文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


真の統一と一つの世界

一九九〇年三月三十日
アメリカ・ニューヨーク 『文鮮明先生み言選集第二百一巻』


 「統一」という言葉は、身分の高い人も低い人も、善なる人あるいは悪なる人も、誰しもが願っており、人類が存続する限り、永遠に残る言葉です。また統一は、人間はもちろん、すべての万物と神様までも願われることです。

◆統一は真の愛を中心として成される

 人間世界での真というものは、変わるようになっています。今日哲学思想界に指折りの有名な大家がたくさんいますが、弟子たちはいつも師を踏んでのし上がろうという欲望をもっています。人間がもっている欲望は、どれほど大きいでしょうか。人は神様までも、「あっちへ行け、そっちへ行けと命令できる私になりたい」という不可能に近い欲望をみなもっています。それは東洋人だけでなく、西洋人も同じです。

 このように、欲望の限界の分母はみな統一されています。学校の職員は校長になりたがり、大学の職員は大学総長になりたがり、国民は大統領に、宇宙の一員としては宇宙の中心者である神様の代わりになりたがるのです。こういう欲望の方向性があることを否認できないのが現実です。それでは、このように大きな欲望をもった人間が、探し求める本物の真とは何でしょうか。男性にとって本物の真は女性であり、女性にとって本物の真は男性です。そして、神様にとって本物の真は完成した人間であり、人間にとって本物の真は神様です。それで人間と神様との関係の解決は、あらゆることの解決の根本となるのです。

 なぜならば、真の男女を通じてのみ統一的な真の愛を見いだすことができ、神様と人間も真の愛を中心として統一を成し遂げることができるからです。真の愛を中心として、男性と女性の絶対的価値があります。真の愛は、生命を捨ててでも服従しようとするのです。絶対的神様も真の愛を絶対的価値の中心として、最高の貴い立場に立てておかれたのです。神様も真の愛の前では、絶対服従しながら生きたいのです。

 「愛」という言葉は、一人で成し遂げることはできません。相対的世界に愛を立てるためには、絶対的な神様までも愛をより絶対的な立場に立て、その愛を中心として生きたいと思わなければならないのです。こういう観点がなければ、与え受ける相対理想世界はなかったでしょう。

 結婚とは、男女の絶対価値である真の愛を横的にして絶対服従して生きながら、神様の縦的な絶対価値である真の愛を占領するためのものです。横的人間の愛を通して、神様の縦的愛を占領しようというのが結婚です。

 人間はなぜ生まれたのでしょうか。そこには原因と目的、創造理想があります。神様の天地創造の理想があるのです。心底愛する妻を、何千億ウォンと交換できるでしょうか。「天地と神様までもすべてあげるから、あなたが心から愛する夫と換えよう」と言われて、交換する妻がどこにいるでしょうか。

 人類歴史について見ると、人生観、宇宙観、神観などすべての問題は、真の男性と真の女性が、神様の真の愛を中心として絶対に統一されるところで解決されるのです。これが絶対価値の根源地なのです。神様も絶対価値が必要だというのです。このようなものがなければ、「神様も悲しみと苦痛を感じる」という論理を立てることができないのです。

 人間の欲望の限界線を定めることのできる存在が、この宇宙にあるだろうかと探してみましたが、それは真の愛以外にはありませんでした。

 今まで誰もそのような天機(注:天の機密)に対して知る人がいませんでした。初めてこの時代に先生が現れて発表することによって、博物館にもなく、図書館にもなかった天国のものが出てきたのです。神様が知り、サタンが知り、それから第三の人物として先生が知っているのです。そのほかには誰も知らないのです。ですから、歴史的宣布です。

 先生の教えは、救世の真理です。人類が永遠に必要とする真の愛は、生命のみ言です。再臨主が世の中を救おうとして来られるなら、鉄の杖で審判してはなりません。殴っては、ただの一人も永遠に屈服させることはできないのです。親不孝な子でも、自分のために苦労して手がひきがえるの手ようになって縮んで開かないほどになった母親の手とともに、流れる愛の涙の前で蘇生できる道があるのです。

 審判の大王であり、天地を思いのままに主導する神様であっても根真の愛なくしては天宙統一は不可能なのです。真の愛のためには、困難は問題にはなりません。私の生命を投げ捨ててでも進める力が、真の愛にはあるのです。

◆神様の戦略戦術とサタンの戦略戦術

 今まで人類歴史を見ると、多くの人が真の統一と一つの世界を尋ね求めてきたし、天も真の愛を探そうと苦労されてきました。しかし、どうして真の統一と真の一つの世界と真の愛をもった人がいなかったのでしょうか。それは、人間の堕落によるためです。真の統一の動機は、私の妻、息子、娘、親戚、国家、天地、このように相手側にあるのではありません。自分自身にあるのです。

 歴史を通して見ると、神様の戦略戦術と悪魔の戦略戦術は正反対です。神様の戦略戦術は打たれて損害賠償を請求して進んでいく作戦ですが、それに反してサタンは先に打っても奪われていくのです。

 天は奪われたといって、それを殴って奪い返そうとするのではありません。主人として堂々と出ていって打ち、奪い返せる能力の持ち主でありながらも打たれるのです。父母が打たれながら、親不孝の子を悔い改めさせる道を行くのと同じことです。天理の公道を立てるために、神様自らが静かに訪ねていかれ、「主人が来たら、これこれこのようにしなさい」と教えてあげたにもかかわらず、サタンは讒訴するのです。教えてあげようとして行った主人が、むしろ打たれるというのです。しかし、打たれれば損害賠償までも受け取ってくるのです。

 歴史を見ると、孔子も当時は「喪家の狗」と言われていましたが、歳月が過ぎてから「聖人」と言われるようになったのです。生前に聖人になった人が、誰かいましたか。イエス様はいかなるお方でしょうか。ローマ帝国から反乱罪で追い込まれて亡くなった方です。このように、彼らはその時はみな悲惨に死んでいきましたが、歴史を経ながら次第に上がっていったのです。損害賠償を請求するには「十年、二十年の間に終えてくれ」とは言いません。期限が長ければ長いほど、世界を完全に包囲するのです。

 数千年間、耐えに耐えて損害賠償を全部計算すれば、銀行に預金したお金が利子を生み続け、のちにはその銀行まで買っても余り得るお金になるのと同じです。

 神様は待ちながら訪ねてこられる方であり、打たれて奪ってくる戦術を使われる方です。お兄さんが博士で、どんなに権威をもっていたとしても、障害をもった弟にふざけてげんこつを与えたとしたら問題になるのです。

 悪なる世界は全面的に破壊すれば、天運が助けてすべて越え、跳躍させてくれるものです。神様は、先生にそのような体験をするようにしてくださいました。迫害を受けるということは、怨 讐の所有権の相続を受ける、また別の方法なのです。

◆最後に残る主人公

 神様が愛する人は、いつも天運の保護を受けるのです。真の愛というものは見えないのですが、最も貴い宝物なのです。人間は総じて目に見える宝物を好みます。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の光、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の光があります。また、宝物は永遠性をもっているので、誰もが好むのです。

 私たち人間の中で、宝物のような存在は誰かと考えてみると、それは正に聖人です。聖人の教えは、右往左往することはありません。ある聖人が正しく教えたとすれば、彼の教えは霊界に行っても天上法でも通じる不変の教えとなるのです。自らの教えが地上では変わらないと主張したとしても、天上世界に行って拍子がとれない日には、偽りの聖人として烙印が押されるのです。

 では、聖人の中で本物の聖人とは誰でしょうか。神様がもし霊界に行っている四大聖人を呼んで、「お前たちの願いは何か」と尋ねられて、「私たちの願いは、私たちの宗教を通して天下統一することです。神様は地上の大いなる主人であられ、すべてのものの主人であられるので、そのようなあなたの前に一番近くにいるようになれたなら幸せです。神様、あなたの娘がいれば、私はあなたの娘婿になりたいです」と答えたならどうでしょうか。

 神様の初めての愛を受けるひとり子になるという人が、最終地点に残れる主人公になるのです。真の愛だけが問題になるのです。その宗主の中でイエス様は、「ひとり子である」と言われましたが、み旨を成せず、「再び来る」と言われました。イエス様もその愛を自ら発表はしましたが、実現はできませんでした。先生もその愛を実現するために、一生を捧げてきました。イエス様もそのような面では、先生を認めざるを得ないのです。

◆神様が人間を創造された目的

 私たちの生命は、両親の愛から来ました。ですから結局のところ、神様に戻っていくのです。絶対的な神様までも、真の愛の前では絶対服従し、その真の愛に絶対的に侍って生きようとされるのです。すなわち、神様の真の愛を最高の絶対中心として立てたのです。神様が父であられ、私たちが子であるというなら、父親が行いもせず、子供にだけ「行うように」と言えますか。それは、理論的に不条理なことです。

 神様が私たちに絶対服従を命令しようとするなら、神様御自身もその貴いものに絶対服従したうえで、そのような命令をしなければならないのです。このように神様までも絶対服従して生きたいと思う真の愛こそ、地獄までも占領できる要になるのです。私たちが真の愛を所有するようになれば、あらゆる悲しみと苦痛もその愛の中に消化され、喜びとなるのです。言い換えれば、個人的権力、知識、財力などを主張するそれ以上の絶対的権限で、この宇宙に残したいものが、人間本性の欲望である真の愛なのです。

 では、真の愛はどこから来たのでしょうか。言うまでもなく、根本であられる神様の真の愛から来ました。神様もそのような愛を望まれているがゆえに、そこに由来したのです。

 嫁に行く女性たちに聞くと、心の中で「男性は私より優秀であったら良いのだが……」と考えます。男性も「自分の妻になる人が、自分よりも優秀であれば良いのだが」と考えるのです。また父母であれば誰しも、「自分の子供が自分より立派になったら良い」と願っているのです。

 そのような心はすべて神様から来たものであり、真の愛を中心として言うのです。そのような原因的内容を追求すると、根本から来たがゆえに、それが伝えられた現実的な私にとっては否定できない真理なのです。

 神様の根本がこのようなものであることを推理的、帰納的に結論を下してみると、神様も、真の愛の対象は神様よりもっと優秀であることを願う、という心をもっていらっしゃるのです。これが、本性の起源となるのです。人間と同じです。神様は愛の相対を通して、喜びを得ようとして創造なさいました。

 彫刻家が傑作品を一つ作るのも、どれほど大変でしょうか。昼夜の別なく、夜を明かしながら体力を消耗させ、全力投入して作品一つを作るのです。それはみな、どこから来た心でしょうか。喜びを味わうために、愛の対象を創造なさった根本から来た心ではないでしょうか。

 神様の真の愛の対象として造られたのが人間です。「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉は、そのとおり合っている言葉です。神様も愛の相対的パートナーを必要として人間を造られました。すべての万物を、中心となる人間をまねて和合し、吸収できるように造ったのも、愛の理想のためなのです。

 被造世界を見回してみると、鉱物世界、植物世界、動物世界、人間世界、すべてがペア・システムになっています。どうしてすべて対になって存在するのでしょうか。鉱物世界も陽イオンと陰イオンが作用するのです。元素と元素同士も、何でもくっつけたからといって結合するわけではありません。相対的要因が合わなければ、神様も命令できないのです。それと反対に、お互いに相対的要件が合えば、神様でも止めることはできません。級は低くても、このように鉱物世界の作用も、愛の創造理想型のモデルの核に反応できるように、そこに通じることができるようにつくられたのです。

 それゆえ真の愛の本質を中心としては、神様の心情から堕落しない人間の心情とすべての万物、鉱物世界まで通じるようになっています。その場に入っていけば、岩とも通じます。私たちがそのような立場に入っていけないのが、堕落なのです。

◆「ため」に生きようとする真の愛をもって統一を願わなければならない

 知ってみると、男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。相手のために生まれたというのです。今日の人々は、自分は自分のために生まれたと思っていますが、そうではありません。男性は女性のために、女性は男性のために生まれました。自分のためではなく、相手のために生まれました。みな「ため」に生きようとする真の愛のためなのです。男女が陰陽の調和で愛の理想を成すために、神様がそのように創造されたのです。

 今日世の中の人々は、人間が進化、発展してきたと信じているのですが、アメーバに対する例だけ挙げても、雄だけで発展し始めたのではなく、雄と雌が共に作用し、発展してきたものが現れたのです。この進化論が大きな問題です。低級なものからより高級なものへと発展するためには、雄と雌の愛の過程を通じなければならないのです。そうでなくては発展はあり得ません。

 構成の形態、構造、これらが同じであるといって、「進化した」と言えるでしょうか。猿の骨を持ってきて人間の骨格と同じだからといって、「猿が人になった」と言えるでしょうか。雀とほおじろとは姿形が似ています。毛色が若干違うだけであって、それらの骨を持ってきて見ると全く同じです。だからといって、雀とほおじろを対にすれば、ひなが産まれるでしょうか。ひなは産まれません。また西洋の人を見れば、比較的毛がたくさん生えていますが、だからといってゴリラの雌と西洋の男性を結婚させたなら、人が生まれるでしょうか。そうではないのです。

 このように愛の門を通過させ、種別に区別して創造したものを、誰も横的に占領できる権限はないのです。種の区別は、このように厳格なものです。

 では意識が先でしょうか、実在が先でしょうか。これが世の中の問題になっています。そこで思想が分かれて問題になっているのです。

 人はみな目をもっています。それでは、その目がこの地に生じるようになったときに、太陽があることを知っていたでしょうか。知らなかったでしょうか。目は確かに太陽を見ることができるように作られました。しかし、その目自体がそのような事実を知っていて、そのように生まれたのでしょうか。あるいは、知らないながらも偶然にそのように備わって生まれたのでしょうか。確かなことは、背後にそのすべての秘密を知っていらっしゃる方がいて、そのように作られたという理論を避けざるを得ないのです。

 また生まれてから、この空間世界に生きながら、ほこりが入らないように目に窓格子のようにまゆ毛もつけたのです。また涙が出てくる涙腺があるのですが、この涙腺はなぜ必要でしょうか。空間世界は熱により水分が蒸発するようになっているために、蒸発する所に水をまいてあげなければならないゆえに生じたものです。

 既にこういうことをすべて知って、それに対応する装置を備えて生まれたという事実を見ると、意識的に論理的な百科事典を背景にして、そこに従って存在実存圏が形成されたという論理を否定できないのです。これでも「実在が先である」と言うのでしょうか。このように見れば、神様がいらっしゃるというのです。

 その神様が、神様の最大の愛のパートナーとして、天地間のペア・システムの被造物の中の主人の立場に立てた傑作品の存在が、正に人間なのです。私たち自身なのです。

 人は横的な真の愛の因縁ももって生きるようになっているのです。大工が家を建てる時、水平をまず見るでしょうか。それとも垂直をまず見るでしょうか。水平を先に見るのです。「水平」は垂直を認めている言葉です。それでは垂直が先でしょうか。水平が先でしょうか。垂直が先なのです。

 「女性」という言葉は、男性が先にいて出てきた言葉です。「男性」という言葉は、女性を先有(前提)条件にして出てきた言葉です。「上」という言葉は、下を考えて言う言葉で、「右側」という言葉は左側を先に認めたうえでの言葉なのです。

 このように先有(前提)存在圏を認めるということは、相手の「ため」に存在する相対圏を証明することであり、これは真の愛でもって「ため」に生きることを目的として成立した創造であったということを物語っています。神様の真の愛は投入して与え、また投入してまた与えたとしてもそれを忘れてしまう愛です。与えたという記憶が残っている限り、愛は無限に回ることはできません。愛は無限に運動するものであるがゆえに、与えたというその記憶にとどまってはならないのです。与え続け、また与えたとしても忘れてしまうため流れていくのです。

 それでは天地を与えても換えることのできない価値をもった愛を、誰が私たちに与えてくださったのでしょうか。父母が下さいました。それを言い換えると、根本に戻れば、神様が下さったのです。神様はこの無限な価値をもった愛を父の立場で、与えても忘れ、その愛を受ける息子、娘が神様を裏切ったとしても、それでもまた与えられるのです。そのような果てしない神様の愛ゆえに、今日皆さんもこの立場に来て、座っていられるのです。

 皆さんにも愛する息子や娘がいるでしょう。子供のために服を買う時、たくさんの良い服がある中で、あまり良くない服を買うしかないとき、その父母の心はどうでしょうか。もっと良い服を買ってあげることができず、残念に思うその父母の心情の奥底で天理の根が連結されるのです。

◆真の愛が行く道は「ため」に生きる道

 真の愛が行く道は、何かをしてもらうための道ではなく、「ため」にしてあげるための道です。「ため」に生き、与える道に真の愛があるのであって、何かをもらおうとするところに真の愛があるのではありません。

 それで神様御自身も愛する相手を創造なさるとき、神様御自身が「ため」に生きる立場に立って、神様が所有しているすべてを一〇〇パーセント投入しても、もっと投入したいと思われたのです。こういう心をもった本然の中心存在が、天地を創造された神様です。それで真の愛とは一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント「ため」に生き、すべて与えてしまい、真空状態になることです。

 空気でいえば、絶対低気圧が生じるようになれば高気圧圏は自動的に生じるというのと同じ理論です。それゆえ絶対的に「ため」に生きようとする所には、無限の力が連結するのです。神様はこのように人間のためにしようとされるのです。そのような立場にあるので、もっと与え、さらに与えようとする本性の作用が、ひっきりなしに続くことにより、あらゆる万物が永存できます。

 それゆえ、「真の愛の道は永遠に生きる」という論理が介在するのです。真の愛の起源であられる神様から、その真の愛のパートナーとして造られた人間が、神様の思いどおりに成熟して絶対不変の真の愛の相続を受けていたなら、私たち人間の世界には根本的な統一の歴史が展開され、戦争とか血を流すような心痛い歴史はなかったはずです。

 怨 讐がいたとしても、神様がどうして罰を与えられないのかといえば、その怨讐を愛するその父母と妻と息子、娘がいるということを知っていらっしゃるゆえです。神様も涙の谷間を越えて、その怨讐を誰よりも愛するその父母と妻と子の心情を体 恤するとき、むち打てないのです。神様の愛とはそのような愛なのです。

 そのような神様の心情を本当に感じるようになれば、怨 讐に対してかたきを討つようなことができるでしょうか。神様の愛を知れば、かえって人を送って怨讐を助けてあげなければならないのです。そうすれば、愛を中心として一つに抱こうとするその大道の前に、私が近く立つようになり、そこに天地が震え、神様も涙を流すようになるのです。

 そのような立場から見ると、「怨讐を愛せよ」という言葉の意味が理解できるのです。そのような力が出てくるのは、知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。真の愛にのみあるのです。

 私たちがきょうも生き、あすも生き、十年、百年、千年、万年を生きようとするところにおいて、願いとは何でしょうか。それはお金ではありません。この国ではありません。統一の絶対的起源となる神様の真の愛です。私たちの手足が裂かれるような恨みがあったとしても、愛する子供を尋ねていかずにいられるでしょうか。それは、永生を求めていく真の愛の道を放棄できるのかということです。

 真の父母である神様の愛をもって、縦的な神様の代わりに世の中の五色人種を超え、自分の愛する息子、娘よりも、自分の妻子よりも、自分の父母よりも、自分の国を愛する以上に、いかなる忠臣、烈女以上に愛しながら生きようと努力しなければならないのです。

 真なる神様の愛は、「ため」に生きようとするところに根を置くのですが、それに反して今日の私たち人間世界の愛は、自分の「ため」にしてくれというところに根を置いているのです。堕落したために生じた結果なのです。私だけの「ため」にしなさいという論理の中では、統一はあり得ません。相対圏が犠牲となって破壊をもたらすのみです。それゆえ、独裁者を全宇宙が支援することはないのです。

 それでは、真の愛を中心とした統一的論理の根拠はどこで立てることができるのでしょうか。第一に神様がいらっしゃり、それからアダムとエバがいます。男性であるアダムは大きく、女性であるエバは小さいけれども、神様だけが占領すればすべてが成し遂げられるようになっています。アダムが先に行き、エバはアダムのあとをついていって神様を発見したなら、この神様を誰が最初につかむでしょうか。自分を主張する者には統一はありません。しかし、神様と共に「ため」に生きるという立場で考えると、「私が神様を先につかもうとするのは、あなたのためです」と言えば、小さい奥さんは歓迎するのです。また女性も、「私が神様を先につかもうとするのは、あなたのためです」と言うと、夫が喜ぶようになるのです。

 こういう姿を神様が御覧になり、「お前たちはどこでそんなことを学んだのか」と言われれば、「神様が本来このようにつくられ、理想的な創造に従って真の愛が行く道がそのような道であることを私たちが知ったので、このようにするのです」と答えたなら、神様が手を差し伸べて、「我が娘よ。我が息子よ」とおっしゃるのです。ここで統一が成されるのです。

◆良心は天下を与えても換えることのできない私の主人

 私たち人間は、人生を生きる間に自分と最も近く、天下を与えても換えることのできない主人がいるにもかかわらず、それを知らず、罪に捕らえられて生きる不幸な群れであったということを知らなければなりません。その主人が、正に私の良心なのです。この良心が私たちのためにどれほど忠告をし、昼も夜も悪い考えをする時に、どれほど制裁をしてきたでしょうか。

 このように心は真の主人の姿をもち、私を保護しようというのに、体とは怨 讐となっています。心と体の争いをやめさせるまでは、天国はないのです。ですから、私の主人と私の師と父母の立場に立って私を正しい人にし、天地の大いなる父母であられ、大いなる師であられ、大いなる主人であられる神様の前に一体化させるために、努力するこの第二の主人である良心を蹂 躙し、無視してはならないのです。

 今まで、体は空腹だといっては、盗みを働き、もう少し楽に生きるために強盗を働き、本然の起源を虐待したのです。この体の勢力圏をどのように処断しなければならないかという問題が、課題として残っています。

 先生はその問題に関して誰よりも多くの血、汗を流してきました。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのが、先生がこの道を開拓してきた時の標語でした。「宇宙主管を願う前に、世の中のあらゆることと関連をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。主人になることができ、師になることができ、父母になれるこの心を、私の体が千年、万年仕えたとしても不足であるという自分自身を発見するとき、初めてここに天運が臨むのです。心は体のためにしたがりますが、体は心のためにしようとはしません。これが問題です。問題は自分自身にあるのです。社会にあるのではありません。

 自分の家に問題があればお兄さんが悪く、お姉さんが悪く、お父様が悪いのではなく、私が悪いからなのです。自分から正しくして、他人を批判する第二、第三の基準を立てなさいというのです。私が一つになってこそ、堂々と一つになった世界で生きることができるのであって、私が一つになれないのに、全体が一つとなった所でいかにして一つになれるでしょうか。それで、自動的に退くようになっているのです。

 心を踏みにじり、心を無視し、心を疲れさせ、気をもませたこの体が、主人になってはならないのです。体をつかんで心と共に「ため」に生きることのできる私になった時に、幸福が訪れてくるのです。そこに神様が臨在されるというのです。

◆故郷へ行こうとするなら宗教を通さなければならない

 今日の人間世界での愛は、私を中心とした愛ですが、それがどこと関係があるのかといえば、心ではなく体です。この体が悪魔の舞踏場であり、悪魔の錨 綱を結ぶくいになっています。心が天に代わるプラスの立場にあるのに、体がまた別のプラスになって心をもてあそんでいるのです。これを是正しなければならないのが、私たちの生涯の義務なのです。

 これを御存じであられる神様が、修理工場としてつくられたのが宗教です。宗教は心と体を永遠に統一させることのできる人をつくる修理工場です。そのような人をつくれない宗教は、すべて偽りの宗教です。それゆえ天が通告するのは、心を中心としてより悪なる体があるので、この体を強制的に屈服させなさいというのです。強制的にでもそのようにすることです。それゆえ、「断食しなさい。犠牲になり、奉仕しなさい。死んだ思いで生きなさい」と言うのです。

 体の欲望を弱化させて心の思うままに順応できるように、三年ないしは五年以上習慣性を伝授するためのものが宗教生活です。宗教生活は、イエス様を信じて天国に行こうという次元のものではありません。

 その次に、「休まず祈祷しなさい」と言われました。悪魔は二十四時間私たちを通して活動し得るのです。しかし、神様は縦的な立場にのみいらっしゃいます。心は縦的であるので、神様は縦的な立場にのみいらっしゃるため、心を通じずには活動できません。サタンは三六〇度、どこでも活動できるので、サタンの活動の前に体が負けるようになっているのです。

 心は垂直の立場にあって、垂直は一つです。横的基盤ではないので、垂直は横的基盤に現れることはできません。それで環境が強い体に引っ張られていきやすいため、お前は茎の立場、一つしかない垂直の立場で精誠を尽くし、祈祷して三倍、四倍の力を心に受けて、体を立ち直らせ自由に処理して三年ないしは五年引きずりながら習慣化させなさいというのです。その二つの方法以外には、修理できる道はありません。

 そのような修養の門を通じずには、本郷的な人間の道を尋ねていけないのです。哲学の道、知識の道、良心の道だけでは駄目なのです。心と体が一つにならなければなりません。心は縦的で、体は横的ですが、根本で堕落しなかったなら、心と体は一つになったでしょう。それが本然の神様の理想の前で一つになれないようにしたのが、怨 讐である悪魔なのです。

 その悪魔が人間を堕落させたのですが、聖書では「善悪の実を取って食べて堕落した」とあります。ところがその善悪の実を取って食べて、どこを隠したでしょうか。口を隠したでしょうか。手を隠したでしょうか。下部を隠しました。手で取って、口で食べたのに、なぜ下部を隠しましたか。それが悪を蒔いた種となったからです。

 人間始祖は、成熟していない時に堕落しました。歴史的な人間の世の悪の血筋が、そこから伸びるようになったのです。それゆえ終末になれば、春にそのように蒔いたので、秋になれば全世界的に青少年がアダムとエバのように愛の倫理を破壊させて、退廃の風潮が広がるようになるのです。そのような時になったなら、サタンの全権時代が地上に到来したということを知りなさいというのです。その時が今です。

 このようになる時、神様の撤退と審判が訪れます。今日のアメリカ、ヨーロッパ、日本など、世界の先進国を見てください。東西四方から押し寄せるフリー・セックスと淫乱の波を誰が遮ることができるでしょうか。大きな問題です。末 梢神経の刺激を求めていく享楽主義、乱れた愛にも飽き足らず、麻薬や幻覚剤を求める人類の終末になってきています。

 それはみな、体が死亡へと引っ張っていく道であって、決して心の道ではありません。天地の大道において、人間を本然の始発地である神様の懐に引き渡すべき良心の使命と召命は、すべて失敗しました。誰かが世界人類をこのような環境から救援の道へと導けなければなりません。それが統一教会です。

 世の中には希望がありません。統一教会は、真の愛の理想として、神人と心身を統一する所です。神様と人を統一し、心と体を統一するのです。神様は真の愛、真の生命、真の血統をもっていらっしゃり、私たちはそこから出てきたのですから、私たちにも真の愛があり、真の生命があり、真の血統がなければなりません。人間は神様の真の愛を中心として、親子一身の関係をもって生まれたので、神様の心と体が真の愛で自然に統一されているように、私たち人間の心と体も真の愛で自然に統一されていなければならなかったのです。

 ところが、サタンの愛、生命、血統を受け継いだ堕落人間となることによって、心と体がサタンと神様の一線となり、争いが続けられています。地獄と天国は別の所にあるのではなく、私たち自身にあるのです。

◆愛の三大属性

 誰でも文総裁の言葉どおりに行えば、体を屈服させて、心と一〇〇パーセント一つになれます。それが統一教会の力です。方位磁石は、プラス・マイナスの方向さえしっかりと定めてあげれば、方向を整えます。それと同じです。そのようになれば、心と体が一つになった皆さんは、神様の愛のパートナーとして、永遠の対象になるのです。そういう愛をもった者は、永遠の神様を所有した者になるというのです。

 愛の属性には相続権があり、同居権があり、同参権があります。愛する夫が大統領ならば妻は小学校も出ていなかったとしても、夫のものは自分のものであり、昼夜いつでも共に同居できるのはもちろん、同参できる権限もあるのです。それで、愛は偉大だというのです。

 愛にはこのように相続権、同居権、同参権という偉大な三大属性があるために、神様の絶対的愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃるところに私がいつも加勢でき、いつでも同居できる権限をもつようになるのです。そのようになれば、私が目を閉じなくても神様を見ることができ、涙を流すようになるのです。神様の悲痛な心情を体 恤した者は、道を歩いていても、足を止めて号泣するのです。そのような体恤的世界があるのです。

 堕落した世の中でも、お母さんは子供が外地で不意の事故に遭ったなら、それを感じて分かる場合がたくさんあります。寝ていても、「誰々」と叫んで起きるのです。愛にはそのような力があるために、その愛と一体になれば、二つの世界はすべて共存し、二つが共に住むというのです。共存するだけでなく、分かるというのです。言い換えると、千年、万年「ため」に生きても、もっとしてあげたいというそのような真の愛を、私の心と体に一〇〇パーセント吸収できる性相を備えるようになる時、心には神様の真の愛の根が生じ、神様が感じるすべてが通じるようになり、体は自動的にそこに共鳴するのです。

 心の世界の真の愛を中心として、共鳴体となれるように創造されたのが体なので、心と体が統一世界を備えようとすれば、神様の本質的な真の愛を回復しなければならないという課題が残っています。これは重要な問題です。

 このような真の愛に共鳴する理論を中心として見ると、私たち人間がそこに一体化して共同一体圏内に入っていけば、「神様の愛が私の愛であり、神様の生命が私の生命であり、神様の血統が私の血統であり、神様の所有である被造世界が私の被造世界である」と言える、天下を抱いた父母の心をもって天国に入籍するようになっているのです。

 そのようなことを知っている先生が、五色人種を、私を生んだ父母よりも、兄弟よりももっと愛そうという心をもって生きてみると、峠を越えて今日の統一教会を世界最高の立場にまで上げるようになりました。神様の導きのもと、真の愛が宿る所には天運が共にあり、神様の愛が永住するのです。

◆サタンも親子の関係で一体化した真の愛の前には順応する

 アダムとエバがただそのまま育って成熟したなら、神様の愛の対象、愛の配偶者となっていたはずです。ところが、あすになれば夫婦の生涯の契りを、結婚式をしようとしていたのに、その晩、盗賊が新婦を奪い去って逃げたというのです。それで連れていかれた所で生きたのですが、新婦が過去に新郎になるはずだった男性を忘れず訪ねていったとき、その男性が「ああ、歓迎するよ。おいで」と言うでしょうか。

 神様がいらっしゃるならば、なぜ世の中をこのようにしたままでいるのでしょうか。神様は世界に手を出したいのですが、心痛い心情を抑え、悪が植えられたので、悪が滅びる時になるまで待っていらっしゃるのです。蒔かれたので収穫の時を待っていらっしゃるのです。木陰で淫乱によって一組が蒔いたものが、秋になって全世界に拡大した青少年の淪落の姿、状態を見ているのが現代です。

 それを誰が食い止めるのでしょうか。父母も食い止められず、誰もできないのです。ところが悪魔は神様に対して、「あなたの創造理想を中心として、愛の絶対圏の理想である真の単一氏族圏をつくるための愛の血統圏が、このようにみな滅んで破壊した形になったにもかかわらず、今でも創造理想的理論が適用されると思いますか」と言いながら、あざ笑って出てくるのです。

 そのような時、神様は何と答えられるでしょうか。どれほどあぜんとされることでしょうか。本来の主人の息子となるべきだったのに、怨 讐の息子となって抜け出そうとしても抜け出せない苦しみの中に陥っている人類を眺められる神様の心情が、いかに悲痛なものであるのかを知っている人がいるでしょうか。

 ですから神様は、どれほどかわいそうな方でしょうか。神様と完成したアダムとエバのように天使長を愛した者であってこそ天国に入っていけるのが原則であるので、イエス様も失敗しないアダムの完成者として来られ、どのようにしてでも神様と共に怨讐を愛したという条件を立てなければならなかったのです。そうでなくては天国に入っていけないようになっているのです。それゆえ、イエス様は「怨讐のために、ローマ兵のために祈祷しなさい」と言われたのです。

 科学の世界では、一ページ、一文字でも前後が合わなければ、結果は一致しません。無知には完成はあり得ません。先生もこの問題に関して、生涯苦労してきました。神様と人間が真の愛を中心として一体化したところには、すべての勝利の道が確立されるので、サタンも親子の関係で一体化した真の愛の前には順応するのです。

 このような真の愛の基準について見ると、アダムとエバは、ペア・システムでつくられた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。アダムとエバを教育する愛の博物館なのです。アダムとエバは、万物が対で生まれ、愛し合い、子供を生んで生きていくのを見て育つようになっていました。

 アダムとエバはこのように成熟して、神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナス的愛の王女が女性であるということを悟るようになっていました。女性が考えるには、「あの男性が正に私に必要な男性だわ」と信じるようになり、男性も女性に対して、「本当に私にとって必要な女性だ」と言うのです。

◆メシヤが背負う重大な責任

 男性は縦的で、女性は横的なのですが、真の愛は縦的、横的に出会うことができ、定着できる交差点は九〇度です。そのような創造の原則が絶対的公式となっているのですが、その公式から抜け出してはなりません。その定着できる交差点は、九〇度を成すようになります。なぜなら真の愛が探し求める道は、最短距離を通じるためです。

 真の愛は戻らず最短距離を行きます。上から下に下りてくる最短距離は、垂直しかありません。それで、神様と人間の真の愛の道は一つなのです。その垂直の前で、男性は東方にいて、女性は西方にいるのですが、この真の愛も直短距離を通じるので、九〇度以外には出会う道がないのです。

 人間が成熟して男女が真の愛を中心として、最短距離を行ってお互いに出会えば、縦的な垂直線と横的な水平線が出会って、自動的に九〇度になるのです。真の愛で愛すればそうなるのです。その点が正に垂直と水平が出会う点であり、絶対的な価値をもった位置として、絶対価値はその場にあるのです。その点は、一つしかない真の愛を結ぶ中心点であり、モデルになる点です。

 しかし、アダムとエバが成熟する前に、天使長ゆえに角度がずれてしまったのですが、これが正に堕落です。ですから、角度を合わせなければなりません。人間は堕落を通じて、悪魔の血を受けました。それで、自分のことだけを考える主義と、自覚性と、主体性を備えて出てきたのが悪魔の行動であったため、堕落した人間は、自分第一主義ですべてを考えるようになったのです。神様に似た善なる人は、全体の「ため」に生きる人であり、サタンに似た悪なる人は、自分の「ため」に生きる人なのです。

 ここで天地が分かれ、天国と地獄が分かれ、善なる人と悪なる人、公人と私人に分かれます。聖書を見ると、野生のオリーブと真のオリーブの比喩があるのですが、サタン世界の野生のオリーブの中で分立させて探し出した人類が、宗教圏内の野生のオリーブです。それは、メシヤによらずしては、真のオリーブになれません。ただし、野生のオリーブですが、神様の所有圏の中にある野性のオリーブです。それで神様が自由にできるのです。それは、将来再臨主が来られたとき、一度に切って接ぎ木をしやすいように準備してきたのです。

 そうして真のオリーブになり、本然の状態に戻っていくのです。そうするには、野性のオリーブを一度に切って、真のオリーブの芽に接ぎ木しなければなりません。主が来られたなら、一度に切って接ぎ木をするのです。

 それゆえ、たとえどんなに宗教をよく信じる人々であったとしても、父を訪ねていかなければなりません。なぜなら、本来の父から生命の種を受けずに生まれたからです。その父が、メシヤです。私たち人間は、本来の真の愛を中心として、神様の血統と連結した真の息子、娘としての一体となった種の理想を成せなかったがゆえに、メシヤが来なければなりません。

 それでは、メシヤとは誰でしょうか。真の父母として来て、偽りの父母から生まれて偽りのもので植えつけられた根を引き抜き、本然の形態を復帰し、サタンを追放して、すべてが歓迎できる自由、解放の天国世界をつくるべき責任をもって来られる方が、メシヤです。それで私たちは、その方を通じて本然のエデンの園、罪を犯さない本然の世界へ戻らなければなりません。

◆神様が創造摂理をなさった目的

 神様は、縦的な真の愛を中心とした私の父です。キリスト教神学では、「神様は聖なる方であり、人間は俗なるもの」と言っています。そのように見れば、俗なる者と聖なる方とはどのようにして因縁を結べるでしょうか。それは、永遠に不可能なことです。そのような神学は、今後終わりの日にはみな必要なくなるのです。

 真の愛の共鳴圏に入っていけば、天地がはっきりと見えてくるのです。堕落しなかったなら、天地がはっきりと見えるのです。釈迦が、「天上天下唯我独尊」と言ったのも、その共鳴圏の核心に入っていってみれば、天下がみな私の手中に入っており、神様が私の中にいらっしゃり、天理が私と共に連結しているがゆえに、そのようなことを言えたのです。真の愛の共鳴圏に入っていけば、信仰は必要なく、救世主も必要ありません。救世主も堕落の産物であり、信仰も堕落の産物です。

 神様が創造の摂理をなさった理由は、第一に、真の愛の対象を探すためでした。愛ゆえに創造されたのです。第二に、体をもつようにするためです。神様も、体がなくてはならないからです。体は貴いものです。天上天国に体をもった息子、娘が来るようになり、神様も体をもち、形を整えた父として臨在しなければなりません。その体が、アダムとエバの体の内的形態です。

 また、人間の心と体はお互いによく似ています。それにもかかわらず、お互いに一つになっていないのは、体がサタンの舞台になっているからです。このサタンの舞台を生涯を通して清算できなければ、あの世に行っても苦労するようになります。

 それでは、神様と本然のアダムとエバは、どこで出会うのでしょうか。神様の愛と真の父母の愛、神様の生命と真の父母の生命、神様の血統と真の父母の血統が結合するところは、垂直と水平を連結する九〇度しかありません。その点が、真の愛を成立させる公式点です。

 神様は縦的な真の愛の父母で、堕落しないアダムとエバは横的な真の愛を中心とした父母です。垂直と東西、縦横です。このような二つの父母の愛、生命、血統を受け継いで生まれた私の心は、縦的な私になるのです。

 キリスト教でも、心とは何でしょうか。神様の縦的な真の愛を受け継いだ、縦的な私です。神様の血統を受け継いで愛をもち、神様に似て生まれたものが心なのですが、その心は縦的な神様から受けたものなのです。そして、体は横的な父母、真の父母から受け継いだものです。

 父母の愛、生命、血統を受け継いで生まれた私の心は、縦的な私となり、体は横的な私となって、この縦的な私と横的な私が統一体となる時、人間は永遠の神様の真の愛のパートナーになるのです。神様の愛は永遠なので、私たちも永遠に生きるのです。永生の論理もそこから出てきます。真の愛以外には永生はありません。

 それでは人間にとっての真の愛の起源地と真の生命の起源地、そして真の血統の起源地は果たしてどこでしょうか。私たち人間と神様が一つになり得る愛の宮殿、生命の宮殿、血統の根源地とはどこでしょうか。この三つが和合できるところが、正に人間の性器です。

 ところで、この性器が、天理を破綻した凶悪な宮殿となり、悪の根源地となってしまいました。そこに偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統が植えられました。神聖であるべきそれが、天地の一番の悪となったのです。

 それゆえ、神様の前にみだらな都市とみだらな国は滅びるのです。それは、神様が最も嫌うことです。ローマが滅びたのも、他の理由があったのではありません。ソドムとゴモラが硫黄の火に包まれたように、節操を守らないことにより、淫乱におぼれて滅びたのです。

 それゆえ、皆さんは愛の問題を革新しなければならず、血筋が変わってしまったのを正さなければならず、心と体の争いに休戦条約を結んで永遠に心の前に服従させることのできる体をつくらなければならないのです。

◆「ため」に生き、さらに「ため」に生きなさい

 今日、女性が嫁に行く時、「どうして嫁に行くのか」と聞けば、「愛されるために行く」と答えます。しかし、皆さんは「夫の両親を愛するために嫁に行く」と答えなければなりません。「義理の弟とその一族を愛するために、そこに属する国を愛するために嫁に行く」と言えば、その女性は何年もしないうちにその家門の母の立場、祖母の立場、嫁以上の位置を占める立場に立つようになるのです。

 そのように「ため」に生きようとすれば、歴代の先祖の基準を超えて初めて歴史始まって以来の必勝の勝勢者として、「神様の息子と娘である」と言える天道の道を行く巨人の生涯として残れるようになるのです。反対に、「私のために生きなさい」と言えば、押されて隅に追い込まれ、後ろのほうに追い込まれて、あげくの果てには門の外に追い出される身になってしまうのです。

 このように、「ため」に生きる真の愛と一つになってこそ家庭の統一も可能になるのです。口数少なく十年、百年を自分の子のために与え続ける親の愛は輝くのです。腹の毛がすべて抜けるほどに二十一日間外に出ることもなく、耐えながら卵を抱いて、ひよこをかえすめんどりを見ても、私たちは学ばなければならないのです。親鳥はひなのために、外に出たくても出ることはできないのです。ひなに毒蛇が近づけば、親鳥はかまれ死ぬ瞬間まで毒蛇をつついて、ひな鳥を保護しようとするのです。小さな動物でもそうだというのです。

 理想的愛の対象を探すことに失敗したがゆえに、正義の血統の根を下ろせないこの世の中に、皆さんは新しい生命の種を植えなければなりません。


 私たちはみな父母の心情で、僕の体をもって、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しながら、天地創造の大いなる主人であられる私たちの親なる神様の恨みを解いてさしあげなければなりません。歴史的な責任と使命を忘れることなく、救世の道に共に前進する皆さんになるようにお願いします。

















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