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真の神様
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 第四章 真のお父様の見た神様

 一 歴史的な恨、苦痛の神様

  1.人間の堕落により父母の立場を失う

 私たちの本当の父親は神様なのですが、サタンが父親に成り済ましています。それでヨハネによる福音書第十八章四十四節でイエス様は「その父の欲望どおりを行おうと思っている」ととがめられたのです。サタンの血を受けたという悔しい事実を知ったならば、憤りの思いがほとばしり、自分の体を刃物で刺し、汚れた偽りの血を出してしまいたいという義侠心が生じるべきです。そのように感じたことがありますか。「この肉の塊め」と体を打ちながら憤りを覚える人は天の忠臣です。
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 最後の心情の世界を連結させることのできる宗教があるとすれば、それは神様が最もかわいそうだということを詳しく教えてくれる宗教であると言うことができます。神様は善くて、素晴らしいというだけではありません。悔しい神様、憤りと恨に満ちた神様です。これを詳しく教えてくれる宗教が現れなければなりません。そうしてこそ孝子となることができるのです。
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 神様がどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐に奪われたのです。神様が極光の神様となることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。御自身の国の王として、宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王が生きているのに王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪い取られ、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡の場としての地球となってしまいました。
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 今まで神様が主管することのできる統一された民族や主権国家がなかったがゆえに、全知全能の神様はその威信ゆえに来られなかったのです。その神様の怨恨を解いてさしあげるのが統一家の息子、娘の道理であり、統一家の孝子の道理であり、統一家の忠臣の道理であり、烈女の道理であることをはっきりと知らなければなりません。真理を知っているので、真理があなた方を自由にしてくれるでしょう。知る人は解放されるのです。これをはっきりと教えてあげるのです。
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 皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。
 全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流したでしょうか。問題はここに帰結するのです。
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 この世の親も自分の息子、娘が罪を犯して絞首刑に処されることになったとき、その子が死ぬことを願う親はいません。自分の思いどおりに子を助けることができるとすれば、百回でも千回でも助けてやりたいのが父母の心です。母親の気持ちはなおさらのことでしょう。堕落した世界の女性の心もそうであるのに、全知全能なる神様がいったい何ゆえに終わりの日になって審判をしなければならないのでしょうか。どうして神様が許してくださることができないのでしょうか。これです。神様はどれほど愛しておられるでしょうか。イエス様が七十回ずつ七回許すとすれば、神様は七十回ずつ七千回以上許すはずです。神様の心はそうなのです。
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 神様の救いの摂理は復帰摂理ですが、復帰摂理の出発はアダムとエバからでした。アダムとエバは堕落したのです。先生が現れるまでアダム復帰はできないのです。これを復帰するために、全知全能であられ、この宇宙を創造された神様が、一人の男性を探すために数千万年間、今まで被造世界に顔を現すことができなかった神様の事情と恨を皆さんは知らなければなりません。
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 神様のみ旨が何かというと、創造理想の完成なのですが、創造理想とは、私たち人間世界に三対象圏理想を実現することです。その愛を中心として理想が実現するとき、神様は「ああ幸せだ」とおっしゃることでしょう。神様が何をもって幸せだと言えるでしょうか。今日のキリスト教信者はみ座にいらっしゃる万軍の主は全知全能であられるので、「おい」と言えば「ははあっ」と万事が通じると考えていますが、いつも惨めで一人の神様はどれほど悲惨でしょうか。
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 愛する息子をそのように死なせるしかなかった神様の痛ましい事情を誰が知るでしょうか。それは聖書にはありませんが、息子を死なせるほどの事情があったのではないでしょうか。キリスト教のイエス様を信じると言ってあのように集まるのも悲惨だし、すべての選民の味方になるべき神様なのにこれを知っているのか知らないのか……。行く所々で血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に……。
このような運命にぶつかるのを見て、「神様がこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難きを忍ばねばならない神様は、どれほど恨がしこりとなっていることでしょうか。そのように考えたことがありますか。それなのにどうして神様が最も高いところにいらっしゃることができるでしょうか。いつかきれいに清算できたらいいと思います。
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 自分の愛する人は命を投入してでも保護したいものです。本来創造理想がそうなっています。神様御自身も、息子、娘を愛するがゆえに、自分の命までも投入しなければならない悲しみの神様となったのです。
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 堕落しなかったならば、神様は創造主として永遠な主人になるはずであったのに、堕落することによってサタンが主人になりました。そうなるしかありませんでした。いくら官吏の屋敷の中の箱入り娘だとしても、その町のやくざ者に強姦され愛の関係を結んだとすれば、その娘は誰のものになるでしょうか。やくざ者のものとなります。全く同じ道理です。天国の王となることのできるアダムであり、天国の王妃となることのできるエバでした。
 これを復帰するには、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来アダムとエバを中心として永遠な愛の法度を立てたので、その法度に従わなければならないのです。その法度を否定するならば、天理を破壊することになるのです。それゆえ人間はもちろん、神様自体まで否定される立場になるので、仕方なく再創造過程を通して収拾してきたのです。そのように恨多き歴史路程を誰が知るでしょうか。
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 今日、既成教会では「神様が栄光の中にある審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言います。この世で最もかわいそうなお方が神様です。最も悲痛で身もだえしながらも光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるかもしれないのを克服して、そこで身を持ち直し、目を開けて意識を確かにもって、死にはしたが、この子らを生き返らせようという心をもった方が神様です。創造主の能力、絶体者の力があったのでそれが可能だと考えるのであり、そうでなければおしまいなのです。
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 それでは神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は本然的真の父母の立場にあるお方です。ところが真の父母となるべき神様が父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じたのです。この創造的世界にはあり得ないことが生じたのに対し、創造主であられる神様は干渉することもできず、それに責任を負って消化することのできる立場にも立てないのです。


  2.復帰の恨、子女を訪ねて六千年

 私たち統一教会では原罪とは何だと言っていますか。誤って愛したことです。神様の愛と神様の生命と神様の血統が連結されなければならないのに、悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統が連結されてしまったのです。アダムとエバが悪魔の生命体になって悪魔の血筋を残したので、今まで恨めしい歴史となったのです。それでは神様のように全知全能で天地を根本から創造し、すべての自主的な権限を所有しておられる方がどうして悪魔の前に、歴史を通して人間をこんな姿、このようにしたのでしょうか。ですから神はいないという結論は当然なものです。
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 過ぎし日にはいろいろなことがありました。悔しく、無念な内容が多くありました。私の性格では我慢できないようなことが多くありましたが、舌をかみ、カインの世界を占領しなければならなかったのです。カインの個人ではなく、カインの家庭ではありません。カインの世界を消化しなければなりませんでした。苦い、どれほど苦いことでしょうか。氷山くらいの苦いものを口に入れて、解かさなければなりません。神様を滅ぼし、人類を駄目にした億千万世怨恨の大怨讐の悪魔、この悪魔を黙って屈服させなければなりません。
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 堕落した人類の始祖は悪魔が父となりました。サタンの愛、サタンの生命を受けたがゆえに、救いの歴史は困難です。キリスト教では全知全能だと言う神様が、なぜ無力な神様のようになり、人類が滅びていくのに手をつけられずにいるのでしょうか。死んだ神様の立場にあるのです。人間が罪を犯したがゆえに、人間がそれを解決することのできる解放圏を備えなければ、神様は解放してやることができません。解放してやれるものならば、初めからエデンの園からアダムとエバを追放しなかったはずです。神様が思いどおりにできるのならば、エデンの園からアダムとエバを追い出しませんでした。しかし追い出さざるを得なかったのです。
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 神様の求める真の心をもたなければなりません。神様は真の愛を訪ねてこられます。救援摂理歴史、復帰摂理歴史の前線から探し求めてきた真の息子として、今まであかまみれになり、傷つき、悲痛な傷跡のある神様の心を大きく開いても余りある余裕満々の純潔な愛が滝の水のように流れ出て、神様が彼を抱き万事を忘れ、むしろ堕落があったことでより幸福だったと言うことのできる場はないのでしょうか。男ならば誰でもそうでなければなりません。分かりますか。
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 悪魔が神様に対して、「あなたの創造理想を中心として愛の絶対圏理想である真の単一氏族圏をつくるための愛の血統圏がこのように滅び、破壊状態になったにもかかわらず、今も創造理想的論理が適用されるというのですか」とあざ笑うのです。そういうとき神様は何と答えられるでしょうか。どれほど息の詰まるようなことでしょうか。本来、主人の息子となるべきであるにもかかわらず、怨讐の息子となり、抜け出そうにも抜け出すことのできない塗炭の苦しみの中に陥った人類を見つめられる神様がどれほど悲嘆にくれておられるかを、はっきりと知る既成教会の人々はいるのでしょうか。
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 人類の父母としてこられたのに、父母として侍ることができずに、自分のために血を流して死ぬために来たという父母がいったいいるでしょうか。愛の祝宴を催して「私の息子よ、私の娘よ、家庭よ、国よ」と、天下がすべて和合するときに一つの平和と栄光の一日をたたえるべき立場に立っている父母が、失った子に出会うべきであるのに、会ってみると、子女の手によって刃物で刺され、死んでいったとは……。考えてみてください、イエス様がどれほど悲痛か。無知な人類に向かって教えてやることのできない事情の中に埋もれた神様の心情はいかばかりであったでしょうか。
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 悔しい歴史的恨が先生にはあります。しかし、私の恨は何でもありません。神様が神様の本分を果たせずにいます。このような多くの事情を残した歴史過程に、神様の骨髄が溶けるような悲痛な涙と流された血の跡がこの地から喚声をあげているという事実を知らなければなりません。神様を解怨成就しなければならない使命が残っているということを知っているがゆえに、私は今までこのようなことをしているのです。
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 堕落した世界に責任を負って復帰してこられた神様は、高く、貴く、聖なるきれいなところにだけおられる神様ではありません。人間には想像もできない、形容することもできない悲惨で悲痛で残酷な背後をもっているのです。
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 皆さんは自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されれば慰められます。しかしながら神様は誰よりも悲痛さを感じておられるがゆえに、神様を慰労することのできる立場にいる人は一人としていないのです。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなった怨恨をいかにして解くかということが、今までの神様の内情的な事情なのです。神様はこのような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられたのです。
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 神様に会いたくて泣いたことがありますか。涙、鼻水を流しながら口蓋垂が垂れ下がるほど泣いたことがありますか。それほど涙の出るような悔しく、悲痛な立場に立ったことがありますか。これはすべて心情世界を越えるにおいての一つの峠となるのです。
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 人間と永遠に共にいるべき神様が、人間と引き裂かれるときのその悲痛さと悔しさと憤りと悲しさは、どれほどのものであったでしょうか。人間は全宇宙を渡しても替えることのできない愛の基地を目指して、成熟し、平衡線上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。そうなったならば、それが基準となり天地のあらゆる存在、あらゆる万物の測定基準になれたのではないでしょうか。その愛と因縁を結んだすべての物はどこにでも合うようになっています。どこにでも。
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 悪魔は四代を蹂躙しました。まず皇后、その上は何ですか、皇太后、その次は王の祖母、次には娘、このように四代がみな生きているのを、王の目前で真昼に裸にさせて蹂躙してしまうのです。娘まで蹂躙してしまうのです。次にはみな殴り殺します。どれほどの怨讐でしょうか。これを処断することのできない神様の悲痛な事情を知らなければなりません。
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 では、神様にとって悔しいことは何でしょうか。偽りの血筋を受け継ぐことです。偽りの血統を皆さんは受け継ぎました。起源はサタンです。サタンという存在は被造物をすべて滅ぼすことを願っています。そのような宇宙、そのような所有権、そのような血筋が皆さんにつながっているのです。見て、考えて、においをかいで、話し、触る、五感のすべての根がサタン側にあります。皆さんの先祖はとても悪い父母の実です。そのようなものを神様が救おうというのですから、神様は本当にかわいそうです。(堕落した)アダムとエバを片づけてしまって、アダムとエバを再び造ることができないのはなぜでしょうか。造ることはできても、本来、永遠の真の愛を中心として永遠の因縁で造ったがゆえに、そうできないのです。
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 神様の悲惨さ、悔しい立場に立っておられるということを皆さんは知らなければなりません。「私が造らなかったならば、あのようにはならなかったものを。愛を求めて栄光の天国を願ったことがこのようになるとは」と言われるのです。なぜでしょうか。悪魔の血肉を受けたからです。悪魔の愛が注がれ、悪魔の生命、悪魔の血統がそこにあるので、これを取り除かなければ神様が所有することができないのですが、それを取り除けば死んでしまいます。ですからそこに徐々に新しい血管と生命と愛を注入して第二の創造物、救援物として神様のような代身者を探して立てなければならないのです。その怨讐を愛してやらなければなりません。その怨讐を我慢して愛さなければならないのです。とんでもないことです、全く。
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 神様が、日が昇ったと言っては休み、気候が良く、季節が良いといっては休むことがあるでしょうか。皆さんも同じです。怨讐を愛さなければなりません。この世の天地の背後にいたサタンを愛していかなければなりません。神様の息子の聖なることを私がたたえ、驚くべき価値をもっていることを知っているとするならば、その価値の前に悲惨でつらく、恨めしくとも行かねばならない道があり、それが大怨讐を愛するということなのです。


 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様

  1.永遠のひとり子を失った神様

 純粋な本質的愛をもった神様の前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、神様の心はどれほど悲しかったことでしょうか。どんな人間よりも極めて悲しかったことでしょう。極めて、極めて悲痛だったことでしょう。その内容が深く価値的な内容であればあるほど、悲惨中の悲惨だというのです。そのような父なる神様が失った子を再び探し出すために復帰の道をたどっていかれたのです。
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 父母が愛する子をそれほどまでに信じているのに、子が裏切ったならば、信じていたのに比例して父母の受ける衝撃と苦衷、そして悲惨さは、言葉ではとても表現できません。また、命を懸けて互いに愛し合っていた人が裏切り、排斥し、不信するならば、やはり言葉にはできないほど悲惨です。そのような立場で身もだえしながら受ける苦痛は、経験した人でなければ分かりません。言葉だけでは理解できません。このことは世の中のことを見れば分かります。それでは神様はどうして悲惨になったのでしょうか。神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。私たち人間とは最高の関係をもった神様です。神様が喜ぶことがあったとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点をもつことです。ところがその出発の起点を人間ゆえに失いました。それがアダムとエバの堕落です。
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 この世でも、父母が還暦を過ぎてから生まれた七代続きの一人息子が死ぬことを考えれば、絶望中の絶望だといえます。若ければまた生むこともできますが、年を取ってから生まれた七代続きの一人息子が死んだとすれば、七代圏を継承しようとしていた先祖たちの心はいかばかりでしょうか。先祖たちは自分の子孫、自分の血統を通して世界にまたとない万福を受けたいのです。ですから子が死んだとすれば父母は後を追って死にたいのです。アダムは七代続きの一人息子どころか、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムをして家庭を築かせ、創造の大業を果たした立場に立たせようとしたのに、そのアダムが死んだのですから神様の心はいかばかりであったでしょうか。このように、よじれたのですからどうしたらいいのでしょうか。神様はアダムとエバの堕落によって六千年間、衝撃から抜け出せずにいらっしゃいます。
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 元来、創造原則から見ると、愛の一体理想圏内に入れば、永遠な所有主が、愛を中心とした主体者が中心となるのです。ところが神様がそのような中心となるべきであったのに、サタンが中心となったのです。天地が地天となり、すべてが反対になったのです。神様御自身が真の理想として願った愛の理想、真の愛を中心として一体となり、一つの体となったものは分かれてはならないものです。その血統も神様の直系子女となるべきであるのに、それが妨げられて反対となったのです。
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 人間の悲惨な姿を毎日毎日、時々に見つめられる神様のその心情はいかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が、肥だめのようになり地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。
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 息子が犠牲になったとすれば、その父親は息子が死ぬようにほっておくでしょうか。このような観点から考えると、愛の神様は愛の対象である私たちを死の場に立たせることができないのです。全知全能の神様であるならば、理想的な世界を造って復活させなければならないのです。父母の愛というものを考えれば、それは十二分に可能です。神様がおられるとすれば、神様は必ずそうすることのできる立場におられるでしょうから、私たちをそのような理想的な復活圏へと移してくださらなければならないという結論になるのです。神様は、私たち人間に住まわせようとして、死ぬようなところ、悲惨なところに置いたのではなく、私たち人間を高次元的な世界に連れていくための一つの関門として、そのようなところに置いたとするならば、それは素晴らしいことではないかというのです。
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 創造主の威信までも、全知全能であられる神様の威信までも、あまねく臨在される神様の実存性までも忘れるような心情で、アダムとエバを愛したかったのです。そのような立場で堕落したアダムとエバを見つめられる神様の心はいかばかりであったか、これを知らなければなりません。
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 今日、私たち人間は神様の息子、娘ではありません。神様がいくら泣いても見て見ないふりをします。いくら悲しんでも見て見ないふりをします。それは人間がサタンの血肉を受け継いで生まれたからです。むしろ神様が悲しむのを見て賛美しています。滅びるのを見れば、喜んで笑うのです。神様がこのような人間を指導し、開拓の方向を教えてやろうというのですから、どれほど御苦労なことでしょうか。神様に、「ため」に生きようという心、憐れみの心がなかったならば、今まで摂理歴史を支えてくることができたでしょうか。


  2.神様の歴史的に悲惨な姿

 神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか。
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 今日の既成教会で信じているように、全知全能で栄光のみ座におられる神様であるとすれば、御自身の息子、娘が死んでいくのに、み座から「ここに上がってこい。私が座を離れることはできない」と言うでしょうか。み座でも何でも投げ出して下りていくでしょうか。どちらでしょうか。そのままでおられるでしょうか、下りていかれるでしょうか。王冠を脱いで急いで下りていくでしょうか。どうされるか考えてみてください。それではキリスト教の信仰は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。
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 神様が泣き叫びながら「私の息子よ、私の娘よ」と何万年、何十万年、何百万年も呼び続けてこられたという事実を知らなければなりません。そのような神様の前で「父よー」と声がかすれるほど呼んだことがありますか。舌が乾き、息が詰まり、目がつぶれて開けられないほどに、切に父を呼んだことがありますか。生命の主体であるその価値を抱くために、どれほど身もだえしたでしょうか。身もだえした基準に比例して皆さんの人格の基準が測られるのです。
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 私たちは全知全能であられるそのお方に対することのできる何らの内容も持ち合わせていません。しかも堕落した人間として生まれた私たち、私たちの目は俗なるものです。私たちの五感の感情はすべて俗なるものです。神様に対することのできるものは一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対することのできる内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対することができるという唯一の道があるのです。したがって皆さんが信仰生活において年を経るほどに愛の哲学をもって暮らし、愛の哲学をもってすべてのことを分別しながら生活する信仰者にならなければならないのです。そのような人は十年が過ぎ、二十年、三十年の生を経れば、自動的に神様の必要とする人になっていくのです。
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 神様が数千年の間復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、神様が善なる心をもっていたので耐えてきたのでしょうか。神様が今まで人類歴史の数万年の間救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続けてきた原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからですか。そうではありません。愛の道を求めてきたがゆえ、愛の息子、娘を探し求めているからです。それゆえ千年を一日のごとく受難の道を越えに越えることのできた偉大な力は愛であった。そうでしょうか。そのとおりなのです。
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 神様がかわいそうです。かわいそうではありませんか。全知全能の神様がどうしてかわいそうなのかと言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道が神様御自身にあるならば、神様は今まで六千年の歴史路程を経ながら苦労される必要はないのです。
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 人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。
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 統一教会とは何でしょうか。神様の心情を論じています。神様を解放しようとしています。既成教会は、私たちがそのようなことを言うと言っては私たちを異端だと言います。皆さん、立派な大統領でも自分の子が今死んだとすれば、その死んだ子の前で大統領の権威をもって「子供は死んだけれども、大統領は涙を流すことはできない」と言うでしょうか。陰で鼻を打ちつけ、痛哭し、人前では顔を拭って、そうだとすれば通じますが、そうでないとすれば死んだ息子の霊が「これが父親だなんて……。父親ではなかったのだ」と言うことでしょう。死んだ霊が活動するとすれば、その父親に協助するでしょうか、反対するでしょうか。世界の大統領でも誰でも、自分の愛する子供が死んだならば涙を流さなければなりません。
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 人間の創造本然の特権的な価値を喪失し、堕落のうじとなってあえぐ無価値な人生を見つめる神様の内情的心情は、どれほど悲惨なことでしょうか。あの者たちは本来、私の愛と私の生命と私の血統を通して直系の子となり、天国の栄光を占めたであろうに、敗者の仮面をつけ、呻吟と苦痛と絶望の中であえぎながら命を絶つ場にいるのです。ですから、それを見つめる神様の心はどれほど悲痛でしょうか。そのように神様が悲しみの神様であることを知らずにいました。それゆえ文総裁は神様を知ってから何日も何週間も痛哭しました。統一教会の出発には、そのような深いものがあるということを知らなければなりません。
            *
 神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。


 三 拘束された神様、囹圄(れいご)の神様

  1.神様が立つ瀬を失った

 私の恨は何でもありません。神様が神様の本分を果たせずいます。このような多くの事情を残した歴史過程で、神様の骨髄が溶けるような悲痛な涙と流した血の跡がこの地で喚声を上げているという事実を知らなければなりません。このような神様の恨を解怨成就する使命があるということを知っているがゆえ、私が今までこうしているのです。
            *
 神様を解放しなければなりません。神様は今愛を中心として拘束されています。監獄に閉じ込められているのと同じです。解放されていないのです。全知全能の神様、宇宙を創造された神様が人間ゆえに愛を中心として築こうとされた理想世界をサタンに奪われたので、神様も心情的に解放されないのです。神様の心情的解放基盤がこの宇宙にできないのです。神様も拘束されました。愛する子供が死んだのに父母が安らかでいられるでしょうか。いられないのです。
            *
 神様を私の手で解放しようというのです。神様は解放された神様ではありません。拘束された神様です。息子、娘を失った父母、なおのこと孝行息子が死んだのちの父母の心を解くためには、その孝行息子以上にすべての面を備え、十倍以上功を尽くして孝行しても、その本来の心を解放することはできません。レバレンド・ムーンがそのような神様を解放しようというのです。
            *
 悔しい神様、神様がなぜ悔しいのでしょうか。人間世界では青春時代に苦労すれば必ず未来に希望が保証されるのですが、神様は歴史始まって以来今まで苦労しているのに、いつ希望があるのでしょうか。いつ神様の希望が成し遂げられるのでしょうか。神様は若い神様でしょうか。今は年老いた神様なのでしょうか。神様は何歳だと思いますか。神様は宇宙の外にいるので年齢もありません。神様は地球のように太陽系を一年に一度ずつ回るでしょうか。その外側にいるので数えられません。計算する必要がありますか。
            *
 神様がどれほど悔しいかといえば、王座を奪われました。王座を怨讐に奪われたのです。神様が神様となれず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。自国の王、宇宙の王であるのに、王が生きているのにもかかわらず、王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪われ、御自身の愛する息子、娘をすべて奪われ、完全に怨讐のもてあそぶ地球となってしまいました。
            *
 万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに父母が安らかな立場に立つことはできないのです。このような立場に神様がおられるがゆえに、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民を自由に愛することのできる解放圏を神様の前に取り戻してさしあげるべき責任があるのです。堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。
            *
 人間が堕落することによって何がどうなりましたか。神様が自由な神様になれませんでした。拘束の神様となりました。次に人類始祖が拘束されてしまいました。その次には天使世界まで拘束されてしまったのです。それだけではなく、歴史的に多くの宗教人が拘束圏内であがいています。人類もやはり同じです。
            *
 親不孝者をもった親は、その親不孝者によって拘束されるということを知らなければなりません。その親を解放するためには、親不孝をした以上の孝行を尽くさなければなりません。それだけでなく、大衆の前で公認されなければなりません。そうして初めて過去の罪を洗い流すことができるのです。これが天理です。同じ道理です。「先生だけのために……」というのは必要ありません。
隣人とこの国、この民族はかわいそうな群れです。五千年間「わらぶきの三間の家を建て、両親に侍って、千年万年……」(韓国の童謡の歌詞)。両親に侍るという言葉は有り難いのですが、千年万年わらぶきの三間の家に住むのですか。かわいそうな民族です。このかわいそうな民族を正しく指導しなければなりません。お金も何もないこの民族が、神様の恵みまで受けられなければ、どこに行って暮らしますか。


  2.神様が神様の本分を果たせずにいる

 統一教会はいつまで残るのでしょうか。地球を解放し、霊界を解放し、のちに神様を愛の心情で解放するときまで統一教会は行かなければなりません。最後には人類を解放し、霊界を解放し、神様を解放しなければなりません。このような話を聞くのは初めてのことでしょう。神様が私たちを解放してくれるものと思っていたのに、私たちが神様を解放しなければならないのです。心情的には神様が拘束されているということを知らなければなりません。
            *
 愛する父母の前に親不孝者がいるとすれば、その親不孝者が父母の願う基準、解放される位置まで上がってくるのを見なければ、その父母の心情の解放圏はできないのです。同じように神様においても最高の愛の相対として造ったアダムとエバは、神様の愛の相対であると同時に縦的な面では父子の関係であり、横的な面では夫婦的な縁となるようになっていたので、彼らを中心として天地のあらゆる愛の理想を実践しようとしたのです。ところが堕落によってそのすべてを失ったのです。神様までも拘束の神様となってしまったのです。
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 天国を築いて生きる人でなければ天国へ行くことはできません。私が監獄に入って手錠をかけられて暮らす立場に立ったとしても、「私」を拘束することのできない愛があるのです。私が腰を曲げ、眠ることのできない立場にあるときに、夜に起きると手が光を放っていたのです。なぜ光るのでしょうか。神様が抱いてくださっているからです。それが分かったのです。ですから暗い部屋でも光を放ったのです。
私がうめき声と泣き声を聞きながら監房の隅で粛然としていると、次の日の朝には、皆はったい粉の包みを私に持ってきてくれたものです。通りを越えて「どこどこの監房の何号のところに、お前がこれを持っていかなければ、この監房全体が安らかではなく、お前の家が安らかではないので持っていってやれ」と言うのです。私の神様は愛の神様なので、このような神様を冷遇する恩知らずの統一教会の群れとなってはなりません。
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 「人類のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が六千年間求めてこられたのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。
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 神様とサタンが闘ったとすれば、止めることのできる者はいるでしょうか。そのままで闘いが終わるでしょうか。神様の前に孝子はなく、神様の前に忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理、聖者の道理、天国を守ることのできる主流の愛の体制がなくなったので、神様の立つ瀬がないのです。今まで囹圄の身で軟禁状態にある神様となったのです。天国は完全に廃虚となり空になっています。そのような痛みをもっているのが神様です。
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 では、神様の探し求めるおじいさん、おばあさんに会ったことがありますか。堕落したがゆえに、会うことができませんでした。神様の探している母、父に会ったことがありますか。神様の探している妻、夫に会ったことがありますか。神様の探している息子、娘に会ったことがありますか。この恨みをどのように解くのでしょうか。この心情の拘束の鉄条網を誰が切るのでしょうか。それは神様の愛以外にはありません。神様の本質的愛以外にはありません。
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 神様はあらゆる面において自由自在にできるお方であるのに、非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができないという恨めしく悲しい神様の心、気が遠くなるほど嫌気がさすのを誰が知るでしょうか。
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 既成教会では「聖なる、聖なる神よ、栄光の神よ、私に恵みを下さい」と言うのですが、神様はそんな神様ではありません。悲惨な神様です。拘束された中にある神様です。良い息子を生んで解放されるべき神様であられるので、神様の運命は哀れな運命です。ですから皆さんは神様を解放してさしあげなければなりません。そうせずしては天道が正しく定められないので、この地上に理想世界は現れることができないのです。これを正すための歴史が統一教会の歴史であり、使命です。
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 統一教会のみ言、統一教会の内容、耳で聞く内容の中には何があるのでしょうか。心情的に拘束されている神様を解放することのできる内容をもっているのです。人間が堕落することによって神様は嘆息されたと言われています。嘆息の歴史は出発から世界的なものとなったのであり、世界的になったがゆえにパウロは「人類が嘆息し、私たちの先祖も嘆息し、全人類までもが嘆息している」と言いました。そうして神様の多くの息子、娘が現れることを願っていると言ったのです。それは嘆息圏から逃れることを、より分けていくことを願ったからです。































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