サ 女性の自由とは

P.142
 女性として生まれたならば、女性として行く道があるのに、「ああ、私は女性だけれど、自由があるので男性がすることをしよう」と言うことは、いいことでしょうか? 女性として生まれたので、髭も生えていないにもかかわらず「私、髭を生やしたい」と言って、髭を持ってきてつけてみなさい。いくら自由だからといって何日もつでしょうか? それが原理の道です。女性としての原理の道なのです。それが自由だというのでしょうか?

 女性には一月に一回ずつ生理があるのですが、それを、「ああ、めんどうくさい。なくしてしまおう」と言って、一度なくしてごらんなさい。なくすことができますか? なくす自信がありますか? 原理原則には順応しなければなりません。女性であれば、女性としての原理原則に順応しなければならないのです。

 その次に、女性は女性としての責任を負わなければなりません。女性の胸が大きいのは、赤ちゃんを育てなければならない責任があるからです。それが自由なのです。赤ちゃんを生んで育てることは、最高の自由なのです。ですから、赤ちゃんを生めないような女性は、半分不具者なのです。

 いくら、大きなよいイガ栗でも、秋になって実を実らせることができなければ、そこで腐ってしまうのです。熟してはぜることもできず、そのまま落ちて腐ってしまうのです。しかし、実をはらんだイガ栗は、その実が腐ってしまうことはできないので、しっかりと枝にくっついているのです。どれだけしっかりとくっついているかというと、それが不思議なのです。栗を取ってみたことがありますか? (はい)。

 これが後で、さっとこのように分かれるようになっているのです。ところが、これが熟していない時には、皮革と全く同じなのです。どんなに擦っても、違うところが裂けてしまって、栗の実は出てこないのです。しかし、実をはらんだ栗は秋になったら全部がよく実を実らせるのです。そのように実をはらむようになれば、実が落ちる前に、栗はさっと自動的にはぜるのです。

 ですから実をはらめなかった栗は、いくら大きくても、秋になれば全部、落ちて腐ってしまうのです。秋になると、実をはらんだ栗は、口を開いて、それを保護しなければならない責任があるのです。それが原理なのです。それが、原理的順理だというのです。原理を離れた自由はないのです。

 また、責任を負わなければなりません。なぜ、責任を負わなければならないのかというと、皆さんも赤ちゃんを生んだ場合に、「ああ、お前の思いどおりに育ちなさい」と言うことができるでしょうか? それは、連帯的責任なのです。父母が私たちをこのように育ててくださったので、私もそれと同じように育ててあげなければならないのです。(一九八八・一○・一六)












SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送