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真の神様
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 第二章 神様と創造の役事

 一 神様の創造の動機は愛

  1.創造の役事は完全投入

 神様の天地創造は生命の接着を目的としたものではありません。愛の理想を同化させるためのものです。
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 科学者は、宇宙は力で形成されており、この力によって宇宙が発生したと言います。しかしそうではありません。電気は、先に力があって作用するのではなく、作用を通して電気が生じます。そして作用する前に、プラスとマイナス、すなわち主体と対象がなければなりません。作用は一人ではできないので、作用するためには必ず、主体と対象がなければなりません。結局プラスとマイナスがあってこそ作用し、その作用を通して電気が生じます。同じように力も主体と対象が作用をして初めて生じます。ですから今日、学者が言っているように力から宇宙が発生したのではありません。また、力が先なのではなく作用が先です。
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 愛が先でしょうか、生命が先でしょうか。愛が先です。地球が神様の生命から出たからといって、生命が一番だとは言いません。愛が一番だと言います。神様は天地創造をする時、まず生命からしたといっても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生じたのは愛のゆえです。
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 神様がなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だと言っても、一人で喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。
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 神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは力の投入を意味します。芸術家は最高の作品を作ることが願いです。芸術家は傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないというときに初めて傑作品が生まれるのです。
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 創造は自分を投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入せずしては、いかなるものも生じません。完全に投入するところに完全な対象が成立するという原則を考えると、神様は主体として対象を造るために完全に投入しました。神様自身が、御自身のためではなく対象のために存在しようと運動を始めたのが創造です。
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 創造するとは力の投入のことを意味します。投入をしたのですが、どれだけ投入したのでしょうか。神様がみ言によって造るときに、「こうなれ、ああなれ」といたずらに創造したかのように考えられています。違います。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入しました。私たちも、精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものは愛しません。
それゆえ創造する前と創造した後では違います。創造する前は自分のことを考えたのですが、創造を始めてからは対象のためを思いました。私が存在するのは私のためではなく、相対のためであり、息子、娘のためである、このようになっています。
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 神様が天地を創造するということは、御自身の本質を投入するということです。結局エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の減少を意味します。対象世界の創造は愛によってなされたのですが、神様はそのみ旨をなすために自己を投入しました。投入したそのものが自分に実るようにしたのではなく、相対に実るようにしました。投入することによって神様が疎遠さを感じるのではなく満足を感じるのです。それは愛によって造ったからです。
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 私たちが朝食を食べて重労働をすれば空腹になります。そしてすぐ疲れます。なぜでしょうか。力を投入すると消耗するからです。世の中の万事において、損をして喜ぶということはありません。プラスとなってこそ良いのです。それゆえ神様も天地万物を造ったのは、良しとするために、必ずプラスとなり得る何かがなければなりません。それでは神様はプラスとなり得るものをいつ得ることができるのでしょうか。ここに被造物の完成という標準があります。「この時まで投入すれば、その時からはかえってくる」というものがあります。同じことです。何かをしようという望みをもって努力し、その限界点を乗り越えると、必ず結果がかえってきます。これが宇宙の法則です。
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 神様も同じです。人を造ったのは神様の力を投入したということです。力を投入しました。自分自身を消耗しました。ところが投入できるものを完全に投入して人を創造したとするならば、その完成した人はどこかに逃げるわけではありません。完成すればその次には神様に戻ってきます。戻ってくるにあたって、百を投入したときに、百よりも小さい価値をもつものとして戻ってくるのではなく、神様の創造の価値を加えて戻ってくるのです。
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 宇宙はどのように出発したのでしょうか。神様を見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。では、自己を消耗して相対を造って、何をしようというのでしょうか。二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。そうではなくて、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。
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 愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。
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 神様の創造理想を中心として投入、投入、投入しなさいというのです。投入すれば回りに回るのです。空気を例に挙げれば、絶対低気圧と絶対高気圧があればその中間の気圧が生じます。誰が呼ばずとも天が降りてくるのです。それゆえ一〇〇パーセント以上投入したがる人は、いつも天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうなっています。完全に投入して忘れるところには永遠な運動が連結するために、その基準において永生の論理が出てくるのです。永生、永遠な生命、そうでなければ統一の原則をどこから引き出してくるのですか。「ため」に生きればぐるぐる回ります。ぐるぐる回ってどこに行くのでしょうか。だんだん小さくなって上がっていきます。上がっていくのです。ぐるぐる回って広がれば下りていきますが、だんだんすうっと上がっていくので、神様は自動的にアダムとエバの肩の上に両足を置くしかありません。何のことか分かりますか。
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 それでは神様が天地万物をなぜ造ったのでしょうか。造ったという事実は力を投入したということです。力の投入です。力の投入というのは自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり引き出したのにそれが戻ってこなければ消耗するのです。
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 神様は万物と人間を創造するためにあらゆる力を投入されました。全部を投入し、また投入されました。他のものは投入すれば全部消耗しますが、真の愛だけは投入すれば投入するほどより栄え、生産するのです。真の愛は百を投入すれば百二十が戻ってきます。それゆえ真の愛を実践する者は滅びるようでも滅びることなく、永遠に栄えて永生するのです。
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 神様がなぜ存在されるのでしょうか。何ゆえにおられようとするのでしょうか。愛ゆえにおられようとするのです。それゆえ愛の相対が必要なのです。ですから全知全能なる神様は、愛の相対を創造しなければならなかったのです。創造の本質的理想を、愛を中心として創造を始めたということをこれまで私たちは知らなかったのです。愛ゆえにすべての被造世界が創造されたのです。
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 神様の願いは真に与えることのできる世界的な足場をもつことです。神様は与えることにおいて誰も讒訴することはできず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を望んでいます。そのような立場を世界的に広げて、万民をそこで生きるようにすることが、神様の得ようとされる所期の目的です。


  2.愛を通じた創造理想の実現

 愛の実現のためにこの世を創造された神様でした。人間と万物が神様の愛を中心として一つとなり、和気あいあいとした愛の世界を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心として真の夫婦の因縁を結び、真の愛の家庭と氏族、民族、世界を築くのを見て喜ぶために、そしてそのような人間と愛によって一つとなることで愛の喜びを味わうために被造世界を創造した神様でした。正にこれが神様の創造の理想だったのです。
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 無限なる神様の愛が目的を中心として愛することのできる本心の根本、これが正に心情です。その価値は変わることのないものです。神様の存在の価値を論じようとするならば、この愛について論じなければなりません。価値というものは相対的与件ができた中で決定されるものです。
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 喜びというのは神様の心情から出発するものです。その目的はどこで遂げられるかというと人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が目に見える人間の心情で顕現するのです。そのような心情をもった人間が横的に広がって家庭を築けば、その家庭が世界的に広がって世界の中心になるのです。そのような家庭を築くよう、神様はアダムとエバに、生育せよ、繁殖せよと祝福されたのです。天宙主義は生育し繁殖して万物を主管するという根本の上に成立するのです。
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 神様はなぜ被造世界を創造されたのでしょうか。神様は被造世界を通して喜びを享受されようとしたのです。神様がいくら絶体者だとは言っても、喜びを一人で感じることはできません。喜びは相手がいてこそ生じるからです。神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様自身が絶対的であり、全知全能であられるがゆえに、そのようなものは必要とはされません。科学がいくら発達しても、神様が造られたものに追いつき、越えることはできません。膨大な宇宙は、秩序の中で法度に従って運行しています。人間の考えや科学が及ぶことのできない宇宙を神様が創造し、また運行しておられるということを考えると、神様は絶対的な科学者でもあられます。
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 神様の本然の愛に綱を結んでその愛の味を味わった人が離れるようなことがあるでしょうか。蜜を吸っている蜂のお尻を引っ張ると、その蜂はお尻が取れても蜜から口を離しません。皆さんがその味を感じたとするならばどうでしょうか。行っても途中で戻ってきて再びそこにくっつこうとすることでしょう。
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 神様の愛は統一教会の原理によれば、四位基台の完成という結論になります。だとすれば四位基台の完成とは何でしょうか。父母の愛は子女たちに伝達されて感じるようになっています。四位基台の中心は、父母の愛を中心に子女と一つとなり、男女の愛が一つとなり、最後に神様の愛と一つとなるのが四位基台なのです。
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 アダムは神様と一つとならなければなりません。これを結びつけるものは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結びつける中心点がすなわち愛という絆です。肉体をもった人間が神様と一体となれば、その心情と感情は無限な体恤境と幸福感に酔うようになります。結局愛によって神様と人間は一つとなるのです。愛によって人間と世界が一つとなり、神様の創造目的である理想世界の実現はここから出発するのです。
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 神様を中心とした新たな愛、すなわち創造法度による愛が決定されたところから初めて神様の理想が出発します。
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 私たち人間が寝て朝起きたとき、その心に願うことは何でしょうか。朝食を取ることが問題ではなく、仕事に出掛けることが問題ではなく、全世界のことを気遣うのが問題ではなく、愛の心を夜も昼も春夏秋冬変わることなく、一生の間変わらずにもつことを願うのです。そのような男性、そのような女性が完全に水平線をなして、縦的な神様と共に九〇度に連結され、人情と天情が合わさることのできるそのような立場の愛、そのような愛の理想境、そのために神様は天地を創造されたのです。
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 神様が創造するにあたって、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱いて動かすことのできる愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。
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 愛を占領しようとするならば、投入しては忘れ、投入しては忘れなければなりません。なぜそのような愛をもたなければならないのでしょうか。愛は動けば動くほど大きくなるものだからです。力学の世界での自然現象は、動かせば動かすほど、作用すれば作用するほど小さくなります。自然世界は動けば動くほど小さくなりますが、真の愛の世界は動けば動くほど大きくなっていくのです。神様はそれを知っていたので、真の愛を中心に創造を始めることができたのです。


 二 人間を創造された目的

  1.神様の愛の対象として造った

 神様は人間を愛ゆえに造りました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛ゆえに造られました。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたことです。神様の直系の愛を受けることのできる対象者として造られたのです。これが人間の特権です。
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 完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は誰でしょうか。これが問題です。神様はなぜ人を造ったのでしょうか。人は神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。少し難しい言葉です。
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 人を創造して育てて、天宙の主人である神様の代わりに愛をもった者として、自分よりも高い座につくようにして、主人にしてやろうということなのです。
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 万有の中心は誰でしょうか。人なのです。その人というのは、どのような存在なのでしょうか。全知全能なる神様の前に相対的価値として登場したのが人間だ、と見るのです。人間は万有の愛の表象体として、一つの灯台のように光を放つことのできる一つの中心として現れた存在です。そのような存在が人です。
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 人とは何ですか。神様の愛の対象存在として造られました。神様が二性性相であるだけに、プラスとマイナスの二性性相の主体であるだけに、その主体の前に対象となるためには、プラスとマイナスのような二性性相の形態が必要です。その形態というのは、主体の性稟とは反対の形態ではありません。すべての性稟の相対性を備えて、愛という本質にぴったりと合わさる相対的形態のことをいうのです。
これが相対存在なのですが、それは他のものには合いません。愛にだけ合うようになっているのです。神様には知識といったものや他のものは必要ありません。愛が必要なのです。人間がこの宇宙の中心だというのは、愛の理想を果たすために被造世界を造ったからです。愛の神様に代わって、主人の前に最初に中心の位置に立って愛されるという特権をもっているがゆえに「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。
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 神様はなぜ人間を創造したのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造したのではありません。その息子、娘と共に愛をするために人間を創造したのです。いくら考えてもそうとしか考えられません。人間を創造した目的は愛のゆえです。神様の愛を中心として、その基盤の上で生命が創造されたのであり、生命を造って愛を誘発したのではないのです。言い換えれば、本来神様の心に愛が芽生え始めて生命が始まります。その生命は愛から始まったので結果も愛にならなければなりません。それゆえ愛を除けば私たち人間は不幸なのです。
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 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。全知全能なる神様、遍在される神様が何が足りなくて人を造ったのでしょうか。キリスト教式にただ造りたいから造ったのだといえば簡単です。しかし、それでは通じません。神様は何が必要でしょうか。神様がお金が必要であり、金塊が必要であり、ダイヤモンドが必要でしょうか。そのようなものはいくらでもあります。また、神様は知識が必要でしょうか。必要ありません。知識の王なのですから、知識はいくらでもあります。全知全能なる神様には権力は必要ありません。あればあったで、なければなかったで済みます。そのようなものは「ある」と言ってもいいし「ない」と言ってもいいのです。大した違いはありません。
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 神様に必要なものは何でしょうか。神様は生命も必要ではありません。生命の主体であるのに、そのようなものがどうして必要でしょうか。それでは何が必要でしょうか。愛が必要なのです。なぜ神様に愛が必要なのでしょうか。愛というのは相対的関係から成立するものだからです。神様も愛を必要とする神様にならなければ、この創造世界や人間世界と関係を結ぶことができません。それで愛をもって尋ねてこなければ存在世界と関係を結ぶことができないという結論になるので、神様は愛を標準に定めてきたのです。
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 神様は人を最も貴いものと思っていますが、なぜ貴いものと考えるのでしょうか。神様は愛の相対を必要とするので最も貴く思うのです。いくら神様が愛をもっていたとしても愛する対象がいなければ愛を感じることができないのです。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。神様が人を最も貴く思うのは、人間は神様が愛することのできる対象の位置に、愛の対象の位置にいるからです。神様が最も貴く思うのは正に人間なのです。
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 神様がなぜ人を造ったのでしょうか。それは愛を完成するためです。その愛は神様から始まるのではありません。相対から求め得られるものです。相対がなければ見いだされることはありません。神様が最高に貴いものを成就させるためには相対が必要なのです。神様も相対がなければならないのです。それで相対を造ったのです。神様御自身も、相対から絶対的な愛をつくりあげることができるように相対を求めていくのです。それゆえ神様も愛のためにおられるのです。愛のために存在されるのです。愛の驚くべきところはここなのです。
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 人は神様のためにあり、神様も人のためにあるのです。それゆえ真の愛というものは「ため」に生きるところから始まるのです。本来人間はどこから生まれたのでしょうか。神様も愛から始まったのです。愛ゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。
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 神様御自身が愛するための愛の対象が必要で人を造ったのです。一人で愛することはできません。対象圏がなければ愛は成り立ちません。神様も愛が絶対必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造ったのです。人が絶対的に必要であるがゆえに、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在として造ったのが人間なのです。ですから人間自体が神様の体です。神様の体となったアダムとエバの二人が夫婦になったということは、神様が夫婦になることなのです。そうなれば天上世界に行ってアダムとエバの姿で神様が人類の祖先となり、霊界と地上世界を治めるようになっているのです。そのようになったのです。
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 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。好きで造ったのでしょうか。違います。見るために造ったのでもありません。愛を求め得るために造ったのです。それが分からなければなりません。


  2.愛と生命の核心をすべて投入

 神様はあらゆる万物を造り、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。人間を造るのに、神様がいたずらに造られたのではありませんでした。趣味で造られたのではありませんでした。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでの神様の苦労と精誠は、言葉では到底表すことができないという事実を私たちは知らなければなりません。神様が人間を造るとき、ありとあらゆる精誠を尽くし、心血と、御自身の生命の核心をすべて注いで造り、愛と心情をそっくりそのまま注いで造られました。どんな力をもっても離すことができず、離れようにも離れることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間であるゆえ、その人間を見つめられる神様に初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福はその人間を通してのみ宿ることができるのです。
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 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり注いで造った人間であるゆえに、このような人間が神様を引っ張れば、引っ張られるしかないのであり、また神様が人間を引っ張れば、引っ張られるしかないのです。神様はこのような因縁の中で、内容と目的が一致する人間として造られたのです。もし、そのように造った人を見て神様が賛美するみ言や詩があるとすれば、それはこの世のいかなる詩人や文人にも表現することのできない最高の作品となることでしょう。その対象は神様でもなく、万物でもなく、唯一万物を代表した人間なのです。
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 神様が被造万物の中で神様の愛の対象となることのできるその存在が我々人間です。神様は愛の対象を造るために全心全力を尽くして自己のすべてを投入したのです。神様はこのように御自身の全体を投入して何をしようというのでしょうか。宇宙の愛の核を設定しようというのです。それが創造理想でした。
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 愛について語るとき、神様にはそのようなものはありません。神様が造られた創造物にはありますが、神様にはそのようなものはありません。あったとしても心の中に内的にあるのであり、形として表れることはありません。それで何をするのでしょうか。それが誰にあるのかというと、人間であるアダムにあり、エバにあります。ですから神様よりも、もっと貴いものを人間がもっているということを知らなければなりません。
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 神様は自分の愛の相対が自分に優ることを願って創造を始めました。今日の私たちもそこから出発したので、自分の愛の相対は自分に優ることを願うのです。皆さんもそうでしょう。神様も同じです。
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 神様が御自身の愛の対象として人間を創造するとき、自分に優ることを願う立場で一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント以上を投入しようとしたのです。投入しては忘れ、また投入し、より貴いものを与えようとしたのです。
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 神様が人間を創造するとき、御自身よりも立派な愛の相対を造ろうとしたので、神様のすべての要素、目に見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入し、また投入しようとしたのです。それはどういうことでしょうか。投入して忘れることのできるところにだけ、真の愛の起源を発見することができるからです。簡単な内容です。これが宇宙の根本原理です。
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 人間の欲望の最終着点、人間は欲望の最大の完成基準に向かうことのできる方向性があるのですが、それが私たちに作用しているという事実を発見しなければなりません。聖書には「私たちの体は神様の聖殿である」とあります。それがどういうことなのか解釈できずにいるのです。たとえ神様でも、神様と私が愛をささやくことのできる愛の対象圏となり、その愛の対象圏と一つとなれば、宇宙を相続することのできる権限が生じるからです。愛という原則基盤を通して神様の造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、宇宙の相続権を獲得することができるのです。この驚くべき事実を知らずにいるのです。






























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