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真の愛
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 第一章 真の愛というものは

 一 愛は平和と幸福の源泉

 愛は、もてばもつほどうれしく、一度もてばうれしくて手放したくありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。私の生命の動機や過程、生命の終末までも動かすことができるのは、真の愛しかありません。人間は愛で生まれたので、愛の道を行き、死ぬ時も愛のために死ななければなりません。
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 愛の色はどのような色だと思いますか。夜は黒く、昼は白く、夕方になると黄色いと思いますか。愛の色とはどのような色だと思いますか。愛の中心色には平和と統一、人類の平等思想を成すことのできる力があります。ですから愛の至聖所にむやみに入れば、火で焼かれて死んでしまいます。
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 愛する相対が現れれば顔に花が咲きます。何がそうさせるのでしょうか。愛の力のみがそのようにすることができます。銃ではありません。脅しではありません。その愛はどのような愛でしょうか。宇宙の主人となる愛、宇宙の中心となる愛、宇宙の源泉となる真の愛です。
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 愛は公式性を帯びた無形の秩序であり、平和であり、幸福のかなめです。世界人類のための共同の財産であり、神様の意志と力の象徴です。
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 愛は最高の価値をもっています。真の愛さえ引っ張っていけば、神様もついてくるし、世界もついてくるし、みなついてきます。愛の場でなら、すべてのものがみなついてきます。
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 真の愛とは、永遠に共にいても、ただただうれしい愛です。永遠に共にいても、共に住んでも、共に見ても、共に話しても、共に感じても、共に聞いても、ただただうれしい愛です。
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 愛は、小さいと言えば極めて小さいものであり、大きいと言えば極めて大きいものです。愛し合う者同士は、目が一度だけ瞬きをすれば、天地がひっくり返るように感じ、また愛する人が一度にっこり笑う表情をするだけでも、天地が出たり入ったりするように感じます。鋭敏ならばとても鋭敏で、小さいならとても小さく、大きいならとても大きく、見えるなら見えるし、見えないなら見えないのです。その境界線を破ることができるものは愛しかありません。ゆえに、愛する人は愛に占領されているので、一言の言葉をも愛を中心として言おうとします。
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 愛の力は、原子爆弾の威力よりも大きく偉大です。愛は人間に死から新しい生命を賦与しますが、原子爆弾は人間にただ死をもたらすだけです。原子爆弾は創造ではなく、審判であり破滅です。世界を一つに一致させるのは武力を伴った力ではなく、真の愛なのです。
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 国ごとに国境があり、文化的背景があり、風習がありますが、これらを超えることができる武器があるとすれば、それは真の愛しかありません。
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 一生の間、愛のために生きる人には万物も祝福を送ることでしょう。花もその家の庭で咲くことを願い、一羽の鳥もその家の庭の木に巣を作って、歌を歌うことを願うでしょう。それは万物の価値を知って、万物を心から愛してあげるからです。
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 すべての生命力の中心である愛は、変わりません。愛は理想的な要件の中心の位置を占め、神様と一致しているので、神様がいらっしゃる限り残っています。
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 真の愛とは何でしょうか。縦横を通じ九○度の角度をもって、どこでも角度が合わなければなりません。東洋の家にも合うし、西洋の家にも合うし、五色人種、文化的背景、宗教的背景がみな違うとしても共に行くことのできるもの、それが正に真の愛です。
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 宇宙は縮小し、拡張する作用をします。息をしているのです。縮小させ拡張させる喜びの縮小圏と拡張圏を、何が調整するのでしょうか。政治権力ではありません。知識ではありません。お金ではありません。愛がするのです。
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 愛の目でこの世を見れば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜ鳴くのでしょうか。ああ、愛するものを恋しがっているのだな」と言います。そこで詩が詠まれ、文学作品が出てきます。私たちの人生の歴史も、自然の中に合わせて愛の交響曲が再現されています。それゆえ、愛の息遣いも、愛の手も、愛の歌声も、愛の言葉もすべて好きなのです。
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 真の愛の前にはどのような力も溶けてしまいます。それは見るだけでも良く、通り過ぎるだけでもうれしいのです。人を構成する本質的な内的要素は、生命に先立って作動し、根源にならなければならない愛に違いありません。
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 愛のために生きる人生は、生産的な結実の人生であり、愛を知らずに生きる人生は、消耗的な滅亡の人生です。神様も人間も宇宙も愛のための人生を生きることを願いますが、それが本然の人生なのです。
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 真の愛は、絶対的であり、不変であり、永遠なものです。
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 愛には発展もなく、いかなる革命もあり得ません。愛は原型そのままが完全なもので、不変なもので、永遠なもので、絶対的なものです。
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 愛は、自然な中で、最高に自然な雰囲気の中でなされるのが、真実な愛です。
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 人間が愛の目を開けば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な関係を結びたがります。それで秋風で落ちる落ち葉を見て自然の理を悟り、ほほえみ、春の山に咲く花の中で、美しさを競いたくて一束の花を作ったりするのです。
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 世の中で一番早い作用は、愛の作用です。この地の果てと向こうの地の果てにいる人同士が互いに愛し合えば、その地の果てを越えて引き合うのです。愛はそのような力をもっています。
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 恵みを受けた人、神様の愛を受けた人は、美しく見えます。私たちが神様の愛を感じることができる境地に入れば、すべてのものと通じることができ、超越することができます。根源的な愛の感情を中心とすれば、すべてのものをもつことができます。
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 私たちの人体にあるいろいろな器官も、愛という一つの目的を中心にして生まれました。目は愛を探すために、鼻は愛の香りをかぐために、耳は愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く声の中で、聞いても聞いても嫌でなく、好きな言葉は「愛する」という言葉です。すべての存在がみな喜ぶことのできる主題は、愛以外にはありません。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。
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 愛の属性は、好きなものだけ愛するというものではありません。とても低いものをも、高いもの以上に愛することができるのが真の愛だ、と定義を下すのは妥当なことです。
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 愛は、神様も微動だにできないようにする権威をもっています。神様も愛には弱いのです。全能の神様も人間の愛の香りをかぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話を好まれます。
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 神様も愛を願い、愛が大きいので神様も愛の中に入らなければなりません。そうしてこそ理論に合うのです。神様も希望をもって願うのが愛なので、愛は神様より大きいのです。
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 この世で最も聖なるものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が心から願うのは真の愛の道であり、真の愛の道を通じなくては神様の前に出ることができないことを知らなければなりません。神様は愛を通じて、見たり、聞いたり、食べたり、触ったりしたいのです。
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 愛を通じて生きる時、人間世界には幸福が始まります。人間自身が成そうとする完成とか理想の実現は、愛の基準を離れてはあり得ません。ですから宇宙万物は、愛をパターンにして生きていくのです。創造されたすべての万物は、神様の根源の愛を中心として始まりました。
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 世の中のすべてのものは、一度与えればなくなりますが、愛は、与えれば与えるほどより多く返ってきます。それで愛を好みます。愛はいつも与えることができ、満たすことができ、いつも喜び楽しむことができる内容がありますが、お金はいくらいいといってもあげればなくなり、権力がいくらよくても、使えばすり減ってしまいます。しかし愛は、与えれば与えるほど無限に通じるようになっています。
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 真の愛とは何でしょうか。おじいさん、おばあさんでも、死んだとしても永遠に、それなしでは生きることができません。それさえつかんでおけば永遠にうれしくて、それなしでは生きられないのが真の愛です。年寄りはもちろん、男性も女性ももちろん、青少年ももちろんそうです。
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 おじいさんたちが愛の味をみては、「ああ、昔食べたのは嫌だ。今日の文明の香りとは違う! 嫌だ! 愛の香りをほうり出して、他の香りだったらいいのに!」と言いますか。すべての細胞が「ああ、おいしい!」と言える味は、パンでもなく御飯でもありません。それで愛は、すべてのものの核を、焦点を成しています。精髄のようなものが愛です。そのような愛で相対すれば無事通過します。
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 真の愛とは、永遠に続く愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、老年時代にもその愛、永遠な世界である霊界に行ってもその愛です。変わらない愛です。
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 愛の主人は誰でしょうか。男性でもなく女性でもありません。正に神様です。愛を中心として愛を通じてのみ神様と人間が一つになるのです。なぜならば、神様にも人間にも愛は絶対に必要だからです。
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 愛の調和を成せば円形運動をなします。愛で一体となり愛の実を結べば神様は降りてこられ、人間は上がって中間で出会うようになります。神様がこの円形の球心点になり、球形運動がなされます。球心点は愛の調和が成されるところで、生命が胎動するところであり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があります。ですから宇宙のすべての作用の力と包容する力は愛なのです。
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 愛は一人では絶対に感じることができません。幸福も同じです。平和というものも一国について言う言葉ではなく、相対国家との間で成立する相対的関係を言います。相手と同等な相対的関係を結びながら、愛することができてこそ、真の幸福を感じるのです。自由もそうです。一人では本当の自由が成立しません。愛の中で愛と共に得られる自由が、真の自由です。真の愛の中ではたとえむちをもって独裁をするとしても、それが拘束ではなく、さらなる深い喜びと喜悦をもたらしてくれるのです。愛は相手のために与えるもので、自分が犠牲になって人を生かすものだからです。
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 愛とは、私の心と体が自動的に一つになるその中心の柱です。個人、家庭、氏族が同じ点、国家、世界、神様が同じ中心、一つの柱に位置します。その中心は動きません。ですから真の愛の場は永遠の定着点です。
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 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたイエス様のみ言に、一つ抜けているものがあります。それは一番重要な愛です。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である……」と言わなければならないのに、愛が抜けています。これを聖書に入れなければなりません。このようなことを言えば、クリスチャンたちは「おお、何と不敬な!」と言うでしょう。しかし神様に聞いてみると、「然り、然り」とおっしゃいます。このように見る時、神様は愛を好まれます。愛の中でも、真の愛を好まれます。


 二 愛は無限に与え、また与えること

 宇宙を造った神様、法度を立てた神様はどんなお方ですか。宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に会おうとするならば「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもってこいと言いません。能力の大王ですが、能力をもってこいと言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、それらをもってこいとは言いません。「ため」に生きてくれば、みんな私のそばに来ることができるというのです。
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 人のために与え、また与えるのは、再創造する上で、神様が創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造の歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造の歴史を通じてするので、御自身を投入するところにおいてのみ再創造が展開されます。ですから犠牲になるのは不可避だというのが理論的な結論です。
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 愛は、自分を一○○パーセント投入することです。神様が天地を創造する時、愛ゆえにすべて一○○パーセント投入したのです。ですから真の愛は、「ため」に生きるところから始まるのです。
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投入し、投入し、また投入するところから真の愛の論理が始まるのです。「ため」に生きるところは滅びません。小さいところから大きいところに、そして大きいのがその次にはどこへ行くのかといえば、中に回るのです。
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 愛とは、与えて満足するのではなく、与えてももっと与えたいのに、与えられなくて恥ずかしさを感じる、そのようなものが愛です。与えて恥ずかしさを感じる人であればあるほど、本当の愛の主人です。愛は、与えれば与えるほど、もっと大きいものに加えられます。また作用すればするほど、入る力より出ていく力がもっと大きいのです。ですから滅びるのではなく、栄えるのです。愛なくして栄えることはありません。
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 愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学の原則は、動けば動くほど消耗しますが、真の愛は、動けば動くほど消耗がなく、大きくなります。
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 愛の本質は、「ため」に生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようという時はだんだん小さくなります。
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 真の愛とは何でしょうか。与えて忘れるものです。与えて、また与え、また与えるのです。
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 愛の世界は、与えて与えて与えても、無限に続くものです。
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 愛という言葉は、本当に偉大です。「言葉一言で千両の借金を返す」という言葉があります。言葉一言で蕩減できるという言葉です。億万の借金があったとしても、愛の言葉一言で蕩減しても余ります。
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 無限大のこの宇宙を中心として牛耳って生きることのできる権限は、真の愛の家しかありません。愛のために生きるところから、それが出てくるようになっています。神様がいくら大主宰で偉大だとしても、愛の前には頭を下げるのです。
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 愛は、神様も一人で成すことができません。愛は、必ず相対的基盤を通じて成されるのです。愛は、どこから始まるのでしょうか。自分から始まるのではく、相対から育ち上がっていくものです。
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 宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命です。生命の根本は愛で、愛の根本は神様です。しかし、愛は一人でいては成立しません。必ず相対的関係を必要とします。神様が愛の根源地ならば、その愛に相対する資格をもっている存在は、人間しかいません。
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 愛という言葉は、一人についていう言葉ではありません。希望という言葉も、一人についていう言葉ではありません。生命も、一人独断的に出てくるものではなく、連結された立場から出てきます。
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 神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対、唯一の価値になることができる愛の相対者として造りました。神様の前で宇宙を与えても替えられない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男を造り、女を造りました。人は愛から生まれて愛で大きくなり、愛によって生き、愛で死にます。しかし、ただなくなるのではありません。主体である神様は永遠、不変、唯一ですから、その前に相対的愛の場に立つ時は永生するのです。
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 神様がアダム・エバを造った目的は、喜ぶためです。見て喜ぶためではなく、話して喜ぶためではなく、触って喜ぶためではなく、愛を中心に喜ぶためです。したがって、喜びを成就するために人間を創造したのです。
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 神様は絶対的存在ですが、愛の相対になれる存在がいなければなりません。神様の相対者は正に人間なのです。神様の愛の相対者として人間が、完成された愛をもって神様の前に現れる時、神様は幸福な神様、喜びの理想を取り戻した神様になるのです。
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 神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。しかし愛の理想の実現は、神様が一人で成すことはできません。愛や幸福、喜び等は一つの個体を中心として成されるのではありません。相対圏がなくては絶対に成立できません。
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 愛はどこから出てくるかといえば、相対から現れます。相対が醜く憎ければ愛も後退しようとし、相対がきれいで良ければ愛の作用もそれだけ早くなります。相対の言葉、美しさ、におい、味等、相対の要素によって愛の作用が決定します。
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 愛はどこから出てくるのでしょうか。私から出てくるのではなく、相対から出てくるのです。相対から出てくるので、私が頭を下げて、相対のために生きなければなりません。「ために生きよ」という天理がここから出てくるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてきますが、それを受けるには、「ため」に生きるべきだという「ために生きる哲学」を成就しなければなりません。
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 私が生きて動くこと、私が活動することは無意味なことではなく、ある目的があるからです。その目的とは何でしょうか。愛の世界を具現することです。人間は愛の具現のために、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されます。これがどれほど素晴らしいことでしょうか。
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 人は自分の愛する相対が自分より何千倍、いや無限大の価値的な存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が無限の価値的な存在になることを願われます。人間が完成すれば神性を成して、天の父が完全であられるように完全で神的な価値を成すのです。
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 真の愛とは何でしょうか。相対に出会って、百年、千年共にいたいし、永遠に愛したがる愛です。そこには地獄があり得ず、サタンが付け込むこともできません。
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 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を選んで立てるでしょうか。正に人間です。したがって創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーは、永生するという論理が出てくるのです。愛の関係を中心として永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて重要な話です。男性に永生があって、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるということを、はっきりと知らなければなりません。
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 愛の主体がいなければ、誰もいないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満たされます。愛が満たされてこそすべてのものが満たされるので、無限に与えることができ、真実に与えることができるという結論が出てきます。与え受けるのが理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど早いのかと言えば、光もついていけません。一番早いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満たされるのも愛です。
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 生命を求めて愛を犠牲にするという人と、愛を求めて生命を犠牲にするという人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を捧げるのは、自分中心ではないからです。
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 私が五大洋六大州をさまよいながら切実に叫んだのは、正に愛の道でした。愛のない砂漠のような人類の前に、愛の光を照らしてあげようとしたのです。人間が究極的に行くべき道が愛の彼岸だとすると、人類の前に何よりも重要なものは「愛の灯台」でないはずがありません。正にその愛の灯台のみが、人間を本郷の地に導くことができるのです。
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 神様と一つになる時は、千態万象(千差万別)に回ります。ですから、兄弟間でも父母が子女を愛するのを見習って、兄は弟を愛さなければなりません。そのような愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛になり、さらに民族愛になります。このように進めば世界愛になります。
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 神様は、愛に酔って億千万代を生きられるように人間を造られました。それで、人が老いることは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活し、愛の実として収められます。死ぬことが愛の実を収めることです。私たちが父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛し生きたので、神様の愛、内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを、生涯を経て実を結び、これを収めてからあの世に行くのです。


 三 愛が介在する時、調和が成される

 愛は、考えでも良く、形でも良く、味でもいいのです。これが愛です。
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 愛とは、東西が合わさるものであり、南北が合わさるものです。その次は天地が合わさるものです。ですから愛は球形を成すようになります。
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 口が真の愛に酔っているならば、ほほえむその唇がどれほど恍惚だろうかと考えてみてください。人間の五感が真の愛によって動く姿、神様に向かって動く五感の調和がどれほど美しいかを想像してください。美しさを通じた喜びは、神様一人では体験できないものです。美しさは、相対がいてこそ体験できるもので、それが神様が人間を創造された目的です。神様は天地を創造された以上に、美しい内容を所有した人間の心情世界を旅行したいのです。
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 神様も息をします。真の愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙の拍子に合わせるので、真の愛を中心に宇宙が永遠に続くのです。ですから皆さんがここまで行ってこそ、神様の呼吸圏内に入って永生するのです。
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 宇宙は丸い形をしています。太陽も丸い形です。すべての丸いものは何を中心とするのでしょうか。自分一人では丸くなることができません。誰かを中心として関係を結んでこそ丸くなることができます。このような関係圏を集約させる一つの物体、一つの存在物として登場する世界は、円形圏を基盤とするようになっています。ここでこの円形をつくることのできる物体とは何でしょうか。調和の母体は、愛の作用だというのです。
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 愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば、体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引かれてくるし、愛さえ動かせば宇宙がみな和して、回るようになります。
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 人は酔って生きなければなりません。酔って生きる人が、幸福な人です。芸術家たちは、芸術に酔って生きます。文学をする人たちは、自分が構想する本を書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人が、幸福な人です。ですから人間の四肢五体は、立体的な神様の理想的な愛に酔って生きなければならないし、その方だけについて回らなければなりません。
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 男性が求め、女性が求めている最も貴いものとは何でしょうか。愛です。愛は人も永遠に好み、神様も永遠に好まれます。愛とは、全宇宙が永遠に一番好むものです。
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愛は見えませんが、最も貴い贈り物です。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の色、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の色があるので貴いのです。しかし宝物には生命がありません。真の愛は、生命がある宝物なので、もっと貴いのです。
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 愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
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 平等という言葉は、愛を抜けば何でもありません。愛を中心として「ため」に尽くす時、真の平等が成されるのです。愛をもてば、男性と女性が対等になることができるし、愛をもてば、息子が大統領だとしても、その息子と母は対等になれるというのです。愛をもったすべてのものは、平等になれる内容があります。私たちはこれを知らなければなりません。
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 万物の中心は人間です。人間の中心は何でしょうか。真の愛です。神様の愛は垂直線一本です。天地の中心を立てるためのものが男性の愛の線であり、女性の愛の線ですが、女性は男性のところに行き、男性は女性のところに行って、その線が回るようになるのです。男性と女性が真の愛をもって現れる時に、神様の前に完全なマイナスの愛が生まれるのです。完全な真のマイナスの愛が生まれる時には、縦的な神様のプラスの愛が自動的に臨みます。宇宙のすべての原則がそうなっています。
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 私が宇宙と授け受ける関係に置かれるには、愛をもってこそ可能です。愛でなくては永遠に与え受けることができません。愛が温柔で謙遜なものだと言ったのも、抵抗なくそれをもっと多く、完全に運動させるためです。温柔で謙遜で犠牲になれば、いつでも通じるようになっています。どこでも抵抗なく行くようになります。これは犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの方法が「ため」に生き、犠牲、奉仕することです。それではなぜ奉仕しなければならないのかといえば、第二の生の呼吸気管を完成させるためです。
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 繁殖するすべての存在は、必ず対が連合して繁殖しますが、繁殖の調和を起こすその内容が愛です。自然界のすべての存在物の繁殖は、みなそうです。水も陰性の水があり陽性の水がありますが、陰性の水と陽性の水が混ざったところには魚がよく棲みます。寒水と温水が和合するところには魚がたくさん棲むようになっています。それが理想的です。和合しなければならないのです。
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 北に棲む鳥が南に行って雛を産み、南に棲んでいた鳥が北に行って雛を産みながら交流するのも、みなリズムによってそうするのです。そこで生まれたので、そこに行って雛を産むのです。冷たい水にいる魚は温かい水の所に行って産卵し、温かい水にいる魚は冷たい水に接してこそ産卵するようになっています。陰陽の一致の和合が成されなければなりません。それで移動するのです。
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 愛は、相対的関係がなければ成立しません。絶対的な神様だといっても、一人では愛に出会う道がありません。相対者を立てずして出会うことができないので、絶対的創造主の前に絶対的相対の資格者を備えておくためのものが創造であり、創造の傑作品が正に私たち人間です。神様も愛を探すために相対が必要だからです。
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 神様の愛に酔えば、砂の一粒を千年見つめても嫌になりません。私たち自身が愛の宇宙の中で生まれたと思えば、無限に幸福になるのです。
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 真の愛は、無理になされるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛する時も、もらおうとだけしないで、互いに授け受ける作用になってこそ理想的な愛が成立するのです。
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 もし愛が誰でも描くことができ、触ることができ、形態がどうだと分かるようになっているならば、そのような愛は一日もたたないうちに嫌になるでしょう。しかし愛はあるようでつかめず、ないようであるのです。悪いと思えば良く、良いと思えば悪い、千態万象(千差万別)の奇怪な蜃気楼のような内容を作動させるのが愛です。
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 宇宙統一理想を完成させる内容とは、真の愛です。いくら名作だといっても、その中に真の愛の味がなければ吐き出してしまいます。夫婦間の真の愛においても同じです。
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 人間が愛を一番好むのも、愛が全体を統一させ私のものにすることのできる主体だからです。人々には、愛がどれほどいいものかを知るすべがありません。
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 愛は、父母が子供を愛するように、すればするほど喜びが膨れ上がるのです。愛は一つになることです。もし神様の愛と一つになった人がいるとすれば、その人はどこの誰も切り離すことができません。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。
            *
 花の中に入っている蜂たちは、蜜を吸おうとお尻を上にもち上げ、頭を埋めています。それをピンセットで引っ張っても離れません。強く引っ張ってお尻が外れても離れません。その蜜の味がどんなに良くてそうするのでしょうか。蜜の味がそうならば、愛の味はどうでしょうか。愛の味と蜜の味では、どちらがもっといいですか。
            *
 愛でなくては一つにすることができません。二つを一つにするには言葉をもってはできません。二人が一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。物質をもって一つになったならば、物質がなくなれば逃げていくのです。第三者の紹介によって何らかの事情を通じて一つになったなら、その人がいなくなれば去ってしまうのです。二人が一つになるためには、そして永遠に一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。愛がなければなりません。
            *
 愛のみに、あらゆる色の刺激を統一することのできる力があります。その愛が何かは分かりませんが、世間の人が「嫌だ」と言うおじいさんの臭いが、おばあさんの鼻には心地良いというものです。おじいさんの顔と手に皮しかなくても、おばあさんはその顔と手がいいというのです。まさしく愛がそのようにします。愛の風が吹いた時は、天下がすべて美しく見えます。愛のふろしきを取り込めば、詩人でない人がなく、風流でない人がいないというのです。
            *
 私たちは一つの草を見つめても神様の立場で見つめられなければならず、花を見つめても神様の心情の代身としての立場、神様の心情と通じることのできる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見る時も、神様の心情と因縁が結ばれるそのような内的な感情を体得できなければなりません。神様の愛のように生きる人が神様の息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管できる全天宙の主人公です。人間が子供の立場に置かれ得る本質的な内容は、愛です。
            *
 心情で私たちの心は無限に大きくなることができますが、知識で無限に大きくなることはできません。愛の心情は宇宙を含んでも余りあるので、このように偉大な本然の地を開発すれば、神様もその中に来て昼寝をしたがります。知識によって神様を包括することができないので、そこにおいて愛の心情が偉大だということを知らなければなりません。
            *
 愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人、白人、黄色人種と言って差別しません。それで神様の愛は偉大なのです。愛の流れにおいて環境を介さず、流れていけば環境が同化され、発展するのです。そうすることのできる思想的な内容を備えてこそ、神様が好まれるのです。そのため愛の道を行かなければなりません。


 四 愛の特権は同位権、同参権、相続権

 絶対的な神様の前に、私がどうしたら相対的な立場で出ていくことができるのでしょうか。努力でできますか。力を使ってできますか。何をもってしてもできません。しかし愛の因縁を結んでいけば、一度に同等な立場に行くことができます。愛の核を掌握する時には、神様をコントロールすることができます。素晴らしい夫の妻がたとえできが良くないとしても、その妻が愛の因縁をもって妨げると、素晴らしい博士も仕方なく引っ掛かってコントロールされるのです。愛にはそんな力があります。
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 神様と同等な立場、同位権の立場に立つには、神様の愛を所有しなければなりません。
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 愛には同参権があります。父が高ければ、子供は低いところにいても、すぐに父の立場に飛び上がることができます。同参権が愛に内在しているという驚くべき事実のゆえに、私がたとえ遠くに離れていても愛によってそこに同参できるのです。
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 真の愛を体得した人は、神様の本来の理想的な世界で、神様が願うすべてのものをすぐに所有できる能力と権限をもちます。そのような資格は地上で成されなければなりません。神様の真の愛は、同胞を愛するとか、世界の人々を愛するとか、万物を愛することによって、感じることができます。
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 神様の愛を所有した人だけが、神様が造られた天と地のすべての権勢を相続できる特権をもつことができます。
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 神様と愛の因縁を結べば、必ず主管性と独立権、その次は相続権をもち得る特権が与えられるのです。
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 愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使を可能にするのです。
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 神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は一つになろうとするのです。男女が互いに慕い合う理由は何でしょうか。男性と女性、女性と男性を通じてのみ神様を所有することができるからです。愛は、互いに好きになることです。
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 生命と愛のうち、どちらがより貴いのでしょうか。人間の生命は、人間の至聖所を身代わりすることができません。男性の生命があっても、女性の生命があっても、その生命には至聖所が連結されていませんが、愛には至聖所が連結されるので、愛が生命より貴いのです。
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 誰が主人になるのでしょうか。より「ため」に生きる人です。より「ため」に生きる人が支配し、より「ため」に生きる人が主管し、より「ため」に生きる人に相続がなされるのです。それが天理です。愛には同参権があります。昼でも夜でも、どこでも同参することができるのです。自分の息子、娘の部屋に許可をもらって入りますか。自分の部屋に許可をもらって入りますか。そうではありません。神様を愛するそのような愛の作用をもったならば、神様がどこに行っても私が同参できるのです。
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 真の愛と権勢とは、何が違うのでしょうか。真の愛は、愛して忘れてしまいます。記憶しません。善と悪の基準は何でしょうか。悪は与えて利益を全部もらおうとするもので、善は自分のものを与えても忘れてしまうものです。家においても、より「ため」に生きる人が善なる側です。「ため」に生きる人は、結局その家の主人になることを知らなければなりません。十人の友達がいるとして、その中で一番いい友達は誰でしょうか。十人の友達のために尽くす友達です。そうすれば十人が、「ため」に生きるその友達を中央に置いて侍るようになるのです。宇宙はそのように相続されていきます。
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 人間において、永遠に残すべきものとは何でしょうか。第一に愛であり、その次が生命です。愛と生命を残さなければなりません。人間においては、存在する前から愛があるのではなく、存在してから愛があるのです。神様においては生命が先で、愛が二番目です。人間においては愛が一番目で、生命が二番目です。
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 すべての元素から人間に至るまで、この宇宙全体に対して「お前はどこの何をもった人の所有になりたいか」と聞けば、みな同じように「愛をもった人の所有になりたい」と答えます。すべての万物は愛の主人を探すというのです。
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 神様はすべての権勢を人間に与えようとします。このようになるためには、神様と人間が愛で一つにならなければなりません。神様の創造理想は一体理想です。愛を中心とした一体理想が創造理想です。
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 人間は実体をもった神様の体です。神様の実体をもった体なので、人間は外的な神様です。神様はそのような特権を人間に賦与しようとされます。
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 なぜ「善なることをしなさい」と言うのでしょうか。善なることをしようとすれば犠牲にならなければならないし、犠牲は自分を投入することです。投入すればなぜいいのでしょうか。天運の根本、原因と結果、すべての力の主体、主流に接続できる場に入るからです。それで無限な力を受けることができるからです。善なる人には無限な力が供給されるので、すべてのことに通じます。


 五 愛で完成する

 神様の創造目的は、神人愛一体の愛の理想世界です。人間は、神様の最高最善の愛の対象として造られました。ですから人間は、創造物の中で唯一神様の実体をした対象です。人間は、無形の神様の前に見える体として生まれました。完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また平安に、いつでも入ってきて臨むことのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の理想は、人間を通じて父母と子の縦的関係で実現、完成されます。
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 人間は何のために生きるのでしょうか。「愛のために生きる」とすれば、どれほど素晴らしい答えでしょうか。人間は愛の実として生まれ、愛しながら生きて、永遠の愛である神様の懐に帰るようになっているのが創造本然の人生です。
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 人間は、神様の愛の核と一致する立場に立った時、心と体が一体を成すようになり、神様の愛の圏内に心と体を一体化させ、入れば、成熟した人間になります。その時、初めて堕落する前の本然の人間として個人完成が出発するのです。
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 神様は、真の愛の王であられ、主人であられます。もし真の愛の王になられ、新郎のほうが神様ならば、相対者となる妃が必要だということが絶対的な原理だというのです。それでは神様の前に、絶対的なその方の前に、真の愛の相対になれる方が誰かと問うならば、それは真の人間です。神様の愛と一体となる、アダム・エバだったのです。
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 男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。私の道は愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を築くために行くのです。
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 人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管する主体的な愛の権威を立てられない時には、再び新しい目的を追求しなければなりません。限界点が愛より上ではあり得ません。
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 アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結び付けるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結び付ける中心点が正に愛というひもです。
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 貧しい田舎の農夫として田舎で草取りをして、農業をする立場にいたとしても、その農夫に心と体に膨れ上がる愛の情熱が燃え上がっているとすれば、心の五感と体の五感が完全に合わさって、この上もない喜びを味わうことでしょう。このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点をもっているならば、時計の振り子の振動のように神様の胸が一度だぶんと揺れれば、皆さんの胸が一度だぶんと揺れ、それで皆さんと神様が共に回るというのです。一度回り始めれば、うまく回ります。行けば行くほど加重された力は遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになります。
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 すべてのものを包容して許す愛は、誰から始まると思いますか。愛は人間から出発するのではありません。愛は主体であられる神様から始まります。神様は愛で人間を創造されました。そうして人間から愛を迎えることを願われます。その愛をまた人間に返すことによって愛を完成するようになります。
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 愛は絶対的です。その絶対愛の前には、絶対知識、絶対能力、絶対権限をもった神様も、絶対服従します。
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 真の愛というものは、一から始まって三六○度を回りきって到達しなければなりません。そうしてこそ真の愛です。到達する前には真の愛になれません。
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 人生の目的は、神様の愛を占領することです。神様の愛を占領できなければ、人間がいくら願いをかなえたとしても、それは成就したことになりません。いくら幸福だとしても、その幸福は永遠な幸福になれません。それで愛すれば永生を成すことができます。永遠によく授けよく受けられるようにする動機が、神様の愛です。
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 この世で一番聖なるものとは、真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在するならば、それ以外の道はありません。神様が本当に願うものは真の愛の道であり、真の愛の道を通らずしては神様の前に出ていくことはできません。神様は愛を通じて見て、聞いて、食べて、触ってみたいのです。人間も神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。
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 神様の愛は、「ため」に生きる愛、ひたすら「ため」に生きようとする愛です。このような愛、真の愛があれば、回るようになっています。宇宙はどこから始まったのでしょうか。回るところから始まりました。存在するすべてのものは回るようになっているのが本質です。それではどのようなものが永遠に行くのでしょうか。永遠に与えるということ、永遠に愛を中心として、永遠に与えようとする愛が永遠に回るのです。与える力と受ける力が一つになって、よくあげようとするので拡大する以外にありません。
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 真の愛の起源であられる神様を父母として、人間は息子、娘の位置に立たせられました。父母は子女のための愛の最高の主人です。父子の関係が従的な垂直関係であるのに比べ、夫婦関係は横的な水平関係です。したがって、父子の関係と夫婦の関係が互いに直角(九〇度)をなし、ここに前後関係である兄弟の関係が合わさることによって、愛の関係は球形を成します。それで、愛で構成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。
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 人類歴史において、真の愛を完成すれば、政治、経済、文化的問題はもちろん、すべての紛争と[藤問題もきれいに解決できるはずです。今日世界人類が抱えているすべての難問題は、真の愛の完成によってのみ根本的な解決が可能なのです。
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 人間が神様に会うことを望むように、神様も真なる人間に会いたがっていらっしゃいます。ところで、人間のうちで、男性と女性のどちら側かに先に会いたいといえば、互いに不平を言うことでしょう。ゆえに、神様は、愛を掲げざるを得ません。愛のみ掲げれば男性と女性が共に会うことができ、共に触ることができ、共に分け合うことができるためです。世の中で、貴いものは互いに争って自分の物にしようとしますが、愛というものは、二人の人がお互いに一つとなり、相手のために所有しようとするので、争いがありません。
 愛は誰もが好むだけでなく、愛のみが欲望を均等に充足させることができるので、この原則を置いてこそ、神様の救援摂理も可能なのです。
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 真の愛を探さなければなりません。真の愛にはどこに行けば出会えるのでしょうか。真の愛は昼夜なく不変で永遠なものです。自分一人だけのためのものが真の愛になることはできません。真の愛が私個人だけの所有にはなり得ません。真の愛は万民のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるのです。
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 真の愛とは、根をどこに置いて言う言葉でしょうか。神様がいくら全知全能なる方でも、その根を神様に置いていません。全知全能なる神様は、真の愛の主人公なのに、愛の根を神様に置こうとしません。愛の対象になれる人に根を植えようと考えます。
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 愛はどこから始まったのでしょうか。神様から始まりました。神様が愛の理想相対を必要とされてこの世を造ったので、天地創造も愛を起源としています。
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 心の力の源泉は愛です。ですから心が授け受けて生じる爆発的な力を神様に連結しさえすれば、それは何百倍、何千倍も統一できるでしょう。そして世界万民が待ち焦がれた願いを成就できるでしょうし、永遠に共に生きることができると同時に、天国も私のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。
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 人間が神様と一体を成す時、その心情と感情は、無限な体恤の境地と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、神様の創造目的である理想世界の実現も、ここから出発するのです。
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 人間が神霊的境地に入れば、小さな砂粒一つにも宇宙の理が入っていて、一つの原子にも無窮無尽な宇宙の調和が宿っていることが分かります。存在するすべてのものは、ある複合的な力を通じて現れた結果であることを否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子に至るまで無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在しています。ですから存在するすべてのものは必ず神様の愛のみ手を経ており、必ず神様との心情的な関係のもとに存在しています。喜びは、ある目的を成し遂げた時に感じます。造った万物に神様の目的意識が内在されているので、創造された万物によって神様は喜びを感じるのです。
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 神様の愛の圏に進んでいくためには、どれほど強い愛でなければならないのでしょうか。今日、人間世界の間違った愛は、天使長級以下の愛です。堕落したこの世の愛は、サタンが侵入した愛です。このような愛の圏で生まれて生きながら、愛ゆえに死ぬか生きるかと大変です。この愛は、秩序もなく方向もない渦巻きです。渦巻きには、汚いものだけが集まります。しかし人間が神様の愛と関係を結べば、その愛の方向を教えてあげなくても自然についていきます。
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 神様を中心とした新しい愛、すなわち創造の法度による愛が決定された場で、初めて神様の理想が出発します。
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 愛をなぜ好むのでしょうか。好まざるを得ないようになっているからです。お父さん、お母さんを完全に一つに結び付けるのは、愛のロープです。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆びて切れてしまいますが、愛のロープは永遠のものです。そして父母と子の間は、法でもお金でも結ぶことができません。ただ愛によってのみ結ぶことができます。
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 人間の完成は、知識や権力、あるいはお金によって成されるのではなく、愛によって成されるのです。その愛は俗化された愛ではなく、本来の愛であり、その愛によってすべてのものが完成します。
























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