ケ 善なる人々の行く道

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 この世の愛は、すべて私の家、私のお父さん、私のお母さんに帰結するのですが、神様の愛はそれを基盤としてジャンプするのです。新約、旧約の教えの中では、大きなものを救うためには、小さいものを祭物にしなさいということなのです。ですから、善なる道を行こうとすれば、犠牲になりなさいというのです。犠牲とは何かというと、祭物になることです。血と汗を流して、自らを放棄する位置に立つということです。そのことを統一教会では、蕩減復帰の過程を経ずには善の基台を築けないというのです。

 家庭的善の基台を築こうとすれば、まず氏族の前に家庭が祭物にならなければなりません。そうしなければ、家庭的善の基台が築かれないのです。また氏族的善の基台を築こうとすれば、民族の前に氏族が祭物にならなければならないのです。一段階落ちるのです。ですから、民族的善の基台を築こうとすれば、国家の前に民族が祭物になる位置に立たなければならないのです。また国家的善の基台を築こうとすれば、世界の前に国家が蕩減復帰の条件を提示しなければなりません。このように犠牲にならなければなりません。これが、今まで堕落した人類が歩いてきた道と、今日まで神様が成されようとする復帰摂理の道の違う点です。

 ですから善良なる学生とは、自分のために生きる人ではなく、他の人のために生きる人をいうのです。大義のために、小義に立つ自分を犠牲にする人です。大きいことのために小さいことを犠牲にする人が善なる人だというのです。ですから、その差が大きければ大きいほど、善の価値基準が高くなるのです。

 私が世界のために犠牲になれば、その善の価値は世界的な価値となるのです。そのためには、個人を犠牲にしなければならず、家庭を犠牲にしなければならず、氏族を犠牲にしなければならず、民族を犠牲にしなければならず、国家を犠牲にしなければならないのです。

 それで、善を追求しようとする人々は、いつも遠い山々を眺めるように行かなければならないというのです。ですから皆さんも胸を張って、目を上げて未来に向かって進まなければなりません。そして、未来に対する決意と同じ犠牲の代価を払うことのできる自分にならなければなりません。このような人々が、これから善なる人になれるのです。分かりますか? ですから神様の思想と、今日の人間世界の思想とは全く違うのです。

 皆さんは、学校でもそのように生きなければなりません。自分の主張の強い人は、うっかりして失敗すると逆賊になりやすいのです。やたらと自分を主張して全体を否定する人は、もし誤れば逆賊になりやすいのです。もし、そのような人が国家の主権を握れば独裁者になり、人類歴史に大きな被害を残すことになるのです。

 未来に向かって、きょうの成功よりも明日の成功のために耐えることのできる人々が善なる人なのです。そのような人々が指導者になれば、善なる指導者になり、明日のために建設する人になるのです。未開地のような環境を開拓して、発展的環境として残すことができる人です。ですから、いつでも自分を中心として生きる人々は悪に近い人であり、公的な神様の思想を中心として生きる人々は善に近い人なのです。

 このように、皆さんの友達も、良い友達と悪い友達に分けることができるのです。自分の利益のためにしゃべり、自分を弁明する人は悪人に近いのであり、公的な立場で大義のために弁明し、公的な立場で考える人は善人に近いのです。

 日常の生活においても、すべてがそのように分かれているのです。左側と右側に分かれているのです。自分の目で見て、「ああ、よし」と言うのも、それがどのようによいのかということが問題なのです。それは、私が見てよいというのですが、そのよいということは、「私の家庭から見て、私の国から見て、未来の人類の立場から見てもよい」という見方と、「ああ、これは赤い色だから、私の好きな色だからよい」という二種類の見方があるのです。

 ですから、話をすることにおいても、二種類があるのです。ある人は自分のために弁明するのです。喧嘩して戦う時に、もし自分の意志を思いのままに主張してしまうと、悪に流れていくのです。自分に帰着して、世界との関係が結べなければ悪になるのです。しかし、もし弱い者が強い者に何の理由もなく殴られているのを見て、命を懸けて戦う人は、公的な道理のために戦う人であり、善なる人なのです。ですから戦うことが、すべて悪いのではありません。分かりますか? 皆さんも戦ったからといって悪いことではありません。

 戦いにも、二つの種類があるのです。自分の野望、自分の目的、自分の欲望を満たすために他の人々を犠牲にする戦いは悪なる側の戦いであり、神様と世界と宇宙を良くする目的のために戦うことは、善なる戦いなのです。悪なる戦いは、先に打って屈伏させる戦いであり、善なる戦いはまず譲歩して包容しようとする戦いなのです。そのような二種類の戦いが一生において、また一日の生活の中で交差するのです。

 ですから皆さんが、年下の少年たち二人の戦う姿を見た時に、憤りを感じて、一発殴りたくなったとしても、それを抑えて包容するような心を持たなければなりません。きょうですべてが終わるのではなく、明日は友達になる人であることを知り譲歩してあげれば神様も、あるいは誰であっても、どちらが善であるかを判断するのです。寛容で人々を包容する人が、善なる人であるというのです。(一九七八・一〇・八)












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