文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


神人思想の完成

一九九〇年一月十九日
韓国の国際研修院 『文鮮明先生み言選集第百九十七巻』


 きょうお話しするみ言の題目は、「神人思想の完成」です。神様と人の思想の完成ということです。

◆宇宙の根本

 一つの「思想」になるには、体系的な内容をもった観を備えなければなりません。個人思想とか民族思想とか世界思想とか、あるいはこのごろの宇宙思想などを挙げてみると、その概念が漠然と離れているのではなく、個人と社会と国家と世界は連関性をもっているのです。このように体系的な関連性をもった一つの観をもつようになるとき、「思想」と言います。

 学者たちは今まで、神様に対しては大慨関心をもってきませんでした。大多数の学者は、帰納的な方法を通して原因を追求する学問的研究をしているために、神様を認めるということは極めて難しいことです。研究していけばいくほど、それが確実になるのではなく、あいまいになるのです。物質界あるいは実存性を認めて探求するのでなく、観念や考える中で認識を通して認めなければならないので、これは最も難しいといえば難しい問題だといえます。

 しかし、宗教人は違います。宗教人は反対に、演繹的方法を通して「神様は存在する」と認め、それを中心としてすべてを観察して解決していくのです。

 今日の科学者は、宇宙は力によって形成されたといいます。こういう話を中心として、「力が先か、作用が先か」と、こういう問題が起こります。作用によって力が出てくるのか、力によって作用するのか、こういう問題を私たちが考えるとき、作用によって力が出てくるというのです。力がある前に作用があります。

 では作用は一人でできますか。宇宙のすべての存在が作用を通して動くのですが、その作用は一人ではできません。必ずそこには、主体と対象の関係が成立しなければなりません。遠心力と求心力の関係のような、そういう環境的条件を必要とします。

 では主体と対象とは何でしょうか。一般的によく知っている話を借りていえば、電気にはプラス、マイナスがあります。そのような主体は、対象があって一つになるために作用をするというのです。その作用をするために、なぜ直線作用ではなく回転作用をするのかというのです。直線作用では、宇宙の生成は不可能です。三点を必要とするところから、あらゆる構造の平面的、あるいは立体的な立場を追求できるのです。

 このように考えてみると、そのすべては球形作用、循環作用をするというのです。循環作用をするのに、それが円形的循環作用をするというのです。このことを考えてみれば、プラス・マイナスの作用が分かります。電気作用を見ればよく分かるように、作用するには必ず循環作用をするというのです。

 ではこの宇宙の根本に入っていき、神様が存在するならば、神様はどのように存在しているのかというのです。こういう根本的なことが問題になるのです。人間は人格をもっています。知情意をもった価値的基盤の上に人格が構成されています。それでは、その神様自体も私たち人間と何らかの関係があるとすれば、必ず知情意の人格的な神様であるに違いありません。このような原因的な存在であることを、私たちは認めざるを得ません。

 ここで神様のもつ思想と人間の思想が二つでなく、分離できない一つのものとして帰結しなければなりません。そうしてこそ、人間世界の理想実現が可能であるだろうし、また神様自体が人間を通して追求しようとするその目的も完結するのです。

◆神様に絶対的に必要なもの

 このように話せば、神様が願い、神様が一番必要とするものは何でしょうか。神様が必要とするものは、私たち人間が必要とする物質的な欲求として登場する経済問題や知識問題、名誉問題のようなものではありません。

 神様は創造の能力をもっているので、物質を自由に手にすることができます。また全知全能なる主体であられるので、知的なすべての要因の根本になるのです。神様は経済万能を可能にできる主体であり、また知識万能を可能にもできる主体であられます。その方にとっては、知識が必要なのではありません。また、絶対者であられるその神様に、物質の絶対性は必要ありません。

 では神様は絶対者なのですが、絶対者が絶対視できるものとは何でしょうか。絶対者である神様は何を中心として絶対的な神様の位置を決定しようとするのでしょうか。神様自体を服従するようにできる何かがあるというのです。

 どんなに立派な名教授だとしても、天真爛漫な、何も知らない子供が知識を探求するのに接するようになるときは、自分のすべてを注いで与えたいと思うのです。純真な、本性に近いそのような姿を目の当たりにするときは、自分自体を投入したいというのです。そのような心が、みなあるのです。

 このように考えてみると、神様御自身も何を中心として絶対的な位置にありたいでしょうか。こういうことは哲学的な世界では議論の対象になり得ません。なぜなら、哲学では神様自体を知らないからです。これは宗教世界でのみ可能なことです。

 今日の既成教会の信仰者は、「神様は公義の審判主である」と考えています。では本質的で理想的なその道を探していくのに、公義の審判主としての権力を行使しながら暮らすことが神様の願うことでしょうか。違います。究極に行って、絶対的な神様自体も絶対屈服できるその何かがあるとすればどれほどうれしいでしょうか。そのように考えるようになります。絶対的な神様自体も絶対的に屈服でき、絶対的に好むことのできる何かがあるというときは、神様自身もどれほどうれしいだろうかというのです。

 自分の現在の立場を固着させるのではなく、移動し、ついていきながら、そこに和合しながら自分自身を同化させようとする、そのようにできる面がなければ、神様自身は作用できません。何かを行使するためには、神様自体も喜べるものがなければならないのです。絶対的に好むことのできるものがあって、それと共にやりとりできるところにおいてのみ喜びを感じられるのです。一人では駄目なのです。

 このように考えてみると、神様自体が極めて喜べる絶対的なものがあるとすれば、それは何でしょうか。正に愛なのです。神様にも真の愛が必要です。

◆神様と愛

 では、神様自体は私たち人間のように耳、目、口、鼻を備えたそのような方でしょうか。それは、私たちがそうだと認めることができます。なぜでしょうか。私たちは第一の存在ではなくて、第二の存在です。第一の存在は原因的存在で、私たちは結果的存在なのですが、結果的存在の私たちが五官をもっているので、神様自体も私たちには測定できないけれど、五官的内容をもっていると見るのです。

 このように考えてみると、神様自体が絶対好むことのできるものが愛ならば、原因的存在が絶対好むことが愛ならば、人間自体も愛を中心として絶対好むことができるそのような気質がなければなりません。そうしてこそ神様と人間の関係において、作用や統合、あるいは融合が起こり得るというのです。そうすると、神様も御自身を中心として絶対的主体になることよりも、神様自体が絶対視できる一つの主体を探そうとするのです。それは何でしょうか。それは絶対的な愛です。

 神様自体も私たち人間と同様に良心があり、体があります。では神様自体において、体と心が何によって一つになるのでしょうか。物質を中心として、お金が恋しくて一つになるのでしょうか。知識が恋しくて一つになるのでしょうか。そのようなものは理想になれません。

 神様自体の体と心が完全統一を成し遂げることができるという時は、それは絶対的な主体性をもったということです。絶対者、神様なるその方も絶対視できる、価値ある内容を中心として一つになるようになれば、それは何でしょうか。絶対的な神様の体と心自体もそこに順応できる内容とは、正に愛です。愛を中心として体と心が一つになるというのです。

 では、皆さんが五官をもっているように、神様も五官をもっているならば、その五官で何をするのでしょうか。愛を探していくのです。絶対的に愛することのできる愛の対象があれば、神様の目は完全に覚まされるでしょう。完全に幸福な目になるでしょう。また、そのようになれば、聞くことも最高の理想的なことになるでしょうし、においをかいだり、味を見たり、触ってみる触感などというすべての五官が理想的なものになるでしょう。

 神様の五官が絶対的に統一されるその基準は、真の愛です。真の愛があるという時は、神様の目がそこに集中し、神様の臭覚、神様の聴覚、神様の味覚、神様の触覚など全部がそこに集約されるのです。神様自体も愛を絶対視したい心があるというのです。神様自体も永遠に絶対的な愛に仕えて、愛と共に暮らしたいという概念がないときは、暮らす楽しみがないのです。

 このように考えてみると、原因的存在である神様も結果的存在である私たち人間と同様に体と心があるのですが、その体と心の統一は真の愛によってなされるというのです。体と心が一つになったその喜びは、私たちの外的五官の喜びを増してくれるでしょう。また内的な五官があるならば、内的な五官の喜びを満たしてくれる要素にもなるのです。

◆神様の理想

 では神様の理想とは何でしょうか。愛を中心として統一された、体と心が喜べる絶対的な立場、絶対的な理想を追求することです。

 愛というものは一人ではできません。必ず相手がなければなりません。神様にとってその相手が、正に人間なのです。現代の神学思想においては、創造主は神聖なものから出発し、被造物は俗なるものから出発したと見ています。しかし、そのように見てはいけません。神様が人間を造る時、いたずらで造ったのではありません。深刻に、自らのすべての精力をみな投入したというのです。

 ここに美術家や、あるいは文学作家もいらっしゃるかもしれませんが、傑作品を作ろうとする時は、自分のすべてを投入するのです。一つの工芸品を作る時においても、心身のすべてを投入するものです。まして、神様が愛の対象を造るという時、その心身全体を投入しないでしょうか。心身全体を投入せずには愛の対象を得ることはできません。神様自身も最大の精力を投入して傑作品を造り、愛の対象とするはずです。

 このように考えてみると、被造物をなぜ造ったのかというとき、根本に行って愛ゆえに造ったというのです。愛の完成のための展開体として、一つの母体を完成できる性稟を展開させたのと同じ構成体が被造世界です。

 鉱物世界もそうではないでしょうか。プラス・イオンとマイナス・イオンが一つになるには、ある原則があります。元素を中心として化学室で研究する人は、どんなに立派な教授だといっても、元素が合わないものはどんなに力を加え、どのようにしても一つにはできません。けれども、自然に相手になるときは、「一つになるな」と言っても自然に一つになるのです。

◆主体と対象の原則

 ですから、完全なものが存在するようになるとき、完全な対象物である相手が生まれるというのです。それが宇宙の原則です。そのような論理を探し出さなければ、完全な神様の対象の存在を形成できません。完全な主体があれば、完全な対象は生まれるものです。電気でもそうです。完全なプラスが生まれれば、マイナスが自然に生まれるのです。

 今日の人類も同じです。男性と女性の数がどのように合うのかというのです。私たちは計算しないけれども、天地の道理において自然に合うようになっているのです。同様に、良心と体が一つになった完全な男性が存在するようになれば、どこかにその相手が現れるようになっています。それゆえ女性と男性の比率を見れば、大体同じだというのです。

 このように考えてみると、被造世界は鉱物世界、植物世界、動物世界がすべて対になっているというのです。それが、軸を中心として球形の運動をしているのです。あらゆる細胞も、すべて細胞核を中心として副体が運動するのです。

 すべての万物は、最高の人間から、級は低いけれども動物の世界まで、対になっています。次元が低い立場のすべての元素も、たとえ級は違って表象の内容は違っていも、全部が主体と対象としてお互いに慕い、和そうという運動をするというのです。

 では人において、なぜ男性と女性が生まれたのでしょうか。人においては男性、女性、動物世界では雄と雌、植物世界では雄しべ、雌しべがあるのですが、これがすべて相対的な基準で成された原因はどこにあるのでしょうか。原因がそうでなくては、結果がそのようにはならないというのです。そのような意味から、「神様は二性性相の主体である」という論理が成立するのです。

 では、主体なるその方が、このすべての関係の世界、被造世界を管理するにおいて、何で管理するのでしょうか。知識で管理するのではありません。既に知識は、みな投入されています。物質の力でもってするのではありません。何をもってこれを調整するのでしょうか。同じです。愛をもって調整するというのです。

◆神様と人間が願う理想基準

 神様が私たち人間始祖を造られたのは、いたずらをするためとか、何か業をするためではありません。愛ゆえに造ったというのです。愛の属性は、いかなる内容をもっていますか。私たち人間社会で見れば、愛には相続権があります。皆さん、そうではないでしょうか。愛の関係を結べば男性のものは女性のものになり、女性のものは男性のものです。愛の関係を中心として考えてみると、父母のものが息子のものになり、息子のものが父母のものになるのです。

 「親子一身」という言葉も、愛を除けば成立しません。そこには愛と生命と血統が連結しています。この三つの要件が必要なのです。

 では、愛と生命を引き離すことができるでしょうか。私自身を見ると、私にも愛があります。「愛はどこから来ましたか」、「どこから来るかなんて、どこから来ますか! 根源から来たのではないですか」、「君、どこから生まれたのですか」、「お母さん、お父さんから生まれたのではないですか!」、「そのお母さん、お父さんはどこから……?」、「愛と生命と血統から」、こういう問題が重要です。これは宇宙の根本問題です。

 神様と人間が願う理想基準がどのようになっているのかといえば、愛の問題を中心とするのです。愛が行くところには生命がついていくものであり、生命が行くところには血筋がついていくものです。それは何かといえば、血筋が連結されれば生命が躍動するものであり、生命が躍動するところには愛が存在するようになっています。それで「血は水より濃い」と言うのです。

 では、神様の願う最高の理想的基準は何でしょうか。愛を中心として相対理想を成し遂げることです。神様が万物を創造した時、その創造は何を基盤としたのでしょうか。神様自身が愛の主体だというのです。神様自身が生命の主体だというのです。それを肉では感じることができないけれども、皆さんが霊界に対する体験があれば分かるでしょう。神様自身も愛と生命と血統をもっているというのです。

 では神様の愛と神様の生命と神様の血統を一時に衝動させることができて、一時に激動させることができて、一時に最高に同化させることのできる力とは何なのかというと、権力でもなく知識でもありません。それは真の愛の力です。

 今日堕落した人間の世の中は、皆さんが御存じのように現世の何をもってしても収拾できません。主人がいないというのです。世の中は故障した世界です。その何かが誤っています。誤ったそこにも、その誤った中にも根源的な内容が一つ残っているというのです。それが何かといえば、父母の愛です。

◆真の愛とは

 神様が愛の主体ならば、その主体がもっている愛は相手のための愛です。今まで神様と人間の理想が実現されませんでした。それが現実の実践の場で実現していたなら、神様と対等な資格を備えた偉大な人物が出てきたでしょう。

 ところが今日、人間の世の中は、故障した世の中です。何かが間違っているというのです。その内容が何なのか今までは分かりませんでしたが、何かが間違ったのです。故障しましたが、根源的な一つ残った内容が何かといえば、父母が子のためになす愛なのです。これが人間世界において、天の世界と関係を結べる、残った最後の思想です。それが父母が子のためになす愛だというのです。父母が子を愛する愛は、無条件的な愛です。与えても与えても忘れてしまう愛、愛しても愛しても忘れてしまう愛、これが父母の愛なのです。そうではないですか。

 父母が子に対していつ何々を買ってあげたなどと手帳に書いておいて、総計を出し、子が成長してから利子をつけてもらおうと思いますか。そうはしません。自分のすべてを投入するのです。体と心を投入しても惜しくありません。自分のすべてをそこに投入しても惜しくないというのです。

 そういう力がどこから来たかというのです。根源的な内容にそのような力がなければ、出てくることはないのです。それが一世代だけではありません。数千、数万世代の人類歴史を経てきながらも変わらない愛の作用が続いてきたのです。そのようにしてきた動機の存在が、正に神様なのです。

 その愛が真の愛です。人間世界で見つけることのできる、父母が息子のために本当に愛する、その愛です。それは与えて忘れてしまう愛です。千回、万回与えても忘れてしまう愛です。投入してもまた投入したいのです。それゆえ、青少年が思春期時代に愛する相手に会うようになれば、自分の全部をあげてもまたあげたいのです。すべてはたいてあげても、また与えたいのです。根源的な愛が芽生えるようになれば、そのような作用をするようになるのです。

 そのような作用が人間の世の中に根としてまだ消えないで残っているために、神様が天を訪ねていけるように磁石のように方向を悟らせるので、良心はいつもより善良で、より良く、より真実なことを追求するのです。本来の根源的なその作用が絶えずあるので、そのような作用が続くのです。

 このように考えてみると、神様が真の愛の対象としてすべての被造世界を造る時、その根本的な精神は神様御自身を一〇〇パーセント以上投入することでした。そのような精神的起源から、思想的起源から被造世界を造ったというのです。

 信仰者は祈る時、「天のお父様!」と言います。それは先祖の時から信じてきて、習慣的に言っている言葉ではありません。「お父様」という言葉は、血統が連結すると同時に生命が連結していて、愛が連結しているというのです。これはどの時代も同じです。数千、数万代が過ぎても、親子の関係には血統が連結していて、生命が連結していて、愛が連結しているのです。

愛と生命

 ではここで見ると、生命が先ですか、愛が先ですか。根本価値的な絶対的基準をどのように立てるかという問題について考えてみると、生命が絶対的ですか、愛が絶対的ですか。神様においても絶対服従したいのが「最高の真の愛だ」と言えるので、愛が一番です。神様も愛を中心としては、永遠に服従しながら生きたいというのです。

 それゆえ、真の師とはどんな人でしょうか。月給をより多くあげるというところに行こうと考えるなら、それは偽物です。真の師は、自分のすべての知識を与えても忘れてしまうのです。

 「私に世話になって、みな習って弟子になったのだから、年頭になったらあいさつをしに来るべきなのに、なぜ来ないのですか」と、(私の価値を)知ってくれと言うのは、「欲しい」と言うことと同じです。真の師はすべて与えても心が満足せず、与えてはまた与えたいと思うのです。研究して、いつも与えようとするのです。

 それでも自分の研究が終わらない時は、「私がしようと思う話はみな話したけれども、まだ終わっていないので、君が代わりに私の仕事を続けてこの深いみ旨のために努力する弟子になりなさい」と言えなければなりません。そういう師が真の師です。結局、すべての愛と生命と血統と若さを投入できるそのような道を行く人が、真の師なのです。

 真の夫も同じです。愛しても愛しても忘れてしまいます。十年の間、その人のために与えても忘れてしまうのです。一生の間、五十年、あるいは七十年、八十年の間、老いて死ぬほど愛しても忘れてしまう夫です。一生の間相手のために生き、愛しても、もっと相手のために生きたいし、もっと愛したいと思う、そのような夫が真の夫です。

 真の妻も同じです。このように愛で結ばれた夫婦は、生命を投入できなければなりません。愛が生命を連結させることができるのです。生命が愛を連結させるのではありません。愛ゆえに生命が連結されるのです。

 また、お父さん、お母さんの生命が合わさって、血筋を通して私が生まれたのです。生命が動くことによって、血統も一つになるのです。皆さんもみなそうではないですか。父母の中で、お父さんの血筋だけを受け継いだとは考えないのです。父母の血筋を受け継いだというのです。

 では、父母の血筋だけ受け継いだのですか。父母の生命と愛も受け継いだのです。これが一時に動員できるものとは何でしょうか。生命だけでは駄目です。力のある男性と力のある女性が二人で、「私たちが生命をもって愛を激動させることができ、血筋を受け継ぐことができる」と言えば、生命がそこで動きますか。そこには、連結させることのできる根がありません。連結されないのです。

 しかし、どんなに大きい図体の男性と女性だといっても、愛が芽生え始めれば自然に運動が起こります。何が運動させるのですか。生命が運動をさせるのでなく、愛が運動をさせるのです。

 それでは、真の家庭とはいかなる家庭でしょうか。おじいさんは孫のために自らの生命を投入しても忘れてしまうことができ、おばあさんもそのようにでき、夫もそのようにでき、妻もそのようにでき、孫もそのようにでき、すべてがそのようにできる家庭が、真の家庭です。それで古語に、「家 和 万事成」と言いました。その「家和して」という言葉は簡単ですか。おばあさん、おじいさん、お母さん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘といえば八人なのですが、八人が何をもって和しますか。

 この全員が絶対視できる、お母さん、お父さんも、おばあさん、おじいさんも、妻と夫、息子も絶対視できる、それを破れない絶対的中心は何かというのです。おじいさんの心も動かせて、全員の心を動かせるのが真の愛です。真の愛を中心とするところにおいて、家和して万事成るというのです。

◆神様の思想

 では、神様の思想とはいったい何でしょうか。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体なるお方です。神様が絶対的なお方であるがゆえに、私に伝授されたその愛も絶対的です。私に伝授された生命も、たった一つです。誰にも侵犯できません。神様が引き継がさせてくださった血統も、ただ一つです。宇宙全体と対応して対置できるこういう驚くべき一つの価値的内容を、自分自身がもっているというのです。愛の力がどれほど偉大かというのです。

 そして、皆さんの中にある生命は誰に似ていますか。全権的な神様に似ています。皆さんの中にある血統が誰に似ていますか。神様です。血統は神様の命の綱を調整できます。それゆえ皆さんが血を見れば、はっと驚くでしょう。それは根本からわき出てくる、ある源泉があるためです。

 では、人類始祖は、神様が喜べる男性と女性になりましたか。なれなかったというのです。私たちの人類始祖が神様の愛を受け継ぎ、神様の生命を受け継ぎ、神様の血統を受け継ぐべき親子関係の立場をなぜ失ってしまったのかというのです。これは深刻な問題です。

 では、皆さんにおいて真の愛はどこにありますか。「私にある!」と言える自信がありますか。木があれば、その木の葉は全部違います。葉は違うけれど、その葉の細胞一つに根もあり、幹もあり、みなあるのです。それを持っていって植えれば、ただそのままで繁殖するのです。

 では、神様が私たち人間を理想的な相手として造ったと言いますが、どうしてその存在がこういう姿になったのでしょうか。植物も細胞繁殖が可能なのに、神様が人間の真の真理の核をどこでも繁殖し、拡大できる内容をもってなぜ造れなかったのでしょうか。

 創造自体は愛のためのものです。その愛自体は一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント投入しなければならないのです。知識の王としていらっしゃる神様が、理論的なすべての結果がどうであるということをみな打診できるその方が、天地創造の起源に対して人間がどんな論理で抗議し、反駁するだろうということを御存じである神様が、そこに引っ掛かるようになされたのでしょうか。

 知識の王なる神様は、創造当時に愛の対象を創造するために一〇〇パーセント、一二〇パーセントを投入しました。御自身のすべてを完全に投入なさいました。聖書では、「神様が言葉で創造された」と言うのですが、その話は骨と肉、すべての精髄を投入したということです。

 そのようにすることによって、神様は完全に高気圧的な立場に立っていて、完全に真空状態に、真空度何百度の真空状態に入っていくのです。その相手の前に最高の高気圧圏をつくってやろうというのです。すると循環運動をするようになります。二つが循環するには、中央を通じて循環しなければなりません。直線で運動しては、共存圏というものがなくなります。

 このように、神様は一〇〇パーセント以上投入したのです。それで真空状態になることによって、自然循環するのです。神様は、「私が絶対者だから、君たちは絶対的に服従しなさい!」と言う方ではありません。その愛の内容は、完全投入です。「ため」に生きるところから出発したのであって、「ため」に生きなさいというところからは出発しませんでした。この「ため」に生きなさいという概念を、誰がもってきたのかというのです。これが問題です。

 例えて言えば、皆さんは心をもっているでしょう。良心があるのです。皆さんの良心は、「かわいそうな人をみんな助けなさい」と言います。韓国人に一億ウォンずつ分けてあげたとしましょう。すると良心は、「韓国人だけでなく、北朝鮮の人にまで分けてあげなさい」と言うのです。本然の良心は偉大だというのです。このように良心は、絶対基準に立っているのです。

 また、大韓民国の国民にみなあげたなら、「あちらの北方にいる中国人にあげなさい」と言うのです。中国の十二億の人にみなあげたなら、また「あちらのアフリカでは一年に二千万名が飢え死にしている!」と言うのです。事実がそうです。一日に六万名が死んでいくのです。それを神様が御覧になって、「お前はよく食べて、お前は死ね」と言うでしょうか。水のように、高い所にあれば下りていくのです。空気も多くある所から、少ない所に行くのです。それで均衡、平均をとらなければなりません。それが、道理の尋ね求める道ではないのかというのです。このように、平等を必要とするのです。

◆宇宙の作用

 先生は今まで、どのようにして発展してきましたか。先生はサタンをよく知っています。皆さんはサタンが何か知らないでしょう。また、神様を誰よりも先生はよく知っています。歴史始まって以来神様を誰よりもよく知り、サタンを誰よりもよく知っている人は先生しかいません。サタンの秘密、神様の秘密をすべて知っています。誰かがこれを発見する前まで、人間世界には解放がありません。

 堕落しなければ、どのようになったのでしょうか。この体が神様の家です。コリント人への第一の手紙第三章を見れば、「あなたの体が聖殿になったことが分からないのか」というみ言があります。聖殿です。堕落していない本然の真の愛を通じて、心と体が完全に一つになり得るその立場に立ったなら、体と心が完全に共鳴するのです。共鳴、知っているでしょう。周波数が同じになれば、片方を鳴らすと他の片方も一緒に鳴る、共鳴体になるのです。

 この体が共鳴体になるのは、お金では駄目です。権力でも駄目です。知識でも駄目です。真の愛がなければなりません。真の愛は、鳴るようになれば永遠に共鳴するのです。それで釈迦は、「天上天下唯我独尊」と言いました。真の愛の境地に入ってみると、体と心が共鳴するその焦点の間に入っていくと、天地がみな見えるのです。その境地に入っていくと、一つの焦点の中で神様が一番奥にいらっしゃるというのです。

 では、先生が一つ尋ねます。病気になればどうして痛いのですか。神経が刺激されてそうなるのです。神経が刺激されて、やりとりする道がふさがったがゆえに病気になったのであり、病気になったために痛いのです。その何かが追い出します。

 また電気についていえば、天気が曇ればプラスの電気、陽電気が追い出されるのです。そうして陰電気が動員されて、天から雷が落ちるのです。電気の原理において、プラスとプラスは反発します。マイナス同士も反発します。では、何億ボルトものプラス電気とマイナス電気が一度に集まるのでしょうか。違います。プラスならばプラスの電気がすべて合わさって、大きくなるというのです。それは電気原論によって、そうなります。

 宇宙は相応・相反作用をもっています。今までは相反作用を悪いことだと思ってきました。しかし、そうではないのです。相反作用を保護の論理としてどのように消化させますか。歴史を変遷させることのできる論理が、そこで形成されるというのです。

 プラスとプラスが「和そう」とする時、合わさらなければなりません。マイナスとマイナスも合わさらなければならないのです。そうでなければ、何億ボルトがどこから出てくるのでしょうか。一度には出てきません。ただ、条件が何かといえば、プラス電気がマイナス電気と相手を決定した時に限って、プラスはプラスと反発し、マイナスはマイナスと反発するのです。それは相手を保護するためなのです。

 例えば男の友達が十人いて、女の友達も十人いるとすれば、相手が決定していないときは、男十人の友達はみな合わさることができます。同じ理論で、女性も十人の友達全員が自由に合わさることができます。しかし、男性十人の友達の中で一人の友達が、自分のマイナス的な相手が決定すれば、九人の友達に「来い」と言いますか、どうですか。一つの布団の中で毎日のように寝ていた友達にもかかわらず、お嫁さんを一人迎えたその次の日からは、友達が来ることを嫌がります。「誰々!」と言えば、「あ、どうしたの」と変わるのです。反発するのです。

 同様の理論です。宇宙は、相対理想を必ず保護するようになっています。主体と対象が生じてやりとりできる圏内に入っていけば完全保護です。宇宙の原則がそうです。それゆえ先生は仕事をするとき、血、汗を流してするのです。私が完全なプラスの立場で、完全投入するのです。そうすれば、相手が生まれるのです。

 神様がそうだというのです。今まですべてを創造する時に、神様が完全な主体の立場で完全投入されたがゆえに、創造されて出てきたのです。いつの日か、神様にとって人間が完全な相対になる時、愛の雷が落ちるだろうというのです。神様も愛を好むために、そのような日を待っているのです。雷が落ちれば光ります。また雷は鳴ります。それが何であるか知っていますか。雷を鳴らすのは自然の結婚式です。自然が愛する音です。

 人間も同様だというのです。男性、女性も愛する時、どうですか。三代が一つの部屋で愛する声が町内に響き、天地が振動し得るそういう真の愛で愛するようになれば、神様が「喜ばしい」と言って踊ることができるというのです。三代が一つの部屋で愛しながら「楽しい」と言える、統一したそういう家和して万事成るの要がつくられる時、神様が踊るというのです。

◆宗教は堕落した人間の再生工場

 皆さんはそのようにできる自信がありますか。ですから、私たちは救われなければなりません。故障したというのです。再び再生工場に行かなければなりません。宗教が再生工場です。そうするには絶対服従しなければなりません。神様が餅を作ろうが、石を作ろうが、目を作ろうが、鼻を作ろうが、それに不平を言ってもいいでしょうか。すべて炉に入って、瓶の中で一度溶けなければなりません。

 そのような面で、「先生がそういう代表的な人間だ」と言ったとしても、皆さんが「そうではない」と言える材料がありますか。世の中がみな「違う」と言うことを「そうだ」と言って、今では先生が「来るな」と言っても訪ねてきて、門の前で敬礼するようになりました。それは、先生がそうさせたのではありません。宇宙がそうさせるのです。「お前が滅びたくなければ、神様が愛する文総裁、主体の前にマイナスの要素で和合しなさい! そうすれば宇宙が保護する」と、そう言うのです。

 では、病気になって痛いというのはどういうことでしょうか。神経系や血管がうまくやりとりしなければならないのに、その道がふさがったのです。完全に主体と対象が一つになって循環軌道を備えるようになる時、宇宙が保護するのですが、それが欠如しています。欠如しているので激しく押すのです。「あなたは不合格者なので、この宇宙の共存法に和合できない」と追い出す力が、痛みとして現れるのです。投薬が、その道を開いてくれるのです。そうすれば再び循環するのです。

 それゆえ、反作用は悪いことではないのです。今日の科学者は相応・相反関係において、相応・相反を反対の概念と見ますが、そうではありません。主体・対象圏を備えたすべてのものは、和合するようになっています。そのような論理によって、先生はどこかに行って話す時、すべての最善を尽くします。そうすれば、必ず事は成し遂げられるようになっています。完全なプラスが存続するところには、完全なマイナスが現れるものです。さらに、愛の理想をもって行動する時には、一〇〇パーセント現れます。神様の愛の配給をもらって食べて生きるということより、神様の愛を配給してあげながら暮らすこと、それはどれほど素晴らしいことでしょうか! 神様が愛する人がいれば、その愛する人が自分よりももっと優れていることを願うのであって、劣っていることを願いますか。皆さんが結婚する時、自分の相手が自分より優れていることを願うでしょう。また、父母は息子が自分より優れていることを願うのです。それが人間の本性です。

 私たちの人生もそうです。自分のために暮らす人は去っていくのであり、公的に暮らす人は残るのです。個人よりも家庭がより公的であり、家庭よりも氏族がより公的であり、氏族よりも民族がより公的であり、民族よりも国家がより公的であり、国家よりも世界が、世界より天宙が、天宙より神様、神様より神様の愛がより公的です。神様の愛のために暮らす人は、すべての人間の法と天上世界の法を超えることができます。それは死亡圏を支配できます。

 先生は死ぬ、生きるということを問題としません。ここのこの世よりも、あの世の霊界をはっきりと知っているので、どこに行くのか知っており、すべて知っている世の中であるゆえに、死を恐れません。それで、大きなことをしてきたのです。

◆堕落の根源

 歴史は、蒔いたとおりに収めるのです。人類歴史は、堕落に始まりました。その堕落の内容が、正に愛を蹂躙したことです。神様とこの宇宙が一番重要視する愛と生命と血筋を、悪魔が蹂躙したのです。

 アダムとエバが堕落したのちに、下半身をなぜ隠したのですか。そのような問題をキリスト教では知らずにいます。神様が、なぜアダムとエバを追放してしまったのでしょうか。愛の対象として造られたのに、どれほど重要な問題があって追放してしまったのでしょうか。その愛は、ひとえに神様を中心とした愛でなければなりません。

 アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式です。神様は縦的な父母です。縦というのは一つの立場、一つの点しかありません。神様は横的にすべてなすことはできません。縦的な基準で連結させる人がいなければなりません。神様と人間との縦的な愛は、最高の直短距離を通らなければならないのです。それは垂直線です。この垂直線を中心として、人間が成長して家庭を成し遂げなければならないのです。男女の真の愛も垂直線しかないのです。九〇度の角度で対を成さなければなりません。

 皆さんが知るべきことは、球形世界の最高の高い位置がどこかといえば、中心点だということです。表面で一番高い位置はどこかといえば、中心点です。皆さんはみな中心存在になりたいでしょう? 何を中心として? 球形の理想圏を中心としてです。理想は、球形のことをいいます。それは天地創造の本然の理想です。

 その中心の中央に神様が臨在なさるのです。縦的な愛と横的な愛が合わさって、愛の核が相対的人間と一つになって爆発し、愛の一体性、縦横の一体性が繰り広げられるのです。縦的な生命体と横的な生命体である神様と私たち人類の先祖の生命の一体点、神様の血筋と私たち人類の善なる先祖の血筋が結合できる一体点がそこです。その点は一つしかありません。ところが、悪魔の血を受けたというのです。

 それで、歴史は植えたとおりに取り入れるために、淫乱で堕落したがゆえに、終わりの日には一人の女性が十二人以上の男性を相手にするのです。また、一人の男性が十二人以上の女性を相手にする時です。方向を失ってしまいました。中央で方向を示さなければならないのに、何度何分なのかも分からないのです。どこに行っているのかも分かりません。このような混乱した世の中になってしまいました。

 ローマがなぜ滅びたのか知っていますか。淫乱のためです。それが理想を破壊した根源であり、命を破壊した根源であり、血統を蹂躙した根源です。

 悪魔は神様の愛を中心とした姦夫です。これは、先生が発表した歴史的な宣言です。堕落した後孫である皆さんの血筋には、悪魔の血筋が連結されています。悪魔の生命と悪魔の愛の起源をもっているのが、堕落した人類です。これをどのように清算するかというのです。それゆえ、メシヤが来なければなりません。

◆堕落の血統を清算しようと思えば

 皆さんは、お父さんから生命が連結されました。ところが、間違ったお父さんに巡り合ったのです。サタンがお父さんになって全部汚してしまったので、真のお父様が来なければなりません。これがメシヤ思想です。神様と一体になった男性が来なければなりません。悪魔の根、天使長の根に連結したすべては、神様と永遠に生きるには何ら関係がありません。

 それで宗教を立てて、その法を見分けていくのです。体を打たなければならないのです。断食、奉仕のようなことをすべてしなければなりません。体を打つのは、体を弱くさせて心の命令に順応できるようにするためなのです。また、もう一つの方法は精誠を尽くすことです。修行して精誠を尽くし、心の力を何百倍強く投入しなければなりません。この方法しかないのです。

 宗教を信じながら、肉的に満足して生きようというのは偽者です。体を打たなければなりません。そのようにすることによって、悪魔の血を取り出さなければならないのです。悪魔の生命体、悪魔の愛の体を取り出さなければなりません。

 それで、人類を神様が直接干渉できないのです。自分が愛していた恋人を奪っていって子供を生ませた者を訪ねていって、悪魔の側で愛せますか。これは空言ではありません。それゆえ、ローマも淫乱で滅び、多くの先進国も淫乱で滅びていくのです。

 これを誰が清算しなければなりませんか。汚した血統を誰が清算しなくてはなりませんか。これが六千年歴史の宿命的な課業です。誰がこの誤った血統を正さなければなりませんか。人生は、本来から苦海ではありません。堕落していなかったならば、人生は幸福に連結されていたでしょう。しかし、誤った愛の原則を中心とした、悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血筋を引くことによって、嘆かわしい怨恨のくぼみに落ちてしまったのです。ここから抜け出さなければなりません。そうしようとすれば、切ってしまって接ぎ木をしなければなりません。「元のオリーブの木になれ」と言ったのに、野のオリーブの木になってしまったのです。アダムの根から、アダムの愛から、真の愛を通して一つにならなければなりません。

 サタン世界で愛することよりも、神様をもっと愛さなければなりません。これが先生の生活哲学です。今までの愛国者の残した愛以上に国を愛せというのです。ある孝子の残した孝行以上に父母に孝行しなさいというのです。聖人が残した以上に世界のために生きなさいというのです。イエス様ができなかった神様に対する愛以上に神様を愛せというのです。そうでなければ神様と関係を結べません。なぜなら、悪魔の血筋で汚された実績をもっているからです。

◆神人の理想完成の立場

 こうして四大宗教が統一宗教として連合すべき時であるにもかかわらず、自分の宗派を中心に流れていっています。これでは歴史性に対置する主体性をもてません。世界が一つになるべきなのに、闘ってもいいのかというのです。そのような意味で、先生が統一宗教を主張することは偉大な発言です。ですから、これらを合わせなければなりません。何を中心として合わせなければならないのでしょうか。本然の愛、本然の生命、本然の血筋を中心としてしなければなりません。

 それは誰の力でもってでしょうか。神様とアダムの力をもってです。神様の愛とアダムの真の愛、神様の真の生命とアダムの真の生命、神様の真の血統とアダムの真の血統を通して接ぎ木をすることで、すべて終わるのです。

 根は神様とアダムの根なのですが、ここに悪魔の根を入れたのです。ですから、それを切ってしまい、真の父母の本然の真の愛と、真の生命と、真の血統を中心とした枝を接ぎ木することによって、本然の世界の基準で和するのです。

 天地を見分けていける最後の人間として、「神人思想の完成」の立場を、何でもって手にできるのでしょうか。そうするには愛がなければならず、真の生命が汚されてはなりません。浮気をしてはならないのです。万世の人類に純潔な血筋を残し、神様の愛が垂直線で通じることのできる完成した個人、家庭、氏族、一国を夢見ながら成し遂げなければなりません。万国がそういう立場に立ってこそ、地上天国と天上天国の合徳時代が来るのです。

 それで各自の心の中に生活の中心の神様、すべての再創造に協助できる神様として侍ることができるように忠告するのです。「ため」に生きる愛においては統一的原理が展開します。アダムとエバが神様を互いに自分のものにしようとすればけんかが起こりますが、「私が神様をまず自分のものにしようとするのはあなたのためなのであり、私が家庭の貴いものを手にしようとするのは、私たち家庭のためなのである」と言うようになれば、睦まじくなるのです。同じなのです。

 皆さんが世界において、「この宇宙で一番貴いもの、真の愛、真の生命、真の血統を私たちがまず自分のものにしなければなりません。それらを私たちがまず手にするのは、世界のためにである」と言えば、世界の人がみな歓迎するというのです。「ため」に生きる愛を中心としてこそ、神様も統一点を合わせることができるのです。

 皆さんが国と世界を生かそうと一つになって「ため」に生きるようになれば、できないことがありません。ですから、「ため」に生きる皆さんになって、ぜひ皆さんの千万代の後孫を中心として、称賛を受けられる皆さんになることを繰り返しお願いしながらみ言を終わります。
















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