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真の愛
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 三 父母の愛

  1.父母の愛は本質の愛である

 子供は父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子供を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで愛する息子に対して「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。
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 子供は愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。
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 父母は変わることができますか。父母の愛を革命することは歴史時代になかったことを知らなければなりません。いくら革命が起こるとしても愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続しなければならないことになります。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、私を絶対に必要とするのです。唯一に必要とし、不変に必要とし、永遠に必要とするのです。
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 子供はなぜ父母を恋しがるのでしょうか。そこに自分の愛の家があるからです。
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 父母の愛をなぜ尊重視するのでしょうか。見返りを願わず犠牲になるからです。そこでは、ある結果を願わないのです。それで満足し、それで幸福だというのです。与えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。与える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。神様の側を身代わりできるからです。
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 父母の子供に対する愛は、ただそのまま生活的な因縁を通じるだけの愛ではなく、骨髄からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れられず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母には子供を愛する心が自然にわき出るのです。
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 真の愛とは何でしょうか。「ため」に生きる愛ですが、与えてはただ忘れるのです。ことさら与えたことを覚えていません。またいくら注いであげても疲れません。七十歳になった息子に対して「おい、車に気をつけなさい」と言ってもぎこちなくはなく、数十年その言葉を何回繰り返しても、嫌になったり疲れるということはありません。堕落したこの世の父母がこうならば、ましてや本質世界で神様の愛を授け受ける時、疲れるはずはありません。
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 父母は子供を愛するのに自分を主張せず、自分がない立場で子供を愛するのです。父母は権限をもって、いつも堂々とした立場で子供を愛するのではありません。父母は自分を犠牲にしても子供が立派に育つことを願います。父母は変わらない愛の主人です。父母という存在は、子供が千態万態に変わってどのようなことをやっても、子供のためにという心だけは変わりません。ですから変わらない父母の愛は貴いのです。
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 父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、大変だとは思いません。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血と肉を削って与え、その価値がいくらなのか帳簿に付けておきますか。しないでしょう。かえって、全部を与えられなくて、もどかしがるのです。
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 親子関係はどのようなものでしょうか。愛を中心としてどのような関係でしょうか。親子関係は父母の愛が原因ならばその子供は愛の実であり、結実です。このように見るのです。結実と原因が掛け離れたところから出発するのではなく、一つの場から出発したものです。父母の愛が原因ですが、その愛の中で私が結実として現れたという言葉はどのような意味でしょうか。父母が愛した結果として登場したのが、現在の「私」だというのです。ですから愛と共に一体化した原因と結果の立場を対等にもって生まれたのが、親子の関係において子供だというのです。
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 親子関係は縦的な側面を代表します。ですから親子関係の愛は、変わることができません。私たち人間の歴史上でもそうでしょう。夫婦の愛は、横的な因縁なので四方性を備えたものです。ですから父母が子供を捨てることはできず、子供が父母を捨てることはできないのです。
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 子供において父母に対する喜びは、それこそ世界を代表した喜びにならなければならず、父母において子供に対する喜びは、世界を代表した欲望を充足させられる喜びにならなければなりません。親子の関係は、それこそ宇宙の根本でないはずがありません。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならこれ以上の悲しい場がないと、結論づけることができます。
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 親子の関係は何について言うものですか。これは血筋が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血筋が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血筋によって連結されなければなりません。血は生命を構成するものです。父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。何によってですか。愛によってです。
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 私は、どこから生まれたのでしょうか。私は、父母の愛が最高に花咲くところから生まれたというのです。花咲くには美しく花咲き、美しく咲くだけでなく香りを漂わせ、その香りは父母も好み、神様も好み、万宇宙も好む、理想的な花として咲くことのできる、そのような中から私が生まれたというのです。
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 宇宙を総合した男性、女性として生まれたその父母が、愛の花を咲かせるその場に、喜びのその場に、一つの種として植えられたのが子女なのです。
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 私は誰でしょうか。父母の愛の出発の根源に同参した者です。これは原因と結果が一箇所で出発したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母の愛と、結果的な私の生命の愛の根源は一つです。そのような意味から見る時、愛を中心として父子一身という言葉が可能だというのです。
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 愛を抜けば、一身や一体という言葉はあり得ません。私は腹中から父母の愛を受けます。愛の本質によって腹中に私を懐妊したその時から、父母の愛とすべての関心が集中するようになっています。なぜそうなのでしょうか。愛の結実だからです。それで愛によって生まれ、愛から生命の因縁を受け継ぎ、愛を受けながら大きくなって相対を迎えられる時になれば、相対をめとるのです。
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 親子の関係は、いかなるものをもってしても壊すことができません。原子爆弾でも壊すことができません。絶対に壊すことができないし、別れることができないし、捨てることができない関係です。
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 父母と子女の因縁は、切ろうとしても切れません。私の愛と私の生命の主体性をもったものが子女なので、これを切れば私を否定し、私の生命を否定する立場に立つので、愛の結実を否定できないのです。ですから父母は、子女のために生命を捨てられるのです。このような論理を得ることができます。
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 夫婦同士暮らしながらどんなに楽しく愛すると言っても、子供がいない夫婦が幸福な夫婦ですか、子供がいる夫婦が幸福な夫婦ですか。子供がいないのは未完成品です。未完成夫婦だというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。
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 父母が子供を愛するのを誰も打つことができません。打てないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子女を抱いて愛するその場は宇宙の法が攻撃できず、保護するようになっているのです。今までこれを知りませんでした。
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 子供が病気になって体が不自由になっている時は、高く深い父母の心情は、その体の不自由な子供に流れるのが原則です。違いますか。そのような不具者の心情は、谷底にあります。父母の心情は、てっぺんの大きいところにあります。そのような父母の心情が、頂上からその深い谷底に流れていきます。
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 子供のために生きる父母の胸には、悪いものがありません。服がぼろであればぼろであるほど、悲惨なら悲惨なほど、それが涙の深い谷底を深く掘っていくのです。
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 皆さん、赤ちゃんがうんこするのを恥ずかしがればどうなりますか。うんこをしておしっこをしても恥ずかしがらずに、母親がうんこを片付けるのを見て、きゃっきゃと笑っているのです。それはどれほど純真でしょうか。それは愛によってのみ可能です。愛には醜いものがないのです。愛によってのみ、すべて克服できるのです。
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 胸の中で乳を飲ませて育てる母親の切なる心、子供がうんこをし、おしっこをして臭くても、愛によってその環境を忘れられるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心もそうだとすれば、ましてや愛の主体であられる神様が、本然の心情を通じてアダム・エバを愛したかったその心がどれほど切なるものだったでしょうか。一度考えてみてください。
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 父母の心は与えても足らないと感じ、愛しても十分愛し切れないところがあるのではないかと、もっと愛したい心、与えてからもやり切れなく気の毒に思う心、このようなものがあるので、永遠の愛と通じる本質に属することができるのです。これが愛の、出発の伝統的動機です。
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 父母が離婚するのは、刀で子供を半分に切るのと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう親は、どこに行っても禍いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできません。
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 赤ちゃんのおなかがすけば、母親の乳が張ってきます。乳が張って痛くなると、きしまないところがありません。おなかがすいた赤ちゃんを抱いて乳を飲ませる母親の気持ちは、表現し難いものです。張った乳が赤ちゃんに飲まれて小さくなると、母親は心地よく、気分が良くなります。それは母親でなければ分かりません。また赤ちゃんがちゅうちゅう乳を吸いながら乳を触るのを見る時は、愛がどっとわき出るのです。
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 鮭の一生を見れば、鮭は卵を産んでから死にます。卵をはらんで産むために雄と雌が無条件に一つになって……。それを見ると、死ぬ日が決まった死刑囚の立場で夫婦が愛する、それ以上に愛し合うのではないかというのです。雌が卵を産めば、雄は地を掘って保護してくれます。それこそ理想的なカップルです。そして卵を産めば死ぬのです。死にゆく雄、雌のいろいろな姿を見る時、本当に大きな衝撃を受けます。そうやって、その親の体は赤ちゃんたちの餌になるのです。
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 創造主がいるならば、なぜそのように造ったのでしょうか。それを見れば赤ちゃんがどれほど重要か、愛がどれほど重要かということが分かります。愛が最高のものであり、赤ちゃんが最高のものだということを見せるための一つの表現として、鮭をつくったのだろうという理論は極めて当然な言葉です。鮭の一生は本当に驚くべき人間の教材です。


  2.分け与え、また分け与えても完全な愛

 子女をなぜ愛するのでしょうか。なぜ愛さざるを得ないのでしょうか。それは神様の創造の偉業を、私たちが横的な実体圏から受け継いだのと同じだからです。アダムとエバを造っておいて神様が喜んだ、その喜びを私たちも感じるのです。神様の愛を受け継いで、神様の創造的権限を受け継ぐのです。
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 子供をたくさん育てた父母は、何かしら愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子供をたくさん育てた人は、悪い怨讐も打つことができないということを自ら感じることができる人です。それほど何かしら広い土台に立っているし、広い法度をもって生きているのです。
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 赤ちゃんは、生まれると母親の愛の電波に従って、自動的に乳を探していきます。醜女でも美人でも関係なく、母親ならいいのです。これこそ調和した無二の、聖なる姿なのです。
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 人は愛によって生まれ、愛を受けながら大きくなります。「私」という存在は、父母の愛の実なのです。お母さん、お父さんの愛がどのようなものかを、実際の実で見せてくれたのが「私」です。父母は愛の実である「私」を愛さなければなりません。その実を通じて無限の愛が実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的神様の愛まで連結され得る道がここにあるのです。
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 私は、父母の前に二つとない愛の同参者、同伴者です。愛をもってお母さん、お父さんと同等になることができ、同等な場に上がっていくことができるのです。それが愛の特権です。真に愛する息子、娘に自分のすべてのものを相続させようとします。宇宙の相続は、愛の伝統上で同等な愛の価値的位置を得る時、すべてのものを心置きなく一○○パーセント相続するようになっているのです。それで父母は孝子(親孝行)を願うのです。孝子は、父母の永遠の愛の同伴者として愛の相続を受けるのです。
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 父母の愛によって生まれた赤ちゃんはどのようなことをしても憎くなく、ただただ好きなのは、その赤ちゃんが自分の血と肉によって、また愛によって造られた分身体だからです。おしっこをして、うんこを垂れ、鼻を垂らしても、ただかわいく、愛らしいのです。その中に愛が染み付いているからです。
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 父母と子供の間の愛は、父母から来ます。私たちは生まれながらにして父母の愛を受けます。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛を体験するようになり、夫婦の愛が継続するためには、また子女を生んで愛さなければなりません。父母は子供がいてこそ真の愛を感じることができます。兄弟同士の愛だけでは、父母の愛がどのようなものか分かりません。言い換えれば、父母から始まって一回り回って父母に帰ってこそ、その愛を知るようになるのです。
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 私には父母の愛の綱、理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることができません。かえって宇宙のすべての力がこれを擁護しています。ですから私がどこに行っても、父母はついてくるのです。霊界までも父母はいつも共にいようとします。ですから、父母が同行するのを嫌うのは罪です。したがって私たちは、父母を自分の体のように思い、愛し、親孝行するのが、人間にとって最高に価値があることを知らなければなりません。
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 私たちが生まれたのは、父母の愛からです。父母の愛から接ぎ木して出てきたのです。生命の連結を言う前に、血筋を言う前に、愛によって血筋がつながり、生命がつながったのです。「私」というものがなぜ貴いのでしょうか。生命をもったから貴いのではなく、父母の愛に同参したから貴いのです。愛は父母が成しましたが、愛の実は「私」です。始まりと結実をもって生まれたのが、正に「私」なので貴いのです。
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 真の父母は、愛の伝統を継承させようと骨を折ります。そこには東洋人も西洋人も関係がありません。氏族を超越してすべての父母たちが立てようとするものとは、普遍的な愛の伝統です。人は誰でも、自分の家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生を営もうとします。洋の東西を問わず、すべての人は、そのような人生を渇望します。このような場合、その伝統は本質なのです。なぜならば、伝統のみが未来と連結されているからです。
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 夫婦間の愛と親子間の愛の中で、どちらが大きいでしょうか。西洋の人々は夫婦間の愛が大きいと思っています。しかしそうではありません。夫婦間の愛より、子供のための愛がもっと大きいのです。夫婦同士の愛では、自分を愛してくれなければけんかが起こりますが、親子間では、愛さなければいけないといってけんかが起こります。父母の愛が中心であり縦的なもので、天の法度に近い道に従っていくからです。ですから「ため」に生きる愛がより真の愛に近いということを、私たちは知ることができます。どんなに強い男性も、どんなにきつい女性も、その愛の前には頭を下げるのです。
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 父母が貴いのは子供のために与えるからです。それがあとで入れ替わるのです。父母は年が多くなれば、また子供になるのです。昔は父母が子供の先生でしたが、年が七十、八十歳になると再び子供になるのです。その時は子供が父母を身代わりするのです。父母が自分を育ててくれた代わりに、子供がその父母を愛さなければなりません。それが天地の道理です。


 四 夫婦の愛

  1.夫婦の愛は全宇宙の花

 男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は天下を一つのふろしきに包んだようなものです。それゆえに、夫婦は神様の理想的な愛の心情を感じることができます。
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 神様は縦的二性性相であり、人間は横的二性性相です。その二者が合わさって完全な丸いりんご模様を成し、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引きつけることのできる母体にしよう、というのが夫婦の理想です。
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 夫婦が神様を愛し、人類を愛する心のパターンの上で爆発するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛でない訳がありません。その愛の根は、どこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神様が愛の根源であり、人類の愛の根源なのです。
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 理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体に展開できる夫婦、最高の文学を実体に展開できる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受ける甘味な愛が世界最高の芸術作品にならなければなりません。夫婦生活自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体にならなければなりません。
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 人にはいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたがらなければなりません。そのために自らに対する研究をしなければならないし、神様に対する研究をしなければなりません。
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 神様の愛が人間の三大愛を中心として、共に花咲くことのできる家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未来の願いだというのです。これにより、初めて天地の法度の前に歴史の香りを香らせることができるのであり、新しい花として登場できる貴く美しいものが夫婦の愛だということを知らなければなりません。
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 愛は永遠です。愛は二つではなく一つです。男女の間が愛で結ばれたなら地上で百年偕老(注:共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つになれば神様と回るようになり、愛の四位基台を成すようになるので、これが正に理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになるのです。
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 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、あふれ流れるその愛情が、生活圏を通して生涯を乗り越え、神様の目的と完全に一致したという家庭を成さなければなりません。そうしなければ神様のいらっしゃる天国に入ることができません。
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 男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され縦的な世界がみな断絶してしまいます。切れてしまいます。
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 夫婦の愛を通じて一つになり、神様のような立場で創造能力を成したのが子女です。
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 純粋な男性、女性として赤い愛の情熱の心をもって天地を代表することのできる男女、そのように結ばれた夫婦を天は探しています。そのような夫婦の愛をもって、そのような愛で息子、娘を育てなければなりません。
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 最近、インスタント食品のような愛し方をする人々が至る所にいますが、それが問題です。香水のおふろに入るからといって、愛が深まるのではありません。田舎に住みながら、冷水に体を浸して洗ってから寝床に就く夫婦の愛が、もっと純粋で長く続き、深くなるものだといえます。
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 新郎新婦はお金や権力、名誉を中心として一つになるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。妻は夫のために、夫は妻を愛する中で、夫婦が神様を愛する家庭を築いていかなければなりません。
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 男性は真の父の分身であり、女性は真の母の分身です。ですから夫が妻を無視すれば、真の母を無視することになり、妻が夫を欺けば、真の父を欺くことになります。
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 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどのような力も男女間において互いに主管できません。ただ愛のみが主管できるのです。
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 男性と女性を力で比べれば相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押し合い引き合って一つになるのです。人間が神様の前に愛の対象的存在になったならば、神様は喜ばれるでしょうか。喜ばれるのです。
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 最高に好きなメロディーとは何かと言えば、男性と女性が互いに好きで喜ぶ夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦がこの世を抱くことができ、宇宙全体を受け入れることのできる心で生を営む時、そのほほえみは自然に発生します。そのような夫婦の美しい姿が、神様の前に一束の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想や抽象ではありません。本来の世界のことを言っているだけです。
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 愛する夫婦間の対話を見れば、この世のどのような詩や絵画よりも美しいのです。また「愛する者同士」、「二人っきり」、「私たち二人」という言葉が、どれほど美しく素晴らしい言葉でしょうか。
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 男性と女性が祝福を受けて完全な愛を交わし、喜びを分かつ時、神様の目には地上に咲いた花のようだというのです。また彼らの愛によって成されるすべての造化万象は、神様には香水のようなものです。このような美しい香りの中に神様は住みたくて訪ねてこられるのです。神様の愛が訪ねてくることのできる土台が正に夫婦の愛の場です。その場は万物と宇宙が和動する場となるのです。


  2.夫婦の愛は分散すれば不完全

 人間は本性的に、自分に対する相対の愛が分散することを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、親子間の縦的な愛の関係と違って、分散すれば既にその完全性が破壊されます。それは、夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理のゆえです。人には自分の相対に絶対に尽くし、「ため」に生きなければならない愛の責任性があります。
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 愛の強力な力によって結ばれた夫婦ならば、相対がどのようなことをしてもうれしく、愛らしく思えなければなりません。夫の体から出る臭いが嫌だと言ったり、妻のしぐさが気に入らないと思ったり感じたりするのは、二人の間に完全な愛が成されていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれているからです。
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 夫婦が一緒に暮らすのに、一生の間楽に暮らすよりは、愛を中心として曲折を経ながら、台風も来て、暴風雨も降って、雷も落ちる、そのような多様性を感じながら、理想の愛を追求するのがもっと幸福なことでしょう。男女の問題を解決するためにはお金や知識ではなく、愛が必要です。
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 人の言葉をよく聞いてみると、女性の声のほうが男性の声より高いのです。なぜそのように高く造ったのでしょうか。力においては男性よりも弱いのですが、情においては女性のほうが高いというのです。
それでは男性はどうでしょうか。男性は広い愛をもっています。自分の夫と息子、娘だけを思う愛においては女性が高いですが、親戚や国を愛する心は男性たちがもっと高いのです。それで息子、娘を愛したり、家庭を愛するのは母親に習って、世の中を愛するのは父親に習うようになります。
どちらか一方だけでは不安ですが、これらをつなぎ合わせることによって均衡を成すことができます。
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 最初の三年間は接ぎ木しようとしても合いません。家が違い、風習が違い、礼節が違う男性と女性は、合うはずがありません。一つになるまで、合わせていく努力をしてこそ合うようになります。
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 愛を通じてのみより大きいものが出てきます。「ため」に生きる愛からのみ数が増えていきます。ですから、夫婦が闘う愛からは亡国の種が生まれます。しかし「ため」に生きる愛からは、天地のすべての精髄を取った、神様のような知恵の王子、王女が生まれます。
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 夫婦はなぜ争うのでしょうか。互いに愛を受けようとするからです。互いに愛を受けようとする輩は長く立ち行きません。互いに愛を受けようとする家庭は壊れます。しかし互いに愛そうとする家庭は、「壊れよ」と願っても壊れません。互いに「ため」に生きようとする愛は永遠なものです。
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 愛は愚鈍で間抜けなものです。どのような状況も意に介しません。本当に愛するならば、横で誰が見ていようが関係ありません。誰かが見ることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ても意識しないそのような境地にある愛なので、どれほど愚直で愚鈍でしょうか。
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 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因縁にひびを入らせることはできません。有識と無学が夫婦の愛を薄くすることはできません。純粋な男性、女性として赤い愛と情熱の心をもって天地を代表することのできる男性、女性、そのように結ばれた夫婦を天は探していらっしゃいます。
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 愛する人たちの間になぜ、離婚問題が生じるのでしょうか。離婚した人や離婚を考えているという人みんなが、初めは生死を共にするほど愛する関係だったことを考えれば、何かが間違っているというのです。離婚するようになった理由はいろいろあるでしょうが、結局何かが変わったということで、二人の間が変わったということを意味します。彼らは愛を守り、培うことができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体は変わりませんが、人の心が変わったのです。
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 この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくる時に力が出ます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出、夫も力の出る妻を見て力が出るようになります。それで彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。しかし真の夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。
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 ある男性は、自分の妻がいてもきれいな女性を見ると、「自分の妻だったらいい」と思います。このように二つの心をもった男性を指して、「泥棒根性をもった者」と言います。二つの心から始まったのがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いではありません。そのような人がいれば、サタンと変わりありません。
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 夫婦は対だと見ることができます。顔がそれぞれ違うように、人の運も違います。一生の運命が違います。夫の運命が悪くても妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなることができます。反対に妻の運命が悪くても夫の運が良ければ、それもやはり良くなります。ですから夫婦の運命は、山と谷を崩して平地を造るようなものだと考えることができます。平地を造ってそこに夫婦の理想をもって木を植え、畑を耕し、いろいろな愛の計画を推進することができます。そのような道理を考えてみる時、相対を外面的にだけ見て結び合わせてはいけません。結婚とはそのように恐ろしいものです。
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 夫に会えばいいかと思っていたら、悪い時もあるというのです。良いものだけを願ってはいけません。二十四時間ずっと日差しだけ照りつけたらどうでしょうか。夜もなければなりません。高ければ、低くなるのが原則ではありませんか。
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 幸福な家庭は、夫が出て帰ってきたなら、外であったすべてのことを妻と共に相談して、新しく開拓できる要因を発見する家庭です。お互いに力を合わせて研究する家庭が幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭を築こうと同調するようになります。
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 愛する夫婦同士、一方的に相手の顔がどうだと決めつけてはいけません。自分の相対の顔が一つの模様でのみ感じられるならば、それほど嫌なものはありません。相手の顔はうれしい気持ちで見れば、うれしい状態で現れ、愛の心をもって見る時は、美しく見えるのです。水が流れる時、曲がりくねるのと同じように、一つのうねりが回るたびに新しい模様が現れるように、いつも相手の顔を新しく感じなければなりません。
            *
 人間の美というものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美はボールのように立体的なものです。上から見ても、横から見ても、どのような方向から見ても、自分なりの完成された美をもっています。ですから、自分の妻の顔をむやみに評価してはいけません。美人の中には貧しい人が多いのです。しかし徳や福を備えている女性は違います。顔がきれいな美人も、子供を二、三人産んだだけで顔がおかしくなる場合があります。ですから、子供を産んでも美を維持できる人が美しい女性だと言えます。
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 夫と妻が互いに愛し合うのにも、神様の代身者として、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛すれば、互いに不足な面が現れ、結局は離婚する事態まで起こります。
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 愛は互いに慕い合う時、価値があります。口があれば口を開き、目があれば目を開いて愛を下さいと言ってこそ、愛を与える人も気分がいいのであって、ぼうっとしていたら、愛が来ても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻ではなく、消極的に出てくる時、どれほど気分が悪いですか。
            *
 夫婦がキスするために歯を磨くとすれば、それは自然な愛ではなく、歯磨き粉の臭いのために、人だけがもつ固有の体臭を味わうことができません。歯を磨いてキスする人を見ていれば、その人が愛の味を見るためなのか、歯磨き粉の臭いを味わうためなのか分からないほどです。最近の世態を見れば、人間の幸福がどのようなものか混同するほどに計算的で、人為的で、虚飾的な愛が蔓延しているのを見ることができます。そのような愛は滅亡の道に導いている主犯だと言えます。
            *
 味噌煮込みは、煮込み鍋で炊いてこそ本来の味が出ます。さっぱりして風味が良い味噌汁の味は、一度味が付けばどこに行っても忘れることができないでしょう。同じように、人も風味良くさっぱりした味のような愛に、一度味を付ければ変わらないでしょう。甘いだけのインスタント食品はすぐに嫌になるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に手に入るならば、それは「真の愛だ」と言えないでしょう。
            *
 エデンの園で裸になって踊るのを誰が見ていたでしょうか。人がいない所ではそんなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊るからといって、それが心配なことですか。夫婦同士なら裸になって踊るどころか、どのようなことをしても、誰が何と言うでしょうか。夫婦同士でするのに、何の関係があるでしょうか。
            *
 鳩も互いに「くっくっくっ」と声を出しながら愛し合うのに、夫婦同士が出会う時、本当に愛する人同士が出会う時、出会う声があるとすればどのような声でしょうか。雷が鳴る音よりも大きいことはあっても、小さくはないでしょう。
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 夫婦が床に入ってささやく蜜語は、この世のすべての疲れや憎しみを解かす清涼剤になるのです。夫婦がささやく言葉の中で「あなたは私を愛さなければならない」という言葉はあり得ません。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものでなければなりません。
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 夫婦が愛し合うのに、夫の父が横で寝ていても夫の母が横で寝ていても、クライマックスになる時は率直に声を出してもいいというのです。「あの家はどんなに夫婦の仲がいいのか、夜にこれくらい声が出ると町内のねずみたちがびっくりして、鳴いていた鶏たちもさっと鳴きやむ」と言うほど、町中に愛のうわさを立てなさいというのです。「ねずみたちが驚いて、鶏が鳴きやむほどに声が出る出来事がなぜ起こるのか」と聞けば、「なぜかって、どうして? 天地が振動する愛の喚声がわき出るからそうでしょう」と言ってもいいのです。
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 夫婦の愛の場は全宇宙の花です。歴史時代、総合実体として現れた新郎新婦が愛によって一つになる新しい部屋には、神様が来られて住み着かれます。ですから愛の中で成される新婚夫婦の新しい部屋が、どれほど厳粛で恐ろしい場でしょうか。神様との道をつないでおいて、完全な愛のマイナス的役割をしていると考える時、ここから天地の愛の太陽が昇り始めるのです。生命の安息の場、理想の安息の場に和して、妻の部屋を訪ねなければなりません。
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 愛の火がつけば、二つの生命が一つになり、次に血統が合わさって愛で沸き始めれば、その渦巻く中で私の生命が主人として種が植えられるのです。男性の生命体、女性の生命体が愛によって運動し始めて回れば上がるでしょうか、下がるでしょうか。上がる場で芽生えれば息子になり、下がる場で芽生えれば娘になります。理論的にはそうです。私はそうなのかそうでないのか分かりません。理論的に合っているので、事実がそうなのかそうでないのか研究して一致させれば、博士学位、ノーベル賞受賞ものになるでしょう。
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 最近は足袋を履きませんが、昔は足袋を履く時は、一カ月でも二カ月でも足の指が出るほど履きました。そうすると悪臭が出て、すっぱくて渋くてありとあらゆる臭いがしますが、愛する妻の鼻は「その臭いがどのような香りよりもっといい」と言うのです。悪臭のする足の指も愛する時は、行ってなめるのです。行ってなめてみると味が辛く、甘く、すっぱく、変だというのです。愛のアンテナを立てて測定すれば、測定値が「嫌だ」という計数よりも、「いい」という計数がさっと上がるというのです。
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 息子、娘を再創造するのは簡単ですか。ありとあらゆることをやってこそ、新しい息子、娘が生まれるのです。とても大変なことを全部しなければなりません。ですから愛する夫のつばが汚いですか、汚くないですか。仮に夫が自分の手につばを吐いたとして、絹の服を着ていてこするところがなければ、それをなめてしまいたいですか、そうしたくないですか。率直に話してください。「なめてしまいたい」と言ってこそ真の愛です。愛には汚いものがないのです。
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 愛を中心とした生活で、すべてのものが解決されます。欲張りじいさんの虎のような目も、愛するようになれば絵に描いたお月様のような姿になり、硬くこわばっていた口も、にたりと開きます。凍っていたものが完全に溶かされるのが愛であり、溶けていたのを凍らせることができるのも愛です。極と極を包括しても余りあるのが愛です。「好きだ」という「好」の字をよく見てください。男と女を合わせて「好きだ」という字を書きました。「夫婦げんかは刀で水を切るようなものだ」という言葉がありますが、刀で水を切れば跡が残りますか。残りません。一度けんかをしても、面と向かって笑えば、また平和が訪れます。夫婦が愛するのは、神様まで連結するためです。
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 女性はなぜ髭がないのでしょうか。神様は、アダムが髭を生やした姿を御覧になって気分が良くなかったので、エバを造られる時、髭なしに造られたのです。したがって、神様の創造物の中で一番の傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たちが傑作品ですが、誰のための傑作品なのでしょうか。正に男性のための傑作品なのです。そのように考えてみてください。



























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