文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


根本思想

一九九〇年一月十二日
韓国の宗教会館 『文鮮明先生み言選集第百九十六巻』


 きょうのみ言の題目は「根本思想」です。

◆人生の問題は神様を中心とした聖人の教えにより解決すべき

 先生は、大韓民国の白衣民族の一人として生まれましたが、宗教という問題を中心として誰よりも苦心してきた人です。さらには、人生の問題、人間の問題について懸命に努力してきた人なのです。

 人間の問題を、誰が解決すべきなのでしょうか。このような問題について考えるとき、人間だけで解決することはできないのです。それでは、何によって解決するのでしょうか。聖人の教えによって解決しなければなりません。

 普通「聖人」と言えば、皆さんもよく知っているように、四大宗教の教祖を中心として言ったものです。それでは、その教祖たちは何を中心として、その生涯を歩んだのでしょうか。それは、絶対的な価値の問題でした。神様がいるのかという、神様に関する問題です。

 宗教が哲学と異なるところとは何でしょうか。宗教の始まりが神と共に生活することであるのに対し、哲学はそうではないのです。どの宗教を見ても、必ずその背後では神秘境を連結させ、神様という背後で働く主体を中心として、そのみ旨を成すために出発しました。そのため、教祖は神様と生活舞台を共にして始めたのです。

 それでは、神様と共に出発する生活とは、いかなる生活なのでしょうか。個人的な生活でしょうか。そうではない生活でしょうか。それが問題なのです。個人的生活を標準として神様と共に出発した宗教なのか、あるいは家庭を中心として神様と共に出発した宗教なのか、さらには氏族であれば氏族を中心として神様と共に生活するために出発した宗教なのでしょうか。民族であれば民族を中心として神様と共に出発したものなのかということが問題なのです。次には、国家と共に神様を中心とした生活舞台を備えて進むのか、その次は、世界の問題です。また、霊界と肉界があるとすれば、霊界と地上界、天と地まで問題となるのです。

◆なぜ自己の完成のためすべてを否定しなければならないのか

 宗教が出発するにおいて、家庭の救いの論理を唱えた宗教がどこにあったでしょうか。また、社会の救い、氏族の救いを唱えた宗教がどこにあったでしょうか。国家の救いを主張する宗教の出発はなかったでしょうか。これらのことが問題となるのです。

 大多数の宗教を見れば、個人の救いについて説いています。個人が救われなければならないというのです。すべて個人を中心として出発しました。それゆえ高次的な宗教を見れば、その教祖の説く教理というのは、現世から隔離させようとするものです。出家を強調しています。これは仏教だけでなく、キリスト教も同じです。

 出家とは何でしょうか。出家するということは、一つの氏族の姓を通して生まれたとすれば、その伝統的な歴史の背景がすべて私を包囲しているために、その背後の前衛隊のような家庭を否定するということです。出家すること自体、国を否定しなければならず、生活していた社会を否定しなければならず、生活していた家庭を否定しなければならず、家庭における父子の関係までも否定しなければならないのです。これが問題となるのです。

 私たちが生活するにおいて、運命の道は、私たち個々人が努力して開拓することができますが、宿命の道を開拓することはできません。それでは父子の関係、父と息子であるとか、父母を中心とした子女であるといった父子の関係を切ることのできるものとは何でしょうか。これが問題となります。一人の独裁者が、「あれはお前の父親ではなく、あれはお前の息子ではない」と、千年、万年教育したとしても、それを革命することはできません。

 それでは、出家とはいったい何でしょうか。父子の関係までをも否定して出ていく理由は、どこにあるのでしょうか。出家という言葉は、両親との関係を維持したまま出ていくことをいうのでしょうか。それとも、両親との関係を否定し、自らの修道の目的を成就するために、自分を中心としていたあらゆるものを捨て去り、自己完成を目的として出ていくことなのでしょうか。あくまでも自己の完成を目標としたものです。

 宗教はすべて、自己完成を目的としています。ですから高次的な宗教はすべて、独身生活を強調するのです。よく見ると、親子の縁までも否定し、さらには子孫を否定するということまでします。それは、なぜなのでしょうか。どうしてそうしなければならないのでしょうか。深刻な問題です。そうではないですか。カトリックにも、神父や修道女たちがいるでしょう。仏教も、やはり同じです。すべてを捨てて、世界を否定し、国を否定し、自分の家庭を否定し、自分の父母を否定し、男性が女性を否定し、女性が男性を否定するのですが、どうしてそうしなければならないのでしょうか。根本問題がここから出てきます。このような問題は、深刻な問題だと言わざるを得ません。

◆宗教の起源

 それでは、どうして否定しなければならないのかという論法、論理、教理の教えを、いかにして教団で打ち立てるのでしょうか。それは、キリスト教でもあいまいなのです。仏教もそうです。だからといって、批判するのではありません。立派だということは言うまでもありませんが、根本問題に関していえば、そうだということです。

 儒教もそうです。「元亨利貞は天道の常であり、仁義礼智は人性の綱である」という言葉があるのですが、どれほど良い言葉でしょうか。「天」とは何でしょうか。たとえ天があったとしても、私との関係を一〇〇パーセント、始まりとともに永遠に結ぶことのできる天でなければ、私がその天を理想的な天として侍ることはできないのです。始まりが天であると同時に、過程と終わりのすべてが永遠に天でなければなりません。その天と共に私は幸福でなければなりません。不幸であってはならないのです。幸福でなければなりません。その天と私が一つになる時、すべてがうらやましく思い、すべてがそれを尊び、すべてがそれに従っていくことができなければなりません。そのことが、この個体が生まれついた一つの特殊な民族に限られた内容となってはなりません。人種を超越し、思想を超越していかなければならないのです。

 このように、宗教の起源、教祖たちの起源をよく見てみると、神様と共に生活を始めたことから教団が始まったのです。

 それではここで、教祖と神様との関係を考えるならば、神様に従っていくべきでしょうか。教祖に従っていくべきでしょうか。これは大きな問題です。教祖と神様の関係においては、教祖も神様に従っていかなければならないのです。どの程度でしょうか。その神様が絶対的な神様であるとすれば、絶対的についていかなければならないのです。それでは絶対的に従い得る神様と私との関係、神様と教祖との関係、神様と私との関係よりも神様と教祖の関係と、教祖と私との関係をいかにして連結させていくのか、これは簡単な問題ではありません。

◆すべての関係をどのように結ぶかが問題

 先生は、霊界とか宗教界に対するこういう問題すべてを中心として苦労したことによって、神秘的な世界があるということを知りました。神様がいるか、いないかというならば、神様はいるのです。間違いなくいるのです。その神様と教祖との関係、教祖と信徒との関係、信徒と世界との関係など、関係の世界が問題なのではないでしょうか。その関係を、どのように強固なものにするのでしょうか。一軒の家を中心として見ても、父子の関係、夫婦の関係、兄弟の関係、すべてが関係ではないですか。また、家庭と家庭との関係もあります。

 いかに自分が立派だとしても、家庭との関係において脱落してはいけません。自分と家庭との関係における中心、家庭と家庭との関係における中心とは何でしょうか。さらには、氏族と氏族との関係においての中心とは何でしょうか。すべての人間は、関係の世界から離れることはできないのではないでしょうか。

 宗教を中心として、個人と個人との関係を自分たちの間で結ぶことができます。仏教であれば、仏教を信じる人間同士で結ぶことができます。それでは、仏教を信じる人と別の教団の人とはどうなるでしょうか。これが問題なのです。「私たちは関係などない。絶対的に関係がない」と言うのですが、それはいったい誰が決めたことなのでしょうか。教団をつくり、教祖を立てるとき、「あなた方はそのような関係を結ぶべきである」という神様の意を動機として始まったのであれば、そのような神は必要ないのです。そのような教祖は必要ないという結論が出てくるのです。

 「家 和 万事成」という言葉があります。家和万事成となるには、おじいさんとおばあさんとの関係、夫婦関係、姉妹関係、兄弟関係が理想的でなくてはなりません。しかしそうかといって、おばあさん、おじいさんが自分たちだけ仲良くし、また夫婦だけで仲良くし、兄弟だけで仲良くするようではいけないのです。おばあさんと息子、息子と息子、嫁と息子、これらが縦的に横的に、前後左右にみな和してこそ家が和するということです。ファ(和)というのは、おしなべてという意味の「和」の字ではないですか。「ファハク(化学)」というときのファ(化)というのは、本質が変わって一つになることを意味しますが、この和という字には本質があるのです。私であれば、私の個性があります。個性があって一つとなるのです。

 一つの家を考えるならば、おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さん、それから兄弟、これだけでも六人になります。ここに親戚まで関係し、いとこまで含めると、どうなりますか。一家にいとこまでが住むのです。いとこまでが住んだとすれば、何人になりますか。こう考えると、果たして家が和するということは容易なことでしょうか。こうして分析してみると、困難だということが分かります。なぜでしょうか。私たち個々人の体と心は争っています。三十八度線も、世界の戦争も問題ではありません。

 その戦争の動機は、どこから生じるのでしょうか。その根本は、どこにあるのでしょうか。私から生じるのです。「人」には男性と女性がいて、男性、女性を見ると心と体の両面があります。だとすると、宗教を信じるときに、心と体の両方で信じるべきでしょうか、心だけで信じるべきでしょうか。これが問題です。心と体が一つになって信じることが理想的なのですが、心と体が一つになっていなければ、神様はまず心を中心として一つとならしめ、心が主体となって、心を通して一つとなるようにするのです。

 「心がまっすぐだ」という言葉があります。そのまっすぐというのは垂直を意味します。心が神様と完全に一つとなり、その一つとなった心と、私の体を一つにしなければなりません。これが今日、宗教生活をするにおいて生涯にわたってなすべき課業なのです。

 それでは、どのようにして心で体を支配するか、これが問題です。それには二種類の方法しかありません。神様と共に生きる、神意を知る立場に立っているとすれば、神様の意を中心として生きなければならないのです。ところが、体がついてこないのです。心がプラスで、体がマイナスとなっていればどれほど良いでしょうか。ところが、この体がプラスの立場にあるのです。体がプラスとなっているというのです。ですから、プラスとプラス同士反発するのです。

◆心と体が一つになるには体を打つ生活をしなければ

 いかにして一つとするのでしょうか。根本理想を見いだしたとするならば、強力な信仰心をもって、その理想を中心として、変わらない心で絶対的な姿勢をもって体を弱化させなければなりません。体を弱化させなければならないのです。それゆえ、苦行をするのです。苦行を好む人がいるとでも思いますか。苦行を好む体が、この世のどこにあるでしょうか。

 では、「仕方なく、無理やりすることで理想が実現する」という論理を見いだすことができますか。これは理論的な矛盾です。喜んでやってもうまくいかないのがこの天地だというのに、無理にやったところで完成できるでしょうか。それは矛盾です。

 それでは、なぜ宗教生活が体を打つ生活なのでしょうか。心を中心として、プラスに対してマイナスをつくるためです。マイナスをつくらなければなりません。マイナスさえつくってしまえば、「一つとなりなさい」と言う必要はないのです。マイナスに戻ることによって、心と体が一つになるのです。

 心と体が一つになれば、どうなるでしょうか。これも問題です。その根本問題が、どうしてそうなのでしょうか。今の世の中は分析的な論理でなければ通じないのですが、その論理が公式と統計に結びつくものでなければなりません。

 今までの科学世界の発展は、単位を中心とした公式の発展です。公式を抜きにしては発展しないのです。コンピューター・システムも、すべてそのようになっています。私たちはそれらを、最高に便利なものとして使用しているのです。そのような私たち人間の素性、性質は、もともと分析的で論理的であり、そのように論理的で分析的である結果、損害が生じることを絶対に嫌うのです。

 それでは、体が好みもしない所へついていって、私が修道の世界に対して覚醒することができるのでしょうか。また、そうすることで完成できるでしょうか。ですから宗教は、良心を中心として体を打たなければなりません。宗教は、絶対的に体を打たなければなりません。なぜ、このようになったのでしょうか。

 神様がいるとするならば、どうして体を打たなくてもいいように創造できなかったのでしょうか。こう考えるために、神様を否定するのです。なぜかは分かりませんが、病気になったことは事実です。

 それでは、宗教ではなぜ体を苦労させるのでしょうか。良心基準の前に体を弱化させることによって、従わせられるようにするためなのです。これを弱化させて完全に引っ張っていき、三年間くらい率いて習慣化しなければなりません。なぜでしょうか。絶対的に信仰を強力化するためなのです。自分の愛する人や、国、世界などをすべて捨て去り、絶対的に修道の基準の前にこの体を修養し、一致できる帰一点を発見しなさいということです。宗教というものはみな、どの宗教でもそのように教えなければならないのです。そうでなくては、宗教世界に発展をもたらすことはできず、人格革命をもたらすことはできません。

 それゆえ、断食をし、絶食をして、さらには苦行をして、社会に出て迫害を受け、反対されるのです。反対されようが、されまいが、宗教の目的の成就のために、体が死にそうだと大騒ぎしてもかまうことなく、それをすべて忘れ、心の前に体が順応する自我を求めて、つらい生活をすること、これこそ宗教生活なのです。

◆心と体が一つになったのちはそのような男女が結婚して一つとならねば

 個人を通してそのように良心基準を合わせるとするならば、家庭基準はどうすればよいのでしょうか。家庭をもったとすると、それらを率いて心の世界の統一圏を成すということは、どれほど大変でしょうか。国を背負っていくことが、どれほど大変でしょうか。ですから、そのような問題を簡素化するために出家をするのではないでしょうか。

 出家して何をするのでしょうか。完全なる修道の成就、目的を達成したのちには、男性の修道者、女性の修道者はどうすべきなのでしょうか。二人が一つとならなければなりません。それで終末、すなわち今まで教えてきたすべての修道の時代が終わる時には、修道者たちも結婚すべき時が来るのです。

 なぜそうなのでしょうか。外的世界は、みな誤った結婚をすることで腐ってしまいます。悪魔の巣窟、サタンの巣窟となっているのです。どのように教示するのでしょうか。神様がいるとするならば必ず、「この者たち。お前たちはみな人倫道徳を中心として見れば道理に外れているので、滅びるであろう。それを正すためには標本が必要である。ゆえに、僧侶が結婚し、修道女や神父が結婚して標本になるべきだ」と言われることでしょう。それでは、こういうことを経典を通してどのように説明するのでしょうか。経典にはないのです。

 四大聖人はすべて宗教の教祖です。その教祖を中心として、数千年の歴史を重ねながら後退するのではなく、人類を包括してきました。包括するのは教祖たちがしたのではありません。

 それは、天運を動かす中心となる絶対的な神様が、教祖たちの志が良いので、彼らを立てて教材として使ったのです。そう言うべきであり、「私たちの教祖は神様だ」と言ってはいけないのです。もしも「教祖が神様だ」として、「絶対的な神様だ」と言うならば、問題が大きいのです。

◆人間は結果的存在であり第二存在

 私たち人間は、第一原因から始まりました。第一原因とは何でしょうか。その方は、私たち人間が描く理想以上の理想をもった方で、行ったり来たりしながら、いろいろなことを考えているような方ではありません。絶対者であられるので、その方が考える理想は、絶対的理想です。どの教祖でも、それ以上となることはできません。そのように考えるべきです。どんなに優秀な教祖、優秀な宗教指導者、世の中がひっくり返るような宗教家がいたとしても、神様を中心としていなければなりません。私を中心とするならば、大変なことになります。それはなぜでしょうか。人間は、あくまでも第一存在ではなく結果的存在です。第二存在なのです。

 それでは、その第二存在はどうして生まれたのでしょうか。私にとっての第一存在は、両親です。その両親の第一存在は、おじいさんとおばあさんです。このように上がっていくのです。おじいさん、おばあさんの第一存在は誰ですか。曾祖父母です。人間の先祖を中心として考えると、神様がいるとするならば、神様までさかのぼっていくのです。

 その神様のみ意とは、いかなるものでしょうか。宗教を打ち立てて、個人を救援するというのが神様のみ意でしょうか。家庭の救援でしょうか、国家の救援でしょうか、世界の救援でしょうか、天地の救援でしょうか。地上にも地獄があり、天上にも地獄があります。この救援というのは、天上天下にある地獄を撤廃するものでなければなりません。地上と天上の地獄をすべて撤廃し、天国をつくろうとする方こそ、絶対的に善なる方なのです。

 人というものは、自分の住んでいる家が一番だと思うものです。どんなに豪華な住宅が多いとしても、貧しい人にとっては天幕の家、幌馬車のような所で一家仲良く、楽しく食べ、喜んで生活するほうが、大きな家で豪華な食事をしながら暮らすよりも、かえって幸せなのです。自分の住居とは、自分自身の幸福の基地です。

 貧しい人や労働者は、工場のそばにあるゆがんだ家でも、幸せだと感じながら暮らすことができ、農民は、わらぶきの家でも幸福を感じることができるのです。王宮で生活する人以上に幸福になれないという論理は成立しません。

 それは、何を中心としてそう言うのでしょうか。外的な所有舞台ではありません。環境の舞台ではありません。内的な心的世界の環境舞台と所有の権限をもち、心を思いどおりに主管することのできる立場に立てば、天下を見下ろして、邪悪な戦場で強いといって威張っている人に対しても、自慢することができるのです。

 心が大きく、その理想が高次的であるならば、体は低い所にあっても幸福を感じるのです。麦飯を食べても、白い御飯と肉を食べても、生きていくのは同じなのですが、何を中心として生きるのでしょうか。体を中心として生きるのではありません。心を中心として生きるのです。心の世界における環境的理想を思い描きながら、「ああ、私はなんて幸せなのだろう」と言える人は、大統領よりも幸せだということができます。

◆宇宙の根本真理

 宇宙の根本真理とは何でしょうか。先生は、このような問題について悩んできた人です。それで談判をしたのです。そうして神様を発見しました。「あなたを発見したからには、生きるか死ぬかの賭けなのです。どうか根本を教えてください」と談判をしました。そういう意味で、失礼ではありますが、イエス様が神様に談判をしたこと、仏教の釈迦が神様がいるとすれば神様に談判をしたこと、儒教でいえば孔子が神様に談判したこと、イスラム教のマホメットが神様に談判したこと、この文総裁という人が神様に談判をしたことのうちで、どの基準が高いと思いますか。仏教は「ああ、そんなこと聞く必要はありません。仏教が一番です」と言い、キリスト教は「ああ、それだったらキリスト教です」と言うでしょうが、そうでしょうか。儒教ならば儒教、イスラム教ならばイスラム教もそう言うことでしょう。このイスラム教徒は、反対しようものなら片手には剣、片手にはコーランを持って脅迫さえするのです。こうなったのはなぜでしょうか。先生は神様に向かって、必死に「あなたはいかなるお方ですか」と、その根本を明らかにしたのです。根本思想を。

 それでは、神様と人間との関係はいかなるものでしょうか。神様がいるかいないかという問題は、世界の問題です。今日、唯物史観と唯心史観の二元論でも、「心が先か、体が先か」と言うではありませんか。知ってみると、心が先でもなく、体が先でもありません。心と体が一つとなっていないがゆえに、こうになったのです。それを知らなければなりません。民主世界の発達は心を拡大したものであり、共産主義の発達は体を拡大したものです。ですから、争いが起きるのです。この争いをいつ食い止めるのでしょうか。民主世界と共産世界を一つにすることよりも、問題は皆さん自身にあるのです。

 こういう問題を考えるとき、私が悩んで標語として立てたのが「宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」ということです。第一標語がこれです。考えてみると、人や宗教はみな、世界を支配し、天地を支配することを願いますが、自分自身を主管することはできないのです。東に行けば東に合わせることができ、西に行けば西に合わせることができ、南に行けば南に合わせることができ、北に行けば北に合わせることができ、上に行けば上に合わせることができ、下に行けば下にも合わせることができ、拡大して三六〇度、どこにでも合わせることのできる私、宗教を通してこのような人格完成の基準を打ち立てることができるか、できないか、これは深刻な問題なのです。

◆真の愛で神様と最短距離で結ばれる

 皆さんは、神様の息子のように、娘のように近い立場に立ちたいですか。神様を近所のおじさんとして仕えて生きたいですか。これを神様に尋ねると、「何を聞いているんだ。横的ではなくて、縦的に最も近い父子の関係ではないか」と答えられるのです。なぜ父子の関係なのでしょうか。これは縦的な関係です。夫婦関係は横的です。では、縦が先でしょうか、横が先でしょうか。それでは、どうして縦が先なのでしょうか。どうしてそうでしょうか。

 世の中のすべての物が創造されるとき、創造主が水平を見ながらつくられたのです。それゆえ良い物、良い材木、良いものは垂直になっているものが多いのです。茎は、すべて垂直に育ちます。そうでしょう。穀物を見ても、葉はみな横になっていても、茎だけはまっすぐなのです。茎には、根の茎と芽の茎があります。これは、どちらも垂直です。

 また、私たちの人間始祖が第二の原因であるとすれば、第一原因である天は高い所にあり、私は低い所にいるのです。ですから、神様の愛と人間の愛についていえば、愛は縦的であるに違いありません。ここで、一つの概念を定義づけて進まなければなりません。完全に縦的に垂直となることのできる作動とは、何の作動でしょうか。知識ではありません。知識は直行しません。知識は回りながら進みます。それではお金でしょうか。お金は天から降ってくるものではなく、地でごろごろと転がります。権力も垂直にはなれません。これを知らなければなりません。しかし、真の愛というものは、最短距離を通るのです。

 真の愛は、最短距離を通っていくものなのです。それゆえ、上から下に通じる真の愛があるとすれば、それは垂直であるに違いないのです。少しでもゆがんでいれば、それは垂直とは言えません。何が宇宙の中の最短距離の垂直を占領できるでしょうか。それは唯一、真の愛です。

 父母は、愛する息子が危険にさらされたとき、回り道をして救いに行くでしょうか。いくら自分の命が貴いといっても、命が問題ではありません。最短距離で通じるのです。この宇宙の中心とは何でしょうか。垂直的内容のうちで、一番の最短距離に位置するものは何でしょうか。同時に、それがすべての価値の中心になっているとすれば、世界はそこから位置の決定が可能となるのです。この垂直を中心として、東方なり、南方なり、北方にいることになるのです。

 垂直という言葉は、先に垂直があって言っているのではありません。これは横を、水平線を前提条件として言っているのです。上というのは、上を中心として言っているのではありません。下をまず認めたうえで言っているのです。右側というのは、左側があることをまず認めたうえで言っているのです。女性ばかりがいるならば、女性という言葉は使いません。女性という言葉は、男性を先有決定(前提)要件として言っているのです。相対的概念を中心とした言葉です。

 それゆえ、宇宙で最も正しい垂直を探せというとき、知識をもっては探し出すことができません。権力をもっても求めることはできません。また、お金でも求めることはできません。しかし、愛によっては可能だと考えるのです。

 神様は絶対的な方であるがゆえ、神様の愛は絶対的であるがゆえに、絶対なる真なのです。それゆえ、その愛は最短距離を占めるのです。

◆相対のために生まれ存在する宇宙

 人間関係について一言つけ加えれば、哲学に入門する人は本を読んで、「なぜ私が生まれたのか」と考えます。これは深刻な問題です。女性は男性から冷遇をされることがうらめしくて、「ああ、悔しい。男に生まれて一度復 讐してやりたい。輪廻転 生してそうできたらいいのに」と考えそうなものですが、そうであってはなりません。

 女性、男性が生まれるのは、人が生まれるのは、誰ゆえでしょうか。子は父母ゆえに生まれました。そうではないですか。また、なぜ父母がいなければならないのでしょうか。子供のためにいなければならないのです。父母という言葉は、子供を前提とした言葉です。子供という言葉は、父母を前提条件とした言葉です。その先有(前提)条件のために関係が結ばれるのです。自分を中心として関係が結ばれることはありません。

 男性は女性のために生まれました。男性として真の男性になろうとするならば、真の息子にならなければなりません。真の息子になるには、孝行者にならなければなりません。さらには真の夫婦とならなければなりません。妻は女性を代表した者であり、夫は男性を代表した者なのです。全世界の男性、女性の代表者です。また、動物世界は雄と雌、イオン世界は陽イオンと陰イオンから成っています。このように宇宙は、すべてペア・システムになっています。そうして雄と雌は、すべて縦的な愛を中心として繁殖して生きるのです。

 それゆえに、なぜ男性が生まれたのかといえば、男性のためにではなく、女性のために生まれたのです。天地の理致がそうなっているのです。東洋思想も陰陽を中心として言うのですが、陰陽が合わされなければなりません。そうでなければ未完成品です。それでは、陰陽合徳は何によって成されるのでしょうか。愛によって成されるのです。それゆえ、男性が女性のために生まれたのはなぜでしょうか。愛のためなのです。男性の愛は、男性にはありません。女性にあります。女性の愛は男性にあります。私自体に愛があるのではありません。

◆宇宙の根本

 宇宙の根本は、愛と生命と血統です。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体です。それがなければ、私たち人間は愛を感ずることができません。ここにいる皆さんもみな、愛をもっています。生命をもっています。血統をもっています。それは何ですか。自分一人では分かりません。しかし、ここに自分の相手がさっと現れたならば、愛の周波が来るのです。生命がうごめくのです。血が沸くのです。そうでしょう。それが誰に似てそうなのかというのです。根本なくして生まれるはずはありません。

 神様も同様なのです。神様にも愛があり、生命があり、血統があります。

 私が一人の男性であるならば、それは男性を代表しているのです。皆さんは、そうありたいでしょう。「私は男性を代表している」と言うとき、何をもってそうだと言えるでしょうか。勉強してですか。お金を集めてですか。権力でですか。絶対に不可能です。世界の男性の中で、愛することにおいて負けることのない代表者が立ったならば、すべての男性が「そのとおりだ」と言うことでしょう。愛の代表者となれば、皆が好むのです。善人、悪人を問わず、皆が好きになるのです。女性も同じです。自分が一番になりたがるのです。何を中心としてですか。お金ではありません。愛を中心としてです。

 男性が生まれたのは女性のためであり、女性が生まれたのは男性のためです。それゆえ、神様が互いに貴いものを取り替えておきました。女性の愛の包みは、男性がその主人です。男性の愛の包みの主人は、誰ですか。女性です。

 女性が主人なのですが、何の主人の資格をもっているのでしょうか。王権です。粗末なわらぶき屋根の家に住む夫の女としてではありません。愛の王権を代表した主人なのです。そのように考えて結婚式をすれば、地面が揺れるほどに太鼓を打ち鳴らし、めでたいとウエディング・マーチを響かせるのです。そうせずに、世の中を知らずに、真っ暗な夜になれば、女性だけで何が楽しいでしょうか。では、なぜ男性と女性が結婚するのでしょうか。愛のためです。どんな愛ですか。絶対的な真の愛です。

 次に、父子の関係は誰も切り離すことができず、革命できないものです。父子の関係は絶対的です。そこに流れる愛は、絶対的な愛です。そのような関係が絶対的なものであるとすれば、母親と父親は絶対的でなければならないでしょうか、相対的でなければならないでしょうか。父母は絶対的です。父母と息子、娘の関係が絶対的であるがゆえ、母が出ていき、父が出ていったとしても、また、けられてぐるぐる回ることはあっても、離れることはないのです。

 また、夫婦二人が生活するにおいても、絶対的な愛がなければなりません。ところが、最近結婚して一週間もたたないうちに離婚する者がいます。それは真の夫婦でしょうか。偽りの夫婦です。

 「愛ゆえに生まれた」と言うと、気分がいいと思いませんか。昔の両親の懐が恋しいでしょう。忘れられません。そこは革命できません。行って入ろうとします。なぜでしょうか。愛は根源だからです。愛が動機となっているために、その流れる過程は、愛の関係をもたずしては完全に連結されることはありません。私は愛の結実体です。男性が生まれたのは愛を追求した結果であり、女性もまたそうなのです。

◆神様は私たちの父

 それでは、神様とはいったい誰なのでしょうか。神様は、私たちの父なるお方です。仏教では人格的神を発見することはできません。万象帰一法を論じて、人格的神をどうやって発見するのでしょうか。内外に知、情、意の感情に通じることのできる神様を、どうやって発見するのですか。そうではないですか。愛する孝行者をもった父母は、その子が泣けばどうしますか。「ああ、私の息子よ」と、どこの教祖であれすべて無視し、ぎゅっと抱き締めて泣き、もっている良い表情というものすべてをつくるのです。

 その愛とは、何の愛でしょうか。私のための愛では、大変なことになります。宇宙はこれを歓迎しません。創造の根本まで見れば、宇宙の根本である神様は、絶対的な方です。それゆえそれを見て、私の信じる神様は、本当に偉大な神様だと考えるのです。

 その絶対者が信じることのできる絶対的なものとは何でしょうか。神様も絶対的な平和、絶対的な幸福を求めているのですが、それをもたらすものとは何でしょうか。お金ですか。お金はいくらでも作ることができます。知識ですか。神様は知識の大王です。権力ですか。神様は全知全能です。それでは何でしょうか。真の愛なのです。絶対的な神様も、愛には絶対的に仕えるのです。

◆真の愛は相対のために一〇〇パーセント投入する

 ですから、神様はどんなに力があっても、真の愛の息子、娘を見れば、「私のものを全部あげよう」とされるのです。真の夫は真の女性に、「私のものをすべてあげよう」と言うのです。「私のものは私のものだ」と言うならば、それは真の愛ではありません。どうあるべきなのでしょうか。完全に回らなければなりません。授け受けしなければなりません。神様が天地を創造したのも、そのような理由からなのです。

 今日、既成教会の牧師たちの説教では「創造主は偉大であり、被造物は俗なもの」だと言っています。しかし、それはよく知らないのでそのように言っているのです。それは、愛の神様であるという論法を取り消すという結果になります。神様の愛、イエス様の愛、愛という言葉は相対性を離れては成立しません。神様の相対は誰でしょうか。「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉があります。そのとおりなのです。

 神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。愛のためです。神様自身がその理想的愛を打ち立てようとされるのは、投入です。完全投入です。一〇〇パーセント以上、一二〇パーセントの投入です。

 それゆえ真の愛をもって生きる人は、その時代にいくら迫害を受けたとしても一二〇パーセント以上、何百パーセント以上投入することのできる本性の起源と連結しているために、歴史が支配することはできません。いくら独裁者が、その時代に破綻させ、無としてしまったとしても、この世界は再現されるのです。いくら老いた親でも、愛を再現させるのと同様に、いくら独裁者が押さえつけたとしても、歴史を超越して再現し、その権威を堂々と立てるのです。

 ですから、修道の世界の教祖たちがその時代に迫害を受けるのです。迫害を受けない人がどこにいるでしょうか。しかし、投入したものを取り戻すことのできる環境ができ、その時代以降には現れるようになっているのです。

 神様は天地をどのように創造されたのでしょうか。神様の相対となれるのは人間しかいません。それで自己を一〇〇パーセント投入したのです。では、どうして投入したのでしょうか。知恵の王であるのに。完全に投入して神様はゼロ、無となり、あちら側は百二十となるのです。気圧でいうと、こちらは低気圧中の低気圧である真空状態となり、あちらは高気圧となるので、循環作用が起きて自動的な発展の原則、自動的な運動の原則を追求するのです。それは何によってでしょうか。愛によってそうなるのです。宇宙の根本が愛であるがゆえに、このような原則によってこうなるのです。

◆永生は真の愛を中心として

 それでは、神様も人格的神であるので、心と体があるでしょうか。あります。神様にも愛があるのでしょうか。あります。神様にも生命があるのでしょうか。あります。神様にも血統があるのでしょうか。あります。これらすべては、自分一人では成り立ちません。相対が必要なのです。相対があってこそ可能なのですが、神様は縦的であるため、縦的な基準を中心として連結しようとするのです。縦的な場で、子女の立場で成長し、夫婦となるのです。だんだん大きくなり、気がつけば男性と女性が一つになるのです。どこで合わさるのでしょうか。僕の立場でです。

 そうすれは、どうなるのでしょうか。その中に息子が入り、その中に神様が入ってくるのです。円における弦です。上弦、下弦を縮小したものとなり、アダムとエバは一つの副体のようになるのです。骨と肉のようになるのです。ですから、「天のお父様」という言葉は、血統関係のないところでは成立しないのです。神様とは誰でしょうか。真の愛を中心とした縦的な父です。

 このように見るとき、こういう縦的な真の愛を中心とした父、その父が創造主なのですから、堕落しなかったならば、天地を通じる真の愛の道は直短距離なので、垂直の前に九〇度とならざるを得ないのです。

 堕落しなかったならば、縦的愛である父母の愛と生命と血統を中心として、九〇度に立った真の父母となったはずです。しかし堕落することによって、完成した父母をもち得ませんでした。完成した父母をもったならば、この完成した父母の真の愛、真の生命、真の血統がこの中央で合わさるのです。

 ですから球形を中心として見るとき、最も高い所とはどこかというと、中央です。皆さんはすべての存在の中心存在になりたいのです。それはなぜでしょうか。そこに行ってこそ、神様の愛に接することができるからです。神様の愛に接したならば、どうなるでしょうか。神様が私のものとなり、神様の所有のすべてが、私のものとなるのです。

 このように考えると、男性と女性が結婚するのは何のためでしょうか。愛のためなのです。愛して何をするというのでしょうか。中央に行き、神様と愛の関係を結ぶことで神様を私のものとし、神様の愛を私のものとし、神様の所有を私のものとするのです。それによって愛を中心として、相続権が連結されるのです。その次には、神様と永遠に共に生きることができるのです。

 皆さん、そうではないですか。真の愛を感じ、呼吸するようになれば永遠に生きるようになるのです。霊的世界の体験の中に、このようなものがあります。息を吸い込むと、とても気持ちが良くて、吸っても吸ってもまた吸いたいのです。先生は、漠然とした話をしているのではありません。真の愛の圏内に入ると、息を千年、万年吸い込んでも限りなくいいのです。また千年、万年息を吐き出しても気持ちがいいのです。「真の愛が動く所に永生がある」という論理を打ち立てることができるのです。

 永生はどこにありますか。息を永遠に吸い込んでも良く、永遠に吐き出しても幸せなのです。そのような愛を中心として呼吸する世界に、真の愛を中心とした永生があるのです。

 それで、このような二人の親を通して愛を受け継いた私なのです。ですから、男性でも女性でも愛をもっていない人はいません。男性も女性も父母の血肉を受け継ぎ、父母の生命を受け継いでいるので、男性にも女性にも愛があり、生命があり、血肉があるのです。

 それが、どのようになっているかというと、一つは縦的であり、もう一つは横的です。こういう生命権を備えるために、男女が結婚するのです。結婚式の日とはどんな日かというと、天地を所有する日です。神様がいくら絶対的な方であっても、この愛と私は離れることのできない関係となるのです。

 それでは、皆さんの心とは何でしょうか。縦的に天から受け継いだ、すなわち神様の愛と血統を通して受け継いだ、内的な私であるといえます。内的な私、すなわち縦的な私なのです。それでは、体とは何でしょうか。堕落していない、本然の根本理想によって受け継いだ体的な私、九〇度に立った私です。ですからその私とは、堕落していない真の父母の愛と、生命と、血統を受け継いで生まれたために、私は心と体の二つからできているのです。一つは内的な神様を中心とした人格、もう一つは体的、横的な父母を中心とした人格、そして二つが愛を中心として、生命と血統を中心とした男女の混合的な統一圏がつくられる中で生まれてきたので、皆さんは二つの性稟をもっているのです。ですから、神様に似ているのが心なので、心は内的な私なのです。

 宇宙の秘密とは何でしょうか。祈祷してみると、答えは簡単なものでした。父子の関係なのです。その父子の関係とは何でしょうか。普通の父子の関係ならば、堕落した世の中にもあるのです。父親が息子を売り渡し、息子が父親を殺す世の中ではありませんか。

◆堕落とは志操を守れなかったこと

 それでは堕落とは何でしょうか。神様の最も貴いものを盗んだ、悪魔の業です。最も貴いものとは何でしょうか。愛と生命と血統なのですが、これらを汚したということです。ですから歴史時代において、神様が一番嫌われたのは淫乱です。

 ローマはなぜ滅びたのでしょうか。外勢の侵略によって滅びたのではないのです。今日、全世界が滅びつつあるのはなぜでしょうか。淫乱のせいです。悪魔が淫乱をまき散らしたので、世界的に淫乱の風に巻き込まれていく人類の姿となった暁には、鉄槌が下されることでしょう。教団がそうなれば教団が滅び、国がそうなれば国が滅び、誤った歴史の行く手はみな崩れ去るのです。誰がそうするのでしょうか。人がそうするのではありません。国ではありません。神様がそれを嫌われるのでそうなるのです。

 ですから真の宗教を求めようというのです。宗教では何を求めていますか。真の神様です。今まで救いの役事を行ってこられたような神様が、理想的な神様ではありません。教祖を教育し、導かなければならない神様ではありません。「神様は何をなさりたいのでしょうか」と尋ねると、教えたいとは言われません。神様も生きたいのですが、何をもって生きたいかというと、愛を中心として生きたい神様なのです。それが答えです。何の愛ですか。自分と同様に神様の心と体が九〇度に合わさって完全に一つとなった愛です。何が神様の心を統一させるのでしょうか。真の愛です。

 それでは真の愛とはいったい何でしょうか。完全に犠牲となり、一〇〇パーセント投入しても忘れてしまう愛です。神様が今までどうして歴史時代において人間の過ちを見ながらも耐えることができたのでしょうか。世の中の人であれば、すべて抹殺してしまったことでしょう。しかし、愛しているのです。

 真の愛とは何ですか。真の愛は堕落した世界に一つだけ残っています。唯一縦的な基準が残っています。神様に代わる立場で、父母が自分の子供を愛すること、それだけが地上に残っているのです。それゆえ、救いの摂理も可能であり、ならず者の子供も父母の愛の前では変わるのです。

 幸福はどこにあるのでしょうか。皆さんの心の中にあるのです。神様自身も何を中心として生きたいでしょうか。真の愛を中心として生きたいのです。真の愛をもった男女と共に生きたいのです。そうではないですか。父母は子供たちをみな抱きたいでしょう。神様は真の愛をもった息子、娘を、この地でしっかりと抱いて生きたいと思われるのです。

 堕落とは何ですか。堕落とは志操を失ったことです。成長する前に故障したのです。成長したならば神様と共に一体理想を成し、神様の息子、娘となるのです。ところで、堕落とは何でしょうか。僕である悪魔サタンが、王侯と王を打ち立てようとした天地の愛の理想圏を蹂 躙したということです。強奪したのです。

 それゆえ神様が根となり、神様が幹となって神様の愛による愛の花、愛の実を収穫すべきであったのに、これを横的に天使長が蹂躙して入り込み、すべて否定したのです。そうして悪魔の子たちの世の中となったのですが、これは自分を中心とした思想なのです。「ため」に生きるという思想ではありません。私のためにという思想、これは個人主義に通じます。それは地獄行きなのです。

◆真の愛は完全に投入して忘れてしまうもの

 統一教会が世の中の反対を受けながらも、どうして発展してきたのでしょうか。ここに神様の戦略とサタンの戦略があります。悪魔の戦略とは打って、殴っては失ってしまう戦略です。損害賠償しなければならないのです。神様の戦略とは、打たれて奪い返す戦略です。ですから歴史上の善なる人は、打たれた基盤の上で、悪魔の世界を奪い返すということをしてきました。

 打たれるというのは何を中心として打たれるのでしょうか。サタン世界の人は、すべてを否定するのです。国の忠臣も、宗教の聖人の教えも、否定するのです。どうしてでしょうか。それは、サタン世界の人々の救いのために必要なものだからです。本来、宗教は必要ありませんでしたが、それは故障したがゆえに立てられた病院なのです。

 ですから、各宗教に再臨思想があるのです。キリスト教でいうメシヤとは何でしょうか。偽りの父母が現れ、偽りの根を植えたので、真の父母が現れ、幹と枝を新しく接ぎ木するということです。接ぎ木をすることによって、堕落していない神様の愛の圏内の父母をもったという条件を立てて、これを再び収拾するというのです。そのための方策としてあるのが宗教機関です。

 知ってみると、そういうことなのです。本来先生は、キリスト教を信じていませんでした。私の両親はキリスト教を好んではいませんでした。なぜ、イエス様だけが救い主なのでしょうか。イエス様よりもましな救い主もいるであろうに。イエス様は、イスラエルの国を救おうとしたのですが、失敗して亡くなりました。世界の救い主となれなかったのに、どうしてメシヤなのでしょうか。こう考えると、世界の救い主となれなかったので、世界の救い主となるためには再び来なければならないのです。

 先生がキリスト教に関心をもったのは、天地の道理は愛で始まり、愛に帰結するといっているからです。愛が抜けている教理は、おしまいなのです。それゆえ、僧侶も神父も終わりの日には結婚する時が来なければならないのです。

◆悪の世界を本然の世界へと戻さねば

 ここに、神様を中心として四大教祖が集まったとしましょう。その教祖たちに向かって神様が、「お前たちの願いは何か」と尋ねると、答えは同じです。教祖も信徒もそうなのです。誰が私をより愛しているかということです。そうではないでしょうか。聖書を見ると、「誰よりも私を愛さなければ私の弟子となることはできない」とあるのです。のちには、両親よりも、他の誰よりも私を愛しなさいということです。

 偽りの父母が、ここに悪の世界をつくったので、真の父母が来て、悪の世界を殺すわけにはいかないので、これを接ぎ木して本然の神様の愛を中心として善の世界へと戻さなければならないのです。縦横の神様の愛を受け継ぎ、心と体が統一された父母の血肉を受けて私の体が統一されたならば、悪魔の活動基地はなくなるのです。心と体が一つとならなければ、そこに該当する分野は悪魔の領土となるのです。

 地獄と天国が別々にあるのではありません。みな私の中にあるのです。皆さん自身が愛を中心として体を感化し、愛を中心として自分の生命を越えて自らの血統を否定する運動を起こしてこそ、この邪悪でみだらな世の中をきれいに清算することができるのです。

 そのような神様の道理を教えることによって、神様の家庭倫理、神様の氏族倫理、神様の民族倫理、神様の国家倫理、神様の世界倫理が地上に広まるのです。そうなってこそ、地上天国となり、地上天国で生きてきた人がそのまま行くところが天上天国だといえます。知ってみると簡単なことです。

 これを知っていたがゆえに、文総裁は打たれながらもやってきたのです。全世界の五十億人類が旗を掲げて「文総裁をたたきのめせ」と言いました。そうなることを願っていたのです。ところが、なかなかそうはならないのです。そのために受難の道を行くのです。

 宗教から個人、家庭、氏族、民族、国家、世界まで総動員で打ってきたのです。打ちたければ打てというのです。打って倒れない限りは、損害賠償をすべきだということです。天の作戦は打たれて損害賠償を請求し、静かに応酬するという作戦です。サタンは強奪していきますが、殴って奪っていったとしても、結局は失うのです。

 それゆえ、第一次大戦でも、打った側が滅びました。どうしてでしょうか。天法がそうなっているからです。第二次大戦でも、打った側が滅びました。第三次大戦も、思想的に共産党が打ってくるのです。誰を打つのですか。レバレンド・ムーンをです。同じ打つにしても、そのまま転がり落ちてしまえば滅びます。いつ打とうが、中央線で垂直の所をしっかりとつかむのです。打っても、一回りさえすればいいのです。端の方に行って、一回りしようとすれば十年、二十年かかります。

 このように、統一教会が迫害を受けながらも発展してきたことは歴史的な謎ですが、その秘訣は「ため」に生きるというところにあるのです。神様の創造の法度に沿って神様が失ったものを再創造する過程において打たれることがあれば、損害賠償を求めるべきなのです。

 そのような意味で、先生は今頭翼思想を唱えていますが、頭翼思想とは簡単なものです。個人が豊かに生きることを願うならば、皆さんの家庭のために命懸けで生涯を生きるべきなのです。すなわち、「ため」に生きよということです。そうすれば、その家全体を相続することになるのです。

 いくら一番上の孫だとしても、弟や妹を殴ってよこしまに自分のためにだけ生きる者は、流れ去ってしまうのです。どうしてでしょうか。悪魔の系列に属する者だからです。悪魔は自分を中心とします。おごりたかぶりは神様の怨 讐です。

 真の家庭の主人とは、その家庭のために犠牲となり、「ため」に生き、愛する生活しながらも、それを忘れることのできる人です。十年、二十年、老いて死ぬまでそのように生きる人は、主人となるに違いないのです。

◆神様の救いの道の目的

 善が行く道は、愛を通した理想を中心として行く道です。個人的愛観、家庭的愛観が理想ではありません。統一教会の愛観は垂直です。垂直的な愛観をもって、思想的な観を変えなければなりません。垂直的な観を備えた、平衡線的観の愛なのです。九〇度です。これを知っているので、民族を超越し、人種を超越するのです。

 統一教会員は、日本人であれ、アメリカ人であれ、「お前は黒人と結婚せよ」と言えば、これに異議を唱える者はいません。なぜでしょうか。何千年前に失った兄弟を探し出すことだからです。知ってみると、私の兄弟なのです。顔が黒いがゆえにどれほど苦労したかと、抱き締めて泣くのです。号泣から始まるのです。その号泣は一生の間、止めることはできません。何がそうさせるのでしょうか。愛です。真の愛。

 統一教会に行けば、みな気が狂うと人々は言いますね。私は賢明な人間です。世界でずば抜けていると言われる人々に会っては、理論的な闘争に勝って覇権を握った人間です。ですから、世界の宗教指導者たちも私のことを好むのです。多分私が直筆で手紙を書いて送りさえすれば、駆けつけてくることでしょう。理論に合わない教理は、二十一世紀には必要ありません。理論に合わず、現実生活に利益をもたらし得ない宗教は、必要ありません。

 では、何が問題なのでしょうか。神様が国を救うことよりも、家庭を救うことを願われるでしょうか。神様は、世界の救援が目的なので、たとえ家庭を犠牲にしても、神様の民族を探し立てようとされるのです。これを知らなければなりません。

 神様の救援の目的は、民族よりも国家を願われるために、民族を犠牲にさせ、白衣民族を犠牲にさせてでも、大韓民国を独立国家として立てようとなさるのです。そのような神様の国はありません。国家を犠牲にさせてでも、世界を救おうとされるのです。この地上の世界を犠牲にし、永遠の霊界に行ったすべての霊魂を解放しようとします。さらには、神様自身が解放されなければなりません。

 堕落した人類を抱いて生きられる神様も、拘束された神様です。神様の解放まで論ずることができる時代まで行かなければならない宗教の目的地があるのに、ある段階にとどまって個人救援のために山中で祈祷だけしていても駄目なのです。地球上では、毎年二千万人の人々が飢えて死んでいます。十年であれば二億ですよ。

 私たちは、それを知っているので、知っている人が十字架を背負わなくてはなりません。「世界の宗教界において知っている人が、十字架を背負わなければならない」と、こう言いながら四十年の歳月を風雪に苦しんできた男がここに現れたのです。その気迫を見れば、天地を囲っても余るぐらいなのです。

 私が神様のみ旨を知るようになってから、統一教会を犠牲にさせ、万教を犠牲にさせながら世界の救いを唱えてきました。ですから統一教会は、予算よりも何百倍もの多くのお金を投入して超教派運動をしており、宗協運動をしているのです。そして世界舞台では宗教財団をつくり、莫大な資源を投入しています。統一教会の人々の血を売るようなことをしているのです。世界のために投入しなさいというのです。

 神様のように投入したなら蘇生の春が、歓喜の愛の理想を中心として神様が楽しく踊ることのできる本然の理想世界が訪ねてくることを知っているために、このことのためには東で十字架を背負おうが、西で十字架を背負おうが、家の中で十字架を背負おうが、男性が女性についての十字架を背負おうが、人類のために、必ず誰かがそれを背負わなければならないのです。そうでなくては、腐ったくぼみの水がきれいになることはありません。

 私たちがそのようなことをして、そのような世界を発見しました。数十年前、四十年前に、「これこれこのような時代が来る」と言ったのですが、それがみな成されたのです。どうしてでしょうか。よく考えると、そのようになっているのです。なぜでしょうか。真の愛を中心としたものを反対する勢力は折れていくようになっているのです。それが公式どおりに、春夏秋冬、公式どおりにたどっていくのです。

 それゆえ、このような理論的な思想体系を立てるようになったのです。思想は、自分勝手に成るのではありません。個人観、家庭観、氏族観、民族観、国家観、世界観、天宙観、神観、愛観がすーっと直短距離でなければなりません。縦的な神様の愛を中心とした、直短距離の思想を中心とした観を発見するようになれば、すべて終わりになるのです。縦を中心とするために、横線はつくれないのです。「愛が先か、生命が先か」と言うとき、「生命が先である」と言う人がいるかもしれませんが、それは違います。愛が先なのです。「父母が先か、子供が先か」と言えば、父母が先なのです。父母のもとに子供たちが生まれるのです。

 結果が混乱するようになった事実を明らかにするためには、原因を明確に知らなければなりません。統一教会は原因を明確に知って、邪悪で混乱しており、滅びるしかないこの世界を一つの曲がり角で、歴史を通じて世界舞台において収拾している群れなのです。

 興ったり、滅びたりする道は「ため」に生きる道で分かれるのです。そうではないですか。易学の世界においては、自然科学世界では入力と出力を見ると、常に入力が出力よりも大きいのです。しかし、愛の世界では入力よりも出力のほうが大きいのです。愛があることによって、欠けていきつつある世の中が均衡をとることができるようになるのです。他のために生き、犠牲となる基台と、そうしてももっとしたいと思う心をもつ真の愛の伝統を受け継ぐことによってのみ、この世を収拾することができるのです。

 「ため」に生きる道、それは親孝行の愛の道です。忠臣の愛の道です。聖人の愛の道です。聖人の愛は、人類のための愛です。聖者は天地を愛して、天の王宮の法まで守ることができます。神様まで心情的に侍ることができるのです。皆さんは、そのような縦的な位置をしっかりつかまなければなりません。

 聖者の道理と神様の愛の道理を学ぶことなくしては、万教の平和の基準を探し出すことはできません。これが、私たちが今後到着しなければならない目的地ではないでしょうか。

















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