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真の神様
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 四 神様は父であられる

  1.神様と人間は父子の関係

 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入ってこの宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だという答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。
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 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、父と息子、娘の関係、父子の関係だと言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係を言っているのです。
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 神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、一人でいれば刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわきいずるものです。一人では喜びの刺激を得ることができません。神様の相対的位置に立って初めて最高の愛を得ることができるのです。そのようになれば、神様の性相がそのまま実体化されます。神様が悲しくなれば人間も悲しくならざるを得ません。ですから人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても、ここに到達するようになるのです。
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 神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。父と息子が出会うことができる最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる最初の因縁が、父子の関係です。
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 神様は私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたがるのでしょうか。神様の愛はこれくらいならいいだろうという限界を引いて与える、そんな愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様はすべて与えても、「お前によって、お前の中で生きたい」と言います。そのようにさせる本質とは何でしょうか。愛です。神様も愛の中に入って僕になってもいいというのです。父は愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんこをしても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。
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 神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、お前たちはなぜくれないのか」と、このように言えますか。絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしがっています。自己を主張することができない神様です。完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたがる神様です。そのような神様なので、考えるほどいいのです。「私はすべて与えたので、これからはお前たちがもってこい」と言う神様ならば必要ないのです。
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 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造した人間なので、神様を引っ張れば引かれてこざるを得ないのです。
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 神様は愛のために創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が愛し合うのを見るのがもっといいのです。それゆえ、神様は存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。
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 子供は、お母さんとお父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。またお母さん、お父さんの理想の具現体です。子供はお母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母はその子を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対なのです。
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 神様と人間は、絶対的な相対として愛の関係を中心として生まれた存在です。その位置が、神様は父となり、私たちは息子、娘となる位置です。もしそれ以上の位置があるならば、人間の欲望はまたその位置を占有しようとするのです。人間の欲望は最高を追求するので、それ以上のものがあったとしたら私たち人間に与えなければならないのです。このような点から見るとき、当然神様は人類の父であり、人間は神様の息子、娘です。
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 神様が人間を造るとき、無価値に造ったのではないことを知ることができます。無価値に造ったのならば、神様は異常な神様です。神様は絶対的な方なので、何でもすべて知っています。それなのにそれを知らずに造ったならば、その神様は不完全な神様です。神様は絶対的な方なので、私たち人間を造るときも絶対的な相対として造りました。
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 天地を創造した神様はどんな方でしょうか。極めて善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですから神様は天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は自分が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せることのできる人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま与えたいのです。
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 神様が私たちの父ならば息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。
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 神様が絶対的な方であられるのなら、その絶対的な方がなぜ人間を造られたのかというのです。お金のために造ったのでもなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるただ一つの道のために人間を造られました。このような観点から見るとき、神様は父であり人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結されていたならば、人間と神様が愛によって一体になった関係に、何が作用しても絶対に離すことはできないのです。
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 神様は人間を創造するとき、完全に投入することによって、より価値があり理想的な完全な形で展開しました。神様はアダムとエバを造られて、彼らのために生きるというのです。神様のためにではありません。自分のために生きていたときから、相手のために生きるときに展開されました。理想的な存在は自分を中心としません。理想的な存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにあります。この原則が宇宙の根本です。
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 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方であったとしても、お一人ではうれしいはずがありません。「幸福」という名詞、あるいは「うれしい」という言葉は一人では成立しない言葉です。必ず、相対的な関係を備えた立場においてこそ「うれしい」、「幸福だ」という言葉を語ることができます。一人でいて「幸福だ」と言う人がいますか。どんなに全知全能な神様であっても、お一人でいては幸福ではありません。歌が上手な声楽家が、誰もいないところで歌を歌ったとしましょう。それで幸福ですか。そこには相対がいなければなりません。与えたり、受けたりすることができてこそ、うれしいのです。それゆえ、神様も喜ばれるためには、必ず対象がいなければなりません。
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 神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の一二〇パーセント、何百倍を投入して造ったのです。
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 神様の天地創造を考えるとき、既成教会の信者たちは「神様は全知全能なのでみ言で造られた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのように造ったのではありません。知性の限りを尽くし、自分の身を全部投入して息子、娘を創造しました。ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体中の全体を投入したので希望の対象とするのです。
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 神様は、創造の理想的出発点をどこに置いたのでしょうか。神様の前にすべて「ため」に生きよ、というのではありません。「お前、私の所に来てくっつけ」という吸収ではありません。投入です。「くっつけ」ではなく投入です。その言葉を振り返れば、「ために存在する原則」に理想的出発点を置いています。ですから神様は、人間のために投入しました。神様自身は人間のために存在します。
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 神様が「私は愛である」と言いましたが、それは何でしょうか。夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで「私には愛がある。すべてある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中に全部入っているということです。愛が一番好きな方は誰かと言えば、神様です。そんな愛をすべてもっている神様なので、その愛の味を占めれば死んでも離せないのです。
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 神様は全知全能で、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、その全部の価値よりも貴く立てて誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは必要ないというのです。愛以外は必要ないというのです。
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 創造理想完成はどこから始まるのでしょうか。創造理想完成は神様から始まるのではなく、人間から始まるのです。創造理想完成なので創造物から始まります。創造物の中心は人間です。ゆえに人間の完成がない限り、神様の完成はあり得ません。神人一体なのでそうなのです。
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 神に一致することができる、神のみ旨に一致することができる、神のみ旨を中心としては過程的み旨ではなく、完成的み旨の中心の核と一致することができるそれとは何でしょうか。それが神様の全知全能なのでしょうか。全能性をもってしても駄目なのです。全権でしょうか。違うというのです。それでは遍在する素性でしょうか。それも違います。それは何でなければならないのでしょうか。神様自身も生きて生活するのは、もちろん霊界があって時空の関係を超越したところで生きていくのです。生きていくには何を中心として生きていくのでしょうか。無限な力がある、遍在する、全権的権限がある、それではありません。神様も愛を中心として生きていく、このように見るのです。生きていくには始まりもそうで、過程もそうで、永遠にそうなのです。神様も真なる愛の対象をもつようになれば喜ぶからです。
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 神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え与えて、また分け与えても限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗んで、夜も昼も限りなく愛を取って分け与え分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能な神様なので、「そのようにしろ、してもいい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ!」と、神様がそのように言われるのです。「私が主体なので、客体に与えても残ってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えても余ってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。私がそうなのだ!」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」。それで「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結したらどうでしょうか」と言う時、「そうしたければしなさい」と言うのです。


  2.神様は一番近くにいらっしゃる方

 真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何なのでしょうか。神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だと言うのですが、それは何を意味しますか。みな同じ言葉です。真理が成立するには愛と生命がなくてはならないのです。ですから最も核心である生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどんな方でしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は簡単な方であられます。
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 神様は白い髭が生えているでしょう。それが似合うのです。さあ、神様が髭をそっと触るとき、息子が「僕は長い髭が好きだ」と言えばその髭は長くなり、「短い髭が好きだ」と言えば短い髭になるのです。そうなるはずです。全知全能な神様なので、神様の顔は男性に対するときは粗雑で乱暴に見え、男性格が好きなアダムには男性のように見え、エバのような女性には女性が喜ぶことのできる姿を見せるのです。
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 神様は天地創造の以前からいたでしょうか、いなかったでしょうか。それでは神様の年は何歳でしょうか。そう、七十しか知らない人は七十だと言ってもいいです。そのような人には神様は「ほほ、私は七十だ」と言うのです。五つしか知らない人が「神様何歳ですか」と言えば「ほほ、五つだ」と言うのです。それ以上知らないからです。数がどんなに多くても、その数で数えられるような神様ではありません。私たちの神様がそうだというのです。
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 神様も冗談が本当に好きです。ユーモアが好きです。ユーモアの大王は誰でしょうか。誰かと言うと、神様です。全知全能なのでユーモアも多いのです。笑うときもにこにこ笑い、おなかをよじりながら笑い、転げ回って笑わせることができる大王とは誰ですか。神様です。そんな大王が神様だというのです。
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 神様は外的に男性に似たとするならば、内的には女性に似たのです。神様は、強く、全知全能でもありますが、お釈迦様のほほえみに花を添えることができる慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性のような心もなければなりません。そうしてこそ両面がみな生きるのです。
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 神様が宇宙の大主宰であり全知全能であられて、もっていないものはないくらい能力が多い方ですが、どんなにそうだとしても愛の因縁をもって孝子の立場に立った息子が尋ねもしないで胸をかき分けるからと言って「おい! やあ! お前、いつ見たというのか」と言いますか。いつ見たのかと言ったとしても知らないふりをして幾度も胸をかき分けて、昔、自分のお父さんの乳を触ったようにこうして……。「私は昔、うちのお父さんの乳を触ったように触りたくてそうしたのです」と言えばどうしますか。気分を悪くするでしょうか。お父さんが本当に幸福を感じるでしょう。だんだん大きくなれば自分のもとを離れ、壁を越え、川を越え、山を越えて、消えようとしていたのが、越えていった息子が、壁を越え、門を越え、服を越え、昔のように自分の乳を触ろうとする時、お父さんは気分はいいでしょうか、悪いでしょうか。もうすぐ死にそうなおじいさんも、「早くここに来て触れ、早く!」と、気分が良くてそうするでしょう。
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 神様は創造主ですが、つけ足すものがどこにあり、引っ張るものがどこにありますか。大きくなろうとすれば吸収して引っ張るとか、誰かがつけ足してくれるとかしなければならないのです。自分が吸収するか、第三者の存在がもってきてつけ足してくれるかしなければなりません。ところが神様自身において、つけるものもなく引っ張るものもないのに、自体がどのように大きくなることができる概念を立てるのかというのです。これが重要な問題です。私がこれを話せば皆さんがむやみに話して困るので話さないのです。研究してみてください。宿題を出すので研究してみてください。論文を書いてみなさい、私が点数をつけてあげます。
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 本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。そんなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒Bも普通の冒Bではない。ばかげたことはやめなさい!」と言うのです。神様が生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。尹博士。どのように出てきましたか。物理学の博士様がそれを知らなければならないではないですか。博士様がそのように顔を隠せば恥ずかしいではないですか。統一教会員も仕方なく「自然にいらっしゃる?」と言うでしょうが、違うのです。神様も発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。
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 調和の無限な力をもっているのは何ですか。神様も研究したことでしょう。神様が人格的神として人と同じならば、全知全能なるその方もそれに対するとき、その中に行って安息の睡眠を取りたいのです。神様がいつも目を大きく開いて「こいつ、昼夜休まずに蕩減復帰をしろ」と、このように言うことができません。神様も道理がそうではないですか。息をする道理と同じです。息を吐けば吸わなければなりません。神様も働けば、休まなければなりません。神様が働くのもすべて、休む喜びを感じようとするからなのです。神様もそのすべてのものが、相対的授受関係の因縁になっています。
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 神様が愛することができる相対は、私たち人間しかいません。被造物の中で、神様自身がまた別の神様を造ることはできないのです。どうしてですか。全知全能なる神様なので神様と同じ、もう一つの神様を造るだろうと、それも可能だと思いますが、神様がそのように造ればどうなりますか。同じ神様が御飯を食べるとき、一緒に御飯を食べ、手入れをするときは一緒に手入れをして、立つときは一緒に立ってついて回りながら、神様が座れば一緒に座り、このように億千万年一緒に行動するならば生きていけますか。考えてみなさい。どんなに気が遠くなるでしょうか。一日もたたないで目が回ってひっくり返ってしまいます。また、話はどうしますか。話をすれば何日話すと思いますか。三日間ですか。「あれ、あの、同じではないか! 死にそうだ」と言うでしょう。
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 宗教の中心とは何でしょうか。神です。神様です。もちろん神に対する名前はたくさんあります。しかし名前が問題ではありません。その神は二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神です。一つの神について話すとき、各国の言語が違うので一つの神を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。
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 天と地自体も自ら存在したくて存在するようになったのではなく、必ず存在するようになった動機と根源を通じて、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考えるとき、ここからももっと上がって必ず中心的な主体を備えて天地を動かすとか、あるいはここに創造するという力の作用体、根本の作用体がいなければならないのです。このような立場にいるその方を私たちは神様と言いますが、民族が違い、言語が違うからといって、違う表現をするその名詞が問題ではありません。いずれにせよ、この宇宙の中心がなければならないのです。その中心は全体、この存在世界の前において、存在が作用し移動するとしても、その移動するのに従って移動するのではなく、この動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がなければならないのです。


 五 法度の中での全知全能である

  1.原則的基盤の上での全知全能である

 神様が天地万物を創造するようになった動機とは何でしょうか。根本に入っていくのです。神様はお金が必要ありません。お金のためでもありません。知識のためでもありません。知りたくて造ったのではありません。何かの権力のためではありません。全知全能で遍在されるその方は、知らないことがありません。知恵の王であり、能力の王であり、黄金の王ではないですか。ダイヤモンドもいくらでもつくることができるでしょう。神様にはダイヤモンドが必要ありません。いつもあるのにそれが必要ですか。ないから必要なのでしょう。また知識というのは……。この宇宙のすべての原理原則を中心として運動し作用する一つの構成体を全部コントロールすることができる法理、法度を造られたその知識に比べれば、今日の科学者たちがどんなに研究しても、自然界の法則一つ発見してそれでもって博士になったと威張ったりして、そんなものは何でもありません。芸術もそうなのです。芸術というものが他のところにあるのではなく、全部自然から学んできたものです。自然にはないものがないのです。
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 神様は全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かすことができる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから力は必要ないのです。歴史上の英雄豪傑が偉いと言っても、歴史において大国を統治した君王、帝王たちが過ぎ去りましたが、彼らはみんな神様の権威のもとで踊りを踊っていった人たちです。神様は、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。
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 神様自身は絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのようにすべてのものを備えた主体として絶対的な位置にいらっしゃる神様において、何が必要でしょうか。神様が絶対的な主体だとしても、主体自体が主体となると同時に相対となりたい心もなければならないのです。なぜそうでなければならないのでしょうか。人には東だけ必要なのではありません。東があれば西が必要であり、東西があれば南北が必要であり、南北があれば前後、上下が必要であり、一つの球形を成すことを願うのです。ですから宇宙は球形を標準にして動くのです。
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 さあ、あの星の国にはどんなものがあるでしょうか。ダイヤモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったのならば、ダイヤモンドの星一つだけ造ったでしょうか。
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 そう、神様が一番好きなものは何ですか。学者、有名な学者ですか。有名な学者も大したことはありません。自分が何を研究して何をどうしたとしても、神様が造ったすべての自然界のある公式とか原則を発表しただけであって、それ自体を造ったのではありません。神様は、学者も好きではないというのです。その次は大統領ですか。レーガン・アメリカ大統領を神様が好まれますか。世界大統領ですか。宇宙大統領なる方が神様です。全知全能なる絶対者なのに何が必要でしょうか。権力も神様は好まれません。その次には何ですか。お金ですか。口にもするなというのです。
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 神様は全知全能なる方です。憤って一度地面をけられるならば、めちゃくちゃにすべてが崩壊してしまうのです。大統領や世界の偉大な人たちも、一度叫んだならば、もれなくすべて流れていってしまうでしょう。その方に権力が必要でしょうか。神様の前には権力は必要ありません。それはちんぴらが好むものです。誰が好むのかと言えば、悪魔が好むのです。
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 神様は、天地創造をなぜしたのでしょうか。「力を誇ろうと、全知全能性を誇るために一度造ってみたのだ」と言えばすてきですか。そのようなとき、力によって生まれたものたちが「神様ありがとう。力でもって造ってくださって!」と、このように有り難いと言うでしょうか。神様が知恵が多くてお前を造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力が多くてお前をこのように造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力や知恵で造ったならば私の喜びと何の関係があるでしょうか。それが神様の能力でしょう、私の能力ですか。神様の知恵でしょう、私の知恵ですか。私を見れば無気力この上もない私なのに……。このように考えるのです。それで問題になるのです。
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 今日、キリスト教で「父なる神様、全知全能の神様」と言いますが、全知全能なる神様も原則的基盤の上での全知全能であって、無原則的基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。自分が法を立てたならば、永遠なる方が制定した法は永遠なものです。自分が立てたものを自分勝手にしないのです。それに順応して越えていこうとするその神様の権威、それが驚くべきことなのです。公義を立てるにおいては、すべて天理の原則にかなう公法を立てるにおいては、絶対に神様がまず踏んで越えていったのちに万民が従うようになっており、宇宙が従うようになっているのであって、それを二番目にすることはできないのです。そのような人間創造の理想的基準があるのです。
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 神様一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は「全知全能の神様が、創造能力をもった神様がいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもありません。天地すべての存在物は法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でもこの法則を破壊して行動することができないのです。この国の大統領でも憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。
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 このように言えば少しおかしいですが、神様が愛をしたいならばつくればいいでしょう、なぜ愛をつくれなかったのでしょうか。それは思いどおりにつくったならば神様が立つ位置がなくなるからです。それでつくらないのです。それはつくれないのと同じなのです。何のことか分かりますか。「ええ! 神様は全知全能なのにつくれないとは……」。そうなると二元論や多神論という結果に陥ってしまうのに……。しかし、疑えばそうです。
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 最近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるのかというのです。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰をすることができないというのです。このようなことを全部分別してあげなければなりません。
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 神様は知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。「ああ、全権があるので私を支配するのにいいですね、どこにでも遍在しているので私を監視するのにいいですね、知らないものがないので私をすべて精密に分析して身動きできないように造ったのですね」と、神様が私を全知全能で支配されるとすればいいことがあるでしょうか。
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 神様は天地を何をもって主管しますか。法で主管しますが、その法も愛で治める法です。そして治める方向を後押しするために宇宙の法も存続するというのです。それで神様は人間創造をなぜしたのかといえば、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればいいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。


  2.愛のみが絶対基準である

 神様が一つだけどうすることもできないものがあります。神様は全知全能でしょう。全知全能ですが一つだけ思いどおりにできないものがあるのです。それは何だと思いますか。金がつくれないでしょうか、ダイヤモンドがつくれないでしょうか。力がないでしょうか。全知全能なる方が一つだけつくれないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。先生の心にも愛がありますか。あると思いますか。皆さんの心にも愛がありますか。あることはあるのです。あることはありますが、自分一人で「私の愛する人、私一人の愛、私の恋人!」と言っていれば気違いになるのです。
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 神様一人で愛を成すことができますか。全知全能であられ、唯一無二であられる神様一人で、「ああ、気分がいい!」と、そう言いますか。そうすれば神様も気が狂ったと言うしかありません。レバレンド・ムーンも愛を感じることができるものをもっているからといって一人で「ああ、うれしいな! ああ、私の愛する人よ!」と、こう言うならば、それは気の狂ったやつだと言われるのではないですか。しかし、相対となる紙のかけらでも、このような手拭いを中心としても「愛するお前、手拭いよ!」と言うならば、誰が悪口を言いますか。宇宙に代わって登場することができる相対的価値と権威は、愛の世界でのみ可能なのです。
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 どんなに絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできないのです。愛は必ず相対的関係でのみ見つけられるものなので、どんなに全知全能なる方だと言っても愛だけは一人で所有することができないのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の刺激と愛の信号は相対を通じてのみ再現されるのであって、自体だけでは顕現することができません。これが愛だというのです。愛の力です。
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 寡婦と男やもめをかわいそうだと言いますが、なぜかわいそうだと言いますか。愛はその中にありますが、発動する何かがないからです。神様がいくら全知全能で遍在する神様だとしても、相手がいないときは愛が作用しないのです。天宙を造られた神様は、誰を中心として相対したいのでしょうか。アダムとエバを中心として愛の作用をしたいのです。
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 神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどんな愛でしょうか。真の愛です。ところで真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛というのは愛の根をどこにおいて言いますか。その根を神様においていないのです。それはおかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になることができる人に根を植えたいと考えるのです。
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 神様が天地を創造するとき、誰のためにしたのでしょうか。神様自身のためにしたのか、相対的な創造物のためにしたのでしょうか。神様はもちろん自分のために造ったと見ることはできますが、相対を重要視することにすべての創造の基準をおいたということを知らなければなりません。その相対の主体が誰かと言えば人間です。人間を中心として、すべての人間の幸福を中心として考えたのです。神様自身こそ全知全能な方ではないですか。
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 神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。神様がなぜそうなのですか。
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 神様一人では神様の本分を尽くせないのです。それは何のおもしろ味がありますか。食べ物が心配ですか。寝るのが心配ですか。着るものが心配ですか。思いどおりに供給を受けることができるのです。飛行機に乗って空中を回るとしても、一時間も回ったらおもしろくないのです。どんなに全知全能なる神様であり、どんなに威張った神様でもおもしろくないのです。私たち人間と同じなのです。それで神様も仕方がないのです。自分が努力して貴いとするものを創造しておいて、行ってみるおもしろ味がなければならないのです。このようになるのです。
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 神様は、何が恋しくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は何が恋しくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能なる方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様もやはり一人でいては愛を成せないのです。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
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 神様に何の愛が必要なのでしょうか。神様も愛をもっていますが、相対がいなければ愛せないというのです。皆さん、愛をもっていますか。ところが一人で「ああ、いいな! ああ、私の愛する人よ!」と、それがいいですか。愛というのは相対が現れなければ作用しないのです。これが宇宙の原則です。どんなに全知全能なる神様でも、愛の相対がいなくなれば孤独な神様であり、悲しい神様なのです。
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 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方だとしても、一人ではいいことはあり得ません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という名詞は、一人でいて設定される言葉ではありません。必ず相対的関係をもった位置にいてこそいいのであって、そうでなければ幸福という言葉はあり得ません。どんなに全知全能なる神様だとしても、一人でじっとしていてみよというのです。それが幸福でしょうか。歌が上手な音楽家が一人で歌を歌ったとしましょう。それが幸福ですか。相手がいなければなりません。授受するものがあってこそいいのです。それと同じです。神様が喜ぶためには、神様が一人でいてはならないのです。
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 神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。
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 全知全能なる神様も、真の愛の前にはどうすることもできません。大韓民国の大統領がどんなに素晴らしいとしても、真の愛の場ではどうすることもできません。妻を本当に愛するというときは、妻の前に敬拝したいですか、したくないですか。敬拝しても足りません。宇宙の中で偶然にも、私がこうして心から愛してやまない妻がどこから来たのでしょうか。その人がいないと考えたら、四肢がすべて麻痺します。実際にいないと考えるときは大変です。しかし、いるのでどんなにいいですか。いいので大統領でも仕方なくお尻を天にして「思慕する人よ、愛し給え! 愛します!」と言います。そんなとき、小柄な女性が座って見るとき、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。
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 神様がどんなに全知全能だとしても、愛を一人で思いどおりにできません。「全知全能だから愛も思いどおりにできるだろう」と言うかもしれませんが、それなら問題が大きいのです。愛の対象が必要ないという論理に逢着するのです。ですから神様も絶対的な中心存在として自分自身の愛、神様的愛に対する刺激と喜びを感じるためには、愛の対象が必要なのです。
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 神様自身も相対が必要なのです。神様も愛を一人では成せません。私が人もいないのに一人で立って、「ああ、きょうは本当にいいな」と、このように熱烈に語るならば、気が狂ったと言われるのではないですか。しかし相手がいて熱心に語ったなら、それが筋道に合い環境与件にかなうようになっているでしょう。どんなに全知全能なる神様でも、一人で「うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!」と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。神様も愛を成すためには一人では駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが問題です、これが。
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 世の中に存在するものの中で神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもので、真の愛です。


  3.神様も愛の前には絶対服従である

 神様も愛が好きなので、神様も愛に及ぶことができるでしょうか。天地を造られた全知全能なる素晴らしい神様が? 神様が愛に及ぶことができるでしょうか。家の中で虎みたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですから神様も、愛の前にはどうすることもできません。
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 能力が多く全知全能なる神様がいらっしゃるならば、神様はどんなものを好まれるのでしょうか。神様は人間より優れているので、愛を好まざるを得ないという結論が最も理論的に妥当なのです。それでは神様の愛とはいったい何でしょうか。永遠の昔から永遠に「ため」に生きる愛をもっておられ、そのような愛をしようとする方が神様だというのです。
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 皆さんは神様を中心として息子にならなければなりません。神様を中心として息子になるには何を中心としてなりたいですか。お金ですか。神様が「私が全知全能なる神様なので、大きい権力を中心とします。父子の関係にならなければ」と言いますか。知識ですか。それはすべて付録です。神様は愛を中心として、その愛と私は一つにならなければならないのです。「その愛だけが最高だ」。そうでなければなりません。この愛を完全に占領する日には、天下にどんなに権能が多い神様でも「うん、うん」と言うのです。
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 いくら神様が全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こうすればこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。先生の位置にいる神様が、独裁者の神様になるのです。神様も同じように「私が真の愛に永遠に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには「父は自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのでしょうか。ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、神様も真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。
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 どんなに全知全能なる神様でも、真の愛の前には絶対服従するのです。どうですか。この言葉を聞くのはいいですか、悪いですか。その真の愛は東から聞けば良く、西から聞けば悪いでしょうか。西から聞いても良く、南から聞いても良く、北から聞いても良く、上から聞いても良く、下から聞いても良いのです。夜も昼も四季も越えて、青年時代と老年時代を越えて、真の愛は永遠に聞いても悪くないというのです。
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 絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できるところ、愛が立つことができるところを探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。神様は人類の父であると言うでしょう。それでは、父自身が愛を中心として生きずに、「子供たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きろ」と言うことができますか。根源がなければ駄目なのです。それゆえ神様自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」という教育をすることができるのです。
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 絶対的な神様も「ああ、私が絶対的で全知全能で遍在するのですべてをもっているが、私もその何かに順従して生きることができたらいい」と言うのです。神様も「ため」に尽くしたい心があるのです。そんな神様なので、私のために尽くせという愛をしないのです。「ため」に尽くせという愛はいけないのです。
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 神様が全知全能だと言ったので、全知性を中心としてですか。知識を中心としてですか。違います。それでは何を中心としてですか。力でもってですか。力をもってしても駄目です。どんなに春に力があるとしても、花を咲かせる環境を越えることはできません。どんなに夏に力があるとしても、生い茂らせることができるそんな時期を越えることはできません。秋を迎えれば、それが全部枯れてしまうのです。秋がどんなに結実の時期だとしても、冬を克服できないのです。これを克服するためには、いつも太陽を中心に仕えていなければなりません。そこで春夏秋冬を克服することができます、それ以外はできません。それは何のことかと言えば、息子、娘、姉、弟、兄弟同士けんかしている場面において、父母の伝統であられる神様がそこに入ってきて、中心となり「このようにしろ!」と言うとき、統一ができないでしょうか。「統一できない」と言う者は狂った者です。
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 今日、現代神学が滅びざるを得ない内容とは何かと言えば「神様は全知全能なる神様なので、その方は愛も思いどおりにすることができる」と考えることです。自分一人で思いどおりに愛することができますか。うちの奥さんなくして、できますか。できると言う者は狂った者です。それでは神様一人で愛することができますか。
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 神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。これがバランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。その二人の中で引っ掛かって、行くこともできないし、来ることもできないのです。横に外れてしまうのです。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入っていってこそ、ちょうど真ん中にはさまれて身動きがとれないのです。
 弱いものは強いものを、強いものは弱いものを願います。女みたいな男が好きな女は、死んでしまえというのです。女のような男を愛するという女は、死んでしまってもいいというのです。女が女の手を触れば気分がいいですか。女同士で手を握ると気分がいいですか。ソフトな女性の手がソフトな手を握れば、それはどれだけ気分が悪いでしょうか。二つのソフトな手の感じが、どれだけ気分が悪いですか。それは死ぬよりももっと嫌なのです。だから死んでしまえというのです。
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 神様がいらっしゃると言うとき、その神様はいったいどんなお方でしょうか。全知全能な方、遍在される方、それもいいです。全知全能で遍在され、できないことがない方……。しかしどんなにできないことがない力をもっていて、どんなにすべてのものより優れた立場に立ったとしても、自分だけのためにさせようとする神様ならばどうなりますか。千ならば千、万ならば万、数多くの人類、多分数千億になるでしょうが、その人類が集まって住むそのような霊界があるとすれば、霊界において神様が「ああ、私は全知全能の方で、絶対的な存在なので、お前たちは絶対的に私のために生きよ」と、このように言われたらどうでしょう。全部神様だけのために尽くさなければならない立場に立ったならばどうなりますか。私たち人間の良心の本質から見るとき、それを永遠に歓迎することができないのです。それは必ず相反するのです。皆さんの心は相反するしかないのです。いつでも、そうではないですか。




























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