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真の神様
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 六 愛によって遍在される

  1.愛だけが境界を出入りする

 神様の心は神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行ってもそこに神様の心があるというのです。ですから天はいらっしゃらないところがないのです。すなわち遍在すると言いました。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。自分が鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。
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 それでは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽に学ぶのです。神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。
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 神様が遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、神様が全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身が神様に似たので、私を神様に似るようにつくりたいのです。私自身がすべての天下を治めたいのです。これがすべて同じように神様に似たのです。
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 愛を通じて体恤的な生活をしなければならないのです。それで神様が悲しまれるときに私が悲しみを感じ、神様が喜ばれるときに我知らずうれしくなるのです。孝子は千里万里離れていたとしても、父母の愛はいつもその孝子のそばにあるのです。神様の遍在性において神様はどこにいるのでしょうか。知識的内容に存在するのではありません。しかし、愛はそうではありません。極と極を越えて遍在を妥当に、可能にするのが子供を愛する父母の心、子供に向かう父母の心です。愛を通じるその道に父母の愛は遍在します。どこでもいないところがないのです。それは愛だけが可能です。愛だけがその息子を完全に支配することができるのです。全能な権限はそこに該当するのです。このようになっています。
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 愛には偉大な属性があります。神様の絶対的な愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃるところに私が加勢することができ、いつでも同居することができる権限をもつようになります。そのようになれば私が目をつぶらなくても神様に出会い、神様の悲痛な心情を体恤した者は道を歩いていても立ち止まって痛哭する、そのような体恤的世界があるのです。堕落した世の中でも母の愛は、もし息子が外地で不慮の事故に遭ったとしたら第六感で分かる場合が少なくありませんか。寝ていたとしても「あっ! 誰々よ」と叫んで起きるのです。
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 動脈が偉大か、静脈が偉大か、どちらが偉大ですか。同じです。それでは神様が偉大か、人間が偉大か、同じです。愛を中心として見れば、神様が動脈的だとしたら私たち人間は静脈的な存在なので、神様と対等になることができるそのような特権をもった人間の価値があるのです。「天上天下唯我独尊であり、全知全能であり、遍在し、私を通じないものはない」。それは何を中心としてですか。愛を中心として、それが理解できるのです。
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 神様はどんなお方でしょうか。神様は欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらないところがない、遍在される神様です。いらっしゃらないところがない神様なので、どれほど欲張りですか。欲張り者とか欲張りと言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。
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 神様は絶対服従できる道があるでしょうか、ないでしょうか。絶対主管しようとするそのような絶対、独裁者的な性格をもった神様が、絶対服従できなくなるときには、高いものは主管することができても、低いものは主管することができません。遍在性という言葉自体が、矛盾した言葉になります。神様も私たちに似たので……。母、父が自分の息子、娘に似ているでしょう。そうではないですか。神様を私たちの父だと言います。神様も絶対服従して生きたいのです。そういう道がないというときは、神様はどれだけ孤独でしょうか。
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 自分が描いた作品を持って、夜も昼も酔い、眺めて涙を流し感嘆する人がいれば、それを描いた画家は気分が悪いでしょうか。そのような人がいれば連れてきて、部屋に招待し「どうしたのですか」と言いながら、その理由を話させるのではないですか。「ああ、とてもいい。ああ懐かしい。ああ、一緒にいたい」と言ったからといって、狂ったと言うでしょうか。皆さんは神様を知らなくても、神様が全宇宙にいっぱいに満ちている遍在性を知識的な主体としておられるよりも、愛としておられるので「私がどのように同感権を各分野で体恤することができるのか」という立場で神様を再認識し、再発見しなさいというのです。


  2.宇宙には愛がない所がない

 神様は絶対的な神様ですが、なぜ絶対的なのでしょうか。愛に絶対服従するからです。気分がいいですか。悪いですか。また神様は遍在します。遍在。神様の愛がない所がありません。
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 神様の愛は宇宙を抱いても余りあるのです。中心的な基盤をもっています。最も大きい基盤を包容する愛の中心者が神様です。もし神様が動くという場合には、小さいものも全部ついて動かなければなりません。一つの大きな円の中に全部入っているでしょう。それで神様が全世界、全宇宙をカバーすると言っても理論的な言葉になるのです。
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 神様がいなくなるときは、宇宙がすべて空になるのです。空みたいなのです。しかし神様がいるようになれば、宇宙はいっぱいに満ちているのです。なぜですか。愛があるから。ですから私が一人でいても神様がいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。それで遍在の感動を知ることができるのです。愛の中にいて……。しかし私が神様を分からなくなるときは、すべてのものが空になるのです。ないのです。同じだというのです。
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 愛の主体がいなければ、何もないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそすべてのものが満ちるので、無限に与えることができるし、真実に与えることができるという結論が出てきます。授受することは理想の実現です、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど速いのかといえば、光もついて行くことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。
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 愛とは何でしょうか。回ることができる潤滑作用と軌道作用をしてくれるものです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かそうとすれば油を入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとすれば潤滑作用をしなければなりません。ですから最高の喜びの潤滑作用をするものは愛しかありません。それは根が遍在する神様なので、なくなることはありません。
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 愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引っ張られ、愛が動けば宇宙がすべて和して回るようになります。
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 この宇宙にすべての人々の心を満たしてくれる一つの主体があるとすれば、それはどんな主体でしょうか。絶対的な一つの中心者でないわけにはいかないのです。どのような心の位置にも愛をいっぱいに満たすことができる絶対者がいなければなりません。ですから彼は無限な絶対者でなければなりません。今日、数十億になる人類の心をすべて満たしてあげなければならない神様のその愛の量が、どれほどでしょうか。それは絶対的でなければなりません。全知全能で遍在という言葉が、だから必要なのです。その言葉は神様に必要な単語だというのです。これは理論的です。


 七 既存神観の問題点

  1.既存神観は二律背反的である

 宗教の教えに対する反問にはいろいろあります。「神様は果たしているのでしょうか」。「神様が全知、全能、遍在し、至善、至美で、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現しますが、そうだということをどうやって知ることができますか」。「じっとしていてもいいはずの神様が、なぜ宇宙を創造したのでしょうか」。「神様の創造の目的は何なのか」。「創造には方法があったであろうが、その方法は何なのか」。「絶対的な神様が創造した世界に、なぜ弱肉強食という現状が起こっているのか」。「人間が堕落して罪の世界ができたと言うが、完全な神様が創造した人間がなぜ堕落するようになったのか」などがそれです。
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 神様は問題が多いのです。全知全能だと言いながら、なぜイエス様を十字架に架けるようにしたのでしょうか。十字架の道理でなくては救援することができませんか。それにどうやって答えるのですか。全知全能だと言いながら、十字架上のイエス様を救うことができないのなら、そんな神様は残忍な神様です。人間の前から追放しなければならない神様です。信じるとは、何を信じますか。
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 神様は人間を堕落するようにしておいて、なぜ悲しまれるのかという根源を暴いて、人間と神様との関係がどのようになっており、また全知全能だという神様が、なぜこのように無能な神様になっているのか、ということを知ろうとした人がいませんでした。
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 今まで神学者たちや霊界に通じる数多くの人たちは、サタンがいることは知っていましたが、全知全能なる神様の前に反対するサタンをなぜ防御できなかったのかという問題は分かりませんでした。これが霊界に通じても問題です。いつでも神側に行こうとすれば、必ずサタンが妨害するようになっているのです。多方面から、一方ではなく八方から反対するようになっているのですが、それをなぜ神様が干渉できず制裁できないのでしょうか。このような問題が今でも謎です。霊界に通じても、これだけは分からないのです。
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 全知全能なる神様が、今まで数万年の歴史を通じて人類を導いてきましたが、どうして善の目的を成すことができる世界に導くことができず、しまいにはこのような失望と絶望の世界に向かわなければならなくなったのでしょうか。これは深刻な問題です。神がいないと断定することができる内容にもなるのです。神がいないならば、私たち人間が願う理想とか、あるいは平和な世界、人間が追求していくユートピア的な内容が、未来に可能なものとして人間の前に到来するのでしょうか。今まで長い歴史路程を通じて考える人、あるいは無数の哲人たちがそのような世界を追求したのにもかかわらず、それにまだ到達できず、現在にとどまっているという事実を見るとき、私たちの未来にそのような希望の世界をもたらしてくれるとは考えることができないのです。
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 全知全能の神様が、なぜサタンをそのままにほっておくのでしょうか。それをなぜほっておくのですか。一朝にして首を切って処断してしまえばいいのに、なぜほっておくのでしょうか。それが宗教において一番の難問題なのですが、それは簡単な内容でしょうか。
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 今、数多くの宗教人たちは「神様」と言えば、栄光の宝座に座って、全知全能であられ、遍在される方、また絶対的な権限をもっておられる方だ、このように考えているのです。それで神様は苦痛とか悲しみとかそのような概念と関係ない方だ、このように考えています。そう言いながらキリスト教では神様をどのような方と言うかといえば、天のお父様だ、とこのように呼ぶのです。そしてお父様と呼ぶすべての信者は罪悪の世の中で悔い改めなければならず、信仰をしなければならないと言います。父子の関係にあるのに、神様と人間がこのように二律背反しているというのです。
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 今日、キリスト教で「神様は聖なる方であり、全知全能なる方として、公義の審判主として宝座に座って万民を審判する審判長だ」と言うのですが、皆さん、裁判長がいいですか。裁判長を十年したら病気にかかって死にます。死ぬと言うより病気になってのけぞって倒れます。病気にならなければ偽物です。人の命を奪う死刑宣告を下したりもしただろうに、自分が下した判決が、絶対的ではあり得ないというのです。論法、解説法はいろいろな方向があるのに、自分の判決によってその人の生死の問題を決定するようなことをしたので、そうだというのです。それは深刻な問題です。宇宙の公法に照らしてみるとき、法は絶対的ではあり得ません。ですから考える人であれば、十年判事をしたら病気にならないといけないというのです。
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 さあ、それではこの天地の大主宰なる神様がいるならば一度尋ねてみましょう。神様を中心として、今日既成教会ではこの宝座に座って全知全能なる神様、審判主として来られて、悪いやつは地獄へ送り、善い者は天国へ送り……。それを見て喜ぶ神様ならば狂った神様でしょう。神様は善悪を超越した絶対善の立場にいらっしゃいます。
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 既成教会の牧師たちは、神様は宝座に座って、全知全能であり、遍在者と言いますが、それのどこがおもしろいのでしょうか。宝座に、王座に何万年もただ座っていたとしたなら、お尻が全部ぶよぶよになるのではないですか。皆さん、座っているのが好きなら、三日間だけ座っていてみなさい。それで神様は何をしているのですか。キリスト教で言えば神様は宝座に座って永遠に栄光の中で……。一人座っていて何が栄光でしょうか。永遠の以前から今日まで一箇所に座っていて、「おお、私の権力はすごいな。私のこの全知全能で重大な……」。それが何ですか。ぺっ、とつばを吐きます。神様も愛を中心として、今でも生きているのです。このような論理を否定することはできません。
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 神様が自分勝手にするようであれば、今日までの数万年の歴史、人類歴史を言えば、八十五万年、百五十万年と見てきましたが、そのように長久なる歳月の間、なぜ人間をこのような姿に造ってきたのでしょうか。もしそうであれば、神様がいないという結論を出すことができるのです。全知全能なる神様という言葉も使えません。これはみな荒唐無稽な論法です。なぜできないのかというのです。なぜできないのですか。条件に引っ掛かったからです。
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 神様はどんな方かと尋ねてみると、キリスト教の人たちは、「絶対者であり、唯一無二であり、全知全能な方だ」と言います。それではそのような方と人間との関係はどんな関係なのでしょうか。今日、キリスト教では「父なる神」と言っていますが、その父という言葉はどのような意味で呼ぶ父なのでしょうか。ただ名詞を尊重するために呼ぶ漠然とした父なのか、そうでなければ本当にそのような内容をもっている父なのでしょうか。その内容はどのようなものかという問題は考えもしないでいるのです。父ならば、どのような父なのでしょうか。私たちが肉体を通じて生まれたその父母と神様とは、どのような関係なのでしょうか。これが漠然としているのです。
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 堕落していなかったらどのようになるのでしょうか。今日、既成教会では神様は全知全能で、聖なる方であり、我々人間は俗なる者だと言いますが、間違っています。あの世に行ってみなさい。今日、この世で自分たちも「天のお父様」と言っていますが、この父というのは何なのでしょうか。神々しく相対できない関係から父という言葉が出てきますか。それは既に初めから論理的矛盾だということです。矛盾だらけです。しかし文総裁が言うことは事理にかなっています。
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 私がこのような話をなぜするのでしょうか。神様が始めて人間を息子、娘として造られたのですが、この息子、娘が神様を褒めたたえながら歌い踊る、そのようなことを見たでしょうか、見れなかったでしょうか。人間が堕落して追い出されたので、いまだにこのような日を迎えることができないのです。このような神様であるということを既成教会の人たちは知りません。神様が栄光の中にいながら全知全能であり、何でもすべてできる神様だと思っているのですが、このような神様ならば、なぜ数千年の間このように人間を救うことができなかったのかというのです。それをどのように答弁するのですか。それは人間が罪を犯したからです。人間が罪を犯したので、罪の清算も人間がしなければならないのです。
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 それでは神様は御自身において一つになったのは何のためでしょうか。神様の心が絶対に願うことは何でしょうか。これが問題になるのです。神様が願うことは何ですか。神様の体が絶対的に願うことは何でしょうか。能力ですか。今日、既成教会の既成神学では神様は全知全能であられるので、公義の審判主として来られ、善なる人は天国に送り、悪なる人は地獄に送ると言います。そんな裁判長がいいのですか。裁判長が好きですか。意地悪な神様になって地獄へ送り、天国へ送るように造りましたか。論理的に全部不当な仕打ちだという結論になるのです。
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 既成神学では創造主なる神様は聖なる方であり、神様から創造された被造物は俗なるものであるという論理をもって出てきます。これは宇宙生成の本性的原理に違反する論理です。キリスト教の伝統的主流思想が愛だと言ったのに、俗なる罪人と聖なる神とはどのように一つになることができますか。理論的根拠を出してみなさいというのです。理論を提示できないならむなしいことです。偽物です。ですから神様にも絶対的な神自身が絶対服従して、絶対者である神の生命を捨てでも「ため」に尽くしたい相対がいなければならないというのです。
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 今日、既成神学者が言うには、「信仰全体を我々は批判する時だ。今までの神観、人生観に対するすべてのものを再検討する時が来た」と言います。今までの神学思潮は「聖なる創造主と被造物は対等な立場に立てない」ということでした。それでは愛はどのようにしますか。神様一人で愛しますか。平和だ幸福だというものは、何ですか。神様一人でしますか、と尋ねたら、答えはどのようにしますか。対象がいなくてはいけません。
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 キリスト教では絶対的神さえ信じれば何でもできると言います。ですから独裁国家が出てきたし、血を流したのです。愛という論理を見いだせません。神のみが第一だとする前提のもとでは、どんなに行っても愛の神のお尻について回らなくてはならないのではありませんか。愛というものは対等な概念から始まるものですが、そのような概念では水平にならずしては垂直を探すことはできません。独裁の歴史が現れて流血の歴史がキリスト教を背負って出てきたのも、神のみを絶対視したからです。「私が神の代わりに刀を持ったのも神の僕だからだ」と言うのです。
しかし統一教会が偉大なことは、それを越えて、神も絶対者ですが、絶対者として絶対愛の前に屈服することができることを論ずるという事実、もう一つの世界を創造できる念願があるという事実をもっているということです。ですから神様も、愛に絶対服従することを喜ぶというのです。
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 この被造世界が生まれるようになった動機とは何でしょうか。神様も愛が必要で天地を創造したというのです。このような事実を知らない今日の既成神学の神観は、それで間違っているというのです。絶対的な力の神、力さえもてば何でもできるというふうにです。ですからキリスト教文化が通過するところは血を流してきたのです。西洋文明がキリスト教に従って発展してきましたが、これからはキリスト教文化は終末世界に破綻的結果をもたらすだろうということを、このような論理から予測できるのです。
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 歴史は科学の時代に来ています。すべての根源を把握して種の起源を探究し、根本を追求する科学の発展時代が来ることによって、宗教もそこに歩調を合わせざるを得ないのです。そこに主体的な観をもって、世界がどうであり創造の内容がどうだということを説明して、神様を立証できる宗教が現れなければならないのに、そのような宗教がないので、神が生きている限りそのような宗教の内容を準備しなければならないのです。
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 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたならば、人間の創造に動機と目的があったことは明らかです。その動機と目的が明されるためには、絶対者がどんな方なのかという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、その方の創造の目的と動機が明らかになるでしょうし、したがって平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるでしょう。
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 絶対的であり、永遠であり、唯一であり、不変の神様がおられるならば、そのような神様によって新しい見地から真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福の起源を要求せざるを得ないのです。このような立場から見るとき、神様自身から見る神観、神様自身から見る人生観、神様自身から見る物質観、これをはっきりさせるところから、初めて新たな平和と新たな幸福の世界を私たちは迎えることができると見るのです。
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 宗教紛争の根本原因もやはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは自分の絶対者だけが正しい神であり、それ以外の神は真の神ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立します。したがってすべての宗教の神は相対的な神にすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわち神の愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまっています。すなわちこれまでの宗教は、混乱を収拾することができる絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。これはすべての宗教が絶対者に対する正確な解明をすることができなかったので生じた必然的な結果だと言わざるを得ません。
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 各宗教ごとにその教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は主なる神です。キリスト教の絶対者はGod、すなわち神様です。イスラム教の絶対者はアラーの神です。儒教や仏教は絶対者を明確にしていませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結しているので「天」が儒教の絶対者だと見ることができるし、仏教では諸法は常に変化しており真理は諸法の背後にある「真如」から探し出すことができるとしているので、真如が仏教の絶対者だと見ることができるのです。
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 新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神ではなく、同一な一つの神であることを明かさなければなりません。それと同時にこの神の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにすることができなければなりません。それだけではなくその本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと人間が守らなければならない規範も結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
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 統一教会の原理が偉大なのは何かと言えば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのかということが分かるようになっているのです。その次にどのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には歴史観があります。歴史時代において神が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのかということがはっきりしているというのです。そうして過程を通して目的の世界に到達するということを理論的に一目瞭然に明らかにしたのです。



























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