文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

第一章 教育とは何か

一 教育の真の意味

 皆さんは、息子、娘をどのように育てなければならないのでしょうか。神様がアダムとエバを造られたのと同じように、息子、娘を大切に、立派に、神様のように育てなければなりません。これが教育の標準です。

 それでは、神様のような人とは、どのような人でしょうか。神様のように顔が大きく、生命力があり、能力のある人ではありません。「神様のように愛する人になりなさい!」。そうであれば良いのです。そのようになろうとすれば、完全な人となって、神様のように愛することができればよいのです。神様に似たいと思うのが私たち人間なので、私たちも、神様に似ようとすれば、神様のように愛したという立場に立たなければなりません。

 それでは、神様の愛とは何でしょうか。それを分析すれば、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。父母を愛するのであり、夫婦同士一つになるのであり、子女を愛するのです。この三段階、この三代が一つにならなければなりません。(七六−二八八、一九七五・三・七)

 学校に行って勉強するとしても、自分のために勉強するのではなく、神様がつくられたすべての自然の妙味を自分が深く理解し、神様の心情世界を把握するために勉強しようというのです。これは、どれほど素晴らしいことでしょうか! 神様を知ることによって、より深く愛し、より気高く愛するようになるのです。

 先生が自分に厳格な教育をしても、それは私をして天の愛と自然の愛を吸収するようにし、‘私を中心人物にするためにそのようにするのだ、と考えなければなりません。愛の主人にするためです。自分が社会に出ていって働くのも、激しい風が吹きつけてきても、愛を広めるためであり、愛の真価を表すためだ、と考えるのです。(一〇六−三九、一九七九、一二・二四)

 実力は、短い時間で備わるものではありません。すべてのことを経ていくことによって、実際に苦しんでみることによって、実力を錬磨することができるのです。皆さんが学校に行って勉強する目的は何かというと、人々が実践したすべての経験をそのまま受け継ぐためです。学ぶことによって、それをそのまま受け継ぐためのものが学校教育だということを知らなければなりません。そして、すべての人々の良い実績を受け継いで自分のものにするためには、それらを実際にやってみなければなりません。結局、知って実践することによって、それが自分のものになるのです。(二七−三〇三、一九七四・七・一四)

 誰もが学びの道、あるいは教育の道を行くのですが、その目的は何でしょうか。より善なる世界に前進するためです。より価値的な内容を備えるためです。ですから、より高い次元の前進を誓うのは、より価値的な中心と一致するためです。間接的でも、そのような目的追求の道を行くという事実を私たちは知っています。(一〇九−二六四、一九八〇・一一・二)

 学校で先生たちがザインして推薦しなければ、国に通じる道がありません。父母が「私たちの息子、娘は良い!」と推薦しても通じません。なぜそのようにしなければならないのかというと、社会における愛の公約の法度を通さなければ、国を愛する道がないからです。ですから、社会に出ていくにおいて、最初の関門が学校なのです。教育を受けなければなりません。そして、学校で愛を受けることが、この国とこの世界で愛を受ける基礎になるのです。(一三〇−二〇九、一九八四・一・二二)

 人間を救援するには、教育が必要です。人間始祖は、無知の中で堕落しました。原理結果主管圏から直接主管圏まで行かなければならない段階にいたアダムとエバは、無知でした。少年時代だったのです。幼い時から成長していく中で、神様の摂理の全般的なみ旨を知ることができませんでした。

 ですから、堕落とは何でしょうか。知っている立場で堕落したのではありません。知らない立場で堕落したのです。人間始祖として行くべき本然の道を知ることができずに堕落したので、堕落以後の人間たちは、人間始祖が知り得なかったその基準を越えていくことができません。ですから、この無知な人間を教育していかなければなりません。(一三六−一九八、一九八五・一二・一九)

 教育強化は、いつでも必要です。それゆえに先生は、今まで反対されながらも、いくら困難があっても教育しました。今回も、勝共連合活動を中心として大衆を教育するのです。思想を投入して教育するのです。強化するのです。強化とは、現在より一次元高いところに引き上げることです。

 ですから、自分が経ていくところには、絶対に損害を被らせてはいけません。自分が行ってきた、自分がどこどこを経ていくそのところでは、今現在より一歩でも前進することができ、後退があってはいけません。後退したとすれば、教育強化という、そのような論理は成立しません。

 日常の社会生活や対人関係の活動で、あるいは交渉するすべての分野において、その人たちを激励してあげ、その人たちに力を与えてあげ、毎日毎日影響を与えなければなりません。影響を与えて、良い結果とともに、あすの希望の結果を良くし得る動機を提示する、そのようなところにおいて教育が強化されるのです。

 本を持って壇上で教えることだけが教育ではなく、言葉一つ、行動一つがすべて教育です。女性の服装もそうです。統一教会は、女性が服を着ることも教育です。服装を見れば、自分たちの心と体の反映となり、体は必ず心の反映体なので、服装はその人の人格を反映するのです。

 そのような問題において、日常生活のすべてが教育となる生活圏を成すことによって、その生活圏自体がすべての人に刺激的な影響を与えるのです。教育強化の実効性を私たちの生活を通して連結していけば、そこから社会の発展が成し遂げられていくのです。世界の新しい希望がその場から生じます。(一四四−一七七、一九八六・四・二四)

 本来、教育は、難しい科学など、すべてのことを教えてあげることではありません。それも教えてあげなければならないでしょう。しかし、それが重要なのではありません。人を育ててあげなければなりません。「お前の父と母がこのようにしたので、お前も父と母に従ってこのようにしなさい」と言わなければなりません。ですから、父母が子女に「行ってどろぽうしてきなさい」と教育するのではありません。「お前は人のために、天地のために、数多くの人々のために、このように……」と言うようになっています。それは、天道がそのようになっているというのです。

 学校は、幼年時代から成長して成年になり、社会に進出するときまで教育するのです。大学は、学士、修士、博士コース、社会に進出する時まで教育するのであり、そして社会に出た人々を教育するのは言論機関です。これが破綻しています。今、言論機関が世の中で、自分たちを中心としてお金をもうけるために、あらゆることをしています。社会的な道義を世界に影響を与えるために立っている、という自負心をもたなければなりません。(二七〇−二八七、一九九五・七・一六)


二 真なる師、真なる教育

 神様を中心として動くところには、赤ん坊も必要であり、大人も必要であり、息子も娘もすべて必要です。一つの氏族を中心として、すべて必要です。どのような人でも、その世界ではすべて必要なのです。それゆえに、「世界人類を愛し、民族を愛してから自分を愛そう」、これが天に向かう道です。人類を愛してから自分の家庭を愛さなければならないのです。これが、今後皆さんが教育される伝統です。(二一−一二一、一九六八・一一・一七)

 韓国の人々は、死ぬ教育を受けてきたので、死ぬことには精通している人々です。死ぬ教育、正しく生きて、そして正しく死ぬ方法を教えてあげる教育が、修養の神髄の教育です。(二五−一五八、一九六九・一〇・八)

 預言者や烈士、孝子、孝女たちに、「真のお父様と真の息子、娘を知っているか」と尋ねれば、「知らない」と言うでしょう。世界三十億人類の誰に尋ねてみても知りません。これを教育したならば、教育の中で最高の教育になるのです。朝から夜まで教えれば、神様もこの教育に関心をもたざるを得ません。神様と因縁をもつようにする教育は、ただ一つ、この道しかありません。

 それゆえに、真の父母と真の子女の因縁を教えてくれる教育者は、天上天下の誰よりも偉大な師になることができます。その師は、時間と空間を超越して歴史的な欽慕の対象となることができ、いつでも人類が行く道の案内者になるのです。(二六−四〇、一九六九・一〇・一八)

 善が一瞬のうちに成されることはありません。善なる人になろうとすれば、必ず過去から受け継いでこなければなりません。ですから、教育が必要です。学校に行って学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか。昔から、歴史過程において善の道を築くために犠牲になった人たちは、豊かに暮らした人ではありません。ですから、犠牲になっていった人たちの歴史的思想を受け継がなければなりません。(五〇−九九、一九七一・一一・〇六)

 「黒人のおばあさんを自分のおばあさんのように愛しなさい」、このような教育が人間世界において最高の教育です。それを知らなければなりません。神様も、それ以上のことを教えることはできません。どのような聖人が来ても、それ以上のことを教えてあげることはできない、という結論が出てくるのです。いくら神様でも、いくら聖人でも、それ以上のことを教えてあげるすべがありません。(八九−一五八、一九七六・一一・〇七)

 正しい指導者は、「死ぬときには、愛のために死になさい」と言います。教育の中で最高の教育とは何でしょうか。「死ぬなら愛のために死になさい」ということが最も偉大な教育だということを知らなければなりません。それは、ハーバード大学に行って十の学位を取ることよりも、もっと偉大な教育だ、ということを知らなければなりません。

 私たち統一教会は、何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死にましょう。神様と人類と世界のために死にましょう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まり、このような方向も愛のために始まり、このような目的も愛のために始まったのです。男性と女性も愛のために始まり、父と母も愛のために始まり、息子、娘も愛のために始まり、宇宙のすべてのものも、愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はない、ということを知らなければなりません。これ以上の教育はありません。このように生きていった人は、間違いなく神様の前に行くことを恥ずかしく思わないでしょう。(九三−一八九、一九七七・五・二九)

 愛の生命力がそのまま通じることができる家庭を愛するのが孝子の道であり、国の生命力を中心として愛するのが忠臣の道であり、世界の生命力と愛を連結していく道が聖人の道です。このように考えるとき、このような方向を通して人倫道徳を教育してきた、という概念ははっきりしています。それが正しかったことを知らなければなりません。世界を愛することが聖人の道理だ、ということを知らなければなりません。これが人倫道徳教育の標準となってきました。それが間違いではなく正しかったことを、ここから見いだすことができます。(一一一−一七三、一九八一・二・一五)

 今日、学校問題が至急な社会問題として、アメリカでも、日本でも、全世界で登場しています。師は父母の代わりに、愛でその教え子を教育しなければなりません。永遠の愛をもって教育しなければなりません。その学級で出会った、その時だけの因縁ではないというのです。自分が教えてあげた教え子に対して、一生忘れてはなりません。このような愛の因縁を結ぶことに努力しなければなりません。ですから、自分のすべての知識を愛とともに連結させる師が真なる師なのです。何かの生活方便として月給をもらうために教えるのではなく、愛を抑えることができずに教えてあげざるを得ない、自分の生活が困難になっても教えてあげなければならないという、そのような師にならなければなりません。夜でも昼でも訪ねていき、自分がもっている知識を愛で永遠に伝授してあげ、またそれを受けたいと思う師弟間にならなければなりません。それが真なる師であり、真なる弟子です。(一二七−一六、一九八三・五・一)

 教授たちの断固とした決心と明確な価値観による後進への教育こそ、この時代の要請であるばかりでなく、教える者の基本姿勢でもあります。この点では、宗教指導者と教授たちに共通点があると思います。それは、私たちが知識を伝達し、また研究結果を教育するだけでなく、人生に責任をもって教えてあげなければならないからです。(一三〇−一五、一九八三・一二・一八)

 先生といえば、学校で知識を教えることだけがすべてではありません。人間的な面、人格的な面において、すべてが手本となることができる基準にならなければなりません。中心にならなければならないのです。

 ここに先生たちが大勢来ているでしょう? 父母の心をもって、主人の心をもって、自分の家を守るように学校を守り、学生たちを自分の息子、娘のように教育してみたでしょうか。そのようにしていなければ偽者です。兄弟同士でも同じ道理です。父と母の思想と心情をもたなければなりません。父母が子女を愛するにおいてこのようにしたので、本当に父母を愛するならば、子女も同じようにしなけれぱなりません。同じ理論です。真なる兄になろうとすれば、弟のために自分のこと以上に投入しなければなりません。このような原則で和合した理想的基台と価値観の基本がこの宇宙に設定されれば、謀略中傷は、探し出そうとしても探し出すことができません。不正腐敗というものは、完全に解消されます。そのようになれば、今日、村と村との争いと、歴史過程における闘争論理は適応されません。(二〇三―三〇六、一九九〇・六・二七)

 真の愛を中心として、この社会にも、国家全体にも必要な要件とは何でしょうか。三つあります。一つは何でしょうか,父母が必要です。また一つは何でしょうか。先生が必要ではないですか。教育が必要です。それから何ですか。主人が必要です。ですから、父母は生んで育ててあげ、一人前にしてあげなければなりません。

 師は、三つの心をもたなければなりません。父母の心、そして自分の後継者になることができる、自分の家門を任せることができる人を育てるという心、自分の国を任せることができる人を育てるという心をもたなければなりません。そうしてこそ、一族も、国も、すべて良くなるのです。天国でも同じです。国を見てもそうではないですか。国の大統領が父母の立場であり、学校の教育者は師の立場であり、そして、会社のような所や行政部署は何ですか。主従関係です。会社には主人がいるではないですか。滅びつつあるこの混乱した世の中に、この三つのうちの一つでも出てくれば生きることができるのです。真なる主人に出会えば、真なる師は自然に出会うようになり、また真なる父母も自然に出会うようになります。一つだけ出会えばよいのです。真なる師さえいれば、真なる父母もそこにいて、真なる主人もそこにいるのです。なぜですか。神様がそのようなお方だからです。(二〇三−三六〇、一九九〇・六・一八)

 真なる師とは、真なる父母の心をもち、代身者として母の代わりに教育する、そのような立場に立った師です。そして、真なる父母は、生むだけではありません。育ててあげなければなりません。教育して、自分の一族を相続し得る主人にしなければなりません。枝をつくらなければなりません。(二〇四−四五、一九九〇・六・二九)

 神様は、真の父母であり、真の師であり、真の王です。しかし、世の中では、それを神様がなさることはできないので、神様の代わりに、父母の代わりに、真の教育をしなさいというのです。父母の代わりです。父母の代わりに愛さなければなりません。学費を出せない学生がいれば、自分たちが支援しなければなりません。募金運動をしてでも出してあげる、そのような学校にならなければなりません。もし学校で満たすことができなければ、班を中心として父母と先生が一つになり、彼らを一緒に教育していこうと考えなければなりません。自分の家庭第一主義は滅びるのです。霊界の自由天国に行くことができません。(三〇一−九三、一九九九・四・一六)


三 教育の目標と基準

 過去の歴史は、今の私たちの歴史よりも輝かしいものでした。したがって、このように教育するのです。国史を中心として見るとき、私たち大韓民国の歴史はこうして滅び、アメリカならアメリカの先祖たちがこうして発展したということは、今後、歴史を教育する一つの標準として立てることができます。時代を収拾し得る一つの標準として立てることができるというのです。皆さんは、そのようにすることができる立場に立たなければなりません。(二一−三〇七、一九六八・一二・八)

 私たちが生活するにおいて、自分個体の目的を中心として、それを成すために生きるよりも、全体の目的のために生きなさいというのが、今までの教育や道徳が指向してきた標準です。したがって、個体のために生きるよりも全体のために生きるべき立場に立っているので、人は必ず自分を中心としたものより、公的なもののために生きなければなりません。(二四−二一一、一九六九・八・一七)

 もし父母が子女に、「私がお前を愛し、お前のために尽くし、お前のために苦労して汗を流すのは、私のことを考えるのではなく、この国をもっと愛せよという思いからだ」という愛国者の心情をもって教育すれば、そのような父母のもとで愛の教育を受けた子女は、父母が願う愛国者になるために努力するでしょう。彼は、父母の愛を回想するたびに三千万民族を考えるでしょう。そして、民族のために生きる立場で学び、自分の民族が悲惨な立場に立つときには、自分の父母以上に悲惨さを感じるのです。

 しかし、そのような立場に立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立場に立って成し遂げた基盤がなければなりません。そうしてこそ、それを国民が千年、万年欽慕する要因になるのです。そうでなければ、それはすべて過ぎ去っていきます。このようなすべての問題を考えるとき、深刻だというのです。(二五−九七、一九六九・九・三〇)

 皆さんの家庭は、世界的な家庭になっていますか。もしそのような家庭になっていれば、町内中にうわさが立ち、すべての人々が、「どうしてそのように暮らすのか」と尋ねてみたいと思うのです。見習いたいと思い、教育を受けたいと思うのです。皆さんは、全員がチャンピオンの家庭となり、世界の人々が正しいと認める家庭にならなければなりません。(二九−七七、一九七〇・二・二四)

 一つの家庭で、兄弟がお互いに意見が異なって争っているとき、父母はどちらの側につくでしょうか。先に手を出し自分の欲心のために争う子女の側につく父母は、いません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は、「善でありなさい」ということだったのです。

 誰もが、高次的なもののために犠牲になりたいと思い、国に忠誠を尽くしたいと思うのです。しかし、忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないのであって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩にしかなることができません。

 歴史上に現れた英雄や偉人は、大勢見ることができます。個人の欲望をもって世界を制覇しようとするなら、苦労の過程を経たとしても、神様の立場に立って苦労していないので、彼は、必ず歴史的な批判を受けます。その道は、四方八方にふさがれるようになるのです。それは、かえって悪に接近してはいけないことを訓戒する教育の教材になります。そのようなことがあればあるほど、悪を防備する一つの条件になることもできるのです。しかし、善に立脚した苦労が万民の良心に認められる立場に立った場合には、それを天が目標とする戒律の標準として、あるいは、社会的な協力の基台として、歴史的な中心に、または世界的思想の中心に立てようとするのです。これは、私たちの良心作用から見てみるとき、否定することができません。このようなことを考えてみるとき、統一教会は、今まで受難の道を通して発展の道を整えてきたのです。これがどのくらい発展するのかということは、今後の問題です。(三五−一九六、一九七〇・一一

 愛国者は、一日で育つのではありません。自分の先祖から教育を受けなければなりません。父母から、国を愛さなけれぱならないという教訓を骨髄深くに染みわたるように受けた因縁がなければならず、そこで生涯の指針を定め、目的を決めなければなりません。自分自らが動機になるのではありません。どのような愛国者でも、自分自らが動機になって愛国者になったのではありません。必ず、自分の先祖から教育を受けるか、あるいは良心の深いところからある衝撃的な感動を受けたことが動機となり、生涯路程全体がその動機による結果を尋ね求めていくようになるとき、愛国者として登場するようになるのです。このことを皆さんは知らなければなりません。

 いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。

 子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそそれが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。

 以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。

 世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をとらなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。(三六一七三、一九七〇・一一・一五)

 今は、どのような時なのかというと、心と体が闘う思想戦時代です。誰の考えが良いか、心を見なさいというのです。そうではないですか。心の闘いなのです。歴史は何をしてきたのでしょうか。一人の人を失ってしまったので、人を再創造し、復帰していく道です。ですから、「体的世界の制覇を夢見る王子たちよ、あるいは英雄たちよ。出てきてやってみなさい! それで滅べば、そのようにしてはいけないという教育材料にするだろう」と、神様はそのようにされるのです。それを知らなければなりません。それが神様です。誰か、自分の心を中心として誇ることができる何かや体制があれば、出てきてそのようにしてみなさいというのです。そのようにして滅べば、その伝統的資料を収集するのです。そして、真なる息子、娘として教育することができる教本を作らなければなりません。(六〇―七四、一九七二・八・六)

 先生自身も、監獄で孤独だったことがどれほど多かったでしょうか。孤独な立場にいるとき、慰労してくれた事実はいつまでも忘れられません。親戚や、誰かが来たことは、忘れることができます。しかし、そのような愛の因縁を結んだ人は、忘れられません。それを見れば、怨讐だからといってすべて悪いのではありません。このような立場を通して教育になり、学ぶことがいくらでもあることを私は感じました。

 ですから、皆さんも、食口(家族)の中で誰かが軍隊に行くとか、あるいは監獄に行くようになれば、先生ももちろん訪ねていかなければなりませんが、行くことができなくても皆さんは、そのような人生を残し、そのような因縁の道を行かなければなりません。そのようにすれば、相手に、生涯このように良いことをしなければならないという教材を、一つの教育標準を残すことができるのではないでしょうか。そのような体験をした人は、自分が死ぬときに、その子孫の前に「そのような人になりなさい」という遺言をしてから死ぬようになるのです。(六三−三〇五、一九七二・一〇・一四)

 世の中に監獄を好む人はいません。ところが、これを友と思って歌を歌うことができ、友と思って話し合うことができ、戯れることができ、これに相対することができるようにする教育がなされたとすれば、それは、教育の中の最高の教育です。このような教育を受けることができる所は監房しかないので、監獄も悪くないというのです。

 私がこのような話をしようとすれば、きりがありません。はえ一匹でも、慕わしさの対象になります。「ああ、お前が言葉を話すことができれば、私の願いを聞いてくれて故郷にも伝えてくれるのに」、故郷まで飛んでいくことができるというのです。「便りをもってきてくれるのに」と、はえ一匹が友達になり得るのです。小さな虫のはえといえば、みな嫌いますが、このように友達の中の友達であり、人の対象であり、話し相手になり得るのです。それ以上の教育を受けることができる所は、天地に監房以外にはありません。ですから、監房は悪くないというのです。(六三−二一九、一九七二・一〇・一四)

 教育や倫理というものは、すべて善を標準として行くのです。善を標準として行く道は、易しい道ではありません。苦痛の道です。私の体が願うすべてのことは、本質と衝突する逆理的な路程です。ですから、その道を行かなければ、善なる結果を得ることはできないというのが、今日、私たちが受ける社会生活における教えの標準です。

 「万民は、善なるものを願っていくので、神様のために生きる前に、人のために生きなさい。人類全体のために生きなさい。人を愛しなさい。人のために生きなさい。人のために生まれたのだ」という教育を受けなければなりません。自分のために生まれたのではありません。自分のために生まれたのならば、天使長復帰の路程を明らかにすることはできません。天使長が人間のために生きることができない立場に立つことによって堕落をもたらしたので、自分だけのために生きるのならば、これを蕩減し得る道を見いだすことはできないというのです。(六四−一八、一九七二・一〇・二二)

 人々は、良い心をもって犠牲になる人を好むようになる、ということの具体的な内容は分からなくても、漠然と今日の人倫道徳を中心として、一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを知っています。それはなぜでしょうか。落ちた立場でより高い一点を望んでいるので、天は、そのような立場にいる者に一対一の立場で詳しく教えてあげることはできないのです。ですから仕方なく、ひそかに、象徴的に、あるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげたのが、今日の「善を行いなさい」、「積善しなさい」という言葉だ、という事実を知らなければなりません。(六五−一一七、一九七二・一一・五)

 教育するためには、教材が必要です。国を代表して教えようとすれば、国を代表した教材が必要なのですが、その教材の材料をどこで収拾するのですか。国の国民から収拾するのです。主権者と国民を中心として、為政者と国民を中心として、材料を収拾しなければなりません。韓国政府はどうで、韓国はどうでなければならないということと同じです。

 今後、世界的な教育をしようとすれば、世界復帰の教材をつくらなければならないのですが、それをどこでつくるのですか。その材料は、その国のために、その民のために犠牲になり、誰よりも苦労した善なる君主と善なる民でなければなりません。その民は、苦労した民でなければなりません。そのようになるときには誇ることができますが、そのようになることができないときには誇ることができません。ですから、韓国を誇ろうとすれば、韓国の群れを死ぬほど苦労させなさいというのです。大韓民国だけのために生きるという意味ですか、世界のために生きるという意味ですか。真心をもって犠牲になることが世界的でなければならないということです。(六五−二一六、一九七二・一一・一九)

 今日の人倫道徳の基準は、善なる人は人のために犠牲になる人であり、悪なる人は人から搾取する人だということになっています。教育の標準をそのように立てています。(一〇二−二三四、一九七九・一・一)

 神様はどうでしょうか。「お前たちが私を愛しなさい! お前たちが私のために犠牲になりなさい!」、このような神様ならば、どうなるでしょうか。それは、神様ではありません。神様が伝統を立てるためには、御自身が先に赤ん坊のおしめを取り替えてあげ、父母の下の世話をし、先に犠牲奉仕して、温柔謙遜な教育テキスト(教材)のセンターにならなければなりません。(一一六−八九、一九八一・一二・二〇)

 アメリカの人々は、今まで自分の子供たちをハーバードのような立派な大学や大学院に送り、博士コースを経ていくようにすべての精誠を尽くしてきたのですが、統一教会の教会員になれば、人間訓練をさせるのです。「千万人があなたを責めるだろう! 嘲弄するだろう! しかし、それを消化することができる人にならなければならない」と教育するのです。訓練です。伝道前線で、目前であらゆる侮辱を受けるのです。つぱを吐かれるのは普通です。足でけ飛ばされ、本当に悪辣なことを被りました。統一教会には、ありとあらゆる歴史がすべてあるのです。その歴史を皆さんは知らなければなりません。(一三八−二八〇、一九八六・一・二四)

 神様が平和の教育材料を地上の人間たちに教えてあげようとすれば、どのような材料を求められるでしょうか。愛の材料を求められるのです。愛の材料を求めようとすれば、愛という言葉、それは見えないので、愛をもった男性と女性を求められるのです。それは、必然的帰結です。女性が自分の体以上に男性を愛することができる、そのような概念をどのように発掘するのでしょうか。これが問題です。統一の起源、平和の起源をどのように探し出していくのか、ということが問題です。

 それを可能にし得る力がなければならないのですが、その力が愛だというとき、その愛をもって自分の位置を否定し、相対の位置を高めることができる、このようなことを理論的に何を追求して立てなければならないのかというのです。(一九三−一五三、一九八九・一〇・三)

 アダムとエバを中心として、子女教育の材料が出てこなければなりません。また、兄弟教育の材料、それから夫婦教育の材料、父母教育の材料、そして家庭がどのように育つという材料、氏族がどのように育っていくという氏族的材料が出てこなければなりません。このようにして、蘇生的家庭を中心として、蘇生、長成、完成ですべて終わるのです。氏族編成です。これをモデルとして世界化すれば、国になり、世界になります。そのような教育をし得る教材は、この地にはないのです。今から天の国や地上で、家庭はどのようにならなければならず、理想的家庭はどのようにならなければならないかという教材が、文総裁の教育方法として、ホワイトハウスの図書館や世界の図書館に納入される時代が来たのです。(二三三−三三五、一九九二・八・二)



















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