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真の愛
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 第二章 愛の実際

 一 神様の愛

  1.愛は神様から始まる

 神様は、愛の神様です。パウロは「キリストの中にある神様の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
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 神様の愛は太陽より強いのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は太陽に向かいます。これと同じように、神様の愛は生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。そのようになっています。
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 神様は、愛の実体、愛の中心存在なので、アルファとオメガがありません。真正な愛は、始めと終わりがあり得ません。
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 心情の世界で一時間生きるのは、千年の歴史に誇ることができ、一日生きるのは、万年の歴史に誇ることができるように、高貴なことを体験できるようにするのが真の愛です。愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界が、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのが難しいですが、あたかものどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える恍惚な世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような気分になる世界です。
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 天地を創造した神様は、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、万物の根本なる方であり、愛の主体です。ですから神様は、天地万物を創造したのち、宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、任せることができる人がいれば、一番貴いものを、そのまま譲りたいのです。
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 神様はどのような味を一番好まれますか。神様が臭いをかぐならばどのような臭いを一番好まれますか。聞くならば何を聞くことを好み、感じるならば何を感じることを好まれますか。神様が好まれるものは一つしかありません。それは愛です。神様の五感を集中させることができ、喜びを充満させることのできるものがあるならば、それは愛よりほかにありません。
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 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるのでしょうか。それは間違いなく人間だという結論を出すことができます。ですから「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。
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 神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろんそこには兄弟の愛も入り、これを拡大すれば国家や世界の愛も入ります。神様の愛は父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。
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 神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的愛を願われます。私たちも同じです。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。
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 神様は愛ゆえに創造されました。愛ゆえに創造したので、男性と女性がお互いに愛し合うのを見るのがもっといいのです。ですから神様は存在世界の前に現れる時、愛の本質として現れます。
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 子女として造られた人間が兄弟を成し、夫婦となり、そして、父母の位置に進みながら育っていくのを見ながら、神様はそのすべての段階の愛の主人として位置を占めることができるのです。ゆえに、そのように神様を愛の主人にさせた人間こそが、神様より貴い存在であると見ることができます。ちょうど、自分自身より愛する人が何千倍も価値があり、貴く思うのと同じです。
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 神様は愛の骨です。それを知らなければなりません。愛を中心として、神様の愛は「骨の愛」であり、今日の人間の愛は「肉の愛」です。分かりますか。骨と肉が一つになって形態を備えるのです。そのような理になっています。
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 愛とは何でしょうか。回ることのできる潤滑作用と軌道作用をしてくれるのです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かすためにはガソリンを入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとするには潤滑作用をしなければなりません。ですから最高の喜びの潤滑作用は愛しかありません。それは根が永遠の神様なので、なくなりません。作用すれば発展するようになっています。
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 神様の愛は変わらないところに現れます。神様の愛は不変なので永遠です。神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから一生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければこの宇宙の公約全部がむなしいものです。
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 神様は私たちの父です。夜も昼も子供が侵害を受けないかと心配し、子供に何か問題が生じないかと保護してあげ、またある反対の用件が現れないかと防御してくれる父母です。そのような父母の本質を求めていく道が、善の道、愛の道です。人間は息子、娘として神様の完全な愛を受けなければなりません。
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 神様は今まで、御自身と近い側にいる人たちと、氏族、国家にまで愛を与えました。少ないと言って受け取らないのではないかと、加えに加えて祝福してくださいました。それも不足で、愛する息子の生命までも与えました。神様は一人しかいない息子を殺されてからも、再び愛を加えて与えようとされます。ですからその愛が返ってくる日には、天地が丸ごと理想的な天国に変わることになります。愛を受ければ、もっと多くを返してあげるのが愛の原則です。私たちが神様に百の愛を捧げるならば、神様は千の愛、万の愛で報いてくださるでしょう。
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 神様の愛さえもてば、神様の胸の中に入っていてもいいし、神様の鼻をつかんでもいいし、世界のどこに行っても境界線がありません。どこでも通じるようになっています。
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 神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。
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 神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交流するところ、愛が交流するところ、理想が交流するところです。その点とは、どのような点でしょうか。親子関係です。このように見る時、神様は愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なので、子女に対しては威信と体面を超越します。いくら罪人のできの悪い子供でも、神様をつかめば神様が「やい、こいつ、駄目だ!」と言われるのではなく、神様が抱き締めてほお擦りして愛してくれるのです。このようなことを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。
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 神様は千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっておられる方です。そのような方なので私たちが神様を求めるのであって、与えたのちに「おい、これはいくらいくらだ」と言う商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。
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 神様の愛に接すればどうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。一○○パーセントその愛に酔えば、手を引くのではなく、千年、万年共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になります。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(注:遊びに夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という諺があるように、それほど人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があります。
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 神様がおられるところには愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたいし、受ければ受けるほどそこに千万倍加えて与えたいのです。ですからそこが、天国ですか、地獄ですか。そこでもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が張り裂けるような刺激を感じるのです。神様の愛はそのようなものです。
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 愛ならどこでも埋めることができ、愛ならどこでも及ぶことができます。愛する人が抱き締めたらどうですか。手を取って「ああ、愛している」と言いますか。おそらく目の玉が飛び出して鼻水、よだれが出るほど抱き締めてくれることを願うでしょう。そのように抱き締めてじっと立っていないで、ぐるぐる回ります。そのように愛によって一つになってこそ、宇宙が回ります。
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 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄を丸ごと投入して創造した人間なので、人間が神様を引っ張れば、引いてこられざるを得ず、また神様が人間を引っ張れば、引いていかれざるを得ません。
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 人間はなぜ神様が好きで、ついていくのでしょうか。神様は千年、万年すべてのものを与え、また与えても恥ずかしがりながら「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっといいものをあげるから」と言いながら、きょう与えることで満足するのではなく、未来にもっと多くのことを与えると約束する心をもっておられる方だからです。
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 人間はなぜ永生するのでしょうか。なぜ誰でも永生を求めるのかというのです。絶対的主体者であられる神様の前に、愛の対象としての価値をもつことができ、絶対的な愛の神様の前に永遠であらざるを得ないので、私は永遠な愛の相対圏を求めるようになるのです。この場に立つ時には、上も下も同様に神様であり私になります。愛で一体となりさえすれば、神様を私のポケットの中に入れることもできるのです。
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 私たちがこのような神様の愛の圏に通ずればどのような気分がするでしょうか。春の日に、いい香りのする園で美しい花々を見つめ、香りという香りをすべて嗅いで酔った気分のようなものです。そういう時には、私たちのすべての細胞が踊りを踊ります。
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 神様の愛が縦的な愛ならば、男女間の愛は横的な愛です。男性と女性が出会うには、横的な愛を縦的な愛に接ぎ木しなければなりません。九○度の角度に合わせなければなりません。これを合わせない愛、縦的な基準と連結されない愛は、さすらいの愛として破壊されてしまいます。ですから縦横が一致した愛の圏内に入るには、愛を中心として全宇宙を支配することができるのです。全宇宙と関係を結べば、知識も権力もお金も生命も必要ありません。生命も、その中では永生するのです。
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 神様はアダム・エバの体を好まれるのではなく、二人の間の愛を好まれます。神様が人間に対して願う終着点とは何でしょうか。息子、娘に会って愛する場です。そして人間が願う終着点も神様を父として侍り、息子、娘として愛される場です。
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 神様においてアダムは自分の中の自分であり、未来の理想的な愛の中の愛です。それでアダムは神様の体です。またエバは神様の夫人であり、体です。アダムは神様の体に相対する霊的相対であり、エバは肉的相対です。ですからアダムとエバが夫婦になって愛するのは、誰と共に愛するのでしょうか。神様と共に愛するのです。それで結婚は極めて神聖なのです。
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 神様に知識は必要ありません。神様は知識を創造した方です。神様に権力は必要ありません。全知全能だというのです。神様にお金は必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思うままに造ることができます。神様に必要なものは、たった一つです。それが何かと言えば、愛です。神様一人で愛を受けることができますか。神様は愛を思うままにできるのではないかと言うかもしれませんが、とんでもありません。神様において一番必要なものとは、真の愛を分かつことのできる対象者だというのです。人々はこれを知りませんでした。
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 神様は私たちに愛を与える時、限りなく与えようとします。神様はすべて与えても、「お前の中で生きたい」と言われます。そのようになる本質は、愛にあります。神様も愛の中に入れば、僕の暮らしをしてもいいと言うのです。愛は法を超越します。
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 神様の愛は、どのような味がするのでしょうか。すべてのものを総合した最高の味です。好きでつかめば果てしなくつかむことができ、開けば果てしなく開け得る力をもっています。ですから愛によればいくらでも満たすことができ、どこでも及ぶことができるというのです。
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 神様は愛の母体です。ここから父母の愛がわき出たし、夫婦の愛がわき出たし、子女の愛がわき出たし、親戚の愛、民族の愛がわき出ました。
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 愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。
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 男女の間で愛し合うようになれば、いろいろなことが起こります。そうでしょう。しかし神様を訪ねていける道を知って神様の愛の味を本当に知れば、神様のその愛はこの世のどのようなものとも比べられないものです。そのような愛の味を知った人がいれば、どのような苦難も彼を占領できないし、どのような悲しみも彼を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではありませんか。これを探すことが問題になるのです。
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 神様は絶対的な方なので、そのような神様に他のところで侍ることはできません。愛する人同士は、共に行きたがるし、共にいたがるし、共に住みたがります。どのように共に住みたいのでしょうか。神様に深く染み込んで一つになって、共に住みたがります。それが愛の本質です。
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 心は狭いですか、広いですか。心の形を皆さん自身はよく知りませんが、心は無限に大きいのです。それでは、その心がどれほどいいでしょうか。世界人類一人一人に数百億円をあげても、またあげたいのが心です。心はこのように素晴らしいものです。ですから人間は無限の愛、無限の希望の花として咲くことができるのです。それは、なぜそうなのでしょうか。無限に神様の性稟に似たからです。
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 皆さんの心はどれほど大きいでしょうか。これは測定できないほど大きいというのです。また小さいと言えば、とても小さいのです。針の先も入れないほど小さいのが、人の心だというのです。心は大きく広げれば、無限に広げることができるし、狭めれば無限に狭めることができます。そのような本質、本性をもっているのです。なぜ心がそのようになっているのでしょうか。それは、神様が臨在できる神様の家になっているからなのです。
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 愛は一番近い距離を通ります。簡単な言葉ですが、貴い言葉です。なぜ垂直にならなければならないのでしょうか。これが問題です。なぜ水平になって、平衡にならなければならないでしょうか。愛を中心として垂直になるには、愛は直短距離を通らなければなりません。愛する人を探していく時、隣近所を訪ねるようにのろのろ行きますか。矢のように直行しますか。夜も昼も関係なく、春夏秋冬いくら歴史が長いといっても、愛は一番直短距離を通ろうとします。
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 愛だけは万有において直短距離を通れるようになっています。ですから上にあるものが下に降りてくる時、直短距離で降りてきますが、その場が垂直です。


  2.愛の目的は、神人愛一体理想

 天地の中心と宇宙の根本とは何でしょうか。神秘的な境地に入って神様に祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち「親子の関係である」と言われました。知らない人たちは、肉親の父、母、息子、娘の関係だと思っていますが、それは神様との根本関係を言うのです。
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 父と息子が出会うことのできる最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば愛と生命と理想が一つの場所にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。それを決定できる最初の因縁と最初の統一の場所が親子関係が成される場でなければ、それはあり得ません。これは間違いない事実です。
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 本来はアダム・エバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。そこで花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神様がその花を見つめ、花の香りを嗅ぎながら自らそこに酔うことのできる、そのような愛を神様は夢見ていたのです。
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 神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天国だ地獄だと心配することもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。
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 真の愛を中心として、男性と女性が神様を身代わりした立場に立てば、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになる時、神様のすべてのものが私のものになるのです。真の愛が偉大な理由は、真の愛によって私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になれるからです。聖書に「神様が私の中にいて、イエス様が私の中にいる」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にいるという言葉は、ここから生まれた言葉です。おじいさんとおばあさんは、孫を中心として情を結ばなければなりません。このようになってこそ愛の垂直線が始まるのです。また孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければなりません。おじいさんとおばあさんは神様のような立場にいるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ愛の軸を見つけることはできません。これを立てたのちに、横的に展開するのです。
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 人間の完成は、神様と縦的な関係を結ぶところから出発します。
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 神様が絶対的な方なら、その方がなぜ人間を造ったのでしょうか。お金のために、知識のために、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるたった一つの道のために人間を造られました。このような観点で神様は父であり、人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。もし軸が連結されれば、人間と神様が愛によって一体となった関係を、何が作用しても絶対に切り離すことはできません。神様の本然の愛に綱を結んでその愛を味わった人が、別れるでしょうか。蜂は春に蜜の味を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻を引っ張れば、お尻が離れても蜜から口を離しません。
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 神様から愛を受けたがる、その最高の場とはどのような場でしょうか。その場はまさしく息子の場であり、娘の場です。神様には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点はどのようなところでしょうか。そこは絶対的な神様も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一つの父母を中心とした息子、娘の立場で、互いに愛を授け受けできる場です。
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 愛の巣の中で抱かれ、愛の巣の中で生まれる息子、娘には、どれほど価値がありますか。神様が毎日のように訪ねてきて、見物したいし、触ってあげたいし、ささやきたい宇宙の主人がいるならば、どれほど価値があり幸福でしょうか。そのような宇宙の主人公として生きられるようにするのが愛です。
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 アダムと神様が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神様になることができます。アダムが愛によって神様と完全に一つになる時に、神様はアダムの中におられます。聖書にも、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントT三・一六)とあります。私たちが神様の聖殿だというのです。
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 私たち人間は、神様が造った創造的な傑作品として神様に似ています。神様が永遠であられるので私たちも永遠な性稟をもたなければならないので、私たちの心は年を取らないのです。人は永生しなければならず、永生してこそ傑作品の存在的価値をもつことができるのです。ですから人間は万物の霊長になるのです。神様の愛は神様の愛だけで終わりません。その愛は必ず人間によって横的に広がります。電気のプラスとマイナスがやり取りすれば、反応する極ができます。そのようなものが他のところでまた展開します。このように神様の愛は横的に広がってきます。
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 人類は世界舞台で一番になることを願う前に、本然のアダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様の前に直系の王子と王女の立場を備えれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし堕落することによって占めなければならない長子権王子、長子権王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。それで人類は神様の真の愛を再び探そうと、初めの息子と初めの娘の立場を探してくる人生の道を歩んできたのです。
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 堕落していないアダム・エバの体は、神様が臨在できる家です。アダム・エバが神様を心の中心として真の愛によって永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になったならば、今日私たちの心と体は闘わなかったことでしょう。堕落とは悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血筋を引き継いだことです。ですからこの血筋を改造しなければなりません。オリーブの木を真のオリーブの木に改造してこそ、救援摂理の完成が成されます。


 二 真の父母の愛

  1.原罪のない真の先祖、人類の救世主

 今日まで、歴史は何を求めてきたのでしょうか。時代は何を求めてきたのでしょうか。未来は何を求めていくべきでしょうか。真の父母です。ですから全体がここに帰結されずしては、幸福の基準は歴史過程や宇宙の中では見つけることができません。
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 真の父母とはどのような存在でしょうか。真の父母は全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に、絶対的な希望の象徴なのです。彼は歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界に連結され得る未来線上においての出発点です。
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 人間の願いは真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が、真の父母だというのです。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の後孫をすべて失うようなことがあったとしても、真の父母に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。そのような方が正に真の父母だということを知らなければなりません。
            *
 皆さんは、神様と真の父母のために涙を流さなければなりません。涙を流さずしては誰も復帰の道を行くことはできません。神様は今まで人間を救うために涙の道を歩んでこられました。
            *
 メシヤがこの地に来て、代行しなければならない立場とは、真の父母の立場です。それでは真の父母とは何でしょうか。縦的な真の父の代わりに、横的な真の愛を中心とした横的な父母です。キリスト教ではメシヤが神様であり、神様がメシヤだと言いますが、それは違います。神様は縦的な真の父です。これは一つしかありません。他の道に行くことはできません。メシヤは横的な真の父母だというのです。
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 真の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが想像もできない涙ぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知らないところで、どれほど多くの涙を流したか知れません。その内容は神様だけが御存じです。
            *
 人類は真の父母が必要です。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結され得る原則的なことが、歴史始まって以来初めて起こったのです。歴史始まって以来、以前にもなかったし、これからもありません。これをはっきりと知らなければなりません。軸は一つです。二つではありません。その軸とは何かと言えば真の愛です。今皆さんの父母が愛し合うのは真の愛ではありません。
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 神様の摂理の目的とは何かと言えば、一つの焦点です。神様の理想が実現される場も正にその場です。私たちが失った父母、失った真の父母に出会えるところも正にそこです。それでその期待がすべての中心です。その場、それが「真の父母だ」というのです。歴史上、多くの場がありましたが、この場が最も価値ある場です。それがどれほど重要なのか考えてみてください。すべての聖人たちもこの基台、この問題のために闘ってきました。
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 人類が願うものは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前にアダムとエバが成婚して全人類が神様の後孫になるべきだったにもかかわらず、堕落によって人間たちは、サタンの後孫になってしまいました。ですから私たちは六千年前に失った天の側の真の父母を、再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天国の民になれるのです。
            *
 神様は、真の父母を絶対的に必要とされます。善なる神様も、真の父母なしには摂理を成し遂げることができないからです。霊界に行っている数億の霊人たちも、真の父母を絶対的に必要としています。真の父母が生まれない以上は、天使長界の霊人たちも、地上でみ旨が成就できるように役事したかいを見いだすことができないからです。神様の前に立つためにも、真の父母が必要なのです。
            *
 すべての歴史は、真の父母を迎えるためのものです。宗教も真の父母を求めてきたし、世界も真の父母を求めてきたし、国家も真の父母を求めてきました。真の父母を探す道を模索してきたのです。
            *
 人間は歴史時代に真の父母を失って孤児になったので、一つになる道がありません。本然の父母の愛からすべてのものが連結されなければなりませんが、そのようにできませんでした。ですからすべての人が必要とする方が、真の父母です。
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 今までの歴史的な願いとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。神様がイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのも、メシヤを迎えるためのものでした。メシヤはどのような方かと言えば、真の父母です。またキリスト教とキリスト教文化世界をつくったのは再臨主を迎えるためでしたが、再臨主は第三アダムとして来られる真の父母です。
            *
 すべてのものはどこに帰結するのでしょうか。真の父母に出会うところに帰結します。人類の真の父母が現れることが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。それで真の父母が現れる時は歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後の時なのです。
            *
 真の父母とは何ですか。肉親の父母と真の父母と、何が違いますか。真の父母とは何ですか。何をするのが真の父母ですか。愛を中心として言う時、その肉親の父母と真の父母とは何が違いますか。愛に対する概念が違います。愛の概念が違うのです。肉的父母は肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うのです。


  2.真の愛で人類を生んでくださる

 皆さんは真の父母と関係のない場で、天の前から追い出された偽りの父母の血筋を受けて生まれたので、真の父母の血筋に生まれ変わるためには、偽りの血筋を踏みつぶし、完全に抜き取ってしまわなければなりません。そうして血統を根本的に替えずしては天の国に行くことができません。
            *
 堕落した人間が要求する救世主とは、どのような救世主でしょうか。堕落した父母の立場からではなく、堕落していないアダムとエバのような立場で神様のみ旨と一致し、神様の愛を受け、神様の祝福を受け得る真の父母の立場で、人類を生んでくれる救世主でなければなりません。そうでなければ、人間が原罪と関係のない立場に上がることができないのです。
            *
 血統を転換するのはメシヤがするでしょうが、転換するように行動するのは自分自身でなければならないと言いました。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至れません。それは決してたやすく成されず、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷だとか、血を吐く死の境地に行ってこそ血統転換が可能です。
            *
 真の父母が必要なのは、何のためでしょうか。心情圏を中心としてその根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝が全部違います。ここで新しく根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。ここで幹と枝が出てきて接ぎ木するのです。切り取って接ぎ木するのです。接ぎ木してそれが宇宙の大きい主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根っこまで切らなければならないというのです。幹と枝が全部違います。
            *
 今日、万民が願うものとは何でしょうか。世界国家を迎える前に真の父母を迎えようとするのです。また未来の後孫たちは誰から出発したがるのでしょうか。皆さんの息子、娘は皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血筋を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新しい未来の出発点になるのです。
            *
 真の父母は何をしなければならないでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならず、間違った生命をもとがえさなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。
            *
 真の父母は世界の人々を呼んで、父母の立場から結婚させてあげます。ここでは人種の違いを越えるだけでなく、善人と悪人も共に結婚させてあげるのです。
真の父母は悪なる愛、悪なる生命、悪なる血統はすべて否定しますが、アベルを殺したカインは取り除いてしまわず、同じ位置で祝福してあげます。
海の潮の干満を見るとき、出ていく水と入ってくる水が合い、水平を成した時のように、救援摂理(蕩減復帰)が終結する善悪の転換期で善人と悪人をすべて共に祝福してあげることによって、サタンを完全に追放するようになるのです。
            *
 エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今や真の父母が正しく結婚させてあげることをもって、もう一度ひっくり返すのです。偽りの父母が犯してしまったことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖たちまでも祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。
真の愛を中心とした地上の後孫たちの家庭基盤を通して、霊界の先祖と地上の後孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋がお互いに連結されます。
            *
 養子はどのようにしなければならないのでしょうか。真の息子に接ぎ木されなければなりません。オリーブの木を切って、真のオリーブの木の芽に接ぎ木しなければなりません。オリーブの木が真のオリーブの木になる運動をしなければなりません。重生するためには真の父母の血統を引き継がなければなりません。それで人類が願うのは真の父母であり、イエス様と聖霊が願うのは小羊の婚宴です。
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 まず何よりも父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として父母に侍らなければ、救いを受けられないのです。皆さんはそのように侍ったことがありますか。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになれる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるくらいに堅くもたなければなりません。そうでなくてはなりません。
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 肉的な父母さえいればいいのに、霊的な父母がなぜ必要なのでしょうか。堕落したからです。今まで堕落した父母が何を教えてくれたのでしょうか。大きいものを半分以上みな取ってしまい、自分を中心として降りていくことを教えてくれました。それで、父母の愛を中心としてサタン世界に永遠にいさせるための一つの決定的な線が引かれました。これを切る道がありません。それでは真の父母とは何でしょうか。そのような基盤で、もっと大きいものをだんだん教えてあげるのです。それで天の国、永遠の国に合うように教えるのです。永遠の国に行って拍子が合うように教えるのです。呼吸に支障のないように教えるのです。


























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