真の父母
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・ 真の起源

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真ということは、個人に限ってあるのではありません。全体を越えに越えて、適用され、全体を越えに越えて価値的な因縁を結ぼうとするのが真なのです。真は誰もが好み、誰もが探すものであるために、どこにでもなければならないということです。(六三・八九)

我々は個人の目的のために集まったのではなく、全体の目的のために集まりました。それゆえ、自分個人より家庭のために、家庭より民族、民族より国家、国家よりまず世界のためであるべきです。また、自分個人が真になる前に、家庭が真になるべきであり、さらには国家、世界が真になるべきです。

人間は、自分個体としては、すべての福が動機になりえない復帰路程に立っています。では、その動機は何か? 真です。人間が真なる姿を成すには、すべて生死禍福の根源であられる神様と関係を結ぶべきです。その関係を結ばなければ、人間個体内では真なる姿を成しえません。

真は、必ず神様が中心となるべきです。それで、人間は、全体的に収拾して主管しうる決定的な基盤を持つようになるとき、真が成されるのです。その基盤を持てなければ「真」という名詞は成立しえないということを知るべきです。

真の起源は、神様であられます。神様がおられることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。

真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がおられることによって、神様の願いが成されうるということです。それゆえ、真だ、善だという名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。

このような観点から見ても、真は人間が勝手に考えることができるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が我々を主管しているということを知るべきです。それゆえ、我々は、いつも真の前に屈服すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。皆さんの現実的な生活や、あるいは良心生活を推し量っても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理がないでしょう。

我々は、祈るとき、「真なる神様、天におられる聖なる神様」という言葉を漠然と習慣によって言う場合がたくさんあります。しかし、本当の意味での真は、今までありませんでした。それがなかったので、真として連結しうる起源は、人間たちが歩んできた歴史の背景にあるのではなく、これを超越した位置にあるのです。そこから出発するのです。すなわち、その起源は、環境を超越した位置から追求しなければいけないので、宗教は人を中心として信じていくのではありません。

もちろん、教祖を中心として信仰の標準を立てておいていく人たちもいます。しかし、それを超越した立場から、神様を介在させ、真を追求してくる人たちもいるのです。これを見るとき、歴史過程を経てきた数多くの人間の生活路程においてや、現実社会においても、真の起源を持てなかったということです。

人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、必ず絶対的基準です。それゆえ、神様、あるいは絶対者、神という問題がここに登場せざるをえません。それはなぜそうなのか? 今まで地上に真の愛がなかったためです。それゆえ、真を指向しながら生きる人自体としては、真の動機になりえません。その動機は、神様でなければなりません。必ず宗教や、人類歴史上において、最後の重要な分岐点に行っては、神が登場します。絶対者が必ず必要になるのです。

哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神という問題、超越者、絶対者という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのか? 絶対者と関係を結ばなくては、すべての学問や、すべての存在価値の起源が解決できないからです。それで、人間たちが、深刻な場では必ず真を通じて解決しようとしたのです。

このような事実を、我々は否定することができません。それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、神様が介在すべきなのです。真を主張する宗教は、神様を離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、神を否定できません。

ですから、孔子も「順天者は興り、逆天者は滅ぶ」と言ったのです。天を中心として言った言葉です。必ず天を介在させなければなりません。その興亡盛衰の起源が、人間自体にあるのではなく、天から左右されるのです。このような事実について見るとき、天が動機になりうる起源が備えられなくては真になりえないので、この地に生きている人類の中で、真なる人がいるかということが問題になります。

では、真が止まりうる場所はどこか? 勿論、天が起源になって真の位置を地上に立てようとされるでしょう。これは、神様の願いです。それで、人間のどこにとどまるかということが問題になります。我々の生活の周辺にとどまるのです。それでイエス様も「天国は汝の中にある」と言われたのです。真なる国の天国は、心の中にあるのです。何らの邪心がない、深々とした谷に位置しているのです。

我々の心の基礎を分析してみると、知情意になっています。その中でも、どこにとどまるか? 知情意のうち、何が根本であるかというとき、意でもなく、知でもない、情です。

皆さんは、自分にいちばん貴いものがあったら、それをどこに置きたいですか? 自分だけが知っている所に置きたいでしょう。そこは誰も触れられず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理しうる所です。そこがどこでしょうか? 心の深い所です。心の深い所に埋めておくのです。ここであれば安心だと言える所に置くのです。すなわち、人々がよく貴重品を入れておくタンスのような所に置くようになるのです。このような点から見るとき、真がとどまりうる所は、自分の心の深い位置です。(二四・三一七)

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