文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


理想的焦点を合わせよう

一九八八年六月一日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第百七十八巻』


 一人の個人を中心として見ると、個人の生活は、国家、すなわち大韓民国ならば大韓民国の国法に従って、その国家の政治的方向と、国法が指向する標準に合わせなければなりません。またある会社に属していれば、その会社の規約、あるいは規範を中心として、その部署で自分がしなければならないことと、その焦点を合わせていかなければなりません。

◆すべての存在は一つの焦点を中心として動く

 信仰生活もやはり同じなのです。私個人が信仰生活をするということは、ただ何となくこの地上に生きるということではなく、神様の膨大な摂理にある一つの標準の中で、自分自らが合わせなければならない焦点があるというのです。このような生活的な焦点、生涯的な焦点に合わせて、一日一日の生活を営んでいくのです。生涯は一生ということですが、生涯的な焦点があるのです。

 そのように考えると、大韓民国もやはり、膨大な神様の世界史的摂理圏内に処しているとするなら、そのような国家として行かなければならない焦点があるのです。その次に、世界であれば世界においても、必ず一つの世界を追求していくので、その一つの世界を追求していくところに焦点を合わせていくのです。

 それでは、一つの焦点が中央にあるとすれば、その中央を中心として、四方が全部その焦点に合わせなければ、中央に行くことができません。東の側にいる人が、その東方から中央を探していこうとするなら、西の側にいる人が向かっている方向と、一致し得る道に沿って行かずには、焦点を合わせることができないのです。この宇宙は循環しています。回っているのです。皆さんの心と体も、やはり回っています。定着していないのです。だからといって、直線で立てた垂直線として、一方向を備えていますか。そうではなく、回るというのです。春夏秋冬が回るように、私たちの心も回るのです。

 ではこのように見ると、宇宙全体が循環するときに、循環、運動するその物体の焦点はどこにあるのでしょうか。地球ならば地球を中心として見れば、地球の焦点はどこでしょうか。もちろん太陽系を回るときは、太陽を焦点として回るでしょうが、地球自体内での焦点は何でしょうか。その中心が中心層になって、球形の核心的中心点になるのです。

 それと同様に、神様の摂理も回りながら発展するのです。螺旋状に回りながら、それがだんだんと大きくなるのです。個体が運動するとき、私たち自体の元素ならば元素を中心として見ると、その元素自体が回るには、必ずプラスとマイナスで回るのです。

 その回っているものが一回りして、再び大きくなるためには、他の何かと一つにならなければなりません。二つが一つになって、何かを標準としていくところに、発展的軌道が生じるのです。

 では、神様の摂理を中心として見ると、神様の摂理はどこへ行くのでしょうか。今までの歴史時代の神様の摂理というものは、人類が堕落してしまったので、再創造していく摂理なのです。再創造の摂理過程を通じて、復帰の目的を達成しなければなりません。したがって、再創造とは何かといえば、原理を中心としたその軌道に従って、本然の基準に戻ることなのです。それもやはり、一つの軌道に乗っているのです。

◆見えない内的根源に焦点を合わせなければ

 このように見ると、全体、全体といえば神様がいらっしゃるというのです。神様がいらっしゃり、その次には人類がいて、万物があるのです。これらすべてのものが様々に回転運動をしているのですが、その目標とする焦点とはどこでしょうか。何を中心として動くのでしょうか。

 私たちが生きている社会には、多くの職場がありますが、職場に通う人はその職場で、自分の職務を忠実に行っています。そこでは、必ず自分の会社を中心として、部署ならば部署、課ならば課を中心として命令系統があり、上から下に伝えられたことは、必ず回転するようになっているのです。

 では、その会社自体が願うこととは何でしょうか。会社の利益を追求することです。会社の利益のためにすべての社員は、自分が置かれている各分野を中心として、焦点を合わせなければなりません。また、会社ならば会社自体は、国家が動かすすべての分野に、焦点を合わせなければなりません。それが違うのです。それで、会社が進む方向と、国家が進む方向は違うのです。

 これらすべては異なりますが、統合的な内容とは何でしょうか。統合的に全部を収拾して、一つの体制として管轄できる圏が必要なのですが、それは何でしょうか。会社は国家に属しており、国家は世界に属しており、世界は天宙という天地、大宇宙に属しています。

 では、大宇宙が循環する中心の焦点とは何でしょうか。私たちは、今処して生活しているところより、もっと高い所、より貴い所を探して進んでいるのです。では、その貴いものとは何でしょうか。貴いものとは、全体がもつことを願い、全体が利益のあるものだと思っているものです。それゆえ、人間の世界における宝物は、古今東西を問わず、また現在生きている人、大きい人も小さい人も、老若男女を問わず、すべての人が欲しいと願っています。

 では一番最後に、根源となることのできる、根となることのできる内容とは何でしょうか。このように見ると、あくまでも、外的に現れたものよりも、現れていない内的なもののほうが貴いというのです。

 では、男性ならば男性が合わせなければならない焦点とは何でしょうか。私たちは一生の間、個々人としての人生を営んでいきます。そこには男性もいるし、女性もいるのですが、その男性と女性が合わせなければならない焦点とは何でしょうか。家庭を中心として、愛の因縁を中心に焦点を合わせていくのです。ここでは愛が重要です。すべての外的なものを合わせていくことも私たちに必要ですが、それよりも、見えない内的な根源に焦点を合わせなければなりません。それが愛です。

 では男性を中心として、男性が愛の道を探していき、女性も愛の道を探していくのですが、その焦点、起点とはどこでしょうか。人はそうであるとして、神様がいらっしゃるならば、神様が人間に対して願う焦点とは何でしょうか。その焦点に合わせなければなりません。神様にはお金が問題ではなく、知識が問題ではなく、権力が問題ではありません。あくまでも、原理が指向する真の愛が問題なのです。人間に向かう真の愛、父母の立場に立った神様が、子女の立場にある人間に対してもつ、真の愛の焦点がここにあります。

 その焦点は、勝手に変更することができません。絶対者であられるので、その焦点は絶対的に一つでなければなりません。永遠不滅でなければなりません。では、その焦点が指向する方向とはどこかといえば、これは必ず水平線を中心とした垂直の位置だと結論づけることができます。

◆神様の愛が臨む焦点に方向を合わせるべき人間

 神様が、神様の愛を中心として全宇宙を造ったとすれば、神様の愛を中心としてこの被造世界に向かって合わせようとする焦点は、天が上にあって人間が下にいるので、必ず垂直に通じた道なのです。この道が、神様が取るべき道なのです。私たち人間としては、垂直を中心として九〇度の角度を中心に、横的な基準で合わせなければならないのです。

 では、神様の愛と人間の愛が出合うことのできる焦点とはどこでしょうか。合うことのできる焦点とはどこでしょうか。もちろん人間が神様を愛し、神様の愛を受けているとはいっても、理想的な焦点に合わせるためには、まず神様の縦的基準に横的な基準を合わせなければなりません。

 ですから、愛は二つの方向に合わせることができるようになっています。それで心があり、体があるのです。神様の縦的で垂直的な人格観を構成することのできる、縦的な内的指向性と、外的な指向性が一つにならなければなりません。

 したがって、人は必ず二重構造になっています。花の中にも必ず性相と形状があります。それとともに陰陽の内容が、前後左右に区別されています。では私たち人間にとって、神様の愛が臨むことのできる道は、二つの道でしょうか。一つなのです。垂直線です。

 男性ならば男性自身がその焦点に合わせるためには、男性の心と神様の愛と通じることのできるそのものとが、一つにならなければなりません。垂直線を合わせなければなりません。そうするためには、私たちの体が九〇度にならなければなりません。

 すべての万物が、そのようになっています。この被造世界は、ペア・システムで造られています。ペアになっていないものはありません。必ずプラスとマイナス、相対的存在形態を備えています。これは互いに異なりますが、一つにならなければなりません。

 私たちの体と心も、処している位置が違います。心は縦的なものであり、体は横的なものです。これが一つになり水平線にならずには、本質的な神様の絶対的な愛の方向に一致することのできる垂直線を描くことができません。この垂直線は二つではなく、一つです。

◆全体が和合できる位置は愛の位置

 信仰生活をしている私たちが努力しなければならないことは、心を中心として、どのように体を一つにするのかということです。心は理想を追求し、高くて貴いものを追求します。その高くて貴いものは、自分自らの観念でつくられたものではありません。大宇宙の原則と和合することのできる、理想的存在圏があるのですが、それが理想圏です。その理想圏は、千年前も万年前も変わりがありません。古今東西を包括しても余りあるので、その中に入って、それに反逆することはできません。その中に包容される時、その中にあって全体が和合できる位置にあるのは、愛以外にはありません。

 創造理想というと、そこにはもちろん、原理的な内容がすべて備わっており、すべての原則的な基準がすべて合いますが、その理想も互いが和合しなければなりません。上にあるものが下に和合し、右側が左側に、左側が右側に、そうして円形を保ちながら、すべての分野に和合できる基準は、愛以外にはありません。

 それゆえ、私たちの心と体が完全に一つになることができ、完全な人になることのできる位置はどこでしょうか。縦的な天の愛、天の人格が訪れることのできる縦的な基準の前に、私が九〇度の角度で、横的基準を身代わりしなければならない位置なのです。これを中心としたこの結合点、それが結着する核の舞台が、神様が願う人間の愛の焦点になるのであり、男性ならば男性、女性ならば女性が願う愛の焦点になるのです。

 では、その中央に入って理想的結合をする前に、最も問題になるものとは何かといえば、「私」なのです。皆さんの心と体を中心として、この形態の規格に合い得る、九〇度の角度をどうつくるのかというのです。

 皆さんの思いは高いものを願い、皆さんの行動は遠い所まで影響を及ぼそうとします。何をもつにしても、世界のものをみなもとうとします。東も西も区別なく、東西のすべてを握ろうとします。その次には高いもの、低いもののすべてと関係を結ぼうとします。では、東西のすべてのものと関係を結び、上下のすべてのものと関係を結ぶことのできる力とは何でしょうか。それは愛の力しかないというのです。愛の力は、国境を超越することができ、限界を越えて、相対世界までも包括することができます。表面ではなく、裏面までも包括することができるのです。

 すべての存在物は、それと同じなのです。いくらある元素を分解してみても、プラスとマイナスの性質が核を中心として動くのですが、その核はあくまでも縦的基準、中央線に立って、九〇度を備えた位置で運動しようとするのです。その位置で定着しようとするのであって、どこにでも定着するのではありません。数多くの細胞がありますが、そのような細胞として存在するには、内的、外的基準が、九〇度で合致した焦点を中心に、核を中心として永遠に存在しようとするのです。そこから離れるようになると、分解されてしまうのです

 このように見ると、人間が毎日生活する中で、何を合わせなければならないでしょうか。焦点とは何でしょうか。心と体を中心として焦点を知ることができるのですが、どれが中心でしょうか。体が中心ではありません。あくまでも、見えない心が中心なのです。

 なぜ見えない心が中心になるのでしょうか。この宇宙の中心が目に見えない神様なので、神様を探していくには、見えるものでは通じることができません。目に見えない、より深いもの、より高いものに通じるのです。

 それで、偉大な人物であるほど秘密が多いのです。深いというのです。また広いというのです。深いということ自体は縦を表示し、広いということは横を表示します。この縦横が別々になっているのではなく、包括されて一つの存在形態を備えなければなりません。そうして、それが運動しなければなりません。運動をするときに、ただするのではありません。縦横が運動するようになると、必ず回るようになるのです。

 それゆえ最も問題になるのは、皆さんの心を中心として一つになることなのです。その心には「私は、これこれこのような道を行く。私は間違いなく、これこれこのような道を行く」という目標があります。一生ならば、一生の目標があります。神様の摂理観を中心として見ると、私たちの一生の目標は、神様の摂理であるみ旨を成すことなのです。

 その摂理のみ旨は、皆さん個人のもとにあるのではありません。個人を超越した位置にあるのです。それゆえ私個人より家庭、家庭より氏族、氏族より民族、民族より国家、国家より世界、世界より天宙統一を、天宙より神様のことをいうのです。

 これを見ると、大きくなっていきますが、最後には一つに戻っていくのです。私から始まってみな拡大させて、最後に戻れば一つなのです。これは実と同じです。種を蒔けば、芽が出て様々な変化形態を備えるようになります。蘭ならば蘭の種が蒔かれて、その種を中心として出てくるときには、根が伸びて、茎が伸びて、枝に葉が茂って花が咲いて、それから実を結んで根元に帰っていくのです。

 私たちも同じなのです。一つの状態で生まれた私たちが、一つを中心としてだんだん大きく関係を結ぼうとします。世界まで関係を結び、どこに戻るのかというと、天に戻らなければなりません。

◆万物を代表した自分になってこそ理想的な焦点に立った人となる

 神様の摂理を中心として願うこととは何でしょうか。神様の摂理を中心として願うこととは、神様の愛の圏だけを中心に影響を及ぼそうというのではありません。人間と神様の愛が一つになり、二つが一つとなった基準を中心として、全体に影響を及ぼそうというのです。

 それゆえ、人間を万物の霊長として造りました。「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人間が最も貴いの意)」という言葉のように、人間を万物の霊長として造りました。その霊長となった事実は、人間自身だけを中心として言うのではありません。霊長というのは、必ず天の縦的で宇宙的な代表人格である、神様を中心として言う言葉なのです。内的な私たちの人格において、神様との関係を中心に、それが横的な面で表れた、人間世界について言っているのであり、存在世界について言っていることなのです。

 それゆえ、神様と人間の愛で一つとなった存在は、すべての万物も和合し歓迎するようになっています。ローマ人への手紙を見ると、すべての万物が、人間が堕落したことを嘆息しているとあります。万物までも嘆息しているというのです。もちろん人間も同じです。天使世界までも嘆息し、神様までも嘆息しているのです。

 なぜでしょうか。理想を実現することができなかったからなのです。このように考えると、自分自身がそういう理想的な焦点に立った人になるためには、自分がすべての万物を代表した者だという自覚をもたなければなりません。私が完全に完成して万物の中に入っていく時は、万物自体にも二性性相があり、その二性性相に心があるために、その心と私の完成した体と心の方向と、いつも合致しているのです。ゆえに、そこで一つになります。同化できるというのです。

 詩を詠み、文学を創作する人たちが情緒的な面を体 恤して語るというものを私たちが見て、内外のすべての動きを形容して表現した文章だということを強く感じれば感じるほど、それに比例して相対的に感じるものが大きいのです。

 花ならば、それを赤ん坊として象徴することができ、動物ならば、それを自分が愛する赤ん坊に象徴することができ、愛する人として象徴することができるのです。万物全体が、完全に愛を中心として一つとなったその位置では、小さなものでも全体を代表することができるのです。

 自分の髪の毛ならば、それを一本、二本抜いても大したことはありませんが、この髪の毛が私の生命体をもった完全なものだという時には、この髪の毛は、私の体全体と和合するのです。もちろん、処している位置と級は違っても、これは完全に私と和合するのです。その和合する焦点は、どこにあるのでしょうか。それが愛です。

 愛の本質的内容が和合できればできるほど、それは長く続き、完全なものとしてあるものの前に、第三のものの前に、また第四のものの前に、標準型として現れることができるのです。言い換えれば第三、第四のものの前に、第五マイナスがあれば、第四の主体性のプラスとして、第五と作用を起こすことのできる内的基盤が成立するのです。このようにして、宇宙はすべて連結するのです。

◆すべては愛から出発して愛に帰る

 この宇宙全体が、何によって存続するのでしょうか。宇宙全体が存在し、その位置に属して存続する、その内的基盤とは何でしょうか。それは愛なのです。愛を中心として「バーン」と打てば、すべての万物が共鳴するのです。ここに元素があるならば、元素のプラスとマイナスが一つになったその基準が垂直を中心として、形態が九〇度の垂直を中心として一つになっていれば、必ず神様の愛は自動的にやって来るようになっています。

 それで、目も見てみると、必ず二つの焦点が合うようになっているのです。息も焦点を合わせるのです。必ず合わせなければなりません。言葉もよく聞こえるためには、音響の焦点が合っていなければなりません。耳も焦点が合ってこそ、よく聞こえるようになるのです。その焦点は、いい加減にはなっていません。すべての存在物が、相対的要件を中心として、垂直と横的な関係を成して、これが核を成して回るようになっています。

 回るときに、自分勝手に回るのではなく、必ず軸を中心として回るのです。地球ならば地軸を中心として必ず回るのです。太陽系ならば、太陽系を中心として太陽が勝手にひっくり返るのではありません。必ず軸を中心として大宇宙の方向に、垂直と合わせて回っているのです。

 手の細胞ならば細胞自体も、絵で見るならば、これが逆さにもなっており、反対にもなっており、下にもなっているけれども、必ずそのような原則を中心として連結されています。手ならば手一つを中心として、垂直と横的な基準を中心として、すべて連結して大きいものを成していくのです。

 では、理想的要素とは何でしょうか。一つの花も全体が動くのであって、花一つだけが動くのではありません。全体の生命の根源、生命の根本まで激動させる作用をし得るものとは何なのでしょうか。それは愛なのです。

 本来すべての存在物は、相対圏から始まるようになっています。私たち人間の世界でも同じです。男性と女性が生まれるには、必ず父母の愛から出発するようになっています。愛の幹の中で繁殖するようになっているのです。その次に、この愛の幹の中で伸びていって、結局愛の実を通じて愛の幹に戻っていくのです。それゆえ、皆さんのような男性や女性が、食べたり着たり、何か買うことが貴いというよりも、その心からいつも愛の幹を逃がさないことのほうが貴いのです。

 では、その幹に連結したものとは何でしょうか。自分の父母です。その父母を中心として見れば、金氏ならば金氏の家系の中から、一つの枝のように伸びて、枝の中から枝が伸びて、ずっと連結されています。皆さんは父母の愛の幹を垂直として、自らのその愛を中心として、平衡を保つ生活をしようとしているのです。

 子供たちを見れば、そうではないですか。生まれたばかりの赤ん坊をじっと見てみると、その赤ん坊は何を願いますか。お母さんのおっぱいを願うでしょう。少し大きくなって赤ちゃん言葉を話し始め、言葉をしゃべるようになれば、誰にまず話をしますか。最も愛の幹になっている人に話しかけるのです。

 「お母さん、お父さん」と言うのであって「お父さん、お母さん」ではありません。「お父さん、お母さん」と言うよりも、大慨「お母さん、お父さん」と言うのです。男性でも女性でも話す時には、「お母さん、お父さん」と言うのであって、「お父さん、お母さん」とは言わないのです。

 情緒的な面で、そうなのです。けれども、対外的な世の中で表現する時は、お父さん、お母さんを「父母」と言います。「母父」とは言わないのです。その「父母」という言葉は、横的な世界で秩序を連結するために、父親がまず生じたということなのです。それゆえ、これらすべてのものは情緒的な問題に連結しているのです。

◆人は愛の焦点に合わせて生きなければ

 皆さんが考えるお金とか、何かの知識とか権力は、みな付属品です。それは一生が過ぎたのちには必要ありません。あの世に行って、私が何か物理学の博士ならば、物理学博士だといって振る舞うことができないというのです。既にあの国、霊界に行けばすべて分かります。

 霊人体は、これに通じることができるでしょうか、できないでしょうか。私たち人間を顕微鏡で見れば、それはみなくっついていますが、霊人体の目で見ると、地球と太陽系のように、それが浮いているというのです。浮いていて、いくらでも通じることができるのです。ですから、それがどのように生じたのか、習わなくてもみな分かります。自分が生きることのできる理想的な方向を通じるならばば、習わなくてもすべて分かるのです。どうして習わなくても分かるのでしょうか。全部が愛の根を中心として関係しているために、愛の位置にさえ入っていくならば、すべて見えて分かるようになっています。

 聖書にも「善悪の実を取って食べれば、目が開くだろう」という言葉があります。その「目が開く」という言葉は何を意味しているのでしょうか。男性が女性を知り、女性が男性を知ること、すなわち異性に対することを知ること、それ以上のことはありません。男性として生まれて、女性を知らなければ、それは愚か者でしょう。最高の理想とは何でしょうか。男性が行くべき最高の理想的焦点とは、女性なのです。女性ですが、どんな女性でしょうか。自分の心にぴったり合う女性、若くても合うし、年を取っても合うし、永遠に合う女性なのです。

 そのような女性の何に合わせるのでしょうか。鼻に合わせますか、目に合わせますか。目も年を取るとしわくちゃになります。鼻も全部そのようになります。顔もみなしわくちゃになるのです。焦点を何に合わせて生きるのですか。それは愛なのです。

 老いた夫婦が愛するのと、若くて生き生きした青春期にある新郎新婦が愛するのと、どちらがより素晴らしいでしょうか。青春にある若者たちは、「ああ、それは聞くまでもなく、若者の愛が最も素晴らしい」と言うかもしれませんが、そうではありません。若者は、愛しても縦的な型が残ります。どんなに愛しても、この型が残るのです。自分の主張があり、個性が生きていて、縦的、横的基準が残っているというのです。このような形態が少し大きくなれば、年の多い老夫婦の愛は、もう少し円満に丸くなるというのです。

 青春男女の愛が良いですか。縦的、横的があるので、凸凹が残るというのです。それゆえ離婚は、若い人に多いのです。しかし四十を越え、六十になった老夫婦たちに、離婚は多くありません。

◆真の愛で一つになったものは永遠に発展していく

 では一生の間、何の幹に首を結わえて生きようとするのでしょうか。男性も女性も、愛なのです。何の愛でしょうか。真の愛です。絶対的に一つの神様の愛、一つの絶対的な愛を見本として生きなければならないし、いつか一致させなければならない神様と人間とを一致させて、宇宙を代表した核の愛で作動できる位置を、人間はあくまでも追求するのです。それが理想圏です。

 理想主義者だからといって、幻想的な世界を追求するのではありません。理想主義者は、愛を除いては理想を描くことができないのです。男性がどんなに優秀だといっても、理想だという時は、既に女性を中心として考えているのです。そのようなときに理想圏が広がるのです。女性もそうでしょう。男性の理想は、女性の理想とは、ぴったり合うというものが異なっているのです。女性と男性は違います。上下に、東西にというと、違うのです。それが、焦点を合わせることができます。あくまでも、真の愛で一つになったものは、分かれるという論理は形成されません。

 それゆえ世の中の人々は、初愛の情を抱いて、一生の間生きていきます。どんなに美人のおばあさんでも、初愛を教えてくれた人が見栄えの悪いおじいさんだとしても、その初愛のおじいさんを忘れられないのです。初愛とは何かといえば、初めて方向を合わせることです。男性は右側であり、女性は左側であるので、この二つは方向が違うのです。ところが、速く来て合わせたという時、そのままぶつかったなら平べったくなるのです。これがぴたりと合えば、縦的な基準が回るようになっています。縦的な基準を私たちは知りませんが、それは必ず回っています。回る力があって、回る作用があれば、回るようになっているのです。回る準備を、完全に備えているというのです。

 それゆえ速く来たとしても、中央線に来たときには回るようになっています。回るときには、縦的な垂直を中心として回るようになっているのです。そのように見ると、女性の愛だけを中心に男性が回るでしょうか、男性がまず愛して、女性が回るでしょうか。男性と女性を中心とした、その愛を軸として回らなければならないのです。

 なぜ、男性と女性の愛を軸として回らなければならないのでしょうか。永遠なる神様の軸の愛が、ここに来ているからなのです。それで、ここに接ぎ木をするのです。接ぎ木をすればどうなるでしょうか。神様の軸があるならば、そこに男性と女性の愛の球形が形成されるというのです。そうして一つになって、速く回れば回るほど、二つはくっつくというよりも、円心力の作用により拡散されます。それで、東西に一つになったものが、南北に分かれようとしながら、回るようになります。そうしてどのようになるでしょうか。垂直は降りてくるのです。

 では、それが一つの位置を中心に、このように降りてきてさまよいながら回って、いつ定着するのでしょうか。垂直を中心として、横的に一つになって運動しますが、どのように定着するのでしょうか。必ず垂直を中心として分かれていくのです。

◆神様と人間が会う愛の焦点は二つはあり得ない

 この宇宙のすべての存在は、そのようになっています。この宇宙がどんなに大きいといっても、必ず軸を中心として回るのです。太陽系ならば、太陽系に衛星がありますが、その太陽系自体が勝手に回るのではありません。必ず大宇宙圏内で、宇宙を標 榜して垂直関係と均衡を取り、平行線を中心として、横的な基準の位置で回るのです。

 それゆえ、皆さんの細胞もそのような基準に合わせて、連結していると見なければならないのです。では皆さんの五官が、何にすべての焦点を合わせようとしているのでしょうか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。愛です。真の愛です。その焦点が愛にあるというのです。この愛を中心に焦点を合わせるので、真の愛をもってこそ、すべてが動くのです。

 霊人体と肉体とは違うでしょう。霊人体の感覚と肉体の感覚が共用することのできる、一つの焦点は何によって成されるのでしょうか。それだけ「バーン」とすれば、男性と女性の横的な位置で、すべての細胞が作動するようになるのです。また、この細胞が作動しながら、縦的な神様がいるならば、神様が作用できる基準が、必ずなければなりません。その基準がどこで合うようになるのかというと、九〇度の焦点の位置で合うのです。

 人間は、万物を代表した人間であり、神様は、縦的な基準で中心になる神様として、二つが初めて会って一つになることができるその焦点は、二つはあり得ません。永遠の焦点なのです。愛の九〇度です。設計する時、これができていれば、これを変更することのできる何らの論理もありません。造り直すなら、宇宙をすべて造り直さなければなりません。これを壊してしまったなら、すべてのものが、みなよじれてしまうのです。いつもこの角度に合わせるように、すべての宇宙の存在は協力するようになります。

 それゆえ愛の道を探していく時は、力が出ます。愛の道を探していけば、なぜ力が出るのでしょうか。良いことは、宇宙がすべてを押し出してくれるからなのです。一人が押してくれるのではありません。全体が押してくれるので、強い力で発展するのです。速いというならば、それ以上速いものはありません。光が一秒間に三億メートルの速度で走っていきますが、愛の速度はそれよりもっと速いのです。光まで支配できるのです。

◆愛は人間を連体的存在として存続するようにする

 皆さんが祈祷する時、どのようにしなければならないでしょうか。皆さんの心を、水平線にしなければなりません。皆さんの体を、水平線にしなければなりません。水平線には世界があります。世界と個人が水平線になって、通じなければなりません。

 それゆえ自分という存在は、金なにがしが、自分の家系を代表しているのです。父親を代表し、母親を代表し、兄弟を代表したという意識をもたなければなりません。ここに焦点を合わせなければなりません。それだけでなく、自分は金氏の一族を代表したというのです。私は大韓民国を代表し、またその次には、世界を代表したというのです。これは八段階の差があります。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで八段階です。

 皆さんの心はどうかといえば、自分を一番に立てようとします。皆さん、一番になってみたいでしょう。一番になりたくない存在はありません。なぜでしょうか。最高の神様の愛を天秤で量るからなのです。神様の愛にすべてが接しようとします。この球形を中心として、数多くの細胞が連結し、核の力と共鳴することのできる相対圏を成して生きなければならないので、すべてが一番になろうとするのです。

 男性も、女性を除いて一番になろうとするのです。また、女性も男性を考えずに、そうなることを願うのです。男性が、「私は、女性までも代表した男性だ」と言います。何を中心としてでしょうか。愛を中心として、女性は私の中にあるというのです。愛というような人格があれば、男性はプラス的な内的性相であり、女性はマイナス的な外的形状です。それゆえ「私は誰か」というと、金なにがしならば金なにがしで終わってしまうのではありません。宇宙と連結されているのです。連体的体制圏内に存続する人間なのです。

 そして皆さんが「私」という時は、既に歴史的な存在なのです。皆さんの先祖たちの要素が、みな入っているのです。数千、数万の先祖たちの細胞要素をみな受けているのです。それは何でしょうか。先祖から今まで、先祖たちが植えてきたお金のふろしき包みを、すべて持ち出してきて総合した、株式会社のようなものなのです。皆さんを見ると、皆さんの母親も入っているし、父親も入っているし、おじいさん、ひいおじいさん、何百代、何千代前のおじいさん、おばあさんが、すべて入っているというのです。そのように連結されています。

 ですからある形態において連結させたものとは何でしょうか。愛です。愛から生まれたのではありませんか。生命が連結させたのではありません。おじいさんの生命、息子、娘の生命、その生命が何で連結されるのでしょうか。生命を得ても愛がなければ、すべてが切れてずたずたになります。愛が下地になって、生命がつながっているために、愛によって私たちの生命が動こうとするのであって、生命によって愛が動こうとしますか。

 愛のために人は、死ぬことができなければなりません。根が残っていれば、枝を切ってしまっても、根を通じて出てくるでしょう?
 同じなのです。より根源的であり、より原始的な内容が愛であるために、根を残しておけば、幹は切ってしまっても、根を通じて再び出てくるのです。

 それゆえ、若い男女が愛の道を求めるために、生命を投げることは異常ではありません。生命より、もっと貴いものを探していかなければなりません。生命を捨てるのは、自分ゆえに捨てるのでしょうか、夫ゆえに捨てるのでしょうか。投身自殺をしたり、そういうことが起こるのは、自分のせいでしょうか、夫のせいでしょうか。それは自分のせいではありません。なぜ自分のせいで、自分の生命を捨てるのでしょうか。それは相手のせいでもありません。それは何でしょうか。愛というものは、そのようなものなのです。愛という絶対的な相手を通じて、定着しようとするのです。定着するのに、一度ドンと挿したならば、これを抜き取ることはできません。そこに順応しなければならないのです。

 男性も女性も愛を中心として、縦的な愛が「ドーン」といって決定されたときには、そこに絶対服従するようになっています。服従することが原則なのに、服従できないものになったので、この宇宙が除去するのです。「君は死んでしまいなさい」と言うのです。自分の心が決定するのではなく、宇宙が決定するのです。「相手を破壊する、か細い身分になったので、君は存在価値がない」と言って、宇宙が除去してしまうのです。

 涙はなぜ出るのでしょうか。涙が出る前に、胸が痛くて苦しいでしょう。それは、授けて受けることのできる道が、ふさがれているためなのです。病気になれば痛いのと同様に、痛みが来るのです。愛の痛みが一番怖いのです。病気の中で、最も怖い病気とは何の病気でしょうか。愛の病いです。愛が実ることのない恋煩い、思いのみで愛している病気にも薬がないというのに、まして本物の愛ゆえに病気になったら、それを治す薬があるでしょうか。ないのです。

 恋煩いは、その本質的な真の愛を中心としてのみ、治すことができます。彼が思慕し、忘れることのできない愛の主体とか対象だけを、理想型としての本来の運動ができるようにしてあげなければならないのであって、そうでなければ相反する事態が起こるのです。

◆愛の焦点をつかむ人にならなければ

 皆さん、真の愛の代表者になりたいでしょう? 皆さんの欲望を見てみると、全部代表になりたがっているのです。家の中でも、自分を中心としてすべてが行われ、母親、父親も自分を中心として、姉、兄、弟(妹)も自分を中心として生きるのを願うのです。全部が理想的焦点を願うのです。

 それは何かというと、愛を中心とした焦点です。すべてが、必然的に願わざるを得ないその焦点が、人間の生活圏内をかすめていくのです。かすめていくその愛の焦点が、皆さんをつかまなければならないでしょうか、皆さんがその愛の焦点をつかまなければならないでしょうか。私たちがつかまなければならないのです。

 その焦点の時というものが皆さんを訪ねてきて、「さあ、ここに場所があるので座ってください」と、応対して座らせておくでしょうか、ただそのまま、公平に過ぎるのでしょうか。公平に過ぎるというのです。皆さんが、捕まえて乗らなければならないのです。昼も夜もなく、仕事をして疲れたとしても、その時が来たなら夜でも昼でも、さっと捕まえて乗らなければならないのです。それで宗教世界では、食べずに夜を明かして祈祷し、他の人々が豊かに暮らしている時に貧しく暮らして、ただ乞食のように待っているのです。

 統一教会には、「真の父母」という言葉があります。真の父母、父母の立場としての焦点があります。個人的立場の焦点、家庭的焦点などがあるというのです。個人的焦点の父として備えていくことは、家庭的な父になることです。そうなった時、家庭的父と個人的父、二人いるところに来て何かを頼む時に、個人的父の立場で対してあげなければならないでしょうか、家庭的父の立場で対してあげなければならないでしょうか。

 個人は過ぎ去りました。家庭を中心として、上がらなければならないのです。では、氏族的基準の父、家庭的父、個人的父を呼ぶとすれば、氏族的父に対すべきでしょうか、家庭的父に対すべきでしょうか、個人的父に対すべきでしょうか。

 家庭的父を呼べば無視し、個人的父を呼べばけってしまい、氏族的父を呼ぶことができるようにしておけば、その氏族圏内には家庭も入っているし、個人も入っているのです。では、国家的父の時代において、一族、文家の一族とか、何かこういう話をする時には、知っているふりをすべきでしょうか、してはいけないでしょうか。国家的基準を中心として「お父様」と呼んだ人には対することができても、氏族的基準を中心として「お父様」と呼んだとしても、既に過ぎ去ったので対することができないというのです。

 では世界的時代において、世界的父の位置で歩んでいるのに、大韓民国から「お父様」と呼ぶ人たちが来て「ああ、世界的なお父様、世界的なお父様をやめて、大韓民国のお父様になってください」と言えば、けってしまうべきでしょうか、引っ張っていくべきでしょうか。けってしまわなければならないのです。

 天宙の父母の位置に進もうとするのに、「ああ、世界のお父様ではなく、あなたは私たちだけを中心として、天宙は放棄してください」と言う時は、どうすべきでしょうか。けってしまうべきでしょうか、けらずにいるべきでしょうか。けってしまわなければなりません。一番最後に神様を中心とする時まで、それをすべて経なければなりません。

◆全体の中心になるのは真の愛だけ

 一つの位置に立っていますが、焦点は個人を中心として世界的であり、歴史的です。家庭を中心としても歴史的であり、氏族を中心としても歴史的です。国を中心としても代表の位置であり、天地を代表した位置です。垂直を中心として、神様の縦的な愛が、重りを下げることのできる位置に立ったのです。ですから、すべての人々がこの重りに、横的に合わせればよいのです。

 それゆえ、重りを中心として個人が立てば、その次には家庭を中心として立たなければなりません。家庭の中心とは何かといえば、この重りです。家庭の中心、氏族の中心、みな一つです。ですから、民族の中心が同じであり、国家の中心が同じであり、世界の中心が同じであり、天宙の中心が同じであり、神様の中心が同じなのです。

 もっていって付ければ一つなのです。平衡を維持しているのです。縦的基準を中心として、ここに合わせろといえば、ぐるぐると世界が回るのです。九〇度で共に回る時、ここに二重の影がかかってはいけません。一つにならなければならないのです。

 そのようなことのできる代表は、お金を中心としては不可能なのです。知識を中心として、そのようなことができるでしょうか。知識を中心としては、どんなに専門家であり、学者であっても、自分の専門分野しか知らないのです。それしか知らないというのです。全体の中心になることができるものは真の愛です。万世の勝利の軸を挿すことのできる、真の愛に焦点を合わせた男の偉大性、人間の価値性を天は称賛し、全宇宙が称賛するのです。

◆愛の焦点を合わせて生きてこそ理想世界に行ける

 理想的焦点を合わせましょう。それが分かりますか。それを知っていても、「私は神様の愛に対する代表者です。個人として、家庭として、氏族として、民族として、国家として、世界としてという時、恥ずかしくありません」と言わなければなりません。

 私個人の愛を、縦的な愛と一つに合わせるならば、間違いなく結ばれます。神様の柱があって、その柱に個人的に合わせることのできる穴があるならば、ぴったり入るというのです。また家庭的にも、その茎に穴があって、合わせれば入っていき、氏族も入っていくというのです。みな、入っていくところがないので、神様の中に入って打ちつけられるようになるのです。

 頂上に行っては戻るのです。「今まで上がってくる時は、あなたを中心として上がってきましたが、下りていく時は、私が頂上にいるので、私を中心として下りていかなくてはなりません」と、このようになるのです。ですから、神様が私の後ろに立たなければならないというのです。それでも神様が「ああ、そのとおりだ」と言うのです。

 そこに栄光が宿るのです。そこに勝利の永遠の版図が広がるのです。その頂上に上がると、神様は内的に上がり、私が下りていくと内的に下りていきます。ずーっと下りてきて中央に行って、さっと回ると核が生じるのです。

 これで愛の核が、この天地間に全宇宙を代表した焦点として決定されたならば、今日のこのような邪悪な天地が生じなかったのです。神様について、分かっていないではありませんか。自分はあくまでも、第二の結果的な存在なのです。第一の原因的な存在ではありません。

 それゆえ、皆さんが愛の焦点を合わせずには、理想世界に上がることはできません。ここに上がって、個人として立ったという時には、一番低いところにいたとしても、神様が世界に合わせようとする時、自分も上がっていくのです。国家に合わせれば、自分も下りていくのです。垂直があるので自由自在なのです。

 ですから、個人ならば個人に合わせ、家庭ならば家庭に合わせて上がらなければなりません。それゆえ自分は、焦点上にいなければなりません。私は個人を代表し、また世界的な代表者であり、歴史的な代表者です。愛を中心に焦点上で、家庭を中心としてもそうであり、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、世界を中心としてそうだというのです。ですから、そういう者がいれば、そのような者に合わせて上がっていく日には、神様の相対となって絶対に滅びません。

 このようになると、相対圏が既に三六〇度を包括するようになっているので、水平圏とその旗の下にあるすべての存在は、その圏内に包括されるようになっています。何も教えてあげる必要もありません。男性と女性が結婚して愛することを、誰が教えてあげますか。昔、おばさんたちがお嫁に行く時は、昔の法に従ってお嫁に行ったでしょう? お見合いもせずにお嫁に行ったのです。父親、母親だけを見てお嫁に行ったというのです。行けばどのように愛して、どのようにキスするかをすべて習ったでしょうか。習いませんでした。

 習わなくても、自然にすべて分かるようになっています。動物もそれをみな知っているのに、なぜ人が知らないのでしょうか。くもの子もそうであり、ありの子もそうであり、目に見えないおぼろげなものも、すべてのペアが愛することができるのです。愛を教えようとすれば、世界の図書館に本がぎゅうぎゅう詰めになるのです。それを解釈してみると、世界に解釈できないものはないというのです。

◆真の愛の位置に焦点を合わせてこそ人間の欲望が完成される

 ですから、神様がどれほど有り難い方でしょうか。その位置に行ってみると、習わなくても自然に分かるようになり、世の中のことがよく分かるようになるのです。それでその位置に入っていけば、これが焦点になっているので共鳴するのです。共鳴圏になるのです。すべての球形は、焦点を通じて相手の世界に反応するのです。

 ここでさっと入っていくと、神様が足元にもいるし、「上にいる」と言えば上にいるし、「そばにいる」と言えばそばにいるし、右側で「神様!」と言えば、こちらから答えます。手を広げながら「神様!」と言うと、神様が「うん、うん」とおっしゃるのです。こちらに向かって「神様」と言うと、「うん」と言い、あちらに向かって「神様」と言うと、「うん」と言うのです。私が表示する所には全部現れます。そのような位置があるのです。

 釈迦のような方も、そのような境地に入っていって、こういう神秘を体験して、「天上天下唯我独尊」と言ったのです。正に、その位置を通り過ぎる時に感じたのです。その位置で生きたのではありません。「天上天下で私が一番なのだなあ」と言う時、どれほど幸福でしょうか。その位置で生きたなら幸福でしょうか、不幸でしょうか。この髪の毛一本が「私に見習え」と言って宇宙に叫び、細胞が「私に見習え」と言う時は、宇宙が「はーい」と言うのです。

 それゆえ霊界に行けば、神様がどこにいらっしゃるかを教えられずに、ただじっとしていても既に回るようになるのです。方向をぴったり合わせます。磁石でもそうなのに、なぜ人がそうできないでしょうか。そのような位置に入っていくと、悪い人、良い人が分かります。ちらっと見て「あいつは駄目だ」と、すぐ分かるのです。目で見る時、角度がゆがむからなのです。自分はこう行くのに、鼻が鼻として合わないのです。自然に分かるのです。

 すべての焦点を、理想的な核に合わせなければならないのです。それが真の愛なのです。真の愛の位置に行く時は、すべてのものの代表の位置に行くのです。人間のすべての欲望を完成させることのできる代表の位置、それが真の愛の焦点です。

 その位置をつかむ時、個人も勝利的個人になるのです。チャンピオン歴史時代に、真の愛を中心として、家庭的チャンピオン、氏族的チャンピオン、民族的チャンピオン、国家的チャンピオン、世界的チャンピオンになるのです。万世に一万種のチャンピオンの大王である神様の前に、堂々と相対的位置に立つのです。

 個人で一等になり、家庭で一等になれば、里(村)で一等になることができ、その次に面(町)でチャンピオンになるのではないですか。面のチャンピオンが郡のチャンピオンになり、郡のチャンピオンが道(県)のチャンピオンになり、道(県)のチャンピオンが国家のチャンピオンになり、国家のチャンピオンが世界のチャンピオンになり、世界のチャンピオンが天宙を代表し、その次には神様の前にチャンピオンになるのです。神様の前にはそれしかないので、神様が頂上ならば、私は下の軸になるのです。これからこのような焦点を決定するのは、自分にかかっているのです。

 一番最初にも話しましたが、堕落したために再創造をしなければならないのですが、再創造の過程は復帰の道を行くことなのです。再度その基準を探して、原理原則に符合することのできる、代表的真の愛にその焦点を合わせなければなりません。そのような位置に進めば、全体が自然に合うようになるのです。そうしてこそ、神様が共にするのです。上がれば、そこでいつでも共にいるようになります。そのようなことができる位置に立つと、神様をいつ呼んでも、答えるようになっています。

◆神様の心情を知り、意のままに生きてこそ神様が共になさる

 皆さんが祈祷する時、統一教会の信徒として祈祷しますか、天地を代表した神様の息子、娘として祈祷しますか。自分のために祈祷をする人は、愚かな人です。自分は家庭を代表したので、家庭として氏族のために祈祷しなければなりません。さらには氏族を越えて、世界と神様のために祈祷しなければなりません。

 神様の心情圏は驚くべきものです。神様の心情圏を知らなければなりません。「神様の悲しい心を、私が地上で解いてあげようとしているのに、あなたはこのような個人を探すことを願っていますが、私が代表ではないのでしょうか」。「家庭を代表した、家庭の代表者であり、氏族を代表した、氏族的代表者ではないですか」。「民族を代表することのできるこの道を歩んできたし、国家を代表することのできるこの道を歩んできたし、世界を代表した聖人たちが歩むことのできなかった道を、すべて歩んでいるではないですか」と言う時、「よしよし、我が息子よ」と言うようになるのです。

 そうでなければ、宇宙を代表した中心の位置に立った神様が呼ぶでしょうか。端の位置にいる時は答えるかもしれません。神様が旅行に出掛けて、朝食をとり、昼食をとっているだけの位置にいるときに呼んだならまだしも、中央の玉座に正座していらっしゃるその方を見てみれば、個人の福のために、行楽のために呼ぶ時に答えるでしょうか。けってしまわなければなりません。世界の問題をめぐって訴えなければなりません。

 愛に焦点を合わせなければなりません。「私は、これこれこのような代表者です」と言えなければなりません。韓国の地のために涙を流すことよりも、北朝鮮の地のために、生き地獄のような所で呻吟する彼らの立場と、情勢を考えながら涙を流さなければならないのです。韓国の地を忘れて、北朝鮮の地をより重要視しなければなりません。

 自分の側を犠牲にして、より大きい側のために奉献していくところに、天理が従い、天法がそこに応じるのであって、世界については何も知らずに、自分の現在の国だけを考えて、自分だけを中心として「民族よ、どうにでもなれ」と言えば、処断されなければなりません。それは、民族が打ち、世界が打ってしまうのです。

◆真の愛に焦点を合わせた世界的な代表者になれ

 神様は宇宙の代表者です。神様は世界の代表者です。また、神様は大韓民国の代表者になることができ、文氏一族の代表者であり、私たちの家庭の代表者であり、私たち男性の代表者であり、女性の代表者なのです。

 正に軸だというのです。真の愛を中心として、いつも上がったり下がったりするのです。これを引っ張って割れると、神様が降りてくるのです。世界的にこれが完全に統一された時には、神様がどこに来るでしょうか。人間の真ん中に入って来るというのです。人間の世界に、理想的膨脹が起こるのです。このようになると、神様は自然に地球星の真ん中、人間の世界に降りて来られるようになるというのです。

 これが直線のようですが、一つは父の線であり、もう一つは母の線です。父母を中心とし、子女を中心としたものなのです。その中に神様が臨むのです。氏族を成せば神様がこのくらい入ってきて、その次に民族を成せばこれくらいまた入ってくるのであり、国家を成せばこれくらいまた入ってくるのであり、世界を成す時、東西南北が共に統一を成し遂げて、どこに行っても自分を代表するようになるのです。

 東西南北を備えた東は西を代表し、南を代表し、北を代表します。なぜでしょうか。その位置にみな集まるからなのです。このようにみな集まれば、一つの点にしかならないのです。原理で見れば、三対象目的が成し遂げられた所です。そのような論理が形成されるのです。理想的な焦点を迎えることが、真の愛の焦点であるということを知らなければなりません。

 皆さんは、どんな代表者になりたいですか。何を中心としてですか。真の愛の神様も、愛の串で真ん中をきゅっと刺されるのを好むでしょうか、好まないでしょうか。愛の骨が生じるのを好みますか、生じないのを好みますか。皆さんも同じなのです。それが永遠に、自分の中心にあることを願うのです。

 それで、このような軸を形成した位置で神様に侍り、世界に侍って、未来の国家と未来の理想的家庭、未来に構成される人格を追求しながら、真の愛の焦点に合わせるために努力した者は、滅びずに必ず勝利者となり、栄光の一日を迎えて、神様の前に世界的代表者として、永遠無窮に幸福であることを願います。




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