文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

第四章 家庭と子女教育

一 家庭は最高の教育場所

 家庭は一つの教本です。家庭は、一つの理想郷、理想国家を成すことができる一つの教本であり、その国は、理想世界を成すことができる教本です。ですから、教本が四つあります。家庭教本、国家教本、世界教本、宇宙教本です。それでは、これをどこで教育するのでしょうか。家庭で教育しなければなりません。家庭で教本教育をしなければならないのです。(一一八−二三二、一九八二・六・六)

 家庭とは、天国と因縁を結ぶようにするための教材です。教育のテキストブックです。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の息子、娘、聖子になるのです。聖者ではなく、聖子です。聖子になるのです。人間は、みなそのような欲望をもっています。「一三七−七七、一九八五・一二・一八)

 家庭では、父母を中心としなければならず、社会を代表する教育機関では、先生を中心としなければなりません。父母は、自分に乳を飲ませて育て、すなわち生理的な発展を助け、情緒的な面を助けてくれます。それでは、学校はどうでしょうか。社会的な生活、未来の生活舞台を中心として訓練をするのです。家庭が情緒的な訓練場だとすれば、学校は、社会における実験的な訓練場です。

 家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場です。愛を中心として心情的に……。それゆえに、学校において情をもって兄弟のように生活しなければならず、国においても、情をもって兄弟のように生活しなければなりません。そのような父母の教育は、学校のための教育になり、社会のための教育になり、国のための教育になります。父母は、情緒的なものをすべて後継者である子供たちに伝授してあげなければなりません。父母が生きたのと同じように、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的土台を築いてあげなければなりません。(一八〇−一三〇、一九八八・八・二二)

 父親になったならば、子供を愛するにおいて夜も寝ないそのような人、そのような父母たちは、天のすぐ近くに行くのです。それゆえに、家庭を絶対基盤として立て、「この家庭は、天国の家庭を生産するための工場だ。生産基地だ」と考えなさいというのです。ですから皆さんは、息子、娘を生んでそのような幸福な家庭をつくることができるように教育しなければならず、そのようにすることができるように保護してあげなければなりません。(一九四−一三〇、一九八九、一〇・一七)

 天国を築く一つのモデル的な地上の基盤とは何でしょうか。それは家庭です。今まで、神様の恨は何であったのかというと、真の息子、娘になるように教育できる教本を作ることができなかったことです。なぜでしょうか。人間が堕落したからです。

 神様が人間にすることができなかった真なる息子、娘の教育を、いつするのでしょうか。これが歴史を通した願いだ、ということを知らなければなりません。その次には、人間が愛の世界を築くことができるように教育する教材を作り得なかったことが恨です。兄弟の中には、女性の兄弟もいて、男性の兄弟もいるでしょう? それは二人だけではありません。十人にも、二十人にもなり得ます。その兄弟たちに、どのように生きるべきかを教える教本を作ることができませんでした。

 アダムとエバが息子、娘として生まれ、兄弟として育って兄弟の教本を作り、その次には夫婦の教本を作らなければならなかったのですが、それを作ることができませんでした。今、そのようなものがありません。それから、夫婦になれば父親と母親になるのですが、その父母はどうあるべきかという伝統的教材を作ることができませんでした。このように四つです。(二二四−一六八、一九九一・一二・一五)

 真の愛の教育と訓練の場は、家庭です。家庭教育において子女を正しく教育しなければなりません。それから兄弟と夫婦、その次に父母を正しく教育しなければなりません。これが四大原則です。(二二五−一五八、一九九二・一・一二)

 理想世界の体制とは、どのようなものでしょうか。家庭が単位です。家庭が天国の基盤であり、天国創建の礎です。これが礎石です。どれほど民がたくさんいたとしても、家庭を拡大した愛をもって国家に対する人は、天国のどこに行こうと通過します。それゆえに、家庭において教本どおりに教育を受けた、そのような心をもたなければなりません。

 家庭に入っていけば、おじいさんとおばあさんがいるでしょう? お父さんとお母さんがいるでしょう? 夫婦がいるでしょう? また息子、娘がいるのではないですか。四系列であり、段階は三段階です。ですから、これを拡大すれば、世界のどこに行こうと、おじいさんやおばあさんの年齢の人がいて、お父さんやお母さんの年齢の人がいて、自分たち夫婦の年齢の人がいて、自分の息子、娘の年齢の人がいます。ですから、家庭において教本のとおりに愛の内容を体験した人は、世界のどこに行こうと何の問題もありません。教本どおりに生きることができるフォームをもっているので、合格者になるのです。このように生きる人は、今後、どこの家に行ったとしても食事を与えてあげなければならず、泊めてあげなければなりません。そのような時が来ます。この教育さえできていればよいのです。

 それは夢のような話ですが、行ってみなさいというのです。先生がうそを言ったのかどうか。その世界に合わせるために話すのです。それゆえに、家庭が絶対基本教本です。家庭で教育されたとおりに生きれば、どこに行こうと国境がなく、遮るものがありません。そのような心情をもっていくようになれば、閉ざされた門も、ふさがれた塀も、「よくいらっしゃいました!」と言ってすべて開くのです。そのような存在に対しては、良い庭や草原があれば、それらまでも「よくいらっしゃいました!」と言うのです。すべて花びらのように開いてあげる気分になるというのです。狂ったことを話していると思うでしょう? その世界のことを思うと、この世で暮らすおもしろみがなくなるのです。

 それゆえに、神様も同様です。もし神様が、「愛の理想はこのように偉大なものなので、あなた方はみな、自分の生命よりも相対を愛しなさい!」と息子、娘に訓示されようとすれば、「あなたはどうだったのですか」と言うでしょう。そのような時、「私がそのようにしたので、あなた方もそのようにしなければならない!」と言うことができなければなりません。神様御自身ができないことを、神様が教育なさることはできないというのです。「私自身が愛に絶対服従する努力をしてきたので、あなた方夫婦も、愛の生命線を越えながらでも絶対従順して助けることができ、『ため』に生きることができる道を歩んでいきなさい!」と言うとき、「はい!」と言うようになれば、天地の道理において、上下・前後・左右の衝突の論理がすべて解消されます。それゆえに神様も、愛には絶対服従されるというのです。

 それで、昼食の時になれば、「ああ、おじいさん! 私はおなかがすいたので、御飯を食べなければなりません。私のお膳を準備してくれないのであれば、分けてください!」と言います。それで、分けてあげれば、「もう一杯下さいませんか。年を取ったおじいさんよりも若い人のほうがもっと食べなくてはいけないでしょう」と言って、向き合って座って食べるのです。自分の孫のような人が向き合って座ったからといって、足でけ飛ばしたりするでしょうか。「やい、こいつ!」と言うでしょうか。そのようにすれば、「この家の家風はこうなのか」と言って問いただすのです。「宗家の家のようですが、孫を育てる時、おじいさんとおばあさんはそのように教育したのですか。若い青年たちが公的な仕事のために苦労し、迫害を受けているので、そこに同調することができるように教育しようと思って私がこのように訪ねてきたのに、同調してはいけないと教育したのですか」と問いただすのです。

 第一は何かというと、復帰です。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰です。長子権復帰を成したのち、新しい国の民となり、家庭を中心として、神様の恨となっていた四大教本的教育内容を心情的に体恤しなければなりません。それから、理想世界の体制を中心として家庭的生活環境を国家に適用し、国家の生活環境を世界に適用し、世界の生活環境を天宙に適用し、天宙の生活環境を神様に適用して暮らす人は、どこに行こうと遮られることがありません。天上世界だろうと、地上世界だろうと、どこに行こうと歓迎を受けるのです。(二二五−二二三、一九九二・一・二〇)

 家庭は、あの世に行って完全な合格者となるための一つの教育場所です。家庭の主人は誰でしょうか。家族全員を最も愛する人が主人です。同じことです。今日、この世の中の主人は誰かというと、天国を大きな家庭として見れば、この地上に住んでいるすべての人々を愛する人が主人です。白人たちは、白人だけが一番だと思っているでしょう? 違います。そのようにはなっていません。東洋と西洋がありますが、西洋だけがあって東洋がなければ、西洋がないのと同じです。これは、すべて相対的に結ばれるようになっているのです。(二四七−三一一、一九九三、六・一)

 教育の本堂が家庭だ、ということを知らなければなりません。私が妻と結婚する時、約束したことがそのことです。子供たちの前に涙を見せる父と母にならないようにしようというのです。その子供に何の罪がありますか。罪はありません。いくら悔しく無念であったとしても、朝になってお父さんとお母さんにあいさつに来る子供の声を聞けば、どれほど涙を流していても、扉を開けるや否や涙をぬぐい、きのうと同様の姿勢を取らなければなりません。それで、母となる人は、その子供を優しく抱いて自分にキスをさせ、父にキスをさせることができなければなりません。そのようにすることができる女性たちがいますか、いませんか。

 子供たちは、先に母の懐に来ます。母は、きのうと同じように、ためらうことなく抱いてキスをさせ、父にキスをさせるのです。またそれよりも、父が子供をさっと抱いて、自分がキスすることができる、このような教育が必要です。統一教会の人は、そのようにしますか、しませんか。一生の間どれほど愚かであれば、子供たちの前に涙を見せ、その胸痛む姿、忘れることができない痕跡を残してしまうのかというのです。そのようになる可能性があれば、どれほど悟ったとしても無に帰してしまうのです。(二五一−九八、一九九三・一〇・一七)

 地上にある家庭とは何でしょうか。天国に連れていく民を再創造する工場です。ですから、私たちは、その工場の主人の役割を果たしたのちに霊界に行くのです。そして、正しい道さえしっかりつかんでおけば、息子、娘を教育する必要がありません。自然にそのようになるというのです。自分の神様をすべてもっています。教育は必要ありません。堕落したのでこのようになったのです。堕落して根本が分からなくなったのです。(二五四−二四六、一九九四・二・一三)

 神様の愛が結実する最小単位が家庭です。したがって、家庭は、人間の幸福と理想と生命の基台となるのです。私が生涯を通して家庭の貴重性を教育し、理想家庭のための祝福行事を世界的に主導してきた理由もここに由来します。(二七一−七四、一九九五・八・二二)

 家庭は、最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。(二七一−八〇、一九九五・八・二二)

 私たちの家庭は、焦点聖地にいなければなりません。焦点聖地であると同時に世界の中心の位置に立ったので、「焦点聖地の主人は私たちの家庭です! 根源聖地の主人も私たちの家庭です! 勝利聖地の主人も私たちの家庭です!」ということです。誰によってですか。神様と縦横の真の父母の苦労と蕩減復帰された勝利の基盤を継承することによって、私たちの家庭がこのようにならなければなりません。ここからすべての因縁を中心として、家庭と氏族、民族、世界の家庭を教育することによって世界の氏族編成、核編成を始める時、地上に希望の時が訪れてくるというのです! (三〇三−一四〇、一九九九・八・八)


二 子女とは誰か

 皆さん、子女とは何ですか。神様が人をどれほど愛されたかを教育することができるもの、それを教えてあげるためのもの、それを体恤させるためのものが子女です。子女というものは、自分たちを通して創造されました。その子女を通して、神様がアダムとエバを造られてどれほど喜ばれたのかということを知るようになるのです。皆さんが子供を愛するのは、神様が私たちの人類始祖を造って喜ばれたことを体験することです。神様と同じ立場で子女を愛することができる人にならなければならないので、息子、娘を生まなければなりません。

 このことをすべて理解して教育し、正しい道を歩むことができるようにしなけれぱなりません。それを教えてあげる道理が、歴史上において初めて文総裁を通して聞かれました。神様の愛は、一人で受けることはできません。男性と女性が、生命以上の愛によって完全に一つにならなければなりません。生命以上の愛です。生命よりも前に立っているものが愛です。生命以上の愛で一つになることができる立場に、神様の愛が臨まれるようになるのです。(一四二−一一八、一九八六・三・六)

 自分の息子、娘を王子のように、王女のように育てなければなりません。そして、父と母に対して、王や王妃のごとくによく侍らなければなりません。天国の家庭法がそのようになっています。そこに争いがあり得ますか。命令一下で一瀉千里(注:ものごとが一気に進む)です。その家庭全体の背景にある根本思想は、「ために存在する」ということです。そのようにしなければ、平和が訪れてくることはあり得ません。この文総裁の教えは永遠の真理であり、万民はここに身を投じざるを得ません。身を投じて完全な僕になったとしても、そこにしがみついていようとするのです。今までは、自分のために生きようとしてきたのでしょう? これを何によって一八○度ひっくり返してしまうのですか。先生が教育しなければいけません。根本から、根がそのようになっています。(二一八−二六一、一九九一・八・一九)

 子女は、未来の王権を伝授されます。皆さんはまだ結婚していませんが、今後、未来の氏族の前に王孫を育て、大きな国の王として送るために王孫を育てているのだ、という心をもたなければなりません。ですから、生んで教育して育て、出世させることを願うのでしょう? 生まれた時に真の父母となり、真の師となって、真の主人の立場に立てようとすることが、人類のすべての父母と国家が望む願いではないのかというのです。それは同じことです。子女は、未来の王です。(二二一−二三、一九九一・一〇・二〇)

 本来、アダムとエバは、王子と王女でした。神様の恨は何かというと、王子と王女はどのように生きるべきかを教えてあげることができなかったことです。そのように教育することができなかった恨を解かなければなりません。

 アダムとエバは、神様の息子、娘として、神様から王子、王女としての教育を受けることができませんでした。それから、兄弟の教育を受けることができませんでした。兄弟の教育を受けていれば、万民兄弟の因縁を中心として、万天下が一つになるようにできていたのです。神様の兄弟が人類です。そこで長子権の長孫を中心として、兄弟が横的に広がったものが氏族となり、国となって、世界に拡張されていったのです。このように、本来の人間とは、天の王宮において王子圏、皇族圏の心情を体恤して暮らした人々なので、天国に行くのです。天国は、誰もが行くようにはなっていません。

 イエス様は、この地上に来たのちに、なぜ天国に入ることができず楽園に行ったのでしょうか。アダム完成者を代表した立場にいたイエス様は、この地上において、王子の教育と王女の教育を整えて兄弟の因縁を広げることができず、夫婦の因縁を広げることができませんでした。それゆえに、父母の因縁をこの地上で見せてあげることができませんでした。それを蕩減復帰しようとしたのですが、それを果たすことができなかったので、再び来てそれを再現しなくては天国を開門することができないのです。

 それによって再臨時代にこの仕事を再び成さなければならない立場なので、王子、王女として教育することができずに神様が恨を抱かれた教育の道理を、文総裁が代わりに立てて教えているのです。もう皆さんは、何をすべきかということが分かったでしょう? 皆さんは、神様の息子、娘として、王子、王女の心情を体恤しなければなりません。(二二六−一三〇、一九九二・二・二)

 息子、娘は、第三の神様です。第一の神様は自分のおじいさんであり、第二の神様は父母であり、第三の神様は息子、娘です。それで、息子、娘を神様のように愛しなさいというのです。

 エデンの園には、これを教育する方法がありませんでした。しかし、私たちには、これを教育することができる原典があります。テキストブックが出ています。これを見れば、誰もが一目暗影、完全に知ることができます。天国の皇族にならなくては、本然の天国に入っていくことができない、ということをはっきりと知らなければなりません。それを教育することができる本然のテキストブックのような生活環境圏の舞台が私たちの家庭です。(二三六−一四九、一九九二・一一・四)

 家庭が根です。家庭が根なのです。国が根ではありません。今日、世界的な問題は何かというと、家庭が問題です。家庭問題に重なって国家問題です。家庭問題が先に解決されれば、国家問題はきれいに解決されます。「家庭」と言えば、おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分たち夫婦、息子、娘です。系列にすれば四系列であり、段階は三段階です。国家の手本となり、天地に認定されざるを得ず、公認されざるを得ない母体であり、定着地であり、「希望の基地だ」と言うことができる場所が家庭です。なぜ家庭が基地なのでしょうか。愛が定着する場所だからです。(二四〇−二八一、一九九二・一二・一三)


三 家庭と子女教育の重要性

 本然のエデンを探し求めていく皆さんは、今後どのように生活しなければならないのでしょうか。イエス様を模範としなければなりません。イエス様を模範として、宇宙的、天的な幸福の要素を探し出して神様の前に実体で栄光を現すと同時に、皆さんがとどまるすべての場所において、神様の幸福と愛と生命と栄光を紹介し得る真の人とならなければならず、多くの人々をして神様に感謝を捧げるように教育し得る皆さんとならなければなりません。(二−二五一、一九五七・六・九)

 人は、誰もが素晴らしい息子をもちたいと思います。それでは、素晴らしい人に育てるためには、どのように教育しなければならないのでしょうか。ある人は、幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、「そこで教育すればよい」と言うかもしれません。しかし、教育は、一生の間しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せる時、すなわちその代身者として立てる時は、父母の心と一致させ、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。(二四−二五六、一九六九・八、二四)

 自分の息子、娘を教育する時に、父と母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてはいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ。愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。(二六−二九五、一九六九・一一・一〇)

 「み旨よ! 成就されますように」。そのために皆さんは、神様をお迎えしなければなりません。神様を皆さんの心にお迎えしなければならないというのです。神様を心にお迎えして、子女たちを正しく教育しなければなりません。責任をもっている人は、適当にしようとしてはいけません。そのようなものが父母です。

 それでは、四位基台は誰が復帰するのでしょうか。皆さん各自が復帰しなければなりません。私がしなければならないというのです。私自身が神様と一致し、また息子、娘と一致しなければなりません。霊の息子、娘を探し出して教育し、死の道を代わりに行くことができる信仰の息子、娘として立てておかなければなりません。そのようにして初めて一つの完全な安息の基盤がつくられるのです。自分一代においてこの基準さえ決定しておけば、偉大なところに行くことができ

 父母が、自分の息子、娘を中心として、「あなたと私は、離れてはいけない」と教育すれば、その家庭は滅びます。しかし、その社会、その国と離れることができないように教育する家庭は繁栄します。「私が卑しい仕事をしているので、子供であるあなたも卑しい仕事をしなければならない」、「私が商売人なので、あなたも商売人になりなさい」。このような教育をすれば滅びるのです。

 父母ならば、誰もが子供に、「あなたは国のために、国の偉大な人物とならなければならない」と教えます。今は、世界が私たちの目の前に迫ってきている時代です。「あなたは国家的人物となりなさい」と教える時代は、既に過ぎ去りました。今からは、「あなたは世界的な人物にならなければならない」と、このような教育をしなければなりません。世界と共に生きなさい! 皆さんの心理がどのようになっているのかを私は知っているので、このように結論づけて話すのです。(二八−一九二、一九七〇・一・一一)

 今後育っていく息子、娘に、どのように父母の思想を伝統的に植えつけるのでしょうか。これが問題です。神様におかれては、復帰摂理のために六千年間苦労されながら、サタン的な世界から神様の子女たちをどのようにして引き抜いてくるのかということが問題となるのですが、それと同じように、皆さんにおいては、サタン的な世界でどのように息子、娘たちを教育するのかということが問題です。皆さんは、このような二重の十字架を甘受しなければなりません。(二九−二七一、一九七〇・三・一一)

 最高の公的な生活は、天宙のために働くことです。私たち統一教会は、天地主義ではなく、天宙主義です。天宙の「宙」は、「家」という意味です。天宙主義は、人が主人ではなく、家、すなわち家庭が主人です。国家形成の起源も、人ではなく家庭です。家庭がなければ世界が形成されません。家庭が誤った方向に行けば、その国は滅びます。ですから、家庭教育は、今後その国が福を受けることができるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。(三一−二四二、一九七〇・六・四)

 一つの国を探し立てるためには、一個人から出発しなければなりません。ですから、どれほど大切に思ってその一個人に対さなければならないでしょうか。また、そのような個人が家庭を成せば、その家庭は国を代理し、世界を代理する家庭なので、その家庭をどれほど大切に愛し、貴い立場でどれほど一つになっていかなければならないでしょうか。今から私たちは、愛する息子、娘を中心として、この世の中において、サタンから分立した新しい氏族を創設しなければなりません。父母の立場で天情の因縁を鼓吹するために努力する家庭を築かなければなりません。そのためには、あらゆる力を尽くし、あらゆる精誠を尽くして、愛して教育する生活をしなければなりません。

 教育的な面から見れば、私が生きているのは、息子、娘の行くべき道を教えてあげ、息子、娘の幸福の基盤をつくるためであり、国と民族の福地の基盤をつくるためです。そのような立場で生きるならば、そのようなものこそ、新しい世界の起源となる厳粛かつ高貴なものです。これを、天宙に存在するいかなるものよりも貴く思うことができる立場に立ってこそ、神様の息子、娘としての責任が始まるのです。これは、どれほど素晴らしい生活でしょうか。(三四―六一、一九七〇・八・二九)

 皆さんは、息子、娘を教育する時、「私の愛する息子、娘たちよ! あなた方は、父母の前に負債を負ってはならない。父母に負債を負わないだけでなく、あなた方の兄弟にも負債を負わず、あなた方の隣人にも負債を負ってはならない」と教えることができる教訓の材料を自らもたなければなりません。「私は、一生を通して、負債を負わないように千辛万苦の努力をして、このように手が曲がってしまい、この指が馬の皮のようになってしまった」と教育しなければなりません。「この手は、村のために生き、他のために生きてこのようになったのだ」と……。それを見て「お父さん! その手はみっともないです」と言う息子がいるとすれば、そのような息子は罰を受けます。(八五−一三四、一九七六・三・二)

 父母は、どのようにしなければならないのでしょうか。兄弟同士愛することを教えてあげ、父と母を愛することを教えてあげると同時に、「私は、あなた方を愛するのと同じように国も愛しているので、あなた方も、国をこのように愛さなければならない」と教育しなければなりません。そのように教えてあげることさえできれば、一度に「あ!!」と言って分かるというのです。ほかの教育は必要ありません。「そうか、そうか、私たちのお父さんもそのように生き、私もそのように生き、私たちの家庭がそのように生きるので、アメリカの家庭がすべてそのように生き、大統領がそのように生き、アメリカの国民がそのように生きるのだなあ。我が家のように、世界的、国家的な基盤を成すことが、この国のための愛国なのだなあ」ということが一度に分かるようになっているのです。

 そのようになれば大統領が、「さあ、今から、我が国民は一つとなって、この怨讐をやっつけよう」と言えば、「わ!!」と言って一つとなり、いかなるものでもやっつけることができるようになるのです。大統領の言葉を父の命令よりも高い命令だと思うのです。自分の父母のために生きることよりも大きいと教えなければなりません。それゆえに、「あなたと私は、国に困難なことがあれば、国に忠誠を誓い、国に愛国を果たすために、あなたと私が共に死の道を行かなければならない」と教育しなければなりません。(九五−四九、一九七七・一〇・二三)

 子供を生んで育ててみることによって、その家庭を通して愛することを経験し、すべての人を愛することができるようになるのです。幼い子供から年を取った人々まで、男性はすべての女性を、女性はすべての男性を、そのようにお互いに愛することができるこのような因縁の世界が、より希望ある理想郷に近い世界なのではないでしょうか。ですから、家庭というものは何でしょうか。理想世界を紹介するための教育の場です。(一〇九−二八七、一九八〇・一一・二)

 息子、娘を生んで息子、娘のために生きるのは、世界を愛することを学ぶためです。息子、娘は、世界と連結され、未来と連結されています。息子、娘がいなければ、未来と連結されないのです。未来の世界と連結することができる教育の材料として息子、娘を与えた、ということを知らなければなりません。その次には先祖たちです。おじいさんとおばあさんがいるのは、霊界に対する教育のためです。おじいさんとおばあさんの前に孝行の道を歩めば……。霊界にそのシステムができています。霊界に対する教育を受けるためです。

 どれほど波が打ちつけようと、壊れることのない堤防をつくっておかなければならず、どれほど風が吹きつけようと、壊れることのない泰山をつくっておかなければなりません。そのような教育雑誌(「インサイト」、「ワールド・アンド・アイ」)をもって、世界をリードしなければなりません。そのようにしなければ、世界は滅びます。それで、世界の学者たち、「PWPA」(世界平和教授アカデミー)という世界的組織をレバレンド・ムーンがもっているのです。

 それでは、神様とはどのようなお方でしょうか。愛を中心として、僕になりながら人類を抱いてこられたお方です。人類はこれを知らないので、神様が教えてくださるのです。堕落したがゆえに、絶えずサタンが滅ぼそうとするので、新しい教育システムをつくって、神様御自身が教えてくださるのです。教えてくださるにおいては、何をもって教えてくださるのでしょうか。神様の愛を中心として教えていかなければならないのです。(一三五−一二〇、一九八五・一〇・四)

 人間にとって、誇りたいと思うこととは何でしょうか。息子として生まれれば、誰を誇らなければなりませんか。父を誇らなければなりません。その次には、兄弟を誇らなければなりません。これは、直接的な問題です。社会教育がある前に、国家的教育がある前に、家庭教育がなければなりません。家庭教育がある前に、個人教育がなければなりません。

 個人教育の中で、最初に植えつけるものとは何でしょうか。知識ではありません。父と母は「勉強だ」と言ってはいけないというのです。権力ではありません。お金ではありません。歴史を動かし世界を動かし得るもの、お金で買うことができない偉大なものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛に絶対心服することができる王子とならなければなりません。王女とならなければなりません。真の愛の前では、僕になるほど、奴隷になるほど楽しいというのです。(一七五−一七、一九八八・四・一〇)

 息子、娘の特権とは何でしょうか。父と母と息子、娘では、誰が一番偉いですか。もちろん父が偉いでしょう。母と息子を見れば、どちらが偉いでしょうか。このような問題が、今後家庭教育において世界史的な問題となるでしょう。東洋の法では、父と息子が国家を論じ、天地の機密を論議するようになる時は、母は出ていかなければなりません。「出ていなさい」と言えば、どれほど気分が悪いでしょうか。東洋思想ではそのようになっています。「出ていなさい」と言って息子と……。

 そのような時、なぜ母がデモをしませんか。なぜでしょうか。母は畑です。父は種であり、種に連結したものは、母ではなく父だというのです。ですから、種同士で会って話し合おうという時に、畑がそこに入っていいのですか。天地の道理がそのようになっているので、東洋思想から見るとき、「出ていなさい」というのが元亨利貞(注:事物の根本原理)なのです。(一七七−三二四、一九八八・五・二二)

 父と母は、兄弟たちに全く同じように接してあげることを好みます。父母は、みなそうです。兄弟を憎むことは、母を憎むことよりももっと大きな罪だ、このような結論が出てきます。アメリカの家庭はそうですか。このような話は、初めて聞くでしょう? これが家庭教育における第一条です。これが読本です。(一八四−六〇、一九八八・一一・一三)

 天国の起源は、家庭です。真の愛を中心として、家庭を転換しなければなりません。それゆえに、家庭の中でも、二世である青少年が活動しなければなりません。青少年たちがすべて破壊されてしまいました。青少年たちが麻薬の巣窟に追いやられ、悪魔の矢に当たってフリーセックスが横行してしまいました。ですから、青少年たちが部落ごとに団結して、その村に乱暴者の群れがいれば、全員が一つとなって警察と共に除去運動を行うのです。その村に悪事を働く群れが現れれば、二世たちが責任をもち、父と母と一つとなって彼らを追い出し、またその部落で教育することができる、そのような時代に越えていくことによって、私たちの家庭は希望的な家庭になるのです。そのようにして、平和の王宮的基台を自分の家庭から世界版図まで拡張することのできる理念的世界が展開していくのですが、それを迎える準備をする人が、知恵ある国民であり、今後、福を受ける国民となるのです! (二〇八−二九九、一九九〇・一一・一〇)

 おじいさんとおばあさん、父と母、自分たち夫婦、息子、娘、これを東西南北に拡大したものが宇宙です。家庭は、すべての愛を統一した一つの理想的モデルなので、教科書と同じです。ここに適用するすべての愛の理念を世の中に拡大させなければなりません。自分のおじいさんのような年齢の人の前では、人種を超越して自分のおじいさんやおばあさんのように尊敬することができなければならず、全世界にいる自分の父や母の年齢の人に対しても、愛を中心として、家庭で自分の父と母を愛するように、その愛を延長した愛で愛することができなければなりません。そのような人が、天国を所有し得る人となります。この天下全体、天国の版図を受け継ぐことができる者となるのです。

 また、男性と女性がお互いに愛し合うように、世の中の男性と女性を愛する心を世界的に平準化させ、子女たちの年齢の愛を世界的に標準化させなければなりません。そのようにして、家庭が一つの教科書となったその教育方法を世界全体の前に正しく適用することができる人は、世界の中心であられる神様の愛の王子、王女となるのです。(二〇九−二三二、一九九〇・一一・二九)

 皆さんは、先生のおかげで、みな天国の民になったでしょう? 同じことです。皆さんの息子、娘が天国の民になることができるようにするためには、自分が死んだとしても、天国に連れていって暮らすことができる息子、娘として教育しておかなければなりません。それが皆さんの財産です。それをシステムにして、皆さんの息子、娘を教育しなければなりません。そのようにしてこそ、彼らが一つのところに行くのです。(二一五−一八二、一九九一・二・一七)

 自分の家庭でおじいさんとおばあさんに侍るのと同じように、万国でそのように生きることができる侍る心情をもっている人は、天国に入っていくにおいて、その道がふさがれることはありません。教科書とは、万国の統一的教育基盤、行動的な統一のために必要なものと同じです。年を取った人を見れば、自分のおじいさんやおばあさんのように思いなさいというのです。昼食の時になって食堂に入っていくのに、お金がなくて困っている姿を見れば、一緒に連れていって、自分のおじいさんやおばあさんのようによくもてなしてあげなさいというのです。そのようにすれば、そのおじいさんやおばあさんは、自分よりも長生きするのです。負債を負ったので、返さなければなりません。ですから、「ため」に生きれば福を受けるようになり、創造の実績が損害を受けることはありません。愛を中心として投入するところには、損害が発生する道理はないのです! (二一五−一〇九、一九九一・二・六)

 縦的基準から見るとき、おじいさんは最初の神様の立場を代理し、二番目のアダムとエバは父を代理し、私は未来の王子を代理するので、この家庭に横的に現れたおじいさんを神様の代理として侍らなければなりません。これが家庭教育の原論です。(二二一−二一四、一九九一・一〇・二四)

 家庭において厳格にしなければなりません。厳格にしなければなりません。どのような制裁を与えようと、サタン世界に染まらないように父母たちが責任をもって管理し、教育しなければならない時代だということを知らなければなりません。ですから、アメリカに従っていけば、すべて滅びます。フリーセックス、性の解放、ホモセクシュアル、レズビアン、このようなものがアメリカにどれほど多いでしょうか。これは悪魔の計略です。悪魔の版図を全体、全般、全権の行使によって展示しているのです。最後です。ここで一八〇度反対の方向に転換しなければならないので、天国は、この正反対の道を行くのです。ですから先生は、この世界の反対を受けるようになっているのです。(二四八−七八、一九九三・七・一)

 男性の特権は何かというと、生殖器をもったということです。皆さんは、生殖器をもっているでしょう? どのような生殖器ですか。神様と同じ生殖器、真のお父様と同じ生殖器です。いい加減には使いません。主人を知らない、そのような生殖器になってはいけません。女性も同じです。神様と同じ、お母様と同じそのような生殖器をもちました。それが今から伝統です。ほかの教育はあとからいくらでも補充することができますが、これは結婚する前に教えなければなりません。家庭教育がどれほど重要かということを知らなければなりません。(二六三−一二五、一九九四・八・二)

 父母としての最高の教育は、「孝子の道だ」と言うことではなく、「忠臣になりなさい」と言うことではなく、「聖人になりなさい」と言うことではなく、「聖子になってほしい」と言うことです。「私たちが暮らすことのできる理想の国において、その国の民を中心として、王宮の伝統礼法を守ることができる聖子の道理を全うしてくれ」と言うことが、父母としての最高の教育です。地上から天地の前に行くことができる最高の道を教えなければなりません。(二六七−一九三、一九九五・一・八)

 おじいさんは天国の特権大使、父母は現世の世界の大王陛下、自分は天国の王子であり、地上の王子です。それで、おじいさんは、孫と孫娘を自分の子供よりも愛します。先生がおじいさんになってみると、本当にそうでした。自分が教育的な基盤をつくって自分の学校に送らなければならないのですが、そのような基盤をつくることができない時は、おじいさんの使命を果たすことができなかったということです。二重三重の責任を追及するのが、孫と孫娘です。孫と孫娘は、地上天国と天上天国を再創造するための出発の父母とならなければなりませんでした。ですから、孫と孫娘がそのような立場に立つことができるように使命を全うするおじいさんとなり、先祖とならなければなりません。(二九五−二四三、一九九八、八・二八)


四 祝福家庭の父母の責任と姿勢

 祝福家庭も、夫が誤った時には妻が激しく打たなければならず、妻が誤った時は、夫が激しく打たなければなりません。そのようにすれば、その家庭は、神様の福を受けます。打たれることは、後世の教訓となり得る材料となります。打たれることがなければこのように誤るところだったのに、その恩徳によって良くなれば、打たれて涙を流したその環境が、結局は後世を教育することができる教本として残されるのです。このような教本を残して死ぬ人は、賢い人です。(二八−三五、一九七〇・一・一)

 今後、私は、世界と共に生きることができる教育を皆さんにしようと思います。歴史は、何を探し求めてきたのでしょうか。世界と共に生きることができる、その時を探し求めてきたのです。皆さんも、その時を中心として歩み、闘い、努力し、教えて、死ななければなりません。結局、その立場においても死ぬには死ぬのですが、そのようにすれば再び新しく復活するのです。(二八−三〇七、一九七〇・一・一一)

 父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。

 子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。

 公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝時間に合わせるために早朝から精誠を尽くし、その日を神様の前に捧げるのです。そのように生活化することを子女たちに教育しなければならないのですが、自分たちがすることをすべてして……。「み旨の生活をしている」と言いながらも、祈祷をしているのでしょうか、精誠を尽くしているのでしょうか、原理の勉強をしているのでしょうか、伝道をしているのでしょうか。何もしないで、聖日の礼拝時間が十時三十分ならば十時三十分、その時間に合うように参加するためには、九時三十分か十時には出発しなければならないのですが、礼拝時間になってから家を出発し、礼拝中に入ってきてこっそり座るというのです。このようになれば、必ず批判を受けます。いくら父母の立場で子女を教育したところで、受け入れられません。

 皆さんは、その洞ならば洞内のある班に所属して暮らしているはずです。そこで皆さんが生活するにおいて、その班全体をみ旨の前に吸収するためにどれほど努力したのかということが、子女教育に大変な影響を及ぼします。み旨を中心として生活したのちの生活的違い、すなわち洞内でどれくらい模範的な生活をし、対人関係においてどれくらい模範的な関係を結んだのかということが、子女たちの批判対象とならざるを得ません。したがって、公的な生活を強固に行わなければなりません。(三一−二六八、一九七〇・六・四)

 子供たちが昔見ていた父母と、現在見ている父母に何の違いもなければ、その父母は、子女たちを教育することができません。したがって、過去とは隔絶して変わらなければなりません。家庭生活やその洞内での対人関係において、このようなことが問題とならざるを得ません。子供は、自分なりに、「み旨を中心として歩む人はこうでなければならない」という観念をもって父母を見つめ、点をつけているというのです。(三一−二七〇、一九七〇・六・四)

 皆さんは、自分の息子、娘に影響を及ぼすことができる父母にならなければなりません。これが第一の使命です。そのようになろうとすれば、教会生活や公的生活を徹底的にしなければならず、私的生活において模範とならなければなりません。これは、今後子女としてみ旨の道を歩ませる教育をするにおいて、絶対的に必要です。(三一−二七六、一九七〇・六・四)

 夫は、息子、娘たちに教育しなければなりません。「あなたのお母さんは、世界で一つしかない神聖な仕事のために行ったのだ。このお父さんも、お母さんが行く道に従っていかなけれぱならず、あなたも、父と母が行く道に従っていかなければならない」と、涙を流しながら教育しなければなりません。

 「お母さんは、国のために、世界のために苦労する道を行くのだ。冷たい風が吹いてくるこの冬の晩にも、お母さんは冷たい部屋で横になっているかもしれないのだから、私たちがこのように暖かい部屋で布団を掛けて寝ることを申し訳なく思わなければならない。お母さんがあのようにするのは、私たちの面倒を見て、私たちの行くべき道を築いてくれるためであり、お父さんが成功し、あなた方が成功するためなのだ。そのようなあなた方のお母さんは、世界にいない母親だ」と、夫は子女たちを教育しなければなりません。「この次には、お父さんもその道を行かなけれぱならないが、あなたも大きくなれば、お母さんが行く道を受け継いで共に行こう」と言いながら、母を中心として、父子間に涙の因縁を結ばなければなりません。そのようにしてこそ、その家庭は、母の道を受け継ぐことができる家庭となるのです。(三八−二九二、一九七一・一・八)

 今は、皆さんがこの民族に新しい家庭的思想を吹き込んであげなければならない時なので、昼も夜も、ほかのことを考えてはいけません。会いたいと思って夫を考え、子供を考えながら涙を流してはいけません。涙を流したとしても、世界のために流し、神様のために流さなければなりません。神様を愛し、世界を愛した女性を真なる母として立てることができず、神様を愛し、世界を愛した男性を真なる父として立てることができなかったことが堕落の恨ではありませんか。それゆえに、皆さんも、夫が自分を「愛する」と言えば、「国のために、世界のために神様を愛してから私を愛しなさい」と言わなければなりません。「神様だろうと、氏族だろうとすべてほうり出して、私だけを愛してください」と言ってはいけません。そのような妻は絶対に愛してはいけないというのです。今まで、そのような女性がたくさんいたでしょう? 「神様のみ旨が何だというのですか。私と気が合えばよいのではないですか」と言う女性たちは、絶対に愛してはいけないというのです。男性たち、分かりましたか。それが先生の思想です。先生も、今までお母様に対して教育してきたことがそのことです。(三八−二九三、一九七一・一・八)

 皆さんが夫の行く道を教育するのです。エバは、夫に対する教育を誤ったので滅びるようになったのです。エバは、愛の道理と愛の因縁を中心とした生活舞台をサタンに売ってしまいましたが、今日、皆さんは、夫が行くべき正義の道理を立てなければなりません。女性が立てなければならないのです。それから、息子、娘を教育する正義の教育資料をつくらなければなりません。それゆえに、夫は、子供を懐に抱いて子守歌を歌うことができなければなりません。「坊や、坊や、あなたのお母さんは、世界で最も素晴らしいお母さんだ。天国の仙女よりも素晴らしいのだ。我が国の大統領の夫人よりも、アメリカの大統領の夫人よりも、イギリスの女王よりももっと素晴らしい、神様の愛するお姫様なのだ」と歌いながら、褒めたたえなければなりません。そのようにしながら、「そのようなお母さんを迎えることがお父さんの望みだ。あなた方も、そのようなお母さんを見ることを願うだろう?」と言って教育しなければなりません。

 「あなたのお母さんは、国のために、天地のために祭物となった立場で苦労しているので、お父さんも、そのお母さんのためにこのように朝晩祈祷している。あなた方は、そのようなお母さんを慕わしく思わなければならない」と言いながら、涙を流して教育しなければなりません。天下にいない貴い母だと教育しなければならないというのです。ここにおいて正しい教育が成し遂げられるのです。正しい夫も、ここから出てくるのです。(三九−一〇九、一九七一・一・一〇)

 皆さんは、息子、娘を愛しているでしょう? 子供たちを愛しているでしょう? 子供は、父と母が歩むとおりに歩むのです。それゆえに、皆さんの家庭に神様をお迎えして侍らなければなりません。子供に、「父は、祈祷する父だ」と教育しなければなりません。神様のために生きる父、他のために苦労する父だということを教えなければなりません。そのようにして、子供がひそかに自分を尊敬し、自分を立派だと思うことができる基盤を築いて奉仕しなければなりません。

 「私たちの父は、過去にこのような苦労をされた。私を育て、教育するためにこのような受難の道を歩んでこられた」。このように、父の背後を探るようになるときに悲惨で困難な事情が多ければ多いほど、それが子供を不幸にするのではなく、子供が孝行の道へと方向を転換させることができる鍵の役割を果たすのです。このようなことを私たちは多く感じることができます。自分のための涙が途切れない父母の背後を知っている子供は、父母の前に不孝をすることができません。(四八−七四、一九七万九・五)

 本部の責任と使命は重いのです。一度何かのうわさが立てば、それが全世界に波及していきます。ですから本部は、皆さん一身だけに影響を及ぼすのではなく、先生と直結しています。今、本部に出入りする人たちは、そのように名の知られた人たちではありません。今からは、早朝に出てきて皆さんに話をすることができる時も過ぎていきます。先生は、その時間に天の前に一人で祈祷し、私の家庭の子供に対する教育を少ししなければなりません。何のことか分かりますか。

 父であっても、早朝に起きて子供たちに対して教育することもできずにいます。だからといって、皆さんが教育をしてくれますか。今からは、家庭の子供たちも物心がつくので、教育をしなければならないというのです。

 今はもう、皆さんのために精誠を尽くすこと、皆さんに対して私がなすべき責任は、ほとんど果たしました。一九七二年まで、遅くとも一九七四年までです。第二次七年路程さえ過ぎれば……。そうすれば、教会に対する責任は、いったん終わるものと考えています。代わって、私たちの家庭にいる子供たちに対する教育を正しく行わなければならないというのが先生の考えです。そこに異議がありますか。

 そのようにしようとすれば、皆さんが教材となって模範となることができるように、よく垣根をつくってあげなければなりません。皆さんの問題が世界的な問題となるのを見れば、先生の直系の子女が世界的な問題となります。そのような問題があるので、原理的基準における行く道が変わるというのです。

 このようなことを中心として見るとき、今後この本部には、先生がいれば、誰でも入ってくることができるのではありません。祝福を受けた家庭でなければ来ることができないようになるのです。人々を特別教育しなければなりません。特別教育しなければならない時が来るのです。一般教育ではありません。それゆえに、教会にも、蘇生教会、長成教会、完成教会があります。そのような時が来るというのです。現在、そのような立場に立っている本部に出入りする皆さんの一切の行動は、外国人や他の道の人々、ほかの人々には、本部を代表したものとして現れるようになっているのです。背景がそのようになっているので、本部にいる皆さんの責任と使命が重要だということを感じなければなりません。(五一−二八二、一九七一・一一・二八)

 「メシヤが必要とする夫婦となり、メシヤが必要とする子供を生みなさい。国の伝統をもった国の息子となりなさい。主権者の伝統に従いなさい」。それを成し遂げる教育を行うことができる父母とならなければなりません。愛する者とならなければなりません。愛するにおいても、「かわいい、かわいい」と言う一方的なものであってはいけません。「あー、神様は、数千年間の復帰路程を通して、愛を受けることができる男女を、どれほど首を長くして待ってこられたことか」と言わなければなりません。そのような心情をもった愛する子女がいて、国があってこそ、世界が生まれると考えるのです。

 したがって、寝る時も、正しく寝なければなりません。そのように考えて教育するのです。そして、死ぬ時に遺言をする父母ではなく、生きている時に教える父母とならなければなりません。子供たちに、「よく教えてくださった」と言われて感謝されながら死んでいく父母とならなければなりません。遺言する時に忙しくて、「あー、これこれこのようにしてはいけない」と言う父母になってはいけません。秘密を共に知って分かち合い、共に成し遂げた実績を見つめながら、「もっとよくやってくれ」と言って、喜びながら死んでいくのが統一教会の父母なのです。したがって、メシヤが必要とする夫婦とならなければなりません。そして、家庭をつくって子供をつくり、氏族をつくって純潔な血統を今から残さなければなりません。数千年歴史において、神様は、血統転換のために数多くの犠牲者を残されました。

 メシヤに必要な家庭をつくらなければなりません。善良で純潔な、神様から受け継いだ伝統を継続させる氏族が、世界を支配する主体的な氏族となるのです。それを中心として祈祷するので、子供に関心をもたなくてはいけません。父母は、朝夕に、子供に対して関心をもたなければなりません。関心をもち、「ため」に生きようとするその真の心に対して子供たちが感服し、その立場を受け入れる環境において教育しなければなりません。(五五−八七、一九七二・四、二三)

 皆さんは、息子、娘の前に、このように生きなければならない、という伝統を残さなければなりません。皆さんが、このように各国に行って苦労しながら闘って暮らすことは、今後、皆さんが子孫の前に伝統を残すためであり、「私は、このように困難な中で働いたのだ」と言って子供たちに教育することができ、遺言を残すことができる伝統的な資料を収拾する、一度しかない素晴らしい期間だということを知らなければなりません。それゆえに、伝統が問題です。これは変更することができません。永遠の伝統です。(七一−一九、一九七四二子二四)

 父母は、神様を代理した父母にならなければなりません。その父母は、子女たちに教育しながら、「おい、私の息子、娘よ! あなた方は、私を愛する以上に、あなた方の兄弟を愛し、あなた方の隣人と国と世界を愛することができるようにしなさい」と言わなければなりません。このように教育する人であってこそ、父母の中の真なる父母としての資格をもつことができるのです。なぜでしょうか。そのようにしてこそ、自分の息子、娘たちと自分の家が、善の中心としてもっと大きく善なる立場に発展していくからです。(九五−一五二、一九七七・一一・一一)

 この世で、人間として回生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。(一〇一−二〇〇、一九七八・一〇・三〇)

 先生は、「三十六家庭」を人類の長子のように愛しました。間違いなく愛したというのです。骨髄がすべて溶けるほど、肉がすべて溶けるほど、全員を愛したというのです。ですから皆さんは、天使長の立場に立って、先生の息子、娘を教育することができなければなりません。皆さんが教育しなければなりません。私が教育するのではありません。誰がアダムを教育しなければならないのですか。神様が教育するのではありません。天使長たちが教育しなければなりません。保護、育成しなければなりません。結婚する時まで、大切に、傷つくことがないように指導し、教育すべき責任が天使長にあったのです。統一教会もその原則に従わなければ、蕩減復帰の完成が出てこないので、今日、統一教会の「三十六家庭」を立てて、私の息子よりももっと愛したというのです。(一二一−二四〇、一九八二・一〇・二七)

 本来、先生の息子、娘は、誰が教育しなければなりませんか。アダムとエバは、誰が教育しなければなりませんか。先生がするのではなく、神様がするのでもありません。天使長がしなけれぱなりません。原理結果主管圏内において、誰が教育しなければならないのかというと、天使がしなければなりません。三大天使が保護しなければならないのです。先生の息子、娘を誰が保護しなければならないのでしょうか。先生が教育するようにはなっていません。「三十六家庭」が教育しなければならなかったのです。私は、原理のとおりに歩みます。誰が子供を愛するのでしょうか。天使が愛し、アダムが愛さなければなりません。そのようにしなけれぱならないのではないですか。

 したがって、先生の息子、娘は、皆さんの生死の問題にかかっています。それは、先生の言葉ではなく原理がそのようになっています。先生が立てた本然の家庭の伝統を受け継ぐことができる息子、娘とは誰でしょうか。誰がその伝統を受け継ぐのかという問題が大きいのです。彼らも同様です。今まで、先生が教えてあげた家庭における秩序、神様の愛を中心として、世界の愛と天宙の愛が連結することができる家庭的愛の圏を形成しなければならない責任は同様だというのです。それを皆さんが教育しなければなりません。(二一三−一九八、一九九一・一二〇)

 本来、アダムとエバは誰が教育しなけれぱならないのかというと、天使が教育しなければなりません。神様が教育するよりも、成人する時までは天使が保護し育成するのです。それと同様に、霊の息子、娘は、その霊の父母が天に帰っていく立場に立つことができるように、すべて協助してあげなければなりません。その霊の息子、娘の協助を受けて天の前に祝福されて越えていくときに、霊の父母を協助したという条件によって、それに従って越えていくというのです。そのようにすることによって、天使世界の三天使が復帰されるのであり、アダムの三人の息子が復帰されるのであり、ノア家庭の三人の息子が復帰されるのであり、三段階の全体を代表した立場で越えていく条件が成立するのです。(一二七−五一、一九八三・五・三)

 三人の霊の息子、娘、先生の前における「三十六家庭」を代表した「三家庭」が責任を果たしたのでしょうか。十分には果たすことができませんでした。それでは、「三十六家庭」が責任を果たしたでしょうか。果たすことができなかったというのです。アダムとエバを天使長が教育するのと同じように、先生の息子、娘は、この「三家庭」と「三十六家庭」が教育するのが原則です。どのようなことをしてでも、結婚する時までに、どのように神様に仕え、どのように侍らなけれぱならないのかということを教育しなければならないのです。アダムとエバを誰が教育するのでしょうか。天使長が教育するのです。

 本来、神様との愛の因縁をどこで結ぶのかというと、成熟期から結ぶのが原則です。それゆえに、先生の息子、娘たちも、祝福を受けるためには、真の御父母様を絶対的に信奉しなければならず、神様を絶対的に信奉しながら、天使長である「三家庭」と「三十六家庭」の教育を正しく受け入れて成熟し、結婚する時までは、ほかのことを考えてはいけないというのです。これが原則です。(一二八−一一〇、一九八三・六・五)

 私たち統一教会の食口は、自らの威信と威厳を忘れてはいけません。教育しなければなりません。町の子供たちを集めて教育し……。先生は、二十四時間教育します。二十四時間教育するので、人と会いさえすれば教育するのです。勝共連合運動、ホーム・チャーチなどを通して教育しなければなりません。アカデミーは、「統一思想」を教育するのです。教会は「統一原理」を講義し、勝共連合は「勝共理論」を講義し、今後アカデミーは「統一思想」を講義し……。哲学博士たちがそれをしなければなりません。そのようにすれば、すべて終わるのです。(一四八−三三、一九八六・一〇・五)

 統一教会の教育の中心とは何でしょうか。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のためにです! 父母の心情、僕の体で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のためにです!そうです。そのようにしましたか。先生はどうですか。皆さんにそのようなことを発表する前に、先に先生はその道をすべて歩みました。すべて歩んでから、それを教えてあげたのです。

 それゆえに、皆さんは、今から家庭に入っていってどのようにしなければならないのでしょうか。先生が一代だとすれば、皆さんは二代です。皆さんが考えるべきことは、真の御父母様を中心とした真の夫婦、真の息子、娘にならなければならないということです。皆さんの後世を誤って教育すれば、皆さんの行くべき道をすべて台無しにします。神様の前に三世をもつことができなかった歴史的な汚点を残して恨多き蕩減の時代、血と涙と汗を流しながら復帰の道を歩んできたのと同じように、皆さんが息子、娘を誤って育てるようになる時は、皆さんの一家が引っ掛かっていくのです。(二一三−九八、一九九一・一・二〇)

 家庭で子女たちと一つになることができなければ、問題が大きいのです。祝福家庭は、自分の息子、娘たちの教育を正しく行わなければなりません。そして、自分の一家親族、姻戚の八親等までも同様です。これは、カイン、アベルと同じです。兄が天側にいるとすれば、兄の立場で弟を救ってあげ、育ててあげなければなりません。ですから、外部で伝道する時代は過ぎ去りました。カイン、アベルの闘いは終わったのです。外部伝道の時代には、どれほど多くの犠牲を払いましたか。家庭単位時代に入ってきたのです。(二六〇−一二一、一九九四・四・二八)

 今は、私が誇ることのできる祝福家庭がいます。一世家庭と二世家庭と三世家庭が……。皆さんの孫たちも、近い将来生まれることでしょう。三代を誇ることができる家庭から、新たに私が教育しようというのです。既に先生の年齢は、九十歳、百歳に近づいています。杖をついてでも、正しく教育しなければならないというのです。神様は、三代を従えながら教育することができませんでした。家庭の伝統、テキストブックを作っていかなければなりません。そのような班列に同参することを願います。(二六三−一九〇、一九九四・五・二三)

 聖日礼拝、敬礼式を絶対視しなければなりません。朝は、必ず子女教育をするのです。父と母が子女教育をしなければなりません。そのようにしなかったので、堕落した息子、娘となったのです。堕落した息子、娘を生んで、永遠に地球村から追放されるかもしれません。(二六九−四二、一九九五・四・六)

 皆さんがどのような負債を負ったのかというと、先生から青春を失うようにさせたという負債を負っているということを知らなければなりません。ですから、皆さん祝福家庭は、息子、娘を徹頭徹尾教育しなければなりません。「あなたと私が一つになって真の御父母様の青春時代を蕩減復帰しよう!」と教育しなければなりません。そのように教育することによって、国を失ってしまった悲惨さ、一族を失ってしまった悲惨さI文氏が受け入れなかったのです──一家を失ってしまい、家庭を失ってしまい、息子、娘を失ってしまった悲惨さを知らなければなりません。これは、過ぎ去ったことではなく、現実的に引っ掛かっていることであると知らなければなりません。(二七〇−三二五、一九九五・七・二三)

 子女たちが生まれて育っていく際に教育するその目的は、はっきりと決定しています。その行く道は、二つではありません。神様が共有することができ、創造本然の世界が願う中心の位置、王となり、女王となり、王子となり、王女とならなければなりません。これを失ってしまいました。ですから、完全に愛の基地が分かれたのです。神様とアダムとエバの愛の出発起点はIつなのですが、サタンが入ってきてサタンを中心として完全に分かれたのです。神様は一人孤独なのです。真の愛を中心として、神様が対象的目的をもって見つめられた愛の理想が、完全に壊れてしまったのです。(二七二−二七九、一九九五・一〇・八)

 本物にはならなくても、色は同じでなければなりません。それは、皆さんの家庭が先生の生きる形態を備えればよいということです。そのようにしようとすれば、自分がいかなる金なのかということを知らなければなりません。自分は分かっているのです。十四金なのか、十八金なのか、自分は分かっているので、子女たちに「あなた方は二十四金にならなければならない」と教育しなければなりません。教育方法を中心として行えばよいのです。そのようにして、二十四金に合わせていくのです。

 溶鉱炉に入れて、息子、娘を中心として再び純金をつくることができる道を見つめながら歩んでいるのです。皆さんが祝福を受ければ、そのような原則を中心として教育していかなければなりません。それゆえに、子女たちの教育を重要視しなさいというのです。未来の子孫たちを教育しなさいというのです。(二八〇−三一八、一九九七・二・一三)



















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