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真の愛
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 七 兄弟の愛

  1.兄弟愛は万民同胞愛の模型

 兄弟をなぜ与えられるのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかと言うと、男性は妹や姉を見ながら「お母さんはこんなふうに育ったのだなあ!」ということが分かるのです。そこに母親が育っていくのを見るのです。また女性は、兄や弟が育っていくのを見て、父親がそのように育ち生活してきたのだという内容を見るのです。それが兄弟愛だということを知らなければなりません。そのように育って一つになるというのです。ですから兄弟を愛さなければならないでしょうか、愛してはいけないでしょうか。
 兄の立場で妹を愛し、妹の立場で兄を愛するのですが、ただ愛するのではないのです。必ず父母を介在させて、幼い時父母の懐で育ったことを重要視しながら愛さなければなりません。そうしてこそ、大きくなりながら共に上がっていくのです。小学校、中学校をずっとそのようにして上がっていくのです。
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 この世をいくら行ったり来たりしてみても、家庭にある兄弟の愛、血を分けて生まれた兄弟愛のようなものはないのです。社会に出ても自分の兄弟よりも近い人がいるでしょうか。近くなったとしても別れるのです。
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 なぜ兄弟が必要でしょうか。縦横を中心として連結されるのが兄弟です。アダムとエバを東西とすると、神様とアダム、エバは縦的な関係です。これは平面にしかなりません。ですから横的な基準が必要で、前後が必要です。家庭愛を超越できるのは兄弟しかありません。万民同胞愛という言葉と同じです。それがあって球形が成されるというのです。
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 同胞愛、兄弟愛をもって世界を抱いてこそすべてが理想的な球形になるのですが、ぶつかっても衝撃がないのです。そうしてこそ初めて、神様が考えたすべての実体がここに来て結実されるのです。神様の子女の理想がここに来て結実されて合わさることによって、子女の愛の結実体になるのです。その次に、兄弟の愛の結実体、夫婦の愛の結実体、父母の愛の結実体になるのです。無形の神様が創造当時に構想した実体をすべて成したなら、神様と上下・前後・左右が一致できるのです。
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 兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するのですが、それが肉になるのです。平べったいものだったのですが、肉が付いたのです。そこから円形が生まれるのです。ですから円形をつくるのが兄弟であり、国民なのです。兄弟が拡大されて国民になるのです。
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 兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。たくさんの兄弟が育つ家庭は、世界の人類を抱き、理想的な天国、地上天国と天上天国をつくるモデルのようなものです。ですから兄弟は、ここで拡張されるのです。
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 兄弟が多ければ、御飯を食べるにしても、一つの器で二人で分けて食べなければならないのです。御飯が一つしかないと言ってけんかをするのではないのです。兄弟が多くて生活が大変でも「私がひもじい思いをしても分けてあげなければ。弟にあげなければ……」このような愛の心をもてば最高だというのです。


 八 愛国、愛世、人類愛

  1.孝子、忠臣、聖人、聖子の道に

 神様と一つになる時は千態万象に回るようになります。そうして兄弟間でも、父母が子供を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければなりません。そのように愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛となり、さらには民族愛となります。このように行くと世界愛になります。
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 人類の共同的な目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるでしょう。同じように国民が祖国愛をもっているならば、愛国思想を中心として一つになるでしょう。愛国の心が強ければ強いほど、国家を成すために愛国思想を中心として一つになるはずです。愛国運動は一人ではできないという立場を知ったならば、横的な因縁を連結させなければなりません。これが同志糾合というものです。
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 真の愛が定着できる基地が家庭です。ゆえに、本来の家庭は宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越え、国家を愛する愛国の道を行くべきであり、さらに、民族と国家を越え、世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子あるいは烈女と言い、国を愛する人を愛国者と言うならば、世界を愛する人を何と言いますか。その人はすなわち、聖人であると言うのです。
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 愛は、生活と歴史から取り除くことのできない、実在の内容を動かしている実体です。そして、社会制度だとかすべてのものを動かしている内的な力の母体です。ですから教育する時も、国家愛を教えます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、全部愛が入っています。これは何を意味するのでしょうか。人類の生活圏だとか歴史過程を経ながら愛をたどらずには、歴史を連結させることはできないということを言っているのです。
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 皆さんはどうしなければならないのでしょうか。忠臣にならなければなりません。忠臣とは何でしょうか。国の中心者のために精誠を捧げるのが忠臣でしょうか。違います。国民のためにも、国の中心者のためにするのと同じようにできる人が忠臣であることを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母だけのために精誠を尽くす人ではありません。父母のためにするように、兄弟のためにも精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。
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 その次に聖人とは何でしょうか。聖人は世界人類のために今まで犠牲になった人です。聖子とは何でしょうか。神様を中心として世界に行こうとし、神様のためにしたように世界の人々のために尽くすことのできる人だというのです。歴史的な聖人は、今まで世界の人のために死んだ人です。神様の息子である聖子とは何でしょうか。神様にも忠誠を尽くすけれども、神様がそうであるように万民のために生きる人です。
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 ですから孝子、忠臣、聖人です。では、聖人の次は何でしょうか。聖人であっても、そのまま聖子にはなれないのです。神様の息子になれないというのです。聖子にならなければなりません。いくら国の中心者を愛して国民を愛したとしても、聖子になるためには天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法に統治され、そこに拍子を合わせることのできる一つの法を知らなければなりません。
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 本来、孝子は心が変わらずに父母にまっすぐに行く人であり、忠臣は心が王様にまっすぐに行く人です。同じように、聖人は心が変わらずに神様にまっすぐに行く人です。別の言葉で言えば、死ぬ立場になっても、その心が変わらずまっすぐに行ってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人になることができます。
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 家庭で父母のために暮らし愛する人は孝子であり、国のために暮らし愛する人は愛国者であり、世界のために暮らし愛する人は聖人です。皆さんは世界と宇宙を愛する聖子にならなければなりません。そうするためには、神様のような愛をもたなければなりません。孝子は家が滅びても生きています。そして孝子妃がいて、忠臣の妃がいて、聖人の妃がいるのです。聖子は聖人とは違います。聖子は人間世界の国の法だけでなく、天国の王宮法まで守ることを知っている人です。したがって孝子の道、忠臣の道、聖人の道をすべて直通できるのが、聖子の道です。それは太くて縁が広いけれども、その核の流れは垂直です。
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 人間はどのように生きるのでしょうか。私たちの人生航路の骨子を選び出すと、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の根本があるはずです。共にいたくて、共に住みたい心、上下にかかわらず共にいたくて、前後、左右、昼夜を超越して、生涯を越えて共に生きたい心に徹した人生ではないでしょうか。このような結論が出てくるというのです。
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 人間がどんなに立派だとしても、愛がなければ使いようがありません。また幸福というものも何を中心として連結されるのかというと、それは愛です。兄弟間、友人間、同胞間、人類間、天地間など、このすべてのものの間を連結させることのできる媒介体が、すなわち愛だというのです。愛は麹のようなものです。


 九 自然愛

  1.神様が万物世界を造られた意義

 神様は、なぜ万物を造られたのでしょうか。人間に愛する対象を、対象者をもたせるためです。人間に愛する対象圏をつくるためです。人が食べて暮らして、その本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の祖国に入って生きるためです。それを知らなければなりません。
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 今日、キリスト教の信者たちは、「ああ、神様は全知全能なので、何、言葉一つで、『このような天地になれ』と言ってこのようになった」と考えています。しかし、そのようにはなっていないのです。神様はすべてのものを投入したのです。もっている精力をすべて投入したのです。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてつくったのです。すべての物を。ゆえに、そのような観念をもって私たちが万物を眺めなければならないのです。
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 神様が被造世界を造られるとき、そこには喜びがありました。造っては、それを見て良しとされました。喜びがあったというのです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたとき感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在されていたので、創造された万物を見て、神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見ながらも、神様を褒めたたえることができる心情的な因縁を立体的に備えた人たちが、暮らす世界です。天が御覧になる人格の価値は、そこにあります。それで、昔、聖フランシスのような人が、動物に向かって、あるいは鳥に向かって説教したという話もうそではありません。夢のような話です。けれども夢ではなく事実です。
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 被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を見つけ出していけるように、教材として造っておかれたものです。それで相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係として作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係として作用するのです。作用しなくては存続できないのです。運動しなくては、永続、存続することができません。それゆえ、宇宙は人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界なのです。
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 宇宙は神秘的な世界です。いたずらや遊びの材料として造られたのではなく、精誠を込めて、愛する人間のために造られたとすれば、なるほど、この世界はいかに美しいことでしょうか。ですから、私たちがこの宇宙を眺めるとき、天の父が私のために造られたという、この上ない有り難い心をもたなければなりません。そのような心をもって、丘を散策し、草木や花を眺め、鳥を眺め、水が流れるのを見て、風が吹く、このようなすべてのものを見れば、本当に感嘆せざるを得ません。
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 宇宙の完成は外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私も良くなければなりません。良いところにおいては、心もうれしく体もうれしくなければなりません。私の細胞を見れば、細胞の全部がうれしくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞は違うでしょう。違うのですが、その細胞がすべて喜んで、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心のどこ一つも残さずに全体が喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく一つにつながって、連体的な内容を中心として共鳴的な愛の喜びを感じることができる、そのような世界であってこそ宇宙完成になるのです。
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 因縁というものは極めて小さい所から結ばれるのです。皆さんの個体も百兆ほどにもなる細胞で因縁が結ばれている生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどんなもの一つとっても、神様の心情の枠外で生じたものがありません。このようなことを感じる詩人は、偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいるとすれば、その人は宇宙的な詩人であるはずです。
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 私たちの周囲で私たちも知らずに繰り広げられている天下万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無窮無尽の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であるということは否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ゆえに、存在するすべてのものは神様の愛の手を通って出てきたものでり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を徹頭徹尾知らなければなりません。
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 道人とはどのような人ですか。草一株をつかんでも「神様!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の道人であるはずです。そのようにその価値をうたうことができる人が最高の芸術家であるといえるでしょう。色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。
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 小さい子供たちをよく見るとですね……。子供たちはみんな子犬とか、何かの虫とかいった、飛ぶ動物、野生の動物、このような動くものが好きです。それはどうしてそうなのですか。本来、人間はそのようになっているのです。それはどういうことでしょうか。人間は自然世界やこの地球の動きを見て、趣を感じるようになるのです。もちろん相対基準が異なることがあり得ますが、それを鑑賞することにおいては、人間は本当におもしろさを感じ、興味を感じるのです。それゆえ、自分自体の愛の属性をすべて教わるのです。虫たちが生き、昆虫たちが生き、あるいは動物たちが生きるのを見れば、すべて対になっているのが分かります。このように見る時、自然は何かと言えば、人間一つを愛の対象として、相対理想を教育させるために展開させておいた教材、博物館であるというのです。
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 神様は宇宙を、被造世界のすべてのものを、愛する息子、娘が愛の理想を探し出すことができるような教材として造っておかれました。それですべてが相対構造になっています。鉱物も主体と対象の関係で作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続できません。運動をしなくては永続、存続できません。ですから作用をしなくてはなりません。


  2.自然は愛の理想を教えてくれる教材

 人間は大きくなっていきながら、自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなっているのか!」と学ぶのです。月が照り星が光る秋の夜、耳を澄ませてみると、虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏に聞こえます。何のために虫たちがそのように鳴くのでしょうか。それは相対を探し求め、理想を歌っているのです。愛をささやいているのです。鳥や、他のすべての動物たちも、悲しい声、うれしい声を何で表示するかといえば、愛という共通分母に従って鳴き声を出すのです。軸から遠い距離にありますが、その軸を中心として平衡を取りながら回っています。すべての存在がそのようになっています。
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 鳥たちの歌には三つの種類があります。まず第一におなかがすくときに合図する歌であり、次は、互いに愛する相対のために歌う歌であり、その次は、危険なときに鳴く歌です。それはすべて異なっているのです。私たちは、なに、普通の人たちには分かりませんが、自分たちの世界ではすべて分かっているです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活が何を中心として成っているのでしょうか。おなかがすくことなどは、一度食べれば終わるものなのです。そうかといって、毎日のように、何か危険な立場にあるのでもありません。大部分の歌は、何を中心として歌うのかといえば、相対と授け受けする関係で、歌が行ったり来たりするというのです。
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 人間は主体と対象、すなわち相対的なペアに造られていて、また人間のために存在するすべての万物世界も、愛の原理のもとに調和をなし、また人間の愛により生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。
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 すべての鳥や動物は対になっています。お互いが愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が、愛を中心として和動を繰り広げます。渡り鳥も同じです。南方にいた鳥が北方に飛んでいき、北方にいた鳥が南方に飛んでいき、地域を行き来しながら愛を成します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様が造られた博物館の教材を通して学びます。
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 人間と神様が喜び、愛せば、天下のすべての万物たちはそこに拍子を合わせて和動します。神様が愛し、喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜び、拍手を送り、称賛を送ります。歌える鳥は歌を歌って褒めたたえ、美しい花は香りを放って褒めたたえます。最高の愛の主人公たちが楽しむことができる香りの雰囲気を拡張させるためのものが、この被造世界です。見かけがぞっとするようなヒキガエルも愛を交わすときには「うっうっうっ」とします。どんなに素晴らしいことでしょうか。足をたたいて、後ろ足を上げたり下げたりしながら愛し合っているその姿がどんなにすてきですか。それは最高の芸術です。
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 春になって鳥が歌を歌えば、その鳥の歌を聞くや否や、自分の妻を思い、自分の子供を思い、自分の国を思い、世界を思い、神様まで思わなければなりません。そうすれば、すべて完了です。鳥は鳥同士でのみ考えますが、人間は関係性をもっています。動物世界、植物世界、天上世界の中間媒介体としての関係性をもったのは人間だけの特権です。すべてを連結させることができます。これは人間だけの特権です。
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 アダムとエバは成熟していくに従って、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ!」と知るようになります。神様は万物世界を、人間の愛の理想を成熟させることができる教材として広げておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って、「あは、昔は妹のように、お兄さんのように一緒に過ごしていたのに、よくよく見れば……」このように感情が変化します。「あ、こうなんだ!」と学んでいきます。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他の所には行けない」といって、平衡線を直行しながら出くわすようになります。
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 愛は神経と同じです。私たちが髪の毛を一本引っ張れば、体全体が引き上げられるのと同じように、愛のみ引っ張れば、宇宙が引き上げられ、愛のみ動けば、宇宙がすべて和するようになります。そのため、愛があれば踊りも踊るようになります。踊りはなぜ生まれましたか。愛のために生まれました。また、歌も愛のために生まれ、笑いも愛のために生まれました。愛を取り除いてしまえば、すべてが固まってしまいます。
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 人は蜂よりは蝶を好みます。蝶は踊りを踊りながら飛ぶからです。すべて飛ぶものは、拍子に、調子に合わせて飛びます。早く飛ぶものも拍子に合わせて飛び、ゆっくり飛ぶものも拍子に合わせて飛びます。飛び方は様々ですが、いずれにしても全部拍子に合わせて飛びます。また、山で鹿が跳び回ったり、うさぎが遊ぶのも音楽的です。何かを食べるのも音楽的です。人も何かを食べる時、とても音楽的です。それはすべて音楽の象徴です。このように考えるとき、そのようなこの宇宙を永遠に私のために造り、私のために取り付けたとすれば、その方に対して私たちは有り難く思わなければなりません。見物人のように、隣村のことのように考えてはいけません。
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 山にも高い山があれば低い山もあります。それでは、私たちは山が高くもあり低くもあるのが好きですか、のっぺりしていて平坦なのが好きですか。高くもあり低くもあるのが好きです。それはなぜでしょうか。その形が踊りを踊ろうとするある型を具備しているからです。あらゆる形の曲線を描きながら、上がっていったり、下がっていったりしながら、様々な形態を表現しながら形づくられているからこそ良いのです。そうなれば、それが正に踊りです。自然の中には素晴らしい踊りがあり、素晴らしい音楽があります。素晴らしい芸術があります。それらのものが自然の中には実にたくさんあります。
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 一番最初に神様の子女として生まれたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼かったところから成長していくに従って、だんだん大きくなっていくのです。そうして、知能も発達していくので、神様がなぜ被造世界を造られたのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けてくるのです。被造世界で動くすべてのことは、私たちの人間始祖、本来の先祖になるべきアダムとエバが生活できるように、すべてのことを教えてくれる教材でした。完成されたアダムエバではないので、理想生活をしていく際の標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。
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 朝、目を覚まして自然を眺めれば、その自然がおぼろげに私の本性と因縁を結び、新たな理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間社会は眺めれば眺めるほど、絶望と悲しみの感情を高めてくれるという事実をよく知っているでしょう。本来、堕落しない本然の人間たちが住む世の中といえば、人間の価値は、そのように眺める者をして、悲しみを感じさせる程度のものではないのです。草一株や、花一輪、一本の木と同じ程度の価値で造られた人間ではないのです。被造物のその何ものを与えても替えられない高貴な人間であり、その何ものにも比べられない価値の姿で、天上に代わって現れるべき人間でした。
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 神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王様、あるいは有名な人がもっている見事だという品物に比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。ある有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という心をもたなければなりません。そのようにできなければ、私たちは、自然世界の前に、自分でも知らずに罪を犯しているのです。一つの生命体を見るとき、「人間が造ったある物に比べられるだろうか。どんなに素晴らしい人であっても神様より素晴らしいだろうか」といって、神様が心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、この人は間違いなく天の息子、娘であるはずです。このような人は祈祷が必要ありません。神様と共に暮らす人です。天は人間をそのような位置まで駆り立てるのです。
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 自然はどんなにつまらないものでも、そのどんなものとも比べられません。道端に価値なく立っている一本の木も、有名な画家が描いたどんな絵画とも比較ができません。どんなに名のある画家が最高の傑作品として花を描いたとしても、描かれたその絵画からはいくら凝視しても花は咲きません。香りもしません。また、種も結べません。しかし、価値なく道端に立っている木からは花が咲き、実を結び、種を残します。そして、その種を植えれば、その木よりももっと良い木がいくらでも出てくるのです。ゆえに、その有名な画家が描いた絵画とも比較できません。
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 人間は自分が愛する人のものは何でも好み、慈しみます。そうするくせに、一番愛さなければならない神様が造られた万物を慈しむことを知りません。このような人たちが神様の息子、娘になれますか。嘆息している万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草にも六千年前、それらを造られた時の神様の心情と、創造に差し伸べられた手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。そのため、道を歩いていて、一株の草を見ても涙を流すことができなければなりません。一本の木をつかんでも、泣くことができなければなりません。「主人を失ってしまってどんなに寂しかったことか」と言いながら。ここで話をしている文鮮明先生はたくさん泣いたのです。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見て泣いたのです。なぜ、そうでなければならないのか、今、み言を聞いたから理解できるはずです。
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 神様が造られた価値のある万物が、神様と共に永遠なる因縁を結んだ貴い万物が、今日、ある王宮で、なに、国宝だとか宝物だとか言って、貴く思われている品物ほどの取り扱いも受けられないやるせなさを私は分かってあげなければなりません。「私だけは分かってあげなければならない」と言いながら生きてきました。「この地上に生きている世界人類がみな分かってくれなくても、私は分かってあげなければならない」という心を皆さん方がもつならば、この民族が将来、世界人類を支配できる新しい民族になるはずです。これは観念でなく事実です。どこの誰が万物をおいて、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物より、世の中で一番貴い宝石だというダイヤモンドより、貴く思って手放さないようにしますか。そのような人がどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に理解してあげ、それをつかんで涙を流す人を見て「良し」と言われるのです。
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 自然とは何でしょうか。神様が私のために、慈しむ愛をもった息子、娘が生まれるとき、慈しむことができる万物として、贈り物として下さった展示品です。鳥の鳴き声一つが、成長していく草一株が、愛する息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。路傍にころがっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知っていて、その国の装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、造化無双な和合の園として、愛のためのそのような世界を見て、その相続を受けることができる夢の王子、希望の王子を造るために創造されたのです。そのため、万物を通して学ぶのです。雄と雌が「ちゅんちゅん」するとき、これをその主人になるおばさんも学べというのです。互いに慈しむ世界に向かって、自分の一生を命を懸けて生きている本然の被造世界のその美しさを、褒めたたえることができなければなりません。そのようになれば、その家の垣根に鳥も飛んできて暮らそうともするのです。雛を産もうとするのです。何の話か分かりますか。
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 博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。道端で踏まれるたんぽぽ一株が博物館にある新羅時代の金環と比べられますか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって「お前を、本然の神様が慈しむことができる王の位置で、愛を受けたその位置で、愛することができない私自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言うことができる心をもって慈しむ、そのような王がいるとする場合、その草もその王に従っていき、永遠不変、共にいたがるというのです。そのように生きなければならない人間なのです。
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 自然を愛し、人を愛するすべを知らなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的な存在であり、人間は実体的存在であるために、万物と人間を愛するすべを知っている人は、神様を愛するようになるのです。
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 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種をすべて愛さなければなりません。「ああ、私は白人たちだけが好きだ」と、神様がそのように言いますか。そうであれば全部白い服のみ着なければなりません。白人たちはみな白い服のみ着なければなりません。色の付いた服はすべて捨てなければならないのです。黒い服をどうして着ますか。色の付いた服をどうして着ますか。矛盾しているのです。
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 神様が造られたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。すべて、虫けらまで愛し、人は言うまでもなく、すべての天にあるものまで、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛を受けることができる皆さんにならなければなりません。朝、鳥がちゅんちゅんちゅんと鳴くときは、「やい、このすずめ、私が朝寝しようとするのに何でちゅんちゅん鳴くのか」と言わないで、「ああ、お前、有り難い、ああ、私を起こしに来たのだろ、大切なお客様が私に会いに来るのをお前が教えてくれるのか」と、このように考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。




























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