文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

第二章 神様はどのように人間を教育されたのか

一 神様が人間を教育された理由は

 神様は、四千年の歴史を通して、繰り返し受難の道を歩まれながらも、将来、イエス様のみ旨を受け継ぐことができる世界的な基盤ができることを願われながら、イスラエル選民を育ててこられました。しかし、そのようなイスラエル選民は、専門家であられるイエス様の前で、希望をもつことができない立場に立ってしまいました。このようなイエス様は、御自身が専門家としての権威をもった立場に立たれながらも、そのようなイエス様に対し得る相対がいなかったので、これを地上で新たに模索しなければなりませんでした。それゆえに、彼らを再び教育しなければならない立場に立つようになったのです。(二九−八三、一九七〇・二・二五)

 皆さんは、自分の子供一人を教育することも大変でしょう? その子供は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、教育しようとすれば、非常に難しいのではありませんか。それを見るとき、今日、私たち人間は、神様の息子、娘ではないというのです。神様がどれほど泣かれても、見て見ないふりをします。神様がどれほど悲しまれても、見て見ないふりをするのです。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。’滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神様は、このような人間を指導し、彼らに開拓の方向を教えてあげようと、どれほど苦労してこられたでしょうか。しかし、一から百、千、万まで「ため」に生きようとする心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、今まで神様が摂理歴史を抱き抱えてくることがおできになっただろうかというのです。

 今日まで摂理歴史を引っ張ってこられた神様の、その事情と立場はいかなるものだったかいうと、哀れに思われる心で、「私がいなければ彼らは滅びる、滅びることが本然の人間に賦与された目的ではないことをはっきりと知っている私によらなくては、彼らは滅ぶ」と思ってこられたのです。神様は、人間には絶対的に神様御自身が必要だということを御存じなので、これを教えてあげるために、今までの歴史過程において、意に介することなく受難の道を開拓してこられたのであり、数多くの人間を教育してこられたのです。これが神様の立場です。(四二−二五七、一九七一・三・二一)

 堕落した人類を救うために、今まで神様は、愛の心をもってこられました。愛の心をもってこられた神様は、摂理の出発当時から、人間たちに知識の内容を教えることよりも、人間はこうでなければならないという内的な真理を教育することよりも、また社会と世界に対する事情を話すことよりも、もっと価値のある愛に対する内容を教えてあげなければなりませんでした。

 神様が人類に対して教えるにおいては、最も重要なことを中心として教えなければなりません。愛する子女に父の立場で教えてあげることができる教育があるとすれば、それは何でしょうか。愛しかありません。(四二−三四〇、一九七一・四・一一)

 お父さんとお母さんを中心として生まれる時、新郎新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれて、愛の教育を受けるのです。その父母は、息子、娘にどのような教育をしなければならないのでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。お父さんとお母さんがけんかする愛の教育ですか。けんかする愛という言葉はないでしょう? お互いが一つになる教育をしなければならないというのです。

 それゆえに、神様の愛を中心として、神様の前で愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源とはどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは、神様から愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。それでは、愛の教育を受けるのはいつまででしょうか。父が知っているすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは、父母の愛を受けて育たなければならないのです。(五一−一七一、一九七一・一一・二一)

 愛の神様を中心として、愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバに、愛の教育基準というものがあったでしょうか、なかったでしょうか。なかったとすれば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準とは何か、ということが問題です。皆さん、天国に行きたいでしょう? しかし、天国に行ってからではそのような教育を受けることができません。この地上で教育を受けて生活したのちに行かなければなりません。この地上においてその教育をしなければ、大変なことになります。受けなければ大変なことになるというのです。

 それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもたなければならないのでしょうか。父母と子供という関係なので、父母が行く所には、常にそのあとについていかなければなりません。父母が山に登ればその山についていき、谷に下りていけばその谷についていき、洞窟の中に入っていけばその洞窟の中についていかなければなりません。常に父母と共にいなければならないのです。顔を見ないときは、見たいと思うでしょうか、見たくないと思うでしょうか。もし神様が、息子と離れなければならないとすれば、離れることができるでしょうか。神様は、絶対的なお方なので、絶対的に見たいと思われるのです。絶対的なお方なので、好んでも絶対的に好まれるのです。「神様、来るというのならば来て、来ないというのならば来ないで、どこかにいるというのならばいて、いないというのならばいないで……」。それでよいのですか。絶対的でなければなりません。

 それゆえに神様は、子供たちの生命の母体です。そうではありませんか。父母は、その子供の生命の母体でしょう? 生命を育ててくれるのです。生命の母体です。愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護し、育て、愛してくれるのです。ですから、幸福はどこから出てくるのでしょうか。保護圏が成立しなければ、生命が脅威にさらされるようになります。生命が脅威にさらされれば、愛も成立することができません。今、正に死ぬというのに、愛が成立しますか。成立しません。それゆえに、保護圏がなければなりません。それで、保護圏をつくったのですが、保護すべき者が誰だったかというと天使長です。アダムとエバは、生命の起源であられる神様から生命を受け、天使長の保護を受けながら愛の教育を受けている途中だったのです。

 アダムとエバがその教育をすべて受けていれば、神様は、どのようにされたのでしょうか。「エバもこのように愛し、アダムもこのように愛し、私があなた方をこのように愛したので、あなた方は、お互いに、私があなた方を愛したよりももっと愛しなさい」と命令されていたのです。それでは、アダムとエバの二人が、神様が彼らを愛したよりももっと愛することができる道とは、どのような道でしょうか。彼らが成熟して、二人がお互いを愛すること以外には、神様よりももっと愛することができる道はありません。

 神様御自身は、一つの体です。二性性相の主体として存在されているので、御自身の中で愛すると言い、「男性的主体の位置だ。女性的対象だ」と考えて愛を感じることができるかもしれませんが、男性と女性が分立した立場においては刺激的な衝撃を感じることはできません。したがって、アダムとエバが、神様を差し置いて、自分たち同士でより衝撃的に愛する姿を御覧になる時、愛の主体であられる神様は、それを悪いとは思われません。なぜでしょうか。その二人が一つになったその位置を相対にして喜びを感じることができる主体者であられるので、その相対がより価値的な愛を感じるようになる時、神様も幸福をお感じになるからです。それが、人間創造を中心とした神様の愛の第一法度ではないかというのです。したがって、そのような愛の教育を受けなくては、その位置に進み出ることはできません。(五一−一七三、一九七一・一一・一二)

 本来のアダムとエバが神様から愛の教育を受けることができなかったので、イエス様が、「このように愛して生きなければなりません」と言って、その愛を父と母に教えようとされたのです。しかし、イエス様の父と母は、その言葉を聞きませんでした。

 愛を教育するにおいては、ユダヤ教の礼法を経た立場で、聖殿理想を完成した立場で行わなければなりません。イエス様は、神様の代わりとして、父の代わり、新郎の代わり、兄の代わりとして、愛の主人公として来られたので、マリヤの家庭全体は、イエス様を神様の代わりとして侍らなければなりませんでした。イエス様は、ヨセフに対して「おい、ヨセフよ!」と言わなければなりませんでした。ヨセフが父ではないというのです。また、マリヤに対しても、「マリヤよ!」と言わなければなりませんでした。彼らが教育を受けなければならなかったのです。

 しかし、彼らが教育を受けるようになっていましたか。人情を通して見るときは父子の関係でしたが、天情を通じて見るときにはイエス様が主体であり、イエス様が神様の愛の代わりとして来たので、その愛の道理に従って、その父母から兄弟までが、みなイエス様から教育を受けなければなりませんでした。お父さんとお母さんはどのように生きなければならず、兄弟たちはどのように生きなければならず、兄弟たちの中で、私の相対はこれこれこのような女性でなければならないという教育をしなければなりませんでした。ところで、イエス様がそのように教育してみましたか。聖書にそのような話がありますか。青葉を除き、二葉の話だけで「天国に行こう」と大騒ぎしているのです。(五一−一八七、一九七一・一一・二一)

 イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネなどを中心として、三年の公生涯路程を歩んでいきました。イエス様が、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われながら、弟子たちの足を洗ってあげたのはどういうことでしょうか。それが父母の立場です。父母の立場で教育したのです。しかし、彼らは、教育されたとおりにすることができませんでした。死ぬ時は父母と共に死のうというのが、イエス様の教えられた思想の骨子でした。子供は、父母が死ぬ前に父母の身代わりに死ななければならないというのが、イエス様の教えだったにもかかわらず、彼らは、父母が死のうとしている場所から逃げていったのです。(五一−一九四、一九七一・一一・二一)

 人格的な価値は、相対を中心として決定されます。したがって、夫となった人は、その妻にとって神様よりももっと素晴らしい方として記憶されなければなりません。妻が「私は、神様を見ることができませんでしたが、私の夫を通して神様を見たのであり、世の中の純粋な愛を知りませんでしたが、夫を通して世の中の純粋な愛がどのようなものであるかを知りました。夫を通して兄の愛がどのようなものであるかを知りました。また、夫を通して兄弟の愛を私は知りました。夫は、すべての愛を教えてくれた主人公です」と言うことができる、そのような夫にならなければなりません。そのような、母の代表、新婦の代表、姉の代表としての心情を誘発することができる愛の因縁を体恤しながら生きていく男性にならなければなりません。

 そのような教育を受けて、そのような教育でなくては「窒息してしまう」と言うくらいに、それが生活において習慣化され、どの社会に行っても、年齢の高い人に対すれば、私のおじいさんだと思い、そうでなければ、私のお父さんやお母さん、私のお兄さんやお姉さん、私の妹だと思える心情をもたなければなりません。そのような心情が世界の至る所で普遍化し、そのような家庭における心情が普遍化できる環境が展開する所であれば、そこは間違いなく天国です。そのように生きる人は、どこに行こうと反対を受けません。その人がどこに行こうと、神様は、その人と共にいらっしゃるのです。それゆえに、その人は、どこに行っても寂しくないのであり、どこに行っても滅ぶことがないのです。(五一−一九九、一九七一・一一・二一)

 イスラエルという、選民思想をもった民族がいることを思うとき、私たちは、「神様はいない」と否定することはできません。それでは、イスラエルの国の主目的とは何でしょうか。サタン世界のいかなる国家よりも、神様のために忠誠を尽くし得る国とならなければならず、その国を支配し得る中心存在を迎えなければなりません。そのために神様は、数千年にわたってメシヤを送られることを約束され、それに対する教育をしてこられたのです。(五三−一二六、一九七二・二・一三)

 神様は、ごみのような人間たちが天国の王子となる日を見つめながら、彼らを教育してこられたという事実を知らなければなりません。天国の玉座圏内に行くにおいては、私の家庭を犠牲にして国を救い、国を犠牲にして世界を救い、世界を犠牲にして天の国を救わなければなりません。そのようにして、地獄を解放しなければならないので、統一教会の家庭が行く道は、涙が乾くことがないのです。(二三−九九、一九八一・五・三)

 宇宙天地間における最も気高いお方とは誰でしょうか。神様です。ですから、神様を中心として一つになって爆発的作用をなし、神様と人間との調和によって雷が鳴り、稲妻が走れば、その愛に夢中になっているのを誰が切り離すことができますか。独裁者が、それを「嫌だ」と言って、抜け出ようとしても、頭が離れても、足が離れません。抜け出ることができません。実感がわくでしょう? 愛の流れを中心とした天地の調和は、昼でも夜でも私たちに刺激を与え、私たちが活用することができるように、その教育教材となっているのです。しかし、それにもかかわらず、この堕落した悪の人間たちは、なぜこのように混乱し、なぜこのように「死ぬ」と言って大騒ぎし、邪悪な戦争によって滅ぶようなことを引き起こしているのかというのです。それを収拾し得るのは、いくら見ても統一教会しかないので、神様は、統一教会の文先生をつかんで永遠に離すことができないというのです。(一七三−五五、一九八八・二・一)

 数多くの宗教指導者は、どこを中心として連結されるのでしょうか。横的な誰かを中心として連結されているのではありません。イエス様のような人は、「ああ、私は、私のお父さんを信じて出発した」とは言いませんでした。横的な自分のお父さんやお母さんではありません。お父さんやお母さんを超越して、縦的な基準に立つことができる神様を中心として出発したのです。それが偉大なことです。

 このような観点から見るとき、全世界の宗教を批判するにおいて、生活法度を中心とした教育がより重要か、心情的内容を備えて神様と人間との愛の内容を強調する宗教がより重要かという問題を、私たちは分別することができます。(一七五−二四二、一九八八・四・二四)

 この世の中を原状回復するために、天は、聖人を立てて天道を明らかにし、宗教を通して人類を教育してこられました。悪なる世の中において、善を立てて実践することが簡単であるはずがありません。義人、烈士たちの犠牲もそのためだったのであり、真なる修養の道が、骨を削る自己犠牲であり、無条件に施す道でなけれぱならないこともその例です。二九〇−三二二、一九八九・六・二・三)

 今まで神様は、どのように復帰摂理をしてこられたのでしょうか。神様は、父母の立場で今までこの人類を導いてこられました。さらには、師のような立場で、歴史を通して無知なこの人類を教育してこられました。それでは、父母のように、師のようにして教育し発展させたのちには、何をされるのでしょうか。父母の代わりに、師の代わりに主人の位置を任せてあげようとされるのです。これが、救援摂理の目的、さらには堕落がなかった時の創造目的でした。父母を身代わりし、師を身代わりする主人の位置−その主人は主体です。(一九八−六〇、一九九〇・一・二一)

 神様がこの宇宙を創造される時は、人類の愛の対象として父母の立場に立たれたのであり、その次には、この人間たちが愛の理想の立場に到達することができるようにするために、「これこれこのように歩まなければならない」という原則的路程を中心として教育し、訓示し、そして完全に成長したのちには、「父母の立場を代理し、師の立場を代理して永遠の中心の立場を守る主人となりなさい」ということを願われたのです。主人となってくれることを願われたというのです。(一九八−六一、一九九〇・一・二一)


二 神様の恨は人間を教育できなかったこと

 神様が教育することができなかった、息子、娘と、兄弟と、夫婦と、父母の伝統を受け継がなければなりません。それが、四位基台の完成であり、創造目的です。神様のみ旨の完成とは何かというと、創造理想の完成です。神様の創造理想の完成とは、四位基台の完成です。四位基台の完成とは何でしょうか。神様の真の愛を中心として、子女として教育し、兄弟として教育して、それから夫婦として教育しなければなりません。また、その家庭における父母として、神様の伝統を受け継ぐ教育を受けることができなかったことが恨なので、それを再現して、一つの王族的基準を皆さん各自の家庭から出発させなければなりません。そのようにすることによって、神様の再創造が完成した地上世界となるのです! (二二三−二〇一、一九九一・一一・一〇)

 神様の恨とは何でしょうか。息子、娘を教育することができなかったことです。本当に完成した息子、娘を教育することができなかったのであり、兄弟を教育することができませんでした。現在、それに対する代案がありません。教育原論がありません。統一教会の家庭原理を中心として、完成約基準、人格的完成……。愛を中心としたこの論理が教育の原本です。神様の願われた息子、娘を教育することができなかったことが恨です。兄弟であるアダムとエバが、兄弟の道理を守ることができる道を教育することができなかったのです。今まで神様は、本当に御自身の子女を教育したことかありません。統一教会を通してその教育をしたい、というのが神様の希望で

 本当に神様の愛と一体となったその人間は、兄弟です。アダムとエバは、兄妹だというのです。その兄妹は教育されたことがありません。統一教会がそれをしています。それを終えれば、本当の夫婦になります。子女を生んで、神様が教えてあげたかった、そのような教育をした人はいませんでした。

 一つの家庭において、男性と女性の二人は、子女であると同時に兄妹です。アダムとエバがそのようになっているというのです。また、それが夫婦であり、神様の代わりとなる立場では父母となるのです。神様の理想である本家の教育をすることができなかったその基準を中心として、世界を教育しなければならないというのが統一教会の使命です。(二二三−三五七、一九九一・一一・二〇)

 神様の今までの願いとは何かというと、真の愛を中心として、息子、娘を神様の理想に一致させ得る教育をすることです。神様の愛を中心として、神様の真なる家庭における兄弟の因縁を教育し得なかったことが恨です。

 ですから、神様の子女として、神様の愛を中心として、家庭を中心とした教育をすることができなかった恨があるのです。それから、兄弟が生きていくべき教本が出てきていません。その次には、夫婦として生きていくべき教本が出てきていません。父母がどのように生きるべきかという教本が出てきていません。神様を中心として、天国の伝統的家庭を中心とした家庭的教訓が出てきていないというのです。これを再現するのが今日の統一教会です。(二二四−三〇、一九九一・一一・二一)

 神様の願いとは何でしょうか。今まで神様が教育することができなかったこととは何でしょうか。真の愛を中心として、御自身の息子、娘を教育することができませんでした。「息子、娘はこうでなければならない」という教育をすることができなかったのです。子女に対して、家訓を中心とした公式的基準による教育方法を実践することができなかったというのです。

 子女が大きくなれば、兄弟になるのではないですか。兄弟たちはどのように生きなければならないのか、という教育をすることができませんでした。その兄弟が大きくなって夫婦となるのでしょう? アダムとエバがそうではありませんか。その夫婦がどのように生きなければならない、ということを教育できませんでした。また、夫婦となれば、お父さんとお母さんになるのでしょう? 神様の真の愛を中心とした家庭のすべてのモデル的段階、すなわち子女から兄弟、夫婦、父母となる、このような面で教育をすることができませんでした。それゆえに、父母の真の愛を知らず、夫婦の真の愛を知らず、兄弟の真の愛を知らず、子女たちの真の愛を知らないのです。これを私たちが教育しなければなりません。

 また、女性の前において、アダム的代表のようなお兄さんがいませんでした。それから、兄弟と同じ因縁をもつことができる男性がいませんでした。「お兄さん」と言えば、兄弟のことでしょう? それから、真なる夫と同じ夫が現れませんでした。なぜでしょうか。完成しなかったからです。それから、父母となる基準も現れませんでした。それらすべてのものを失ってしまいました。それを再び探し立てようとすれば、女性たちの前に、そのような夫の代わりとなるモデルが現れなければなりません。(二二四−七九、一九九一・一一・二一)

 神様の恨とは何でしょうか。第一は、天の子女の教本を立てることができなかったことであり、第二は、天の兄弟の教本を立てることができなかったことであり、第三は、天の夫婦の教本を立てることができなかったことであり、第四は、天の父母の教本を立てることができなかったことです。四代を教えることができるテキストブックを作って人類を教育し得なかったことが神様の恨です。神様がすべて教え、すべて行くことができるようにされていれば、今日のこのような悲惨な姿はなかったでしょう。このような悲惨なすべての姿を見つめられる神様は、御自身が責任をもって教育し得なかったことを嘆かれながら、教育し得るその日を探し求めて今日まで歩んでこられたのです。

 それゆえに、新しい国となり、新しい国の民となるためには、このような教育原則に合格した人にならなければなりません。神様の恨を解怨し得る個人と家庭と氏族と民族と国家になってこそ、新しい国になるというのです。

 兄弟を憎むことは、神様を憎み、父母を憎み、将来の自らの相対圏を破滅し、否定することです。愛を取り去ってしまうことです。ですから、そのような人は、神様だけでなく、父母や万物全体が嫌います。神様から真の父母、被造世界全体の怨讐の位置に立つようになることを知らなければなりません。神様は、アダムとエバがそのように生きるように教育することができなかったのです。

 そして、万物を見れば、万物の半分……。右弦と左弦があるというとき、右弦をプラスとし、左弦をマイナスとすれば、こちらは男性を代表し、あちらは女性を代表します。また、男性は天を代表し、女性は地を代表していて、前後を中心として見れば、男性は前を代表し、女性は後ろを代表しているのです。ですから、球形理想を成す相対的条件を無視してはいけません。それはどういうことかというと、相対的条件を無視すれば、神様と人間だけでなく、被造世界もすべて嫌うというのです。相対的存在を否定するので、そのような立場に立つようになることを知って、今日、このような教育を徹底的にしなければなりません。それが、神様が教えてあげたいと願われた教本の内容です。

 その女性の前に神様がいて、その女性の前に父母がいて、その女性の前に愛の相対がいます。それがエバです。それと反対の立場にいるのがアダムです。アダムの前に神様がいて、アダムの前に父母がいて、アダムの前に相対であるエバがいます。このようになっているので、アダムとエバが、将来、神様の代わりとなり、父母の代わりとなり、息子、娘の代わりとなることができるのです。生産することは、全宇宙を代表した主人の資格をもつ息子、娘を生むことであって、自分の息子、娘を生むことではありません。三大愛を中心とした存在として、子女教育を徹底的にしなければならないというのです。(二二五−二一五、一九九二・一・二〇)

 神様の恨とは、アダムとエバが息子、娘として完成するように教育し得なかったことです。天地を代表した教育の原本、教育の定義を中心として、教育し得なかったことが恨です。それから、天の家庭の教育教本がないというのです。兄弟とはこうでなければならない、ということを教えることができませんでした。それから、夫婦とはどうでなければならない、という夫婦に対する教本がありませんでした。

 それを探し出さなければなりません。夫婦はどのように生きなければならないのか、男性はどのようにしなければならず、女性はどのようにしなければならず、普段、家庭において、どのように生活しなければならないのか、ということを教えることができませんでした。それから、宇宙の中で、天地に対して男性は天を代理し、女性は地を代理して合徳するという問題をはじめとして、男性は右側であり、女性は左側で、東西を連結するという問題、また前後の兄弟関係を円満にするという問題等を教えることができませんでした。このように神様の愛を中心として、夫婦が伝統として受け継ぐ教育を受けることができませんでした。

 この四大教育をすることができなかったのです。この教育を受けた人たちが息子、娘を生んで家庭訓練をすることができなければならず、また一族を従えた長となって霊界に入っていかなければなりません。霊界に入っていくときは、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成をすべて成し遂げなければならないというのです。(二二六−一五六、一九九二・二・四)


三 伝統・教育・実践の三大綱領

 皆さんは、伝統を受け継ぐだけでなく、教育をしなければなりません。誰にですか。皆さんの息子、娘と、皆さんの夫、皆さんの妻に教育をしなければなりません。「私の夫は素晴らしい方だ」、「私の妻は素晴らしい方だ」と言って、尊敬しなければなりません。夫婦がそのようになって、息子、娘たちを教育しなければなりません。その次には、正しく教育するだけでなく、正しく実践しなければなりません。これが三大原則です。伝統・教育・実践、それだけが今後残るものです。

 ですから、先生もそのようなことをするのです。皆さんに伝統を立てさせるために、皆さんを教育するために、ひたすら先頭で走っているのです。先生の息子、娘たちは知らなくても、統一教会の人々は、それをすべて知っています。息子、娘たちも大きくなることによって、父親が立派であるということを知り、それをすべて学ぶようになっています。皆さんがすべて垣根となって動くので、先生の息子、娘たちは、自動的に学ぶようになるのです。そのように、一つの家庭を単位として、氏族、民族、国家、世界に拡大していかなければなりません。

 伝統を正しく受け継がなければなりません。先生の伝統、神様の伝統をです。先生が苦労したのも、神様の伝統を受け継ぐためでした。神様がこのように歩まれたので、その教育を受けて私がそれを実践するのです。簡単なことです。(一一三−三〇三、一九八一・五・一〇)

 今後、教育をするにおいて強調すべきことは、伝統と教育と実践です。伝統を知らなければなりません。私たちの伝統を尊重しなければなりません。新しい国の伝統を立てなければならず、その伝統を中心として教育しなければなりません。教育をするためには、韓国に対するあらゆることを知らなければなりません。また、日本に対して知らなければならず、アメリカに対しても知らなければなりません。また、アメリカの食口は、日本の伝統も知らず、韓国の伝統も知りません。日本の食口も同様です。韓国の伝統を知らないというのです。(二一六−一三六、一九九一・三・九)

 私たちの教会の三大目標は、伝統と教育と実践です。教育は、伝統がなくてはできません。伝統とは何でしょうか。もちろん、今まで歩んできた先生の蕩減路程もすべて教育しなければなりませんが、皆さん自身が、皆さんの各家庭において伝統を立てなければなりません。先生の歴史は、迫害を受けながら闘ってきた歴史ですが、皆さんの歴史は、迫害を受けずに歓迎されながら戦ってきた歴史です。この二つの歴史を一つにしなければなりません。先生が迫害を受けながら闘ってきた実績を褒めたたえなければならず、皆さんにおいては、迫害を受けない立場でどれくらい全国的に、アジア的に、世界的に影響を及ぽしたのかということを整理しなければなりません。その二つが一つにならなければなりません。

 それゆえに、二世や三世を中心として、各国の全体を中心として、行政省庁や会社、どのような組織にも影響を及ぼすことができる資格を備えた専門分野のクラブを編成しなさいというのです。最も貴いものはみ言です。彼らに精神的姿勢、垂直的姿勢を備えさせることができるものはみ言です。み言で教育するのです。横的な規定がいくらあっても、それには中心がありません。それは、この世においてのみ利用することができるものであって、あの世においては何の関係もありません。(二二六−二八一、一九九二・二九)

 伝統があってこそ、教育することができるのです。伝統に従って教育を受け、再度伝統を連結させることによって、実践舞台が拡大するのです。ですから、先生の教えは、伝統・教育・実践です。実践は、伝統の延長です。それでは、伝統の延長とは何でしょうか。先生自体ではありませんか。先生の歴史路程には、神様の復帰摂理。救援摂理のすべてが入っています。それを知らなくてはいけません。それを正しく教育しなければなりません。(二四一−二一六、一九九二・一二・二六)

 団体は、オーダー(綱領、規則)によって動いていきます。一段階、二段階、三段階、段階ごとにオーダーがあるのです。ですから、このオーダーに従っていくために訓練しなければなりません。私たちがすべきことは何かというと、一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統と教育、そして実践です。この伝統とは、神様の伝統、真の父母の伝統のことです。

 真の父母の伝統をもって教育するのです。その教育を通過すれば、摂理歴史を越えて神様と通じるようになります。荒野を越えて、このように小さな家でも建てることができるようになります。摩天楼のように大きくはなくても、皆さんのモデル型の家を建てることができるというのです。それを皆さん自身で建てなければなりません。誰も助けてくれません。自立しなさい。そのようにして、ほかの人々を助けてあげなさい。死地に落ちてはいけません。どれほど困難であっても、毎日一つずつプラスしなさい。そして、一つずつ投入しなさいというのです。今まで神様も、そのようにして投入して忘れるという生活をしてこられました。それが神様の伝統です。(二四八−一三三、一九九三・八・一)

 伝統を中心として教育し、伝統に合うように実践しなければなりません。「伝統」と言えば、縦的な神様を中心とした伝統、真の父母を中心とした伝統です。それをはっきりと学ばなければなりません。それを知って、それをそのとおりに実践しなければなりません。なぜでしょうか。主体と対象です。主体である天と真の父母の前に、伝統を完全に知って、対象の立場でそれを実践しなければならないというのです。

 これは、堕落していないアダムとエバが一人の王子、王女として心情圏を体恤しなければならない基準となるので、すべて公式化して、祝福家庭がこのような基準で生きなければならないのであり、このような基準を息子、娘に教育しなければなりません。王権とは何かというと、王子、王女になることです。(二五四−三三四、一九九四・二・一六)



















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