫も幸福を探しているためです。父母もやはり子女の前では幸福の主体のようだけれど、その主体である父母も幸福を必要として探している立場にあるというのです。

 ですから幸福が問題だというのです。そのような幸福の主人を探さなければならない、発見しなければならないというのです。皆さんが夫と一生の間幸福に暮らすといっても、幸福の主人だと保障はできないし、自分の父母が幸福にしてくれても幸福の主人だとは保障できないというのです。彼らはいつかは逝くのであり、その国も歴史の変遷と変化に当面するようになります。ですから、いつも上がっていったり下りていったりしながら、変化する環境を通過するのです。これを考えるとき、変わらない幸福の主体を私たちは発見しなければなりません。

 私たち人間が想像力をもっと動員し、この宇宙の中でそのような幸福の主人を発見しようとするようになれば、どこに行って帰着するのでしょうか。それはいかなる思想家でもなく、哲学者でもありません。哲学者も行かなければならず、宗教家も一生を生きて逝くようになっているので、歴史とともに去っていってしまうのです。

 人間といつも共にあって幸福の主体として残り、変わる人類社会の生活をすべて収拾することのできる一つの主体が存在するならば、私たちはそのような主体を発見しなければなりません。それでそのような方があるならば、その方は神様でなければならないというのです。

 今まで宗教でも哲学でも、人生において究極的な解答の基点がどこなのかといえば、神様がいるかいないかということです。神様が本当にいらっしゃるならばすべての問題は解決するのです。そのような方がいらっしゃるならば、その方が幸福の主人です。その方だけが幸福の主人になることができます。

 それでは、神様が幸福の主体なのですが、その神様自身は幸福でしょうか。これがまた問題です。神様自身がどんなに幸福の主人でも、一人で幸福でしょうか。「幸福」というものは相対的関係から展開するのです。

 そのような観点から考えると、神様が幸福であろうとするなら、神様も主体であるので幸福であり得る対象がなくてはならないと見ます。幸福の主体であられる神様の前に対象の存在が誰かといえば、この宇宙には人間しかいないというのが結論です。

 人間世界には男性と女性がいます。男性と女性が百万、千万、何億にもなって、この世界人類になるのです。人類の問題はつまり世界的な男性と世界的な女性、すなわち男性と女性の問題です。彼らが理想的な幸福の基準を、内外に主体であられる神様と対象的な人間の価値を解決すればいいことなのです。したがって幸福であり得る神様が、幸福であり得る対象として男性、女性を見つければいいのです。

◆幸福の要件

 それでは、神様が幸福の主体としてもっている一番価値的な要素とは何でしょうか。これがこれから問題になるのです。それは何かといえば、第一に愛です。その次は生命です。その次には何かといえば、幸福だというのです。

 ところが理想がなくては幸福ではあり得ないということを知らなければなりません。理想から幸福が始まるのですが、その理想とは何ですか。理想というのは原因と結果が一つになるところでのみ始まり、主体と対象が一つになるところでのみ始まるというのです。同じなのです。それが縦的、横的にやりとりすることができ、円形的にやりとりすることができるようになれば、それを理想だと言うことができ、そこから幸福が出てくるのです。

 ところで今皆さんが一番問題視することはどこにありますか。生命問題が問題で、愛の問題が問題で、理想問題が問題だというのです。この三種類を結束させずして、また、理想の過程を経ることなしに、幸福ということは成立しません。では、その生命がどんな生命なのかというのです。神様は生命の主体なのですが、永遠な主体であるために、私も永遠な対象にならなければならないのです。そのような人間が神様の前に生命的対象自体を恋しがることは、とやかく言う必要がないことです。

 今、ある夫がいるとしましょう。その夫に妻が、永遠の理想の主体になることを望むならば、すぐに死ぬ夫であることを願いますか。そのようにはできないというのです。そういう観点で考えてみるとき、神様が生命の主体ならば、対象になる私たち人間は永生しなければならない、というのが理論的に合うのです。それゆえ真の生命をもった、永遠な存在性をもった人間にならなければなりません。

 では、生命はどこから始まったのでしょうか。皆さんが考えるとき、生命は私から、私の父母から始まったと考えているというのです。直接的関係はそう見ることができます。

 皆さんを一本の木に例えてみるとき、私たち人間は、木の一つの葉と同じ存在だというのです。そこに作用する枝はお母さん、お父さんのようで、大きい枝は先祖のようで、幹、すなわち真ん中の茎は歴史の伝統的なすべての民族とかあるいは国家になります。そしてその下には根があるのです。

 こういう観点で私たちが推理して考えるとき、見えるものと見えないものがあります。根は見えないのです。普通「あの木が良い」と言うのであって、「根が良い」と言いますか。それは夢にも考えないのです。

 私たちがこのマイクを見てもそうです。マイクは見えるけれど、このマイクの背後にはマイクを作るまでの見えない人間の努力がどれほど隠れているかというのです。見えないことが中心になって、ここに結果として現れたという事実を私たちは発見するようになります。外的に良いことが生じるためには、見えない世界の良き内容をもたなければならないという言葉が成立するのです。

 ここにある人がいるならば、その人を形成している天性や素性、あるいは本性がどうだということがより問題だというのです。皆さんが結婚するならば、相手の顔を見ますか、本性を見ますか。二つとも見て結婚したがるのです。

 皆さんが誰かというとき、その人の内容があります。ところがその人が内容のある人なのか、ない人なのか、というとき、その内容が見えますか。自分の考えとか見えない実力というものが、彼の体を通して現れるようになる時に、その人を実力者だと言い、権威がある人だと言い、元老として取り扱われるのです。こういうことを見るとき、私たちは「見えないことが根拠になって結果として現れる」ということを、普遍的な結論として下すことができます。

 では、誰が幸福でなければならないのかと尋ねれば、「私が幸福でなければならない」という答えがすぐに出てきます。「誰かって誰だ。私が幸福でないと……」と、このように答えるというのです。ここで、幸福であるための先有(前提)条件とは何でしょうか。それは、私が幸福でなければならないというとき、幸福であろうとするなら幸福であり得る内外を準備しなければ、幸福が存在しても手にすることができません。幸福は、自然に来るのではありません。受けることのできる準備ができていてこそ来るのです。

 そうするには、どのようにしなければならないでしょうか。幸福の主体である方がいれば、その方の心に合う私にならなければなりません。それゆえ幸福の主体が神様ならば、神様が好むことのできる私、神様が魅力的に感じる人にならなければなりません。そのようになれば、「おお! 私が幸福でなければ」という話が成立し得るのです。皆さんは自身が幸福でなければならないというとき、幸福であり得るそういう内外の内容を備えているのか、これが問題です。

◆神様が必要とする人

 そうするにはここで、神様がいかなる方なのかということを知らなければならないというのです。神様が何を好むかというのです。神様が権力を必要としますか、お金を必要としますか、知識を必要としますか。神様は永遠な生命をもった御自身の対象的な価値的存在を必要とし、愛をもった人と理想的な人を必要とするというのです。神様が必要とすることは、この三種類しかないのです。

 一つの木があるとするとき、その葉っぱは間違いなく根と通じることができ、幹と通じることができ、枝と通じることのできる素性をもった自体になっているというのです。結局、私の生命は神様と直結するというのです。父母と直結したのではなくて、私から始まったのではなくて、神様から直結した私だということを発見しなければなりません。

 では頂上にある葉と、一番下にある根と関係がありますか、ありませんか。関係があるというのです。全体的に関係があるのです。それなのに木の一つの葉の立場で「私だけが一番だ!」、これでいいのでしょうか。そこに私が必要である前に、小さな枝がより必要であったということを知らなかったというのです。また小さな枝ならば葉も必要であり、より大きい枝が自分より必要だということを知らなかったというのです。また、大きい枝が「幹は私に必要ない」と言うならば、それが自分よりもっと必要なことを知らなかったというのです。また、幹は自体として「私が一番だ。枝も葉も根もみな必要ない」と言うことができますか。そのようにはできないのです。それでは存在できません。幹がどんなに立派だとしても、根が自分より偉大で大きいということを知らなければなりません。

 木の生命は、根があってこそ存続します。根は生命の起源であり、永続的に生命が存続できるようにするのです。では人間世界はいったいいかなる所でしょうか。一つの木に例えれば、霊界というのは根と同じです。それゆえ人は、天地を連結させる歩みをしなければならないというのです。そのような観点で、私たち人間はこの道を尋ねなければなりません。

 男性が「女性は必要ない。男性が一番だ」と、そう言えますか。それでは存続することができないというのです。そのようにすれば一代で終わるのです。一代で終わりになるのです。それゆえ男性が貴いと同時に、女性がもっと貴いということを発見しなければなりません。また、女性もそうなのです。女性は、女性が貴いと同時に男性がより貴いということを発見しなければなりません。互いに貴い存在だということを発見しなければなりません。それはなぜでしょうか。互いにいたわり合い、互いに力づけてあげ、互いに刺激を与えることができてこそ根(基礎)となるので、木は生い茂り、育つはずです。

 皆さんはただ「おお、私が一番だ。葉のような私だけが一番だ」というのですが、葉があるためには小さな枝が必要なのと同様に、私たちは枝がもっと必要なことを知らなければなりません。

 そのような観点で考えてみれば、枝のようなものがお母さん、お父さんだというのです。ではお母さん、お父さんだけが一番ですか。お母さん、お父さんの上にはもっと大きな枝があるというのです。それが一つの氏族、すなわち親戚関係です。そうしてだんだん大きくなれば一つの国家になるのと同様に、氏族ならば氏族よりももっと必要で、より価値的な存在が何かといえば一つの幹、国家ではないかというのです。

 では幹が一番ですか。違います。根が一番です。それよりももっと貴い根があるということを知らなければなりません。正常な生命をもつことができる葉になろうとするなら、私よりも大きい枝、私よりも大きいもう一つの枝、私よりも大きい幹、幹よりも大きい根を所有しなければなりません。そうでなくては、正常な葉としての生命を維持できないのです。

 そのように見れば皆さん自体は何が必要でしょうか。「私が必要だ」というのは答えではありません。私に必要なのは父母だ、その次に父母に必要なのは先祖だ、このようにならなければならないのです。こうして一つの国家形成の起源をたどっていくようになれば、幹のような国家を形成できる伝統的思想とか、その形態があるのです。国民が団結できる形態、国家というのがあって、国家を探して上がっていくようになれば、根があるのと同じ価値がなければならないのです。

◆生命を保つことのできるただ一つの思想

 私が幸福であろうとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。「私だけ幸福ならば良い」こういう論理は成立しないのです。皆さんが本物の木の枝になり、木の葉になったと考えてみてください。それならその葉が考えることが「私が丈夫でよくなるべきだ。私が死んではいけない」というよりは、「枝が死んではならない。丈夫でなければならない」このように願うはずです。

 また、木全体が考えるならば、「根が私よりももっと丈夫でなければならない」このように考えないわけにはいかないのです。そうすると葉や枝や幹は「君は永遠に健康であるべきだ」と言うのです。祈祷をしたり、願いがあるならば「君が健康であるように。君が健康であるように」と、毎日のように言うのではないでしょうか。そのように祈祷したことに対して根は、「君が正しい。君が正しい。そうだね、そうだね」と言いながら喜ぶのです。それが正常であるにもかかわらず、木の葉が「まあ、根はかまいません。幹もかまいません。枝もかまいません。私だけが一番です」と、そのように言えますか。そんなことがあり得ますか。

 その木の葉と皆さんを比較してみるとき、皆さんも同様なのです。このように考えてみるとき、木は根が良くなければなりません。私たち人間も、根である霊界に行った先祖が良くなければならないのです。それがすべて幹と連結しているのです。それで、葉っぱも神様を中心としてある部分になっています。

 皆さんが今国にいるならば、同じ国を中心としてここに枝となって、分かれないで互いに連関性をもっているのです。では、先祖と皆さんを離せるでしょうか。神様と皆さんとを離せるかというのです。これが一つの幹を中心として東西南北の大きい枝は国と同じなのですが、世界と国家を離せるかというのです。そのようにはできません。その全部が一つに合わさって私の生命を維持して、その全部が一つに合わさって根の生命と幹の生命を維持する、共同生命維持という結果が成立するということを私たちは知らなければなりません。

 したがって、ここで最も偉大な葉とはどんな葉でしょうか。葉として他の葉に与えることができ、枝に与えることができ、幹に与えることができて、根にまで与えることができる津液(樹液)をどのように捕捉し伝達するかということが問題です。そのようにしょっちゅう供給できる私になるならば、そのような葉は死んでなくなるでしょうか、茂るでしょうか。いきいきするというのです。それを知らなければなりません。健全で強く全体のために尽くすことのできる一つの葉を起源にしたところから、新しい枝が勢いよく出てくるということを知らなければなりません。

 「原理」の「授受作用の原則」においては、与えれば来るようになっています。全体が来るのです。私が与える時は少ないものを与えたけれども、受ける時は枝々の、各葉っぱの、各幹の、根のものまですべて受けることができます。一度に受けることができます。

 では真なる生命をどこで見つけますか。真の生命はどこから来るかというのです。もちろん生命は枝から来るのです。根から一遍に来ることはできないので、みな関係を結ばなければなりません。

 ここで結論づけるならば、自身が一つの生命の位置に対して「私が考えるには、世界の人がみな私よりももっと立派でなければならない」という思想さえもてば、それはより健全な生命をもつことのできる偉大な思想になります。それゆえ私が「生まれたことは私のために生まれたのではなく、全体のために生まれた」という思想をもたなければなりません。この思想は偉大な思想です。生命を保つことのできる、ただ一つの思想です。

 そのような観点で考えれば、そばにある葉が虫に食われるからといって、「切ってしまえ」と、そのように言えますか。どうにかして、自身が犠牲になってでも、そこに消耗するエネルギーを投入してでも防御しようとする作用をしなければならないのです。「夏、暑いにもかかわらず、私のそばにびっしりとあったその葉っぱを、虫が食べてくれてうれしいなあ」、これで良いでしょうか。

 このような観点で見るようになれば、この世界の生命をもった人はすべて葉と同じです。枝が違うだけであって、同じ運命にあるということを知らなければなりません。

 こういう観点で結論づけるようになれば、「君は誰のために生きるの? 君は何のために生きるの?」と聞かれた時の答えは何ですか。「全体のゆえに生きる」というのです。皆さんの感情的観念がそのようになっているかというのです。感情的にそのようになっていますか。総じて、葉がなくても関係なくて、そばで死んでも関係ないという観念をもっているので、これが問題です。

◆全体的な考え方をもたなければ

 神様が根のような立場に立つならば、神様が一番危険とすることとは何でしょうか。互いに殺し合い生かし合い、互いが反目し、嫉視することです。それは神様を殺すことなのです。根が滅びることなので……。神様が一番恐れていることが、それです。ですから互いが反目し、嫉視するようになれば、個人自体の心と体が一つにならなければ個人が滅びるのであり、家庭の夫婦が一つにならずに反目し、嫉視すれば家庭が滅びるのであり、政府と国民が反目し、嫉視すればその国が滅びるのであり、世界自体にそういう立場の国が集まると世界がみな滅びるのです。これは歴史が証明する原則ではないかというのです。

 皆さんが普遍的に見る時に、互いに分立的な考え方が強いでしょうか、全体的な考え方が強いでしょうか。考えてみなさい。分立的な考え方を完全になくさなければなりません。それで神様は、そのようなことをなさらないではいられません。歴史上に神様がいらっしゃるならば、そのようなことをなさらざるを得ないというのです。

 互いに反目し、嫉視すれば、皆さんが死ぬだけでなく神様御自身も不幸になるので、神様もやむを得ずこの人間世界の前にこういう事をするために歴史過程に宣布がなければならないのです。人間世界に神様が生きることができ、人間が生きることのできるただ一つの方法が何かといえば、根のために生き、根のためにある私になれというのです。このような宣布をせざるを得ません。

 それで神様は、宗教を通して今までそのみ業をなしてきていらっしゃいます。神様を絶対的に、自分の生命よりも重要に感じなさい。そういう観念がなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で祈ったことを見れば、「私の思いどおりにではなく、お父様のみ意のままにしてくださいませ」と、このように結論をつけたのです。

 なぜそうしたのかといえば、思想と理念のすべての起源はイエス様ではなくて、神様であるためです。イエス様は枝であって根ではないために、枝は死んでも根さえ生きていれば新しい枝は出てくるのです。結局は推理してみればその思想だというのです。他のことはありません。共同運命だというのです。

 共同運命の生命的な秩序は根からであるので、それが一番貴いのであり、その次には幹が貴く、その次には順次的に枝が貴く、その次に葉が貴いのです。

 こういう観念の中に立っている私たち個体である人間が、自体を中心として価値を議論することは正当なことではあるけれども、このすべてのことが分からずに、考えもしないで自分を中心とした価値を論ずることは非正常的だという結論を下すことができます。それは今後除去されるはずです。また、除去しなければなりません。そうしてこそ世界が生き残るのであり、天が幸福であり得る世界をつくりあげることができるのです。

 皆さんは今までどんな観念を中心として生きてきましたか。私を中心として個人主義的に「私がうまくいくべきだ。すべてを無視して、すべてを踏んでも私がうまくいくべきだ」という考え方でした。こういう考え方をもってはいけないのです。「根と幹と枝と全部の葉に代わった私」だということを公認しなければならないのです。そうでなければならないというのです。

 「木の中で葉である私が絶対的だ。私によって木が生きられるのだ」というのはかまわないけれど、「幹とか枝とか根とか……。神様がどこにいるのか。国がどこにあるのか。家庭がどこにあるのか。みないなくても、私だけいればよい」というのは、完全に自滅することなのです。

◆人類を救援する思想

 ではこれから国も生きられて、この国が今後永遠な国として残ることのできる道とは何でしょうか。根と枝と全体のために尽くせる国になり、その中にある葉として全体に代わることができ、世界性を身代わりすることのできる人格をもたなければなりません。そのようなことを主張するならば、それは堂々とした主張です。本来は、そのために個人を重要視するのです。そのような立場では絶対的な私の個人主義はかまいません。そうしないで、国が死ぬのに家庭がありますか。父母がありますか。また、そこに親戚観念がありますか。私たちが犠牲になりこの国が犠牲になっても、世界を生かすべきだというそのような主張がなければならないというのです。

 この世界が懇切に探しているのは、自身のために、あるいは国のために生きるよりも、世界のために生きることのできる人です。そのような運動が、この世界上に現れなければこの世界は滅びるという結論が妥当なのです。そういう主張をして出てくるのは統一教会しかないというのです。

 先生が皆さんを教育する時、「自分のために生きる人になりなさい」という教育は絶対しませんでした。「私が犠牲になってでもこの枝を残すべきだ」「家庭のために自身を犠牲にしなさい」と言ったのです。私たち教会が一つの枝だというようになれば、この教会はこの国のために尽くし、また世界のために犠牲になりなさいというのです。また、一つの国をもつようになる時には、その国を犠牲にしてでも世界を救おうというのです。

 現在世界にある国家を見れば、外交問題を扱う外交官たちがすべて何をしたらよいと考えるのかといえば、他の国を欺いて倒してこそ良くやったと考えます。そうすれば、その世界がどのようになるかというのです。希望がないというのです。私たちは個人が犠牲になり家庭を残し、家庭が犠牲になり氏族を残し、氏族が犠牲になり民族を残し、民族が犠牲になり国家を残し、国家が犠牲になり世界を残し、世界が犠牲になり神様を残そうというのです。

 そのようになる時、皆さんが滅びますか。この枝が滅びますか、幹が滅びますか。そこには繁栄があるのであり、幸福の起源が現れるはずです。そのようにしてこそ統一がなされます。そうでなくては世界を統一する道がないというのです。それで私は家庭に帰って、家庭は氏族に帰って、根に戻ろうというのです。

 それでは、その一つの葉が一人で戻ることができますか。すべての幹の津液が合わさってこそ戻ることができる道が生じるのです。それで根とやりとりしてこそその大きな動き一つから小さな動きまですべて合わせて、そのような立場を運行します。全体が根と円満にやりとりすることができてこそ、理想的生命の木が生まれるのと同じ結果を私たちが追求できるのです。世界を発展させることができることがあるならば、根のために尽くせというのです。

 自分自体から東に伸びた枝は、西のために与えなければなりません。西のために与えるだけでなく南に、北に与えなければなりません。それだけでなく、上下に与えなければなりません。茎が育つところにおいて、枝がなくても育つことができますか。そのような観点で世界的な主導的役割を果たさなければならない国は、枝となる国のためになければならないことは当然の論理だというのです。それゆえ世界のために尽くしてこそ幸せに暮らせるのです。そうしてこそ国を築こうとする神様のみ旨が世界のみ旨として成し遂げられるのではないかというのです。

 皆さんがより高い枝のために生きようとするなら、皆さんは家よりも国のために、国と共に生きなければなりません。ではこの国は何のために生きなければならないでしょうか。世界のために生きなければなりません。また、この世界は何のために生きなければならないでしょうか。神様のために生きなければなりません。そのようになっていますか。

 皆さんは今まで自分自身を捨てて生きられる家庭を見つけることができなかったというのです。家庭を捨てて生きられる一つの教会を見つけることができなかったというのです。教会を捨てて頼って生きられる国を見つけましたか。国を捨てて頼ることのできるその世界を見つけましたか。また、世界を捨てて頼ることのできる神様を見つけましたか。見つけることができなかったというのです。このように頼ることができて、私のために与え保護してくれることのできるところでのみ幸福があるのです。完全な理想的主体を探さなければならないという言葉がそこで成立するのです。

 こういう観点で考えてみるとき、先生のこのような思想は人類が滅びても、今までの歴史が変わっても、いずれにせよ人類がもつべきことであり、私個人が滅びて私の家庭が滅びても、この思想を残しておかなければならないというのです。私一人失うことによって何百倍、何千倍を探し出すことができるというのです。これは驚くべきことなのです。

 誰でも利益が残れば喜ぶでしょう? 利益が間違いなく残るとすれば、資本金や自らの財産でも洗いざらいはたいてしまうのです。利益が残るなら誰でもするのです。それが賢い人だというのです。

◆理想的な道

 この思想で世界を一つにすることができます。それが可能か、そうでないのか。それは既に実験が終わりました。韓国でテストしてみたし、日本に対してテストし、アメリカのような国でもみなテストをしてみました。レバレンド・ムーンを起源とし、五色人種が一つの垣根の中で新しい家族をつくり、新しい世界をつくるという希望に満ちて共同的な生涯の目的を営むことができ、幸福を探し出すことのできる道を行くと自負する事実を見るとき、これは間違いなく成功するでしょう。

 それゆえ行くこの道はどうなのでしょうか。理想的な道へ行こうというのです。これが理想的なのです。原因と結果、主体と対象関係の因縁を確実に秩序的に展開させていく道が理想だという話をしたのです。根が原因であるゆえに葉は結果です。そのような観点で私はなぜ生まれたのでしょうか。大宇宙のために生まれました。大宇宙のために生まれたのです。私が息を吸うのは世界に代わって吸うのです。かと言って「世界の空気がみな入って来て、世界の空気を私がみな吸い込むために他の人は死ぬ」と、こういう話はしないのです。また、私が空気を明け渡してこそ生きると考えることもできます。神様はそのように考えます。

 では、木はなぜ生じたのでしょうか。私のために生まれました。ですから、私とどれほど近いかというのです。それらがすべて神様の造った自然博物館ではないかというのです。「私が博物館の主人の息子だ。主人だ」と、このように考えてみなさい。そこでのみ、こういう思想的観念を探し出すことができるのです。そのような観念というのは、自分のために生きるところでは見つけることができないのです。それゆえ皆さんが食べて生きることは世界の人々のためであり、皆さんが人のために努力しなければならないという論理が成立するのです。

 どんなに菌があっても、その菌を吸収できる自制力をもつようになれば、それがあることによって私が健康な体だという証拠になるのです。それゆえ菌があることによって、菌を防御できる自制力をもつようになるのです。そのような自制力をもてる健康をもつようになるので、菌があるという事実が有り難いことだと見るのです。

 皆さん、宝物というのは、より価値的な存在は変わらないものではないかというのです。ダイヤモンドは強くて侵犯されず、変わらないところに価値があるのです、金というのは黄金の輝き、変わらない輝きに価値があるのであり、真珠というのは変わらない優雅な色に価値があるのではないかというのです。

 それでは、人間はどんな人間が宝物でしょうか。永遠に変わらないで、永遠に色が同じであり得て、万民が喜ぶことのできる光(色)をもった人が宝物のような人だというのです。ダイヤモンドがそのように硬いのは、自分自身のためではありません。黄金がそのように美しい輝きをもっているのは自分自身のためではなく、全体のために、多くの人が好むことができるようにするためです。それと同様に、「私がそうであるのは私が喜ぶためでなく、全体が喜ぶためだ」と言えばいいのです。

◆私たちが相続しなければならないもの

 きょうの題目が何かといえば「相続者」です。皆さんは何の相続を受けてみたいですか。これが問題です。いかなる相続を受けてみたいですか。完全に私が変わらない相続を受ける前には、私たちに幸福はあり得ません。その相続が個人としては永遠に残ることができ、永遠に不変なそのような価値的な存在でなければなりません。したがって神様が主体ならば、主体がいつでも愛することができる人でなければなりません。

 子供たちもそうではありませんか。子供たちが歌う時、お母さん、お父さんがそれを見て喜べば、子供たちは狂ったように得意になるのです。その場で父母は子供と一つになるのであり、子供は父母と一つになるのです。それが幸福なのです。子供が父母を喜ばせれば愛がもっと来るというのです。愛がもっと来るというのです。人間というのは神様の対象であるゆえに、木で例えれば葉になります。ところが一つの葉でも全体のために、全体を良くするために動くというときは神様も喜ばざるを得ないというのです。

 では、何を相続しようというのでしょうか。全体を相続しようというのです。全部を相続しようというのです。何まで。神様まで。神様までも私のものにしようというのです。神様のものはもちろん、神様の生命、神様の愛や神様の理想を私のものにして、神様自身までも私のものにしようというのです。それ以上の相続はないでしょう。したがってその方の愛、その方の国、その方の世界を私が相続するのです。

 神様のすべての福を受けることのできる方法とは何かといえば、一つの葉であっても全部のために吸収できて与えることができれば良いのです。そうすれば、すべて来るのです。葉の中でそのような葉があれば、幹や枝も引っ張ってくることができるというのです。幹までも引っ張ってくることができるのです。

 そのような観点で見れば、宇宙の中心である神様がいるならば、このような思想を中心として天のために、全体の前に天の対象的な価値の存在になると言って、全体に与えようと努力するならば神様が引かれてくるのです。神様のすべての持ち分が移されるのです。それゆえこういう活動をすることによって、福がどこに積まれたとしても、その福を引っ張ってくることができます。

 物質でも、どんな存在もそういう主人、そういう人々を望むのです。こういう観点で見る時に「私はこの宇宙全体を相続することができる資格者だ」と、そのような自負心をもたなければなりません。「私がたとえ葉の立場であっても、私が死ぬ日にはこの宇宙が死んでしまうのだ。私が腐敗して悪くなることは、この木の全体の前に致命傷を与えるということだ」と、こうでなければなりません。そうでなければすべての存在物が讒訴するでしょう。「君、なぜそうなのか」と言って讒訴するというのです。その反面、全体のために生きるときには、すべての霊界やすべての宇宙が称賛するのです。

 本来の、堕落していない時のアダムとエバは、そうでなければならなかったのです。自分が全宇宙のためにあるという存在性を忘却してしまい、全宇宙が自分のためにあると考えたというのです。アダムは最高の完全な人として天地を相続する代表者として登場すべきであり、女性もやはりそのような相対的な存在として登場しなければならなかったというのです。そうしてアダムとエバが一つになることは理想的な父母になると同時に、理想的な王になることではないかというのです。

 それでは、皆さんの欲望とは何でしょうか。自分が完全な人になることであり、理想的家庭をもつことであり、その夫婦が王より高くなることです。また、女性は女王になることです。

 そうして何をしなければならないでしょうか。神様を所有しようというのです。神様の生命を私の生命とし、神様の愛を私の愛とし、神様の理想を私の理想とし、神様と永遠に共に生きようというのです。それが私たちの最高の理想だというのです。

◆人間の最高の理想

 神様は全世界のために生きる方です。神様はどのように愛するのでしょうか。全世界を共に愛します。神様はどうすれば幸福なのでしょうか。全世界の人々が授け受けながら喜ぶのを見て幸福を感じます。神様はそのように生きていらっしゃるのです。

 ところが、私たち人間は堕落したために、幹が分かれてしまいました。ですから、これを殺してしまって肥料とし、逆にして上がっていかなければならないのです。これを逆に発展させようとすれば、私より全体のためにもっと生きなければなりません。私より全体により尽くすことのできる理想がなくては上がっていく道がないというのです。私たちは個人的に強力でなければならず、家庭的に強力でなければならず、氏族的に強力でなければなりません。そうして逆に貫いて上がっていかなければなりません。

 それで地上天国まで根を下ろさなければなりません。神様の理想に接ぎ木をしなければなりません。それで最後には神様を中心として神様のすべてを相続すると同時に、地上の天国と天上の天国を相続しなければなりません。それが私たちの希望なのです。神様だけを相続しては世界が掛け離れてしまうというのです。神様を相続すると同時に地上の天国を、この世界の人を相続して天上の天国を相続しなければなりません。

 皆さんもそうではありませんか。誰よりも自分のために生きる人に引っ張られたいし、一つになりたいと思うでしょう? そうでしょう? 同じだというのです。神様を知り、神様をより愛して神様のために尽くすようになれば、神様も私たちと一つになろうとするというのです。そのようにして神様がもっている愛と神様がもっている地球、この宇宙をみな相続しなければならないのです。

 そうするには、神様のために誰よりも尽くさなければならないし、人類歴史上のどんな主権者や、どんな忠臣、烈士よりも忠誠を尽くして、この世界に忠誠できる人々にならなくてはならないという結論が出てくるのです。

 それゆえ、私は神様が考えられず神様が見たことのない愛の刺激を、相対的な立場で発動させることのできる主体性をもたなければならないのです。そのようにして神様の願いの地上天国、天上天国を成し遂げて受け継ぐべきです。そういう神様が永遠であられ、そういう国が永遠なために、私が永遠になり、私の家庭が永遠で、私の氏族が永遠であり、私の教会と国家が永遠であり得るのです。このような同一体のような一つの共同目的を中心として動く地上実体基盤になってこそ、そこから地上天国が形成されるのではないかというのです。

神様の息子、娘として宇宙の相続者になれ

 ですから皆さんが「神様は私の神様だ」という自負心をもてというのです。そうでなければなりません。「先生の神様にもなるけれど、私の神様にもなるのだ」と、こうでなければなりません。ある意味では「私がより大きく進めば、先生より私にもっと近い神様にすることができる」と、そのようにしなければならないのです。枝が曲がったとしても、それを今からでもまっすぐにしなければなりません。

 神様が皆さんに願うことは、御自分を相続して地上天国と天上天国を引き継ぐことですが、先生が皆さんに願うことは、先生よりももっとまっすぐであり得る皆さんになることを願うのです。皆さんが神様を先生よりも愛するからといって「何だ、これは。こいつ」と、そうは言いません。「早く行け、早く行け」と言いながら、私がどいてあげるというのです。

 先生は、すべてを皆さんに与えたいのです。先生よりももっと深刻で、神様よりももっと深刻でありなさい。そうすれば、すべてを受けることができます。神様よりも深刻ならば、神様のすべてを所有できるというのです。一度にみな受けます。一度にみな受けるというのです。それは話だけでなく、皆さんのやることにかかっているのです。

 この全体を相続しても余るのは、神様よりももっと深刻で、先生よりももっと深刻ならばよいというのです。そうして天地のために生き、神様のために生き、み旨のために生きる道だけがすべてを私のものにできるというのです。

 神様が今まで歴史的に数千年反対を受けながらも後退しましたか。先生は一生の間反対を受けても後退をしなかったのです。どんなに困難があっても戻ろうとはしませんでした。直行しようとしました。僕は戻ろうとするけれど、永遠な主人はまっすぐに行こうとするのです。私が正しい道を行けば、後代の子孫が楽に行くことを知っているためです。そのような意味で先生は世界的な先頭に立って、直行の道を行こうとする男です。

 先生が機関車になったので、皆さんは列車になってついてきなさい。そうするには、先生が行くとおりについてこなければなりません。上がっていくことができれば上がっていくべきであり、「私は上がっていかない」と、こうではいけません。下りていくところで「私は下りていかない」と言えますか。けれども目的地に行けば、荷物を下ろして休む日があるだろうというのです。それゆえ今行くのです。

 機関車は何も積まずに、ただ「シュッシュッポッポッ」といいながら火をたくことだけしました。荷物は積まず、そこではほかのやり方でしますが、一箇所では荷物を積んだというのです。それによって、結局はすべての物が移されるのです。機関車には荷物を積まないのです。皆さんが汽車に乗って遠くへ旅行に行ったとすると、「ああ機関車によって私がここまで来た」このように考えますか。客車ゆえに来たと考えるのです。

 しかし根本を正してみれば客車が連れていったのではなく、機関車が連れていったのです。一つであるがゆえに、それは共同体と同じだというのです。客車と機関車は一つです。一つと見るために全体を愛するのです。手を愛する人は「ああ! 手が美しい」という心で見るように、全体をそのように見るのです。

 先生が「ポッポッ」と言えば、皆さんはブウンブウンと、こうしなければならないのです。皆さんと先生が合わさって、宇宙の相続を受けるその日を迎えることができるならば、どれほど素晴らしいかというのです。皆さんすべてが、そのようにできる相続者になるよう願います。
















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