文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


真なる世界へ

一九八七年九月二十日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第百六十八巻


 きょうは「真なる世界へ」という題目でお話ししようと思います。

 私たちは日常生活をしながら、誰もが生活目標を「善なる生活」と定めています。個人においてもそうですが、家庭も同じであり、国、あるいは世界においても同じです。

◆全体の理想をくくることができる共通分母は愛

 「人」と言えば、男性と女性に分けられます。ですから、「真なる人」と言えば、真なる男性がいなければならず、真なる女性がいなければなりません。この世界を見れば、世界には人だけがいるのではありません。ここには万物がなくてはならず、人間がいなくてはならず、それから理想がなくてはなりません。

 人には理想と希望がなければならないのです。きょう生きることだけをもって終わりとするのではなく、未来を通して希望をもって、より発展することができる、次元の高いところに前進することができる未来の保障を必要とするのです。ですから、この世界には万物があり、人間があり、理想がなくてはならないというのです。

 私たち個人においても同じです。個人が日常生活をするときにおいて、人間である私にとって必要なものとは何でしょうか。物質が必要であり、その次には、私個人だけで生きられるのではないので、人間関係を結ぶことができる人々が必要です。

 それでは、その人々は何を要求するのでしょうか。お互いに助け合うことができる、互いが利益となることができるものを願っているというのです。家庭を中心として見れば、父母がいらっしゃり、子女がいて、その他様々な家族が生活していますが、すべての家族が望む願いがあるのです。そのような共同目標を中心として、全体が喜ぶことができる一つの理想型がなくてはなりません。それでは、その理想型をつなぐことができ、束ねることができるものとは何でしょうか。このような問題をおいてみるとき、それは物質でもなく、人だけをもってしても駄目です。

 男性だけをもってしても駄目で、女性だけをもってしても駄目です。父母のみでも駄目で、子女のみでも駄目だというのです。ここに共通分母が必要となるのですが、それが何かといえば愛なのです。

 「理想的家庭」と言えば、理想的男性がいて、理想的家庭なのではありません。理想的女性がいて理想的家庭なのでもなく、また、理想的物質があるからといって理想的家庭ではありません。理想を連結させることができる、共通分母となり得る「愛」があってこそ理想的家庭を形成することができるのです。

 このことを大きく見れば、理想的な国家も同じです。理想的国家といえば、国土、万物がなくてはなりません。また、国民がいなくてはなりません。理想的国土と理想的国民があると同時に、理想的主権がなくてはなりません。

 主権とは何でしょうか。家庭でいえば父母の位置です。なぜ父母の位置が必要なのでしょうか。国は主権なくして成り立つでしょうか。成り立たないのです。人は平面基準のみでは駄目だというのです。男性が東側ならば、女性は西側ですが、これを連結したものは平面基準にしかならないのです。必ずその平面基準に縦的な基準を連結させることができなくてはなりません。

 国ならば国を中心として見るとき、縦的に家庭と連結するものとは何でしょうか。父母の愛を中心として、国と連結されるのです。また、世界にたった一つの中心主権があるとすれば、その主権と国王の愛が連結されなければなりません。

 それはまた、どこまで連結されなければならないでしょうか。この宇宙に万物を創造され、存在起源を形成された、根本なる神様にまで連結されなければなりません。そうしてこそ縦的な基準が連結されるのです。それで、縦的基準の前に横的基準を連結させなければ理想型が出てくることができないのです。

 理想とは何でしょうか。東でだけ喜ぶものではなく、西でだけ喜ぶものではありません。東西南北どこにでも、絶対に必要なものなのです。それがなければなりません。それがなくては、連結させることができないのです。

◆永遠なる理想世界成立の要件

 それでは神様が存在されるとすれば、神様が善であられ、真なるお方だとすれば、神様が願われるものとは何でしょうか。

 神様が必要とされるものとは何でしょうか。人間それ自体を必要とされるのではなく、万物それ自体を必要とされるのではありません。万物と人間を通した理想的な要素が必要であるというのです。それが何かといえば、「愛」であるというのです。

 真なる神様がいらっしゃるとすれば、真なる愛を中心として連結させるための人間と、真なる人間を中心として連結させるための万物を必要とされるはずです。真なる万物と真なる人間が愛で一つとなった、その基盤の上に真なる神様の愛が臨在するようになっているのです。

 そのため、愛と関係を結ぶことができる内容を省いてしまっては「真」という言葉は言えないのです。「理想」という言葉も同じです。今日、人々は「理想世界」という言葉を使いますが、一体全体、理想世界とは何でしょうか。「理想世界」とだけ言っても漠然としているのです。

 理想世界には絶対的な中心がなければなりません。理想というものは千年、万年を代表するものです。いつでも移動するものではありません。理想世界というものは万年前でも、万年後でも同じです。永遠にそれ自体の本質が変わらない内容をもっていなければならないのです。

 それゆえに、昼でも夜でも必要となるものであり、高くても低くても必要となるものでなければなりません。広くても狭くても必要であり、上下、高低の区別なく、有識、無識に関係なく、全部が絶対に必要とする、そのような内容とならなければならないのです。このようにいうとき、理想的な一つの絶対基準があるとすれば、その基準を中心として必要とする理想的な要件とは何でしょうか。それは「愛」以外にはあり得ないのです。

 今日、人間たちが「どうすれば平和の世界になるだろうか」と言うとき、「民主主義的に選挙をし、国家の主権を中心として、数年ごとに交替して、闘争なく和して暮らせば理想である」と言います。しかし、いくら国家が民主主義基準に立っているとしても、それは平面的です。それは今日の人間たちが一生を中心として営為する環境であって、永生を中心として生きる環境与件となることはできないのです。

 永生というものは、人間からは始まりません。絶対的な存在が形成されなければならず、絶対的な価値が形成されなければならず、絶対的な不変の内容が形成されなければなりません。そうでなくては、永遠なるその概念が設定され得る地上基盤が成立しないというのです。

 このように見るとき、平面的基準に生きている人生に、永生の概念を介入させるためには、絶対的なその基準を介入させるためには、絶対的な存在、絶対的な価値、絶対的な善、絶対的な愛がなくてはならないというのです。

◆男性にとって最も貴いものは女性、女性にとって最も貴いものは男性

 このように見るとき、人間世界を離れ、神様の側から見るとき、神様にとっても一番良いものがあるでしょうか、ないでしょうか。神様にとって一番良いものとは何でしょうか。これが分かれば本当にいいでしょう? 一つの国を中心として見るときも、大統領が一番喜ぶものは何だといって、みんな大騒ぎしています。

 家庭ならば家庭で、お母さん、お父さんが一番好きなものとは何でしょうか。一番好むものを中心として関係を結ぶことによって、自分が行く道が示されるのです。それは個人においてもそうであり、世界においてもそうだというのです。男性にとって一番良いものとは何でしょうか。女性にとって一番良いものとは何でしょうか。

 皆さん、人間が一番好むものとは何でしょうか。その答えを出すにはまず、男性にとって一番良いものを知らなければならず、女性にとって一番良いものを知らなければなりません。

 それでは、男性にとって一番良いものとは何かというとき、男の人たちが言うには、「ああ、私は権力だ」と言って、大統領選挙に出馬するとかなんとか、「国会議員が一番だ」とかなんとか言っていますが、それはよく分かって言っていることではないのです。

 男性にとって一番良いものとは女性です。国を与えても換えることができず、天地を与えても換えることができない、そのような、男性にとって一番、絶対的に良いものとは女性だというのです。そうだとすれば、女性たちは気分が悪くないでしょう? いくら男性の図体が大きいといっても、女性がいなければどうしようもないというのです。

 そして、女性にとって一番良いものとは何でしょうか。どんなに花のように美しい女性にすくすくと育って、紅顔の美しい顔を備えたとしても、その前に男性がいなければ天国ですか、地獄ですか。
 そこに、天国という概念を見つけてくることができますか。

 それゆえに、女性にとって一番貴いものとは何でしょうか。男性です。女性と男性が二人くっついて生活することをよくよく考えてみれば、なんとも不思議なのです。それ、どうして二人で生活するのでしょうか。何のために生活するのでしょうか。御飯を食べて、ただ寝るだけなのに。

 全体を見れば、人というものは食べて寝て、行ったり来たりして、良かったり悪かったりして、そしてまた寝て起きるのです。ここに世の中で起きるすべての内容が入ってくるのです。そうではありませんか。顔の形を見れば、多彩ですか。目、鼻、口、耳の四種類です。丸いところにそれらを描いてはめ込んであるのです。それを二人が見つめながら一生の間を暮らすとは、それはなんという地獄でしょうか。考えてみなさいというのです。

 皆さん、絵画一枚をもって、一生の間毎日のように、朝晩に話し、論議し、触ったりさすったりしながら暮らすと考えてみてください。それは、いかに地獄でしょうか。どんなに名画だといっても、それでは地獄です。ところが、どうして一生の間、触ったりさすったり、けんかして離れることもできないで合わさって、「うれしい」と言っては、またけんかして、このように大騒ぎしているのかというのです。

 何がそんなにいいのかというのです。なぜそんなにいいのかというのです。女性にとって男性自体が良いのですか。男性自体には良いものがないのです。比較してみれば、異なっている部分は一つのところ以外に、ほかにありますか。全部同じなのです。目もあって、鼻もあって、体もみんな同じなのですが、一部分だけが異なっているのです。

◆真なる愛は変わることがない

 どうして、男性は女性が好きなのですか。男性にとって女性が一番良いというのは、女性の体のせいではありません。そこに希望が訪れてくるからです。現実と未来においてこれを越えていかなければならないのです。そのような過程において、必要要件の存在として登場したために、男性や女性はおのずとお互いを絶対視するのです。その絶対視するということは何を中心としたものでしょうか。愛というものを中心としたものです。

 皆さんのおじいさん、皆さんの一番最初の先祖に尋ねてみても、同様な返答をするはずですし、千年のちに、数千万代の後孫を中心として尋ねてみても、同じく答えることでしょう。男性と女性が一緒になったここにおいて、提示されるべき重要な内容とは何か、絶対的要件とは何かというとき、それは愛だというのです。

 それでは、愛を中心として訪ねていくすべての夫婦が、近ごろアメリカのような所を見れば、離婚率が五〇パーセント近くあるというのですが、愛を中心として因縁を結んで出会ったならば、その愛がどうして瞬間的な愛となり、臨時的な愛であり、時間的な愛なのかというのです。これが問題です。

 では、男性と女性がお互いをつかんで生きるところにおいては、どんな愛を中心とするのでしょうか。真の愛を中心とするのです。真なる愛は夜の目で見ても良く、昼の目で見ても良く、若い時の目で見ても良く、老いた時の目で見ても良いですか。おじいさん、おばあさんの目で見ても同じように良いのです。高い山に登ったからといって変わるものではなく、深い谷に行ったからといって変わるものではなく、広い荒野に出ていったとしても、それが散っていくのではありません。

 それは、常に私と共にあり得る絶対的な因縁です。瞬間的でない、絶対的な因縁として、私から離そうとしても離すことができずに絡まった、そのような基盤の上にあるとき、真なる愛の因縁であるということができるのです。皆さんは、そのような真なる愛をもっていますか。家庭では誰でも孝子(孝行息子)を好みます。孝子を嫌いな人がいますか。父母となった人は、みな孝子を好むのです。また、男性も女性も好むのです。未来の人も、みな好むのです。孝子というものは過去、現在、未来、上中下、前後左右を問わず、みな好むのですが、皆が好むことができる内容とは何なのでしょうか。どのような概念を中心としたのでしょうか。愛というものを中心としたというのです。これが貴いことなのです。

 その愛とは、どんな愛ですか。変わる愛ではありません。ある息子が父母を、少年時代は好きだったのが、壮年時代にはあまり好きではなくなって、老年時代には嫌いになったというのでは、その息子は孝子ではありません。変わることがあってはなりません。幼子の時に母親の乳を飲みながら喜んで、母の唇に触ったり、顔を触ったりしながら、神秘的なその位置からすくすくと育っていくときの愛の心情や、大きくなって自由奔放に活動し、社会舞台を引っかき回すような成人となった立場になっても、お母さん、お父さんに対する愛は変わることがないのです。そこには発展というものがないのです。年を取って死ぬようになったからといって、それが変わるのですか。

 ある息子と母親がいるのですが、その息子は七十を越えているのです。その母親は九十を越えているというのです。腰が曲がっていて、頭が白くなって、手も普通の人のような色をしていません。このような母親に、七十を越えた息子が訪ねてきて頭を垂れるその姿は、神聖であり、偉大であるのです。何も知らない人、分別のない人は、「あれなんだ、なんであんなにばあさんを好むのか」と言うかもしれませんが、そのような母親に対して白髪混じりの息子が頭を垂れるのを見れば、それはどんなに美しいことでしょうか。

 子供たち同士で遊ぶことよりも、年取ったおじいさんと話しながら遊んでいるのを見るほうが、どんなに芸術的でしょうか。どんなに深みがあり、すてきなことでしょうか。笑うときにも、白髪が混じって、髭も白く伸ばして、風格があるおじいさんが、風にゆらゆらなびく頭と髭をもって、「ホッホッホッ」と笑うその姿と、子供たちが「ヘヘヘ」と笑うその姿が共にあるとき、高低が和合したそこにおいて、天地が動きだすのです。

 孝子が貴いのはなぜかというならば、幼い時も、成長して成人になった時も、老年時代にも、変わることのない愛をもって父母を敬うからです。そのような人を、孝子というのです。家庭に対して孝子といえば、国に対しての孝子は、忠臣のことをいいます。

 忠臣とはいったい何でしょうか。「忠臣は忠臣だろう、ほかになんと言うんだ」と、簡単に考えればそうなのです。忠臣とは、国王と民のため、忘れることができない愛の媒介体となる人のことです。国民は「彼」を思わずにはいられず、国王は「彼」を思わずにはいられないというのです。国王と国民を、愛の心を中心として、自分の価値以上に価値あるものとして感じ、上下を連結させるために、すべてのものを犠牲にしていくという人を、いわゆる忠臣だというのです。

 それでは、その中心内容とは何でしょうか。愛です。国を愛する心、民を愛する心です。年中、季節は変わるかもしれませんが、その心に満ちあふれてくる、上に向かい下に向かうその愛の心は季節を超越しているというのです。また、東西の幅がどんなに広いといっても、その幅を包括しても余りある、余裕をもった愛をもっているというのです。

 それゆえに、国王がいるとすれば、そのような臣下をもちたいと思うし、兄や姉や、あるいは弟がいるとすれば、そのような兄、姉をもちたいし、弟をもちたいというのです。どうしてでしょうか。変わることのない愛を媒介としてもっているからです。それゆえに、その人はその国の「真なる人」であると言うことができるという、このような概念を中心とした結論が出てくるのです。

◆真なる人と真なる愛

 それでは今、きょうの「真なる世界へ」という主題を中心として考えるとき、真なる男性、真なる女性とはいったい何でしょうか。これが問題です。真なる人とはいったいどんな人でしょうか。それを、何を中心として結論づければいいのかいうとき、それはお金でもなく、知識でもありません。

 今日「ああ、あの人はお金があるだろうか」と、このように言うでしょう? 「お金があるだろうか」と聞く人は真なる人ですか。お金でもって人を測定しているのです。「あの人はお金があるの?」と、このように言うのです。恰幅が良くて、お金があれば万事OKなのです。今日、皆さんもそうなのですか。目をぱちくりさせて、にやにやして、こそこそと歩き回りながら、その人の恰幅を見ては、「あー、この人はお金があるか?」と言って、お金があれば「ヘヘヘ」と言っているのです。お金、好きでしょう。

 その次には権力! 近ごろ、政治家たちは、「権力! 私の生命を懸けて、どこまでも維持しなくては」とやっているのですが、いくらでもやってみなさいというのです。本物か偽物か、それが問題なのです。権力をもって幸福な世界を成すことができ、千年王国を成し遂げることができますか。問題なのです。権力をむさぼる人は、悲惨に消えうせていくのです。

 その次には何ですか。知識です。近ごろの人たちは、特にそうでしょう。チマッパラム(スカートの裾から起こる風:教育ママ的な行為の意味)を起こしながら、「うちの息子、娘に勉強させなくては」とやっているのですが、勉強させてどうするというのですか。御飯をたくさん食べるためですか。御飯といっても、一日に三食を食べるようになっているのであって、十食も食べますか。水を飲むことも同じだし、さじを使うのも同じで、住む所をもって二十四時間生活するのも同じであって、排泄物を出すことも同じです。違うところがありますか。

 ですから、少しおいしい物を食べるだけであり、質がちょっと良い物を食べるだけでしょう? そのおいしくて、質の良い物を食べたからといって、人の質が良くなったり、善良な人になったりしますか。それをちょっと皆さんに聞いてみましょう。おいしくて質の良い物を補給してくれるとして、その補給してもらった当事者が良い人になるのかというのです。身のほどを越えた良い物を補給してもらっていては滅びるのです。身分相応の生活をすべきでしょう。それゆえに、身のほど以下の生活をしなさいというのです。これが安全地帯です。

 それでは、真なる人とはどのような人でしょうか。どんな人が真なる人でしょうか。真なる人たちの目を見れば、「お前はこのようになれ」という規定をつくりません。お前は東側ならば東側にいろという規定をしないのです。愛は規定をしないのです。東側なのですが西側にも来ることができ、西側なのですが南側にも行くことができ、南側なのですが北側にも行くことができ、隅にいるのですが中央にも来ることができる、こういうものです。

 ですから愛が良いのです。どんなに厳格なおじいさんであっても、その懐に孫が忍び込んでくるときには、膝を開いて受け入れるのです。どうして? 何があるために? おじいさんの愛があるためです。それを、けっ飛ばしてしまっては、「来い」と言っても来ません。

 人の生理的構造を見るとき、五官があるのですが、この五官が喜ぶことができる、その本質とは何であり、本性のその通路とは何でしょうか。愛に従っていく、その道しかないというのです。

 それゆえ、愛を中心とするようになるときは、目も耳も鼻も舌も統一され、すべての触覚、感覚も完全に統一されるのです。全体が一つとなるのです。目もこのように行ったり来たりしていますが、愛があるところに行くのです。鼻もこのようにあるのですが、愛があるところに行くのです。口がこのようにありますが、そちらに行き、耳がこのようにありますが、そちらに行くのです。私のすべての霊と肉が、生理、生態のすべての要素が、そこに全部合わせるのです。朝、太陽の光がさせば、すべての草木は自分勝手になっていますが、その芽は、全部太陽の光に合わせるのです。

 それで、家庭では孝子が必要であり、国には忠臣が必要であり、この世界には聖人が必要です。聖人とはどのような人でしょうか。大概、聖人たちは、神様を中心としていたのです。見てください。釈迦、孔子、マホメット、イエス様のような方々は、みな宗主です。宗教指導者です。宗主が、どのようにして聖人となるのでしょうか。

 彼らは、神様を愛するように人間を愛し、神様が永遠の主体であるので、永遠なる主体を包括することができる愛をもって、その統治下にある万民を永遠に包括することができる心をもって愛したというのです。その呼吸と、すべての生活、生態のすべての現象的作用は、全部愛の表示として現れたというのです。

 ですから、神様が関心をもたざるを得ず、人類が関心をもたざるを得ないのです。そのため、彼らの教えは千年の歴史、万年の歴史を克服するのです。距離と時間と空間を超越しているという事実を知らなければなりません。

 それでは、聖子とはどのような人でしょうか。王宮法を守ることができる人です。その国のすべての社会秩序も守りますが、その国に王宮があれば、王宮法を守らなければならないのです。天の国の王宮があって、神様を中心とした直属隊列に通じることができる皇族圏の法があるとすれば、その法を守ることができなくてはなりません。そうしてこそ聖子となるのです。

 イエス様がこの世界に来て、何をまず設定しようとされたのでしょうか。世界の外的環境よりも、天の国の国法を中心として生きたというのです。ですから、彼がこの世で生活したすべてのものは、この終わりの日の世界がすべて過ぎ去り、神様の天の国がこの地上に君臨するようになるとき、自分の国が来ることを確信して、常に神様に侍って生きることができる理想的環境を考えていたというのです。それが王宮法であったというのです。

 その法を守るには、何を中心とするのでしょうか。心情をもって、愛をもって、そのようにしなければなりません。誰かが言って教えてくれる前に、既に行わなければならないのです。家庭から始まって、国、世界、天の国まで、そのすべての本質的内容に不変の要素として備えることができる最も貴いものとは何でしょうか。また、平和の基準になり、幸福の基準となり、私たち人間の理想の基準となり得る、そのすべての根本内容の中心とは何かというのです。それは真なる愛です。

◆真の愛の属性

 真なる愛とは何でしょうか。昼でも夜でも変わることなく、春夏秋冬いつでも変わることなく、若い時も老いた時も変わることなく、今から永遠にそのまま続くことのできる内容に一致して立っている人を「真なる人」と言い、そのような内容を備えた愛を「真なる愛」と言うのです! 分かりましたか。

 女性が、結婚すると大騒ぎして、嫁に行くときは「うれしい」と言ってにこにこ笑い、嫁に行って息子、娘二人を産んでからは、「あー、もう自分の時代になったから、舅、姑は私の言うことを聞かなければならない。夫も私のしりに敷かれなければならない」とやる、そのようなものではありません。最初に「死ぬか生きるか」としたならば、最後まで「死ぬか生きるか」としなければなりません。途中で変わっては駄目なのです。

 今日の女性たちはそうでしょう? すっすっすっすっと計算して、息子、娘を産んでおけば、自分のすべきことは全部やったというのです。「息子、娘を産んだので、夫も自分の言うことを聞かなければならない」と、そのように考えるでしょう? それは良いのです。私の言うことを聞かなければならないという原則は良いのですが、そうしようとすればどのようにしなければならないのでしょうか。簡単なことです。「夫よりも私のほうが父母をより一層愛したので、夫の言う言葉よりも父母は私の言葉を聞かなければならない」ということです。簡単です。言葉は簡単ですが、内容は複雑で、するのは大変です。しかしながら、すべては心の持ち方にかかっているのです。

 そのために体系が必要なのです。思想的「観」というものが必要です。個人観、家庭観、民族観、国家観、世界観が必要であるというのです。それを全部、個人から刺し通すのです。

 理想を刺し通すときに、個人理想、家庭理想、氏族理想、国家理想、世界理想、過去、現在、未来の歴史理想をそのまま串で刺すのですが、「うん、良い」と言える串とはどんなものでしょうか。お金の串ですか。お金の串は先がとがっていません。愛はどんなに鋭いでしょうか。その愛の鋭さといったら、針の先よりももっととがっているのです。愛する夫婦が八十年共に生きたとしても、夫が一言「すっ」と言えば、「あっ」と言ってぶっ倒れてしまうのです。それを見れば、銃を撃つよりももっと痛く、胸を錐で貫くよりももっと痛いのです。

 愛はどんなに鋭く、どんなにひどいものでしょうか。そうでしょう? 愛はあまりにとがっていて、それからとてもひどいというのです。でもその愛は、悪いものではなくて良いものだというのです。その串とは何ですか。愛の串です。何の愛? 真の愛です。

 その真の愛は、個人から国王にまで行かなければなりません。天の国の神様にまで上がっていかなければなりません。皆さんは全部、世界一になりたいでしょう? みんなそうでしょう? 世界最高になりたいでしょう? 世の中は全部滅びたとしても、私はナンバーワンになろうと考えるでしょう。それは、そうあり得るというのです。愛は、そのような特権をもっているのです。この上なく低いのですが、最高の神様の愛を所有することができる能力をもっています。神様の愛を所有した、そこから真なる所有権が広がっていくのです。

 先ほど言ったように、真なる世界には、万物と人間と主権がなくてはなりません。主権は父母の代身です。父母の代身者がいなくてはなりません。世界の国を縮小したものとは何でしょうか。家庭です。家庭で幸福でない人がいくら世界の理想を追求したとしても、それは偽物です。また、どんなに世界的理想をもっているとしても、その国をよく治めることができなければ、偽物です。

 それでは、その主流要素とは何でしょうか。共通分母とは何でしょうか。真なる愛です。真なる愛は昼でも夜でも変わることのない永遠の基準を中心として、歴史性を超越し、伝統の流れに主流思想として残り、それは初めから千年、万年の終わりの世界まで続くものです。こちらの面を経ていき、あちらの面に通じる循環作用を起こすことができるというのです。

 それゆえに、そのような人が地獄にいるとするならば、天の国の王宮がひっくり返るのです。そのような愛をなした人が地獄にいるとするならば、その王宮のすべてのものが総動員して、その人の解放を要求するというのです。

 それでは、天の国の神様の王権があるとして、将来、その王権を人間世界に譲り渡すとするならば、その王権は誰に伝授されるのでしょうか。絶対的な神様であられるので、それを伝授される一つの国がなくてはなりません。そのような一つの民族がなくてはならず、一つの氏族がなくてはならず、一つの家庭がなくてはならず、一人の代表者がいなくてはならないというのです。

◆心と体の統一

 それでは、神様が人間を造り、万物を造られたのですが、最初にどこから統一したのでしょうか。統一の概念は、どこから始まったのでしょうか。男性ならば男性を中心として観察してみると、二重構造になっています。神様は横的なものを連結するために、人の体を東西、四方、八方を中心として物質と連結させたのです。

 その次に、心があります。心は縦的です。心が立つ位置は一つです。神様の心が立つ位置も、私たちの先祖の心が立つ位置も、皆さんの心が立つ位置も一つです。二つではありません。体は垂直を中心として水平を成していますが、縦的基準を中心として千万の階段があるのです。

 皆さんは、「良心が正しい、まっすぐだ」と言うでしょう? なぜ「良心がまっすぐだ、正しい」と言うのでしょうか。それは何を言っているのでしょうか。水平を言うのでしょうか、垂直を言うのでしょうか。垂直を言っているのです。宇宙の中心となる「軸」の前に、常に水平基準に合わせて、距離が同じでなければなりません。上下の距離がもし違ってきたなら、それは除去されるのです。宇宙のバランスと合わせなければなりません。垂直と水平が全部九〇度の角度で合わなければならないのです。

 体は水平を象徴し、心は垂直を象徴するのですが、垂直と平衡が九〇度をとらなくてはならないのです。四つが合わさって、三六〇度になることができるようにとらなくてはなりません。それをとらなくては完全な人間になることができません。そうして、垂直角度を中心として一つとならなければなりません。心と体が一つとなるときには、何を中心としなければならないでしょうか。体を中心として一つとなることはできません。体が調整して、垂直となる心の前に完全に一つとなることができる、九〇度の角度で一つとなることができる「私」を探し出さなくてはなりません。

 その「私」というものは、人が成熟し、初めて愛を知るようになるときに訪れてくるようになるのです。東で暮らしている人が、垣根を越えてずっと向こうの西側を眺め、西側に住んでいる人が垣根を越えて東側を眺めることができるようにしようとすれば、成熟しなければなりません。

 ですから、アダムとエバに「取って食べてはならない」と言ったのです。成熟する時を残しておいたので、そのような勧告をしたという事実を、皆さんは知らなければなりません。男性が女性を知り、女性が男性を知ろうとすれば、必ず天地の道理に縦横の規格を合わせなければなりません。

 男性は縦を代表しているので、その基準を中心として女性は横を代表するのです。個人の心と体と同じように、心を代表する男性と、体を代表する女性が一緒になって夫婦となり、愛で結束した一つの核を成すようになるとき、理想的な夫婦となるのです。

 そのようになれば、その核は四方、どこでも合うのです。この九〇度の角度は東西南北、どこでもぴったり一致するのです。しかし、これが狂うようになると、どこでも狂ってしまうのです。ぴったり合わないのです。それが問題です。

 その心をもって、行動が一つでなくてはなりません。言葉と行動が合っていなければなりません。同じでなくてはならないのです。言葉は口を通して言い、外的に表すものですが、心が核となり、垂直となっているために、その垂直と横が連結できる基準で言葉を発しなければなりません。そのような立場に立たなくては、完全な、規格に合格した者となることはできません。合格しようとすれば、心に思っているとおりに行動しなければなりません。

 その心に思っているとおりになす行動は、国家の行動と国民の行動に通じ、宇宙の大統領がいれば、その大統領と宇宙の民、世界人類と通じ、天の国があれば天の国の王宮法と通じ、天の国で統治を受けるすべての数千億の人類に通じるというのです。

◆神様の統一の起源

 それでは、このようなものが本来、神様を中心としていつ統一されなければならないのでしょうか。神様にも心と体があるでしょう? 私たちは神様に似て生まれたのです。息子、娘がお父さん、お母さんに似ているように、「私」は神様に似ているというのです。

 神様が創造の偉業を立てて、実践理念を追求していく中で、完全に一つとなるところにおいては、何を中心として一つとなるのでしょうか。神様の創造の能力をもって? 違います。愛を中心として一つとなるのです。

 愛を中心として一つとなれば、どのようになるのでしょうか。神様のものであると同時に、愛に属するものとなるのです。妻がダイヤモンドの指輪をはめたとしても、愛の表示としてはめられたその指輪は、誰のものですか。夫のものです。それを知らなければなりません。自分のものではないのです。その指輪が愛の表示として与えられた、愛の表示体であるならば、その愛がなくなるときには、その指輪も逃げていってしまうのです。そうでしょう? 内容は愛です。どんなに金や宝石で飾ったとしても、愛する夫が奪われてしまったならば、それが幸福ですか。

 そのように見るとき、神様の統一的起源はどこにあったのでしょうか。神様の心と体が「よし、できた」と言うことができる神様の完成基準、神様が喜ぶことができ、神様の心と体が喜ぶことができる基準がなくてはなりません。それをつくるために、愛の対象を造ったのです。それが人間です。

 それを分離されたものが、アダムとエバなのです。二人が愛するようになるとき、その愛を中心として、アダムはエバのものとなるのであり、エバはアダムのものとなるのであり、アダムとエバのものは神様のものとなるのであり、アダムとエバのものは万物のものとなるのです。万物が愛と連結されるとき、アダムとエバのものとなり、神様のものとなるのです。

 そうして、愛を中心としてすべてのものが統一されるのです。神様の心と体が一つとなり、神様の二性性相として分離したアダムとエバが一つとなり、そのアダムとエバが一つとなると同時に万物までも一つなることができるのです。この起源が、統一圏が、本来愛を中心として人間と神様と万物の中に設定されたならば、堕落はなかったというのです。

 そのようになったならば、その人は既に神様のものとなっていたことでしょう。アダムも神様のものであり、エバも神様のものであり、愛でつづられた男性は絶対的にエバのものであり、女性も絶対的に男性のものであり、そのような父母は絶対的に息子、娘のものであり、息子、娘は父母のものとなるのです。このように、共同所有の概念基盤が確定されたのです。

◆真の愛の特権

 愛の偉大なところがそれです。上下、高低の距離を超越して、空間と時空を超越して、共同所有の理念を瞬時に共有できる圏内に参席することができる、参加することができる能力が、愛の道にはあったのです! これは驚くべき事実です。

 ゆえに、「私のものだ」と言う人がいるとすれば、愛をつかんで「私のものだ」と言うときには、夫も私のものとなり、その夫がもっている所有物も私のものとなるのであり、その夫が神様をもっているというときには、その神様も私のものとなるのです。これは驚くべき事実です。

 愛する夫がどんな金持ちであるとしても、たんすの中に入っている夫の秘密文書も愛と連結されれば妻のものとなるでしょう? お父さんとお母さんがどんなに厳格であるとしても、息子、娘と切ることのできない愛のひもで結ばれているというときには、その厳格なお父さん、お母さんの所有物は何も知らない無力なその息子、娘の所有とならない道理がないというのです。

 このように見るとき、その愛に同伴する相対的価値をもった人間が絶対的に神様のものとなったときには、その神様は愛を通して誰のものとなるのですか。神様は誰のものとなるのですか。「愛の道を通しては、神様は私のものです」と言うときは、神様が「違う」とは言えないのです。

 真なる愛は、どこであっても同参の権限を享有することができる能力をもっているのです。アメリカにレバレンド・ムーンが行き、そのアメリカを愛することにおいて、どんな民よりも秀でるようになるときには、アメリカの国民が受け入れざるを得ないというのです。滅びるようにしていると誤解を受けていたので、これまでアメリカに行くのが大変だったのであって、今は、「アメリカからレバレンド・ムーンが去っていってしまうかもしれない」と、心配する人が実にたくさんいるのです。

 それゆえに、真なる愛は共有権をもつことができ、相続権を受け継ぐことができる特権があるということを知らなければなりません。彼が立っているところに同参することができる、同位権の権威をもっているというのです。

◆愛の因縁に従って収拾してきた歴史

 神様の統一圏はいつ始まるのですか。アダムとエバを中心として成されなければなりません。旧約時代は祭物を中心として所有物を決定したのですが、それはどういうことでしょうか。愛の因縁が祭物を通して連結されるときは、すなわち祭物と関係した、祭祀を捧げるところからその恵沢を受けようとする群れまでが神様に受け入れられ、愛に連結されるときは、神様の所有権に同参できる価値があるので、祭祀を重要視したというのです。

 それで、旧約時代には祭物を捧げたということを知らなければなりません。それは、万物祭物時代であったのです。その次に、新約時代は子女祭物時代でした。堕落した人間からは血を抜き取らなければなりません。イエス様も十字架で血を流しました。

 このような立場から見るとき、大韓民国は世界的祭壇と同じです。地が南北に、二つに分けられたのは、地を代表した世界的祭物だからです。このように見るのです。大韓民国の民は同一民族であり、五千年の歴史をもち、単一民族の伝統をもっているにもかかわらず、この終わりの日に来て、どのようになってしまったのですか。国が分かれ、言語が分かれ、行動が分かれ、思想が分かれ、基本が分かれたというのです。これを統一しなければなりません。

 新約時代は子女時代です。イエス様は、神様の息子であり、救世主であって、子女です。子女が来て、キリスト教を中心として二股に分離したのです。長子権を中心として闘ったのです。一つは神側から、もう一つはサタン側からです。サタンはカイン側であり、神様はアベル側です。ここで、次子を中心としてすべて勝たなければならないのです。

 そのために、キリスト教をはじめとして、これまで善なる人が血を流してきました。今の時代は何の時代ですか。父母様がこの地上に来て、十字架を負う成約時代です。それが、統一教会の四十年歴史です。

 ここにおいて、伝統の基準として一つだけ残るものは何でしょうか。万物と人間と父母まで進んできた六千年聖書歴史を中心として、ユダヤ教会とキリスト教会と統一教会の三時代を経てきながら伝統として受け継ぐべきものは、統一的主流思想である「愛」しかないという事実を皆さんは知らなければなりません。

 神様を中心として人間が一つとなり、万物が一つとなっていたならば、このような悲惨な歴史はなかったことでしょう。ところが、そのような愛を成し得る男性と女性が、成熟期を迎えることができず堕落することによって、今日の歴史は未完成的「愛」圏内で、混沌とした愛の理想を追求しながら、分立し、混沌となり、互いが拡大、分立、闘争の歴史を経てきました。それが神様の救援摂理を通して収拾されながら、今日、このように約半分が収拾されてきたというのです。ですから伝統歴史は、愛の因縁に従って収拾されてきたという事実を知らなければなりません。

 統一的伝統思想は本来、神様から始まるとき成されるべきでしたが、それが成し遂げられなかったので、歴史を通して、旧約時代、新約時代、成約時代を経ながら愛の伝統をつなぎ、イスラエル民族からキリスト教、統一教会へと連結されているという事実を、世界の人々は知りませんでした。

 しかし今日、世界の人々が知る時が来ました。どうしてでしょうか。表に現れたものを見れば、世界にとって希望的なものはレバレンド・ムーンの思想以外にはないのです。その思想は、「こぶしにはこぶしで」というようなものではありません。打たれて奪ってくるという作戦をなすのです。

◆物質と子女と父母が愛で因縁をもつとき、共同所有が決定される

 親不孝者が父母に対抗すれば、父母はあきれ返って言葉を発することができないのですが、その子供のそのような悲惨な姿を見て、部屋の奥に行って、慟哭して夜を明かしながら子供のために、天の前に祈るのです。それが父母です。そうでしょう? 同じです。

 このような歴史的伝統を中心として、皆さんは旧約時代の物質に血を流させた負債を負っており、新約時代にキリスト教を中心として、四百年の間ローマ帝国を整備し、キリスト教独立国を編成するために数多くの人々が血を流したことに対する負債を負っています。歴史時代に、世界的版図を開拓するためのキリスト教史の中で、いかに多くの殉教の烈士たちの血がつながれてきたことでしょうか。それが今日、皆さんの前に負債として残されたという事実を知らなければなりません。

 それだけでなく、父母様がこの地上に来て、理想的版図をもって天下万民を率い、地上の理想天国へと行進命令をすべき立場にあるにもかかわらず、地獄の道をもいとわず四十年生涯、監獄の道を歩み、路地裏を通った父母様の受難の道に対する負債を返さなければならないという事実を知らなければなりません。旧約時代に該当するものとは何かといえば、今日の「私」の生活圏内の物質です。新約時代に該当するものは子女であり、成約時代に該当するものは皆さんの夫婦です。

 皆さんの家庭を中心として見るとき、父母、夫婦、あるいは兄弟がいますが、その家庭で主体となる方を中心として子女がいます。その次に、物質があります。所有があるのです。物質は旧約時代に該当するものであり、子女たちは新約時代に該当するものであり、その中心的な存在は成約時代に該当するのです。

 これが統一圏を備えるためには、物質を愛するおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、夫、妻、息子、娘とならなければならず、また、息子、娘を愛することができるおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんとならなければならず、夫を愛することができる妻、妻を愛することができる夫とならなければなりません。その全体が一つとなって、おじいさん、おばあさんは私のものであり、お父さん、お母さんが私のものであり、妻、夫が私のものであり、それから、すべての息子、娘が私のものであると、所有の判定をなすことができる愛の因縁の綱で縛りつけられるようになるとき、理想的版図となるのです。このような事実を、はっきりと知らなければなりません。

 そうして、おじいさんは息子、娘を愛するように、孫を愛さなければならず、孫を愛するように万物を愛さなければなりません。家庭の器物一つにも、おじいさんの愛が宿っているというのです。お父さん、お母さんの愛が流れて入り込んでいるというのです。遠く見れば、この万物と人間は旧約時代と新約時代を通じて、愛の理念の伝統を受け継ぎ、その愛の表示体として結実しているというのです。そのような圏内で主管を受けている「物」であるというのです。

 ここには物質の愛の綱が結ばれていて、子女たちの愛の綱が結ばれていて、父母の愛の綱が結ばれていると思うことができる家庭であってこそ、その「物」はその家庭の「物」となり、永遠な「物」として残されようとするのです。

 さあ、問題は何でしょうか。所有物を決定しなければなりません。私のものであるという所有物を決定しなければならないのですが、今日この地上には、これまでこのような神様の愛を中心とした所有物として決定を受けたものは一つもありません。アダム・エバ自体から、アダム・エバの主管を受けるべきすべての万物も、その愛を中心とした所有物の決定権を受けることができない位置に立っています。そのような堕落した世界です。

 これが再び逆に戻って、神様の愛と真なる父母、真なる人類の先祖となる父母を中心として、神様の愛に一致しなければなりません。アダムとエバが堕落することによって、真なる神様の愛と一致し、「その愛が私の愛であり、私の愛であると同時に神様の愛であり、その愛が夫の愛であり妻の愛であると同時に息子、娘の愛であり、息子、娘の愛であると同時に父母の愛である」と言うことができる愛の版図の所有権、決定権を失ってしまったので、このような版図を再現させ、定着し、安定させない限り、人間世界の理想的天国と、地上世界の平和の世界は実現することができません。これは、はっきりとした結論です。

◆家庭は共有の愛の理想が実践できる核

 私には物質が連結した体があります。この体は、旧約時代での神様の愛を取り戻すための一つの表示体として私にもたらされた祭物です。心と体が一つとなった私の体は、神様の息子となることができる、新約時代を代表した子女の犠牲的な祭物として登場しました。これが、男性ならば男性、女性ならば女性として、イエス様が一人の男性として、新郎として、新婦を迎えて行う小羊の宴、婚姻の宴を通して、理想的父母の位置に着陸することができる基盤を代表した、そのような位置に立ったのです。

 成約時代は、イエス様が再臨され、新婦を迎えて、千年王国の基地から全体を愛で統治することができる世界へと出帆する時代です。イエス様は、それをなすためにこの地上に来られたので、そのような基盤が皆さんの家庭の上に設定されない限り、一つの理想世界は出現することができません。理想世界と連結されないというのです。ですから、このことを神様が急がれ、これまで歴史的、総結論的な決定を得ようとしているのです。それが今日、歴史的終末時代の宗教を通した使命です。その使命の代表者が、統一教会です。統一教会は、これを最後に決定的に成就するための役割を果たさなければならないので、家庭祝福圏を成すのです。ゆえに、体をいい加減に扱ってはいけません。祭物です。

 「私」という男性、息子、娘というものは、新約時代を代表しているのです。その次に、夫婦というものは今日、真の父母の歴史的な天の伝統を受け継ぐため、すべての迫害を受けながら、愛の伝統をつなげてきた実体であるということを知らなければなりません。

 万物、子女、父母、これらは旧約時代、新約時代、成約時代を通して、神様の愛で歴史をつくり、連結させてきた総結実体として、私たちの家庭に集めておいた一つの集合体です。この集合体が、家庭的な祭物を通して、氏族編成、民族編成、国家編成、世界編成へと、再度出発するようになるのです。家庭が定着できる基準が、どんなに厳粛なことかという事実を知らなければなりません。

 それゆえに、今やすべての宗教歴史を通して、旧約時代の復活体と新約時代の復活体と成約時代の復活体が、皆さんの家庭を中心として成し遂げられるのです。夫婦となった者は、父母として成約時代を代表したものであり、子女は新約時代を代表したものであり、物質は旧約時代を代表したものです。それを、縦的なものを横的に蕩減しなければなりません。物質は旧約時代の蘇生、子女は新約時代の長成、父母は成約時代の完成に該当します。皆さんの家庭の夫婦は、真の父母の縦的な愛と横的な愛に一致化することができ、神様の愛と一致化することができ、共有の愛の理想が実践できる核とならなければならないのです。

 神様のものであると同時に私のものであり、私のものであると同時に男性のものであり、男性のものであると同時に女性のものであり、父母のものであると同時に息子、娘のものとして、間違いなく愛でつながれた家庭的伝統基盤を確定しなければならない、という事実を知らなければなりません。それ以外の位置は、すべて許されません。それが設定される前には、国も成立しません。何が一番重要な問題ですか。このことです。神様と一つとなった父母、愛で一つとなった夫婦、その父母と一つとなることができる子女、その子女と一つとなることができる万物、これだけです。それが、家庭に直結されています。その伝統の核を横的に拡大させれば氏族が現れるのであり、氏族が民族、民族が世界へと版図が拡大され、この世界歴史となるはずなのに、これが堕落によってすべて逆さまになってきたので、めちゃくちゃになったというのです。

◆すべてが喜ぶことができる環境を見極めていく生活をすべき

 皆さんがもっている物質を祭物から得たもののように思い、それらに皆さんの愛の心が連結されていなければなりません。農地に出ていき土を掘るとき、汗を流しながら掘らなければなりません。一枚の紙を使うのにも、節約して大事に使わなければなりません。愛してあげなければなりません。おじいさんの愛から、お父さん、お母さんの愛に、そうして孫までの三代を連結しなければなりません。三代の愛を通した一つの表示体として現れなければなりません。このような愛の因縁がそこに宿っているというとき、その「物」は神様の所有の物となるのです。そうでなくては、サタンの「物」となるのです。

 皆さんの体を見れば、服というものは旧約時代に該当し、体は新約時代に該当し、皆さんの良心は成約時代に該当するのです。服をいい加減に着てはならないというのです。愛さなければなりません。このことを考えつつ愛さなければなりません。ここにはおじいさん、おばあさんが喜ぶ愛が宿っていて、お父さん、お母さんが喜ぶ愛が宿っています。

 今日、この地上の若い女たち、青年たちが乱れた行動を起こしています。「お父さん、お母さんがなんで必要か」と言っているのです。このような破倫的な歴史環境が広がっているという、悲惨な事実を知らなければなりません。それを、おじいさんが喜びますか。聞いてみてください、喜ぶかどうか。お父さん、お母さんが喜びますか。夫が喜びますか。息子、娘が喜びますか。愛を受けることができますか。

 座って化粧をして、ルージュを塗ったとしても、自分勝手に真っ赤に塗ることはできません。おじいさんが見たなら、どのように思うでしょうか。「あれを見ろ、心が浮ついているようだ」と言うのです。おじいさんが見てもほどよく、「いつ見ても純真だ」と言い、お父さん、お母さんが見ても、夫が見ても、そのようでなければなりません。

 お父さん、お母さんを愛し、おじいさん、おばあさんを愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、すべてが喜ぶのです。そのすべてのものが、愛の因縁を備えた代表の「もの」となってこそ、愛の懐に抱くことができる私の体と一つとなれるのではないですか。この服を着て夫を抱き、キスもすることができ、愛の踊りを踊ることもでき、それが良いというのです。所有物をいい加減に扱うことはできないというのです。

 おじいさん、おばあさんも同じです。老いれば、老いたことを喜ぶのです。花が枯れて死んだとしても、おじいさんが「そのままにしておけ」と言えば、そのままにしておかなければならないのです。お父さん、お母さん、夫が喜ぶ環境を見極めていくことができる生活をしなければなりません。

 皆さんは、そのような生活を自信をもってしていますか。恥ずかしいことはありませんか。恥ずかしい御飯は食べてはいけません。お母さん、お父さんが冬の寒い日、真冬のその寒い時に、息子、娘に食べさせようと、オンドルに近い所に毛布をかぶせておきますが、そのかぶせられた御飯を持ってきてもらって、それを食べる子供たちの幸福感を誰が知っているでしょうか。妻がそうです。その夫が帰ってくるのを夜を明かして待ちながら、「冷たくなかろうか、熱くなかろうか」と考えながら準備してくれる愛のお膳が、どんなに慕わしいものであるかというのです。皆さん方は、それを願うでしょう? 

 夫も同じです。息子、娘、家庭を率いていくためには、社会に出ていき、正義の道理の道を行かなければなりません。自分の骨身を削り、祭物となった生活をして、その愛の因縁を通して得るものです。血と汗と涙を流し、自分の血肉を分け与える愛で因縁されたお金をもって生きる妻の生活、その家庭がどんなに価値あることかというのです。それを、いい加減に使うことはできません。おじいさん、おばあさんから、父母、夫の公認を受けながら生活する妻の価値ある生活、それが真の妻の生活です。

 なぜこのようなことを言うのでしょうか。そのようになるときには、天のものです。神様が、「お前の家庭は私のものだ。お前たちのものは私のものなので、私が保護しなければならない」とおっしゃるときには、そこから千年、万年歴史の繁殖が起こり、繁栄するようになるのです。

◆家庭で天国を成せ

 ですから、すべての歴史的な総祭物的結実体が、皆さんの家庭であるというのです。物質は旧約時代、息子、娘は新約時代、自分は成約時代を代表しているものとして、その三時代の前に負債を負ったものを返さなければならないのです。皆さんが、歴史時代のそれらを蕩減しなければならない立場にあるので、自分の物を自分の物として扱ってはならず、自分の息子、娘を自分の息子、娘として、自分の夫を自分の夫として扱ってはならないというのです。

 このような公法、天理の原則に従って理想的な「観」に一致する基本的な姿勢を備え、評価しながら暮らすことができる男性、女性となり、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、夫、妻、息子、娘にならなければならないのです。これらを合わせれば家庭形成が起こるのですが、これが愛の綱によって所有権版図と共有権を受け継ぐことができる基盤とならなくては、地上天国の第一基盤となる家庭になることはできないというのです。

 お金に対するときも、お父さん、お母さんの歴史的なものを蕩減するためのものだということを考えなくてはなりません。神様の涙の跡が、歴史的な義人聖人たちの血の跡が、真の父母の涙の跡が、私たちの先輩たちの血の跡がもつれ合って結実している所有物であると思って、神聖なる聖物として扱うことができなければなりません。

 最初から最後まで、愛の心をもって、本然の愛の伝統で、統一的神様を中心として一致されなければなりません。その理想郷を失ってしまったがゆえに、歴史時代において、どんなに哀れで悲惨な歴史を経てきたことでしょうか。私の時代において、歴史の結果的な終末時代にある私の家庭において、「統一的な起源のための一つの祭物のように、お前の価値を認定するので、お前は私を中心として初めて解怨成就するのだ」と言うとき、万物が涙を流しながら「そのとおりです。アーメン」と言うのです。そのようにできる「物」として使用しなければならないというのです。

 その次に、息子、娘を愛さなければなりません。父ちゃん、母ちゃんになるのは簡単ではありません。生むのは簡単ではありません。息子、娘は天と地を通して生むのです。真なる愛の因縁に従って天地の運勢と連結され、愛の法度に連結され、横的な愛に一致し、縦的な愛に一致し、天地が合徳する、そのような立場にある夫婦の愛を中心として因縁をもった場で子供を生んであげなければならないのですが、そのような立場で子供を生むことができなかったならば、悔い改めなければなりません。子供が過ちを犯した事実を見たならば、その過ちを責める前に、自分自らを悔い改めることができる心をもって、子供を教育できなければなりません。それで、お父さん、お母さんの役割を果たすことは大変なのです。いい加減に生きては駄目なのです。

 また、その次に、夫の役割を果たすこと、妻の役割を果たすことは大変なのです。天と地が理想的基準から眺めて評価する、その評価の対象者として、その価値基準に合格できる人格を備えた妻の位置、夫の位置に立つということは難しいことです。

 その位置において、神様を代表した愛、人類を代表した愛、自分の先祖を代表した愛の基準に立った自分の子孫万代が、「我々の父母は、真なる愛の位置にこのように立つことを望んだ」と言える、その後孫が望む、真なる愛の基準に立った父母の位置を備えるということは、非常に難しいことです。

 そのような内縁的事実を備えることができないときには、天の前に恥ずかしく、父母の前に恥ずかしく、人類の前に恥ずかしく、自分の後孫の前に恥ずかしい姿勢をもって、悔い改める思いをもって生活すべきであるにもかかわらず、首をまっすぐにして、肩に力を入れて、偉そうにして浮気をして回るのですか。どこまでやれるか見てみようというのです。そのような者は、天地の運勢が打ってしまうというのです。

 また、息子、娘に対してもそうです。息子、娘に対して父の役割を果たすことは大変なことです。息子、娘が間違いを起こすようになるときには、黙って、自分自身が悔い改めなければなりません。それをわきまえることができる父母の位置に立つことは、易しいことではありません。分かりましたか。地上天国を成し遂げなければなりません。

◆灯台の使命を果たす家庭になれ

 神様がエデンの園で家庭を中心とした天国理念を喪失したのを復帰するための歴史は、数万年です。聖書歴史を六千年であるといいますが、数万年です。人類歴史を見れば、現在考古学的にも八十万年、百五十万年以上にも見ているのです。

 そのような多くの歴史時代を経ながら、失ってしまった家庭の一つの基準をこの地上に立てられない神様の苦衷は、どれほど大きいことでしょうか。威信喪失、人格喪失、体面喪失などのその悲惨な事実を、言葉で表現できないくらいの曲折に浸っている神様を慰労してさしあげなければならない息子、娘の態度は、どのようなものであるべきでしょうか。

 一歩一歩、一年が終わるときには、年末を中心として清算しなければならず、新年を迎えるための新しい決心をしながら、前進に前進を誓い、発展に発展を重ね、心情的な向上を追求する生涯を経ていかなければならない人生が、この地上で行くべき道であることを忘れてはなりません。

 そこで皆さん方は、家庭を中心として、すべて私のものは神様のものであり、私の息子、娘も神様のものであり、私自身も神様のものであるとし得る、そのような基盤とならなければなりません。

 そうするためには、どうしなければならないでしょうか。皆さんの家庭が、サタン世界の一番底にあってはなりません。上に上がっていかなければなりません。堕落した世界が、「あの家庭は我々の理想的な家庭だ」と言うことができるようにしなければなりません。分かりましたか。

 堕落した人間たちが、「あのような家庭を追求していかなければ駄目だ」と言えるように啓蒙しなければなりません。そのような標識とならなければなりません。灯台にならなければなりません。「彼らは違う、彼らは違っている」と言わせなければなりません。皆さんは違わなければなりません。根本的に違わなければなりません。先生の哲学の根本とは何かといえば、愛です。愛の哲学をもっているのです。

 今日この時間を中心として、先生が「国を生かそう」と言えば、「私は世界を生かすぞ」という腹をもって、先生が「世界を生かすぞ」と言えば、私は天宙を生かし、先生が「天宙を生かそう」と言えば、「私は神様を解放するぞ」と言わなければなりません。こうすることができる人は、王権を受け継ぐのです。王権。分かりますか。それで、聖書でいう「最初の復活」に参与する者となるのです。

 皆さんの家庭が、そのような家庭となり、神様の所有、父母様の所有、大韓民国の所有、アジア人と世界人の所有となってもなお余りある、そのような伝統的基盤の上に立った愛の一族を成して生きる群れとなることを願います。
















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