真の家庭
(全面表示) 戻る


第一章 創造本然の真の家庭


◆一 アダムとエバを通じた神様のみ旨

 多くの人たちが神様のみ旨について語っています。しかし、この話は簡単なようで、いざ「神様のみ旨とは何か」という質問を受けた場合、答えるのは非常に難しいものです。

 また、今日まで多くの信仰者が「神よ、み旨を成さしめ給え」と祈ってきました。そして神様のみ旨を成すために現在、私たちも信仰生活をしています。しかし神様のみ旨が何であるかもよく分からずに、神様のみ旨が成されることを祈り、またそのみ旨のために信仰生活をしているというのは、一つの矛盾だと言わざるをえません。(祝福家庭と理想天国I−二九八)

 統一教会で見る神様のみ旨、すなわちレバレンド・ムーンが知っている神様のみ旨とは何でしょうか。それは神様が宇宙をつくった創造理想、すなわち創造目的を完成することです。神様はすべての被造万物を創造するとき、必ず目的をもって創造されたので、そのような神様の創造目的を成すことが神様のみ旨です。

 その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバでした。それゆえに私は、創造の理想を実現すること、すなわちアダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だと見るのです。

 では、その理想実現とは何でしょうか。それはまさに四位基台を成すことです。四位基台とは、神様を中心としてアダムとエバが、神様の愛の圏で離れようとしても離れられないように完全に一つとなり、理想的な夫婦となり、彼らが子女を繁殖することによってつくられる神様中心の家庭の基台をいいます。この四位基台が造成されれば、神様を中心としてアダムとエバが夫婦の愛で一体となり、神様の愛の圏から離れられなくなります。(祝福家庭と理想天国I−二九八)

 人間始祖を通しての神様の理想は何だったのでしょうか。神様の理想は理想的な男性と理想的な女性が結婚して理想的な家庭を完成することでした。

 それでは理想的な家庭を成す中心は何でしょうか。それは男性でもなく女性でもありません。家庭とは結局、父母と子女、夫婦の結合によってつくられる一つの束で、その結ばれたものの中心は何かといえば、まさに神様の愛です。

 神様の愛を中心にして夫婦が結婚し、神様の愛を中心にして家庭を完成させることが神様のみ旨であるとの結論が出ます。(祝福家庭と理想天国I−三〇一)

 神様の創造目的とは何でしょうか。アダムとエバをつくったのは、ただながめるためではありません。男性と女性をつくったのは、男性は男性として、女性は女性として年老いて死んでいくためではありません。彼らが成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して、神様を中心とした人類の真の地上天国を建設するようにするためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。

 ここにおいて男性であるアダムは天を代表し、女性であるエバは地を代表します。それゆえ彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば、天と地が統一されるのです。神様の愛を中心に二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。(祝福家庭と理想天国I−二九九)


◆二 神様が絶対に必要とするもの

 神様はなぜ彼造世界を創造されたのですか。神様は被造世界を通して喜びを味わおうとされたのです。神様がいくら絶対者だといっても、喜びを一人で感じることはできません。喜びは相対がいてこそ生じるからです。

 神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様ご自身が絶対的で全知全能なので、そのようなものを必要とはされません。科学がどんなに発達しても神様かつくられたものに追いついたり、越えたりはできません。膨大な宇宙は秩序の中で法度に従って運行しています。人間の思考と科学が及ぶことのできない膨大な宇宙を神様は創造され、運行しておられることを考えるとき、神様は絶対的な科学者でもあられます。

 世の中に存在する物の中で、神様と相対となる力はありません。神様の力は全知全能であり絶対的だからです。また永遠不変で自存的なお方が神様であられます。そのような神様が願われることがあるとすれば何でしょうか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、何を願っておられるのかというのです。神様が必要とするものは何であるかが問題です。

 神様が絶対必要とするものが一つだけあります。それは人間に絶対的に必要なものであると同時に神様にも絶対に必要なもので、それが真の愛です。それでは神様お一人で愛を受けることができますか。神様はご自身で愛を思うままにすることができるのではないかというでしょうが、とんでもありません。神様において最も必要なものは、真の愛を分かつことのできる対象者なのです。これを知らなかったのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇四)

 神様が絶対的なお方ならば、その絶対的な方がなぜ人間をつくったのかというのです。

 お金のためにつくったのでもなく、知識のためにつくったのでもなく、権力のためにつくったのでもなく、人間の創造が、神様の愛を神様ご自身が感じることのできる唯一の道であるがゆえに人間をつくったのです。

 この観点から見るとき、神様は父であり人間は息子・娘だということが一つの軸をなすのです。この軸が万一連結されたならば、人間と神様が愛で一体となった関係は、何が作用しても絶対に引き離すことができないのです。

 神様の本然の愛と絆を結んで、その愛の味を味わった人は神様から離れていくでしょうか。蜂は春に蜜を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻をつかんで引っ張るとお尻が抜けても、その蜂は蜜から口を離しません。皆さんがその味を味わったらどうでしょうか。離しても離しても戻ってきて、再びそこにくっつこうとするでしょう。

 この軸の愛に連結された全時空が作用する基準になっていれば、人間の家庭は、個人的に完成した男性と女性が一つになって、愛を中心とした家庭が現れるのです。さらにこの愛を軸として成された氏族、民族、国家、そして世界が現れるようになるのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇五)


◆三 神様の永遠なる愛の相対者

 神様がこの世界を創造されたのですが、私たちが神様に、何ゆえにこの世界をつくられたのかと尋ねるならば、神様は間違いなく「善くて……」と答えるでしょう。「善くて」すなわち喜びのために、喜びを得たいがために、神様はこの世界を創造されたというのです。

 ところで善い状態、すなわち喜びはどのようにして得られるのかといえば、愛の形態を通して得られるのです。ですから神様は、愛の実現を通して喜びを得るためにこの世界を創造されたのです。そのような結論を私たちは得ることができます。愛の実現のためにこの世界を創造された神様であられました。

 人間と万物が神様の愛を中心に一つとなり、和気あいあいとした愛の関係を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心に一つの真の夫婦の因縁を結び、一つの真の愛の家庭と氏族、民族、世界を成すのを見て喜ぶために、そして、そのような人間と愛で一つになることによって愛の喜びを味わうために、被造世界を創造された神様であられました。

 まさにそれが神様の創造の理想だったのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇二)

 神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。ところが愛の理想の実現は、神様お一人では果たせないのです。愛とか幸福、喜びなどは一つの個体を中心として成り立つようになっているのではありません。相対圏がなくては絶対に成立することができないのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇三)

 神様は絶対的な存在ですが、愛の相対となる存在がなければなりません。神様の愛の相対者はまさに人間なのです。

 神様の愛の相対者として人間が、完成した愛をもって神様の前に現れるとき、神様は幸福の神様、喜びの理想を得た神様となるのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇三)

 神様には人間がなぜ必要なのでしょうか。神様の理想を実現するのに人間がなぜ必要なのかというとき、「神様の愛を完成するために必要なのだ」と言うことができます。神様の愛とは何でしょうか。それは、人間同士、永遠に見て愛し合うのはもちろんですが、神様をして人間を永遠に愛し得るようにさせるものだともいえます。人間はこのように神様の永遠の愛の相対者なのです。

 アダムとエバを創造されたその日から、神様は永遠無窮に、アダムとエバをどんなに見ても、もっと見たいし、どんなに一緒にいても、もっといたいし、どんなに一緒に住んでも、もっと住みたいという対象として愛したかったのです。そのような対象をもつことが神様の創造理想です。(祝福家庭と理想天国I−三〇六)


◆四 アダムとエバを創造なさった目的

 私たちが旧約聖書創世記第一章二十七節を見ると、神の形どおりに人間をつくり、一男一女をつくられたという聖句があります。

 そこから帰納的に推理すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせたお方であるとの結論が出るのです。

 そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要としてこの世界を創造せざるを得なかったのです。そういうわけでつくられたのが、一人の男性であり一人の女性なのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇七)

 神様は第一に、体をもつためにアダムとエバを創造され、第二に愛を完成するためにアダムとエバを創造されたのです。このようなアダムとエバが完成し、二人が一つになることのできる愛の実体となれば、神様が臨在し、彼らは人類の完全な愛の父母となるのです。そして神様の形象的実体の父母になったアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって、理想世界が成就されるのです。そうなれば人間を通して霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させることをも目的として人間をつくられたのです。

 そういうわけで、神様が愛を中心にしてアダムとエバに臨在されることによって、神様は人類の真の父母、実体の父母として存在されるのです。そしてアダムとエバが霊界に行けば霊界でもアダムとエバの形状をもって父母の位優に顕現することができるのです。ところがアダムとエバが堕落することによってこれが成されなかったという事実を皆さん方が理解してくださるようにお願いします。(祝福家庭と理想天国I−三〇八)

 神様は見えません。その無形の神様が実体相をもつためにアダムとエバを創造されたのです。

心の中に神様を抱いているアダムとエバが完成し、結婚して子女を生めば、神様は内的な父になり、アダムは外的な父となるのです。そうなればアダムは神様に完全に似るようになります。神様に似たアダムとエバが人類の父と母になれば、その姿を通して、いつも神様がおられることが歴史を通して認知されたことでしょう。(祝福家庭と理想天国I−三〇九)

 神様が男性と女性をつくられた目的は、二人が愛し合い一つになるようにするためでした。アダムはアダムのために、エバはエバのためにつくられたのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのためにつくられたのです。また神様ご自身の愛と喜びのために、アダムとエバをつくられたのです。神様がアダムとエバをつくられたのは知識、権力、お金のためではありません。全知全能なる神様は知識、お金、権力が必要だったのではなく、ただ愛が必要だったのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇八)

 神様がアダムとエバをつくったのは知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、多くの財物を与えてよい生活ができるようにするためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体として立てるためだったのです。(祝福家庭と理想天国I−三〇八)


◆五 アダムとエバの初愛の時期

 神様がアダムとエバを見て「取って食べるな」と言ったのは、彼らが愛することのできる時機になっていなかったからです。彼らは成長期にいたので成熟するまで待てとの戒めだったのです。(祝福家庭と理想天国I−三一〇)

 人間は思春期に向かいながらその一時を中心に生きてきました。そのときまで待つべき理由がどこにあるのかを知らなければなりません。ただちに男性、女性が一つになり愛すればいいのに、なぜ待たなければならないのでしょうか。愛のゆえにそうせざるをえなかったのです。成熟することのできる思春期時代までの期間が必要であるため、その期間まで過程的な要件を整えなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−三一二)

 それではアダムとエバが教育を受けられる姿勢とは何でしょうか。神様とアダムとエバは、父母と子女の間柄なので、その父母が行く所にはいつもついていかなければならず、主管を受けなければならないのです。にもかかわらず、二人はその立場を離れることによって本然の姿勢を離脱したのです。神様は絶対的なお方なので、絶対的にそのお方に従って服従しなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−三一一)

 アダムとエバは万物の霊長として、父なる神様が定めてくれた期間、すなわち霊肉ともに成熟する時を待たなければなりませんでした。神様もアダムとエバに「生育し繁殖せよ」と言いました。それは肉体と霊人体が完全に成長した後に、夫婦となって愛し合い息子・娘を繁殖せよとのみ言なのです。アダムとエバが身体的に成熟しながら一緒に出歩くようになります。一緒に行き来していてびっくりするような場面を見れば、エバが「まあ、怖い!」と言いながらアダムの胸に抱かれたり、後ろに隠れることが起こるようになったのです。

 エバがアダムの胸に抱かれれば、怖かったのが安心でき楽になるのと同時に、アダムから強力な男性的衝動を受けるのです。アダムもまた嫌な気もせず、エバから自身とは違う性的衝動感を受けたでしょう。このようなときアダムとエバのうち、性的モーションをどちらが先にかけたのですか。「怖い」とアダムの胸にかけ込んだエバが先にかけたのです。そのときから彼らには次第に愛の接線ができるようになったのです。

 神様は愛で被造世界を創造されました。それゆえアダムとエバは、神様の愛を中心にして被造世界を愛の組織体としてつくり、神様に連結させなければなりませんでした。そのような任務をもったアダムとエバは、どんな姿勢をもって神様が許された愛を共有するようになるべきかを、考えていなければなりませんでした。この愛の問題は極めて重大なことで、彼らの生死を狙うものになりかねないのです。(祝福家庭と理想天国I−三一一)

 愛はどこから出発するのでしょうか。個性を完成するところがらです。原理で見れば個性を完成した後に愛するようになっています。思春期を経て異性に対することのできる資格を備え、天地の調和に一致して通過することのできる責任を担えるときに初めて、愛の因縁が始まるのです。

 ところがアダムとエバにおいてはそうではありませんでした。彼らの愛はどういう愛でしたか。天地のすべての万物を統一させることのできる位置での愛ではありませんでした。主体的な愛ではありませんでした。彼らの愛は主体的で必然的な愛でなければなりませんでした。ところが彼らは必然的な愛で愛することができなかったのです。(祝福家庭と理想天国I−三一七)


◆六 すべての存在は愛を通じてのみ完成する

 個体完成とは、心と体が本来神様がつくられた愛の型に従って、完全に一つとなった中で成長し成熟するように、授受作用を永続させていくことを言います。愛を中心にして出発し、愛を中心に成熟し、その上に愛の芽が出、実を結んでこそ完成するのです。このように愛の基台が立つようになれば、その中に神様は愛の因縁をもって臨在されるのです。愛が成熟しなければ、実を結ぶことのできる型を造成できないのです。

 すべての被造物は愛の法度によって創造され、また存在しているのです。植物を見ても花が咲けば、花の中のおしべとめしべが授受作用、すなわち循環運動をすることによって実を結ぶようになるのです。動物世界もそうだし、人間世界も愛の循環運動によって存在しているのです。このようにすべての被造物は愛の関係を経て完成するようになっています。すべての存在は愛を通してのみ完成できるといえます。

 人間は神様の愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体となるようになるのであり、神様の愛の圏内に、体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。そのとき初めて、堕落しない本然の人間として、個人完成が始まるようになります。(祝福家庭と理想天国I−三一四)

 心と体において心は天を中心とし、体は世の中を中心とするのですが、この心と体が一つになったというとき、その理念はどういう理念だといいますか。天宙主義理念だといいます。天宙主義理念が何だか分かりますか。天と地、すなわち無形世界と有形世界が一体となる立場をつくっていこうという主義が天宙主義です。

 この天宙を支配しようとすれば、支配しようとする人は心と体が一体とならなくていいですか。一体とならなくてはここで滅びます。そして神様を中心にして心と体が一体となるとき、神様は内的な神様で自分は外的な神様になるのです。ところで何を中心にして一つになるかといえば愛を中心として一つになるのです。(祝福家庭と理想天国I−三一四)

 アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結合させるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結合させる中心点がまさに愛という絆です。

 肉体をもつ人間が神様と一体となるとき、その心情と感情は無限なる体恤境と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、神様の創造目的、理想世界の実現は愛から出発するのです。

 アダムとエバは、十六、十七、十八歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人がその香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。神様の愛とアダムとエバの体と心、この三つが一つになれば宇宙の核が生じて、すべての愛をコントロールする本軌道に入ることができるようになります。

 ところがここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになったでしょう。このように一つになったなら、神様も離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そして子々孫々に連結され、氏族、民族、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるのです。(祝福家庭と理想天国I−三一二)


◆七 人間たちが誇ることのできる最も大きな自慢の種

 神様は一人の男性と一人の女性を創造されました。そして彼らが完成した状態に至った後に、彼らをして天的な結婚生活をするようにされ、一双の天的夫婦として立てようとされました。神様はアダムとエバをして、最初の夫と最初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。万一それが実現されたならば、「生育し繁殖せよ」と言われた神様の祝福はそのときに成されたはずでした。

 神様は彼らに神様の子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そうなったなら、彼らの子女も罪のない完全な人間になったのです。アダムとエバはまたどのようになれたでしょうか。罪は絶対に人類に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは神様を中心とした真の父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。

 堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは個人完成のみならず、宇宙史的な完成をしたことでしょう。また神様の愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。このように家庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会ができたことでしょう。この大家族社会の中心は神様とアダムです。それで、その世界では神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風俗、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛でつづられた伝統にならざるをえません。

 神様の愛は生命の根源でありすべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れられず、離れたとしても再び戻らざるをえません。堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していたものがその懐を離れたり、兄弟のもとを離れたら、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしがるのを見ます。同じように、生命と理想の主体であられる神様の愛でつながっていたら、その懐を離れられないのです。離れれば寂しくなり悲しく、喜びがあるはずがないので、神様の愛の圏内で一つになるほかないのです。

 そのような立場で人間たちに誇るものがあるとすれば、第一に神様は私の父だということであり、第二に自分たちは神様の愛を受けられる息子・娘だということであり、第三に自分たちは神様が創造した宇宙の相続者だということです。今日世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでもたいそう誇ります。ところが神様が私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上大きな誇りがどこにあるでしょうか。(祝福家庭と理想天国I−三一九)

 アダムとエバが神様を中心とする理想家庭を築いたならば、神様のみ旨は成就されたでしょうし、アダム家庭は、上は神様を父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の基点を整えられる家庭になったでしょう。

 その家庭は、神様が創造したアダムとエバの理想を完成するために、愛の結合によって一体になることのできる基となったことでしょう。(祝福家庭と理想天国I−三二〇)


◆八 真の家庭として伝統を立てるべきだったアダム家庭

 人間始祖が堕落しなかったならば、皆さんは誰の息子・娘として生まれたでしょうか。当然神様の息子・娘として生まれたのです。

 堕落しなかったならば、すべての人間は神様の真正なる息子・娘になります。今日のように怨讐の前に弄ばれ、怨讐に支配される氏族ではなく、怨讐の前に讒訴される群れではありません。絶対的な権威をもった神様の息子であり、どこへ行こうと神様の全権全能を代表できる神様の息子です。その息子を中心に家庭を築くとき、その家庭は全宇宙の存在が屈服しなければならない神様の家庭となるのです。またその家庭を成した氏族が活動する場合においては、あらゆる彼造万物は彼らを擁護し、彼らに吸収されなければならないのです。ところが堕落したゆえに、人間たちは神様の息子・娘になるどころか、怨讐に弄ばれる群れになったのです。

 人類の始祖が、本来神様の法度を犯さずに神様と永遠に一体となったならば、その一体となった愛の因縁の中では誰も彼らを連れていけません。すでに息子・娘として生まれ、またすでに成人したのちに彼らを見て「おい、おまえの父親は誰だ?」と言って説明して、神様が父であることを否定できる理論や学説はないのです。銃剣を突き付けてもだめなのです。(祝福家庭と理想天国I−三三〇)

 もし堕落がなかったならば、エデンの園に天の最初の家庭が立てられたのであり、その家庭はサタンの讒訴とは何の関係もなく、神様の主権下に繁栄したのです。(祝福家庭と理想天国I−三三〇)

 アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の完全な愛を受けたでしょう。このように神様の完全なる愛を受ける息子と娘として、彼らが神様の愛で結合したならば、神様の愛を中心とした息子・娘を生んだでしょう。

 そして真なる神様の愛の中で、夫としての伝統、妻としての伝統、息子としての伝統、娘としての伝統を立てることができたでしょう。そして神様の愛を中心とする家庭の伝統が確立されたならば、神様のみ旨は成就したことでしょう。(祝福家庭と理想天国I−三三一)

 アダムとエバは神様のみ旨どおりに完成して祝福を受け、家庭から出発した神様の国を築かなければなりませんでした。彼らの完成は、真の愛を中心として成されなければなりませんでした。神様に侍り、アダムとエバが横的な相対を成したならば、創造目的の世界が出発したでしょうし、その世界は拡大され宇宙にまで至ったことでしょう。アダムとエバが夫婦一体となり、一つになる伝統の中に一つの世界を築いたでしょう。しかし、アダムとエバは神様のみ旨に背いて堕落してしまいました。(祝福家庭と理想天国I−三三二)


























SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送