文鮮明先生の教育哲学
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 3

六 文鮮明先生はどのような教育を受けたのか

 私が十歳の時、書堂に通う時は、一日に本一ページだけ覚えればよいのです。それで、三十分以内ですべて覚えるのです。ぐっと精神を集中して覚えれば、三十分ですべて頭に入れることができます。そのようにしたのちに、先生の前で暗唱すればよいのです。三十分もやればすべて覚えるというのに、一日中「孔子曰く、孟子曰く」と言って座っています。そのようにすべて覚えてしまってからは、先生が昼寝をする時、私は山を歩き回りました。(二〇四―二五〇、一九九〇・七・一一)

 昔、書堂に通う時、そこで先生から、大概論語や孟子のようなもの何枚かの講義を受けて、翌日の朝に必ず習った文章を先生の前で暗唱するのです。暗唱することができなければ、むちでふくらはぎをたたかれます。いずれにせよ、私がむちでたたかれたことを思い出します。(一〇一−六八、一九七八・一〇・二九)

 昔も、学校に入るための予備校がありました。ソウルにも大学に入るための予備校があるのと同じようにです。その当時でいえば、小学校です。国家が認定する学校に入るための前段階として、予備校がありました。その予備校に行って勉強し、編入試験を受けなければなりませんでした。その予備校に行くために、いとこをそののかして革命を行いました。(一七一−二五八、一九八八・一・二)

 四月、学校に入る前に、父と母は書堂に訓料、学費のようなものをすべて支払いました。その当時は、訓料といいました。その月謝金をすべて出したのですが、一年もたたずに逃げようと思ったので、父と母から説得しなければなりませんでした。父と母を説得し、おじいさんまで説得したのです。いとこまで説得しました。ほかの人々は飛行機を飛ばしているのに、「孔子曰く、孟子曰く」ではいけないというのです。すべて私が開拓しました。(二〇三−二七九、一九九〇・六・二七)

 先生は欲張りです。私が生きている間に博士学位を三つ以上取らなければ死ぬと考えた人です。ところで、今見ると、博士が最も簡単なのです。最近では、何かの名誉博士や、本当の博士学位をあげましょうというところがあまりにもたくさんあります。(二五−一六二、一九六九・一〇・三)

 予備校で勉強したのち、その当時でいう普通学校に入りました。五山小学校、ここも五山学校があるでしょう? その当時は、五山普通学校です。編入試験を受けて、その学校の三学年に入りました。そこで一年勉強するのに一生懸命にせざるを得ないでしょう。決死的に勉強したところ、成績が良くて、五学年への飛び級を許可されたのです。(二一一−一三三、一九九〇・一二・三〇)

 小学校に通う時は、二里の道のりを歩いて通いました。八キロを毎日歩いて通ったのです。それゆえに、中間ぐらいに住んでいる子供たちは、私がきっかりその時間に通るので、その時に出てくれば絶対に遅刻しません。すべて科学的だというのです。それで、峠ごとにずらっと子供たちが待っているのです。私は、本当に道を早く歩きます。八キロを一時間以内、四十五分で歩くのです。そうすると、後ろからついてくるのが忙しいのです。(一三三−一五五〜一五六、一九八四・七・一〇)

 五山小学校では日本語を使うことができないようにしました。皆さんが知っているように、三十三人の中の一人として、日本の怨讐の立場で闘争した代表的な人である李昇薫氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるので、日本語を使うことができないようにするのです。

 問題は、私たちが敵を知らなければならないということです。敵に対して詳しく知らなくては、闘ったとしても対備策を立てることができないと思ったのです。それで、編入試験を受けて、公立普通学校である定州普通学校の四学年に入りました。それで、そこに入って日本語を学び、流暢に話すことができるようになって卒業しました。そのような過程を経ながら、信仰の道や人生の根本問題など、あらゆる難しい問題を考えるようになりました。

 学校に行くようになると、すべて日本語を学ばなければなりません。カタカナ、ひらがなを勉強した時が数日前のようです。一晩ですべて覚えてしまいました。そのようにしたのちは、稲妻のように一年生、二年生、三年生、四年生のすべての本を半月ですべて覚えてしまいました。そのようにすると、言葉が耳に入ってくるようになりました。(一七一−二五八、一九八八・一・二)

 最初に描いた絵が学校に張り出されました。学んでもいないのに、既に測定して描いていたのです。三等分して、それに沿っていくのです。あの図があの平原の何等分の中に入っているのだなあと考えて、ぱっとつかみ出します。センターを中心として測定していくのです。この画用紙が、センターを中心として三等分にして点をつけるようになれば、絵を描くことができます。(一三七−二四一、一九八六・一・三)

 先生が幼い時、ノートを書く時には、線が引かれている部分から書くのではなく、一番上から書きました。ある時は、一枚に二度ずつ書いたりもしました。そのようにすると、ノート一冊でたくさん書くことができます。物を大切に使わなければなりません。(三一−二六〇、一九七〇・六・四)

 先生は、小学校に通う時から、校長先生の行動を見て「私はこのように生きなければならない」という訓練を絶えず行いました。今でも祈祷する時は、そのようなことを中心として祈祷しています。

 皆さん、油皿のランプを知っていますか。油皿のランプのもとで勉強した時が数日前のようです。二時、三時、夜を明かしながら勉強するようになると、父と母は、「おい! 寝なさい。体があまり弱くなってはいけない」と言います。常にそうでした。その時、私が友達としていたのが夜の虫たちでした。夏の季節には、夜の虫たちを友達にしました。(一〇〇−一六一、一九七八・一〇・九)

 今も忘れられないことは、定州普通学校の卒業式の時のことです。多くの父兄とすべての先生が祝賀するために集まったのであり、定州邑の有力者が祝賀するためにすべて集まりました。その卒業式では、校長の訓辞があり、その次に祝賀客の祝辞があったのですが、その次に私が志願して壇上に上がっていき、日本に対して反駁したことが忘れられません。そのようなことを見ると、少年時代の気質が普通ではなかったようです。(二一一−一三四、一九九〇・一二・三〇)

 私が小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守を前にして、「日本の者たち、ふろしき包みをまとめて行け!」と言って糾弾したのです。小学校の学生の時からそのようにしたので……。それで、警察署長に捕まえられていって、談判した人なのです。「これこれこのような内容が正しくないのに、このような場合に黙っていることができるか」。このようにして、その時からレッテルが貼られたのです。(六三−二三八〜二三九、一九七二・一〇・一四)

 ソウルに初めて来ると、環境があまりにも違っていました。定州は田舎でしょう。そのような環境で暮らしたのちに都市に入ってきたので、一八〇度違うのです。また、どれほどソウルの範囲が広いか分かりません。そこに拍子を合わせながら過ごしたすべての出来事が思い出されます。(一八七−三〇一、一九八九・二・一二)

 中学校時代、私が掃除をすべてしました。学校全体を私が先頭に立って愛したいという心があったからです。学校全体を代理して私が清掃すると思ったのです。そのようになるときは、人が手伝ってくれることが嫌だというのです。(一三三−一八二、一九八四・七・一〇)

 先生は、七年間自炊生活をしました。お金がなくてしたのではありません。女性たちを調査しようとしてそのようにしたのです。絶対にお湯では自炊生活をしません。冷たい水、ひたすらつるべで冷たい水をくみ上げてするのです。そのようにすると、手がぺたぺたとくっつきます。このようにして、米をとぐようなこともたくさんしてみました。(一五三−三一二〜三一三、一九六四・三・二六)

 習慣になって、多くのおかずは必要ありません。常に、手軽で、おいしく、実用的なものが一つあればよいのです。常に一食一菜です。おいしいおかずが一つあればよいのです。(四五−二六〇、一九七一・七・四)

 国もない身分で、御飯を三食ずつ食べる資格があるのかと思いました。御飯が慕わしい生活を本当にたくさんしました。御飯を慕わしく思うと同時に、民族を慕わしく思う道を行きました。「御飯よりも民族をもっと愛さなければならない、国をもっと愛さなければならない」としながら、故郷を離れてソウルに来ていながら、昼食を食べませんでした。ポケットにお金がなくて、そのようにしたのではありません。お金があれば、かわいそうな人々に分け与えたのです。(四九−七四、一九七一・一〇・三)

 誕生日は断食するのが常でした。自分の個人的勝利の基準も越えることができず、家庭的勝利の基準も越えることができず、民族、国家、世界の勝利の基準も越えることができていない者が誕生日を祝うことができますか。誕生日をどうして祝うことができますか。踊りを踊ることができますか。できないというのです。罪人は、天の前に責任を果たしたのちに、そのようなことをしなければなりません。先生はそのような生活をしました。(九三−二七八〜二七九、一九七七・六・一一)

 漢江を渡ってみると、中之島という所があります。そこで漢江の水を見て嘆息したことが生き生きと思い出されます。「お前は、千年、万年流れているが、どれほど熱い心をもってこの国、この民族のために流れているのか。生命線となり得るものが水であり、この肥沃な三千里山河を美しく飾ることができる泉、母の乳のような漢江水にならなければならないのだが……。お前ができなくても、私はする」と思ったことが、今も生き生きと思い出されます。その時は、橋が一つしかありませんでした。その橋を歩いて通いながら、そのようにしたことが思い出されます。(一九七一−七四〜七五、一九九〇・一・七)

 先生は、子供たちを希望の相対と思い、幼年聖日学校の生徒たちを指導した名指導者でした。彼らを誰よりも愛しました。その子供たちは、先生に夢中になりました。学校にも行かず、先生の後ろをついて歩こうとしたのです。(六〇−二〇一、一九七二・八・一七)

 私は、イエス教の朴在奉牧師や、李浩彬牧師などという人々の背後をよく知っています。その人々の背後に対してよく知っていますが、今まで私の口から、その人々の欠点に対しては一言も言ってみたことがありません。彼らにも、従う人がいます。彼らと彼らに従う人々とは、因縁があって出会ったのです。神様が百ぐらいの因縁を中心として出会うようにしてくださったのですが、それを五十ぐらいの因縁に引き下げれば、引き下げた人が責任を負わなければなりません。いったんその畑に植えたものは、その畑から収穫されなければならないのです。(三三一一三〇、一九七〇・八・一一)

 ある日は、ノート三十枚、一冊の分量の日記を書きました。その時、悲壮な心情を事実そのままにすべて書いたその日記が、日本の統治の時に事件が起きると同時に資料となりました。その記録の中には多くの人の名前が記されており、事件の連累者となって、いもづる式に連行された経験があるので、その時から日記を書かないのです。手帳ももたずに歩きます。重要なことはすべて頭の中に記憶します。(一三九−二八四、一九八六・一・三一)

 日記をすべて私の手で燃やしながら涙を流しました。「今後、私がこのような道を行くようになる時に必要な歴史的資料、塗炭の苦しみの中で呻吟する若者たちに解放の道を照らしてあげるべき記録がここにあるというのに、これを燃やすのだ」と思いながら、のどが詰まった記憶があざやかによみがえります。文先生は、青春時代におなかがすくのを克服し、民族の救済と世界の救済、そして神様の解放のために努力した人です。(一九七−一六四、一九九〇・一・三)

 日本に行く時―その時は京釜線列車ひかり号がありました──ソウル駅でその列車に乗りながら、「私が行って来る時は、つたない敗者の男として流れていくのではない。国を救うための熱い心を抱いていく男の道は、天が保護される。私が帰ってくる時は、お前は希望に満ちあふれているだろう」と思いました。(一九七−七五、一九九〇・一・七)

 ソウルから釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何だろうか。この国を解放させ、私たちの二世が希望に満ちた前進的出世をすることができる道、自主的独立国家を建てて出世することができる道を築いてあげなければならない」と思いました。龍山駅を出発して漢江の橋を過ぎながら、手すりをつかんでとめどなく涙を流したことが、今も思い出されます。(一九九−一八五、一九九〇・二・六)

 孤児のようなこの民族を置いていくのだという考えをしながら、ソウルから釜山まで外套をかぶって痛哭しながら行きました。日本のおばさんが泣いている私を見て、「青年、父と母が亡くなられたのですか。そのような悲しみは誰もが受けることではありませんか」と言いました。しかし、私の悲しみは、ただひたすら国を愛する心からわき出たものでした。(三九−六二、一九七一・一・九)

 先生が日本に留学するために出発した一九四一年四月一日午前二時、釜山の埠頭で、韓国を見つめながら祈祷したことが忘れられません。「私は、出発していくが、お前をより一層愛し、お前のためにもっと多くの涙を流してあげよう」と約束しました。(二二−一二三、一九六九・二・二)

 怨讐の国に行って足を踏み締めたその瞬間から、涙を流すのをやめました。そこから私が行くべき道を決定するのです。私は、日本の名勝地に一度も行くことができませんでした。国のない民がそのような看板のついた所には行かないというのです。(一五四−一六三、一九六四・六・一二)

 先生は、電気と科学を勉強しました。私の行く道が分かっていたのです。私が科学の勉強をしながら、電気の方面に手をつけたのは……。大きなことをしようとすれば、数学的な計算が速くなければなりません。鑑定力が速くなければなりません。それは、見えないものを管理するものなので、宗教と通じるものがあるといえます。すべての現象世界では、電気現象が発見されます。運動するすべてのものからです。(一二〇−三一六、一九八二・一〇・二〇)

 先生は、東京で勉強している時、市内をたくさん歩いて回りました。行ってみない所がありませんでした。将来、計画があったからです。「今後、何年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と思いながらです。(一五−八七、一九六五・九・二九)

 学者たちはどうで、労働者たちはどうだということを実際に調査するために、先生は路地裏に何度も通いました。密使を送ったり、通ったりしたというのです。東京駅に降りた時から闘ってきたのです。話はしませんが、私が通った道です。「お前は分かるだろう、韓民族が行く道を」と思いました。道を渡っていこうとこようと、木を見つめようと、「この万物、怨讐の地にある万物、お前は天に属するものなので、私が分かるだろう」。このように思いながら通いました。(一五四−一六四、一九六四・六・一二)

 先生の卒業当時は、大東亜戦争中だったのですが、兵役問題もあり、六ヵ月短縮して、九月に卒業しました。(五一−一四七、一九七一・一一・二一)

 東京駅に行って汽車に乗ろうとするのですが、足が離れないのです。その船に乗っていれば逝くのでしょう。既に天は、先生を行くことができないようにされたのです。それをよく知っている人です。心が「後ろに戻れ」と言うのです。電報を打って「行くことができない」という連絡もせずに、友人たちと登山に行きました。その時が秋だったのです。富士山に行きました。私が登山に行った拍子で、何日かが過ぎました。一週間して戻ってくると、故郷では大騒ぎだったのです。(一〇五−二三八、一九七九・一〇・二六)

 故郷では大変なことになったのです。息子がその船に乗って何日の何時に来るというのに、来ないので、大変なことになったのです。大騒ぎになったのです。平安北道の定州では、警察署に二日間も出たり入ったりしました。(五一−二四二、一九七一・一一・二八)

 先生の故郷の村から定州邑までは二里です。母は、その二里の道のりをはだしで駆け、釜山まで汽車に乗っていったのですが、履物も服も何も、考える意識があったでしょうか。「息子が死んだ」とはだしで飛び出して、釜山の水上警察署まで行って確認すると、j名簿にはなく、知ることができないのです。ですから母は、「間違いなく息子が死んだ」と、そのように夢中になって考えていたので、足の裏にアカシアのとげが刺さったということも分からなかったのです。化膿してうみが噴き出す時まで分からなかったというのです。それから私が半月後だったか、いずれにせよ、十日くらいが過ぎたのちに帰ってきました。帰ってきてそのような話を聞いた時、「あー! 私はひどいことをしたなあ」という気がしました。そのような母でした。(四五−一三六〜一三七、一九七一・六・二四)

 先生は、日本を離れながら思いました。「二十年後に、私は間違いなく戻ってくるだろうから、その時に再び会おう。今は、民族の恨を解くことができずに行くが、将来、君たちの国の民、君たちの国の青年に命令して教える時が来るだろう。その時に再び会おう」。このような考えをしました。

 先生は二十年ぶりに日本に行きました。行くと同時に最も気になったことが何だったかというと、私たちの教会に青年男女がどれくらいいるのかということでした。若者たち約五百人が集まったのですが、彼らは、みな裕福な家の子女でした。今後、どのようにしなければならないのかと尋ねると、みな、「先生がしなさいと言うとおりにします」と言うのです。これは、どれほど素晴らしいことですか。統一教会と文先生が勝利することを願うというのです。また、「先生が命令すれば、どのようなことであろうとすべてしますか」と尋ねると、「そのようにします」と言うのです。(三四−三五三、一九七〇・九・二〇)


七 人生に対する苦悩、そしてイエス様との霊的出会い

 少年時代から、人生の様々な基本的な問題に対して苦悩し始めました。私は誰なのか。私はどこから来たのか。人生の目的とは何なのか。死んだのちに、私たちの生命はそのまま継続するのか。神様は果たして存在されるのか。神様は全能であられるのか、あるいは無力な存在であられるのか。もし神様が全能だとすれば、なぜ人類世界の問題を解決してくださらないのか。この地球上には、なぜ数多くの苦痛が存在するのか。(一〇二−二八八、一九七九・一)

 過去のことを振り返ってみるとき、これが追憶の一つになるのかもしれませんが、その時は、本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これが人間だけの決定ではできないという事実を知ったので、神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ旨によって決定的路程をとることができる道を行かなければならないと思いました。そのような、信仰の道で苦心したすべての追憶が生き生きと思い出されます。(二四一−三五、一九九二・一二・二〇)

 先生は、十六歳(数え)の時に、普通では考えられないような経験をしました。復活節の朝、長い時間、涙の祈祷の末に、イエス・キリストが先生に現れて、多くの啓示と教示を下さったのです。イエス様は、深奥で驚くべき事実に対して多くのみ言を語ってくださいました。苦痛を受けている人類ゆえに、神様は悲しんでいらっしゃると語られました。そして先生に、地上で神様の役事に対する特別な役割を果たしてほしいと要求されました。(一三四−一四五、一九八五・一・二)

 先生が幼い時に体験したこの事実を、言葉をもってすべて表現するということは、大変難しいことです。霊的な世界が忽然と広がったのであり、先生は、自由にその霊的な世界にいる聖者たちと通信することができました。北韓の地、静かな山中で、先生は何度もイエス・キリストと直接対話を交わしました。その時に啓示された真理の内容が、今、「統一原理」の核心になっているのです。(一二〇−一一九、一九八二・一〇・五)

 皆さんが霊的にイエス様を見れば、笑いながら「いやあ、うれしい!」と言いますか。そのようなイエス様に会ってみましたか。先生も会ってみることができませんでした。常に深刻で沈痛な姿で現れます。そのようにせざるを得ませんでした。天をよく知っているので、そのようにするのです。先生もそうです。(九七−一七四、一九七八・三・一五)

 私がこの道を出発した時は、年が皆さんよりも若い時です。二十歳の前に、その時にこの道を出発しました。その時は、天真爛漫な時代でした。良いものが何かあれば、すべて自分のものにしたいと思い、また村に何か変わったものがあれば、それを調べてみたく、関係を結んでみたいという心がとても強い時でした。

 そのような時代に天のみ旨を知り、天的な大命に従ってからは、その日から、この途方もなく大きな使命を成すことができる私自身になることができていない、ということを知りました。それに従うためには、内外であらゆるものを備えなければならない自らの責任がどれほど大きいか、ということを痛感せざるを得ませんでした。(一五六−一〇六〜一〇七、一九六六・一・九)

 私がこの道を出発する時は、青年でした。イエス様から使命を受ける時は、その大きな責任をいかにしてすべて成し遂げるのかということが、非常に大きな問題でした。私は、ノアやアブラハムやモーセが、いかなることがあったとしても目的とする道に行こうとする力が誰よりも強かったということを知りました。(一六−一四二、一九六六・一・九)

 知恵のある人は、困難な道を通して未来の希望を抱いていく人であり、愚かな人は、今この時の幸福のために未来を夢のように捨てる人です。先生も、昔若かった時、そのような考えをしたでしょうか、しなかったでしょうか。青春時代は一度しかないというのに……。どのような道を選んだだろうかというのです。知恵のある人が選ぶべき道を選びました。高い次元に比例して、その人格の価値や人間像が異なってくるのです。(一〇五一一八〇、一九七九・一〇・二一)

 神様は、御自身の時間表に従って私を選択して、受任されました。ところで、なぜそのようにされたのでしょうか。問題は神様に直接お尋ねしてみなければなりません。私がはっきりと分かっていることは、そのような使命が私に賦与されたということです。(八七−二八六、一九七六)

 今まで、救援の歴史に数多くの事情を残しながら、歴史の峠道を越えに越え、解決することができないまま、神様が門前まで訪ねてこられたのです。レバレンド・ムーンが少年の時、門前まで訪ねてこられて告知されたのですが、その時が、このみ旨を知って出発した時でした。(一二〇−二八一、一九八二・一〇・一七)

 道を歩いている途中で偶然誰かの言葉を聞いて出発したのではありません。ある牧師から感動を受けてこのことを始めたのでもありません。誰かから伝道されてこの道を歩んでいるのでもありません。それでは、その動機の出発点はどこでしょうか。神様です。(二〇−三一五、一九六八・七・一四)

 私がこの道を出発した時も、「神様はいるのですか」と最後まで突き止めて、神様がいらっしゃるということをはっきりと知ってから出発しました。次は、「神様、願いがありますか」と尋ねて、神様の願いがあるということを知りました。また、「神様、私が必要ですか」とお尋ねして、私が必要だということを知りました。「それでは、どれくらい必要ですか」と問いただしました。(一三−二〇一、一九六四・三・一五)

 十代を過ぎ二十代に向かいながら、信仰路程で様々な苦悩もしました。そのようにしながら、「日本に行ってみなければならない。日本を経て、アメリカに行って来なければならない。現地に行って、弱小民族が悲しみを受け、迫害されるとはどのようなものかを体験しなければならない」と考えました。神様を知るにおいてはどの程度まで知らなければならないのでしょうか。神様の内情から事情、神様が行かなければならない目的地まで知らなければなりません。それで、このような問題を中心として、キリスト教の聖書からあらゆる経典を探究してみました。(一九九−二一四〜二一五、一九九〇・二・一七)

 先生が、みすぼらしい立場で神様を知ることができるようになる経験をし始めたのは、十六歳の時からでした。いずれにせよ、それからの九年間、先生は常に全能であられる神様、そしてイエス様と共に生活しました。先生は、何度も霊界に入ってみました。漸次的に、神様は驚くべき真理を教えてくださいました。それはあたかも、長い長い夜が過ぎ去り、朝日が昇るかのようでした。その真理の中で、栄光なる新しい文化の曙光を見ることができました。先生が受けたこの啓示は、今日「原理」と呼んでおり、神様から「この原理を地の果てまで伝播しなさい」という指示を受けました。(一〇二−二八八〜一八九、一九七九・一)

 祈祷する時は、背中が曲がり、ひざにたこができるぐらいにしなければなりません。先生のひざには、昔祈祷しながらできたたこが今も残っています。祈祷は、板の間でしなければなりません。涙も流さなければなりません。先生は、祈祷しながら、涙のあとが乾かないほどに何度も涙を流した人です。(二五−三三四、一九六九・一〇・一二)

 人生の行くべき道を解決することができずに死んでいく人々が多いことを知って、それを解決するために、常に目を赤くして祈祷しました。祈祷しながら涙をあまりに多く流し、日の光を見ることができないほどでした。そのようなことをしながら、この道を訪ねてきたのです。(一四三−三三一、一九八六・三・二一)

 先生は、最も盛んな時は、十八時間、十七時間、普通で十二時間祈祷しました。うつぶせになってです。昼食を食べません。痛哭をするのです。そのようにしなくてはいられないのです。四方が完全にふさがれ、出ていく穴がありません。祈祷をしてこそ、天の穴が見えるのです。そのような試練の過程を経て原理を探し出したのです。(一九九−一九〇、一九九〇・二・一六)

 「精誠を尽くして造った塔が崩れようか」という言葉があるでしょう? 神様のために精誠を尽くさなければならないというのです。神様が慕わしくてたまらない境地まで入っていかなければなりません。神様がいらっしゃる所が地であるとすれば、一日に千回でも行ってきたいという思いがあるのですが、地ではないので、仕方なく先生を送られたのです。そのような何かがあるので、皆さんは、先生を愛さなければならないようになっているのです。意味もなく、そのように情が行きますか。涙を流しながら祈祷する時、冬の三ヵ月に綿入れのズボンと上着をすべて涙でぬらす時がありました。どれほど息が詰まっただろうか、考えてみてください。刃物を突き刺しておいて談判祈祷する時が、一度や二度ではありませんでした。(六〇−二一三、一九七二・八・一七)


八 文鮮明先生が天から受けた教育

 私が受難の道を歩む時、神様が私以上に苦労されたということを知っていたので、私は、神様の前に一言の不平も言うことができませんでした。加重された十字架が前をふさぐことが千万回あったとしても、それ以上に苦労された神様がいらっしゃるという事実を知っていたので、受難の道も平坦な道のように越えることができたのであり、試練も克服することができたのです。

 それゆえに、今、私が歩んでいるこの道に従う皆さんの前に、私が力の母体になることはできないとしても、皆さんの力をそいでしまう人になってはならない、ということが天の道理だと知り、天から教育を受けたのが先生の心です。

 私は、皆さんの師として、神様が私のために苦労され、私を慰労されたのと同じように、皆さんの前に慰労と力の母体となるために、昼夜責任を全うしようとしているということを知らなければなりません。(四三−二六二、一九七一・五・一)

 習慣的な観念をもって、統一教会に入ってきてはならないというのです。つまらないというのです。私は、そのような姿を見たいと思いません。統一教会を信じて自分の利益でも得ようという人は、ここに出入りしてはならないというのです。統一教会を信じることは、国に利益となるようにするためです。そのような思想です。文先生を愛するということを、私は願いません。愛することを願わないというのです。まず神様を愛し、人類を愛してから来なさいというのです。これが「統一思想」の教育です。そのようにしなければいけません。私自身がそのような訓練を受けました。(四九−三〇五、一九七一・一〇・一七)

 今まで先生が教育を受けて生きてきたことは……。最近では、私がある程度の峠を越えたのでそのようにはしないのですが、昔は、横になる時は必ず右側に横になるか、左側に横になるかして、えびのように背中を丸くして寝ました。祈祷する姿のように丸くなって寝たのです。頭を垂れ、足を曲げて寝る生活をしてきました。眠りから覚めると、神様はこの時間にも働いていらっしゃるということを思い、「お父様、申し訳ありません」としながら暮らしました。感情的に、ほかの生活をしませんでした。ですから、神様とどれほど近いかというのです。今まで、そのような生活圏内で過ごしてきました。(五〇−二八四、一九七一・一一・八)

 三千万民族(韓民族)のあざけりが大きければ大きいほど、その悲しみは三千万以上の立場に立ったので、また神様が、私を愛し、私と因縁を結び、私を捨てない父の立場で、三千万の心情以上の心情をもって対していらっしゃるということを知っていたので、私は監獄に入っていっても悲しい顔をしなかった人です。鎖につながれて引かれていきながら、多くの人の嘲弄を受ける時も、「よし、非難し、あざけりなさい。私は、教育ができていなくて、学ぶことがあるので、この道を行くのだ」と思いました。それで、多く学ぴました。(五一−二四五、一九七一・一一・二八)

 私は、お金があっても、良い家を建てたり、私自身の行楽を夢見たりするようなことはしませんでした。しかし、民族のためにお金を使うところがあれば、借金をしてでも使うという信念をもって歩んできました。なぜでしょうか。世界を愛される神様のみ旨を愛したという条件を残さなければならない使命を担った統一教会の指導者だからです。指導者が生活の中でそのような条件を立てなくては、皆さんを教育し得る教材を残すことができません。その教材を残すべき責任があるので、悲しくても、悲しい表情をつくることができず、悔しくても、悔しさを表に出せない立場で、今まで開拓者の使命を果たしてきているのです。(三二−二七四、一九七〇・七・一九)

 今から先生の路程は、皆さんが一生を通して立てていかなければならない伝統の族譜となるでしょう。ですから皆さんは、教育をもう一度受けなければなりません。(四三―三四七、一九七一・五・三)


九 文鮮明先生はどのように家庭教育をしたのか

 最初の七年間は、お母様を育てる期間でした。天的な家門や家法による教育をしてきました。それで先生は、夜が明けたのちにはそのようなことをしませんが、寝る時には、継続的にそのために祈祷します。お母様は分からないかもしれませんが、そのようにして、堕落の結果失ってしまった娘の基準と、その相対基準と、神様の前における真の父母の基準、この三つを実体で復帰したのです。これは、堕落した人間は、誰もが行かなければならない道です。(二二−二○六、一九六九・二・四)

 今まで先生は、多くの子供を率いなければならないお母様に、「子供の前で涙を見せてはならない」と教育しました。父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。(二三−一八二、一九六九・五・一八)

 先生がお母様を教育することもそれです。お母様の愛する天国ではないというのです。お母様の愛する夫になることを願ってはいけないというのです。また、私の愛するお母様になりなさいとも言いませんでした。神様が愛し、人類が愛することができる、そのようなお母様になりなさいというのです。昼夜を分かたず、誰が訪ねてきたとしても、その人以上の実績を備えることができなかった時は、彼を否定してはならないというのです。(三三−一〇〇、一九七〇・八・九)

 宗教活動のために、私は大韓民国で一番たくさんお金を使います。飢えながらでもそのようなことをするということに対して、皆さんは気分が良いですか、悪いですか。先生が飢えながらでもそのようなことをするということが、気分が良いですか。先生が飢えて死んでもいいのですか。ですから皆さんは、先生を協助してあげなければなりません。神様の息子がすることは、すべて世界的です。先生は、母が死んでいくことも知りませんでした。今回、聖進が日本に行く時も、「その国に行って、ほかのことはしてはならない。これとこれをしなさい。あなたは日本の国民とは違うので、あなたが正しく行動して、父の威信を立てなければなりません」と言いました。日本に行ったときに最も重要な第一の問題は、対教会問題であり、二番目は対国家問題であり、三番目は先生の息子だという問題であり、四番目は男女問題ですが、この問題を中心として、自分の栄光のために動いてはならないと言いました。教育は、そのようにしなければならないのです。(三四−一九七、一九七〇・九・六)

 母は、本当に私を愛した方でした。私の前に来ては、いつも顔色ばかりうかがうのです。少しだけ失敗しても容赦がないのです。厳しく追及するのです。これは、この世的に見るときは、不孝中の不孝です。しかし、天の立場から見るようになるときは、違うというのです。息子は、天法と天道を知る価値的な母を見ようとするのに、その姿は何だというのです。容赦をしないというのです。先生は、公的な立場にいるので、母だとしても見知らぬ万人の女として、一人の女性として忠告する教育を行うのです。どのようにすることが孝行の道ですか。「ああ、お母さん、私を助けてください。どうにかしてください」と言う、このような人が孝子ですか。そのようにすることが良いのか知りませんが、私がそのようにしたとすれば、今日、統一教会の文先生は、このようにはなり得なかったでしょう。(三八−二六五、一九七一・一・八)

 皆さんの妻は、三時代の女性像を代表した一つの結実として、今日、自分の目の前に現れた神聖なる存在なので、神様の前に感謝することができなければなりません。先生は反対です。娘として育てるのです。娘として育てたのちに妻として育て、母として教育し、お母様の名を探し立てるのです。反対でしょう? 先生の年齢から見れば、お母様は娘のような年でしょう? お母様は娘のようであって、妻や母のようだとは言い難いというのです。考えてみてください。年齢がまあまあならば、所構わず「オモニ」と言うことができるのですが。ですから、私がお母様に使う言葉は、「オンマ」です。「誰々のオンマ」とは言いません。「オンマ」と言います。それが最も難しい問題です。分かりますか? 外から帰ってきて妻を探す時、「誰々のオンマ」と言って探すでしょう? 先生は「オンマ」と言うのです。(四七−二二二、一九七一・八・二八)

 家庭に責任をもった皆さんであり、妻を愛しているからといって安心しないでください。私がお母様に対して教育することがそれです。「私たちは天に負債を負ってはならず、天に負債を負わせるようになれば、私たちの息子、娘は、父母に対して怨讐視することはできないだろう。不孝しようとしてもできないので、私たちが最も注意しなければならないことは、天に負債を負う人にならないようにしよう」ということです。それが教育です。負債を負うようになれば、子供が讒訴します。子供がサタンになるのです。負債を負わず、天に負債を負わせるときには、子供もその前に屈服するのです。天道に従っていかなければならない人間なので、その前にはサタンも出てこれないのです。(六八−一五七、一九七三・七・二九)

 堕落していない天使長たちが、アダム家庭の垣根となって育てるようになっています。それで、その天使長を育てるのに、先生は今までとても苦労しました。逆賊天使長ではなく、天の忠臣天使長として育て、先生の子女たちのために千回、万回、命を捧げて死んだとしても、感謝の涙を流し得る存在となることを願いながら歩んできました。今まで、教育するために一生を捧げてきたのです。

 先生の家庭と皆さんの家庭と一つになるようにしなければなりません。それが皆さんの責任です。「三十六家庭」である皆さんの父母は、先生から伝統を受け継いだので、皆さんと、霊の息子、娘と、孝道様をはじめとする先生の息子、娘に教育するのです。教育しなければなりません。垣根をつくらなければなりません。それをはっきりと知らなければなりません。(一二〇−三二五、一九八二・一〇・二〇)

 今まで私は、子女たちに対して教育をしてみることができませんでした。ぎゅっとつかんで、夜を明かしながら内情の通じる教育をしてみることができませんでした。しかし、統一教会の教会員たちは、何百回もしたという事実を忘れてはなりません。しかし、私の息子、娘たちは、私が死んだとしても、ジグザグに交錯する道を行ったとしても、必ず正しい道を訪ね求めてくるということを、私は固く信じます。なぜでしょうか。天の大道の道だからです。いくら雨水が谷間にたまって流れたとしても、大きな川を通って大海を訪ね求めてくるようになっているのです。

 物心のつかない時は、その川の支流と同じであり、父は南側に流れているのに、北側に流れることもあり得るでしょう。しかし、時になって、一生の行路を歩むようになり、川に沿って大海へ行くようになるときは、正常なコースに沿って大海に入ってきて、父のすべての大道を受け継ぐことができる時が来るということを、私は信じています。そのようになるということが分かっています。それゆえに、話さないのです。待つのです。待っているのです。(一二七−二九〇、一九八三・五・一五)

 聖進が七年ぶりに父を訪ねてきた時、「お前が聖進か」と言って、私の手を差し出して、手を握ってみることができませんでした。この世の豚も犬も、自分の子供がいれば抱くものなのですが、人がどうしてそのようにすることができるでしょうか。木石よりも劣る男、無情な男、情のない男……。その母親が私に対してあいさつするのに、「これまで、どれほど苦労しましたか。人が知らないこの道、理解しない道を行くのに、どれほど大変だったでしょうか。み旨のためにそのように受難の道を行くのに、どれほど大変だったでしょうか。これまで、私にとって苦労だったそれらのことは苦労ではありませんでした。私を迫害する人もなく、私の道を遮る人もいませんでした。しかしあなたは、迫害する人も多く、遮る人も多いというのに、死なずに、追われて追い出されることなく生きてきたので、感謝するのみです」。このようにまずあいさつをしたのちに、その母親の口から息子に、「立派なお父さん、私が教えてあげ、教育してきた以上のお父さんが来た。あいさつしなさい」と言い得る妻を願ったのです。そのようにすることができる息子の姿を願ったのです。(一二七−二九八、一九八三・五・一五)

 私は、統一教会の教会員たちをつかんで涙を流したのであり、統一教会の未来のために涙を流し、忠告もし、教育もしたのですが、私の息子、娘に対しては涙が何ですか。一時間も深く話をする時間をもち得なかった私自身は、父母の立場では成っていなかったのですが、「大きなことのために忠誠し、より大きなことのために行きなさい」と教える師の立場では、その道を行くことができないのに教えるとすれば、それは偽物です。天罰を受けなければならないというのです。(一四五−二四〇、一九八六・五・二)

 今まで祝福された家庭は、どこに行くのでしょうか。家庭として行く人は、流れていきます。先生も、結婚したのは家庭を救うためでありません。結婚した目的は、家庭を救うためではないというのです。今も、私はお母様を教育していますが、家庭のために行くのではありません。国のために、天宙復帰の使命を果たすために行くのです。目を開ければそのことのために誓い、涙を流せば、そのことを胸に抱いて涙を流しながら行かなければなりません。これが、私たちの蕩減路程において、今後の歴史の前に父母として残してあげるべき贈り物ではないだろうかというのが、先生の家庭を中心とした生活哲学です。このような伝統がなければなりません。(一五七−三〇八、一九六七・一〇・一六)

 先生も、家で、お母様に対して教育をします。お母様を教育する時、どれほど腹が立ったとしても、三十分以内、三分以内にそれを許してあげることができる精神が素晴らしいというのです。もし私が訓戒する場合に、子供たちが見る時は絶対に涙を見せてはならないと言います。私もそうなのです。子供たちがぱっと入ってくれば、誰がいくら何と言おうと「それ、いつそのようなことを言ったのか」と言います。

 先生は、そのような面で、とても多くの訓練を積みました。少しの間でも、一度教育するのです。それが必要です。時間が長くかかれば、マイナスが多いのです。陰となることは良くありません。その事件に対して既に忘れてしまい、私が「すべて終わった」と言えば、二度とは……。そのようにしなければならないというのです。なぜでしょうか。私たちの家庭で一日になされることは変化無双であり、さらに私たち統一教会においては、周囲の四方が絡み合った因縁の中で暮らしているので、これが毎日の時間圏内で変化無双だというのです。この中で歩調を合わせていかなければならない責任が、主婦ならば主婦にもあり、夫ならば夫にもあるのですが、夫人がただひたすらこのように顔を覆って泣いていていいのかというのです。結局は、私が損害を被るのです。(一五八−二三三、一九六七・一二・二七)

 先生は、お母様に「絶対服従しなければなりません。エバの身代わりとして立ったあなたは、いかなる恨、いかなる苦しみがあったとしても、つらいという考えをしてはいけません。つらければ舌をかみ、唇をかみしめなさい!」と言いながら、誰も知らない涙を流しながら慰労しました。そして、「先生の後ろにぴったりくっついて従ってきなさい! 一歩だけ離れても打たれます」というのが先生の教育です。「いずれにしても私は、世界の十字架を背負って、これを解決しなければならない戦場に出ていく男です。その後ろを陰のように従ってこなければならないのがエバ、お母様です」と言いました。(二三四−八四、一九九二・八・四)

 先生は、先生の息子、娘三人を祭物として捧げたとしても、先生の息子、娘を先に愛することができなかったのです。そのようにすることができなければ、接ぎ木することができません。すべての子供たちの主体が先生の息子、娘です。そのように教育していますか。皆さんは、先生と同じように、後継者となり得る徹底した思想、み旨に対する思想を息子、娘に教育しなければなりません。生死の境界線を越えていったとしても、自らの決意を変えることはできません。(二五二−一八二、一九九三・一二・二九)


2004.6.20 了
















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