文鮮明先生のみ言集
訓教経(下)


女性解放

一九九二年四月十二日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第二百二十九巻』


 今日歴史を通じて苦労した人々がいるとすれば、もちろん男性もいるでしょうが、女性がより多く苦労しました。一つの家庭においても、その家庭を率いていく生活の底辺において、直接責任を負っている人とは誰かというと、女性です。衣食住を中心とした生活をしていくのにおいて、女性がすべての責任を負っているのです。

◆女性は家庭生活の中心であり責任者

 男性と女性の違うところとは何でしょうか。男性は外的な活動をして、女性は家庭において内的な活動をするということです。子女を教育するにおいて家庭に責任をもっているのです。このように見るとき、女性でも男性でも生涯を整えて歩んでいくことは簡単ではありません。一つの家庭がある国家の社会に抱かれて、その国家と共に、その社会の複雑多岐な環境を貫いていき、その社会と歩調を合わせていきながら、生活を営為していくのは簡単なことではありません。

 いくら内的な面で家庭が平安であるとしても、社会が混乱したならば、混乱したその外的な影響が家庭内に及ぶのです。また、その社会を越え、国家が外的に混乱をもたらすようになれば、家庭もやはり動揺するのです。もっと大きく発展させて言うならば、一つの世界ならば世界を中心として見るときも同じです。世界の外的な面が大きく動揺するようになるとき、その動揺するすべてのものが家庭に波及するのです。

 摂理史においても同様です。摂理史が平坦な道を行かずに蕩減の道を行くときには、その蕩減の道が家庭にまで影響を及ぼすのです。このように見るとき、家庭というものは、それ自体独立しているものではありません。社会の中にあり、国家の中にあり、世界の中にあり、天と地の中にあるのです。

 それでは家庭において、生活の中心になるのは誰でしょうか。もちろん男性も中心となりますが、主に女性が、家庭ですべての責任を負って生活しているのです。まず衣食住の問題においても、直接その生活の前線で責任を負っていくのは女性です。また、家庭に困難なことがあるとき、男性はその困難なことを間接的に感じますが、女性は直接的に感じるのです。

◆人類歴史の中で一番大きな困難は家庭の分裂

 これまでの人類の歴史をずっとたどってみれば、それは戦争史でした。歴史時代を経ながら数多くの戦争がありました。その戦争の中には、国に対する様々な戦争もあったでしょうし、第一次、第二次世界大戦をはじめとした、すべての戦争がありました。しかしながら、そのような戦争よりも、直接的に家庭にあって一番難しい戦争とは何かといえば、夫婦が不和になること、父母と子女が不和になることです。

 結局、どのような問題があるのでしょうか。男性と女性を中心として最初の生活基盤となる家庭においての分裂、闘争の問題が、外的な世界のすべての問題よりも、もっと大きな問題になるのです。各家庭で生活する人々の心に、大きな傷を与える可能性のあるものが夫婦間の衝突であり、父子関係の衝突であると見るのです。

 それゆえに、女性は歴史を経て生活する中で、多くの涙を流したのです。男性も、もちろん涙を流したでしょうが、涙を流した大多数の人々は女性なのです。

 その女性たちの中には、おばあさんの年代、自分の母親の年代、その次に自分の妻の年代の女性たちがいるのですが、この女性たちの根は一つではありません。女性の世界が男性と合わさり家庭を成す背後を見れば、おばあさんの根が異なり、母親の根が異なり、自分の相対の根が異なっているのです。

 ですから、この系統は引き継がれません。一つの家の中において見るときも、そうだというのです。おばあさん、母親、自分の妻が因縁を結んでいるのですが、横的な面において血統的関係がつながれていないというのです。ゆえに、どんなに素晴らしい女性でも、夫婦が離婚するようになれば、その家と関係がなくなり別れてしまうのです。それは母親もそうであり、自分の妻もそうだというのです。

 このように涙を多く流した人は女性ですが、女性が涙を流すようになった根本動機とは何でしょうか。男女関係、愛という問題を中心として女性は多くの涙を流したのです。ですから、歴史始まって以来、愛の問題を中心としてより多く苦しめられたのは女性であったと、このように見るのです。

 それで終わるのではありません。国に何かの大変動が起これば、男性は思いのまま社会活動をすることができますが、女性は制限された環境、家庭という垣根から抜け出るのは簡単ではありません。何か困難なことが生じれば、男性は母や妻に家庭を任せて家を出て、自由に行動することができますが、女性は困難な環境でも自分の家族、息子、娘を中心として家庭から抜け出るのは難しいのです。

 このような立場から男性と女性を中心として比較してみるならば、人類歴史始まって以来、誰が多く涙を流したかというならば、男性ではなくて女性だというのです。

◆女性が困難と悲しみの歴史を経てきた理由

 それでは、女性の立場を総括的に見るとき、人間世界でこのような生活をしている女性を理解してあげる何かの機関があるかといえば、ないというのです。女性としての困難や悲しみを保護してあげ、その女性のすべての悲しみを解決することができる国ならば国、そのような機関があったのかというのです。それもなかったというのです。

 すべての責任を要求する立場では女性が重要な責任を負っているのですが、家庭において女性を保護する何の体制もなく、社会においてもそのような体制はなく、国を越えてもやはりそのような体制ができていません。

 どうしてそのようになったのかといえば、それは蕩減時代を経てきたためです。女性が蕩減すべき道が東にもあり、西にもあり、南にもあり、北にもあるというのです。東西四方に連結していて、一方でなく前後、左右、上下、全体の球形的な面で責任を負わなければならなかったために、その女性を保護し得る体制をもつことができなかったというのが、今までの歴史でした。

 このように、男性と離れることができない相関関係をもってきながら、困難な立場で涙を流さざるを得ない人々が女性たちだったのです。それゆえに、悲しみの象徴として表示されるのが涙であり、苦痛の象徴として表示されるのが涙であるというとき、それは女性たちがこれまで歴史時代を経てきながら残してきた特権的遺物であるといえるのです。

 その中には祖母の涙、その次には母親の涙、妻の涙、姉の涙があります。自分の一家族があれば、大概四代まで連結されています。おじいさんとおばあさん、母と父、その次に自分の夫婦、息子と娘、このように四系列の三段階が連結されています。これが四数、三数に連結されています。このように、全体の家庭が生活していくときに、平均的に女性が涙を多く流してきたのはなぜか、人間には分からなかったのですが、神様の摂理から見るとき、歴史の発展過程において蕩減の責任を負っていたためだったのです。

 宗教的な面から見れば、男性を対象として見ても、宗教を信じる人々は宗教を信じない人々よりも涙をより多く流さなければなりません。悔い改めなさいということです。洗礼ヨハネがイエス様の来臨を証言するとき、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。「天国は近づいた」と言い、「解放された」とは言いませんでした。最初の言葉が「悔い改めなさい」ということでした。

 悔い改めるということは、涙を通じなくては駄目なのです。このように、宗教を中心とした圏内の男性世界は一般社会の男性世界よりも涙を多く流してきたのですが、それはなぜかというと、これも蕩減という内容があるためです。

 男性が宗教的な面で責任を負い蕩減することと、女性が家庭において責任をもち蕩減することを見るとき、摂理史的な立場において男性が涙を流したのは、男性解放を成し遂げるためであったのです。それで、これまでの歴史は男性解放圏に向かってきたのです。人間は家庭を越え、氏族、民族、国家を越えて、世界まで越えて理想郷に向かっていくのですが、男性においては世界の果てを越えるようになるとき初めて、「私は解放者だ!」と言うことができます。そのようにしようとすれば、その世界が平面世界でなく球形世界であるからには、地の果てに行き、向こうの反対側を回って戻ってこなければならないというのです。

 これまで歴史を通して、おおよそ神様を信じない外的な世界の男性と、宗教圏内にいる男性がいたのですが、宗教世界の男性が涙を多く流さなければならなかったのです。したがって、真正なる宗教指導者は、涙の生活をしなければなりません。なぜそうなのでしょうか。蕩減しなければならないからです。この二つの面を見るとき、女性は家庭生活をしながらその中で涙を多く流し、宗教を指導するすべての男性は、その教会を中心として対社会的な涙をたくさん流してきたのです。

 男性は宗教を中心として涙を流し、女性は家庭とか生活四方において涙をたくさん流したのですが、どちらが、よりつらかったでしょうか。もちろん男性も対社会的に隔離され、生活することはつらいでしょうが、それよりも女性が、よりつらい立場に立っているというのです。

 この悲しい人々が、どこで出会うのでしょうか。宗教の形態で出会うのです。宗教の内的な要素を見るとき、男性と女性がいるのですが、これを比例的に見れば、歴史的なすべての宗教を維持し、その外的な面までも拡大させることができる動機となるものとは何でしょうか。もちろん男性が主導したのですが、宗教を中心として悲しい涙を流した男性と、より悲しい涙を流した女性が合わさって宗教を今まで形成し、引っ張ってきたのです。そのような代表的な宗教が、キリスト教なのです。

◆真の愛に出会い愛の解放を受けるための闘争歴史

 キリスト教とはどのような宗教かというと、新婦宗教です。誰のための新婦ですか。新郎のための新婦です。今日キリスト教において、その新婦たちがこれまで涙を流しながら蕩減の道を経てきた一つの目的は、真なる新郎に一度出会うことです。ところがその新郎は、いつでも現れるのではありません。一時です。

 それでは、新郎に出会おうとする目的とは何でしょうか。それは、すなわち解放を受けるためであり、蕩減の道であるがゆえに、それから抜け出るためなのです。女性一人では抜け出ることはできません。なぜ女性一人では抜け出ることができないのでしょうか。これが問題です。お金がなくて解放を受けられないのではありません。知識がなくて受けられないのでもありません。権力がなくて受けられないのでもありません。真の愛の因縁をもつことができなかったからです。

 それで、真の愛によって解放を受けるために、新郎に出会うことを願うのです。真なる愛をもってくる新郎に出会うことによって、解放を受けることができる時が始まるのです。その時初めて、その男性自体も宗教から解放されなければならないのです。

 そうして、宗教の悲しい環境から解放を受けると同時に、女性も共に解放を受けなければなりません。それでは、どのようにして解放を受けるのでしょうか。その総責任者であるメシヤが来なければなりません。そのメシヤは天の真なる愛をもって来られるのですが、その真なる愛を中心として男性と女性が解放を受けるのです。男性は、宗教から解放を受けなければならないのです。これまでの宗教歴史においては、女性が指導した宗教はありませんでした。大概、聖人は男性です。その男性がこの悪なる世界と闘争してきたのです。

 そうして宗教指導者たちは大概受難の道を歩み、犠牲となってきたのです。その代表が、イエス様です。その当時の政治風土の環境を開拓していかなければならないがゆえに、男性を代表した宗教指導者たちは、常にその国の主権者と闘争してきたのです。それでは、家庭における女性は誰と闘争したのでしょうか。男性と闘争してきたのです。歴史がそのようになっているのです。女性は男性との愛を中心として、みな闘争してきたのです。

 ですから家庭においては、女性が男性を中心として愛の解放を追求してきました。また、対社会においては、男性が愛を根本的な面で破綻させようとする悪魔と闘争してきました。このような戦いをなしてきたのです。それでは数千年歴史を経てきながら、その戦いに勝利した版図をもった者がいましたか。どんなに女性が涙を流したとしても、その愛において男性に対する闘争過程で解放を受けることができたのかというのです。

 また、男性が真の愛の主人の立場で勝利し、悪魔の誤った愛を中心として結ばれた愛を再び取り戻すための蕩減の道において、解放を受けることができたのかというのです。これまで誰も解放を受けることができなかったというのです。そのような戦争が継続され、今日まで流れてきたのです。

◆宗教は真の愛の理想的家庭を取り戻すためのもの

 このように見たとき、その宗教というものは、あるいは家庭というものは、何を取り戻すためのものなのかといえば、理想的家庭を取り戻すためのものなのです。もし、真の愛の理想的家庭を成すことができたならば、宗教も終わりであり、女性たちの涙も終わるのです。その時が、終わりの日です。

 終わりの日になればなるほど、どのような現象が起こるのかというと、すべてのものが混乱するのです。男性が先なのか女性が先なのか、分からなくなるほどになってしまうのです。女性だけが涙を流すのではなく、男性も涙を流すようになっています。なぜでしょうか。将来の行くべき道が漠然として分からないからです。ゆえに、宗教を指導する人だけが涙を流すのではなく、社会で生活している男性たちも涙を流すのです。そうして、全部が同じ位置に立つようになっているのです。

 今が、そのような時であって、混乱の時代です。宗教が宗教の位置を守ることができず、社会が社会の位置を守ることができないでいるのです。社会の歴史的流れ、そのような疲弊した風土が教会を襲い、教会の疲弊したすべての流れが家庭を襲うのです。したがって、家庭の基盤も、宗教の基盤も、外的な国の基盤も、自分自ら自主的な立場で、愛を中心として解放圏を備えたものは一つとしてないのです。

 過去から現在までの歴史を見るとき、数千年歴史を経てきながら、すべての人々が理想を思い描き、平和を思い描きながら歩んできたというとき、その理想と平和を一つにまとめることができ、その平和の門を開くことができ、解放の門を開くことができるものとは何でしょうか。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。内的な家庭において、あるいはすべての宗教において、真なる愛のみが宗教圏を克服し、家庭圏を克服することができるのです。

 宗教というものは、家庭を抱いていかなければならないものです。世の中にはたくさんの家庭があります。ここに来ている人たちも、その背後にはみな家庭があるのです。その家庭をどのようにして平和にするのでしょうか。宗教的側面から見るとき、その使命を完結する宗教とは、どこにあるのでしょうか。仏教、儒教、イスラム教の区別なく、みな同じ立場にあります。

 キリスト教は、男性宗教ではありません。女性宗教です。新婦宗教だというのです。西欧文明は、今やアジアを訪ねてくるのです。アジアは男性的大陸であり、アメリカ大陸は女性的大陸です。なぜ女性的大陸なのでしょうか。その宗教と思想面から、新婦宗教を信じているキリスト教文化圏だからです。それで、男性的アジアを訪ねてくるのです。

 イエス様もアジア系として生まれました。ところが、アジアで体を失ってしまいました。それを蕩減復帰するために、これまで西欧文明はローマを中心として反対に流れていったのです。本来、イエス様が死ななければ、インドの仏教圏、極東アジアの儒教宗教圏がキリスト教を中心として統一圏をまず成さなければなりませんでした。宗教圏が統一を成さなければなりませんでした。

 宗教圏に立っている最高指導者は霊界と通じるために、将来天が行く方向を知っています。それゆえ、イエス様が国を収拾してローマから独立し、イスラエルの十二支派圏がカナンを復帰して、分かれていたその地が統一される時には、間違いなくアジアが吸収されるのです。

 それでは、どのようにして収拾するのでしょうか。霊界で全部教えてくれるのです。霊界に行ってみれば、宗教というものが男性と女性を解放するためのものであるということが分かるようになります。なぜならば、堕落により拘束を受けている立場にあるからです。

 ゆえに宗教というものは、終わりの日に男性と女性を解放するためのものです。その男性と女性の解放は、特定国家においてではありません。総括的な世界舞台において男性と女性が解放を受け、天の愛と共に新しい出発をする時が終わりの日であり、すべての宗教が唱える末世であるのです。

◆男性と女性は愛の解放を受けなければならない

 男性と女性が解放を受けなければなりません。何の解放を受けなければならないのかというと、愛の解放です。どんなに生活が苦しいとしても、愛が宿っている所では、その貧しさを克服しても余りあるのです。そこからすべての力が補充され、愛する所では、たとえ何もなくても何もかもが集まろうとするのです。こうして世界のすべての被造万物が、愛の本質要素に吸収されるのが原理です。

 聖書を見れば「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあります。なぜ愛さなければならないのでしょうか。神様が、本質的な愛の主体であられるからです。愛するようになれば、その位置は神様の愛を中心として万物を主管しようとする相対的位置となるため、その愛する心をもっていることは、プラスとマイナスのようにすべてが一つとなるというのです。

 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)とイエス様が主張されたことも、愛です。自分以上に愛することができる位置を取り戻すまでは、神様の愛の圏内に入ることはできません。歴史上の戦争や争いなどが起こるようになったのも、結果的に愛を取り戻すことができなかったからです。

 これまで愛を探し、もがきつつ、疲れ果ててしまったのが私たち人間です。愛に飢えた人間たちなのです。今日、社会における青少年の問題の混乱相も、その根本を探ってみれば、お金でもなく、知識でもなく、何かの力でもありません。そこには、愛が欠如していたのです。

 愛は愛ですが、それは何の愛でしょうか。一時的な愛では駄目です。春夏秋冬のように異なっていても、その本質においてはすべて同じです。冬は寒いですが、その寒さは愛を支配しません。そして、寒い冬にも愛を再び輝かせることができます。冷たいものが圧力を与えれば、縦的に伸び上がっていける、このような刺激的な業をなすのです。それは呼吸と同じです。息を吐き、吸うのと同様に、冬には萎縮し、夏には拡張するのです。季節の変化に従って愛の本質が変質することはないのです。その作用と形態は異なりますが、本質と本量においては消耗されないのです。愛のゆえに、すべてのものの結果がそうなっているのです。

 それでこのような代表的な宗教、この世界全体からこれを解放するための主流的宗教があるとすれば、その宗教は必ず愛を中心とした宗教の内容とならなければならないのです。このよう見たとき、他の宗教よりもキリスト教は、神様に対して「父、子」という言葉を使いました。また、イエス様は「花婿、花嫁」という言葉を使いました。その教えの核心は国ではなく、父子関係、夫婦関係です。「私は花婿であり、皆さんは妻である。私は兄であり、皆さんは弟、妹である」という、こういったすべての教えの核心は、家庭の解放です。

 それでは、イエス様はどこから生活を出発されたかったのでしょうか。花婿となられる方は、どこから生活されたかったのでしょうか。家庭から生活しなければなりません。それではその家庭生活というものは、どこと連結されなければならないのでしょうか。男性が涙を流しながら世の中と闘争してきた蕩減の道に立った、教会と連結されなければなりません。外的世界や国家形態の生活圏も愛を中心として連結されるのです。それがみ旨の完成であり、私たちの宗教の完成です。

 そうすれば家庭の完成が成されるのです。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、愛を中心として完成がなされるのです。

◆解放圏は天と地を越えた位置に設定しなければならない

 女性解放をなすとき、家庭から解放するのでしょうか、教会から解放するのでしょうか、世界から解放するのでしょうか、天と地から解放するのでしょうか。もし、家庭からだけ解放するというならば、女性解放は成し遂げられません。

 しかし、家庭解放圏なくしては教会解放圏が起こりません。そして教会を越え、国家解放圏、世界解放圏が起こり、霊界解放圏まで起こるようになるのです。そうして天宙解放圏が起こるのです。解放圏をどこに設定しなければならないのかというと、国を越え、世界を越え、天と地を越える位置に設定してこそ、解放の世界が来るというのです。

 それでは、メシヤが来られて花嫁となるキリスト教をどこに導いていかれるのでしょうか。たとえ家庭に定着してそこで暮らすとしても、その暮らしている場は、自分たちがとどまるべき所ではありません。家庭をもち、国を越え、世界を越え、天と地を越える場に定着しなければならないのです。

 堕落することなくアダム・エバが完成するときには、天と地の代表者となるのです。神様がこの宇宙を代表した中心である人間を造られるようになるとき、彼らはすべての男性を代表し、女性を代表した者です。彼らは人類を代表した根っこでした。そうしてこの根っこ一つが、すべての幹と枝と実を全部もっているのです。

 アダムとエバが神様を中心として愛の理想を完成したならば、その位置は家庭的完成の基盤にもなりますが、社会完成の基盤にもなるのです。社会完成の基盤となると同時に、その伝統に従った国が生じ、その伝統に従った世界が生じ、その伝統に従った膨大なる天と地の民が生じるのです。そのようになるその動機とは何かといえば、真の愛であるというのです。

 ところで真の愛というものは、男性と女性を中心として成されるものであって、一人では成し遂げることはできません。男性と女性を永遠に引っ張っていく力をもったものが真の愛です。歴史時代に男性と女性が互いを殺し合うような家庭の最大の患難の時、そのような困難な曲折があるとしても、それを難なく越えさせられるものが、男性と女性が一つとなった愛です。

 その愛があったならば、その愛を中心としていたならば、社会がいくら困難なものであっても問題ではありません。世界環境がどんなに混乱していても、天地がどんなに混乱していても、愛を目的にして、分立することのない個人的な道、家庭的な道、氏族的な道、民族、国家、世界的な道を直行してきたことでしょう。

◆解放されようとすれば女性は男性の三倍以上蕩減の道を行かねばならない

 そのように歩むことができなかったのはどうしてですか。堕落したからです。それでは、どのようにして堕落したのでしょうか。もちろん第一の責任はサタンにありますが、第二の責任はエバであり、第三の責任は男性であるアダムです。サタンは誰と一つとなったのかといえば、エバと一つとなったのです。

 結局、サタンが神様の代わりの立場から、その愛を植えつけたので今日、人類世界の愛の根が神様とならずに悪魔になったのです。魔鬼が根っこになったのです。ヨハネによる福音書第八章を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって」(四四節)という言葉があります。私たち人類において、その根っこが間違ったのです。ですから、その間違った根っこを逆さにしなければなりません。

 ここで根っこをひっくり返すことができる張本人とは誰かといえば、女性です。その根っことなる人間の出発が、家庭であるというのです。それゆえ、女性はこれまで家庭から解放を受けられませんでした。その家庭がそのまま世界を越え、天の国へと通じることができませんでした。女性が愛を中心として堕落したためです。

 それでは、誰がまず蕩減を受けなければならないのでしょうか。女性です。女性は男性の三倍以上涙を流さなくてはならないのです。なぜそうしなければいけないのでしょうか。サタンが蕩減することを嫌うからです。また、サタン世界にいる男性たちが蕩減することを嫌うからです。宗教を信じることを嫌うというのです。宗教を信じることを歓迎する男性を見たことがありますか。人生においてつらく、破れるようになったので仕方なく慰安所を尋ね求めて信じるのであって、もともと男性は宗教を好みません。

 そうして蕩減復帰するためには、女性を中心として涙をたくさん流さなければなりません。女性は息子のためにも涙を流し、夫のためにも涙を流さなければなりません。家庭に問題が生じれば男性が先に涙を流すでしょうか、女性が先に涙を流すでしょうか。女性です。その女性の涙の谷間というものは、夫のためにも泣き、子供のためにも泣き、父母のためにも泣くのです。家庭に困難なことがあれば、女性が全部そこにおいて責任を負い、主人の立場に立つのです。女性を見るとき、この世の誰よりも多くの蕩減の十字架を負ってきているのです。

 そうして、神様が解放を受けるためにも、かわいそうな者を解放しなければならないので、女性を解放しなければならないというのです。女性解放をしなくては、男性解放はありません。それで新婦宗教であるキリスト教文化圏が世界を支配することができたということは、驚くべき事実です。

◆小羊の婚宴の一等花嫁条件

 それでは来られる花婿はおばあさんの花婿ですか、母親の花婿ですか、私の花婿ですか。それが問題です。新郎は一家に三人必要です。おばあさんの新郎、母親の新郎、私の新郎がいなければなりません。

 おばあさん、母親、嫁、娘まで四人が花婿を探し求めるようになるのですが、来られる花婿はお一人です。ですから競争するようになります。それで、一等花嫁という言葉が出てくるのです。小羊の婚宴をするようになれば、特等花嫁を選出しなければなりません。その中でも、一番素晴らしい人はどんな人ですか。顔が美人の人ではなく、涙をたくさん流す人です。おばあさんよりも、母親よりも、妻よりも、姉が涙を多く流せば、そのお姉さんが中心となるのです。

 その涙は、何のために流すのでしょうか。息子、娘をもったならば息子、娘を解放し、その次に自分の夫を解放するためです。自分のために涙を流す人は必要なく、無駄です。どうしてそうなのでしょうか。女性が堕落することによって、夫があのようになったのであり、息子、娘がその影響圏内にいるために、息子、娘のために涙を流さなくてはならず、夫のために涙を流さなくてはならないのです。その一家のすべての先祖の伝統を再び立てるために涙を流した方々が、女性です。ですから、女性がかわいそうなのです。

 今や主が来られるというとき、おばあさん、母、妻、姉と、このように四代が暮らしている場合、互いが「主のところに先に行く」と言えば、大変です。「おばあさんよりも私がもっと福を受けなければならない、主を自分の花婿にしなければ」と言えば問題が起こるというのです。それでは、これをどのように選抜しなければならないでしょうか。自分を中心として涙をたくさん流し、自分を中心として蕩減の道を行こうとする人たちは後ろに下がっていくのです。涙を流すのですが、一家のために、おばあさんのために、母のために、妻のために涙を流すことができるそんな姉がいるとすれば、そのお姉さんが代表者となるのです。

 男性は堕落した天使長の後継者であるために、女性の後ろにいなくてはなりません。復帰されていくエバは士大夫(注:家柄の高い人の意)の一人娘と同じです。女性は父と母を尋ね求めていく立場にあり、男性という者は、これは僕がエバを蹂 躙したために、今は僕の位置に立って侍らなければならないというのです。

◆真の愛によってのみ世界史的解放が可能である

 ゆえに、男性も女性も真の愛を探し求めていかなければなりません。お金を見て結婚した人は地獄に行くのです。愛を中心とした創造理想の中にはお金を見て結婚する法がありません。知識を見て結婚した者も全部地獄行きであり、力を見て結婚した女性も全部地獄行きです。そのような原理はありません。それでは男性と女性が何を見て動かなければならないのかといえば、真の愛です。

 人類全体が願うものとは何かといえば、解放されることです。解放を受けてこそ平和を望むことができるのであって、解放なくして「平和」を言うことはできません。世界史的解放を受けなくてはなりません。それゆえに、世界はだんだん広がっていくのではなく、歴史とともにだんだん狭まってきて、一日の生活圏内に入ってくるようになります。どんなに世界が広いとしても、一時間、一分圏内に世界が狭まるようになれば、それを一遍に乗り越えていくことができる道というものは知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛のみが可能であるというのです。

 真の愛は平面的に、水平的にも行くことができ、四五度にも行くことができ、垂直にも行くことができます。真の愛の世界は愛すれば愛するほど、弱くなるのではなく強くなるのです。それで真の愛は貴いというのです。

 世の中においては、愛するとか何か他の力というものは、作用すれば小さくなります。入力は出力よりも大きくなっています。作用するものはすべて負荷がかかるので消耗が起こるのです。その絶縁体が妨害作用をするところを突破していくとき、必ず消耗が起こるのです。しかし、真の愛の世界はだんだん小さくなるのではなく、だんだん大きくなっていくのです。

 聖人とは、世界人類を愛した人です。そのため、聖人たちはみな世界史的な宗教指導者です。一族を越え、数多くの国境を越えて人類を包摂してきたものが、愛を中心とした世界的宗教圏です。その宗教圏が死亡の世界を突き抜けてきて、世界まで全部門を開き、国境を越えて解放するための過程にあるというのです。国家を越えて、世界を愛そうとする人が聖人です。

◆イエス様は真の愛の家庭を成しに来られたお方

 「聖子」と言えば神様の息子のことですが、そのお方は神様はもちろんのこと、天と地を愛そうとする人です。天と地の愛の圏だけでなく、天の国の王宮法まで愛そうとする人です。聖子は天の国の王子であるので、天の国の王宮法も守り、地上世界の王宮法もすべて守らなくてはなりません。その上に、天の国の王孫たちも愛し、天の国の民も愛し、地上の国の王孫たちも愛し、地上の国の民も愛さなくてはなりません。

 そうして二つの世界の宮殿と、二つの世界の民を愛することができるようになるときには、「神様の息子である」と言うのです。神様の息子は、この地上の民も必要であり、この地上の王族たちも必要であり、あの世の民も必要であり、あの世の王族も必要なのです。

 今日、キリスト教では「イエス様が結婚する」と言えば、あお向けにひっくり返ることでしょう。イエス様が死ななかったならば、花婿となるイエス様は世界に一人しかいなかったのですが、その時、特等の花嫁がいれば、イエス様は男性なので、その特等の花嫁候補を見て結婚したい思いになったというのです。

 そのような思いをもったとして神様が、「それは罪だ!」と、そのようには言われないのです。私が神様であっても、願っていた希望のみ旨を成し遂げることができる真の愛の主人公と真の愛の妻がいれば、真の家庭となれと祝福してあげたはずです。逃げても追いかけていき、祝福してあげることでしょう。

 イエス様は、真の愛を取り戻すために来られました。その真の愛は、一人の人から始まるのです。イエス様が死ななかったならば、婿になったというのです。聖書に「私は千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった」(伝道の書七・二八)という言葉があります。一千の男性の中の中心がイエス様なのですが、一千の女性の中の中心を探し出すことができなかったというのです。

◆天の愛をもった花婿が来る時の現象

 そのような女性の中心を探し出して、女性を解放しなければなりません。今まで女性たちが涙を流しましたが、誰のためでしょうか。男性のためです。男性のために多くの涙を流したのですが、その男性が偽物の男性であるというのです。それで女性たちは、悔しくてもただ耐えながら、神様に祈祷するのです。 舅 を見ても、自分の夫を見ても、息子を見ても、全部父の味方です。すべてが男性の側であるというのです。ですから「舅を見ても信じることができず、夫を見ても信じることができず、息子を見ても信じることができない」と、そのように思うのです。

 そうして女性たちは、男性たちのために多くの涙を流すのです。ところが、今や本物の花婿となられる一人のお方、愛のお方が来られて接ぎ木するのです。

 どうしてそうならなければならないのでしょうか。女性は今まで、真の愛を中心として春を迎えようとしても迎えることができなかったのです。春がなかったというのです。常に秋、でなければ冬だったのです。夏もありませんでした。ですから花開くことができなかったのです。堕落することによって春の季節を失い、夏の季節も失ってしまったのです。秋の季節から冬の季節に越えていかなければならないのですが、それが簡単ではないというのです。秋から冬を越えてこそ春が訪れてくるのですが、この冬がヒマラヤ山脈にあるエベレストよりももっと高いというのです。これを越えなければなりません。

 ですから神様は、家庭的患難時代において、家庭をますます引き上げるのです。家庭を引き上げ、また教会を引き上げるのです。それで一番最後には教会や家庭が、共に全部見えるようになるのです。

 今の世の中を見てみれば、家を出ていった息子、娘たちが全部同じ立場で堕落するのです。会って何時間もたたず、少しあいさつしただけでも愛し合うのです。それは、一日愛圏です。永遠なる愛が、一日愛の果てに来ました。また、愛の問題において「男女の愛が信じられない」と言って、「男は男同士で結婚しよう」といった、そんなことが起こっています。男性が男性と結婚し、女性同士で結婚する人々がたくさんいます。そのようになれば、人類絶滅となるのです。

 誰がこのようにしてしまったのでしょうか。神様は、そのようにすることはできないのです。悪魔が、そのようにしたのです。昔は永遠なる愛を願っていたのですが、一分愛圏内になったのです。そうして「性の解放だ」、「フリー・セックスだ」と言って、一度会って嫌いになればそれで別れるのです。そのような立場にあって、男性も女性もみな不幸なのです。そのように人間は、絶望の淵で絶叫しているのです。そこには希望がありません。

 男性世界が拡大されたものが世界です。そのような男性を中心として縮小した形態、一つの核、細胞は、やはり家庭です。そして、そのような家庭でおじいさんのために涙を流し、父のために涙を流し、息子のために涙を流すそのような人と、それとは反対におじいさんに涙を流させ、父に涙を流させ、それから息子に涙を流させる人の二種類の人がいるとすれば、どちらのほうが残らなければなりませんか。

 それでは、四段階から見るとき、ここで涙を流した代表とは誰でしょうか。縦的な三段階になっている論理を中心として見るとき、その中でも一番十字架を多く負った人が主人の位置に行くのです。

◆イエス様の伝統的思想の起源

 国においてもそうです。愛国者とは何かといえば、その国のすべての国民を越えて、ある人とか、その人の事情を思いやることができる中心存在です。その事情を思いやるところにおいては、良い事情を思いやることは、いつ、どんな時でも簡単です。祝宴を張っている家で、良いものをお膳に調えてもらえば、それを食べるのは簡単です。しかし、それと反対にならなければなりません。

 困難なことに責任を負い、全体を良くしてあげるために涙を流す歴史をもった人は、その一族の根っことなるのです。ねぎやにんにくのように、真ん中から出る茎の根っこは、磐石を貫いていかなければなりません。そうせずに曲がれば、ここからあのてっぺんまで全体が曲がってしまうのです。ゆえに、真ん中から出る茎の根は、磐石を貫こうとしなくてはなりません。まっすぐに伸びなければなりません。

 このように見るとき、家庭において、将来善なる世界が来たときに賞を受けることができる中心存在とは誰かというと、その家庭のために涙を多く流した人です。国において、どのような人が福を受けるのかといえば、国のために生死の圏を越えて、すべての国民たちを代表して十字架の立場を守り通した人です。その人が国の中心となるのです。それが当代でできなければ、その血族から、いつかは必ずその国の主人が生まれるのです。

 この世界においても同様です。誰が世界の中心となるのでしょうか。涙を流すときは、宗教圏内で涙を流すだけでなく、死の道を自ら請いながら長い歴史的時間を経てきたそのような宗教が、この世界を指導することができる責任的立場に立つのです。このように見るとき、血を多く流した宗教がキリスト教です。したがって神様も、キリスト教を通して第二次世界大戦で、世界の統一を許諾されました。それは、歴史始まって以来初めてのことです。

 第二次大戦の時、連合国を中心として枢軸国と対峙して戦いましたが、その時、宗教文化圏が初めて世界を統一するようになったのです。それは、イエス様の思想をもったからです。

 イエス様は、ガリラヤの海辺で漁夫や取税人や遊女を連れて雑多なことをしていると、追われて死んだ方です。ユダヤ教が、「邪悪な輩の集団だ」と言って追い込んで殺したのです。それでは死んだそのお方が、どのようにして世界の文化圏を形成し、世界統一の伝統的精神を、歴史の流れを越えて成就したのでしょうか。その時代にローマとその対峙圏にあったイスラエル圏内において、世界の誰よりも十字架を負ってより犠牲となった人であるからです。

 何をして犠牲となったのでしょうか。聖書を見れば、イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)という祈祷と、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と、このように祈祷したというのです。これを見れば、神様の前に、イエス様の考えはなかったということです。神様の前に、自分の生命はなかったというのです。

 一番高い神様の前にそうだったのであり、それから一番悪い人たち、自分を十字架につけ、くぎを打ち込み、やりでわきを突き刺したそのローマの兵卒に対して祈祷するのに、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)と、そのようにされたのです。ローマを一時に呪っても余りある、天の雷で打って復 讐してもすっきりしない、そのような立場で、彼らに福を祈ってあげることのできる愛があったというのです。そこには怨 讐の概念がないのです。イエス様には自分を中心とした概念がありませんでした。皆さんは、これがイエス様の伝統的思想の起源になったということを、はっきりと知らなければいけません。

◆神様を解放することができる人

 イエス様は自己の主張がありませんでした。神様の前において自分を考えませんでした。死の場において、ローマの兵卒が地獄に行くことを心配しながら怨讐を愛されたのです。神様を愛することにおいてこれ以上はなく、怨讐までも愛することにおいてこれ以上がありません。人格基準が神様と同じであったというのです。神様の息子、娘を救うことにおいて、自分の威信がありませんでした。自分がありませんでした。

 失ってしまった息子、娘を救う求道の道を行かれる神様は、イエス様と同じ立場に立っています。悪魔が怨 讐なのですが、その悪魔の子供たちを自分の息子、娘として、悪魔よりももっと愛さなければならない立場が、神様の立場であるというのです。ですから、どんなにかわいそうなことでしょうか。

 イエス様を死なさざるを得なかった神様を解放するためには、イエス様以上の死ぬことのない愛と死ぬことのない人格的版図を中心として、神様もその前においては、御自分は死ぬとしても息子を死の場に立たたせることはできないという、そのような人が現れなければなりません。そのような人が現れることによって、天と地が解放されるのです。
















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