ケ 為に生きることの結果と為に生きる生活

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 ですから、より為に生きなければなりません。では、より為に生きるということはどういうことなのでしょうか? より為に生きる人が責任者になるのです。十人のうち、誰が中心になるかといえば、その十人のために、愛し、生きた人です。その人の所には十人が十人皆、訪ねてくるのです。そうでしょう? そうですか、そうでありませんか? 今までは、為に生きることは悪いことだと思っていたのですが、これからは、為に生きることで中心者になり、責任者になるということを知らなければなりません。主人が中心者になるということを知らなければなりません。

 国の大統領は、より国のために生きる人なのです。そうでしょう? 会社を相続することのできる人は、会社のためにより犠牲になって生きている人です。天理がそうなのです。今までは、為に生きることが悪いことだと思っていたのですが、それは、中心者になる道であり、責任者になる道であり、あらゆることを皆、相続するための道だというのです。ですから、為に生きるということの意味をよく知らなければなりません。悪いことではないのです。分かりましたか? 損害となることではありません。

 皆さんが勉強をする時にもそうです。「やれやれ、私は勉強して何になるのだろう」と言いますが、誰のために勉強するのですか? 皆自分のために勉強するのです。考えを変えないといけません。人類のため、神様のために勉強しなければならないのです。私を送ってくださった本然の理想の道を、私は行かなければならないのです。「神様が私を一〇〇点に値する者として送ってくださったのであれば、死ぬ時には一〇一点になって死ななければなりません」と言えば、その人は、神様が命の手帳から抜き出して、違う手帳へと書き移してくれるのです。分かりますか? 十人の兄弟の中で、いくら末っ子だとしても、十人の兄弟の誰よりも犠牲になったならば、その末っ子が十人兄弟を越えて、父親の手帳に記録されるというのです。

 逆に、不平を言う人は滅びるのです。不平を言う人は、滅びる人なのです。その人が泥棒をして、欲張って、何かすべてを手に入れたとしても、夫が浮気をするとか、子供が病気になるとか、事故に遭うとか、泥棒に遭うとかして、みんな失ってしまうのです。散り散りにして捨ててしまうというのです。それを神様は見たくはないのです。しかし、為に所有するものは永遠に保管できるのです。

 皆さんが、もし音楽をするようになった場合に、「聴衆が聴いたことのなかった音色の世界を私は作曲して、聴衆のためになろう」とするならば、どんなに素晴らしいことでしょうか? 「私は千回も万回も練習することによって、歴史上にもなかった音を出すことができ、最高の理想的音色を聴く彼らの心を、新しい音律でもって覚ますことができるということはどんなにうれしいことだろう」という心、それが素晴らしいのです。神様から見る時、「ああ、何か見た目には優れたようにも見えないけれど、心は素晴らしいなあ。ああ、私の娘よ」と言って、「あなた、しっかりやりなさい。福を授けてあげよう」と言うのです。そういうものなのです。

 先生も、そうです。今回も監獄へ行く時、この世の人々だったら逃げようとするのですが、私は逃げなかったのです。自ら監獄の道を選んだのです。キリスト教のために、アメリカのために、愛を持って入ったのです。私は行く先々で、何らの名を残そうとは思いません。為に生きながら、愛を残そうとするのです。そうすれば、その愛の前に、天下がすべて屈伏するのです。そうでしょう? お父さんもお母さんも屈伏するのです。孝行者の前には、涙を流して、その前で敬拝するのです。君主とはそのような代表者なのです。父母も祖父母も、その人の前には一家が頭を下げないといけないのです。そのような伝統的愛は、宇宙を代表した愛であり、その愛の前には完全に順応しなければならないのです。そこでは、すべての階級を超越できるのです。                         (一九八四・六・二〇)











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