文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

四 真の父母・真の師・真の主人の三大主体思想

 天使長が、神様の息子、娘であるアダムとエバを育てることができませんでした。どのように神様の息子、娘を育て、神様に必要な人として教育するのかということが問題です。皆さんは、先生になりたいでしょう? 模範になりたいのではありませんか。それで皆さんは、一生懸命に働いて国を代表することができる大統領の代理になり、またその国の会社やすべての行政省庁の主人になりたいと思うのです。出世しようというのです。そうではありませんか。それはどういうことでしょうか。真なる主人になろうということです。

 お父さんとお母さんが、生活しながらけんかをしてはいけません。お父さんとお母さんがお互いに愛し、息子、娘を愛しながら国を代表して見せてあげ、それから天地の代わりとなって見せてあげ、自分の親戚の代わりとなって見せてあげなければなりません。天地を愛する標本、世界を愛する標本、国を愛する標本にならなければなりません。将来に見せてあげることができる教科書とならなければならないのです。

 そのように教育して、その次に何をするのでしょうか。家の主人となるのです。すべての家庭には伝統があります。その伝統を立てる最初の先祖となり、次の世代に伝える主人とならなければなりません。そのような位置に立つことができる真の父母の代身者となり、先祖の代身者とならなければなりません。それで、父母は、先生を代理し、主人を代理するというのです。先生は、どのようにこの統一教会を正しく育て、教育して、所有権を相続してあげることができるのでしょうか。同じことです。

 国家を見てもそうです。大統領は、父母の立場に立ちます。すべての教育者は、師の立場に立ち、すべての組織の上司は、主人の立場に立つのです。天国もそうです。霊界に行ってみても、神様がセンターで教え……。すべて同様です。ですから、皆さんがどこに行ったとしても、このような三つの主流思想をもたなけれぱなりません。ある時は、・師の位置を中心として、右側には父母、左側には主人でしょう? 主人と父母と師は一つです。このような観念が常になければなりません。

 それだけではありません。主人にしようとするので、父母の心情と師の心情と天の心情を知って、所有権を相続しなければなりません。同様の内容です。教会に入ってきて再び生まれ変わり、教育を受けて完成するのです。成長すれば、すべてのことを知るようになります。「私も主人の位置に立ちたい」と言うようになります。すべてを相続するのです。それが主人です。どこであろうと同様です。それが主流思想です。こちらに従っていっても真の師と出会い、あちらに従っていっても真の父母と出会うのです。すべて同様です。それゆえに、「天国はどこに行っても同じだ」と言うことができます。(二〇五−一九、一九九〇・七・一五)

 神様とは、いかなるお方でしょうか。父母の中の父母です。真なる人類の真なる父母の中の父母であり、師の中の師です。神様は、知らないものがありません。先生は、真の父母として来たので、今まで父母の立場で、師の立場で、宇宙の万真理の秘密をすべて教えてあげました。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、それから主人、王の中の王です。

 三大主体思想とは何でしょうか。三大の理想的本体とは誰でしょうか。神様です。神様とは誰でしょうか。私たち人間の欲望によって探し求めることができるすべてのもの、真の父母の中の真の父母です。真の師の中の真の師です。その師の教えとは、どのような教えでしょうか。神様は、既に知識の王になっています。しかし、知識を通して教えることができない内容である真の愛は、もつことができませんでした。

 神様は、アダムとエバを通して愛を行おうとされました。しかし、そのアダムとエバの完成的基準において、理想的愛の相対圏を備えることができなかった神様は、悲惨になりました。それゆえに、神様は、真の父母の位置に立つことができませんでした。

 私たち人類の始祖が、真なる息子、娘を生んで、育てて、立ててあげなければなりません。生むのは父母であり、育てるのは師であり、立ててあげるのは主人です。これは、どこにおいて言う言葉かというと、世界において言う言葉ではなく、一つの家庭において言う言葉です。

 父と母は、父母であると同時に、育ててあげる師であり、主人です。これは、国で見れば国王を身代わりし、小学校の時から二十年間を教える先生たちを身代わりし、その次には行動組織、主体と対象の関係を中心として、主人に属するのです。

 三大主体思想とは、「ために生きる」真の愛です。それを知らなければなりません。神様のように、自らを投入して忘れてしまうことができるもの、それが真の愛です。病気になった人を治すことが復帰ですが、復帰するためには、再創造原理を適用しなければなりません。再度適用しようとするので、神様がこの万物を創造なさったのと同じように、投入して、また投入しながら忘れてしまう立場に入っていかなければならないのです。

 それゆえに、七十年の生涯にわたって、文なにがしは苦労してきましたが、いまだに「終わった」と言うことができません。死んで霊界に行っても、さらに投入すべき道が残っているということを知っているので、この地上で生きている間、億万年の歳月を圧縮させ、夜も寝ずに、食べずに、歳月を惜しみながら投入するのです。一時間どこかに行ってくることによって一日を稼ぐことができるのであれば、夜の十二時でも行ってくるのです。投入して忘れてしまうのです。

 このような背後、この伝統を受け継ぐ統一教会の教会員は、自分を主張する前に宇宙を主張しなければなりません。宇宙の理想的愛の相対、神様の愛の相対を保護し、育てなければなりません。(二八五−二九九、一九九七・六・二九)

 三大主体思想が出てきた背景を知らなければなりません。神様の代わりに父母となり、神様の代わりに師とならなければなりません。師が三人です。おじいさん、お父さん、自分の夫が師となるのです。また、主人にならなければなりません。父母の心情をもたなければなりません。お父さんとお母さんは、生むだけではいけません。生んで育てなければなりません。教育しなければなりません。

 どのように育てなければならないのでしょうか。天国に行くことができる教育をしなければなりません。ほかの教育はすることができなくても、天国に行くことができる教育をしなければなりません。天国に行くようになる時、自分の一族がとどまるその場所に行くことができないようにしてはいけません。それゆえに、教育をしなければなりません。何の教育ですか。天上法に対する教育です。それが一番の教育です。(二〇八−九八、一九九〇・一一・一七)

 人間は、堕落することによって神様の愛と関係がなくなりました。それが恨です。霊界に行ってみれば、先生の言葉は一〇〇パーセント当たっています。人を愛し、万物を愛し、縦的な自分の中心者を愛さなければなりません。学校に行けば、学生の前における中心は、学校の先生です。会社に行けば、会社の中心は社長であり、あるいは自分の部署の責任者です。課長や局長など、部署の責任者が中心です。彼らを父母のごとくに侍らなければなりません。父母の身代わりとして師に侍り、社長を父母の身代わりとして、師の身代わりとして侍るのです。

 国王は何かというと、国の主人です。「国王」といえば、国の主人だというのです。彼を師の身代わりとして、父母の身代わりとして侍ることができる人であってこそ、国王に侍って生きる、その国の民となるのです。

 それゆえに、国王に侍るにおいては、父母のように、師のように侍らなければなりません。また、父母に侍るにおいては、師のように侍り、国王のように侍らなければなりません。また、師に侍るにおいては、父母のように侍り、国王のように侍らなければなりません。これを統一教会では、三大主体愛の思想、真の愛を中心とした三大主体思想というのです。(二一二−二八、一九九一・一・一)

 真の父母の愛、真の師の愛、真の主人の愛、この三大主体思想の中心位置は一つです。それは、父母の愛です。先生も、夜になれば家に帰っていくでしょう? 大統領であっても、夜になれば家に帰っていかなけれぱならないではありませんか。それゆえに、父母の愛を中心とした代身者が教育する場所が学校であり、父母の愛を代理して国を治める者が大統領だというのです。(二一三−一二四、一九九一・−一・一六)

 教育の中で、最高の教育とは何でしょうか。天国の版図となる起源地が家庭ですが、その家庭における最高の教育とは、息子の道理です。神様から、その道理の教えを受けなければなりません。神様は、父であると同時に、師であり、王です。しかし、そのような息子としての教育を受けることができませんでした。真の父母の息子としての、真の師の息子としての、真の王の息子としての教育を受けることができなかったのです。その次には、真の兄弟です。王族としての真の兄弟たちはどのように生きるべきか、という教育を受けることができなかったのです。

 王室の王子、王女を教育するときは、「あなたは、この国に住んでいる何百万であろうと、何億であろうと、その半分を占める男性を代表した自分であるということを知りなさい!」と教育するのです。しかし、王孫としての代表的息子、娘の立場で教育を受けることができなかったというのです。それから、「兄弟であるあなた方二人が一つになることは、世の中に平和をもたらすことであり、男性と女性の国民全体は兄弟と同じ立場であり、あなたは長兄の立場なので、長子と同じような立場から国民を愛さなければならない!」という教育を受けることができませんでした。

 この世の中にいくら多くの国があろうと、そこには、おじいさんやおばあさんのような年齢の人々が暮らし、お父さんやお母さんのような年齢の人々が暮らし、兄弟のような年齢、夫婦のような年齢、そのような四大原則に相当する群れがこの地上に暮らしているのであり、天上世界にも暮らしています。その標本的なモデルの原則をここで教育しなければならないので、息子としての教育も、このような世界版図に合う内容を家庭で教えなければなりません。(二二〇−三四五、一九九一・一〇・三〇)

 今、私たちはみな、堕落によって神様がアダムとエバを教育することができなかったその恨を解いてさしあげるために、三大主体思想の相続を受けて教育しなければなりません。三大主体思想こそ、真の愛の実践原理であり、生活哲学です。三大主体思想の教育とその実践を通して、長子権、父母権、王権を復帰することができます。アダムとエバが教育を受けることができなくて、神様のみ旨である創造理想家庭を完成させることができなかったので、再度、真の愛で子女教育、兄弟教育、夫婦教育、父母教育を実践して、全体統一の基本である家庭を形成しなければなりません。そのようになるとき、理想的国家と世界が成し遂げられるのです。

 今後、韓国も、教育問題が重大な問題となっていくでしょう。教育の原理はどこにあるのでしょうか。神様は、子女であるアダムとエバを教育してみることができませんでした。神様は、子女に対する教育をすることができなかったのです。それから、兄弟愛とはどのようなものだ、という教育をすることができませんでした。これが恨です。それから、夫婦とはどのように生きなければならず、夫婦の天理とはどうである、という神様の愛を中心として展望される道理を教えてあげることができませんでした。その次には、神様の代わりに横的に立ち得る父母教育をすることができませんでした。失敗したということです。

 アダムとエバは、息子、娘でしょう? それから、兄弟ではありませんか。その兄弟が大きくなって、夫となり、妻となるのでしょう? 彼らが息子、娘を生めば、父母となるのではありませんか。そのアダムとエバを正しく教えることができなかったのです。

 同時に、アダムとエバが教育を受けることができなかったことによって、神様のみ旨である創造理想家庭を完成することができなかったので、その家庭が完成されるように、再度、真の愛で子女教育をしなければなりません。兄弟教育、夫婦教育、父母教育を再度実践しなければなりません。そのようにしてこそ、全体統一の根本である統一家庭が形成されて、理想的国家世界が成し遂げられるのです。これがまさしく「頭翼思想」と「神主義」の核心思想です。(二二二−四三、一九九一・一〇・二七)

 地上の国や天の国が形成されていくにおいて、その根本単位とは何でしょうか。それは家庭です。家庭を中心として見れば、必ず祖父母を中心として父母がいて、父母を中心として夫婦がいて、夫婦を中心として子女がいます。これを拡大すれば、世界のどの国にも子女のような人々がいるのであり、兄弟のような人々が暮らしているのであり、夫婦のような人々が暮らしているのであり、父母のような人々が暮らしているのであり、祖父母のような人々が暮らしているのです。これが、この世界に連結された一つの公式化された形態です。

 それでは、家庭とはいったい何でしょうか。国家形成と世界形成をするにおいて、一つのモデルです。それでは、家庭において愛というものは何でしょうか。世界と天国を形成していくにおいて、一つの出発的モデルとなるのです。

 ところで、この家庭という場所で子女として育ち、兄弟として育ち、夫婦として、あるいは父母として形成されるこのすべてのものは、愛を中心として形成されます。子女たちも愛ゆえに、兄弟たちも愛ゆえに、夫婦も愛ゆえに、父母も愛ゆえに形成されます。愛を除けば、すべてのものがみな散り散りばらばらになるのです。

 しかし、この地上で暮らす人々が最も貴く思うものは何かというと、知識です。皆さんも知識が貴いと言うでしょう。もちろん貴いでしょう。その次にはお金が貴いと言います。この学校を建設するにおいても、財政が必要です。お金が必要だというのです。もちろん必要でしょう。その次には何が必要だと言うのでしょうか。学校の権威が必要だと言います。どのような権威でしょうか。権力と同じ権威が必要だと言います。やはり、すべて必要です。

 しかし、これらのものをすべて備えて完成したとしても、それをもって一つの理想的なモデル形態として掲げることはできません。幼い子供から大人、あるいは老人たちまで、老若男女を問わず、すべて和合して一つになり得る根本要因は、お金でもなく、知識でもなく、権力でもないというのです。それは何かというと、愛しかないということを皆さんは知らなければなりません。

 先生とは何でしょうか。父母の延長です。先生がそうであるとすれば、国の主人である国王とは何でしょうか。師の延長、父母の延長だというのです。ですから国王は、父母の代理にもなり、師の代理にもなり、また国の主人にもなるのです。統一教会では、これらすべてを「三大主体思想」と言っています。三大主体思想、これは、取り除こうとしても取り除くことができないものです。家庭で教育を受け、学校で教育を受け、国で教育を受けなければなりません。

 今、世界的に見るとき、国においてそのようなことを教育する国はありません。それを教える教育体制が、みなそれぞれ分かれています。父母は父母の思うとおりに、師は師の思うとおりに、あるいは国は国の思うとおりに、自分勝手に分かれています。国家もそうであり、世界もそうであって、家庭も同様です。祖父は祖父なりに、父母は父母なりに、夫婦は夫婦なりに、子女は子女なりにです。このような実情を見ながら暮らしているのが現実の世界です。(二六三−三〇一、一九九四・一〇・二七)


五 神様の人間教育と宗教

 旧約時代を中心として見るとき、それ以前の人類は「僕の僕」の立場にいたのですが、旧約時代に入ってきて僕の立場に立つようになり、それによって初めて主人をもつことができるようになったのです。僕の僕の立場から僕の立場に来るまでの道は、人間が自ら開拓することはできないので、神様が開拓者の使命を果たしてこられました。僕の僕よりも、もっと悪の一族を教育しなければならなかったのが神様の事情でした。

 ところで、神様は無形でいらっしゃるので、人間の前に現れたとしても見ることができない立場であり、したがって特定の人、すなわち預言者を立てて教育してこられました。その預言者は、神様を代理してこの地上に来たのですが、人間として神様の命令に従順に従わなければならない立場でした。(四二−二八一、一九七一・三・二七)

 神様が一つの世界を模索し、統一された世界を願われるとすれば、神様御自身はどこからこの仕事を始められるのでしょうか。これが問題になります。神様は、私たち個人を中心として出発せざるを得ません。それで神様は、宗教を立てて人類歴史の背後から教育してこざるを得ませんでした。結局、今までの宗教は、個人教育の完成を標準としてきたのです。(五三−六四、一九七二・二・九)

 私たち個人の心と体を比較してみるとき、どちらが、中心である神様の前に近いのかということが問題です。それは心です。それで、心に屈服しようとしない体をいかにして屈服させるかという原則を立てておかなくては、中心を取り戻す道がありません。言い換えれば、悪が中心を除去したので、善を中心として悪を除去することによって、体を屈服させなければなりません。したがって神様は、良心を中心として、その良心が願う方向、すなわち体が願うのと反対の方向を中心として教育せざるを得ないというのです。

 それで、人を中心として、中心となる神様と反対となったサタンが闘いを始めました。悪は、体を引っ張っていって体が喜ぶとおりにしようというのであり、神様は、心が喜ぶとおりにしようというのです。そのような状態から中心と一つになる体をつくろうとすれば、体が願うとおりにしてはいけないので、体が願わない方向に教育してきたのが、今までの宗教です。(五三−六六、一九七二・二・九)

 神様が宗教を立てて教育する時、どのようにされるのかということが問題です。心と体、この二つが闘っているので、一方を屈服させる作戦を行わざるを得ないのです。それゆえに良心は、心を中心として体を打つ行為をするのです。いかなる宗教であっても、体を打ちなさいと教えます。そのように教えない宗教は、真なる宗教ではありません。それが体を屈服させる最初の方法です。それから、二番目の方法とは何でしょうか。心と体が一対一で互角なので、行ったり来たりしています。神様は、人々が体を打つのは難しいことを御存じなので、互角の闘いをしているここにおいて、心の側の力が二倍、三倍も強くなるように注入されるのです。(五三−一六七、一九七二・二・一九)

 宗教人たちが、神様を中心とした平和の時代を一度でも迎えることができないのであれば、神様はいないというのです。私たち人間は、宗教によってだまされたという結論が出てきます。ですから、神様がいらっしゃるとすれば、そのような時に対して備え、人間がそのようにする過程において、被害を受けることがないように教育をしておかなければなりません。

 それゆえに神様は、人間に「神様を絶対的に信じなさい」と言われました。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言われました。神様だけを愛しなさい、とされたのです。これは、終わりの日が来る時までは、神様が私たちにすべてのことを許諾なさることはないので、私たちに神様との関係を結んでくださるために、これを絶対的な教訓にしておかれたのです。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と言われるので……。このように考えると、神様は愛の独裁者に違いありません。そのようにしなさいという言葉は、命を懸けて愛しなさいということです。愛は、万人で成立するものではありません。そのように「愛しなさい」と言われたのは、神様がそのように愛するということです。神様は、私たち人間が最後に残ることができるように、教育してこられているのです。(五三−三〇六、一九七二・三・五)

 宗教とは、壊れた人間を修理する工場です。それでは、その修理工場の教育方法とは、どのようなものでなければならないのでしょうか。心と体が闘っているので、それをそのままにしておいては直すことができません。それで神様は、どのようにしなさいと言われるのかというと、「心を中心として体を打ちなさい」と教えざるを得ません。それゆえに、高次元的な宗教であるほど「体を打ちなさい」と教えます。イエス様のみ言を借りれば、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」ということです。体が行こうとする道と反対の道に追いやるのです。体が喜ぶ驕慢、自分を主張し、自分の思いどおりにしようとすることをなくそうとするので、天の側は、その反対の道を取らなければならないのです。それで「体を打ちなさい」と言われ、「犠牲奉仕しなさい」と教えるのです。(一三五−一二、一九八五、八・二〇)

 いかなる宗教であっても、天に導いていく宗教は、犠牲と奉仕と他のために生きるという原則を教えます。それは、その国の原則に符合させるために、言い換えれば、故郷の地に帰っていくとき、そこに合う習慣とすべての教育をするために、そのように教えざるを得ない、ということを皆さんは知らなければなりません。

 今日、私たちは旅人です。本郷の地に行く時に、私たち堕落した人間をそこに合うように教育して案内しようとするのが神様のみ旨です。善の世界は、このような原則に従うことによってのみ設定される、というのが神様の宇宙創造の原則なので、その原則に一致化させるみ旨がある、ということを私たちは知らなければなりません。(七〇−三〇五、一九七四・三・九)

 神様が教会という教育機関をつくっておかれた目的とは何でしょうか。ここにすべての人種を集めて教育訓練をするのです。これが訓練場所です。精神的な訓練場所、未来の国民と未来の家庭のための訓練場所だというのです。教会が、家庭の行くべき道、氏族の行くべき道、国の行くべき道を正しく教育しなければなりません。このようにして、過去のすべての預言者は、その国の責任者である君主が誤れば、その君主を引っ張っていくのです。訴えて引っ張っていくのです。それで神様は、教会という母体を中心として、未来の家庭と未来の氏族と未来の世界の民、市民を育てようとされるのです。(一〇六−三四、一九七九・一一・一一)

 宗教的価値観の崩壊原因とは何でしょうか。それは、第一に、科学技術の発達と経済成長などで、人間の精神が物質主義に流れているからです。第二に、共産主義をはじめとする各種の無神論と唯物論思想が急速、かつ広範囲に蔓延しつつあるからです。第三に、政治分裂の流れのもとで、国家の教育政策において宗教を教育科目から排除することによって、幼い時から無神論の思想を注入するという結果をつくりだしているからです。第四に、共産主義者たちが赤化工作のために、残された価値観さえも意図的に破壊する戦略を用いているからです。第五に、宗教的価値観を理論的に守護すべき確固たる本体論が欠如しているからです。(一二二−三〇〇、一九八二・一一・二五)

 宗教は、頂きとなる教えのことですが、家庭の頂きとなる教えとは何でしょうか。父母は、子供に対して、「おい子供よ、お前は適当に育ったが、一つ忘れてはいけないことがある。父母を愛する以上に神様を愛さなければならず、父母を愛する以上に国を愛さなければならない」と教えなければなりません。また、その子供は、そのような父母が真なる父母だということを受け入れなければなりません。「お前がそのようにすると同時に、私もその道を行くのだ。お前に模範を見せてあげながら、私は間違いなく行くのだ。死ぬ時もこのような遺言を残して死ぬだろう。お前を生んだその日から、お前が青年となり、お前が一生を生きていく間もそのように行くだろう。父が逝き、お前も逝く時まで、この伝統思想は変わることがない。お前も、お前の息子、娘の前にこのように遺言をして、そのような教育をしなければならない」と言うことができる父母は、正しい父母です。(一二七−二九〇、一九八三・五・一五)

 神様が宗教を立てて教育してこられるのは、神様の意のままに切って接ぎ木することができる、すなわち神様が管掌することのできる野生のオリーブ畑をつくる摂理です。このような宗教的基盤の上に真のオリーブの木であられるメシヤを送られて、より大きな神様の愛に接ぎ木しようというのがメシヤ思想です。聖書の中にある重生の根本道理も、このような点で理解ができます。

 宗教が現実的規範原理や所在を超越しているからといって、その現実的作用までも無視してはいけません。宗教は、現実問題自体に至大なる関心をもって、神様のみ旨の適用可否を深く調べなければなりません。また、政治、経済、社会、教育など、各分野の現実問題を解決すべき人々の心の中に、神様を中心とした新しい変化を起こすことによって、彼らが新しい人となって問題を解くようにしなければなりません。(一三五−二二二、一九八五・一一・一六)

 宗教とは、何をするものでしょうか。心を教育するためのものではありません。宗教は、心に力を与え、体に対しては制裁を加えるのです。なぜでしょうか。本然の位置に帰らせようとするからです。それゆえに、高次元的な宗教であるほど、心を拘束しようとしません。心を高めて体の世界まで和合することができるようにするのです。(一九五−一七、一九八九・一一・一)

 神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。(二一九−一一〇、一九九一・八・二七)

 神様がいらっしゃるとすれば、人間を修理しなければなりません。修理する立場として、各文化背景の伝統が異なり、歴史が異なっているので、そこに相応する良心を中心として肉身を収拾し、良心圏に一致させる方法を求めてきたのが数多くの宗教の教育です。それゆえに、宗教教育は、肉身を拘束するのです。いかなる宗教であっても、肉身に従っていきなさいということは絶対に教えることができません。いかなることがあっても、肉身の根がある限り、これを切ってしまわなければなりません。そのようなことが問題となっています。(二二三−三五〇、一九九一・一一・二〇)

 きょう先生は、皆さんに二つの内容を話しました。心身一体と夫婦一体です。それで、神様と一体となれば、すべてがOKです。このように見るとき、世界平和も難しくありません。天下の大勝利基盤が、自分の暮らしている家庭だというのです。神様を中心として一つになれば、宗教は必要ありません。聖人の教えも多くあり、愛国者を中心として教育をしていますが、それらをすべて越えてしまうのです。神様の教えを中心として一つになればよいのです。その一つになるところは、国ではありません。最初の出発点は、自分と自らの相対です。(二五九−五三、一九九四・三・二七)

 神様の不変の目的は、真の愛の理想世界の実現です。宗教の目的達成は、真の愛と真なる家庭が実現化されることです。反対に、このような目的に寄与せずにそれ自体のためだけに存在すれば、たとえ神様を口実にしても、その宗教は神様とは関係ありません。宗教のために、神様や世界があるのではありません。本然の真の愛、真の家庭の世界へと回復しようとする神様のみ旨のために、宗教は立てられました。過ぎし四十年間、私が世界的に展開してきた超教派的な活動をはじめとする学術、教育、思想、文化、芸術、言論、科学技術、産業等のすべての事業は、みなこの目的のためにあるのです。(二六〇−一二六、一九九四・五・一)

 神様がこの時代を経綸するために願われる宗教は、「父母の立場にある宗教」です。父母の心情を抱いて生きる宗教を要求されるのです。私は、真の父母思想を教育し、各自がその伝統に似た真の父母になりなさいと教えています。まず家庭において真の父母となり、氏族における真の父母である氏族的メシヤの使命を果たすように指導しています。真の父母の心情を抱いた教会人、真の父母の心情を実践する宗教となってこそ、葛藤と憎悪と罪悪の世界において神様のみ旨を実現することができるのです。他の宗教や教派を軽蔑し、敵対視する宗教は、世界平和の実現にも、神様の摂理にも有用ではありません。(二六〇−一二八、一九九四・五・一)

 神様の真の愛による投入と注入がなければ、宇宙は生まれませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。しかし、堕落した世界においては、主体が対象のために生きるのではなく、反対に、自分を中心として利用しようとするので滅ぴるのです。宗教は、まず相手が喜んだのちに自分が喜ぽうとする天理の原則を教育し、実践しなければならないと思います。

 「世界平和宗教連合」は、宗教間の和合と世界平和のために、共に建設的に働いていかなければならないと思います。「世界平和宗教連合」は、世界の良心のような機能を果たさなければなりません。政治、経済、教育等における世界の各界の指導者たちに助言し、指導するだけでなく、模範を見せなければなりません。偉大な宗教は、迫害と殉教の土壌の上に立てられたのであり、創始者の貴い伝統基盤の上に立っているので、私たちは、みな犠牲を忌避するのではなく、宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。(二七一−七〇、一九九五・八・二一)


六 自然は人間教育の最高教材

 神様が愛する声とは、どのようなものでしょうか。はとは「クックック」と鳴くでしょう?神様が愛する声とは、どのようなものでしょうか。あーあーあー……。それがあれば、その声が最も大きかったことでしょう。すべての神経細胞が一〇〇八ーセント一つになって「あーあー」と声を張り上げたとすれば、どれほど大きいでしょうか。それで、自然は愛を教育するための宇宙の博物館だ、と考えてみなさいというのです。どれほど素晴らしいことでしょうか! どれほど美しいかというのです。もう、それが分かりましたか。(一三三−三一五、一九八五・一・一)

 万物世界は、お互いに愛します。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。お互いに相対を中心として、歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、はったりします。このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」といって、すべて見て学ぶのです。自然とは何かというと、アダムを教育する博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。

 それで、だんだん大きくなっていけば、男性と女性における引力がお互いに強まっていきます。我知らず、しきりに触れたいと思い、触れれば、ただもう不思議な感じがするのです。アダムとエバは、引力が強まったことを感じたはずです。それは、間違いのない事実です。雄と雌が出会ってキスしているのをすべて見たというのです。すべて見て学ぶのです。自然が教育するようになっています。被造世界は、アダムとエバが理想的刺激を感じることができるようにする素材です。これは、とてつもないことです。(一三四−一九四、一九八五・七・二〇)

 天使世界が人間始祖アダムとエバを保護し、教育するようになっています。それゆえに、天使を僕にしたのですが、アダムとエバが成長する過程において堕落しました。それで神様は、このような過程、中央線まで達することができる時までに、二十歳という距離をおいて育っていく期間があったので、人間に「失敗してはならない。失敗してはいけない」という警告をせざるを得ませんでした。

 今日、キリスト教の信者たちは、「失敗とは何かというと、善悪の実を取って食べたことです」と言っています。「では、善悪の実とは何ですか」と尋ねれば、「果実です」と答えます。本然の人間は、本来失敗することができないのです。ただそのまま育てば、自然に愛の関係を結ぶことができるように、あらかじめ万物を通して教育していくのです。(一三七−一二七、一九八六・一・一)

 最初に神様の子女として生を受けたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼い時から育っていき、次第に大きくなっていくのです。それによって知能が発達し、神様がなぜ被造世界を造られたのかということを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けてくるのです。被造世界で活動しているすべてのものは、私たち人間の始祖、本来の先祖となるべきアダムとエバが生活することができるようにするために、あらゆることを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバが理想生活を営んでいく際の一つの標本であり、博物館だったという事実を知らなければなりません。(一三七−一二六、一九八六・一・一)

 神様に必要なものとは何でしょうか。愛です。神様が必要とされるものは、ほかのものではありません。神様は、天地万物をなぜつくられたのでしょうか。愛のためです。今日、このすべての植物界、動物界を見れば、ペアになっています。それでは、なぜペアにつくられたのでしょうか。人間に愛を教育するために、自然界を博物館のようにつくられたのです。そのようにして、「万物之衆、唯人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」とされたのです。ただ人のみが貴いということです。(一四二−一一三、一九八六・三・六)

 アダムとエバが成熟すれば、お互いに「あのアダムは私のお兄さんではないのだなあ。あのエバは私の妹ではないのだなあ。私たちはお互いに兄弟ではないのだなあ」ということを知るようになります。昆虫界や動物世界を見て、「ああ! すべてペアになっているのか! 雄がいて雌がいて……」と、このように教育を受けます。「ははあ、あのように雄と雌は愛するのだな。お互いに愛しながら歌を歌っている。昆虫も歌を歌い、獣も歌を歌い、すべてがペアで暮らしながら子供を育てて、宇宙と和動しているのだなあ」と、このように学んでいくのです。幼い時には分からなかったのですが、七歳、八歳、九歳、十歳が過ぎてぱっと見ると……。あなた方もそうでしょう? (一一三−八一、一九八六−三・一六)

 神様は、愛の対象を探し出すために被造万物をつくられました。その愛の対象を探し出して、それが完全な対象となるためには、小さいものから教育しなければなりません。大きいものがここにあれば、数多くのプラスとマイナスの相対圏を中心として教育していくのです。これが万物です。アダムとエバが理想的愛の人格を完成するために、愛の博物館の教材として活用するものが万物です。(一八〇−一七六、一九八八・八・二二)

 愛を中心として私たちを教育するための教材としてつくられたというとき、万物がどれほど親しいものですか。私のためにつくられたものです。愛ゆえに、私のために、私が行くことができる愛の道の教本とするためにつくられたのです。それゆえに、万物を愛し、万物の中のあらゆる万物を愛することができなければなりません。(一八三−一八九、一九八八・一一・一)

 なぜ被造物がペアシステムになっているのでしょうか。人間が愛の理想を展開することができる展示場として、博物館として見せてあげたのです。それゆえに、この鮭のような愛の夫婦は、世の中の人間が教育を受けなければならない本当に模範的な夫婦です。子供のために死に、お互いが出会えば、自らの身をすべて犠牲にしながら保護するという事実を見るとき、すべての人間が学ぶことができる教材だという事実を知らなければなりません。(一九三−三〇一、一九八九・一〇・八)

 アダムとエバは、ペアシステムでつくられた愛の自然の園を見ながら、学び、成長するようになっていました。大きくなってどのようにしなければならないのかということは、つくられた万物を見ながらすべて分かるようになっていました。万物が神様の博物館ではありませんか。アダムとエバを教育する愛の博物館でしょう? 分かるようになっていたのです。鳥も雄と雌、ちょうも雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛しながら子供を産んで生きていくのを見ながら、成長するようになっていたのです。このように成熟して、神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性だということを悟るようになっていました。女性は、「あの男性がまさしく私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性も、女性に対して「本当に私に必要な女性なのだなあ!」と思うのです。きょうここに来た皆さんも、みな結婚して夫婦となり、子女を生んでみて、知っているであろうことを信じます。(二〇一−一六一、一九九〇・三・三〇)

 環境は、必ず主体と対象のペアシステムになっています。この宇宙は、愛を核とする一つの博物館です。ペアの博物館です。ですから、二羽の鳥がお互いに愛しながら一生懸命に巣を作り、ひなを産んでえさを与えるのを見ながら、学ばなければなりません。「私の子供のために、あれよりも何百倍もしてあげなければならない」と思わなければなりません。虫たちも、雄雌二匹が愛して子供を産みます。彼らも、自分の生命を懸けて子供たちを育てようとします。教育するの

 どれ一つとして、人間と相対し得る愛の関係をもたないものはありません。それは、すべて私たち人間を教育しているのです。そして、雄と雌がすべて凸凹を合わせるというのです。それらはすべて、アダムとエバのために「学びなさい」としてつくられたものです。

 アダムとエバが愚かな者になって、二十歳になっても何も知らなければ、それは大変なことになるのです。小さい昆虫からすべての生物全体が運動するのを見て、すべて知らなければなりません。博物館の館長がそのすべてのことを知らなくては、「全体は私を手本にしなさい」と言うことができないので、よく知らなければなりません。皆さんがそのような愛を成し、彼らの前に教育をして、彼らを従えて主人とならなければならないというのです。何の主人ですか。理想的夫婦が一つになって、雄と雌が一つになった主人にならなければならないのが万物の霊長であるというのです! (二六五−六二、一九九四・一一・一・二〇)

















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