文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

第七章 文鮮明先生はどのような教育を受けたのか

一 文鮮明先生が育った環境

 先生が生まれた一九二〇年代の韓国は、三年続きの凶年となり、非常に困難な時でした。また、三・一独立運動を中心として、日本に対して反旗を翻し、新しい闘争が始まった時でした。三・一独立運動が起きた翌年である一九二〇年に、先生は生まれました。先生の一家が独立万歳事件を中心として試練を受けたその基盤の上で、先生は生まれるようになりました。(一六八−六八、一九八七・九・一)

 先生が生まれた一九二〇年は、日帝の植民統治下でした。先生は、強大国に踏みにじられる弱小民族の苦痛と悲しみが何なのかを骨身に染みるほど体験しました。青少年時代、先生は、悲惨な戦争と罪悪の世界を救援する道とは何なのかを深刻に悩まざるを得ませんでした(二二九−七九、一九九二・四・一〇)

 先生の家門には、おなかをすかせた人は絶対に手ぶらで帰らせてはならないという伝統があります。お客さんが訪ねてくる時は、絶対にそのまま帰らせないというのです。そのような家風があります。それで、全国の数多くの人々に御飯を食べさせて行かせました。日本統治の時代、日本人が搾取すると同時に生活が苦しくなると、人々が満州に避難していきました。我が家は道のわきにあるので、全国の数多くの人が立ち寄って御飯を食べていきました。母が毎日三十、四十人くらいに御飯を作って食べさせるのです。一生の間そのようにしながらも、不平一つ言いませんでした。(一一一−三一〇〜三一一、一九八一・三・九)

 我が家は、国道の横にありました。「どこどこの村の文氏おじいさんの家に行ってみなさい」と言ったので、ある時は、客間に約三十人が集まってきたこともあります。私の母は、激しい性格ではありましたが、舅に侍って、一生の間御飯を作り、汗を流しながらも不平一つ言いませんでした。(一九八−一四九、一九九〇・一・二八)

 私のおじいさんは三人兄弟だったのですが、おじいさんの末の弟(文潤國氏)は牧師でした。この方は、三・一独立運動当時、平安北道の総責任者をしながら、全国の責任者と内的な計画をしていました。そのようにして、五山学校の職員と教会の信徒、五山の住民たちを率いて万歳示威運動を展開しました。この時、首謀者として日本の警察に逮捕されることによって、獄中の苦しみの生活を二年間しました。獄中の苦しみから解かれて出てきても、故郷で平穏に暮らすことができず、一生の間、他郷暮らしをしました。日本の警察の迫害から逃げ回りながら、江原道の旌善で生涯を終えたのです。(二九−二〇九、一九七〇・二)

 私の父(文慶裕氏)について言えば、法で縛らなくても生きることができる方でした。もし父がどこからか急ぎでお金を借りてきた場合、そのお金を返すと約束した日に、利子まで返してあげなくては我慢できない方でした。いかなることがあったとしても、その約束を履行する人でした。約束を遂行するにおいて模範的な方でした。(四五−一三六、一九七一・六・二四)

 私の父は、四百ページになる賛美歌を暗唱するので、教会に行く時に持っていきません。「お父さん、なぜ持っていかないのですか」と聞くと、「それを持っていけば煩わしいのに、なぜ持っていくのか。なくしてしまったりするだろうから置いていくのだろう!」と言います。「それでは、どのように賛美歌を歌うのですか」と言うと、「どのように歌うか? 人が歌う時に、ついて歌えばよく、分からない時は、私の前に立った人のものを見て歌えばよいだろう」と言いながら、賛美歌をすべて頭に入れてしまいました。(一三九−五二、一九八六・一・二六)

 母(金慶繼氏)は、女傑です。大閑良(注:お金をよく使う人)です。閑良という言葉は少し悪いですが、私は母に似ました。前後がまるまると太っています。横からすっと見れば、ぺちゃんこではありません。母は、力持ちでした。(一三九−五二、一九八六・一・二六)

 先生自身、また今まで先生の家庭が生活してきたことをずっと振り返ってみれば、神様は、ある一時には祝福をしてくださるのですが、むごく、無慈悲であられます。先生の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、おじいさんの時になって蕩減を受けました。祝福されたのちには、必ず蕩減の役事が起こります。イスラエル民族も、祝福されたのちには必ず蕩減を受けました。十に値する祝福を受ければ、必ずそれに値する蕩減を受けなければなりません。あるものを維持し、その種を残すためには蕩減を受けなければなりません。しかも、家庭のための種ではなく、氏族のための種を残そうとすれば、サタンがその家庭に祝福以上の試練を浴びせるのです。したがって、先生が神様の召命を受けるまで、先生の家庭に相当な混乱が起こりました。家の財産が使い尽くされたのであり、人命被害もありました。

 先生がこのみ旨を探し出してくる時まで、その背後には三代に相当する蕩減の因縁が関係していました。おじいさんの代にも蕩減を受けたのであり、父の代にも蕩減を受けたのであり、私の代において、お兄さんまで蕩減を受けたのです。(二九−二〇八〜二〇九、一九七〇・一)


二 探究心が強かった幼年時代

 故郷は、私の人生において、重要な教育の資料を八〇パーセント以上供給する所なので、人間は、故郷と因縁を切ってしまうことができません。(一八七−二九〇、一九八九・二・一二)

 先生が生まれた故郷の地、昔私が育ったその庭、私が遊んだその村で、それらを実際の教材にして教育したいと思います。その山河で飛び回って遊んだその時、その時代を、皆さんが生きている間に直接先生を通して説明を聞くようになる時に、先生の歴史をはっきりと知る皆さんになるということを知らなければなりません。(五〇−一七七、一九七一・一一・六)

 北韓の定州の地、先生が生まれ育ったその場所に行って、先生が幼い時に飲んだ水を飲み、先生が飛び回って遊んだ丘に登って散策してみて、皆さんの息子、娘がその場所で神聖な賛美の声を高々とあげて神様の前に祝杯を捧げるようになる時、先生が生まれたことを祝賀できず、先生を敬うことができなかったことを解怨成就し、蕩減することができるということを知らなければなりません。

 先生が生まれた故郷の地、その村で、それらを実際の教材にして教育したいと思います。その山河で飛び回って遊んだその時、その時代を、皆さんが生きている間に直接先生を通して説明を聞くようになる時、先生の歴史をはっきりと知るようになるでしょう。いずれにせよ皆さんは、この師の故郷の山河を訪ねていかなければならない時が来るでしょう。故郷の山河のあらゆる動植物、自然界は、内的な人間、豊かさを育てるにおいて、その材料となり得ます。それゆえに、故郷の山河を慕わしく思い、自然を愛するのです。(一八七−二八四〜二八五、一九八九・二・一二)

 先生は、幼い時から、山を見ては「あの山の名前は何だろう。あの山に何がいるのだろうか」と考えたのであり、そのように考えれば、必ずそこに行ってみました。それで、約二里内外にあるものを詳しく知っていました。(二四−八四〜八五、一九六九・七・六)

 幼いころの活動範囲は、大きく広かったのです。定州一帯で行ってみなかった所は、ほとんどありません。高い山の頂にはすべて登りました。その向こう側まで行ってみなければなりませんでした。そのようにして初めて、朝、日の光に見えるあの中にはどのようなものがいるということが頭に入ってきます。そのようなすべての場所が、先生の信仰的な情緒を育てた故郷の山河です。故郷の水であり、故郷の木であり、故郷の地であり、故郷の春風であり、過ぎ去ったすべてのものが生き生きと生きているのです。(二二一−一七一〜一七二、一九九一・一〇・二三)

 幼い時、山に行き来しながら、花という花で直接触ってみなかったものはありません。知らない花がありません。自然があまりにも好きで、家にも帰らずに日が沈むまで自然と触れ合っているうちに、疲れて寝てしまうと夜の十二時になっていて、父と母が来て連れて帰る時が何度もありました。自然がそれほど好きでした。(二〇三−一八五、一九九〇・六・二四)

 我が家に行くと、大きな栗の木があります。約二百年になる栗の木ですが、とても美しい木です。私が申年だからなのか、よく木に登って歩きました。そのようにして歩きながら、小さな木のつえを一つつくって、それでこつこつと栗のいがを落とせば、本当におもしろかったのです。

 山に見えるすべてのもの、私の指揮下で飛び回るあらゆる鳥は、すべて私が鑑定してから飛び回るようにさせるのです。初めて見る美しい渡り鳥が来ると、この鳥が、雄はどのような形をしていて、雌はどのような形をしているのか、それが知りたくなります。しかし、それを知ることができる書物がありますか。ですから、仕方なく渡り鳥を探して研究するのです。一週間、御飯を食べずに待つのです。(一六二−二一三、一九八七・四・一二)

 一度、かささぎが卵を産んだのですが、毎日のようにそれが気になるのです。それをはっきりと知るまでは、夜眠ることができません。夕方に登っていって見るのであり、また、早朝から、かささぎが出てくる前にそっと登っていって見るのです。そのようにして、毎日のように登ったり下りたりしていると、かささぎと親しくなりました。初めはたまらないといって、「カーカー」と大騒ぎしたのですが、毎日のように登ってきても支障がなかったので、ただそのままじっとしているのです。そのようにして、ひなに何を捕まえて食べさせ、何をするのかをすべて観察しました。(五一−八三、一九七一・一一・一)

 先生は田舎に住んでいたので、昆虫を本当にたくさん捕まえてみました。捕まえてみたことのない昆虫がいないほどでした。また、捕まえてみたことのない動物、獣がいませんでした。とらは捕まえたことがありませんが、山猫から始まってたぬき、うさぎ、すべて捕まえてみました。興味津々です。それらは独りで生きていると思ったのですが、すべて相対がいました。すべてぺアです。(一四〇−二九六〜二九七、一九八六・二・一四)

 雪が降れば、何里にもなる丘を、夜にはつえを引きずって歩きながらいたち狩りをし、昼にはうさぎ狩りをたくさんしました。そうでなければ、村の犬を怒らせて追い掛けてくるようにさせたあと、一つの峠を越えて「やい、あの後ろに行って棒でひっぱたいてやれ」と言って、犬追いをしました。(二〇二−二九六、一九九〇・二・二五)

 海を学ぶために、夏休みのような時、毎日のように海に行きました。汚水のにおいがする池で、ぬかるみやかにの穴など、ありとあらゆる所をくまなく探すのです。その次には、釣りをするのです。うなぎを捕まえるにおいては、先生はチャンピオンです。(一四四−二九四〜二九五、一九八六・四・二六)

 お客さんが来るなどして、うなぎの煮込みが食べたいといえば、三十分、一時間あればよいのです。先生は、走るのもよく走るのです。一・五里の道を走ってある池に行き、そこで十五分もあればうなぎを五匹ぐらいずつ捕まえてきます。(二一四−一二四、一九九一・二・一)

 私たちは養蜂もたくさんしましたが、アカシアの蜜は本当においしいのです。このアカシアの花にはちがとまり、頭を押し込んで飲む時は、前後の足で支えて、おしりは下にしてしきりに吸うのです。そのような時、ピンセットでおしりをつかんで引っ張ると、おしりが取れても放しません。どれほどすごいことでしょうか。体が取れるほど引っ張るほうもすごいですが、その味を知って放すことができないほうはもっとすごいというのです。それを見て、「いやあ! これは、私もこのようにしなければならない」と思いました。(一八六−二〇三、一九八九・二・一)

 何でも知らずにはいられません。村でおじいさんが死ねば、「何の病気で死んだのか」と聞いてみます。なぜ死んだのか分からなくて気になれば、必ず葬式をしている所に訪ねていって聞いてみるのです。「どのようにして亡くなられたのか」と……。ですから、村のことを詳しく知っているのです。(一六四−三一二、一九八七・五・一七)

 あらゆることに興味津々でした。ある村に行って、糞をくみ取っているおじいさんがいれば、そのまま通り過ぎませんでした。人は、みなにおいがして鼻をふさぐのですが、「おじいさんの鼻はどのようにできているので、においをかぐことができないのだろうか。おじいさんの鼻はどのようになっているのだろうか」。それが気になります。それで、尋ねてみるのです。(五〇−三〇二、一九七一・一一・八)

 母がりんごやまくわうりをくれても、母に「このまくわうりはどうしたのですか」と、お尋ねしてみます。すると、母は「どうしたのかって、お兄さんが買ってきたのだろう」とおっしゃいます。そうすると、「どこの畑で買ってきましたか。畑で買う時、おばあさんがもぎましたか、おじさんがもぎましたか、そうでなければ、お兄さんに当たる人がもぎましたか、お姉さんに当たる人がもぎましたか」と、またお尋ねしてみるのです。それがとても気になるというのです。

 学窓時代、私の質問に答えることができなくて逃げていった先生がどれほど多かったか分かりますか。「物理学に出てくる公式や定義を誰が下したのですか。私は信じることができません。私が分かるように説明してください」と質問する、そのような人でした。(二〇三−三二八、一九九〇・六・二八)

 私がすべて検証するまでは、信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれると、それを中心として学校の先生を追い詰めます。誰がこのように公式を作ったのかというのです。私が作る前に作って、気分が悪いというのです。私が作らなければならないのに……。ですから、掘って掘って掘り下げて、また掘り下げました。適当にしませんでした。(一六二−二七八、一九八七・四・一七)

 試験の前日に勉強したものは、間違いなく的中します。先生が講義したことの中で、試験に出てくる確率が最も高いもの、二番目に高いもの、三番目に高いものをさっと抜き出してみて、それ以外は見ません。それだけに丸をつけます。「私がテストすれば、このようにするだろう」と心理的に分析して準備すれば、間違いなく七〇パーセント以上当たるというのです。一、二、三、四、五、六……という先生の暗号があります。普通の人は、見ても分かりません。試験の時、一枚に数字だけ「ぱっぱっぱっ」と書いておけば、寝ながら書いても七十点以上もらいます。一生懸命に勉強したからといって、頭に残りません。そのまま流れていくのが普通でしょう。(二二九−一一六、一九九二・四・一一)

 相撲をしても負けません。サッカーのようなものも上手です。このような体格をしていても速いのです。若い時には鉄棒もしたのであり、様々な運動で鍛錬をしておきました。今も、人の知らない運動をしています。先生がその運動を開発したのです。(一九二−一五一、一九八九・七・三)

 六ヵ月間、わき部屋に入っていって、もう一度「カナダラ(注:日本語でいうあいうえお)」から発音練習をしました。発音をすべて把握する時まで訓練しました。それで、言葉が速くなりました。話し方も矯正することができるのです。(二五−三三九、一九六九・一二)

 先生は、昔、青少年の時代に音楽がとても好きでした。私が下宿していた家の主人は、当時車を運転するなど、江原道のある裕福な家庭の長男です。今から三十年前の運転士ならば、とても能力のある人です。その方は、全国の山河で巡り歩かなかった所がありませんでした。民謡ならば知らないものがなく、数百枚のレコード盤をもっていました。それで、その主人の奥さんに私の願いをかなえてもらうために、作戦を立てました。毎日のように、夕食には、お膳を持っていってあげました。主人の奥さんが何かの使いを頼めばしてあげ、やってほしいと言うとおりにすべてしてあげるのです。このようにして作戦計画どおりにいったところ、主人の奥さんが数日以内ですっかりほれ込んでしまいました。主人の奥さんが「婿にしたら良い」と言うくらいにしてしまったのです。そのようにして、そのレコード盤を私たちにすべて持ってきてくれるのです。何枚ずつか持ってきておいて……。主人が来て見ても露見しません。レコード盤をすべて聞いては毎回替えて、何枚ずつか持ってきてすべて聞くのです。「私は何日以内にすべて聞く」と決意し、二十四時間中かけておいて過ごしました。

 歌を上手に歌えば良い点があります。孝子は、母の背中をたたいてあげながら歌うのです。青春の男女たちがお互いに愛する心情を歌えば、その境地に入っていくのです。復帰に責任をもち先頭に立っていく人として、所願成就をどのようなことをしてでも成し遂げなければならないのではないですか。これは、すべて道です。道の境地だというのです。横にいる人は知っています。このようにして夜を明かすのです。寝る時は、初めから小さくかけておき、布団をかぶって聞くのです。私はこのようにすさまじいのです。私がすれば、何であろうと誰にも負けようとしません。(四六−二九三、一九七一・八・一五)

 高校の時は、相撲のチャンピオンでした。跳躍競技でも、何の運動でも、できないものがありません。ボクシングまでしたのです。悪い人がでんと構えていても、ぱっと投げて転がせば転がっていきます。そのような訓練までしました。なぜそのようにしたのでしょうか。けんかをするためではありません。偉大な革命をしなければならないという所信、世の中を一度正し、天理に符合する平和の世界をつくってみようという所信をもった以上、そのためには体が健康でなくてはならないというのです。(八五−二〇、一九七六・三・二)


三 ぬきんでた闘志と優れた予知力

 先生が泣き始めると、一時間で終わるのではありません。それで、あだ名は何かというと、「一日泣き」です。一日中泣いて初めて収まるので、「一日泣き」というあだ名がつきました。村のおじいさんやおばあさんたちは、みな出てきて見物しなさいというのです。村中を騒がせ、寝ていた人たちまで目が覚めるように泣いたのであって、静かにめそめそとは泣きませんでした。大変なことになったかのように泣き続けました。それで、のどがはれてかすれ、あとには声まで出ないほどでした。また、静かに座って泣くのではありません。ぴょんぴょん跳ねながら、傷ができて皮膚が裂け、血まみれになるように泣きました。そのくらいであれば、先生はどのような性格かということが分かるでしょう。(五〇−二九七〜二九八、一九七一・一一・八)

 譲歩しません。骨が折れても譲歩しません。死んでも譲歩しないというのです。物心がつく前、十代前のことです。母が明らかに間違っているにもかかわらず、子供に対して忠告すれば、「違う!」と言うのです。私に向かって「お前の意のままにはならないのだ」と言えば、面と向かって闘いました。大したものでしょう。一度は、どれほどたたかれたことか、私が気絶して仰向けに倒れてしまったのです。そのようになりながらも、降伏しないのです。(一三六−一三二、一九八五・一二・二二)

 おじいさんもそうでした。おじいさんも、私に忠告を受けました。孫を教えようと、きせるを持って何かを言うので、「おじいさんが孫を訓示するのに、きせるを持って訓示することができますか。それがこの家門の伝統ですか」とやり込めるので、おじいさんはどうすることができますか。小さな孫を軽く見ていたのですが、「お前の言葉は正しい。片づけよう」と言うのです。それゆえに、既に十二歳の時から、おじいさん、父と母、兄弟たちをすべて私の手につかんで暮らしました。(二一〇−二七二、一九九〇・一二・二七)

 幼い時は、けんかして降伏させなければ、私は、三ヵ月、四ヵ月、眠ることができなかった人です。その父親と母親までが降伏するまでは、その家族をそのままにしておかなかったのです。粘り強い男です。人に負けることを絶対的に嫌う人です。負けたことがありません。何であろうと、やれば必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。(五六−二八四、一九七二・五・一八)

 五山の家の小さい子供、そいつは一度決意すればすると言われていました。「おので柱を切る」と言えば、柱も切るのです。「牛を殺す」と言えば殺すのです。「やる」と言えば、すべてします。それゆえに、私が出ていけば、屈服しなければなりません。おじいさんとおばあさんから、三代が来て屈服して初めて気が済んだのです。(一九七−三九〜四〇、一九九〇・一・七)

 私が八歳の時、一度殴られて、その一家を屈服させた人です。「火をつける」と言えば、火をつけるのです。どれほど激しい人か分かりません。目を見てください。もぐらのような目をしているので、天も恐れないのです。(一七一−一五二、一九八八・一・一)

 一度は、ある者が私に鼻血を噴き出させて逃げていってしまいました。それで、その家の門の前で三十日間待って、ついにはその父親と母親を降伏させたのです。また、餅までひと甑もらってきました。(四六−一六一、一九七一・八・一三)

 昔、めんこ遊びを本当によくしました。めんこ遊びを知っていますか。また、銭打ち(注。:地面に小さな穴をあけて硬貨を投げ入れる遊び)、お金を壁に当てて遠くに行くようにするものと、穴を掘っておいて打って入れるもののチャンピオンでした。(二二一−九〇、一九九一・一〇・二三)

 若くしては、私と同じ年ごろの者と腕相撲をして負けたことがなく、相撲をして負けたことがありません。私よりも三歳年上の人が私たちの村にいたのですが、その人と相撲して、私が一度負けたことがあります。負けてから六ヵ月の間……。田舎で暮らした人々は分かると思います。アカシアの木は、春になると水が上がっていき、皮をはがすと松の木の皮がはがれるよ今にはがれます。それで、春に水が上がる時、ひたすら何度も曲げると皮が取れるのですが、それをずっとはがして……。これが固いのです。このアカシアの木と相撲するのです。「こいつ! お前を私が組み敷くまでは御飯を食べない!」。このようにして、六ヵ月以内で彼を下敷きにして初めて眠れたのであって、そのようにするまでは、御飯を食べることも忘れ、寝ることも忘れてしまいました。そのように激しい人です。(一三九−五二、一五三、一九八六・一・二六)

 昔、十歳にもならなかった時、村の二里内外にいる子供たちは、私の子分でした。「おい、いついつお前たちの部落に行く」と言って、子供たちをすべて集めてけんかをするようなこともしました。殴られて、悔しくて泣きながら「親分は誰々だ」と私に報告をすれば、「そうか」と言って、夜寝ないで一人で行きます。行って呼び出します。「こいつ、お前、誰々をどのように殴っただろう? 何発殴っただろう? こいつ」と詰め寄るのです。(一八三−二五〇、一九八八・一一・二)

 私が幼い時、「きょう雨が降る」と言えば、雨が降りました。「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ、あの上手の集落で、おぱあさんが一人死ぬ」と言えば、死にました。そのような逸話がたくさんあります。(二一三―二三六、一九八一・五・八)

 既に違っています。村にでんと座って「きょう、あの上手の集落の誰々の家の何々おじいさん、楽でないだろう、病気になるだろう」と言えば、間違いありません。すべて知っています。八の時から、村中の結婚相手を見てあげるチャンピオンでした。写真二枚を見て「この人と結婚すれば良くない」と言えば、間違いありません。すべてがらがらと壊れていくのです。そのような歴史があります。(一六二−二九〇〜二九一、一九八七・四・一七)


四 並外れた思いやりと隣人愛

 物心がついてからは、鳥たちに食べるものを持っていってあげ、井戸を掘ってあげました。私が精誠を込めて泉を掘って、「鳥よ、お前はここに来て水を飲まなければならない」と言えば、来て飲んだというのです。私が食べるものを持っていってあげれば、それを食べ、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきません。(一七三−二七、一九八八、二・一)

 魚は水の中ではすべて生きるものだと思い、一度は、水たまりを掘って捕まえて入れました。T晩寝て起きると、すべて死んでいました。それを見て、「精誠を尽くしてお前を生かしてあげようというのに、どうして死んだのか」と言いながら泣くのです。それを見れば、先生は情的な人です。魚に向かっても、「おい、お前のお母さんが泣くだろう」と言うのです。(一八七−二九四、一九八九・二・一二)

 私の父は、犬を食べることを最も嫌います。ところが、村の人々が母を立てて、私が愛する犬を……。私が学校に行って来ると、その犬をつるしているではありませんか。自分の首が引っ掛かっていることも知らず、ただ私を見て喜ぶのでした。私は、首をつるされた犬にしがみついて痛哭しました。このようなことを考えるとき、「人間は信じることができないが、犬は信じることができるのだなあ」と思いました。(七一−一四八〜一四九、一九七四・四・二九)

 先生は、冬に震えて通り過ぎるこじきを見ると、御飯を食べることができず、眠ることができなかった人です。そのような性格をもちました。父と母に、「そのこじきを居間に連れてきて十分に食べさせて行かせましょう」と……。そのような性稟は、天が愛し得る性稟ではないだろうかというのです。

 村で御飯を食べることができない人がいるといううわさを聞けば、夜眠ることができません。どうやって助けてあげようかと考え、母に話すのです。すると、父も母も「お前は、村の人までみな食べさせて養うのか」と言います。そのような時には、父と母に分からないように、米のかめから米をすくい取って与えたのです。(五六−三五、一九七二・五・一〇)

 我が家は、数百箱の養蜂をしていました。田舎では、油がなくて火をつけることができない家があるのです。それで、ろうそく(蜜ろう)をこねて、一つ一つ配給してあげたのです。当時のお金でいくらしたかは、私は物心がついていなかったので、知ることはできなかったでしょう。それで、結局、父からひどくしかられました。(一六三−一五九、一九八七・五・一)

 村の貧しい友達は、粟飯や麦飯の弁当を持ってきて食べます。私はそれを見て、私の御飯をそのまま食べることができませんでした。取り替えて食べるなら、食べたのです。また、友達の父母が、体の具合が悪いのにもかかわらず病院に行くお金がない時には、先生は父と母のところに行って、涙を流しながら「病院に行くようにお金を出してほしい」と言ったのです。お金を出さない時は、「私はお金を使うところがあって、何と何をもっていって売るから、そう思ってください」と宣布したのです。(五八−八三、一九七二・六・六)

 先生は、お金があれば、すべて友人にあげました。「誰よりも日本を愛する条件を立てよう」と思いました。いろいろな場所を歩いて回りました。大きな杉の木を抱いて、涙を流しながら泣いたこともあります。(一五−一八一、一九六五・一〇・八)

 日本の統治の時には、おなかがすきました。それで、苦学する人々がいれば、「君たち、おなかがすいているだろう? うちに来なさい」と言うのです。食券が出れば、ひと月食べるものをすべて集めて「食べろ、食べろ。思う存分に食べろ」と言うのです。そのようにすると、三日もすればすべてなくなってしまいます。(一五五−三一六、一九六五・一一・一)

 学校に通うことが難しい学生を卒業させるために、何カ月かの間、学校をやめて、彼らの父と母の役割までしました。(二六−七〇、一九六九・一〇・一八)

 徒党を組んで弱い者をいじめる時には、彼らをすべて単独で片づけるのです。公のために闘うのです。殴られる時のその気分、これはすべて人生哲学で必要な問題です。(一五−一三一〜一三二、一九六五・一〇・三)

 先生も、血を吐きながら死の境を何度も行き来しました。しかし、監獄では、共に活動した同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私万人で闘った」と言いました。「殺す」と脅しても話しませんでした。(二三−一三五、一九六九・五・一八)

 角材で身の毛のよだつような拷問を受ける時も、話しませんでした。義理を守ることができなければならないのです。一度約束をすれば、自分が滅びたとしても守らなければなりません。拷問を受けたあとに一晩だけ過ぎると、その日は悲しい日であると同時に忘れることができない日として残ります。(三三−一一六、一九七〇・八・九)

 私を監獄に閉じ込めたとしても、私の心と私の理念は閉じ込めることができません。私を打ちなさいというのです。私を打てば、今まで私が神様の前に歩んできた道と神様が築いてこられた道とが連結されるのです。ですから、怨讐を愛することのできる心がどれくらい強いか、鑑定しなさいというのです。打ちたければ打ちなさい! 私がお前を憎むか、憎まないか。殴られて血を吐きながらも、「あー! よく殴られた。歴史的なすべての恨みの人類を代理して殴られた。私は殴られて忘れてしまうのであって、これを記憶しない」と思いながら、「神様! 彼らを許してください」と祈れば、これはどれほど素晴らしいことでしょうか。その立場を通過しなければならないのです。そのためには、私を殺す立場に立たなければなりません。(二七−七四、一九六九・一・二三)


五 多様な経験を通して培われた人生観

 学窓時代、全国で行ってみたことのない所はありません。トラックの運転士が乗せてくれなくても、それでも乗り込むのです。運転席に乗ることができなければ、荷台に乗り込むのです。トラックに乗っていき、その翌日の晩に降りながら「おじさん、私が夕食をおごってあげましょう」と言えば、「そうか」と言います。それで、夕食を食べながらひとしきり話をするのです。そうすると、その話にすっかり引き込まれ、私が夕食をおごってあげると言った言葉も忘れてしまって、自分が代わりにお金を取り出して支払うのです。また、田んぼで仕事をする夫のために御飯を作って、そのかごを頭に載せていくおばさんを道端に立たせたまま話をして、その御飯をごちそうになった人です。(一一二−二四〇、一九八一・四・一二)

 この道を出発し、韓国の有名な牧師、名のある牧師にすべて会ってみました。熟したか、十分に熟していないか、すべて調べてみました。誰が何点で、誰が何点なのか、あらかじめ点をつけてから出発した人です。その人たちは、私を知りません。外から見れば、髪の毛がぽうぽうなので、ただの通り掛かりの旅人にしか考えなかったかもしれませんが、私は、彼らの皮をすべてはいで、あらかじめ天の報告書に記録していったのです。(六二−五六、一九七一・九・一〇)

 先生は、まず地下教会を遍歴しました。日本の神社に参拝した人々が現れるので、解放の三年前、すなわち二十三歳から地下教会の遍歴を始めたのです。(二一一−−一四二、一九九○・一二・三〇)

 私は編み物が本当に上手です。セーターのようなものも、一人ですべて作って着ました。ポソン(足袋)のようなものもよく作りました。パンツや麻のももひきのようなものも、一人でよく作りました。女性なしで一人で生きようと、すべてのものを研究した人です。一生の間独身生活をしたとしても、このみ旨を畢生の事業と決めて出発した人なので、できないものがありません。美しい帽子を編んでかぶることもできます。手袋を編んでも、本当に速く編みます。(五〇−二九六、一九七一・一一・八)

 女性の服を着て、首都ソウルで行ってみたことのない所はありません。非行の男性の者たちをみなひどい目に遭わせてやらなければならないというのです。暗行御史(注:季朝時代、王がひそかに地方言の治績や非行を調査するために派遣した官吏)にならなければなりません。世の中を調査しようとすれば、くまなく調べなければなりません。そのような歴史がたくさんあります。(一八五−三九、一九八九・一・一)

 青少年の時にはどれほど映画館に行ってみたいと思ったことか……。私のような人が映画を見れば、どれほど衝撃的だったか分かりません。楽しくて大声を出すことができる気質をもっているのです。しかし、私は行きません。それで先生は、「初めから行かないよりも、どんどん毎日のように行こう」と思って、一日に五回まで映画を見ました。そこに行かなければよいのではなく、最もたくさん行ってみて、最も相克となり得る体験をしてからは絶対に行かないのです。体験することもできずに行かなければ価値がありません。それで、一日に五回ずつ通ってからは、ぱっと切ってしまいました。「こいつめ、行かない」。このようにするのです。(一二三−二四〜四三、一九八二・一二・一)

 昔、鍾路三街のような所には遊郭がありました。それを私が調査しなければならないというのです。なぜ美しい女性たちがあのようなことをしなければならないのかというのです。もしあれが自分の姉だとすればどうするのか、自分の娘ならばどうするのか、父や兄であれば、どうするのか、問題が深刻です。そのような若い女性たちに対して、夜を明かしながら話してあげたことを思い出します。(一八二−一六七、一九八八・一〇・一六)

 黒石洞にいた時、市内に入ってこようとすれば、電車賃が五銭でした。五銭払うと、電車に乗って市内に行くことができます。しかし、市内まで歩いていきました。和新まで四十五分あれば行きました。早く歩く人でしょう。普通の人は、一時間半かかります。夏の日、学生服を着て、汗を流しながら歩いて通いました。そのお金はかわいそうな人に与えたのです。「千万金を与えたいという思いと、皆さんに福地をつくってあげたいという思いはこの上なくありますが、今、民族に代わって与えるので、これを受け取って、どうぞ福の種にしてください」と言いました。

 鷺梁津に、少しの間いました。そこから学校まで、五銭あれば電車に乗れるのですが、電車に乗らずにその五銭をもって歩いてきて、降りる場所ぐらいの所で積善し、帰る時は鷺梁津で積善し、そのようにしながら通いました。そのようにして通いながら、「私が一人前になるまで、しっかり育て。死なずに私と共に大きくなろう」と言いながら、木をたたいて通ったことが思い出されます。その時のそのプラタナスは、すべてなくなってしまいました。(一九七−七四、一九九〇・一・七)

 故郷から送ってきた学費をもって学校に行く途中、道端で死を前にした病人と出会い、その病人にお金を与えて入院させ、治療してから帰したこともあります。それで、学資金を出すことができなくなり、督促を受けた時のその気持ち、その時に友人たちが同情してくれたことなどは、▽生の間忘れることができません。そのような一時のことが、先生のT生にどれほど至大な影響を及ぼしたかが分かります。(九七−二五五、一九七八・三・一九)

 ハルピンの上にハイラルという所があります。日本で勉強する時から、満州電業という電気会社に就職して暮らそうとしていました。なぜそこに行こうとしたのでしょうか。ソ連の言葉を学び、中国語を学び、モンゴル語を学ぽうとしたのです。今後、アジアにおける大陸基地を料理することを考え、言葉を学ぶために行こうとしたのです。三年間を計画していました。

 満州電業は、満州の安東にありました。その後、その支店に行こうとしたのですが、よくよく見ると、情勢が穏やかでないのです。満州に行ってはいけないというのです。それで、就職して受け取ったすべてのものを返そうと思い、安東に行きました。辞表まで添付し、費用をすべてもって安東に行き、支店長に会って清算したのです。(一八六−三一〜三八、一九八九・二・六)

 昔、先生は、職場に行っても一番早く行き、一番遅くまで仕事をしました。そのような訓練をしました。一等にならなければ気分が悪いというのです。あとからは、最も貴い地位に進み、引き継ぎ者、主人になるのです。同じことです。天のみ旨に対しても、朝早く起きて▽生をこのように過ごす人が主人になるのです。天国の主人になるのです。(九九―四五、一九七八・八・二七)

 先生には、今も忘れられないことがあります。日本の東京に行けば、銀座という繁華街があります。その通りは、善男善女たちがとてもきれいに着飾って歩く、日本で最もにぎやかな場所ですが、先生が学生服を脱ぎ捨てて電信柱を載せた荷車を引いていきながら、「お前、この者たち、道をあけるか、あけないか見てみよう」と考えながら仕事をしたことがあります。(三七−三七、一九七〇・一二・二二)

 川崎造船所には、「バージ(barge)」という、石炭を積んで往来するぽんぽん船があります。その百二十トンになる石炭を三人が受け持ってすれば、夜の一時までに仕事を終えなければなりません。人が三日かかる仕事を夜の一時までに、一日で終えたのです。(二二〇−三〇四、一九九一・一〇・二〇)

 休日には、川崎にある会社にたびたび行きました。そこには乳酸タンクがあるのですが、労働者がその乳酸タンクの中に入っていって、浄化するために原料を下に送り込みます。その装置は、何年間か使うと使うことができなくなってしまいます。乳酸が入り込みません。そのようになれば、それを交換するためにタンクの中に入っていきます。しかし、その中では十五分以上仕事をすることができません。そのような所で闘いながら仕事をしました。(一五−一八一、一九六五・一〇・九)

 日本の留学時代、先生は貧民窟から私娼窟に至るまで、行ってみなかった所はありません。そうかといって、悪い行動をしたというのではありません。(二二−一二〇、一九六九・二・二)

 修養する時、静かで荘厳な所や、深い山のような所に入っていかなければできないというのは、話になりません。静かな所でしか勉強ができないというのは、先生には通じません。工場の何百万馬力のモーターやエンジンが回る所でも勉強したのです。そのようなことをよくしました。様々なことをしながら準備したのです。(一五−一三一、一九六五・一〇・三)

 先生の後ろには、常に刑事たちがついて回りました。私が韓国に来れば、あらかじめ彼らが電話し、「誰々が今、韓国のどこに行く」と連絡するのです。先生が駅の改札口を出てくると、願わない人々が来てあいさつするのです。(三四−二八九、一九七〇・九・一三)

 学生でしたが、要注意人物でした。しかし、普通の人は先生をよく知りません。韓国が日本の政権下にあった時、先生は何度か留置場に引っ張られていきました。東京にいた時には、ひと月に一度は警察署に呼ばれていきました。その警察署は、高田馬場通り、早稲田大学の右側にありました。(一五−一八一、一九六五・一〇・八)

 日本には食券というものがありました。その食券で「何杯食べることができるか、一度食べてみよう」と言って、友人たちを連れていきました。高田馬場をずっと下っていけば寺があるのですが、そこから食堂がずらっと立ち並んでいます。先生は親子どんぶりを七杯も食べました。七杯食べると、首が回りませんでした。それは、おなかがすくことよりももっと苦痛でした。動くこともできませんでした。

 先生は、いつもおなかをすかしていました。自分のおなかだけ満たしていれば、自分から民族が遠くに逃げていってしまうからです。神様も、自分から遠くに逃げてしまいます。おなかがすいて食べたいのですが、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと思いました。それが真理であり、先生の信条でした。(一五−一八三〜一八四、一九六五・一一・二)

 四年間二食主義を実行してください。先生は、高校時代から三十歳まで二食主義を実践しました。三食は食べずに暮らしました。ですから、おなかのすかない日はありませんでした。食事一食を世界のために犠牲にしなさいというのです。それは高潔なことです。(一八五−一一一、一九八九・一・三)

 先生は、古着服で安い服を買って着ました。その服を見れば、てかてかと光沢が出ています。人々は、みな頭にはポマードや何かをつけます。「風が吹いたり台風が吹いたりすれば髪の毛がなびくからだ」と言ってつけます。しかし、先生はそのようにしませんでした。先生は、春の日や夏の日にもつけませんでした。また、歩く時は、下から四五度以上、上を見ませんでした。(一五−一八一、一九六五・七・一七)

 天命を全うすることができない男が、どうしてぬけぬけと調えるものをすべて調え、大路を闊歩しながら往来することができるのかと思いながら歩んできました。天理の公法の前に支払うべき代価を清算することができない立場では、そのようにすることができないというのです。(三七−三五、一九七〇・一二・二二)

 女性たちが裸になって布団の中にこっそり入ってくることが何度もありました。しかし、私は、日本の女性たちの前に罪を犯しませんでした。(二三一−三八、一九九二・五・三一)

 自分の性欲をコントロールしなければなりません。美人たちの間に入っていったとしても、生殖器が起きてはいけません。コントロールできる者にならなければなりません。統一教会の根が深いということを知って、その根に皆さんが接ぎ木して成長してこそ、緑の丘で先生のような木になるのです。(一八二−一七五〜一七六、一九八八・一〇・一六)

 学生の時にも、監獄の出入りを普通に行った人です。また、日本の警察の拷問台で、ずぶとさも見せた人です。彼らの拷問は、とてもひどいものでした。今、若者たちを捕まえてその時のように拷問すれば、服に糞をしながら、していないことも「した」と言うことでしょう。(二五−一六三、一九六九・一〇・三)

 四肢に死んだ血が回るほど、また血がどんぶりで何杯もあふれるほど、何度も殴られました。日本統治時代には、軍靴でおなかを踏みつけられる拷問も受けました。二人の者が左右から手をつかみ、また二人の者が上から踏みつけるのです。そのようになれば、おなかの皮がどのようになるでしょうか。そのようになって、便所に行ってI度座ったのちに、立ってみてください。それは、どれほどつらいか分かりません。(一七−二九八、一九六七・二・一五)

 日本の統治時代、先生は、監獄に入っていって拷問を受けました。最も大変だったのは、角材をここに置いて拷問を受けることです。日本の統治時代には、軍隊で履く革靴がありました。ぴょうをはめ込んでカチャカチャ鳴る革靴で踏みつけるのです。それは、受けてみたことがない人には分かりません。(六三−二一九、一九七二・一〇・一四)

 一度は、十四時間の取り調べを受け、拷問を受けて二十メートルをはっていくことができないほどになったのであり、何度も生死を往復する過程が反復されたとしても、私は口を開きませんでした。(三三−一一六、一九七〇・八・九)


















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