文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


必ず行かなければならない運命の道

一九八二年十月十七日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第百二十巻』


 きょう、皆さんにお話しする題目は「必ず行かなければならない運命の道」です。この言葉は「み旨の道は、生まれながらにして必ず行かなければならない運命となっている」という意味です。

◆生まれながらにして定められた運命の道

 私たちはよく、運命という言葉をたくさん使います。「運命」という言葉を見れば、その「命」という字は、「命」を意味します。そして、「運」という字は「運ぶ」という意味です。ゆえに、この言葉は「命を運ぶ」という意味になります。あるいは、ある全体的な一つの標準になり得る「命題」を置いて、そこに「行く」という意味にもなります。このように、運命の道は必ず行かなくてはいけないのです。

 動物の中で、かえるは主に水の中で生活します。かえるにとっては水の中で生活するほうが陸地で生活するより合っているのです。生まれながらにして、そうなのです。そのように生まれたので、生活するときも、死ぬときも水の中です。そこから外れては行く道がなく、生きる道がないのです。

 また、せみも同じです。せみの卵が成虫になるためには幼虫の段階を経なければなりません。幼虫の時代があるのです。幼虫時代には主にじめじめした地中で生活します。そうかといって、せみが行くべき道は地中ではありません。最終的には、大空を飛ぶことができる道に行かなければならないのです。

 せみの幼虫がどんなに地面に穴を掘って入ったとしても、そこにとどまることはありません。その過程で準備すべきものがあるというのです。それがほかならぬ羽です。それが必要条件であり、絶対条件として、なくてはならないものです。

 幼虫時代から成虫時代に移っていくためには、幼虫時代から飛ぶことができる万端の体制が準備されなければならないのです。そうして反対となる要素である殻を脱ぎ、整備する「時」を必ず経なければなりません。殻を脱がなければならないのです。空中で飛ぶときにはそれに合うように、すべてのものを備えなければならないのです。

 人間もこれと同じように、自分が男性として生まれたならば、必ず男性として行くべき道があり、女性として生まれたならば女性として行くべき道があるのです。女性は結婚すれば子供を産まなければならない運命をもっていますが、その運命に不適合となる時は悲運が訪れてくるようになります。どんなに困難であってもその道は行かざるを得ないのです。そうでなければならないのです。

 女性たちにとって、赤ちゃんを産むのはどうですか。男性でもそれは尋常でないと思うのに、か細い女性が考えるとき、どんなに大変なことでしょうか。死ぬか生きるかの賭けなのです。なぜ、そんなことをしなければならないのでしょうか。そのような道を行かなければ、女性はそこで孤独を感じるのです。ゆえに、女性として行くべき運命があるというのです。

 そこにおいてはどんな提案も勧告も必要ありません。そうでなければいけないのです。そうでなくては、存在価値がなくなるのです。このように見るとき、運命の道というのは男性の運命の道もあり、女性の運命の道もあるのです。二筋の道があるというのです。

 それでは、家庭の運命の道はないのでしょうか。一つの家庭が行かなければならない運命の道もあるというのです。家庭というものは、男性の思うまま、あるいは女性の思うままに、自分の基準だけをもって一方通行するようにはなっていないのです。男性の運命と女性の運命を合わせて、家庭の運命の道を行かなければなりません。

 人はなぜ結婚をするのでしょうか。今の状態でずっと生きればいいのに、なぜするのですか。それは生理的にしなければならないようになっているのです。その道を行かなければ病気になるのです。構造的に見るとき、循環器から何から機能が正常にならないのです。ゆえに、誰であっても正常な過程を経なければならないのです。それが理想的であり、正常的な行路です。

 ここで言う「正常的」という言葉はすべての面で平均を取って、和合することができる中庸の道を行くという意味です。ゆえに、中間の立場を行くことが正常的であり、一方に偏ってはいけないのです。高くもなく、低くもなく、そのように調和をなして行くのが「正常的」だということです。

 このように見るとき、ぺしゃんこになった運命の道を行きたいと思う人は誰もいません。男性として生まれたならば、より良い家庭の運命の道を追求するのです。

◆個人、家庭、社会、世界、神様も行かなければならない運命の道がある

 それでは、結婚とは何でしょうか。夫婦が行かなければならない運命の道を訪ねていくことです。一度結ばれたならば、その運命の道を自分勝手にすることはできないのです。自分の思いどおりにするという話は通らないのです。ですから、嫌いであろうと好きであろうと、横に行こうが後ろに行こうが、どのみち運命の道は行くようになっています。いったん、結婚してしまえば自分勝手にはできないのです。結婚をすれば、「家庭の運命の道」を命を懸けて行かなければならないのです。

 このように、「家庭の運命の道」があるとすれば、「社会の運命の道」もあるはずです。言葉はこのように連結するのです。人間の本性から見るとき、誰でも家庭よりももっと高いものを探し、望むようになっています。生理的にそのようになっています。一段階高めてくれるものを追求するのが私たち人間の本性です。その本性の欲望が作用することを考えるようになるとき、家庭をもって、社会の道に乗ろうとするというのです。社会が行く道に乗ろうとするのです。そうして、社会を開拓しようとするのです。

 一つの社会も「社会の運命の道」があります。そこでは文化背景とか構造的な体制とか、すべてのものが複合的な形態になっていますが、その社会が行くべき一つの運命の道、どうしても行かなければならない運命の道があるのです。そこでその社会が行かなければならない運命の道は平坦なものだけではありません。正常的なものだけではないというのです。それが上がったり下がったりしながら、回りながら、くねくねと行くそのような何かがあるのです。

 その社会が行くべき道は理想的国家を追求することです。理想的国家を願うというとき、その国が行かなければならない道があるのです。また、その国家は連合的な戦線を取って新しい一つの飛躍的な体制を整え、より高い世界的運勢圏へと飛び立つことができる道を追求するのです。

 それでは、国家的運命の道の次には何があるでしょうか。その次には自動的に「世界的な運命の道」があるのです。今は、この世界がどんなに早く回っていくのか予測ができないほどです。そうかといって、世界的な運命の道がなくなるのでしょうか。なくならないのです。運命の道があるにはあるのですが、どこに行くのか、それを誰も知らないのです。このように、一つの地球という星を中心として巨大な「運」を動かして前進しているのが人間世界です。

 それでは、世界的運命圏を閉鎖したのちには何があるでしょうか。人はいわゆる「天運」が来なければならないと言います。そのようなことを言うでしょう? 「天」というものがあれば、天が行かなければならない「運」が、天が行かなければならない運命の道があるというのです。

 それでは、ここにおいて天が行かなければならない運命の道とは何でしょうか。それは神様が行かなければならない運命の道のことです。神様がいらっしゃるならば、その神様が行かなければならない運命の道があるのです。すなわち、神様がいらっしゃるならば、神様も生まれながらにして行くべき運命の道があるのです。

◆人間の運命の道は限界があるが、天の運命の道は無限である

 それでは、私たち人間はなぜ天運を追求していくのでしょうか。神様は一番高く尊く、その方が一番理想的な標準となって、原因と動機、あるいは結果となっています。ですから、その方と一つになることによってすべてのものが始まり、新たに出発することができ、その方と共に新たな決定をなすことができ、結論をつけることができるためです。

 そこにおいて過程的なものは全体的なものを決定することができない立場にあります。ゆえに、運命圏を中心として見るとき、過程にとどまるようになっています。その中で回るようになっているのであって、それを突破して新しい次元のどこにも連結できないのです。

 神様がいらっしゃるとすれば、神様は全知全能であられ、すべてに臨在されるお方として、可能でないことがありません。そこには限界点もないうえに、線もなく、形態もないというのです。

 そのお方に愛があるとすれば、その愛は永遠の愛であるというのです。そのため、愛が行かなければならない運命の道は永遠にそのお方と連結されるのです。そして、そのお方に理想があるとすれば、その理想というのはそのお方から新しい永遠と連結されるものです。

 それでは、人間と神様が異なっている点とは何でしょうか。人間は限界的な運命の道を追求していきますが、神様は無限な運命の道を運行するのです。「追求」するのではなく、「運行」するのです。

 このように見るとき、「一秒」がカチカチしながらどんなに急いで行ったとしても、それは「一分」の道に従っていくためのものです。「一分」もどんなにカチカチしながら休まず行ったとしても、その運命の道は、「一時間」に従っていかなければならないのです。「一時間」も否応なく、「一日」に従って行かなければならないのです。「一日」は「ひと月」に従わなければならず、「ひと月」は「一年」に従わなければならないのです。また、「一年」は「一世紀」に従わなければならないのです。このような論理が形成されるのです。

 そこにおいては百年の中に十年が包含されます。十年の中には一年が入っていきます。自動的に包括されます。また、一年の中には十二カ月が包含されます。ひと月の中には一日が包含され、一日の中には時間が包含され、時間の中には分が、分の中には秒が包含されるのです。

 それでは運命の道の中で、終末点、限界点はどこでしょうか。また、私たち人間が必ず行かなければならない運命の道があるとすれば、どこに行って定着するのでしょうか。どこに行ってとどまりたいと思うのでしょうか。これが問題です。

 男性の運命の道は女性を探していくべきものであり、女性の運命の道は男性を探していき会わなければならないものです。その時の深刻な度合いというものは到底言葉で言い表せません。そうして二人が会って、行くその運命の道は安らかな道でしょうか、難しい道でしょうか、容易な道でしょうか、うれしい道でしょうか。

 今日、この時代は変化する時代、不信の時代として、諸般の問題を置いて、互いに相克、相 衝(注:相いれないこと)が頻繁に起こっています。このように環境圏内に二つの輩がいて、行くところにおいては楽な道だけがあるのではありません。非常に多くの内容が宿っています。草があれば、「[の根」のようなものも絡まっているのですが、それはどんなにもつれていることか、船が何百馬力のモーターを回していったとしても後退するほどです。そのくらいもつれているのです。

 それでも行かなければならないというのです。だから、「ああ、死んでしまう!」と言って、大騒ぎになるのです。そんな運命の道がいくらでもあるのです。

 自分が好きで行くというより、行かなければならない運命の道において、その[のつるをどのようにして突破していくのかということを考えなければならないのです。そうしようとすれば、そこにおいて刀を研がなければならず、様々な準備をしなければならないのです。このような準備、対策が必要なことを考えずに、現在だけの幸福を基地としようすることは、脱落者の予告を抱いていくのだということを知らなければなりません。

◆より大きな運命に従っていかなければならない

 したがって、その国の為政者や国民たちは世界の運勢に従っていかなければならないということを知らなければなりません。

 たとえ「分」が「時間」に「おい、時間! お前はいい加減だ! 私のように、このように時刻どおりに細かく時間を指さずに、何で一時間ずつ飛び越えるのか」と、このように言えるかもしれませんが、「時間」は「お前は私の中に入っていなければならない」と言うときには、それを否定することができません。どんなに「分」が「時間」に自己主張しても無駄です。その前提条件の命題の前に絶対降伏しなければならない運命にあるということを知らなければなりません。

 ゆえに、大韓民国がどんなに立派であっても、世界的運勢の前に「自分は嫌だ!」と言ってはならないのです。絶対命令を受ける過程もあり得るのです。

 「世界の運勢」においても同じです。世界の運勢圏だと言っても、自分自身を否定していかなければならない時があるということを知らなければなりません。「あー、それは嫌だ!」と言えば、完全に破壊されるのです。そのようになれば悲惨になるのです。そこには許しがありません。

 共産党がどんなに大きな声を張り上げても、世界の運勢の前に順応していくのを見てください。自分たちが行く運命を延長的運命として考えてはならないのです。新しい、次元の高い時が来るというのです。

 なぜそうなのでしょうか。昼間働いた人は、夜になれば何時間か寝るのです。歩き回ったのに比例して、そこに反対となる命題の前に、反対の動きの前に、絶対服従しなければなりません。「自分は嫌だ!」と言っていれば除去されるのです。昼間、天下が自分のもののように騒々しく歩き回っていた人に、夜になれば非正常的な現象が起こるのです。いびきをかいて、寝言を言う、そんな現象が起こるのです。それは非正常的なことのように見えますが、それが正常的なことなのです。

 次元の高い運命の道の連結を追求することが、人生です。どんな人であっても、そのような望みをもっています。ところで、そのような欲望をもった人間がある時、飛躍することができるためには絶対服従しなければなりません。自分自ら、今まで運命の条件を提示することができなかったという事実を知らなければならないのです。

◆天運の主流に立つことのできる者

 これまで正常的に歩んだ運命の道から、飛躍的な運命を追求するようになるときには、これまで歩んだ運命の形態そのままを続けてはならないのです。飛躍というくらいなので、形態が異なってくるのです。そこに絶対順応しなければなりません。自分がこれまで正常的な過程で提示してきた要件をもってしては成立しないのです。

 先生が合同結婚式をしてあげるとき、見たこともない人が約八〇パーセントは越えます。自分たちは中学、高校、大学に通い、成人したのですが、一度も会ったこともないそんな人たちを連れてきて結婚させるのです。

 それは、先生が統一教会の責任者として統一教会が行くべき道を開拓しようとするので、そのようなことをしないわけにはいかないのです。これまで私は、一秒も休むことができませんでした。世間では六十何歳であれば停年ですが、先生には停年がありません。

 うちのお母様まで、そのように考えているふしがあります。私が鋼鉄の骨でできていると思っています。しかし、どんな鋼鉄だとしても運動すれば消耗するようになっています。そうかといって、「全部ストップだ!」と、このように言えないのです。なぜでしょう。それが先生の運命の道であるためです。そのような運命をもって生まれてきたので、死ぬ時までそのようにしなければならないのです。

 その運命の道を行くということは、夜も行かなければならないのです。行くべき道は遠いのです。その運命の道を行くとき、これを早く撃破し突破しなければならないというのです。この複雑な過程をそのまま越えていこうとするのは、万民が望む共通的な欲求です。いくら先生だといっても老いていくのです。「死」というものは運命の関門です。誰でも越えて行かざるを得ないのです。

 五色人種を私の目の前にもってきて結ぶのですが、見れば光彩を放つのです。それは愛に狂った光彩です。その光彩で目がたいまつのようになって、「良い新郎、良い嫁をもらうぞ。悪いものは嫌だ!」と言っているのです。

 この世にそんな道理がどこにありますか。全部が良いものを取れば、悪いものは誰が取るのかというのです。そのように、人は自分が考えることだけが一番だと思っているのですが、そうではありません。それは一つの過程です。ほんのちょっとの間だというのです。

 それよりもずっとけた違いで重要なものがあるのですが、それが正に夫婦生活です。家庭で男性が女性を消化するということは大変なことです。女性は良いものをあげればしっぽを振ったりするのですが、少しでも間違いを起こせばかみつくのです。女性たちには失礼な話ですが、事実そのようになっています。

 人はそれぞれ運命の道を探していくのですが、どんな人が知恵深い人であり、どんな人が生き残る人なのでしょうか。自分の運命よりも次元の高い運命の道を探して準備する人が生き残るのです。これが理想的結論です。事実的結論であるというのです。その理想的可能性が今の運命よりも存続する運命の道であるというのです。

 現在の立場から、また再び次元の高い運命の道を行かなければならない今日の歴史的運勢があるとすれば、その運勢圏内において、誰が宇宙の運勢の主流の位置に立つのでしょうか。そのような問題があります。天地の運勢があるとすれば、誰が天地の運勢の主流の位置に立つのかというのです。

 そこには個人も入ることができ、家庭も入ることができます。どの家庭、どんな民族、どんな国家も行くことができるというのです。それゆえに、天運の主流の位置に立って方向を整えて行く人には、一つ一つの運勢をすべて経なくても、きっちりと天運の主流の位置に入っていくことができる道があるのです。

◆最高のものを標準とする者は最高の受難の道を消化しなければならない

 お父様は、お父様の運命の道を行くのです。一つの国の大統領がいくら立派な位置にあったとしても、大統領はその国の運命の道だけに責任を取るのであって、私は世界の運勢を見つけようとする人です。悪口を言われようが世界というふろしきをかつぐのです。

 金サッカ(注:李朝末期の放浪詩人)はののしられ、居酒屋でも冷遇され、村の犬にまでほえられたりしたのですが、彼は全国の山河を巡り歩きながらとても素晴らしい歴史を残していった人です。酒を飲んで、狂ったまねをしたとしても、彼が眠りにつくときには国を抱き、歴史を抱くことができるそのような大きな視野をもって寝たというのです。

 それでは統一教会はいったいどんな運命の道を行こうとしているのでしょうか。友達とするのに、神様と友達になろうというのです。宇宙に一つの主体があって、その主体的な存在の前に対象の資格を追求しようと主張してきたのがレバレンド・ムーンの思想です。とりあえずはすてきであって、その話は合っているのですが、そこに到達するのが大変です。博士学位一つよりも、博士学位二つのほうがもっとすてきでしょう。五つはもっと、もっと、もっとすてきです。上がっていくほど「もっと」という言葉が一つずつ付くので、それはどんなに複雑で難しいでしょうか。

 それで、最高のものを標準とする者は最高の受難の道を消化しなさいという結論が出てくるのです。最高の表題を立てておいて、その道を越えていこうとすれば、最高の主体を望むことに比例した受難の道を消化しなければならないのです。これは自然な道理です。そこには異議がなく、加減がないのです。比例的な受難の道を経なければならないのです。

 今は、世界の頂上級の人たちが私に会おうと言っても、私は簡単には会ってあげません。いずれにしても先生はそのくらいになりました。

 有名な「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)の会長団のある人は、「誰々は先生に会ってもらったと自慢していましたが、その人は私の同窓生なのです。私の体面がどうなりますか。私の威信が立たないので先生と一度会うように取り計らってください」と、こんな人もいました。でも、会ってあげないのです。

 ところで、先生が来ると、ただ「私をちょっと助けてください」と言う人がいます。先生はいつでも助けてあげるのではありません。助けてあげるにしても時があるのです。働くときには働いて、助けてあげるときには助けてあげるのです。何であってもそのように分別してしなければならないのです。そのように運命の道にも度数があるのです。戻っていったものを再び戻してきては駄目なのです。前進しなければなりません。

◆神様の心情と愛を中心として天運に乗ろう

 統一教会は神様と友達になろうというのです。その主体の前に対象になろうというのです。神様も必要とするものがあるというのです。神様も相対が必要なのです。この地球星で神様を友達にしようと言う人を見たことがありますか。神様の友達になろうと言う人を見たことがありますか。それはレバレンド・ムーンしかいないはずです。

 「友達になろう」と言うだけでなく、「神様をポケットに入れて共に歩んでいこう」と言うのです。ポケットがどれほど大きいか分かりませんが、とにかく詰め込んで共に歩んでいこうというのです。

 それはどんなポケットでしょうか。宇宙の何百倍にもなるものが入っても余裕があるポケットです。そのようなポケットがあります。人はそんなポケットがどこにあるのかと言うでしょうが、私はあると思うのです。それが何かと言えば、愛のポケットです。真なる愛はちっちゃな穴であってもそのまま入ろうとするのです。愛は、そのような作用を起こし得る動機をもっています。

 それゆえ、若い青年男女、あるいは愛する人々が埠頭とか、プラットホームのような所、あるいは空港に行けば、会うと互いに抱き締めるのです。そのように小さくなる運動をするのです。

 そのように小さくなって一つとなるのです。小さくなって一つとなるのであって、大きくなっては一つになれないのです。それは実に良い秘訣です。小さくなって一つとなるのです。その話はどういうことかというと、非常に大きな神様ですが、そのように小さな穴にも入ることができるということです。

 愛のポケットは、神様を自由に入れることができるポケットです。愛というすべをもってこの上なく困難な状況を見れば、この上なく悲しいというのです。この上なく大きいですが、この上なく悲惨な場にも下りていくことができ、極と極を通過して運動しても余りあるというのです。そのような作用を起こすことができるものが愛なのです。

 それで愛の綱をつかめば宇宙を踏んで上がっていくこともでき、また宇宙を背負うこともできます。宇宙を足の裏につけることもでき、自分の手のひらに載せることもできます。

 神様の友達になろうとするときには欲しいものがありません。天地がすべて、その中で遊びだします。ですから、大韓民国でそんな人が現れたならば、それは知っておかなければなりません。先生はそのような人になろうとするのです。

 皆さんは先生が使用した教材をもって勉強しなければなりません。そうして天運の綱に乗らなければなりません。天運の綱に何をもって乗るのでしょうか。お金をもって? 違います。それでは手段をもって。違います。神様の心情と愛を中心として、天運の綱に乗ろうというのです。

 私、レバレンド・ムーンは哀れな農家の息子として生まれましたが、標準とするものは立派な王家に生まれた皇太子がもっている考えよりも立派だと思うのです。その内容はどんな王座に座って豪語する大王の名称をもった人の考えよりも素晴らしいと考えるのです。彼らは、英国であれば英国、アメリカであればアメリカにおける制限された国民を対象とするそんな基準で一つの国家の代表となっていますが、私は違います。歴史をかけて、過去、現在、未来の人類の前に代表になろうと考えているのです。

◆鶴のように孤高に飛ぶことができなければならない

 ですから、飛ぶときにおいても、雀のように飛んではなりません。鶴のように飛ばなければなりません。鶴が飛ぶときはどのように飛びますか。力を伝えようとS字型に飛んでいくのです。雀はただ飛びますが、鶴は拍子を取って、8の字型に飛ぶのです。そして、高く上がるのです。そうして遠い所を望むのです。

 鶴は足が長いでしょう? その鶴が立つときは必ず一本足で立つようになります。それは天地の度数に合わせようとしてそのようにするのです。口は一つですから、垂直線に従っていこうとするので垂直に立たなければならないというのです。それでこそ道理にかなうのです。

 宇宙の理想的な垂直線は一つです。宇宙は高尚な思想を中心とした生命とか、高尚な愛を中心として回るようになっています。

 鶴は横を見ているよりも首をすっとあげているほうがすてきです。長い首がどんなにすてきか知れません。それは高いアンテナ、竿のようになるのです。高いところを指向する、伸びる力をもっています。その次には線が地球に垂直になります。鶴の体が垂直になります。また翼は分厚くありません。すらっと流線型です。そうして鶴の翼は水平を成すようになります。

 翼を動かさないで最も遠くまで飛ぶことができる鳥が鶴です。高く上がっていくので、じっとしていても遠くまで飛ぶようになっています。ですから同時に最も遠くを見るのです。それは理論がちゃんと合っているのです。

 先生はそのような考えをもって歩んでいます。私は少々太っていますが、体質的には有能な体質をもって生まれました。先生の考えだけは、そのような素晴らしい考えをしています。

 鶴は、誰が悪口を言おうと全く気にかけずに飛んでいくのです。大洋に向かっていくのです。世の中が大騒ぎし、雀は死んでしまうと大騒ぎしても、鶴は飛んでいくというのです。そうして大洋と大陸を飛んでいき、とどまるようになるときには「私は主人である」という位置に来てとどまるようになるのです。とどまるときは、素晴らしい場所を探してとどまるのです。

 しかし、先生はいまだ定着できません。レバレンド・ムーンは、今なお定着できません。私がとどまる定着地を探していくのです。その定着地はどこですか。神様が主体であられるので、神様の前に行って定着しなければなりません。レバレンド・ムーンはそれを運命の道として行くのです。生まれながらにして、そのように生まれたのかもしれません。

 皆さんは、がちょうになりますか、鶴になりますか。がちょうも、一面ではおしりを広げて歩くときにはすてきでしょう。しかし、みな鶴になるのを望んでいるのです。皆さんが鶴になろうとすれば、鶴のように一本足になって立たなければならないのです。そうしなければならないのに、みな足をがちょうのようにしています。それでは不合格です。駄目だというのです。飛ばなくてはなりません。

◆高い所にいるほど低い所を理解して愛することができる

 したがって、鶴になろうとすれば一本足となって、天地の度数を垂直線に合わせることができる心の姿勢をもたなければなりません。人の良心が正しいということ、良心がまっすぐだということはどういうことですか。そこにはどのようにまっすぐだという標的がなければなりません。それは既に垂直線を描いておいて言う言葉です。それを知らなければなりません。

 「人の良心がまっすぐだ」と言う言葉はどこから出てきた言葉ですか。既に天地の一つのセンターに垂直線を描いた中で、そこに対置する並行的基準で比較して、まっすぐである、曲がっているというのです。鶴がそうです。動物の中でそのようなものは鶴以外にいません。

 また、鶴は真っ白なところに真っ黒な部分を兼ね備えています。それは高く飛ぶが、低いところもつつくことができるということです。低いところにも入っていくことができるということです。その時には白いところもなければなりませんが、黒いところも必要なのです。低い所にいる黒い群れが「あなたは上がっていくことだけすべきでしょう、どうしてこんな所に来たのですか」と言えば、「私にも黒いところがあるではありませんか。相対的条件をすべて備えています」と言えるというのです。その次にまた、赤い部分があります。これは情熱があるということです。どのような情熱でしょうか。案内者の情熱が後ろに従ってくるのです。それはどんなに素晴らしいことでしょうか。

 その次に、食べるときは何を食べますか。大部分は陸地にいるものを食べますが、海にいるものも食べます。ゆえに、両方の世界を兼ねることができるというのです。統一教会の先生を鶴に比喩しようとすれば、宗教界でも食べますが、事業世界でも食べます。また、高い所にもいますが、低い所にある穴もつつくというのです。ですから、魚釣りもするのです。それはすべて道理にかなっているのです。そのため、鶴の尾っぽが黒いのです。下りていくときはしりが先につくのです。それはすべて天地の度数に合わせるためにそうするのです。

 代々、韓国民族はこの鶴を愛してきました。それで、枕の両端につける飾りにも鶴が刺繍されるのです。リトル・エンジェルス会館に行けば舞台の所に幕がありますが、そこにも四羽の鶴の絵があります。それは民族を象徴しているのです。鶴とがちょうは鳴き声は似ていますが、その内容は異なります。

 がちょうを見れば、それはよく食べるし、おしりも大きいのです。そうして、ふんも一度にたくさんします。それががちょうです。

 人にも二種類の人がいます。食べるために生きる人と、飛ぶために生きる人、二種類の人がいるのです。皆さんは食べるために生きる部類でなく、鶴のような部類にならなければなりません。やせこけても遠くに飛ばなければなりません。遠くに飛ぼうというのです。

 私たちのお母様の名前が鶴子です。お母様の名前に息子の「子」の字をつけたのは神様の息子と因縁を結んであげるためであったということも知ることができ、また「そのように生まれたために統一教会の母の名をもったのだなあ」と、このように考えられます。

 この話はすてきな話です。お母様! 「韓」というのは韓国を代表し、宇宙も代表し得るのです。「韓」は一つであり、第一という意味です。それは正に統一教会式です。

◆鶴のように生きなければならない

 それで皆さんの口から「私が良い生活をしよう」という言葉を言うことができないのです。

 鶴は大空を飛びますが、私たちは大空を飛ぶことができなくても中空は飛べなくてはなりません。中空(注:韓国語の発音でチュンゴン)と言っても中共(チュンゴン)のことではありません。飛ぶときにはどのように飛ぶのでしょうか。父母についていこうとすれば、頭を高く上げなければならないのであって、地を見ては駄目です。

 皆さんが飛びながら地面を見下ろしていれば、逆さになって突き刺さってしまいます。そうすると、くちばしや頭が突き刺さって、足だけ残ってしまい、誰かが引き抜いてくれなければ、死んで腐ってしまうのです。このような道は命を滅ぼす道であって、運命の道ではなく、滅んでいく運命の道を自分自ら進んで求めていくことです。

 それで飛ぶときには中空を飛ぶのですが、頭とくちばしはどこに行かなければならないかというと、上に行かなければなりません。飛べば飛ぶほど上がっていかなければなりませんか、平行線を飛ばなければなりませんか。上がっていかなければなりません。体も上がっていかなければならないのです。飛ぶときは中空を飛ぶのですが、頭は上がっていかなければなりません。

 それで、皆さんは自分だけのために生きるという言葉を言ってはなりません。結婚はなぜするのですか。天と地のためです。目的が異なる人とは異ならなければなりません。「お前、今どこに行くの?」と言われれば、「天と地を一つとするために」と、言わなければならず、「何を考えているの?」と言われれば、「天と地を一つにする統一世界のことを考えている」とこのように言わなければならないのです。

 「短い人生、そんなふうに生きて何があるんだ? ただ適当に、他の人と同じように生きればいいじゃないか」と言うかもしれませんが、見てください。鶴はがちょうのようには生きられません。そのようにしていては死んでしまうのです。死んでも、やせて死ぬのです。雀のようには生きられないのです。鶴になったならば、鶴のまねをしなくては生きる道がありません。それが、真の父母の因縁に従っていく一族の運命です。先生は、皆さんすべてをそのように見るのです。

◆天運に従っていく統一教会

 統一教会は天運に従っていきます。それでは、天運の中で主流の流れとは何でしょうか。心情です。そのため、神様の心情をぎゅっと抱き締めていこうというのです。そのような心をもたなければなりません。

 神様とはどのようなお方かと言えば、今まで天宙の大主宰となられる王の中の王であり、主人の中の主人であられたのですが、人間始祖が堕落することによって、怨 讐となってしまいました。サタンとは何でしょうか。愛の姦夫です。「姦」という字は女が三人です。女性が三人だというのですが、それが一つとなった女性はどこにいますか。三人の女性の業をするのです。姦夫とは何ですか。愛の怨 讐です。

 神様の血統を受けて生まれなければならない人間が、怨讐の血統を受けて生まれたというのです。ゆえに、この人たちがこれを克服するためには血を抜くことをしなければなりません。それゆえ、宗教は殉教の血を流してきました。主流となる宗教は殉教の歴史をもたなければならなかったという事実を知らなければなりません。高次元的宗教は受難の道を経るのが原則なのです。

 なぜそうしなければならないのでしょうか。怨讐の血を受けたためです。その国の后として選ばれたエバがその国の逆賊奸臣の血を受けて后の位置に上がって座ったというのです。その息子が王の位置に即位したというのです。これが神様の天地運勢を支配する中心位置を誤るようになったことです。これを是正しなければなりません。

 それではどこから是正しなければなりませんか。その位置に上がっていかなければなりません。ところで、神様の心情を中心としなくては上がっていく道がありません。神様の心情を知ろうとすれば、自分の父に会って、父がどんな立場でどのようになったのかを知らなければならず、エバがどのようにして堕落したのかという事実を知らなければなりません。このような、不運の運命の中で生まれた父の立場がどんなに悲惨かということを知らなければなりません。その悲惨さは推し量ることができないというのです。

 ですから、私たちはどんな犠牲を払っても投入して、父の姦夫に敵を討たなければなりません。敵を討つのに銃や刀で討つようになっていません。より大きな愛でなくては敵を討つ道がないと見るのです。だから、その怨讐を愛していってこそ、本来の創造理論に合格した神様の位置に登場することができるのです。なぜかと言うと、サタン、悪魔の天使長も本来、創造当時には神様の愛を受けるようになっていたからです。

 それゆえ、天使長が「あなたが神様になろうとすれば、私は堕落したといえども私を愛したという原則を立てなくては、あなたがこの宇宙を支配する位置には行くことができません」と言ってかみついて離れないのです。ここに掛かっているのです。実にあきれた事実です。

 そのために救援の歴史に数多くの事情を残しながら、これまで歴史の峠道を越えに越えて、解決できなかったまま統一教会の門前にまで神様が訪ねてこられたというのです。レバレンド・ムーンが少年のとき、門前まで神様が訪ねてこられて慟哭されたのです。その時が、レバレンド・ムーンがこのみ旨を知ったときでした。その当時は国もない悲惨な時代でした。日帝の治下にあった時に、一人の農夫の息子として生まれた文なにがしという人は、その村でけんかをすれば親分であり、子供たちの大将でした。

 悪いことをしたとすれば、私は途方もなく悪いことをしたことでしょう。極と極です。悪いことをしたならば、歴史にない悪いことをしたはずです。そんなことができる頭ももっているのです。

 そのような何かがあるので、今まで若い人の気質以上の実力をもって踏ん張って立っているのです。私が話しているのを見れば、年寄りの雰囲気が全然ないでしょう。生き生きしているのです、若い人のように。いくら老木だといっても、その老木の先から出てくる芽は、みずみずしいのです。私は成長していると考えるのです。

 そのような怨恨を解いてさしあげるために、私たちは商売をしても神様の心情をつかんで心情の商売をしているのです。私の同志を糾合するために、野を越え、山を越えてあえいでいるのです。そのようにして行く頂上があまりにも悲惨であるために、悲惨な歴史的な事情をもった神様が来て、慰労してくださらなくてはならないのです。そのような神様がいらっしゃるという事実が、もっと悲惨であるということを皆さんは知らなければなりません。

◆精誠の結果は後世まで残る

 神様のために働くことは世界救援のためであり、世界の心情的主流思想のためです。これまでそれを標的としてきたので、個人の運勢圏を通して、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の運勢圏を通して、神様の愛の終着点を連結させなければならないのです。

 そうするための相対的理想運命圏が今日、復帰の運命の道をあえぎながら行く私たち堕落した人生が行かなければならない最後の終着点になっています。したがって、終着地のターミナルとあの世のターミナルが同じ水平線上で合わさる道は私たちが行く道しかありません。どんなに探してみても、これしかありません。

 自分を思う人は天国にも行けません。歩く歩幅が異なっているのです。仕方がありません。それが運命の道です。もしそれが駄目ならば、地上に来て、億千万金で自分の息子、娘を蕩減させてでも、そのような心情的誘発点を中心として接触させなければなりません。この基準を経なくては天国に行けません。息の詰まるような内容です。

 私はそれを知っているので、人生をこのように生きているのです。風雲の男のようにお金を世界にまいて回ったりしますが、それはいつでも戻ってくるだろうと考えて、お金の種を蒔いていると考えるのです。失ってしまったものを取り戻すためのえさと考えるのです。良いえさを使ってかかる魚は十年後に、二十年後に、三十年後に誰が釣ろうが釣れるはずです。そのようにしてでもその誰かが釣らなければなりません。釣らなければならないのです。私はいつかは逝く人です。しかしながら、誰かが釣れるようにしようと思っています。どうせなら、釣るときには統一教会の精誠を尽くした人、信仰のある人を通して、釣らせたいというのが先生の欲望です。

 皆さんができなくても、このみ旨と思想を掘り下げていく人は、神様がいる限り、霊界がある限り、善なる先祖をもった後孫が、どのみちこの道を続けていかなければならないのです。それを知っているために、苦労したために、皆さんに受け継がせたいというのが先生の欲望です。それは、父母の欲望です。

 今、私たちが、特別なことをするのは、地上の限られた限界線でとどまろうとすることではありません。無限な世界と連結しようとすることです。そうしようとすれば、このような思想的訓練を経なくては行くことができません。運命の道がそのようになっているのです。嫌いだろうが好きだろうが、ここに拍子に合わせなくてはならないのです。これが天理であることを知らなければなりません。そこにおいては誰も異議がありません。

 泣きながらでもついていかなければなりません。避難していく人は三十八度線を越えるためには泣きながらでも越えなければならないのであって、そこで倒れてしまってはならないのです。足をばたつかせながら泣きながらでもついていかなければならない運命の道です。そのようにして三十八度線を越えていかなければならないのです。必ず行かなければならない運命の道を背負って行くのです。聖書では「世の罪を負って行く神様の小羊を見よ」と言っていますが、統一教会の食口も同じです。「復帰の心情を負って行く統一教会の子女を見よ!」と、このような言葉が出てくるでしょう。心情の十字架を背負って行くのです。

 先生の心情を知っている人はいません。午前二時が過ぎて食口たちを送り出して、一人テーブルの所に座り、涙を流しながら全体のために祈祷する時間があるのです。机の所に座って祈祷しているうちに寝てしまうのが常です。そのように生活しているのです。悲惨なのです。先生の生活は悲惨、正にそれ自体です。それ以外にはないというのです。

 先生が飛行機に乗ってどこかに行くとき、お金を期待して行くのではありません。神様に侍り、神様が楽に行くことができるようにする道案内人として行く、このように考えるのです。私に従ってこられなければならない神様がどんなに悲惨ですか、そのような運命の道が残っているということを知らなければなりません。

 父母の情も知らない無知蒙昧な人間たちは、善なる国の王様の心情を夢にも考えることができないのに、その心情をゆだねることができるでしょうか。神様はおろか、天の民の心も推し量ることができないのに、天の国の王の位置にいる神様と心を合わせるなんて、あきれた、とんでもなく不可能なことです。しかしながら、言葉はそのように言っても、そのためにあえぎ苦しみ、そのようなむちを何度も打たれていると、それが連結されるのです。迫害を受け、監獄暮らしをして、このように滅んでしまう運勢の道を歩んでいても、そのためにあえぎ苦しんでいれば、神様が来られて勧告してくださり、因縁を結んでくださるのです。

 だから、家にいては天国には行けないのです。聖書にもあるでしょう? 「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ七・一三、一四)と、言っています。私たちは狭く、険しいその道を行くのです。愛の道はつらいのです。分かりましたか。さらに一層孝子の道を行かなければなりません。忠臣の道を行かなければなりません。聖人の道を行かなければならないのです。孝子となれば忠臣にならなければならず、忠臣は聖人にならなければならず、聖人になれば天子にならなければなりません。神様の息子、娘にならなければなりません。そうなろうとすれば、父母の心情を知らなくてはいけないというのです。

 この道は私の人生において行かなければならないのです。死んでしまえばもう、レールはなくなります。これを築いておけば、天頂のレールが敷かれるために、自然に転がっていくのです。そのレールがあれば、あの世に自由に行くことができますが、これができなかった場合には行けません。

 必ず行かなければならない運命の道! 地上世界は一瞬であり、永遠なる世界は霊界です。必ず行かなければならない運命の道ということは、数学を勉強するとき、公式を習う一年生から基礎をしっかり築いておかなければ、通じる道がふさがれるのと同じです。地上は勉強する所であって、公式を習得するところです。ここで、これを良く活用できる訓練をすれば天地が開かれるのです。あの世に行っても神様の心情の活路が開かれるようになります。あるいは、自分の活動舞台であるその環境的因縁が急変したとしても、いくらでも愛を中心として和することが可能になるのです。















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送