真の父母
(全面表示) 戻る


B 真の父母は人格の実体

P.37
歴史上の聖賢たちの中で「私は人類歴史において、人間たちを代表して、体と心が闘わず完全に統一を成したので、私を見習え」と言う人がいましたか? 学校の教育で見れば、倫理生活について責任を受け持たれた教授たちも多いのに、何が重要かというのです。

体が重要か、心が重要か? 心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の体と心の統一圏です。それが重要なことです。それがだめな人は、いくら世界が統一されたとしても間違った人です。(一四二\三二五)

今皆さんは、体が違い、心が違います。では、これがいつ一つになるだろうか? 今、人類歴史路程において、体と心が闘うのを自分が統一させると、体と心が闘うこれを統一させると言える人は出てこなかったのです。

パウロのような人も嘆息したでしょう。「心の法と体の法、二つの法があって闘うので、私はなんとみじめな人か。この死の法から誰が私を解放するだろうか? そこにはただイエス・キリスト、神の愛で…」まさにそう思ったのです。主イエス・キリストの中にいる神様の愛によって解放されるのです。(一六四\四一)

心と体が一つになれない原因がどこにあるか? 神様はどんな方かといえば、この宇宙の根本となる縦的な愛の主体です。その重りが地に降りてくるようになるときに、神様一人ではだめです。いくら神様といっても、愛を下すには水平線でこの基準を引き出すことができる力が必要です。

電気が強いと、マイナス電気が地上に近くに来るようになると、近い所で雷が落ちるのです。そうではないですか? 降りてこなければなりません。高い所にあっても、降りてこなければなりません。同様に、高い愛が降りてくるには、地上にマイナスの愛が、まず生じなければなりません。マイナスの愛がまず生じれば、プラスの愛は自動的に生じるようになっています。それがペア(pair;双)になっています。

作用するこの世界には、必ず対応と反作用があるのです。互いに対応し、互いに作用する反面に、反作用があるのです。一般の人たちは、この反作用が対応する力の作用に反対すると見ますが、そうではありません。反作用というのは、対応した存在を保護するために作用します。こうしてこそ、理論的に善悪のすべてが解決するのです。善を中心として悪というものに対して保護すべきであるという論理を見出さずには、歴史時代の善悪対決の歴史を処理する方法がないのです。

神様はどこを通じて往来するか? 縦的な愛が設定されなければなりません。その縦的な愛が縦的価値を持つためには、横的な基盤が築かれて入ってこなければなりません。

男女もそうではないですか? 皆さんが分別のないときは、何も分かりませんが、大きくなると女も世界を持とうとし、男も世界を持とうとします。ですから、そのような世界を持とうとするときは、どのようになるか? このように行ってはいけません。どこへ行って会わなければならないか? すっかり大きくなって、成熟して、会わなければならないのです。そうするには、世界が自分のものであると言える位置まで出なければなりません。

「これを占領しなければならないな」と言いますが、占領するには、自分の力をもってしてはできません。愛でなければだめなのです。その愛の力があるために、男にも女にも世界征服のための理想と夢があるのです。皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう? 天があれば、見えない世界があれば、その見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう? なぜそうですか? 縦的な欲望、横的な欲望があるためです。

横的な欲望は、横的な世界である地球星全体を自分のものにしようとし、縦的な欲望は、この宇宙を自分のものにしようとします。分かりますか? 体は制限されています。地球星の限界線を脱することができません。しかし、縦的な世界は、いくらでも大きくなります。

そのようなことを見るとき、心の位置を代表しうる父が神様であり、体の位置を代表しうる父が、堕落しなかった真の愛を中心とした人類の始祖であったということです。体の位置を代表する父が人類の始祖になるべきなのだ! 分かりますか?(はい)。

統一教会では、歴史時代に分からなかった事実を探って、このような自体を対置して対応しうる名詞として聞いて使う言葉が真の父母というのだ!(アーメン!)ですから、横的な真の父母の位置が本来創造した理想観として見る神様の息子娘の位置であったというのです。アダム・エバの位置であったということです。ですから、神様は何ですか? 体のようなものがアダム・エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのが神様です。

心のような神様と、体のようなこの方が一つになるには、何で一つになるか? 力ではなく、知識でもなく、権力でもありません。何ですか?(愛です)。愛です。

我々の心的な人格、体的な人格が本来一つになりうる原則的モデルに似たのが私個人であるために、原則的根本を訪ねてみるときに、体のような父がいなければならず、心のような父がいなければならないのです。そこで、心的父の位置が神様の位置であり、体的父の位置が人類の始祖になるのです。

では、人類の始祖と心的父である神様が、どこで一つになるのか? どこで一つになりますか? 真の愛を中心として、愛の球形の中で核の位置で一つになるべきなのです。縦的なものを中心として男女は訪ねていくのです。(一七七\三三七)











SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送