文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

第三章 文鮮明先生の教育哲学

一 教育、何が問題なのか

 世界をずっと歩いてみると、ほぽすべての分野でアメリカが基盤をもっています。科学分野であれ何の分野であれ、アメリカ人が世界最高の位置に座っています。ですから、ヨーロッパの人たちが一生懸命に勉強し、研究してみたとしても、ぽろぽろのふろしきのような扱いしか受けることができません。自主的な観念を強めて教育を実施し、自分たちがアメリカ社会圏内において最高の位置を占有しようとしていますが、それは既にアメリカの人たちがすべてやってしまいました。彼らがやってみたところでどうしようもありません。結局は、二番煎じにしかならないというのです。

 その人たちの教育方法は、自主的な思想を中心として、強力に個人思想を注入するのです。そのようにするので、ある学者の学説を聞いて、絶対順応するのではなく、すべて批判的な立場で見ようとするのです。ですから、固有の伝統思想を受け継ぐことができません。これが現在のアメリカの教育制度における、とても大きながんです。(二五−一四三、一九六九・一〇・三)

 今までの教育や修養、宗教は、個人を中心としてきました。長い歴史過程を経てきましたが、そのすべての目的を達成し、完全な個人と完全な家庭が形成されたのかというとき、今まで人倫道徳を立てて強調してきたすべての教養の標準を越えて真なる家庭を築いた人はいなかった、という結論を端的に下すことができるのです。(二三−一〇、一九六九・五・一一)

 今まで学んだ教育や主義、思想、このすべてのものを捨てなければなりません。サタン的な世界のすべてのものを完全否定しなければなりません。一〇〇パーセント否定しなければならないのですが、もし九八パーセントまで否定したとすれば、二パーセントが問題なのです。(一六−二四七、一九六六・六・一九)

 今、私たちが暮らしているこの世の中は、どのような世の中でしょうか。心を中心としなけれぱならないのですが、心があるのかないのか考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは、教育の現実を見ても知ることができます。すべて物質文明中心の教育に重点をおいています。貴く素晴らしいこの心を、目に見えるお金のためにないがしろにしています。また今では、心はないと否定する立場、そして神様もいないと否定する立場にまで流れていっています。(一九−二八八、一九六八・三・一〇)

 幸福も、真があるところで成立するのであり、神様の摂理も、真があるところで進行するのです。ですから、この「真」が問題です。この「真」の中には、真なる自分が必要です。その真なる自分になることができなかったので、教育を通して修養してきたのです。そして、今日の諸般の教育制度は、人間改造という問題を中心としてつくられたものであり、それを中心として今まで革新運動をしてきました。ところが、その真があるところがまだ決定できていなかったというのです。(二八−一五八、一九七〇・一・一一)

 今日、人々は、聖人の道理とは何かを知りません。これを知らなければなりません。今までの教育は、このことを教えませんでした。しかし、統一教会に来れば、すべて教えてあげます。それでは、統一教会の食口たちは、聖人になりますか、聖人を指導する聖人の王子になりますか。(八四−三三九、一九七〇・九・二〇)

 人類歴史、人間の組織形態の核を個人主義に立てることができますか。それはできません。そのようにすることはできません。そのようにすれば、すべて分かれていくのです。今日のアメリカの教育方法は、自主性のある人間を育てようというものです。自主性のある人間を育てようとしてそれを強調していくと、相対性を忘却してしまいました。これが間違いです。相対性のための自主性を強調せずに、相対性を忘却する自主性を強調することによって、個人主義に没落してしまいました。それでも、キリスト教思想があったので、宗教がこれを補充していたのですが、キリスト教までほうり出してしまえば滅びるのです。(七二−二一七、一九七四・六・二三)

 世界のすべての国の教育制度は、競争で勝利した者だけが獲得することができるという競争の長所と、それに最も適合する生活を、あまりにも強調しすぎてきました。これは、人類を一つの人間家族の構成員として導き、平和な共存の世界に導びこうとする健全な人間の努力を食い荒らす、伝染病のようなものでした。いずれにしても、現在の人類は、知性人の間でそのような競争を強調することが変更されつつあり、生存のための協同が不可欠な要素であることを悟り始めました。このような見解に照らし合わせて見るとき、教育の目的と教育哲学は、深層から変革を経なければなりません。(七四−一〇七、一九七四・一一・二二)

 大韓民国を見ても、大学なら大学を卒業すれば、そのまま卒業証書を渡して送り出します。ところが、その大学で教育を受けたことが社会に出て役に立ちません。これが完全に掛け離れ、お互いに分裂してしまいました。ですから、大学に機関がありますが、その大学機関と自分たちの卒業生、同窓生なら同窓生との関係が曖昧です。大学機関でもう少し強力な組織をもち、自分の同窓生の組織まで管理しながら地方を巡回し、彼らが卒業したのち、専門分野でどのように活用しているのかというデータを出し、そこから何人かを選んで国家で公認することができるようにしなければなりません。このような教育制度をつくれば、社会に出ていって相当に貢献することができるのです。(八四−一五、一九七六・二・六)

 父母に対する愛を知らず、先生に対する愛を知らず、その国の主権者に対する愛を知らない人たちが何をするというのですか。そこには、不平しかあり得ません。それを教えてあげるべきところは、教育機関と宗教しかありません。二箇所しかありません。しかし、教会は、教派争いをして、「国がどうで世界がどうであろうと、何の関係があるのか」、国がどうであろうと、世界がどうであろうと関係ないというのです。(一〇四−一八〇、一九七九・六・一)

 今まで皆さんが教育されたことは、この堕落した世界で出世することを願い、「もっと高くなりなさい。もっと立派になりなさい」ということだったでしょう。勉強でも何でも、それを標準としてやっていたのであって、反対の道を行こうとはしなかったのです。一つも努力しませんでした。ですから大変です。行けば行くほど、上がっていけば上がっていくほど、天と離れていくのです。行けば行くほど離れていきます。知識があればあるほど、天と離れていくのです。創造ではなく進化ですか。「進化ではなく創造だ!」、これが私たちの明らかにしなければならないことです。(一三二−一五、一九八一・五・一九)

 現実の社会制度は、個人主義思想を中心とした文化圏です。小学校から大学を出る時まで、自分を中心とした教育を受ける個人主義思想体制圏の世界なのですが、そのような人格が形成されている人間と、その環境をけ飛ばしてしまい、撃破してしまって、跳躍することができる人にするのは簡単でしょうか。不可能に近いのです。しかし、唯一、愛の力は、すべてのものを消化することができるのです。これが力です。真の愛の力は、死亡までも消化してしまうことができるのです。(一三七−六四、一九八五・一二・一八)

 皆さん、現在のアメリカの若者たちを見てください。二世は、既にすべて生ける屍です。今まで民主主義をもって国を導き、教育してきましたが、今の若者たちを見てください。麻薬を吸い、フリーセックスをし、個人主義思想に没落している事実を今、目にしているではないかというのです。そして、思想的な混乱です。キリスト教が思想的支柱になっているのですが、すべて混乱して方向を定めることができない現実に身をおいている、ということを皆さんはよく知っているのです。(一四六−三一七、一九八六・八・一〇)

 民主主義は、世俗的な人本主義を生み出し、神様を追放しています。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放して、フリーセックス、性解放とは何ですか。この亡国のサタンの血統、地獄の沼に根こそぎおぽれていくことを知らず……。日本もそうです。韓国の教育方法にもメスを加えなければなりません。これを防御しなければならない使命が統一運動にあるのです。(一九三−三〇四、一九八九・一〇・八)

 戦争は、後世を通していつも継続し、悲惨な出来事を果てしなくもたらす立場にいる、ということを知らずにいます。そして、数多くの歴史的・宗数的代表や聖人たちが来て人類を指導し教育しましたが、外的な教育をしたというのです。国を治め、家庭を治め、社会が平和になるというこのような外的なことを言い、平和世界のための外的な教育はしましたが、私たち人間自体における心と体が闘っているという内的な問題に対しては、教育することができませんでした。(二六九−二五八、一九九五・五・一)


二 教育が必要ない愛の世界

 皆さんは、家庭で愛し方を学びましたか。ある父親が彼の子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。そのように教育を受けましたか。また、母親も、子女に「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、父母が子女の愛し方を誰かに学びましたか。皆さんは誰かから、新郎新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが、上手にできます。本当に神秘的なことです。すべての人間は、学んでいないのに上手にできるというのです。

 また皆さんの心は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。心が誰かから、「おい心よ。誰かがこれこれこのようなことをすれば、それは悪いことだから、その時はお前が番兵になりなさい」ということを学びましたか。学んではいませんが、この心というものは、体がとても大きな力ではむかってきても問題にしません。かえってその力に比例して、電気よりも早く、即座に反応を起こします。他の心をもてば、即座に止めるようにします。どれほど教育を受ければ、そのようになるでしょうか。もし人が教育して、いつでもそのようにすることができるようにしたとすれば、これは人成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにすることはできませんでした。それでは、皆さんは、このようなことを学びましたか、学ぶことができませんでしたか。学ばなくても、すべての人がよく知っており、よくできるのです。(二三−二〇、一九六九・五・一一)

 皆さん、結婚する息子に、「お前は、結婚するために二十年間教育を受けたのか」と言いますか。生まれてから、「お前が新婦をもらおうとすれば、このようにしなければならない」と教育を受けましたか。ここにいるおじさんたち! 教育を受けて結婚しましたか。愛の道は、すべてのものを超越しています。愛さえ知れば、夫がどうだという教育は必要ありません。子女がどうだということも、愛さえ知れば教育は必要ないのです。教育があれば、かえって妨害になります。夫婦で楽しく暮らしているのに、その父と母がドアを開けて人ってきて、「おい、お前たち!愛しているのか」と言えば、気分が良いでしょうか。その場は、平等圏であり、同等圏であり、また解放圏です。誰も干渉することはできません。ですから、愛は良いというのです。(六〇−八〇、一九七二・八・六)

 愛は、教育が必要ない世界を管掌しているという事実を知らなければなりません。教育は必要ありません! 誰が愛を教育するのですか。考えてみてください。すずめが愛し合ってひなを産むことを、どのようにして教えてあげることができますか。神様が指揮棒を持ってこのようにしなさいと教えてあげたのですか。出会えば、自分たちでするのです。それは、電気が通じます。引かれていくというのです。それは不思議ではないですか。それがどのようにしてひなを産むのですか。魚も、水の中でどのようにして子供を産むのですか。それは、どれほど神秘的でしょうか。誰かがそれを教えてあげるのですか。教えてあげる必要はありません。絶対に教育は必要ありません。自然の道理で、循環の道理で、すべての天理によってそうするようになっているので、教えてあげる必要がないというのです。(一三九−一九七、一九八六・一・三一)

 愛は、教育が必要なく、誰の干渉も必要ありません。自律的な内容に従って自分が体で感じます。誰かの説明で、頭を通して、意識構造を通して、体験を通して知るのではなく、既に体を通してすべて知っているのです。体験して知るのではなく、意識して、体験を通して知るのではなく、既に感じていて、体験する前に知っているのです。感じるというのです。(一三九−二〇一、一九八六・一・三一)

 私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことかありません。堕落したためにそうなのです。堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生かいません。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。

 心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。(一六二−二二一、一九八七・四・一二)

 愛だけが核になります。核は、千年回ってもその位置です。核が円形を成せば、核自体はどこに対しても垂直です。どこに合わせても、一瞬のうちに垂直になります。教育は必要ありません。ぴたっと止まれば、垂直になります。天地の度数に合わせるのです。(一九七−五九、一九九〇・一・七)

 統一教会の教えは、心身統一です。それには、秘法がありません。お金でもできません。何かの訓練でもできません。教育してもできません。真の愛に立って初めてできるのです。真の愛とは、どのようにすれば植えることができるのでしょうか。サタン的な世界の先祖が種を植えた時のその愛とその生命とその血筋が連結された、それ以上の立場においてのみ、神様が希望をおもちになることができるのです。このように考えてこそ、聖書の逆説的論理の意味が通じるというのです。(二〇六−一九五、一九九〇・一〇・七)

 愛があるとすれば、愛の帰着地はどこかという問題を理論的に探求しなければならないのですが、これが解決されなければ理論を編成することができません。理論を編成できなければ、大衆化することができません。教育することができません。それでは、愛というものはいったい何でしょうか。それがどこかに行って定着するところは、変わるところでしょうか、不変なところでしょうか。これは、深刻な問題でした。千辛万苦の末に知るに至ったことは、「愛は直短距離を通るのだ!」ということです。この一言を知って、千年を越える喜びに満たされ、踊りを踊ることができた、ということを皆さんは知らないでしょう。(二一一−二四一、一九九〇・一二・三〇)

 垂直と水平がどこで一つになるのでしょうか。これは、球形に運動するので、゛一番の中央線において一つにならなければならないという論理が出てきます。これを中心として線を引くようになるとき、その線に入っていけば全宇宙が共鳴します。霊界も明確に知り……。愛を中心として関係を結ぶ世界は、教育が必要ありません。教育が必要ないのです。誰かが支配する必要がありません。それ自体が私を支配します。真の愛には、神様までも絶対服従すると言ったでしょう?方向性を間違えれば、それ自体が私を正してくれるのです。どこに行かなければならないのかを知っているというのです。(二一四−二三二、一九九一・二・二)

 人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身に響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。(二二三−三五五、一九九一・一一・二〇)

 真の愛は、教育が必要ありません。自動的に知るようになっています。皆さんが結婚する時に、思春期になった時に、男性のことを考えなさいと教育してもらいましたか。教えてもらっていませんが、いくら家柄の高い女性でも、いくら母親が隠して育てたとしても、壁の向こうから男性の声が「わあわあ」と聞こえれば、我知らず飛び出すのです。それは、何者も止めることはできません。

 そこには教育が必要ありません。フリーセックスだ、性教育だというのですが、やめなさいというのです。動物世界で性教育をしますか。その横にさえ行けば、自動的に合わせるのです。あるものは、生殖器が翼の付け根にあるのですが、かかとでそれを合わせます。自然に合わせるようになっています。磁石が南北に通じるのは、合わせなさいといって合わせるのですか。自動的に合わせるのです。真の愛に一致することができる心と体になれば、神様の愛があれば、ほっておいても自分で東西南北の方向をただしく見つけて、自動的に行って合わせるのです。(二七二−九一、一九九五・八・三〇)


三 人を愛する教育

 愛の教育をしなければなりません。「そうだ、お前がこのようにすれば父と母が悲しむから、してはいけないだろう」と言いながら、愛の教育をしなければなりません。ですから父母は、子女の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。

 その愛の教育は、誰から受けなければならないのですか。父母からです。父母が一つになって、はとのように楽しく「クククク」と愛するのを見て、それを見習わなければなりません。「ああ、お父さんとお母さんがあのように喜んでいるのを見ると、私万人では寂しい。私もお父さんとお母さんのように『クククク』と愛することができる、そのような相対が必要だ」と、このようにならなければならず、父母は、そうなるように教育しなければなりません。結婚して愛するのを見習うことができるように教育しなければなりません。そのようになれば、その息子、娘たちが父母のしていたことを反復するようになるので、世界は、善なる世界になるのであり、人類歴史は、善なる歴史になるのです。(五七−一二一、一九七二・五・二九)

 皆さん、愛する人同士、思春期の二人の男性と女性が、野ばらの咲く丘で愛をささやきながら、しおれた野ばらの花や葉だとしても、それを一つもらったこと、それを永遠に忘れられますか。愛を通した教育、愛を通した信仰生活、それが天国です。知識を通した国家、権限を通した国家、これは亡国の場です。愛を通した知識、愛を通した経済、愛を通した……。天国は、このようになったところです。(六〇−七八、一九七二・八・六)

 教育に関する問題とは何でしょうか。愛の教育をすることが最も良い教育なのですが、その愛の教材はどこにありますか。教材は私です。皆さん、本当に愛してみましたか。私が父母を愛しているので、父母も私を愛さざるを得ません。私が妻を愛しているので、妻も私を愛するというのです。完全なマイナスが生じればプラスが生じ、完全なプラスがあればマイナスが生じるようになるのです。

 愛は、私にかかっています。私が愛した分、私を愛するようになるのです。先に愛さなければなりません。誰が愛の教材ですか。それが難しいのです。人の夫の役割をすることが大変だということを知らなければなりません。子供のいる人が愛を知らないということは恐ろしいことです。夫としてその責任を果たし、妻としてその責任を果たし、父母としてその責任を果たせば、良く教育したことになるのです。教育材料として最も良い材料が私だということを知らなければなりません。

 それで、このような教育を私の父母を中心として、それから食口を中心として、国家を中心としてするのです。天国に行って暮らすことができる訓練をするのです。それを個人・家庭・社会・国家・世界的に連結します。自分が母親ならば、赤ん坊に対して、「愛している。愛している」と言う必要はありません。目を見れば、すぐに分かるのです。(一〇二−一二二、一九七八・一一・二七)

 皆さんは、父母の愛を中心として、師の愛、国の愛、聖人の愛、神様の愛をもっていかなければなりません。父母を好むのは、大概十八歳までです。それからは、先生を好みます。この少年時代、青年時代、壮年時代までは教育を受けなければなりません。愛に関する教育を受けなければなりません。私が父母を忘れることができないように、先生を忘れてはならず、先生を忘れることができないように、国の王を忘れてはいけません。また国の王を忘れることができないように、聖人を忘れてはならず、聖人を忘れることができないように、神様を忘れてはいけません。皆さんは生涯、それに対して感謝しながら教育を受けなければなりません。

 統一教会の文なにがしという人は、何をする人ですか。すべての愛を行うことができる教材として登場した男です。レバレンド・ムーンを愛する以上に父母を愛しなさい、それが先生の教育です。皆さんは、父母を愛することができませんでしたが、レバレンド・ムーンを中心として愛を学んだので、レバレンド・ムーンを愛する以上に父母を愛しなさいというのです。(一〇四−二八四、一九七九・六・一)

 家庭の愛を世界舞台に立体的に拡大しなければなりません。夫と妻が父母を考え、子女を考えるように、それを世界化しよう、このように教育を受けたことを世界的に拡大させようというのです。おじいさんとおばあさんの年齢に当たる人々を、皆さんのおじいさんとおばあさんのように考えなさいというのです。また、皆さんの父母の年齢と同じ世界のすべての人々は、父母と同じように考えるのです。男性を見るときに、「これは夫の延長線だ。延長線だ」と考え、自分より年下の人は、自分の弟のように考え、息子と同じ年齢の人は、息子のように考える、そのような愛で世界の人を愛そうというのです。(一〇四−三三六、一九七九・六・一〇)

 根本的に、男性という人格と女性という人格が、主体と対象の相対関係を中心として力の作用をしようとします。それは何でしょうか。愛というものです。愛の力を中心として、家庭形成が展開するのです。愛国とは何でしょうか。国の主権と国民の生活基盤が、愛を中心として絡み合うことです。聖人とは何でしょうか。世界の主体の立場で、愛を中心としてすべての歴史と絡み合うことができるようにする人です。それゆえに、聖人は、すべて宗教指導者だったのです。

 聖人の生活の基本は何かというと、愛の原則です。すべてそれを教育しました。仏教でいえば慈悲、キリスト教でいえば愛です。すべてそのようになっています。一般的には知られていなかったのですが、その作用は、宇宙の核となる愛の作用と連結するためのものなのです。そのような宇宙的な共通分母の作用原則があるのですが、この原則に符合することができないときには遊離するのです。遊離して相対を得ることができなければ壊れるのです。しかし、この主体的愛、核の主軸的愛に連結されれば解体されません。分解しないというのです。喪失がありません。永続するのです。(一三七−五六、一九八五・一二・一八)

 もし嫁が、「ああ、私は教育を民主主義的に受けた。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、すべて同じであり、息子、娘も同じだ」と不平を言い始めればどうなりますか。秩序が立つでしょうか。ですから、教育が必要です。今後、一つの教育が世界に残るとすれば……。法を中心とした教育時代は過ぎていきました。お金で交渉することができる時代はすべて過ぎていきました。力で治めるという時代は、すべて過ぎていったのです。それらは適応できません。いくらやっても適応できないというのです。行っても戻ってきます。定着が不可能なのです。今、残った一つのものは、公義に立脚した愛の秩序だけを必要とするのです。(一四七−二七三、一九八六・一〇・一)


四 良心が教えるところに行きなさい

 悪が行く道には、教育が必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができます。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても、誰でも行くことができるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったので、今日、人倫道徳を中心として、良心の標準を選んでいきなさいと教育するのです。

 何を中心とする教育ですか。善を中心とする、良心を中心とする教育をしたにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人にどれはどなったのでしょうか。悪なることは、学ばなくても誰でもすることができます。誰でも満点をとることができるのです。(三六−五六、一九七九・一一・一五)

 固執する人も、自分の心は知っています。心は、自分が正しいのか間違っているのか、すべて知っています。ですから、心の世界には、教育が必要ありません。心の世界は、自分がしたことに対して正しかったのか間違っていたのか、すべて知っているのです。にもかかわらず、意地を張って固執するようになれば、どうなりますか。そこには、サタン相続が進行するのです。毒蛇が来てかみついているというのです。毒蛇がかみついているのに、じっとしていますか。しかし、それは、毒蛇にかみつかれるよりももっと恐ろしいのです。毒蛇にかみつかれれば、自分一代だけが滅びますが、心の世界が過ちを犯せば、数千万代が滅びるようになるのです。(三七−一三一、一九七〇、一二・二三)

 皆さん、誰が心を教育しますか。「私は心の小学校に通った。私は心の中学校に通った」という話を聞いたことがありますか。これは、教育を必要としません。絶対に教育は必要ないというのです。今日、いくら法がたくさんあるとしても、心以上の道理を教えてあげることができる法はありません。人は、良くないことをすれば、良心の呵責を受けるようになります。良心は正しいのです。大概、観念がそうです。良心が曲がっているのかまっすぐなのかというとき、良心が曲がっていると考える人はいません。普遍的に良心は正しいと考えるのです。(三八−二二八、一九七一・一・八)

 悪に教育が必要ですか、必要ないですか。悪くするのに教育は必要ありません。教えてあげる必要がありません。そのままほっておけば、自然に悪なる人になります。体の言うとおりにすれば、間違いなく悪なる人になります。善なる人になろうとは考えることもできません。間違いなく悪なる人になります。(三八−三〇一、一九七一・一・八)

 悪なる人になるには、教育は必要ありません。教育だけでなく、何も必要ありません。悪なる人になろうとすれば、何も教えなくてもすぐに悪くなることができるのです。ここには、教育が必要ありません。悪なる人になりなさいと教育しなくても、自動的になることができるというのです。しかし、善なる人になろうとすれば、自動的になるのはそれほど簡単ではありません。したがって、善なる人にするためには教育が必要なのです。すなわち、善に従って行動するためには教育が必要だというのです。善と悪が行く道は、お互いに相反する道なので、善を行うために行く道は、決して簡単な道ではありません。その道を簡単に行くことができれば、どれほど良いでしょうか。(三九−二二、一九七一・一・九)

 悪を行うことには、教育も必要なく、制裁も必要ありません。そのまますぐに飛び出していっても、世界で一番の悪人になることができます。道端に立って、人が来る時にナイフで刺せば、そのようになります。体の言うとおりにするとすれば、天下でもすべて切ってしまいたいと思うのです。悪なる者になるのに、教育は必要ありません。そのままほっておいても、いくらでも悪なる者になることができます。悪なる人になるのは簡単です。しかし、善なる人になろうとすれば、必ず制裁と犠牲の代価を払わなければなりません。これ自体が何かというと、悪なる世界に暮らしているという証拠です。(三九−二六六、一九七一・一・一五)

 本心は知っています。本心には説明は必要ありません。自動的に理解することができます。それは、偉大なことです。本心には教育が必要ありません。リーダーが必要ありません。自動的に分かるのです。磁石のように、N極とS極は、自動的に授受作用をします。同じことです。真に与えるところには、自動的に真に受ける力が結合し、そこで宇宙的な存在の雰囲気ができるのです。そのような雰囲気を、いわゆる自然というのです。(一四七−一四一、一九八六・九・七)

 皆さんが本然の人間の境地に入っていけば、そうです。神様は、私の心の中心です。心は、天の縦的な父母を受け継いで生まれたのですが、縦的な父母を通して生まれた心は、横的な父母を通して生まれた体と一つにならなければなりません。どこでですか。九〇度の角度で一つになるとき、神様がどなたなのか、地獄がどこにあるのか、天地天下がすべて見えます。教育は必要ないというのです。(一八七−一一七、一九八九・二・五)

 良心は、教育が必要ありません。なぜでしょうか。それは、垂直だからです。垂直がとどまり得るところは、ただ一つ、一点しかなく、上にも一点しかありません。それから、水平が完全にできていれば、水平という存在を教育することができますか。「お前はこのように直しなさい。あのように合わせなさい」と言うことができますか。考えてみてください。「私は水平を教育することができる」という人は手を挙げてください。それは狂った人です。水平といえば、それは永遠の基準として、永遠不変の型として受け入れなければなりません。垂直も同様です。(二一一−二三一、一九九〇・一二・三〇)

 良心が体のために、どれほど犠牲を被ったでしょうか。一生の間、蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。夜も昼も私を管理することに疲れているのが良心です。それでも倒れずに、体が悪い行動をしようとすれば止めるのです。「そのくらいすれば、もうやめなければならないではないか。私の言うことを少し聞かなければならないではないか」と、このように言うでしょう? 自分に最も近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には、教育が必要ありません。しかし、体には教育が絶対に必要です。(二一一−二八二、一九九一・二・三)

 私たちの良心世界と体を見てみれば、どのようになっているのでしょうか。良心は教育を受けなくても、すべて善なることを知っています。例えば、五つの国があるとして、五つの国の主権者たちがそれぞれ異なる憲法をつくり、それが善なることだと結論づけ、それに従って治めようとしても、良心的な人は、その五つの国の主権者の中で、どの主権者がより善なる主権者なのかを判断できる能力があるのです。どの国が一等なのかを測定することができる力をもっています。その五つの国の中で、最も良い国を選び、最も悪い国を選ぶことができます。良心は、そのようなことを判断できるので、その五つの国の最も善なる側に従っていこうとするのです。

 教育の目的は何でしょうか。良心を教育するのが目的でしょうか、体を教育するのが目的でしょうか。良心は、五つの国の中でどの国が善なのか悪なのかを判断し得る能力をもっており、いつも自己の主体性を備えて私を管理しているのですが、体は、すべてのことがめちゃくちゃです。ですから、体を主管する教育が必要なのです。良心は、主体性を既に備え、永遠に定着しているのに、どうして教育が必要ですか。良い人に会えば、すぐに心が分かるのです。一度会って、二度会って、三度会えば分かるのです。「ああ、彼と一つになりたい!」と思うのです。

 では、心と体が一つになるというのはどうですか。心と体が闘えば、良心世界はそれを嫌うというのです。良心がそのような変わらない立場にいるので、変わらない霊界が良心を土台として活動せざるを得ないという論理は妥当です。啓示を受ける場合のように、霊界に接するときにはどのようになっていなければならないのでしょうか。それが水平になって動揺がなくなってこそ、霊界が自然に連結されるのです。体ではできません。(二一六−三〇六、一九九一・四・一五)

 皆さんは、良心と肉身の二重性をもっています。自分を中心として見てみても、ある時は、良心と肉身が反対し合い、お互いが嫌うことをすることもあります。そのようにして、一つになることができずに継続して衝突します。良心と肉身が統一されて一つになることができなければ、理想郷に行く道がありません。歴史を通して見ても、今までこの戦争をやめさせたものはありませんでした。教育でも、止めることはできませんでした。

 良心は、両親、父母に優ります。誰にも尋ねるな、父母が必要ないというのです。父母の生活様式や教えは必要ありません。良心は、教育する必要がありません。良心を教育するという話を聞いたことがありますか。良心は、教育を超越しています。法を超える絶対権限があるのです。(二一七−一二、一九九三・一・二一)

 良心は両親に優る! 良心は先生に優る! 先生が必要ありません。良心には、教育が必要ないというのです。そのような偉大なものをもっています。良心は神様に優る! 神様を必要とするのは愛を引き継ぐためです。愛に連結された場合には、いつでも神様が一体となっているのです。(二五二−一五一、一九九三・一二・二九)

 絶対的な良心は、絶対的な神様の立場です。神様に尋ねる必要はありません。良心に対して教育する人を見ましたか。父母が良心に対して命令することはできません。体が過ちを犯したので父母の干渉を受けるのであって、良心は父母に優るというのです。第二の神様なので、良心は父母に優るのです。良心は先生に優るのです。先生に尋ねる必要もありません。神様に尋ねる必要もありません。神様は、良心に対して教育されません。すべて教えてあげました。良心を絶対視しなければなりません。絶対視しなければ、心と体を一つにする道は永遠にありません。(二五二−二五五、一九九四・一・一)

 良心は、第二の神様です。良心を教育するという人を見ましたか。良心を教育するという人は見たことがありません。誰もが、出会って、あなたは良心的かと尋ねます。外交舞台でも、良心的な外交官かと尋ね、政治でも、良心を中心として尋ねます。経済人も、良心的かと尋ねます。

 「良心は父母に優る」、大きな声で言いながら書いてください。忘れないように、赤い線を三本でも百本でも引いてください。忘れてはいけません。自分は、一〇〇パーセント知っています。良心は、自分がしていることで知らないことがありません。ですから、良心には永遠に教育が必要ないのです。分かりましたか。(二五七−一一六、一九九四・三・一三)

 私たちの良心だけが、(三大)主体思想を達成する対象の立場で絶対的に一体とならなければならないので、良心の位置は、私たちを生んでくれた父母より、師より、国の王よりも優れた立場に立たなければ、神様の愛の対象の立場になることはできません。良心は、教育が必要ありません。神様の代わりとして絶対的に侍らなければなりません。(二五九−四一、一九九四・三・二七)

 「良心的な人士は、良心万能圏を主張し、良心解放圏を付与し、万世の勝者にならなければならない! アーメン!」と言うことができる万国になり、良心を神様よりも、自分の父母よりも、その国の何よりも価値あるものとして尊重し得る時代が来れば、良心の解放を受けた人たちが天下を支配する時が来ます。それで、最近教えていることは、良心は父母に優るということです。父母は、結婚して自分に困難なことがあれば別れることもできますが、良心は、私と共に永遠に離れず、父母の愛以上の愛をもって天上世界に還故郷する道の案内者になるというのです。

 良心は師に優ります。良心世界は、教育が必要ありません。今日、世界で教育部の長官が良心を教育しようと宣布したという話を聞いたことがありますか。良心は、教育が必要ないのです。良心は、自分の行くべき道をすべて知っています。あることをしようとするとき、良心に引っ掛かるものがあればしてはいけません。その道は、地獄に行く道です。良心は師に優ります。良心は神様に優ります。なぜですか。愛する相対は、自分よりも優れていることを願うからです。(二六六−二七七、一九九五・一・一)

 良心は父母に優ります。良心は師に優ります。良心は主人に優るというのです。父母や師や主人は、別れて暮らすことができます。良心は別れることができません。永遠に別れることかありません。その良心の言うとおりにすれば、完全に神様の直系の子女になることができます。例えば、朝と午後になれば影ができますが、正午になれば影がなくなります。実体しかないというのです。影がないので、この位置に入っていけば一つになります。本体とイコールになって、初めて影がなくなるのです。(二九一−一八三、一九九八・三・一一)

 良心は師に優ります。「良心をつかまえて教育しよう」と言う教育部の長官がいますか。いないではないですか。良心は、教育が必要ありません。本性の良心は、教育が必要ないのです。自らが、生涯の理想教育の方向を自然と提示するようになっているのですが、肉身がそれを妨害しています。絶縁関係になって妨害しているので、不可能になってしまったのです。良心が師よりも先です。

 自らの教育によって良心の声を聞くことができるようになれば、先生よりも先に良心に尋ねるとき、真理なのかそうでないのか、すぐに分かります。自らが定着しなければならない永遠の世界の主人を迎えるべき立場に立つか、それ以上の立場に立ち得るのかを知ることができます。そのようなことが備わっており、主人権、王権以上の立場にいるので、いくらその国の教えが立派だとしても、その国にいたいと思わないのです。(二九八−一八一、一九九九・一・一)

















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