文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


心の鐘の音

一九七九年一月二十八日
アメリカ・ニューヨークのベルベディア修練所 『文鮮明先生み言選集第百三巻』


 きょうは「心の鐘の音」という題目で、み言をお話しする時間をもとうと思います。皆さんが夜、高い山に登るか、あるいは飛行機に乗っていきながら都市を見れば、多くの明かりが見えるはずです。そこに青い明かりや赤い明かりがあれば、その明かりが一際目立つでしょう。また、その中に大きい明かりがあれば、一際その明かりが目立つようになっています。

 このように私たち人間自体について、霊界から見れば、あるいは神様が御覧になれば、それと同じであるということを考えるようになるのです。

◆電球のように光を放つ人間

 人間の心自体は、人間を代表しています。誰でも心のない人はいません。人は心を中心として生きているのです。

 それでは、その心自体が明かりと同じならば、そこには電球がなければならず、その中にはフィラメントがなければなりません。内外が整っていなければならないのです。

 電球が光を放つということは、その電球自体で放つのではありません。見えない背後に、発電所と連結している送電所を通して連結している、ということを私たちは考えるようになります。それでスイッチを入れれば、電気が来て明かりがつくのです。

 それなら、その電気は電球の中にあるのか、どこにあるのかということが問題になるのです。明かりがつくようになるときには、電球の中にもあるけれど、連結されたどこにでも電気があるのです。電気に対して知らない人に「電気はどこにありますか」と尋ねれば、「あのスイッチにある。電気はあそこにある」と答えるでしょうが、その根本は発電所にあるのです。発電所にあるものが、連結されているだけだというのです。

 発電所に行ってみれば、そこでは電気の明かりを放つために、大きい図体の鉄の塊が回っているのです。水力発電は水を引き渡す導管があって、大きな滝を利用することもあるのです。その次に火力発電は、石炭をコンベヤーで運んで、火をたいて蒸気を出して回さなければなりません。普通、電気の明かりの下で勉強する人、あるいは電気の明かりを見る人は、そのようには考えません。なんでもないことと考えるのです。このように見るとき、その電気の線というのは、遠ければ遠いほど、そこには多くの功(誠意)が込められているというのです。数多くの犠牲が払われているということを私たちは考えるようになります。

 皆さん、その電球を見れば、電球が割れても使えなくなり、タングステンでできたフィラメントが切れても使えなくなるのです。それを何度も感じるというのです。電球が割れるのは人に例えれば、死ぬことと同じだというのです。また、その中にあるフィラメント、心のようなそれが切れてもやはり同じです。このように考えてみるとき、皆さんも結局一つの電球のような人間として映って存在しているのだろうと、このように考えるようになります。

◆人間は何によっても倣うことのできない、太陽の光を願っている

 それなら、人間には何ボルトに該当する電球を取りつけることができるでしょうか。電球が固定された小さなものなのか、大きなものなのか。または、私の後ろには、何ワットの明かりがともることのできる線がついているのかということを考えてみましたか。まず電気の線が太くなければなりません。それで「重くて行くことができない。ああ、これは重いなあ」と、このように感じなければなりません。皆さんはそのように感じてみましたか。電線が太ければ太いほど、何万、何億ワットの電球も取りつけることができるのです。線があってソケットがあって、そのソケットはいつも電球を取り替えてつけることのできる装置になっているかということが問題だというのです。

 このように考えるとき、私たち人間をソケットや電球のようなものに比較するならば、皆さんはいかなる立場かということを考えずにはいられないというのです。これを考えてみるときに、私たち人間が生まれて育つすべての過程が、電球とかソケットを取り替えることと同じだというのです。線を太くし、ソケットを大きくして、高いワットの電灯を取りつけるために準備することと同じなのです。

 そうすることは、易しいことでしょうか。「まあ、私は楽に座ってただ明かりを見ていればいいだろう」と言って見物する人には関係ありませんが、本当にそのような立場に立とうとするなら、それはやはり難しいことなのです。

 ところで、人々の中には小さな明かりをもって、ただ自慢しようとする人がたくさんいます。「これが私だ、私。これだ、これ」このように自慢しようとするのです。もし千カンデラの電球があるときに、それをここに一つつけておけば、小さな明かりはみな必要があるでしょうか。必要がないというのです。あってもなくても同じです。かえって厄介で、障害になりやすいのです。そのようなことを考えるとき、神様も同じ思いをされたことでしょう。それで神様は、この宇宙に太陽を造っておかれました。全くまねすることのできない光を造っておかれたというのです。

 私たちに電気が必要なのは、夜があるためであり日陰があるためです。それでは皆さんは電気が必要ですか、太陽の光が必要ですか。私たち人間には、太陽の光がより必要だというのです。なぜならそれ以上はないためです。いくら電球を千個、万個持ってきても、太陽の光の下では無用の物になるのです。

◆神様の心のような純金の心の鐘を鳴らさなければ

 私たち人間世界を見れば、「心の光」という言葉をたまに使います。それがどれほど詩的でしょうか。「心の光、心の光」とそのように言うこともできるのです。それと同様に、きょうの題目は「心の鐘の音」です。では鐘の音とは何でしょうか。知らせるものです。

 皆さん自身も見てみれば、皆さんの心を明かりに例えると、電球のように表示され、音に例えれば、鐘と同じようなものをもっていると、このように言うことができます。電気の明かりがどんなに必要でも、ソケットにつなげなければならず、鐘がどんなにあっても打たなければならないというのです。

 皆さんも心をもっているでしょう。その心の鐘を誰が鳴らしてくれるのかというのです。皆さんは心が作用するのが分かりますか。心はどんな夜中でも、良いことをすれば「良い!」といい、悪いことをすれば「こいつ!」という作用をするのです。

 私たちの心を見れば、皆さんにも心がありますが、皆さんの先祖にも心があります。するとその先祖の先祖の心、心……とずーっと上がっていくようになれば、この宇宙の中心となる何らかの神様がいるならば、その神様に心がありますか、ありませんか。あるというのです。

 すると神様の心と皆さんの心とはどんな関係でしょうか。それは電気と同じです。神様を発電所とすれば、皆さんは一つの電球と同じだというのです。

 電気はプラスとマイナスが、よくやりとりしなければならないのです。二つが一つにならなければならないのです。完全に一つにならなければならないのです。目も二つあるのですが、二つの目の度数がよく合わなければなりません。視神経に入って、角度が焦点によく合わなければならないのです。この耳も同じです。片方が強く聞こえて、もう一方が弱く聞こえては駄目だというのです。同じに聞こえなければなりません。波動数が同じでなければなりません。

 それで障害がないほど、明かりは明るいというのです。障害がなければ、元の発電所の電気量と全く同じになるというのです。全く同じになるには、消耗するもの、電気でいえば抵抗といいますが、抵抗がなくならなければならないというのです。この抵抗というものは電気をつかまえて食べてしまうのです。皆さんも同様だというのです。体と心が純金のように一つになっているのか、そうでなければ木の切れ端のようになっているかというのです。これは純金から純銀、純銅、純鉄、このように多くの系列があるのです。千態万状の系列があるのです。

 ここで電気が願うこととは何でしょうか。全部が純金を願うというのです。純金は堅固で丈夫な大路と同じです。木や石のようなものは絶対に嫌うのです。これと同様に、人も心を通じて電気がすーっと入ってくるようになれば、ベルの音が鳴るのです。心の鐘の音が鳴るというのです。その鐘が一〇〇パーセント純金で完全ならば、神様はその鐘の音を千年、万年聞いても「ああ! いいなあ」と言われるのです。

 皆さんからもすべて心の鐘の音が鳴り響くというのです。自分なりにすべて鳴り響くはずです。ある人は割れた鐘、つぎはぎの鐘、あらゆる鐘がみなあるはずです。その鐘が割れたのか、故障したのか、何がどうなっているのかも知らずに生きている人々がいるというのです。

◆聖人は純粋な真の鐘を鳴らした人

 このように皆さんは一生の間、心の鐘の音を鳴らしながら生きているのです。これを中心として皆さんの心を鳴らしてくれる人がいるでしょうし、近所に鳴らして郡に鳴らす人がいるでしょうし、すべて違うはずです。家でも同じです。家でも正しい人、その家で信じられる人、信用できる人が「やあ、こうしよう」というときには、みなそれを聞いてくれるのです。

 長い歴史時代に数多くの人々が生まれては死んでいきました。ところが、彼らがどの程度の鐘をつくったのかが問題です。その鐘でどれほど鳴らしたのかということが問題です。

 このように考えるとき、今日、学問でも哲学でも宗教でも真の真理だと考えるすべては、この心からにじみ出た一つの表現です。すべて心の表現だというのです。それが純粋で世界的で歴史的なものならば、それは必ずその国の博物館にもっていって保管するようになっています。

 そのように考えてみるとき、今日人類歴史の中で、私たちが記憶できる人々、あるいは歴史の中で追慕する人々とはどんな人でしょうか。このような、純粋な真の鐘を鳴らした人々です。それでは、どんな人が歴史的に残ってきたのでしょうか。力が強かった人ではありません。お金をたくさんもっていた人でもないというのです。

 このように考えてみるとき、それでも歴史の中に残っている聖人とはどんな人物でしょうか。その聖人を語れば、彼らが歴史時代に何世紀、あるいは何千年を代表して鳴らした鐘の音が良いために、それをすべて見習って「私もいい。私もいい」と言って集まったのが一つの宗教文化圏だというのです。

◆真の生命と人格と愛と神様を教えてこそ真の聖人

 それなら聖人たちの中で、本物の聖人とはどんな人でしょうか。これを考えてみなさい。聖人は何を教えなければならないかといえば、真の生命、真の人格を教えてくれなければならないのです。その次には、真の愛を教えなければならないのです。人だけではなく、真の人格の神様までも教えなければならないというのです。

 聖人という人々をじっくり見れば、みな宗教指導者です。教主だというのです。それがなぜそのようになるのでしょうか。彼らは永遠を中心として、歴史を越えて新しい理想を教えてくれ、歴史上ですべての理想をもたらしてくださる神様を教えてくれたからです。それで、その宗教に集まるようになるのです。

 一時的な人、一生を目標に生きた人間は、みな流れていってしまうというのです。それは動物世界も同じです。しかし人だけが違って、永生しようというのです。永生するには悪い人が永生するのではなく、真の人だけが永生するのです。

 ロックフェラーが死にましたが、その人が真であれば真であるほどに反応が大きかったはずです。そのロックフェラーが真なる人であったならば、アメリカの国民が「ああ、我が国がなくなっても、その人は生きていなければならなかった」とこのように話したでしょう。さて、見てみなさい。ロックフェラーはアメリカの副大統領もして、アメリカの国民が知らない人はいないのに、死ぬと「ああ、死んだのか」と、こう言っているというのです。けれども、イエス様という人は、二千年前に十字架にかかって死んだのに、今でも記憶しながら泣く人が多いというのです。どれほど差がありますか。

 では、何が違うのでしょうか。人の外貌が違いますか。外貌はみな同じです。その心の反応として現れたすべての教えが世界のためのものであり、宇宙のためのものであり、歴史のためのものだったというのです。

 このように考えてみるとき、人は歴史について、永生を中心として十年、百年だけではなく千年、万年、億千万年を考えるようになるのです。人が死ねば動物と同じなのに、それを残してどうしますか。近ごろは、宗教を信じないで神様を知らない人も「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残してどうしますか。愛国者になって記念館に行っても、国が滅びるようになれば記念館もみな壊れるというのにです。名前を残してどうしますか。ですから、滅びたり興ったりする歴史時代に、どんなに良いものを残してみたところで、その良いものも悪く取り扱われることがあるのです。

 一つの国の主権者は、百年も生きることができずにみな死んで、国も何百年、何千年も続かずに滅びますが、永遠に死にもせず、滅びない方がいるとすればどうでしょうか。そのような方がいるならば、自らの名前と名誉をその方の前にすべて任せて依託したいはずです。

◆神様のひとり子であるイエス様も相対を迎えなければ

 神様がいるならば、神様はそのような方です。その方は歴史の主人であり、存在世界の主人であり、永遠に全体を管理する主体者です。このような何かがあるために、心はそれを知っているので、その方に依託し、その方の管轄下に残るために私たちの心の本性が作用するのは間違いないということを知らなければなりません。

 それではお金が必要でしょうか。それはこの世界の物の中の一つです。ただあるものなのです。特に貴いものではありません。しかしながら、人はただいるのではなく、新しく生まれなければならないのです。

 すると聖人たちは、どうして今日人類の心のともしびになり、すべての人を糾合できる源泉になったのでしょうか。こういう問題について考えてみるとき、それは永遠性をもって不変性を論じたためにそのようになったのです。

 そのような聖人は東洋にもいたし西洋にもいましたが、聖人たちの中の中心は誰かというと、イエス様です。どうしてイエス様なのでしょうか。その時代でいえば、イエス様は有名でもなかったはずです。

 では何ゆえに聖人の中で一番なのでしょうか。それを知らなければなりません。なぜなら「私は(神様の)ひとり子だ」と語ったためです。ひとり子は神様の初恋を独占した人です。

 人が嫁いだり、妻をめとって赤ん坊を生むとき、二人目の赤ん坊より初めての赤ん坊を生んで愛するときはこの上なく愛するというのです。私たち人間でさえそうなのに、神様はどうでしょうか。同じです。それでイエス様は一〇〇パーセントの愛を受けて、また「愛の枝を初めて人類世界の前に、私によって伸ばす」という考え方をもったというのです。

 それでは、ひとり子は何をするのでしょうか。イエス様は自分が一人の息子であるのを考えたと同時に、一人の娘を考えたというのです。神様がいらっしゃるならば、神様が愛の神様ならば、一人の娘がいてこそ「ああ、公平な神様だ」と公認されるのです。

 神様は一方の脚だけあるのを好むのではなく、両方の脚がすべてあるのを好むというのです。それでイエス様は「私はひとりの息子だから、ひとりの娘を探さなければならない」と考えたのです。ひとりの娘を探すことができなかったがゆえに、死んでいきながらも「新郎としていつか新婦を探しに来る」と、このように語ったのです。

 今日、キリスト教徒たちにおいては、男性も「私は主の前に新婦だ」と言うのです。どうして男性が新婦になれますか。教会が新婦になれますか。教会が新婦になるという、そのようなことがどこにあるでしょうか。

 するとイエス様は王の王なのですが、「王の王であるその人は、男やもめでなければならない」という法がありますか。その方には相手がいなければならないというのです。

 王の王なるイエス様が、王位に就かれて教育するのに「君は私のように、一人で暮らすのが良い」と言うでしょうか、「君たちのように、二人で暮らすのが良い」と言うでしょうか。二人で暮らすのが良いと言ったはずです。それゆえイエス様が妻をめとらなければならないという話は、極めて原理的なのです。

 では、先生が「イエス様は妻をめとってはならない」という話をするのを、イエス様は喜ばれるでしょうか。イエス様の立場でじっくり考えてみてください。どうでしょうか。イエス様は誰の息子ですか。神様の息子でしょう。すると男性は誰がつくりましたか。女性は誰がつくりましたか。その男性、女性の二人をつくったのは、一つになって生きなさいということなのです。それは最高に神聖なことです。最高に神聖だというのです。

 神様がアダムだけをつくって「良し」と言われたのではなく、エバまでつくっておいて「良し」と言われました。なぜでしょうか。神様も良くて、アダムとエバにも良さそうだったので「良し」と言われたのであり、神様だけ良くて、アダムとエバが良くなければ「良くない」というのです。今までの数多くの宗教、つまり、キリスト教とか仏教とかはすべて独身生活をしてきましたが、先生は「独身生活は罪だ」と、このように話しています。

 その次にイエス様は何を言われたのでしょうか。この世をサタン世界であると見て、「この世の中では求めるものがない」と言われたのです。この世にどんなに良い話があり、いくらどんなものがあっても、耳に留めるものはないというのです。自分が一人の息子として、一人の娘を中心として、一つの家庭を考え、一つの国家を考え、すべてそのように考えたのです。ですから聖人たちの中心になることができるというのです。

 今日では、みんなが自分を主張しているのですが、聖人たち同士でも「君が中心ではなく、私が中心だ」と言い争って主張し、「私が優れている」と言うのではないでしょうか。そういうこともあり得るのです。皆さん同士でも、お互いに負けまいとそう言うでしょう。小さな子供たちもそうです。

◆聖人の中心に認められたイエス様

 すると、誰がそれを認めなければなりませんか。どんなに聖人同士で認めてもいけません。聖人を監督することのできる中心的な神様がいるのならば、そのお方が認めなければならないのです。

 神様がそれを認めるとき、神様の気に入らないのに、ただ争いをやめさせるために認めるでしょうか。そのように認めなければなりませんか。神様が争いをやめさせるために「誰が中心だ」というのではありません。事実がそうなので、中心を決定するのです。神様が公認しようとするなら、神様もすっかりとりこになれるものがなければなりません。つまりそれが愛だというのです。神様にはお金、知識、権力、すべて必要ないのです。すべて必要ありません。

 人として生まれた男性の中でイエス様が「あなたの前に私はひとり子である」と言ったこの言葉が神様の耳にぐっと入ってきたというのです。とても気に入ったのです。神様が「君がひとり子かい?四千年の歴史時代に生まれた人類が神様を父であると信じてきたのに、その中でも君が一番だというのか。君がユダヤ教のモーセよりも、アブラハムよりも、もっと素晴らしいというのか」と言われたときに、イエス様は「イエス、イエス(はい、はい)」と言ったはずです。

 神様は「それじゃあ、どのように私に証明するつもりか」と言われました。するとイエス様は「彼らは天に反することもあり得、背くこともあり得、千回、万回変わることもあり得るけれども、私は億千万年過ぎても変わりません。絶対的です」と、こう言ったはずです。

 そのひとり子の思想を中心として、切っても変わらず、もう少し大きく切っても変わらず、もう少し大きく切ってもなくならず、全体を切ってもなくなりませんでした。二つに切れば、ひとり子が二つに分かれて、十に切ればひとり子が十に分かれるのであって、変わらないというのです。絶対的だというのです。イエス様の観念は絶対的です。誰も自分の立場の候補者になり得ないと考えたのです。そのような人が今までいませんでした。また、そういう女性もいませんでした。

 そうすれば、イエス様はひとり子なのですが、ひとり子であるという人が、この地に現れたというのはどういうことでしょうか。絶対的だというのです。「私は間違いなくひとり子である。細胞を一つ切ってもひとり子である。このような決心とこのような自負心は私が一番である」。このように考えたというのです。「神様、私に命令だけ下してください」、これは命令さえ下せば、どんなことでもするということです。

 そのような意味で、イエス様はひとり子だというのです。聖人の中で愛をかけて一番であると言った聖人は、イエス様のほかにはいません。彼らはこの世の中で、もう少し努力してみようとは言いましたが、根本的に覆そうとはしませんでした。他の聖人たちは、根本的に改造しようとはしなかったのです。適当にある国をよく治めはしましたが、根本的に間違っていると否定して、新しく神様の愛を中心として出発しようとはしなかったのです。

 イエス様が言われたのは「私が知っているのは、神様と自分しかありません」、また「これから私の手で神様を愛することのできる、一人の娘をつくります」ということでした。そうして息子、娘を生んで、新しい家庭をつくり、新しい氏族をつくり、新しい民族、新しい国家、新しい世界を創建しようというものでした。

◆神様の前に自慢できるのは愛の実績しかない

 イエス様の時になってようやく、このような鐘の音が鳴ったというのです。それゆえ、その鳴り響いている鐘の音が、この地上の平面世界だけではなく、神様の胸と神様の愛まで動かしたというのです。神様の心の鐘の音を大きく鳴らせることができたのです。イエス様が鳴らしてくれるその心の鐘の音に、神様は気分が悪かったのではなく、良かったというのです。愛の鐘の音だったからです。

 神様が好きなものは何でしょうか。生命ですか。神様は永生され、すべての生命の源泉であられるので、必要ないというのです。では知識でしょうか。神様は知識の王であり、知識の主体です。では権力でしょうか。神様は膨大な宇宙を動かす大きな権能者です。その次にはお金も、何も神様には必要ありません。

 神様が願われるのは、愛に酔いしれることです。この愛は歌って踊る程度ではなく、それ以上に良いというのです。神様の威信とか体面もみな忘れてしまい、無条件に「良い」と言われます。神様はそれが一番良いと言われるのに、世の中がすべてそうだと言っても、誰も悪口を言う人はいません。愛には高いもの低いもの、広いもの狭いもの、大きいもの小さいものがすべて一つになるのです。

 神様に「私は献金をたくさんしたので、出世するようにしてください」と言えば神様は、金銀財宝のある天国に引っ張っていって「こいつ。お前、ここを見てみろ」と、そう言われるのです。そこで自分の出したものは、紙切れ一つにもならないというのです。それから、私が神様のためにこのようにして、何をして……と自慢すれば、それは神様が今まで復帰摂理歴史をなして来られたことに比べれば、ほこり一つにしかならないというのです。「私を認めてください。私に福を下さり、天国に送ってください」という資格はありません。

 神様の前に自慢するすべてのもの、苦労もたくさんして、金銀財宝も多いけれども、探してみると私たちには、愛したという実績がないというのです。神様が愛したということ、神様が好んだということ、神様の愛を中心として愛したということがないのです。

 その愛の限度はどの程度でしょうか。サタン以上に人類を愛することができ、自分の父母、自分の国のどんな君主以上に愛することのできるそのような愛だというのです。神様が勝利したというしるしは、その愛を探し出したときに結論がでるのです。それ以上のものはありません。

 そうすれば、すべての人類は今競争するのです。この愛を中心として、誰が本物の愛をするかという競争をします。韓国とアメリカと競争し、白人と有色人種と競争し、みな競争するのです。

 神様はお金、文化、そのようなものは見ません。愛をもって見るのです。愛の眼鏡をかけて見るために、愛以外のものは見えないというのです。それで神様は、「愛というものがあの電気の明かりのように明るかったら良いのに」と言われるのです。

 皆さんはレバレンド・ムーンと神様とが、どういう関係なのか知っていますか。私が好きで愛するようになると、殴られても良いし、何と言われても良いというのです。本当にそうならば、皆さんは「私に悪口を言って殺しても良い。私が良いというのだからどうしようもありません」というのです。それが本当に愛することです。

 聖書を見れば、イエス様が「神様、どうして私を捨てられるのですか」と何がどうだと大騒ぎしたのですが、私はそのような言葉は良くないと考えます。取り除くべきです。その時そこで「私はあなたから来て、あなたの愛を引き継いだので、あなたの愛のために栄光の中でこの道も行きます」と言えば、それがどれほど素晴らしかったでしょうか。

 先生は監獄に行っても祈祷をしません。難しいときは、祈祷をしないのです。「私のいる立場は家庭の立場なのですが、神様の願われることは、家庭を犠牲にして氏族を探すことであるので、私は氏族を探すために私の家庭を犠牲にします。今日、統一教会に世界の人、五色人種がみな来たので、これらを犠牲にして、世界人類を解放すると同時に霊界を解放いたします」と、そのような祈祷をするのです。人類に神様が縛りつけられているので、これを解くためには、人類を解放しなければなりません。そうしてこそ、神様は解放されるのです。

◆愛の鐘の音は大きいほど響いて良いもの

 このように見るとき、人類歴史の中で数多くの人々が自分の鐘を鳴らしていき、自分の明かりをつけていったのですが、その中で世界を覆って永遠に残ることのできる鐘の音はどんな音であり、その光はどんな光でしょうか。真の愛の鐘の音です。これをどれほどもったかということによって、天国で自分の権限の設定の可否が決定するのです。

 この世界で小さな鐘、億千万個を「カンカンカン!」と、どんなに鳴らしてみたところで、大きな鐘が「グワン!」と鳴るときには、この鐘の音にみなかき消されてしまいます。それは愛を中心とした鐘の音だというのです。愛を中心とした鐘の音は、大きいほど響いて良いものです。その鐘の音は二十四時間、寝るとき聞いてもよくて、起きて聞いてもよくて、昼に聞いてもよくて、御飯を食べるとき聞いてもよくて、いつでも喜びます。どこに行こうと、好まない所がないというのです。時間を超越して、時間の世界で歓迎しない時がなく、場所の世界で歓迎しない所がないというのです。

 きょうのみ言の題目は「心の鐘の音」です。私の心に愛の明かりを、愛の鐘の音をもって行く人々は勝利するのです。

 私たちは、愛の鐘の音を鳴らさなければなりません。皆さんは良心の呵責を覚えるということを越えて、人をどれほど愛したのかという呵責を受けてみなさい。そうすれば、心も酔いしれます。心がない、心が作用しない位置に入っていくというのです。無性に良いというのです。無性に良くて踊りたくなり、一人で考えても良く、どこか真っ暗な夜に行っても良く、どこでもふとんをかぶって寄って座っていても良いというのです。ただただ良いのです。御飯を食べなくても良く、寝なくても良いというのです。心が酔いしれます。心が酔いしれるというのです。

 そうすることのできる愛の心の音、愛の心の鐘の音、愛を中心とした心の鐘の音を聞かなければなりません。それゆえ「神様が愛する人がいれば、私の家にいつも貴いものを準備しておいてさしあげなければ」と言って、貴いものをいつも準備するのです。神様がそうだというのです。

 それゆえ皆さんが不平を言う余地はなく、理由を付けて論議非難する余地はないというのです。そうすれば誰が悪口を言っても「ああ、私が君たちを今まで愛してあげなかったので、早く来て愛してくれと悪口を言うんだなあ」と、このように考えるのです。悪口を言って反対しても「ああ!
 あの人たちは早く来て自分たちを助けてくれなかったと、あのように言うんだなあ」と、考えるようになります。「愛を受けるためにそうなのだ」と、このように愛ですべてを解釈するのです。

 「君の家を私が十年前に訪ねていれば、今日このように喜んで歓迎するはずなのに、ああ! 十年前に私が訪ねられなかったのがいけなかった」と、このように考えるようになります。自分が監獄に入っていき、死刑を受ける立場に立つならば「ああ! やっとのことで神様を本当に愛しているという承認を受けられる立場に進めるのだなあ」と、このように考えるようになります。

◆真の愛に対しては誰も讒訴することはできない

 愛はどれほど偉大なのかを知らなければなりません。愛の法度においては、サタンも抗議できないのです。干渉することもできません。愛についてはサタンが讒訴できないのです。他のお金、権力、知識などについてはすべて讒訴できますが、愛の法度、真の愛については讒訴できないのです。神様も讒訴できず、サタンも讒訴できないというのです。

 もともとその法度は、地上にも天にもまだ残っているということを知らなければなりません。お金を持って行くときは「私は君にいくらをあげたのだから、私にいくらをくれなければならないではないか」と、このように考えるけれども、愛はそうではないというのです。愛からだけは、よりたくさん返してくれるというのです。百倍、千倍に返してくれるのです。

 霊界から神様が見るとき、皆さんの心に愛の鐘の音が響く立場に入っていくようになれば、明かりがだんだん大きくなるというのです。その光は五色にまばゆいばかりだというのです。神様の目にはそれがダイヤモンドの輝きよりももっと美しく見えるのです。そしてその輝きだけが良いのではなく、その輝きの中には趣があるのです。それは見るほどに良いというのです。何度も見れば見るほどに酔いしれてしまいます。それゆえ神様は愛という言葉を言うのです。

 皆さんが心の愛の鐘を鳴らして天地を動かし、すべての万民を動かすようになれば、神様も「ああ!」と言って動かすことのできる鐘があるということを知らなければなりません。それゆえ愛の涙をどれほど流したのか、愛のつらさをどれほど味わったのか、それが皆さんの財産だというのです。

 私がどのようにすれば愛の心をもつことができるのかを考えてみましょう。今のこの世の中は、患者たちのいる病院だというのです。堕落した世界は病院で、人々はすべて入院した者です。

◆病んだ世の中に愛の薬を投入して治さねばならない

 病院に入院した人は家にどんなにお金があり、権力があり、知識があるといってもそれが問題ではありません。治ることが重要です。それで、愛の薬が必要なのです。

 愛の調剤、愛の薬を投与する日には、どの社会、どこを問わずすべて生き返るのです。それで治れば、自分の息子、娘も愛するすべを知り、自分のお母さん、お父さんも愛するすべを知り、自分の国を愛するすべを知り、自分の世界を愛するすべを知る人になるというのです。病気が治れば、そのようになるというのです。愛のなかったサタンの網を破ってしまい、愛の世界で活動できる人間の歴史が始まるのです。

 それではその人々を治すことができなければ、どうなるでしょうか。偉大な愛を失って、愛の絶望にあえぐ一番悲惨な立場に行くのです。そこが地獄だと考えれば実感がわくでしょう。そのときは「誰のせいで……、その一言を間違ってこのようになったんだなあ」と言って、ほかの人を恨むようになるかもしれません。

 皆さんは誰かを愛していて、その愛する人が自分を裏切るようになれば、どれほど腹が立つでしょうか。それゆえ皆さんは愛の心をぱあっと開けて、愛の鐘の音を天地に響かせなければならないのです。その愛の鐘の音を聞き、愛の心を受けて、彼らが解放されて病気が治り、彼らがまた愛の鐘の音を鳴らすようになれば、どれほどうれしいでしょうか。皆さんがこの地上でそのようになるのを見て、神様が好むのと同様に、皆さんを通して解放された人々がそのようになれば、どれほど気分が良いでしょうか。

 ですから、皆さんはホーム・チャーチ(Home Church:家庭教会)に行くとき、義務的に行くのではなく、愛の心に満ちて行きなさい。自分の息子、娘が監獄に入ったり、自分の愛する人が監獄に入っているならば、自分が監獄に訪ねていかなければならないといって行くのではなく、我知らず監獄へ行くのです。そのような心情で行かなければならないのです。

 そういう愛の心をもって、愛の鐘の音を聞きながら、私が行くといって行くのではなく、我知らず行かないわけにはいかない所がホーム・チャーチだというのです。そのホーム・チャーチは私を滅びるようにするのではなく、私を天国の愛、神様の愛の相続者になるようにする所なのです。そのようになるためには、天が私を導かれることに対して感謝しなければなりません。

◆霊界で必要とする人

 神様の愛は永遠の愛であり、すべてに勝利できる愛なので、すべてが妨げてもみな越えていくというのです。すべてに勝つというのです。数多くの宗教があり、数多くの聖人が現れ、数多くの人々が自分は優れているというこの世の中で、今日レバレンド・ムーンがこういうことを教えているという事実は諷刺的だというのです。

 先生の教えに従って、愛の鐘を打つ皆さんになり、打っている途中で気力が尽きて倒れたりするときは、それで終わるのではありません。億千万年、億万年が過ぎても、また再び継承して、お互いがこの鐘を打とうとするというのです。皆さんが愛の鐘の音を響かせるならば、その愛の鐘の音は主人がいなくても、億千万年鳴り響いていくというのです。

 風が吹き台風が吹いて、ほこりが目に入り、口に入り、耳に入って、すべてがふさがっていれば、愛というものが入っていかないのです。

 霊界で必要とするものは何かといえば、愛の相続を受けることのできる人です。それゆえ霊界から協助するのです。愛の相続を受けることができるので協助するというのです。

 世の中で歴史時代に心の鐘の音を大きく響かせた人がいるといっても、今日の統一教会のように、このように現世において、砂漠のようなこの時代において、こういう鐘の音を響かせたのは最初であると同時に最後なのです。

 それはどういうことかといえば、希望の時であり、全体が完成する時だというのです。それを私たちは知らなければなりません。それ以上に、何があるでしょうか。そこで演劇をする一つの舞台に、私が一人の芸能人として荷担したという事実は、非常に大きな栄光であるということを知らなければなりません。そのような考え方をしなければなりません。

 私たちが、この鐘の音をより大きく響かせなければならないのです。これが鳴り始める日には、永遠にこの鐘の音がなくならないようにしようと、ひたすらすべての力を出し切るはずです。この国がそうなるはずであり、この世界がそうなるはずです。

 それゆえ、この世の中でどんな声よりも、レバレンド・ムーンの声が一番大きいということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは心で愛の声を聞いてみなさい。愛する前にまず聞いてみなさいというのです。愛する心があれば、その愛する心で尋ねてみれば返事をするはずです。それを知らなければなりません。それを発見しなければならないのです。間違いなく返事をします。

 その神様の愛の電気線がそうならば、私は愛の電気線を通して、無線機のように線がなくても通じることのできる装置になっているので聞くことができるのです。それは理論的です。

 私たち統一教会の信徒たちは、家に良いもの、立派なものがあれば「まあ! これは私たちの先生に持っていって差し上げられたら良いのに。御父母様に持っていって差し上げられたら良いのになあ」と、このように考えます。また、先生も同じです。父母ならば父母の立場も同じです。良いものがあれば、私たち統一教会員にすべて与えたいのです。アメリカで豊かに暮らす人々が乗っている良い車を私が買ってあげなければならない。私がみんな良い生活ができるようにしてあげなければならないと、このように考えます。同じなのです。それゆえ、水産事業をしたり皆さんが知らない仕事を今たくさんしているのです。

 韓国ならば韓国を中心として見るとき、食口たちは霊的にもそのようになっていますが、肉的にも先生の世話になっているのです。アメリカも先生ゆえに生きているのです。同じです。多くの人を結婚させたりしているというのです。そのようなことをするのです。

 このように、愛の鐘を鳴らさなければなりません。天の王宮で病気になり、みんな今病院に移されているので、彼らを皆さんが兄弟になって治していき、天の王宮へ帰るようにしなければならないのです。

 誰でもそれをもつことを望む人は、みなもっているのです。希望も、望みもみなもっているのです。人々が「これ以上に願うことはない」と言うことのできる最後のその道を紹介できるのが統一教会だと考えるとき、これはどれほど途方もないことかというのです。途方もないことです。

 それゆえ皆さんの立っている高い尾根が皆さんの友であり、皆さんが木陰に立っていれば、その陰が皆さんの友だというのです。また、ある時に寒くてどこかでぶるぶると震えたことがあるとすれば、その場が友だというのです。それが歴史的に貴重な場面だというのです。

 したがって、そこにいる人々をそのような難しさにも耐えることのできるようにする材料、教育の材料を今私が得ていると考えなさいというのです。千年後にもその事実を見るときに、涙を流さざるを得ないのであり、千年後にも慰労せざるを得ないのです。

 皆さん、「先生が苦労した」という話を聞くようになるとき、心は安らかでなく胸が痛むはずです。その代わりに奮発して仕事をしなければなりません。先生一人がそうすることによって、千人、万人がそうして神様の愛に接ぎ木されることができるならば、それはどれほど驚くべきことであり、貴い材料なのかというのです。それは歴史が要求する道であり、神様が立てようとする道ではないかというのです。

 これから愛の鐘の音を、皆さんの心で聞くのです。皆さんの心で愛の鐘の音を……。そのようになれば口が「私の口は愛の言葉を話すようになっているのであって、そうでない言葉は話さないようになっている」と、そのようなことを感じなければなりません。

◆愛の鐘を鳴らしてその鐘の音に従って仕事をしよう

 これからは皆さんが心の鐘の音を鳴らさなければなりません。皆さんがどこに行っても、夜を明かして訪ねて回ろうとし、皆さんがアメリカに来たのであれば、彼らは夜寝ずにひたすらアメリカに来たくて、御飯も食べられないようでなければなりません。

 神様の愛はそれよりもっと強いのです。間違いなく強いのです。私が手を差し伸べ、私の姿が鏡に映るときは、私の姿が神様の愛の姿の代わりであると思い、それを感じるようにならなければなりません。それゆえ神様の愛を分けてあげるために、どれほど切実になり、どれほど涙を流し、どれほど耐え難い思いをし、どれほど苦しめられ、どれほど迫害されたかというのです。そういう心情基盤の上に、責任と義務が必要だということを知らなければなりません。

 皆さんも愛の鐘の音を心で鳴らして、愛の鐘の音に従って仕事ができる姿になるように願います。どんな電球、何ワットの電球を合わせて取り付けても、今ではすべてが準備されています。ソケットも準備され、すべて準備されています。電球さえ取り付ければいいのです。それがあまりに明るくて、すべての人がここに来るはずであり、また音があまりに大きくてすべての人が聞くはずです。そのようにできる私になれば、暗い世界にある一つの灯台と同じだというのです。また、サイレン塔と同じだというのです。

 これから内的な新しい出発が必要だということを感じなければなりません。それで愛の鐘を鳴らそうというのです。















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