文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

五 犠牲と奉仕、そして公的なもののための教育

 み旨のために生きて傷ついたことは、後日まで自らの教育となり、子孫にも立派な教育になります。(二七−二九五、一九六九・一二・二二)

 皆さんが小学校の先生だと仮定してみましょう。子供たちを教育するのは簡単ではありません。そして、子供たちは、いつも自分の思いどおりにしたがります。私たちは、自分の思いどおりにしようとする子供たちを、訓練または教育することはできません。皆さんは、先生としてその子供たちを愛し、難しくても耐え、観察し、そして彼らを助けようとしなければなりません。それは簡単ではありません。

 もし、その子供が、先生が兄、姉、父母よりももっと自分を愛していることを感じれば、その先生は、本当に資格のある人であり、立派な先生でしょう。小学生のこのような例に見られるのと同じことが、私たちが教育しようとするところにも、私たちが行っている永遠不変の教育訓練にも適用されるのです。

 私たちは、その人々を連れてきて教育し、訓練させるために、私たち自らどれほど多くの準備をしなければならないでしょうか。その人々に対する私たちの奉仕、犠牲と献身がなくては、この歴史的な課業を成就することはできません。ここには他の道がありません。卓越した宗教指導者たちは、先生が語っているこのような奉仕と犠牲の方法を除外しては、この世界や人々を指導する道はほかにないというのです。(五二−二八五、一九七二・・一・九)

 神様が堕落した私たち人間を教育し得る道があるとすれば、それはどのような道でしょうか。人間が神様に相対し得る立場に立ち得ていないので、神様が人間を近くにおける唯一の道があるとすればそれは何か、と考えるとき、心で訪ねていく道──御自身が愛しているということを見せてくださる道──しかないということを、私たちは結論づけることができます。

 神様が「人間を再び救援し、人間を再び愛したい」という考えをもたれたとすれば、その神様の教える道理は何かという問題を考えてみるとき、「人のために生きて犠牲になりなさい」という、そのような道理になるでしょう。これは、間違いない鉄則であり、素晴らしい教育だ、ということを知らなければなりません。犠牲になるということは、素晴らしい教育です。聖書に、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)といっています。聖書のどこを見ても、そのようなことを標準として教えているのを発見することができます。聖書を通しても、神様は、間違いなくいらっしゃることを理論的に結論づけることができるのです。(六九−四六、一九七三・九・九)

 先生は皆さんに、「アメリカのために犠牲になりなさい! 世界のために犠牲になりなさい!」という教育をしてきました。私がアメリカに来て、このように苦労するのです。私がもっている財産をすべてはたいて、これをするのです。アメリカのために韓国人を苦労させ、日本人を苦労させ、ヨーロッパ人まで苦労させています。皆さんは、苦労しませんか。それでは滅びます。滅ぶというのです。ですから、皆さんをもっと苦労させようと思います。ヨーロッパ人よりも、日本人よりも、韓国人よりも、もっと苦労させようと思います。そのようにしてこそ、愛を受け、伝統が立つのです。(一〇六−七一、一九七九・一二・九)

 体が「やろう」ということの一八○度反対の道を行きなさいというのが、宗教の主流教育です。ですから、「奉仕しなさい。犠牲になりなさい。驕慢になってはならない」と言うのです。下に降りていきなさいというのです。頭を上げずに、下に降りていきなさいというのです。そうなると、サタンは、地獄にしか行く所がありません。(二五一−一一五、一九九三・一〇・一七)

 皆さん、福を受けることを願いますか。犠牲になることを願いますか。そのようになろうとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、一代、二代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。(三一−一六七、一九七〇・五・一四)

 私的なことは悪に属するのであり、公的なことは善に属するのです。歴史も同様です。私的な歴史はサタンの歴史であり、滅びる歴史です。公的な歴史は神様の歴史であり、善の歴史です。皆さんが教育をするときにも、そのような観念でしなければなりません。目で見るときも、私的に見るのか公的に見るのか、鼻でにおいをかぐときも、私的にかぐのか公的にかぐのか、耳で聞くときも、私的に聞くのか公的に聞くのか、仕事をするときも、私的にするのか公的にするのか、歩くときも、私的に歩くのか公的に歩くのか、この基準ですべての問題を解決しなければなりません。(三六−六七、一九七〇・一一・一五)

 皆さんが受けている教育の中で、真なる教育とは何でしょうか。本当の教育、真なる教育は、人のために生き、そして死になさいと教える教育です。それ以上の教育はありません。(三七−一三三、一九七〇・一二・二三)

 皆さんの中で、滅びたいと思う人は手を挙げてみてください。それでは、発展したいと思う人は手を挙げてみてください。発展する方法は、ほかにありません。簡単です。真になれば発展します。なぜ発展するのでしようか。すべてがその人の側になってくれて、すべて与えてあげようとするので発展するのです。それでは、なぜ滅びるのでしょうか。すべてがはぎ取っていこうとし、削り取っていこうとするので滅びるのです。自分を第一として横行するようになれば、永くは続きません。反面、人を第一としていけば、永く続くようになっているのです。善悪の起源は、ここから分かれていくのです。(三七−一三四、一九七〇・一二・二三)

 皆さん、年を取った人たちは、「神様が私に息子を下されば、私はこのような息子にし、私がみ旨のために果たすことができなかったことを所願成就するために、代々それを受け継がせてお父様の偉業を成就させます」と言わなければなりません。子女たちをそのように教育し、そのように育てなければなりません。それゆえに、今皆さんが一つ知らなければならないことは、皆さんの汗と涙と血の犠牲に比例する祝福が皆さんの息子、娘にあるだろうということです。いつでもそのことを考えなければなりません。

 ですから、自分のために喜ぶ生活よりも、公的なことのために悲しむ生活を、自分のために良い生活をすることよりも、公的なことのために苦痛を受けることを幸福と思う生活をすれば、その息子、娘は、何十倍、何百倍福を受ける、ということを知らなければなりません。(九〇−一一九、一九七六・一〇・二一)

 今まで、このレバレンド・ムーンが統一教会の教会員たちに教えたことは、「あなたは愛国者の中の愛国者になりなさい」ということです。これは宣言です。「あなたは愛国者の中の愛国者になりなさい」、これが統一教会の教育第一条です。愛国者の中の愛国者になりなさい! それから何ですか。「教会の信者の中で誰よりも、いかなる宗教の信者よりも高い、一番高い立場に立ちなさい!」、このように教えるのです。(一一三−一一一、一九八一・五・一)

 家門において、立派な父母が教育する教訓とは何でしょうか。「お前は、いくら困難でもこの村のために犠牲になり、この村のために手本となるように生きなければならない」と、このように言わなければなりません。このように訓示する父母は、善の父母です。

 教育がある前に愛があります。最初の創造物が存在する前に、その原則的基盤が愛から始まったので愛があるというのです。本質がそのようになっています。物質もそうであり、物質を糾合して人体となる人間も、物質の器の中に含まれている愛、神様の最高の愛に帰っていこうとする心があるのです。本心がそうだというのです。(一四七−二九七、一九八六・一〇・一)

 教育理念をどのように立てるのでしょうか。アメリカだけのために生きるという教育は、取り残されます。国境を越えて、世界のすべての人を導いていくことができる教育をしなければなりません。「世界は一つだ」と言い、「学ぶのもすべて世界のためにする」と言わなければなりません。世界は一つにならなければならないようになっています。結局は、一つになるのです。

 そのような観点から教育する内容を考えてみるとき、宗教教育が必要です。それは、国境を越えることができます。その次に、思想的な教育が必要です。それは、世界的です。国境を越えることができるというのです。ですから、思想的な内容と宗教的な内容を兼ね備えた教育にならなければなりません。ゆえに今後、どのような国家だとしても、世界のために教育理念が後ろ盾とならなくては、世界人類の前に立つことができなくなります。(二〇七−六四、一九九〇・一一・一)


六 指導者の責任と姿勢

 統一教会のみ旨に従っていく人たちの中には、一等になる人もいて、びりになる人もいて、落伍者になる人もいるでしょう。統一教会に通う人たちの中でも差が生じます。そして、実際に競技場で展開する現象が、皆さんの家庭や、あるいは活動する基盤でも展開します。しかし、問題となる国家なら国家、団体なら団体で、上手に走る選手をどのように育てるのかというのです。すなわち、どのように教育し、どのように訓練して優秀な選手に育てるかが問題だというのです。この使命が皆さんにかかっています。

 選手たちを教育して訓練するためには、まず皆さん自身がそれに値する実力をもっていなけれぱなりません。皆さんの指導を受ける後輩たちが、皆さんの記録を破るように訓練することができなければなりません。そして、統一教会のみ旨を中心とするマラソン競技において、国家を代表して世界の前に立てることができる人を育てあげなければなりません。そのような人を育てあげた指導者は、彼と共に歴史的に残るようになるのです。(二九―六七、一九七〇・二・二四)

 今後、後継者を選ぶようになるときには、冷淡に批判することもできなければなりません。自分と、ある部分は合い、ある部分は合わないことを知らなければなりません。そして、全体の責任を完全に相続してあげ得る適格者になっていなければ、何人かを立ててでも、このすべてのことを教えてあげなければなりません。教えてあげるときには、どのようにしなければならないでしょうか。甲が行かなければならない道、乙が行かなければならない道、丙が行かなければならない道がすべて異なるので、各自が該当する分野を中心として教育しなければなりません。教育して一つになり得る過程を経ていかなければなりません。(二九−八九、一九七〇・二・二五)

 先生は、一九六〇年代に全国を巡回しながら、核心要員を育てました。里に三人だけいればいいのです。大勢いても必要ありません。核心要員として三人だけいればいいのです。三人の核心要員のうち、一人は教育的な分野、一人は教会的な分野、一人は経済的な分野に責任をもつのです。このように三つの分野を三人が一つずつ責任をもち、み旨と共に死ぬことができれば、間違いなく全国を動かし得る時が来ます。そのような時が来るというのです。(三三−一九二、一九七〇・八・一二)

 先生は、ここにいる責任者たちの精誠の基準が何パーセントくらい接近したのか、ということを鑑定しています。世の中の知識を標準として見るのではなく、精誠を見るのです。

 ある人は、苦労の道に追い出します。人事処置するときに、とんでもない所に送ることもあります。思い掛けない所に配置してしまうのです。そのようにすれば、「ああ、今まで私はこのようにしてきたのに左遷なのだなあ……」と言うでしょう。しかし、左遷ですか。その左遷という認識を誰から教育されたのですか。先生が何かの職責をもっていますか。(五一−二八四、一九七一・一一・二八)

 教会は、原理ばかりを第一としてはいけません。もちろん、原理を中心として思想的基礎を立て、信仰生活の基礎をしっかりとつくらなければなりませんが、それに伴って対社会運動、その中でも教育をしなければなりません。最も重要なことが教育です。教育を良くしなければならないのです。家庭教育から、部落なら部落の公共生活の面を中心として、教育することができなければなりません。私たちの教会がそのような面に影響を及ぼしてこそ、教会を中心として、すべてを囲んで固めていけるのです。教会員ばかりに信仰の教育して、聖日にだけ集会をするのではいけません。

 物質的な面で影響を与えるためには、農業改良のようなものがあるのです。生活面で援助することができ、直接経済面で援助することができることを私たちが指導するのです。農作業のやり方や、教育の面で影響を与えるなど、とにかく彼らに利益を与えなければなりません。損害を与えれば、従ってこなくなるようになっています。物質的な面でも、精神的な面でも、一般教育的な面でも、何でも教会がプラスとなる道をもっているというとき、いつでもプラスとなる内容を補給するとき、そこに関係した人たちは、自動的に引き込まれてくるのです。

 それゆえに、今後教役者になろうとすれば、総合的な基礎教育を受けて、すべての面を備えた人にならなければならない、という結論が出てきます。結局、教役者は何かというと、神様の代身者なのですが、神様が一方的ですか。神様は、全世界を収拾して一つの理想圏に指導する総責任者なので、教会の責任者も、教会だけのために生きるめではなく、全体の行政分野の人々、派出所なら派出所の人たちまでが来て相談するほどに影響を及ぼすことができるようにしなければなりません。

 ですから、皆さんは、私たちの教会の機関が精神的な面を指導するのはもちろんですが、生活的な面や教育的な面にプラスとなる与件をどのように提示するかという問題を、いつも考えなければなりません。それで、「教会がなければならない」となれば、自然に教会も彼らが遣るのです。このような立体的な活動を皆さんが考えなければなりません。(五六−一三、一九七二・五・一〇)

 サタンの僕のような立場にいる人間を救うためには、人間たちを内的にもう一度教育し、その環境を飛び出すようにする運動をしなければなりません。そのようにするためには、神様が僕の僕の立場に立ち、彼らを指導し、教える責任者にならなければなりません。(七四−八一、一九七四・一一・一四)

 宗教を信じ、神様の息子になろうという人々は、よく食べて、豊かに暮らそうという考えを捨てなければなりません。済州島なら済州島に暮らしている道民を中心として、「私は、最も困難な立場で彼らを教育しなければならない責任がある。こじきの洞窟に行ってこじきの親分も教育しなけれぱならないが、この道知事も教育しなければならない。この国の大統領も教育しなけれぱならない」、そのように言うことのできる神様の息子、娘を必要とします。無価値な息子、娘になってはいけません。

 神様の代わりに人類に対し、下から最高まで教育しなければなりません。生涯を捧げてすべてのことを教えて教育しようというその道を行かなければ、神様の息子、娘になることはできません。(一二六−八六、一九八三・四・一九)

 今から責任者の皆さんは、きょう先生のみ言を聞いて、「私は新しい存在として、この国、この地上に新しい生活様式としての伝統を立てなければならない義務をもっている」という考えをもたなければなりません。そして、先頭に立たなければなりません。「三十六家庭」、「七十二家庭」を、今でも先生が連れて教育しています。今も教育しているのです。このニューヨークにいる時には、必ず「イースト・ガーデンに来なさい」と言って教育するのです。時間さえあれば、今でもそのようにします。

 先生がアメリカにいるときは、韓国の責任者に教育することができないのですが、死ぬ時まで教育する責任があります。始めたので最後までやらなければならないというのです。世界まで行き、天まで正しく行くことができる人にしなければならない責任があることを知っているので……。それは簡単ではありません。一年ではできません。

 幹がそうならば、大きな枝がそうです。大きな枝が小さな枝に、小さな枝が細い枝に……。同じです。先生が根ですが、根が枝に行くことはできず、枝が葉に行くことはできないではないですか。それで、各統一教会の責任者たちに会って統一教会の伝統的思想をキャッチすることができ、うかがい知ることができなければなりません。そのような枝にならなければなりません。先生の方針がそうなので、この原則に一致していない指導者は、すべて過ぎ去っていくのです。間違いなく過ぎ去っていきます。そうでなければ、私が江原道の金剛山に入っていって教育の場所を決定し、再び教育しなければなりません。(一二九−一一八、一九八三・一〇・一)

 皆さんは、自立して生活の対策を立てながら、天の民を育てなければなりません。教えるのは、専門分野の教育を受けて、自分の生計を立てるための努力よりも二倍の努力をしなければなりません。価値で見れば、どちらが重要かというと、二倍の努力をするものが重要です。そのようにすれば、教会員に世話にならず、教会員たちが暮らすことができる基盤、今後協助することができる基盤をつくることができます。

 指導者は、経済問題を扱う指導者が重要な人ではありません。政治問題や社会問題や科学問題が問題ではありません。今後、「統一思想」を完全に武装して、神様の人として新しい思想を中心として教えてあげ、教育することのできる指導者が中心だ、ということを知らなければなりません。(一三三−一九九、一九八六・七・一〇)


七 教育、このように変わらねば

 最も問題となることは、教育問題です。教育は、ビデオを通してします。将来、場所としての学校もいらなくなります。有名な先生の講義を、三時間のもの、七時間のもの、十時間のものとしてビデオで教育するのです。大学もそうです。ビデオを持って歩きながら、いつでも勉強すれば、四年ずつ通うこともありません。丁年でも、すべて片づけてしまうことができるのです。それで国家試験にパスすれば、その分野でどこでも超国家的に就職することができる道があるのです。(二〇六−三五〇、一九九〇・一〇・一四)

 最も問題となることとは何でしょうか。教育問題です。学校問題です。しかし、学校も問題ありません。最後は、言語が問題になりますが、言語教育は、ビデオでする時が来ます。そのようになれば、学校もいらなくなります。年度ごとに国家が指定した場所に行き、試験を受けて採点してもらい、合格さえすれば、学校に行かずに卒業することができ、学者や博士にもなることができるのです。(二〇八−一九、一九九〇・一一・一三)

 今後、中・高等学校も、大学の教育も、義務制度になります。義務制度というよりも、大学もなくなるのです。中・高等学校や大学の境界線もなくなります。ビデオを持って歩きながら勉強し、国家試験さえ受ければ、小学校も卒業することができ、中・高等学校も卒業することができ、大学も卒業することができるのです。ですから、天才的な人は、五年間で、大学ではなく大学院まで出てくることができるのです。言語が統一されれば、そのような時代が来ます。(二〇八−一〇一、一九九〇・一一 ・一七)

 将来、学校が必要なくなります。今私は、それを始めています。ビデオ教育時代に入っていくのです。世界的な学者たちを、各分野に該当する学者たちを招待してビデオ・テープを作る準備をしています。それで今、ワシントン・テレビジョン・センターを中心として行うのです。これは何でしょうか。今までは、文字通信社会でしたが、今からは、映像、映画通信社会に入っていくのです。それを開発して、既に二百八十の放送局を通して活用されています。(二〇九−三一五、一九九〇・一一・三〇)

 今、私たちがしようとしていることは何でしょうか。今、アメリカが滅びつつあります。それゆえに、青少年たちを動員して何をしようとしているのでしょうか。アメリカでは、ラジオやテレビジョンを二十四時間放送します。しかし、時事に関しては一時間半以上にはなりません。そして、教育放送でも、三時間以上にはなりません。それ以外は、すべて音楽と映画です。これは亡国の方向です。

 また、時事内容を中心とした映画を一週間に一編ずつ作ろうと準備しています。なぜそのようにしなければならないのでしょうか。世界の政治家から大学水準以上のすべての人々は、時事的な知識を基準として出世できる道が分かれるので、これをよく知らなければなりません。それを中心として、シリーズで映画を作るのです。その内容は、教育的なものでなければなりません。ですから、毎週一編の映画が出てくるのです。それは世界的なものです。

 それゆえに、今後、教会新築問題を早く解決しなければなりません。教会新築問題とは何かというと、三千三百の里に代わる千七百の教会をつくり、文化教育をしなければなりません。これは、国ではできません。約二千編の健全な映画を選定して、教育しなければなりません。地理学から動物学に至るまで、文化活動を通して教えてあげようと思うのです。地に生きる動物をはじめとして、すべての生物世界に関する学術的な面での文化水準を高めてこそ、民族がアジアを指導し、世界の文化圏に同参しても、同役者となって協助することができるようになります。そのようになることによって民族が……。皆さんがこれを受けて紹介することができるように準備しなければなりません。(二〇九−三三〇、一九九〇・一一・三〇)

 今、教育が問題です。今後、ビデオ教育時代が来ます。既に先生がそのような計画をしています。ワシントン・テレビジョン・センターで、一週間に一つずつ映画を作ります。時事映画を作ります。有名な学者を、すべて準備しています。文総裁が「動員しなさい」と言えば、どの学者でもすべて動員されます。今、「ワシントン・タイムズ」や「インサイト」、「ワールド・アンド・アイ」などで、世界の我こそはという人の原稿依頼も、電話通話で、「文総裁がしている会社です。あなたはどのように考えますか。このような原稿が欲しいのですが……」と言えば、「ノー」という学者がいないほどになりました。技術分野で、世界最先端の科学者と学者たちがたくさんいます。(二三三−一八五、一九九二・八・一)

 大学に何をしに行くのですか。先生の講義を聞きながら、学科の勉強内容をいつ記録することができますか。ですから、有名な教授たちが、おもしろい映画のようなものを挿入し、冗談も言いながら素晴らしく講義するのをビデオに撮るのです。それを一つ、二つ、好みどおりに聞けば、その学科を通過することができる実力がつきます。言語さえ統一すれば、世界のどこでも大学に行く必要がありません。ビデオをリュックに入れて、歩きながら聞いたとしても、国家を通して試験にパスすれば、学位を取ることもでき、卒業することもできるのです。そのようにすれば、お金がかかりません。教育する人たちの中に、どれほど詐欺師が多いでしょうか。ですから、このような準備をすべてしておきました。今からアメリカがそのようになるというのです。(二三八−一八五、一九九二・八・一)

 今後は、人口の都市集中現象が消えてなくなります。今までは、子供の教育問題や生活が便利なことがあるので都市に集中しましたが、今後、テレビや他の現代文明圏のすべての利器を通して、座って趣味を楽しみ、オーケストラの演奏を鑑賞することができ、踊りを見ることができます。テレビ一つで全世界の図書館にあるすべての本、秘密、演芸など、すべてのものを見ることができる時代に入ってきました。どこにも家を建てて暮らす必要がありません。(二六二ー二七〇、一九九四・八・一)

 今先生がワシントンD・Cで、ノスタルジアを中心として、世界の有名な学者をすべてつかんでいるので、その学者たちが教えるカリキュラム(教育課程)を編成して、世界的にテレコミュニケーション(注:電信、電話、テレビジョンなどによる遠隔通信)を通して学位を与える運動をしようと思います。

 そして、二十時間の講義なら二十時間講義のビデオ・テープを見るようにして、その教授が一年に三回か四回学んだことに関して、テレビを通して直接問答しながら教育するのです。ですから、学校と同じです。そのようにする時が来ました。専門的なビデオ講義をしたその学者が出てきて、問答形式で指導するのです。大学とちょうど同じだというのです。そのようなことを、今アメリカでしています。(二六二−二七二、一九九四・八・一)

 今は、テレビやラジオを持って、どこの谷間に行っても暮らすことができます。将来、学校がいらなくなります。すべてビデオで教育するのです。既にそのような時になりました。ですから、大学もなくなるほどです。国際管理体制で、ビデオを通して小学校課程を教育するのです。ですから、六年ずつする必要はありません。頭の良い人は、二年以内に卒業することができます。

 大学までも、ビデオを中心として勉強し、国家が公認する試験さえパスすれば、同じレベルでどこに行っても公認されます。言語さえ通じれば、アメリカの教育部次官が韓国の教育部次官と同じになります。同じように教育することができるのです。それゆえに、定着時代が過ぎていくのです。鳥のように、景色によって、自分が願う所に行って一つになるのです。学校がすべて必要なくなります。行政部署がなくなるというのです。(二六八−二三〇、一九九五・四・二)

 今、学制を撤廃するための運動をしています。学校があるために、教育問題があるために都市集中現象が起きるのです。これをすべてビデオを中心として学校をつくり、かばんに入れて勉強すれば、十六年、二十年勉強することを、頭が良ければ五年間で卒業することができるのです。そのような体制を今つくっています。このようにして都市集中体制によって環境的与件が滅んでいくのを防ぐことができるのです。公害問題! 分散させなければなりません。産業地帯のすべてのものを解体しなければなりません。今、そのような時が来ました。(二七三−二七一、一九九五・一〇・二九)

 これからは、学校がいらなくなります。何で教えるのかというと、言論媒体を中心として、ビデオを中心として教える時が来ました。今、ブリッジポート大学で全世界に大学課程を教育しようとしているのです。

 こうして言語さえ統一されれば、一瞬のうちにできます。先生の背後には、数多くの学者たちがいるので、大学教授の中で有名な教授たちを中心として、その人たちが講義することができる内容をビデオにすべて撮るのです。一時間半だけでも、その思想を入れることができ、十時間講義、数時間で講義する内容をすべてビデオにすることができます。このようなビデオを、その専門分野の三人のものだけ総括して入れておけば、その分野のすべての知識を把握して余りあるというのです。(二七四−一〇九、一九九五・一〇・二九)

 全世界の牧場にテレビとVTRさえあれば、アメリカの放送を聞いて、アメリカで教育するその教材をもって学ぶのです。自ら勉強することができる機会を与えてあげるのです。それで、一週間に一度か、二週間に一度ずつ集まるようにして、勉強したことをすべて問答してあげて指導できる体制ができ、彼らが集まることができるように車が必要なとき、救急車を中心として、学校に案内することができるようなことまでさせるのです。二重目的で使用することができるのです。

 その州の人口に比例して、幼稚園と小学校を造り、中・高等学校を造って大学に連結することができる教育体制をつくるのです。小学校の四年生から農作業の方法、木を植える方法、広野を扱うことができる方法、養殖をする方法、それを一つずつ教育します。そして、高等学校を卒業する時には、それに対して専門的な要員になるのです。大学まで行けば、地域大学の世界的な先生になり、指導者になり得る体制をつくらなければなりません。

 小学校を卒業すれば十二歳、十三歳なので、四年生からすることができます。八歳、九歳からは、実技訓練ができます。ですから、高等学校に入れば、高校生たちが牧場を守る訓練をするのです。牧場を開発して、将来競争するすべてのことを教えてあげるのです。高等学校を卒業して、大学を卒業する十六年間で博士コースまで終え、二十年間、牧場でこのような専門的な教育を受けなければなりません。一度私たちの体制に入ってくれば、自分の家に食べるものは必要ありません。すべて自給自足することができるのです。(二七六−一九六、一九九六・二・一九)

 通信教育をしなければなりません。誰でも通信教育を受けることができるのです。小・中学校は義務教育になっているので、高等学校から大学まで通信教育をするのです。インターネットを中心としてするのです。

 私が「世界の教育をしなさい」と言っていたのですが、インターネット時代が来ました。昔、五十年前にこのような夢のような話をしたとき、みな狂人扱いしました。「座りながら世界を教育する」と言ったので、狂ったと思ったのです。今、座りながら世界にすべて通じることができる時代に入ってきたではないですか。先生が死ぬ前に、そのような環境、自由天地が成し遂げられなければなりません。誰よりも幸福な立場で、限界線まですべて行き得ることを見て死ななければなりません。(二九〇−二四六、一九九八・三・二)

 今後、学校が必要ない時代が来ます。百科目の課程を完全に準備して、世界的に学校閉鎖問題が発生する大混乱時代が到来するようになりました。万民を平等に教育するのです。そのように実践していく先生に反対する国家や個人は、この地に残っていることができず、自動的に消滅してしまうのです。そのような可能性があると思いますか、ないと思いますか。可能性が絶対的にあるのです。(三〇七−二一二、一九九九・一一・一八)

 ここには、若い人がたくさんいます。四十を越えていない人たちは、希望に満ちあふれていますが、将来定着してマンションで暮らしたいと思いますか、バンを中心として暮らし、遊び、寝る、そのような環境的な与件を備えて、世界を旅行しながら暮らしたいと思いますか。どちらを願うのかといえば、理想的なタイプの青年男女たちは、旅行しながら暮らしたいという答えが九〇パーセントだというのです。

 その代わりに勉強が問題なのですが、それは、遠距離教育システムをつくってするのです。中・高等学校は、テープを六十くらい持っていって、それを百回ほど聞けば、どこでも試験を受けてパスすることができます。そのような体制をつくっておけば、二十年勉強して博士になるというそのようなことは必要ありません。十年以内に博士にすることができる道がいくらでもあるというのです。学校は必要ありません。

 世界的に看板を付けて、「何日に遠距離テストを行います、小学校何年、中・高等学校何年、大学何年試験です」と試駐日を発表して試験を受けるようにするのです。そして、新聞を見れば、どこに合格したかが分かるようにしてあげるのです。そのようにすれば、どこでも学校がなくても卒業し、学位を取ることができます。

 それで、その中で一つ、エックス表示や何かの表示を決めて、それを知らないときには、見て試験を受けたと判定するのです。カンニングしたということも、すべて座って分かるようにすることができます。試験を受けるときに、すべて理解して書かなければならないのですが、分からないで書く場合があるので、暗号表示を決めて、それが何かとして、それに合わせることができないときにはカンニングしたというのです。そのようにして完璧にすることができるのです。

 アイビーリーグ(注:米国東部の名門大学を一括した総称)の十の大学も何も知りません。リュユックサックに有名な教授の講義と有名な本を入れて、どこででも勉強するのです。どれほど素晴らしいですか! そのような時が来ました。そのようにしようと、今先生は計画しています。(三〇四−三〇一〜三〇二、一九九九・一一・一二)

















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