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真の愛
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 五 性愛

  1.性は愛の本宮、天の至聖所

 神様の至聖所とはどこでしょうか。愛が宿る男女の性です。ここが天の至聖所です。
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 男性と女性の愛の象徴は何でしょうか。愛の終着地点がどこでしょうか。男女を一体にする性の器官です。
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 それは愛を中心として、心と体が完全に合わさることのできる通路になるのです。
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 男性と女性は何が違いますか。性の器官を含むその体がまず違います。それでは男性の生殖器は誰にとって絶対に必要ですか。男性の生殖器は女性のためにあるのです。人間の生殖器が一つは凹で、一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがらせるとか、二つとも平べったくすることもできるのに、どうしてそのように異なってできているのでしょうか。すべて相対のためです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。絶対に女性のものが男性のもので、男性のものが女性のものだという事実を今まで知りませんでした。それを占領することによって愛を知るのです。
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 男性と女性の生殖器は王宮の宝庫です。天の国の王宮の宝庫です。神様も自分勝手にできません。その鍵は祭司長だけが開けることができます。女性として生まれ、服を二度脱いではいけません。主人の前で服を脱ぐのは許されますが、ほかは悪魔です。
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 生殖器とは何かと言えば、愛の王宮であり、永遠の生命が誕生する王宮であり、永遠に変わらない天の伝統を受け継ぐ血族、血統を受け継ぐ王宮だというのです。真の生命の王宮、真の愛の王宮、真の血統の王宮だというのです。最も貴いところです。自分勝手にできません。神様の公認がなければ開けられないのです。神様と宇宙の公認を受けた自分の夫、自分の妻以外には触れることができません。
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 生殖器は何のために存在するのでしょうか。愛のためです。愛を見つけるために生まれたというのです。
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 生殖器とは何ですか。それは真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。一番貴いものです。これがなければ神様の理想、神様の家庭、神様のみ旨が成就できないのです。これは全体の完成を成すことのできる一つの起源です。
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 生殖器を絶対的に貴く思う世界になるならば、その世界がいい世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。神様が人間を創造される時、最も重要なものとして精誠を込めて造られた箇所とはどこですか。目ですか、鼻ですか、心臓ですか。そうでなければ頭脳ですか。これらは全部死んでなくなるのです。事実がそうではありませんか。
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 生殖器は愛の王宮です。今その愛の王宮がどのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であり、そのように貴いものが人間の生殖器です。聖なる箇所です。それがサタンによって汚い箇所になってしまいました。本然の神様の観点から見れば、汚いのではなく、それは聖なるものです。最も貴いものです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように聖なるものをサタンが汚しました。
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 私の生殖器は愛の本宮です。私の生殖器は生命の本宮です。王宮だというのです。私の生殖器は血統の王宮です。このようになってこそ、神様が臨在できる王宮になることができるのです。神様は、万王の王であられ、本宮に訪ねていって住まれる方であるので、神様に侍るために、愛の本宮にならなければならず、生命の本宮にならなければならず、血統の本宮にならなければならず、良心の本宮にならなければなりません。アーメン、アーメン、アーメン。み言のとおりになるでしょう、アーメン。
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 愛が中心となって二人が生命の合一体となり、一つとなる場所、男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つとなる場所が生殖器です。その場所は息子、娘よりも貴く、夫より、神様よりも貴いということを知らなければなりません。このような話をするので異端者と言われるのでしょうが……。その場所がなんですって? 子供より貴く、夫より貴く、父母より貴い場所です。それがなければ父母も無価値なものであり、夫婦も無価値なものであり、息子、娘も無価値なものとなるのです。
そのように貴いので、宝物の中の宝物として、世の中のどこの誰にも見えないように、一生の間、錠がかけられているのです。そして、そのかぎは男性のものは女性が持ち、女性の物は男性が持っているのですが、各々一つしかありません。一つのキーのみ持たなければなりません。フリーセックスのように、十個、二十個持ちたいですか。門を開けても主人がいない家のように、通り過ぎる人がみな出たり入ったりする廃虚の家のようになりたいですか。
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 女性、男性の貞操を守り保護するということは、宇宙を保護することと同じです。男性、女性の愛の秩序が宇宙の根本であるためです。
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 善悪の実とは何でしょうか。愛を間違えば永遠な悪の実を継承するのであり、愛を正しくすれば永遠の善の実を継承するのです。その善の実とは、どのような果物ですか。善悪の実とは男女の生殖器をいうのです。それを間違って使えば天下が滅び、国が滅びるのです。世界を滅ぼし天宙を滅ぼし得る妖邪な武器が一番恐ろしく、一番いい武器です。愛もそこで結ばれるのです。ですからそこは愛の王宮です。真の愛の発源地です。真の愛の王宮がそれであることを今まで知りませんでした。生命がそこで結合するのです。男性の生命と女性の生命がそこで結合するのです。ですからそこは生命の本宮です。血統もそこから始まるでしょう。億千万の歴史に接し導くことのできる、未来にまで接続させることのできる血統が連結されるのです。それでそこは血統の王宮です。このように私は三大王宮をもっているので、驚くべき私自身の価値を褒めたたえます。ですから、それに神様のように侍らなければなりません。神様が怖いでしょう。これを知らなければなりません。三大王宮を蹂躙する者は、統一の世界、生命の世界、愛の世界から追放されるのです。
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 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれました。神様は知恵の大王であられるので、男女の愛の器官を取り替えたのです。男性のものだと言っても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を残しておいて自分勝手に行動した人は、愛を違反したことに対する審判を受けなければなりません。法の中で最も恐ろしい法の罰を受けることを知るならば、自分の妻をおいて、あえておかしいことを考えることができますか。反対に婦人たちは夫をおいて、他のことを考えることができますか。
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 神様は公平な方です。それで互いに「あなたのもの」、「私のもの」と言ってけんかをするといけないので、男性のものは女性に植え付けて、女性のものは男性に植え付けておいたのです。それで愛は陰険なようで、本当に凄まじいものです。
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 愛は調和です。それで愛には汚いものがありません。私たちの生殖器を見ても、生殖器は最も貴いものなのに、人体の一番汚い箇所の近くにあります。なぜそうでしょうか。和合するのが天地の調和の道理なので、最も貴いものをそこに配置したのが男女の生殖器です。それで一番良くない、汚い部分に良く装置したのです。
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 男女の生殖器は、どこにありますか。それは一番安全地域、一番の安全地であると同時に一番汚いところです。それを見れば神様は本当に知恵の王様です。人間の世の中に「愛はそのような汚いものも支配する」ということを教えてくれるのです。肛門の近い箇所にあります。小便が出る道と、また違う道が同じです。
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 人間にとって愛のアンテナは生殖器です。それで男性は凸で、女性は凹です。この二つが合わされば、丸くなりながらなくなります。それは、陰電気と陽電気が合わさって、雷が落ちればゼロに帰るのと同じです。初めに戻ります。
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 もし男性が男性の生殖器を自分のものとしてもったならば、絶対にあげようとしないし、女性も女性のものをあげようとしないでしょう。そうすると男性と女性はただそのまま対立して千年も万年も耐えるしかないのですが、愛を中心として互いに交換したのでお互いが必要となり、授け受けて回るようになるのです。授け受ける作用を必ず交換してこそ、価値が現れるようになっているのです。
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 堕落した世界において愛は最も危険なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ天下が崩れ、ひっくり返るのは堕落したからです。人間は愛がなぜ偽りとなり醜くなったのか知りませんでしたが、その愛を守り保護しようとしたのは真の愛が現れてくれることを願う本能のためでした。
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 愛する時、なぜ男性が上に上がらなければならないのでしょうか。そうしてこそ縦になるからです。種はどこから来るのでしょうか。天から来ます。何を通じて来るのでしょうか。愛を通じて来ます。それ一つが全部を証明します。そして、種というのは父から縦的な愛の凸を通じて来ます。凸が凹と合えば天地が振動します。
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 愛するようになれば幸福になり、愛に酔って感じる感情はこのようなものだと言って、早く経験してみようとして走れば大変なことになるのです。愛の門は時が来てこそ開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主人になったという時、堂々と開かなければなりません。
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 男性と女性はなぜ愛を好むのでしょうか。人間の体は大体百兆個にもなる細胞で構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するのかといえば、愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かすことのできる時が、正に男女が愛し合う時なのです。
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 男女が互いに愛し合う時、「ああ、電気が通じる」と言います。その時、生じる電気は天使長から始まるもので、単細胞的なものです。本然の世界で生じる愛の電気は宇宙的な愛の稲妻で、強度において数千倍を越えるだけでなく、人体の各器官の細胞が動く音も雷の音と同じです。本然の世界において真の愛で愛し合う男女は、愛の稲妻が出会う接触点に向かって総力を結集しなければ神様と出会えない、というのが愛の原理観です。
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 誰が神様の愛の対象になりますか。男性一人ででしょうか、女性一人だけで対象になるでしょうか。神様はどのような対象を願われるでしょうか。お金の対象ですか。知識の対象ですか。権力の対象ですか。違います。神様は愛の対象を願われるので、男性と女性が性の器官を通じて一つになるその場を中心として顕現され、人間と出会われるのです。
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 自分の体を全部自分のものだと言いますが、愛だけは自分のものではありません。愛は全部相対のものです。旧約聖書を見れば聖所や至聖所という言葉が出てきます。聖所は人を象徴するものであり、至聖所は愛の家を象徴するものです。人はそれぞれ聖所をもっており、至聖所をもっています。言い換えれば、聖所は神様に侍ることのできる家です。至聖所は神様だけが特権的愛の主管圏をもつことができるので、神様との関係を結ぶことのできるところです。至聖所を守る祭司長は絶対に二人ではありません。一人です。昔エバの前にその至聖所の鍵をもっていたのはアダムで、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバだったことを知らなければなりません。
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 男性と女性の口は聖所だということを知らなければなりません。口は蘇生で、女性にとっては胸が長成で、その次に陰部が完成です。それらが私たちの体の聖所という箇所です。その聖所を開くことのできる鍵は誰でももっているのではなく、天道によって相続しなければ、鍵をもつことができないことになっています。
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 宗教は受難の道を行かなければなりません。体と闘わなければなりません。一番の怨讐とは何かと言えば、悪魔の血が激動する色です。淫乱から解放しなければなりません。その次に愛から解放しなければなりません。サタンの血でつづられた血統から逃れるためには淫乱から解放しなければなりません。そうして、生命に接ぎ木しようとするには神様と関係を結ばなければなりません。そうしてこそ愛が始まります。愛の伝統的中心は神様です。生命の祖先も神様です。
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 この宇宙で一番恐ろしいものとは男女問題です。
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 愛するようになれば血が沸くでしょう。ぞくぞく震えるでしょう。それはなぜ震えるか知っていますか。混じりなさいというのです。東西南北が混じり上下が混じって一つになり、愛の火花が散る方向にすべての焦点が行列の方向性を備え、男性のために完全投入、女性のために完全投入、私の生命、財産をすべて尽くして投入、また投入しようと飛びつくのです。それが永遠に終わらない愛の道なので永遠に好むのです。
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 神様が人間に贈り物をするのに、悪い贈り物をしたでしょうか。いいものの中でも一番いい贈り物をくれるようになっています。それがどこにあるものでも、深いところにあるもの、自分の奥の奥の深いところから取って、愛する人に与えたいのです。それで愛がいいのです。
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 真の自由は責任性を前提とします。もし責任性なしに個々人の愛の自由だけを主張して実践するならば、どれほど大きい混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつ時、可能となるのです。
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 人間は、愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己主管によって自由の主体となる責任性をもたなければなりません。人間において愛の責任性は、法や耳目によって守られるものではなく、神様との生命的、縦的関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるものです。
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 生殖器を目の見えない人のように方向を失ったまま使用すれば、地獄に行き、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これはきれいな結論です。
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 エデンの園でアダムとエバが、青少年期に木陰で淫乱によって堕落しフリーセックスを植えたので、収穫期である終わりの日には必ず、世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。


  2.愛の法は習って知るものではない

 皆さんは家庭で愛する法を習いました。どこのお父さんが子供に、お父さんから愛する法を習いなさいと言いますか。またお母さんも子供に、お母さんから愛する法を習いなさいと言いますか。また、父母が子供に対する愛し方を誰かに習いましたか。新郎新婦はこのように愛さなければならないと誰かから習いましたか。習ったことがありませんが、よく知っています。それは本当に神秘的なことです。
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 父母が子供を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。ここにいるおばさんたち、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。そこに何の学士、博士がいますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないほど完全なものなのです。完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に行くというのです。
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 愛というものは言葉ではよく理解できません。父母の愛をいくら説明しても、父母がいない人には分かりません。夫婦の愛をいくら説明しても一人で暮らしている人には理解できません。結局、自分が感じることができる主体や対象圏から、行動の一致点を備えることができる所から、彼が好むことができるものを私が好むことができる所から、また彼の一切が私の一切に連結され得るその場から、相対の愛を感じるのです。
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 赤ちゃんが生まれるとすぐに母親の乳を探し、動物たちが生まれながらにして母親の乳を求めるのは、教育と訓練を受けなくても、自然に行為に移されるのです。これは正に愛の力が作用しているからです。
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 真実な愛は天理の法度なので、教育される前に、自然に成されるのです。父母の愛が、生まれた子供の顔が醜いかかわいいかによって、大きくなったり小さくなったりして現れないし、父母が立派か立派でないかによって、父母に対する尊敬と愛が変わる子供はいません。顔が醜いので私のお母さんでないと言う子供がいますか。お前は私が生むには生んだが、醜いので私の子ではないと言う父母はいないでしょう。もしそのような父母や子供がいれば、彼らを人間だと言うことはできないでしょう。
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 真の愛は経験を通じて得られ、体恤を通じて知るようになっています。真の愛は言葉や文字、あるいは一般教育を通じて体得できるものではありません。生活を通じてのみ完全に体得するものです。赤ちゃんとして造られたアダムとエバは成長しながら真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を段階的生活を通じて経験し、体験することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得する時、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
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 結婚して、年老いて死ぬまで子供をもつことができなければ、子供に対する愛は千年、万年たっても知ることができません。子女に対する愛を千年、万年勉強しても知ることができませんが、息子、娘が生まれるや否や、瞬時に知るようになります。


 六 子女の愛

  1.子女は父母の愛の結集体

 愛する父母の前に、子供というものは極めて世界的な代表です。
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 子供がいなければ、なぜ孤独な人だというのでしょうか。子供は、愛を中心として全宇宙を造られた主体者であられる神様の心情的事情を体恤するためのものです。子供は、私が動機となって生まれたけれども、その子供を生んで愛することによって「ああ、神様が人間をこのように愛したのだなあ」ということが分かるようにするのです。
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 父母が子供のために犠牲になるのは、父母として子供を通して神様に帰っていきたいという願いがあるがゆえです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神様の愛を感じて悟るようになるためです。これは本然の発露です。子供をもったことのない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神様に対する愛までも悟ることができないので、その人がもっている愛はいつも不完全なものなのです。
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 天国に残ることのできる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものを拭いてくれた父母の心で困難を耐えて、父母に仕えてこそ孝子になることができます。
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 愛をもった父母にむち打たれ、しかられても、その子供はうれしいのです。
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 父母が、子供のために生命までも与えてくれました。ですから、子供も父母のために生命まで与えなければなりません。生命が愛から生まれたので、本質的な愛の前に生命線を犠牲にしていくのが理論的な結論です。矛盾的な理論ではないというのです。
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 子供が父母に借りをつくるまいと努力をする時、父母も生きがいを感じます。
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 愛を中心としてむちを振るったとしても、打ったのちに痛哭する父母に対して子供が反抗したり、悪口を言ったりできますか。真の愛は調和の両面的価値をもっているのです。
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 立派な母親は子供を懐に抱き、世界を動かすことのできる善なる存在になるために、どのような困難な立場でも耐えることができなければならない、と子供に教えるのです。母親は、善は滅びないという天理に通じているからです。
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 皆さんが子供を産んでお乳をあげ、かわいいと言いますが、なぜかわいいと言うのでしょうか。それは天と地に代わって、神様の子供を抱いているがゆえにかわいいと言わなければなりません。神様の愛に従った天倫の運勢は世界を越え、天地を抱擁するために動いています。子供を抱いてお乳を与える母親は、天と地に代わって神様の愛する息子、娘を抱いているという徹底した心情で、息子、娘を抱かなければなりません。
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 子供の愛と幸福の基地は、父母の愛です。子供は真の愛によって和合一体となった父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。子供に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく霊性を完全なものにしてあげる、真の愛の生命的な要素を提供することです。
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 父親がいくら子供を愛するといっても、母親の愛にはかないません。母親は、精誠を捧げたとすれば誰よりも精誠を捧げたし、苦労をしたとすれば誰よりも苦労したし、愛したとすれば誰よりも愛したと見るしかありません。
 そのような意味でも、女性が情緒的な分野において高く貴い位置を所有しているのであって、父親がいくら子供を愛するといっても母親ほどに子供に対する愛は分かりません。ですから天国に行くならば、女性が心情の天国に行くでしょう。そのような観点から見れば、女性として生まれたことは悪くありません。また神様は公平だということも分かります。


  2.真なる子女の道理は「孝」

 父母を知ったなら父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければならず、また父母を中心としてその国の忠臣にならなければなりません。父母が国を抱え、世界を抱えてきたからです。忠臣になる前に、孝子にならなければならず、孝子になる前に、真なる兄弟を愛せる食口(家族)にならなければなりません。食口とは、兄弟間で褒めたたえ合える圏を立てた者の名前です。そうではありませんか。
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 孝子が貴いのは、変わりのない愛によって幼い時も、成長する時も、老年時代も父母を敬うからです。そのような人を、孝子と言うのです。
 孝子になろうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。常に、父母の心の方向と一致しなければなりません。孝行者の道を行く人は、父母と全く違った行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならないのであり、父母が西に行けば西に行かなければならないのです。そこに異議があってはなりません。十回行って、十回帰れと言われても、また振り返ってついていかなければならないのです。
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 家庭で「孝行をしなさい」と言うのですが、これは父母を中心として、父母が行かなければならない愛の道の同参者になりなさいということです。父母の真の愛の道には、天倫がついていきます。父母のみ行くのではなくて、見えない縦的な天倫がここに因縁づけられて、共に行くのです。ですから父母と一つになりなさいというのは、縦的な歴史と横的な歴史の心情圏をつなげていきなさいということです。これが父母の前に孝行だというのです。
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 家庭を中心として見る時、父母の前に孝行をすることが息子、娘としての責任ですが、なぜ孝行しなければならないのでしょうか。孝行する道は、国に対する忠臣の道と連結されるのです。竹のように連結されるというのです。忠臣、つまり国に忠誠を誓う人はどのようにしなければならないかというと、世界に対して聖人の道を行かなければならないのです。それが一人の子供にならなければなりません。このように見る時に、孝行はできなくても、国の忠臣になるなら、その父母が「ああ、お前は私に孝行をしなかった」と言うことはできないのです。「本当によくやった」と言うのです。父母を捨てて家を出て親不孝をしたとしても、国の忠臣になる時は、母親や父親が死んで霊界に行っても、「やあ、本当にお前はよくやった」と褒めるというのです。
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 孝子とは何でしょうか。孝子は父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していって、責任を果たすことによって父母に喜びを捧げる人です。父母が十の仕事をするのに子供は十五ほど努力をしたならば、父母は五に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げることができるかを考えながら努力する人が孝子なのです。
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 真の父母とは、どのような父母でしょうか。子供を永遠無窮に愛することに切りのない父母です。
それでは真の子女とは、どのような子女でしょうか。真の子女は、真の父母の愛の前に永遠無窮に父母を愛し、また愛があふれることのできる愛の心をもった子女です。そのような立場が真の孝子の立場です。
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 神様が子女に願うこととは何でしょうか。お金をたくさんもうけた百万長者になることでしょうか。国の最高権力を手中にする大統領になることでしょうか。神様が息子、娘であるアダム・エバに願われたのは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。それでは皆さんは、神様が願われるように家庭では孝子になろうという気持ち、国では忠臣になろうという気持ち、世界では聖人になろうという気持ち、そして天地の前に聖子になろうという気持ちをもったことがありますか。歴史的に見る時、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になれと教えてきました。
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 愛の伝統の中で育った子女たちが、もし父母が離婚しようとしているなら無関心でいられるでしょうか。絶対にそうではありません。子供たちはすべて「私はあなたの子女です。私はあなたの結合体です。私のためにはどのような妥協もしなければならず、私の立派な父母とならなければなりません。私は父母が必要です」と主張するでしょう。私たちは若者に「父母とはその子女のゆえに離婚する権利がない者だ」と、父母の責任を悟らせなければなりません。




























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