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真の神様
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 五 神様を解放してさしあげよう

  1.神様は囹圄(れいご)の立場

 誰が悪霊と善霊の闘いを終わらせることができるのでしょうか。それは神様でもなく、サタンでもありません。それでは誰でしょうか。真の愛から出発して真の愛をもっていく、世界万民がついていくことのできる愛の主人公が現れなければ、神様の闘いとサタンの闘いを終わらせることはできないのです。この闘いから解放されない限り、人間歴史世界において平和という言葉は妄想的なものです。理想という言葉は抽象的で感傷的な言葉にすぎません。それで神様はこの代表者を遣わすのですが、その主流思想をメシヤ思想というのです。救世主思想、救世主は人間だけではなく、神様までも解放する人のことを言います。悪を処断することを意味します。神様解放と悪を決算するための総責任者が救世主です。
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 救世主の使命は神様を解放することであり、サタンを処断することです。あれほど人間に食いついては讒訴した怨恨のこの元凶を誰が清算するのでしょうか。神様にはできません。唯一メシヤが、救世主だけができるのです。
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 私たちの願う統一教会とは何でしょうか。父母の宗教を求めていこうということです。甘い生活を求めるのではありません。道義的な関係ではありません。真の父母を中心として真の愛の道理の道を求めていこうというのです。そうして神様を解放しようというのです。愛の原則条件が結びついていなければ解放されないのです。
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 お父様が愛され、そのお父様が求めようとされる国を考えてみたことがありますか。監獄の道をもいとわずに行けば何らかの道があります。その生死の岐路を開拓してきたのが、民族が進むことのできる道であり、暗黒の淵を越えて希望ある道であるということを知る人はいません。世界万民を解放するためのトンネルを貫通するために、そのような事情を抱いて苦労したということを知る人はいないのです。神様に忠誠を尽くし私がこの道を行くということは、中心をお迎えした中で細心の注意を払って暮らしながら、愛を貴く抱いて侍るべきお方だということをわきまえていくということです。この道は時が移り、歳月が変わっても万世に変わることのない、たった一つの道であると考えて生きていくことです。
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 神様を解放しなければなりません。私が神様を救わなければならないのです。私が救われようとするのではなく、神様を解放しなければなりません。これが救いの摂理の総決算です。
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 統一教会は神様解放のための解放軍です。世界解放ではありません。世界解放は容易です。人間が団結すれば世界解放はできますが、神様の解放は心情圏を団結させなければなりません。愛の圏を団結させることのできる原理と思想体系を備えなければなりません。そうして霊界を解放し、地上に心情圏の橋を架けなければなりません。どんな革命よりも恐ろしい革命です。困難な革命です。ですから人類の解放は容易でも、神様の解放は困難なのです。世界にまたとない困難なその仕事をレバレンド・ムーンが旗手となり、今日摂理史の総決算という表題を掲げて進み出たということは驚くべき事実です。
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 今日の宗教指導者はひれ伏して祈祷をして恵みを受けようとしますが、私は恵みを与えてくださいと祈祷したことはありません。「私一人が祭物となって神様を解放しよう」と祈祷したのです。旧約時代は万物を立てて神様の人を探し求めるための時代であり、新約時代は息子、娘を犠牲にして父母を探し求めるための時代であり、成約時代は今まで父母様の家庭を犠牲にして神様を解放するための時代です。本然の父母をこの地上にお迎えし、共に千年万年暮らし……。韓国の童謡の中に「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んでいた月よ……」というのがあります。月桂の木が植えられているのでどうこう、両親をお迎えして千年万年生きたいものだと、これはみな韓民族の啓示的なものです。天の父母をお迎えして千年万年生きたいものだ、私はこの歌を思うたびに胸に熱く込み上げるものがあります。
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 神様がアメリカに二百年間世界的な祝福をすべて与えたのですが、これをすべて自分たちのための福だと思い、自分たちキリスト教の福だと思い、アメリカだけの祝福だと思っているのです。アメリカとキリスト教を犠牲にして、世界万民を解放し、万民の福祉を建設すべき責任を忘れて、アメリカ第一主義、アメリカ単一主義、個国主義に陥ってしまったのです。世界主義的アメリカのために、自分の一国を犠牲にし、一キリスト教を犠牲にしてでも世界的基盤版図を築くのが神様のみ旨であるにもかかわらず、それに背き反対の立場に立ったのでアメリカ自体もまっさかさまに落ちるのです。家庭が崩れ、教会が崩れ、国が崩れ、すべてがめちゃめちゃです。すべてが病んでいます。
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 神様と真の父母を解放し、世界を救うために進み、地獄を貫かなければなりません。地獄の底を貫いていけば天国です。これを知らなければなりません。それが近いのです。地獄の底を貫くのです。ですから犠牲になり、奉仕せよというのです。「私が救われるために統一教会を信じる。この道を行く」というのでは零点です。それでは絶対に世界舞台には立てません。「神様を解放し、真の父母を解放し、世界を救うために私はこの道を行く」と言わなければなりません。分かりましたか。内容が違うのです。
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 死んでも生きてもこの道を正さずしては行けません。これを知っているがゆえに先生は、一生の間このようなことをするのです。はっきりと知らなければなりません。迫害を受け、あちこちの監獄に入りながらもこの荷を背負っていくのです。監獄に入るのが良くて入るのでしょうか。神様のため、神様の解放のために行くのです。人類の解放のため、サタン世界を解放するために行くのです。蕩減復帰の道を行かずしては解放圏ができないのです。安逸な中ではサタンを分立することができないので蕩減復帰の道を行くのです。
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 責任分担解放圏というのは心情の解放圏のことを意味します。神様が解放されなければならず、父母様が解放されなければなりません。悪なる父母が現れたので、それに対さざるを得ない立場に立った神様はどれほど苦痛なことでしょうか。ですから父母の解放、神様の解放をしなければなりません。そのような孝子とならなければならないのです。父母様がいまだに苦労をしており……。天の父母に苦痛を受けさせておいて、自分は楽に暮らそうというのですか。自分の息子、娘には良いものを食べさせ楽に暮らそうというのですか。そのようにしたり、そのように考えることができるのでしょうか。
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 神様を解放してさしあげるべき私たちの生活路程において、摂理のみ旨に対する神様を呼ぶときには、胸が締めつけられ痛哭する心情をもたずしては呼ぶことのできない神様であることを知らなければなりません。ですから洗礼ヨハネも荒野で「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んだのです。イエス様も「悔い改めなさい。天国が近くまで来ている」と言ったのです。悔い改めなければならないのです。皆さんが摂理のみ旨に向かう立場でどれほど無礼であり、どれほど厚かましかったかというのです。世界において解放できなかったとしても、自分だけでも神様を苦痛から解放してあげなければならないのです。
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 世界を統一するにはどうすべきであり、解放はどのようにするのでしょうか。サタン圏を統一することのできる神様のような能力をもった人が現れれば、霊界と肉界に分かれたものが一つになるのです。解放されるのです。サタンを主管することのできる人さえいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。神様に解放が必要でしょうか。神様は既に解放されています。神様に解放が必要だというのは、人間を解放するために必要だということです。神様御自身は解放されているのです。人間が解放されていないので、人間を解放するにあたって神様が解放条件に引っ掛かっているだけであって、神様御自身は解放されないお方ではないのです。人間にかかっているのです。
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 キリスト教思想は再臨思想です。イエス様が再臨して何をなさるのでしょうか。今日のキリスト教信者の中にはとんでもないことを言う人が多くいます。雲に乗って空中に上って千年の祝宴をするのですか。よく知ってみると、それは全く根拠のないことを信じているのです。イエス様が来て何をするのでしょうか。イエス様が来て誇れることは何でしょうか。神様の前に不義を立ててくれと抗拒するサタン、そのサタンを切ってしまわなければ神様はその永遠な抗拒を避けられないのです。
この地に再臨主が来てすることは何でしょうか。キリスト教信者、その数億人にすぎない人々に良い暮らしをさせるための再臨主ではありません。神様を解放しなければなりません。公義の道理の前に立って神様を解放するという責任を果たす主役として来られる方が、再臨主でなければならないのです。


  2.神様の解放は人間がしなければならい

 世界を解放するには、まず神様を解放しなければなりません。神様が解放されてこそ世界を解放できるのではないでしょうか。神様を解放してから世界を解放しようというのです。ですから統一教会を地の果てまで伝播して心情的絆を結んでくいを打ち、世の中すべてを愛でもって溶かそうというのです。その闘いをするのです。分かりましたか。
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 神様を解放することのできるその位置まで行くべきことを知り、父母様の行く最後の終着点を目指して同調する群れが雲集するようにしなければなりません。そうすることによって個人から家庭がつながり、家庭から氏族がつながっていくことでしょう。氏族と民族、国家が犠牲となった祭物的価値を相対的世界、第二次の父母様を迎えた世界に再現させることによって、歴史的に犠牲となったすべての聖人たちを、復活圏の実体として代わりに蕩減復帰しなければなりません。そうせずしてはこの地を離れることができないのが人間の運命であるがゆえに、死んでもこれをなさなければならず、この溝を埋めなければならないのです。これは宿命なので誰もが行かざるを得ません。早く行かなければならないのです。
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 神様を解放しなければなりません。この地の隅々まで神様が訪ねてこられて「私の創造理想が夜も昼も、歴史を通して成し遂げられたのだ。感謝であり、驚くべきことだ」とたたえることができると同時に、どこへ行っても神様が愛さざるを得ないこの世界の舞台となり、宇宙となり、霊界や肉界も同じようにならなければならないのに、そのようにはなっていないのです。いまだに天のみ座の下までサタンの闇の権勢が占領しているのです。ですから神様を解放するためには霊界を解放しなければなりません。闇の世界から。
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 「私」という人は解放というのを本当に好む人です。また、統一ということを好みます。どれほど好きでしょうか。生きられないほど、死ぬほどに好きです。統一の門、解放の門はこの文という人にあるのではありません。よく知ってみると、万有の大主宰であられる神様にあるということが分かりました。ですから「神様が好まれるものと言ってもたくさんあるでしょうが、最も好まれるものは何でしょうか」と言うと、「私が一番好きなのは解放である」と言うのです。答えは簡単です。「私が一番好きなのは解放だ」と言うのです。それで「では、なぜ解放ができないのですか」と言ったところ、「一人ではできない」と言うのです。それが病気なのです。神様一人ではできないというのです。
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 国を愛しましたか。息子、娘を愛しましたか。息子、娘の道を開いてから民族を愛しましたか。世界が行く道を開いておいて、世界を愛しましたか。天に行くことのできる道を開いておいて……。そのようにできるところにだけ完全な解放の夜明けが訪れるのです。夜が明けるとき、その陽光は谷間にまでさし込み、死の中に閉ざされ拘束されていたすべての人間を完全に解放するのです。平和を謳歌し、解放とともに統一の世界が私たちの前に来たと言い、千年の歴史をすべて無視して解放の王子となり、統一の旗手となり、神様の前に褒められるのみならず、神様の愛の懐に抱かれて、永遠無窮の幸福を享受すべし、ということになるのです。そのようにする自信がありますか。
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 人類の解放も必要ですが、人類の解放よりも先に、神様を解放しなければなりません。そうしてこそ人類の解放につながるという事実を考えている人はいません。既成教会の牧師も、神様は栄光の中にいる審判の神様だと考えているのです。誤った考えをもっているのです。私の知っている神様はそうではありません。神様を死亡圏から解放しなければなりません。
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 旧約時代、新約時代、成約時代、その次は完成時代です。完成というのは愛を中心とした完成です。完成は父母の解放、子女の解放、万物の解放、神様の解放です。それが一度になされなければなりません。堕落した父母によって一遍に地獄に行ったものが、天と地をかけて一度に成し遂げられるのです。
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 民族的背景と民族を代表した人、または団体が現れるとするならば、それはどんな人であり、どんな団体でしょうか。民族の歴史的伝統をもち、時代相を代表して世界へと進んでいくことのできる時代的な使命を、未来的な使命につなげることのできる、そのような団体と個人でなければなりません。それがレバレンド・ムーンと統一教会だということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ統一教会の真理には侵略性がないのです。反対に救ってあげようというのです。解放しなければならないのです。万民をすべて解放しなければなりません。解放をもって進むのです。霊界と肉界が合わさって神様を解放しようというのです。
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 私が称賛され歓迎されるということは夢にも思っていません。祈祷してみてください。統一教会の思想は、統一教会を犠牲にして人類を救い、世界の人類を救って天と地を解放し、その次には神様を解放するのです。神様は御自身が回収したものすべてを再び投入して、完全に堕落のない次元の高い別の世界、天国大移動の局面を願われることでしょう。そのようなことをしているということを知ってほしいと思います。
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 先生は何でもありません。人類歴史は百五十万年だと言われていますが、永い歴史過程において自分の威信と権威とすべてを忘れて、失った子を探し求めて身もだえするかわいそうな父母の身の上を誰に訴えるのでしょうか。子が現れてそれを解いてさしあげるまでは、その胸の内にしこりとなった恨を解くこともできないし、打ち込まれた釘を取り除くこともできません。釘を取り除いて愛の涙で、血肉で、それが肉となるように解いてさしあげなければならない神様の怨恨の心情を、誰が解放してさしあげるのでしょうか。私の解放よりも先に、神様が解放されるべきであるということを知らなければなりません。これが宗教人の追求する究極的な解放の道だということを知らなければなりません。
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 幸福の種がどこにあるのか知らなければなりません。堕落して失ったのでそれを取り戻さなければなりません。ですから統一教会を中心として真の神様を求めていこうというのです。今までの神様は復帰の神様です。本来の神様ではありません。怨恨の神様、かわいそうな神様です。喜びの神様ではありません。落胆の神様です。それゆえ元どおりにするためには、復帰の神様を解放してあげなければなりません。お金でするのではありません。権力でするのでもありません。ある人によってするのでもありません。真の愛でしなければなりません。
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 苦労によって出発したので、苦労によって終着点を目指していこうと思います。「レバレンド・ムーンの名は悲惨であった」という結論を出そうと決心した人物です。私にはお金が必要ありません。名誉も必要ありません。唯一神様を解放し、人類を解放し、サタンまでも解放して永遠なる愛の基地をつくるのが、新しい祖国を訪ねいく希望峰なのです。皆さんはそれを知って、行く手を険しい山々がはばんでも、朝食を忘れ、昼食を忘れ、夕食を忘れ、昼と夜を忘れながらもその道を行こうと身もだえしなければなりません。そのような生涯が長ければ長いほど天の怨恨を越えた神様の理想的愛が、皆さんと共に、皆さんの家庭と共に、皆さんの一族と共に、皆さんの国と共にあるというのが天理の原則であるということを知って、そのように生きてくれることを願うのです。
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 偉大だというのは顔が偉大なのではなく、体が偉大なのではなく、思想が偉大なのです。神様までも動かざるを得ず、神様までも私についてこざるを得ないという精神、それが偉大なのです。愛の目的を達成できていない神様を、私が愛をもって解放することを主張するのです。愛の目的を成就できなかったという恨をもっている神様が、今日レバレンド・ムーンに出会って解放されたというのは理論によるものです。妄想ではありません。体系的な理論、科学的なデータによる実証的結果によってこれを主張するのです。
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 神様を解放するのです。そうすれば終わりです。神様が思いどおりにすることができるのですから全知全能の神様の全権全能を行使する時代が来るので、そこは泰平王国とならざるを得ないということを知らなければなりません。そうしてこそ「アーメン」です。言ってみてください。「アーメン」。


 六 神様の解怨と孝子の道

  1.真のお父様が歩み来られた復帰の道

 神様のみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを私はよく知っています。神様の愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても神様の前に祈祷をしませんでした。
私は追い回されましたが、私を助けてくださいと、神様の前に私の行く手を守ってくださいと、私を救ってくださいと祈祷するような人ではありません。私は男としての自分の余力をもっており、自分の気概をもっており、闘うことのできる自体力をもっている人間です。私の力が足りなくて意識を失い倒れたならば助けてくれるであろうから、それまでは自分の力で……。私が行く前に神様が先に準備して待っているということを知っているのです。
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 統一教会に神様がおられます。神様がおられるのです。もし私が「あいつ!」と憤りをこらえられずに口を閉じて「今に見ていろ。何カ月かたったときには」と考えようものなら、めちゃめちゃになるのです。それを見ると不思議です。ですから私は舌をかんで我慢するのです。私の口で呪うことはできません。真の父母の名をもった私が自分の口で呪うことができずに唇をかんでいると、天がその怨恨をすべて解いてくれるのです。それを見ると、神様が愛しているということが分かるでしょうか。
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 主人としての国権をもって、アジアの五千年文化を誇ることのできる、白衣の単一民族の権威をもって主権国家の大統領となり、国会議員となった人は一人としていないのではないでしょうか。解放後に。私はそのような国会議員を立て、そのような大統領を立てようと考えています。これは私一人の願いにとどまるのではなく、神様がそれを願っているということを知らなければなりません。そうなったときアジアは私たちの手中に収まるのです。世界は私の指示どおりに、神様の目指されるところに向かわなければならないということは間違いないということを信じてください。
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 怨恨の種を抱いている私に安息ということがどこにあるでしょうか。行く道は急がれているのです。千年史をすべて解いていかなければならない道は忙しいのです。私は四十年の生涯、涙の道を逃れられない歩みをしてきた人物です。今も同じです。北の地が神様の新しい愛の園を迎えて、そこに神様をたたえることのできる若者たちの芽が出なければならないのに……。神様に背いた芽として染まっているのを御覧になって神様は顔をそむけられたのですが、その顔を振り向かせることができるようにしなければなりません。私が神様に侍ってそれを再び正常に回復しようという思想をもっているので、そのようなことを共産世界も有り難く思うのであり、民主世界はなおのこと有り難く思うことでしょう。そこを目指して前進すべし!
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 西大門刑務所で……。統一教会に死を覚悟して通っていたのに、私がひいきしてあげないので出ていった女性伝道師がいたのですが、その婦人が「ざまあみろ。神様の息子があのざまだ」と言いました。私は「監獄で消えるような男ではない。私は解放の世界に向けて跳躍するであろう」と言いました。その人の顔が忘れられません。以前悲惨に死んだというのを聞いてかわいそうに思いました。私はそのように生きている人なのです。この心に染み込んだ怨恨……。五大主権者が私にどのように対したか、みな知っています。しかしながら知らないふりをします。復讐しようとはしません。知らないからです。私が一度会って教えてやらなければならないのです。すべて話してから清算しなければならないのです。
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 それでは先生自身は、この地に来るときにどんな立場に立つのでしょうか。神様の怨恨の心情をもって、残った息子として完成した愛で愛することができなかったこと、兄弟として完成した愛で愛することができなかったこと、夫婦として完成した愛で愛することができなかったこと、父母として完成した愛で愛することができなかったことを、愛することによってその恨の峠を蕩減して解いてあげる立場に立っているのです。
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 利他的なものでなければなりません。神様が利他的な創造理想を中心として投入、投入、投入して真の愛を繁殖するようになっているのです。こうすることによって天下をカバーして本郷の地へと帰らなければならないのです。帰る時には怨讐だからといって足でけ飛ばすのではありません。これを愛することによって自然屈服させなければならないのです。自然屈服しなければ神様が定着することができません。それゆえ文総裁が……。私が手段、方法を使えば誰にも負けません。しかしそれを知っているがゆえに耐えてきたのです。火のような性格で今まで四十年我慢するのはどれほど大変だったでしょうか。神様は私以上であろうに、いかばかりのことでしょうか。
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 私が後ろを振り返ってみると、神様が私を抱き締めながら涙を流されたことがあります。「あなたは私の愛の中心です。私はあなたに服従します。あなたに絶対に従っていきます」と祈りつつ、振り返ると、そのように私を抱き締められるのです。その立場はどれほど偉大な立場でしょうか。神様が私にそのような神様の立場を与えてくださるように、今、私もそれと同じ神様の立場を皆さんに与えるのです。何のことか分かりますか。
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 考えてみてください。歴史を振り返ってみるとき、四十年前、先生は国に追われ、既成教会に追われ、すべてに追われて、荒野に追い出された孤児のような立場にありました。このような立場から歴史的な基準を再び取り戻し、世界的な版図をつくらなければならないみ旨を前にして、このみ旨を成し遂げなければならない先生の立場はどんなに悲惨であったことでしょうか。第二次世界大戦以後に、神側として確定しておいた勝利的キリスト教文化圏と、自由世界を統治するアメリカの基盤をすべて失ってしまった立場だったのです。主人となった立場からこれを失ってしまった悲痛さと、再び四十年蕩減復帰しなければならないことを考えざるを得ませんでした。神様が有史以来、何十万、何百万年をかけても成し遂げることができなかった、人類歴史を終結させることができるという事実をはっきりと知っていた立場から見るとき、どれほど悲痛だったでしょうか。
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 私は雨が降り雪が降るのも知らずに、夜を朝のように早朝のように感じながら、食事をするのも忘れてこのようなことをしてきた人です。安楽に考えることができません。神様を知っているからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったがゆえに、私という一身がばらばらに裂かれることがあったとしても、粉になって吹き飛ばされることがあったとしても、この飛んでいく細胞は神様の一点の細胞であると泣き叫ぶことができるならば、男として生まれて価値のある死だと言いながら、死の道を訪ねてもがいているのです。もがいて滅びると思ったら、なくなると思ったらこのようになりました。
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 天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。「私は死にそうです、神様、助けてください」という祈祷をすることのできない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は誰一人いません。唯一神様だけが、神様だけが……。いくら統一教会に従う人が多かったとしても、レバレンド・ムーンの思想に一つとなっていません。このようなことを皆さんは知らなければなりません。統一家というものは、今日、解放圏に立った統一家というものは安っぽいものではありません。祝福を受けたという者たちが動くその挙動が今日、悪魔のいとこの立場に立っているということを私は知っています。
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 「私の闘いがまだ足らなくて、私が涙を流す資格が足らないと感じ、私が悲しめばお父様が涙されることを案じながら、私が打たれて耐え難い悲痛な立場に立てば、天が悲惨な立場に立つのではないかと案じる私の悲痛さは何でもありません。私の悲しみは何でもなく、私の悲しみは何でもありません」と歯を食いしばって私が涙をこぼせば、天が涙をこぼすのではないかと案じ、泣き叫んで怨讐に報いる途上に立ち、先鋒将として勝利の旗を掲げて勇み立つ勇士がいるとするならば、その勇士の前に神様は百倍謝礼するのです。「お前の名を忠臣としようか、お前の名を孝子としようか、お前の名を烈女としようか。地上の歴史上にたとえ貴い者がいたとしても、お前ほど貴い者はいないであろう」と神様御自身が頭を下げて謝礼するのです。
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 私文総裁は今まで個人的に孤独な道を歩んできた人です。孤独でも誰よりも神様をよく知っている人です。歴史時代に孤独な立場で悲痛な神様の心情を中心としてそれを呪いつつ自分に恵みを与えてくれという人は多くいますが、私はそのようには考えません。「神様、心配しないでください」と言いました。そこが違うのです。私は個人的な試練ゆえに後退するような男ではありません。世界の試練を越え、神様を解放して死のうという男が、個人的な過程で降伏することはできません。卑怯者にはなれません。自分の妻が反対しても切ってしまったのです。子が反対しても切り、父母が反対しても切り、国が反対し、四千万、六千万が反対する道を歩んだ人です。
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 時間が余りにも短いのです。一生においてこれを直し、満たすためには時間がないのです。先生の生涯がそうなのです。ですから世俗的に見れば先生の生涯はかわいそうなものです。神様に「先生はどんなお方ですか」と聞いてみてください。先生は痛哭するしかない痛みを感じながら、心臓をえぐり出すような痛みをもって身もだえするような悲痛さを体恤しています。先生は地上では悲惨な男です。そのような苦労を誰も知りません。皆、自分が立派な人だと偉そうに威張っているだけで、先生の苦労を知りません。お母様も知りません。
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 神様が六千年間苦労して残された功績をすべて失い、興南収容所へ行った先生の悲痛な事情を皆さんは知りません。故郷を離れることが問題ではありません。妻子が問題ではありません。天と地の未来の希望として解放の民族が、私を歓迎しようとしていたその群れが、雲の中の地獄へと消えていく、暗黒世界に去っていくのを見て、痛哭しながら再び会おうと叫んだのがきのうのようです。「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を歩み、光明の朝日を抱いてお前たちを再び探し出して解放しよう」と宣言したのがきのうのようです。手錠をかけられ叫んだその声を忘れることはありませんでした。困難なとき、いつも祈祷したその姿を忘れることができません。
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 「神様、あなたはこのようなお方ですね。私の知っている神様はこのようなお方です」と言うと、神様は手を握って痛哭し「お前にはそれが分かったのか。我が息子よ」と言うことになります。その言葉を聞けば、神様は痛哭するのです。大声で痛哭するその声はどれほど大きいでしょうか。その因縁は千年歴史に延長させることができないということを神様は知っているので、涙を拭き痛哭をやめて「我が息子よ」と言うのです。それができる息子が必要であり、娘が必要な神様の立場を知らなければなりません。
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 「私は神様の真の勇士となろう。神様のための戦場がどんなに悲惨であろうとも私はその前線に参与しよう」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せても、孤独単身で迫害を受ける立場、苦痛の立場にあっても私は神様に一度も不平を言ったことがありません。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
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 絶対的に神様を信じなさい。左にも信じることができず、右にも信じることができず、東西南北、前後左右、全部信じることができません。絶対的に信じれば中央線に行くのです。絶対的に信じれば一つの位置を求めていくのです。絶対的な位置、神様がいらっしゃるところを求めていくのです。そこからすべてが解かれるのです。それゆえに信仰には独裁性が多いのです。話し合うことができません。ねじれているので強制的にでも角度を合わせなければなりません。ですから神様がどれほど苦痛で、私たち人類がどれほど苦痛なことでしょうか。


  2.神様の解放のための生涯

 私が悔しいとすればどれほど悔しいでしょうか。歴史上で私以上に悔しい人はいないでしょう。痛哭せよというとき、私以上に痛哭する人はいません。この地上で千年歴史を抱き、失った悲しみを抱いて痛哭する痛哭、文総裁が心から流れ出る神様の心情を感じながら痛哭するその痛哭には及びません。そのような根の上に意地を張って座り、そこで自分がよく食べ、楽に暮らすのですか。そんな者がくたばって死んだ死体は犬も食いません。はっきりと知らなければなりません。
            *
 いつも気分のいい男の姿をして困難な蕩減の峠を平気で越え、神様に侍り続け、神様を慰労しながら峠を越えなければ平和の地上天国はできません。その代表者、公的な人は孤独な人です。ある一人の人が立ち上がって「文先生はこのようなことをされ……」と一言言えば、先生は痛哭する心情をもっています。年を取って涙が渇れる七十のおじいさんなのに、誰もその悲しみの涙が流れるのを止められない寂しさをもっています。そのような父母がいるということを忘れてはなりません。
            *
 皆さん、考えてみてください。私は監獄生活をたくさんしました。五年以上監獄生活をしましたが、雨が降って軒先から落ちる水滴が岩に穴を開けるということを思い、「私の愛の涙の粒が神様の胸の中にしこりとなった恨の岩を貫通することができるならば、そうできれば……」と思いながら、その水滴を見て痛哭した事情が皆さんには分からないことでしょう。流れていく水を見て、この水の流れが神様をお迎えして神様が来られて沐浴することのできる澄んだ水の流れとなったらどれほど良いでしょうか。そのような愛の巣、安息所を、人間として神様に準備してさしあげることのできる子となったらどれほど良いでしょうか。そのような心情の深い世界を皆さんが体験できないとすれば、神様と関係がないのです。
            *
 憤りをどれほど堪えてきたことか知れません。息が詰まり、この五感すべてが一度に詰まって痛哭したことがどれほどたくさんあったことでしょうか。皆さんに会うためではありません。人類の主権者たちを屈服させるためです。どういうことか分かりますか。こん棒や銃剣によってではありません。愛の血統を通して彼らを感化して自然屈服させなければ、天地に神様の願う平和の園ができません。平和の王国建設は不可能です。
            *
 この世で生きるのにどれほど困難なことが多いでしょうか。今日歩いていてどうなるか分かりません。その恐怖の環境から抜け出すことができないかわいそうな人生です。この恐怖の環境と混乱の中に立っている私に教えてくれる師は誰でしょうか。師がいません。ここに立っている私はそのような問題のゆえに痛哭し、身もだえしました。神様がいるならば、なぜ師の役目を果たせないのでしょうか。知ってみれば神様は愛を原則とした師だったのです。これを知らずに神様を恨みました。愛を中心とした師なのです。
            *
 最近は朝起きて顔を洗い、髭を剃りますが、夕方疲れて帰ってきて一時間ほど寝たことがありました。少し横になったのです。それから出ていって顔を洗い、髭を剃っていると、それを見て「どうしたのですか」と、朝ではないと言って笑うのです。そのように暮らすのです。心は一つです。精誠も一つです。先生がどんな方かと、神様に祈祷してみてください。痛哭されます。舌が出て戻らないほど痛哭されるのです。そのような事情をもって暮らす先生だということを知らなければなりません。
            *
 堕落した人間の側では救世主ですが、神様の側から見れば初めに失った真の愛の創造理想を完成する真の息子であり、真の父母です。救世主は堕落によってもたらされた神様の恨を解いてさしあげるために生涯を捧げて犠牲の道を開拓してきた方です。栄光としてだけいらっしゃるお方ではありません。常に神様の心情と共に痛哭し、サタンを屈服させるために心を痛め気をもむお方です。
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 誰の神様にするのですか。アメリカの神様にするのですか、大韓民国の神様にするのですか。私の神様にするのですか。どれですか。欲張りですね。そうするには民族以上に神様のために努力すべきです。神様が文総裁が好きだとしても、文総裁以上のことをすれば神様は間違いなく文総裁以上に皆さんを好きになることでしょう。それは間違いない公式ではないですか。そこには異議がありません。私は、私以上に神様を慰め、神様のみ旨のためにより奉仕し、功労を立てることのできる人を求めるのです。もし自分より劣る人を望むとすればそれは独裁者です。
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 マラソンの選手がスタートラインから八〇パーセントのところまで来た所で、百メートル、千メートル前に出ているとすればどうしますか。そこで転べばおしまいです。マラソンのチャンピオンが走るときに観衆は「ゆっくり走れ」と言うでしょうか。「速く走れ、速く」と倒れるまでそう言うことでしょう。同じです。記録を作らなければなりません。レバレンド・ムーンが最高記録をもっていてこそ、神様は最高の賞を下さるときに堂々と下さることができるのです。その時まで、その時まで押すのです。
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 出発において誤ったのです。あきれて言葉が出ません。出生において過ちがあったとは、大きくなって分かったのですが、養子といっても乞食の中から、孤児院から乞食を連れてきて育てたというのです。これは乞食よりもっとひどいのです。幼いときは自分の両親だと思っていたのに、大きくなってから自分が乞食の息子だったということが分かったのです。乞食の出だということが分かればその家はどうなるでしょうか。ひっくり返るのです。痛哭してひっくり返るのです。育ててくれた両親を自分の本当の両親だと思っていたのに孤児院で育った息子だという事実を知ったならば、どれほど驚くでしょうか。私たち人間世界でもこれほど大変なことなのに、天はそれ以上なのです。神様の王権、天国の王宮の皇太子が野良犬と関係をもってこのようになるとは。地獄の王になるとは。
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 文総裁と統一教会の夫婦の理念は、神様の血統を受け継いで生まれた息子、娘として千年万年、永遠な父母に侍り、永遠に我が息子、我が娘とたたえることのできる息子の資格、娘の資格をもつことです。その立場を通過してこそ神様の心の中に残っている堕落の傷を解くことができるのです。そのように神様にすがって「お父様、どれほど苦労されましたか」と言えば、その一言に神様が痛哭をするのです。胸が張り裂けるほど痛哭せざるを得ないのです。「ありがとう、私が数千年の歴史をこのようにしてきた」と言うのです。人類創造歴史が何千万年です。六千年ではありません。それを聖書では文化史を中心として言っているのであり、救いの摂理に着手するためのみ旨を中心としていえば、事実何千万年にもなるのです。
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 自分の欲心を中心として統一教会を利用しようという人、ありとあらゆることをした人を歴史上見かけても、知っていてもだまされたふりをしてやりました。なぜだまされてやるのでしょうか。神様が今までそのようにしてだまされてきました。裏切り、背を向ける姿を見るたびにあきれ驚いて「あいつ、雷を落として首を、日本刀があったら一気に首を落としてやりたい」という憤慨と悔しい思いが爆発するのですが、彼らが帰ってくることを願っている天の心があることを思うと、そうはできないのです。かわいそうな神様にすがって許そうという心をもってきたところ、そのたびに節ができます。分かりますか。統一教会の一つの節ができるのです。竹に節があるように、節ができるのです。そうして家庭的節目、氏族的節目、民族的節目を刻んでいくのです。
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 歴史的師が生きた苦痛、神様の歴史的苦痛を流し去ってしまってはならないのです。私の心の深い愛を大切にしまい、あの世に行って出会ったら首を抱いて「あなたが悲しかった事情をみな知り、その度数に合わせて生きようとしましたが、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙をのんで痛哭する心が先立つときは、神様にすがって痛哭するとしても神様も共に泣きながらかき抱いてくださるのです。そのような日をもてずしては解放できないと考えている人です。妻の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばず、父母の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばないのです。それを知っているので、解放のためによそ見も寄り道もできずに歩んできたのです。
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 また会うときまで昼夜を分かたず、御飯が食べたければ先生のことを思い、御飯を食べないでみ旨のために先生がしていることをしなければならず、眠たくなったら眠らない先生を思ってみ旨のために闘っていかなければなりません。非難を受けながらも弁解せずに忍耐してきた師を考えなければなりません。それ以上の心をもち、あすの勝利に対する欲望をもって、自然屈服する怨讐の群れを見るために自らの実績をもって行こうという心をもたなければなりません。そうした努力をしてこそ、皆さんが生きる道があり、この民族が生きることができるのです。
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 ある時には、死刑宣告を受けたという連絡を受けたこともありました。そのようなときに統一教会の教主であるこの私が、どうして涙なしに夜を明かすことができるでしょうか。哀れにも私という人を知らなかったならば、そんなことにはならなかったのに。国境を越えに越え、一度も会ったこともない師に従って歩み、最後に東方の韓国に向かって「私は行きます」と両手を合わせて祈り、最後の道を行く彼らを、かき抱いてあげることもできず、助けてあげることができない心情を皆さんは分かりますか。悪魔の前に受難を受け、苦痛を受けて捕虜となっている彼らを哀れに思う天の心情を知りながらも、昼夜を分かたず前進しなければならないと追い立てたのです。
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 私は統一教会の教主になろうとは夢にも思いませんでした。今もそうです。私は教主という観念をもっていません。平民なのです。きょうも洋服を着ないでネクタイも結びませんでした。一つでも不足な装いをしてこそ気持ちが楽なのです。なぜでしょうか。統一教会の食口たちは全世界に広まって、この時間にも雨降る軒下でぬれた服を着て先生を慕いながら、「先生が御安泰であられるように」と敬拝していることを知っているからです。福を祈っている立場を蹂躙してはなりません。それで目さえ開けば眠れずに、このような罪人のような教主の生活をしているのです。それゆえに統一教会の教会員たちが文総裁を無視できないのです。































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