真の家庭
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第二章 家庭を中心とした愛の法度


◆一 家庭を中心とした神様の愛の法度

 神様の愛は父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の形で現れます。この三大愛が人間において絶対的な観を超越できる永遠の実存的権限をもっています。それゆえ、この三大愛が結合するとき、人間は幸せになるのです。これが完全であれば、幸せも完全なものであり、これが欠如すれば不幸が巣くうのです。

 お母さんのいない愛が幸せですか。お母さんがいない分だけ、不幸せなのです。また、お父さんがいないのに、幸せですか。お父さんのいない人はお父さんのいる人がうらやましいのです。幸せというものは、うらやましいものがあってはなりません。愛もうらやましいものがあってはなりません。

 うらやましいものがあれば、幸せだとはいえないのです。お父さんがいなくとも幸せではありえず、お母さんがいなくとも幸せではありえません。男性がいくら太っ腹であり、大口をたたいても女性がいなければなりません。妻がいなければならないのです。また、夫婦同士、面白く暮らしてから、夫があの世に逝くようになれば、夫人は涙を流します。男性がいなくてもだめであり、女性がいなくてもだめなのです。

 それから、夫婦同士、いくら愛し合って生活をするとしても、子女がいなければ不幸せです。息子だけが必要ですか。息子も娘も必要なのです。ところが、例えば父母に息子と娘の二人しかいないとすればどうでしょうか。息子に関していえば、彼にはお姉さんが必要であり、またお兄さんが必要です。また、娘にはお兄さんが必要であり、お姉さんが必要です。また、彼らには弟と妹が必要です。

 お兄さんがいなければならないし、お姉さんがいなければならないし、弟と妹がいなければなりません。これが皆、そろっていなければ不幸せなのです。妹、弟、姉、兄、皆そろっていて完全に一つになった家庭は、神様が保護します。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。自分を中心としてお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、それから弟、妹、そこに自分まで合わせれば、七名です。ですから、七数が完成数だというのです。ここでの完成とは、愛を中心としていうものであることを知らなければなりません。

 どうして七数が完成数でしょうか。何ゆえに、キリスト教でいう天地創造が七数を中心として完成したのでしょうか。そのような内容があるからです。三数は天の数であり、四数は地の数だといったことがあります。ここで三数は父、母、私の三数です。では、四数は何を意味するのでしょうか。兄弟姉妹たちを合わしたものが四数です。(二〇−四〇)

 七数が完成数だということを知らなければなりません。父なる神、み子、み霊は神様を中心としたアダムとエバをいうのです。父なる神は上下、すなわち縦的な因縁をいうのであり、父母の愛は天地の身代わりなのです。皆さんを中心としてみるとき、兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば、一体となるのです。これが愛の法度です。それゆえ、科学のすべての法則も数理に立脚した公式法度に摘要されないものがないのです。神様の愛の法度から由来する創造原理的な概念が出てくるのです。このような愛の法度が定着するようになるとき、平和の起源が成り立つのです(精選五−一八)


◆二 家庭に三代が共存すべき理由

祖父、祖母、舅、姑、小姑、孫までいっしょに暮らそうというのです。暮らす場合においては、センターを中心として蘇生、長成、完成、三代が定着するのです。

 お父さんとお母さんだけを愛するのではなく、おじいさんを愛してこそ、神様を愛することになるのです。父母の上におじいさんを置いて愛してこそ、神様を愛することになるのです。

 では、なぜ夫がいなくてはならないのでしょうか。なぜ父母がいなくてはならないのでしょうか。なぜ子女がいなくてはならないのでしょうか。彼らがいてこそ、神様に侍ることができるからです。

 父母がいなくてはならないし、子女がいなくてはならないのが原則です。父母が必要であり、それから、夫婦が必要であり、赤ん坊が必要です。それをなぜ必要とするのでしょうか。神様と関係を結ぶためには、父母が必要であり、夫が必要であり、子供が必要だという論理が成立するのです。

 ですから、父母が必要であり、夫が必要であり、子供がなぜ必要なのか、はっきり知らなければなりません。これを知らなければだめなのです。自分が下にも行かなければならないし、センターにも行かなければならないし、上にも行かなければならないし、横にも行かなければならないし、四方に行かなければなりません。いくら幼い孫だとしても、愛をもっておじいさんを好きになるなら、「ああ、うれしい! うれしい!」と応えてくれるのです。

 ですから、統一教会で、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成を標準とすることを宗教世界を通して初めて教育したということは、驚くべきことです。(一二八−一七)

 皆さん、夫が死ねば、妻がなぜ泣くのでしょうか。子女がいなければなぜ泣くのでしょうか。寂しくて泣くのではありません。宇宙の根本原則においては東西四方を全部、備えなければならないからです。宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力からなっているのです。ですから、すべてが授け受けします。

 南北が授け受けし、北極と南極が授け受けするのと同様に、星と星が授け受けするのです。相対がなくては存在できません。完全に一つとなった理想的な相対は、完全に授け受けする存在は、この宇宙が擁護するのです。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が離れないのが原則なのです。全部、それを助けるのです。

 子女がいなくてもだめです。今日、西欧では子女が必要ないという主義になりつつありますが、必要がないかどうか、見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。自分が立っている所には、必ず上があり、下があるのです。三数を通じなければならないのです。三段階を経なければならないのです。

 それゆえ、すべてのものは三段階からなっています。父母に侍らなければならないし、夫婦がいなければならないし、子女がいなければならないのです。子女がいなくては、天理原則に合わないのです。これをぴったりと分けておくと、男性三段階、女性三段階ですが、これを合わせて、統一的な三数の形態を備えて、理想世界が始まるのです。すなわち、おじいさんとおばあさんがおり、お父さんとお母さんがおり、自分がいてこそ、理想的だというのです。

 統一教会の家庭倫理はここから始まるのです。(七〇−七六)


◆三 父母はまさに愛の起源

 孤児は父母と因縁を結ぶことができません。人はだれでも愛を受けたく思います。その愛の理想型は父母です。そのような父母の愛を受けたくとも受けられず、また、父母に対して愛したくとも愛することのできない人は不幸せな人だということができます。

 いくら孤児よりも百倍、千倍醜い人だとしても、父母に侍り、孝行して暮らすことのできる人は、孤児たちに威張ることができるのです。「おまえに父母がいるのか。いないだろう顔が美しくて何になる。父母もいないのに」と威張るのです。また、「私は醜く、病身だが、おまえは母親もなく、父親もいないではないか」と、いいうるのです。

 父母とはいったい何でしょうか。力も頭も世界的なチャンピオンである息子が、たんこぶのような存在である父母を、指一つで片づけ、勝手にやろうとすればできるはずなのに、どうして勝手にできないのでしょうか。それを知らなければなりません。力でも一番であり、頭でも一番なので、力で「こいつらめ」とやりこめることもできるし、頭を使ってもそのようにすることができるのに、そうすることができないのです。

 愛の起源がどこでしょうか。愛がどこから出てくるのでしょうか。自分からでしょうか。違います。それは父母から出てくるのです。愛の起源は自分ではなく、父母にあるからです。原因を知らない結果はありえないのです。愛を中心として見るとき、主人が自分ではないことを知っているので、そのようにできないのです。ですから、父母の前に来ては、「はい、お母さん、お父さん、そうです」というのです。

 父母が「おまえがいくら名高く、力が強いといっても、お母さんとお父さんの前では道理にはずれることをしてはだめだ」といえば、「はい、はい、はい、お母さん、お父さん、そうです」というのです。なぜでしょうか。愛があるからです。父母は主体であり、子供は対象だからです。主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理原則です。これを破綻させたなら、その家はすっかり無価値な結果をもたらすのです。いくら無知な人間であっても、天性をもって生まれているために、天理原則というものが分かるのです。ですから、いくら外的に力が強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。(五〇−一三五)

 人の世は力の争いが続いており、知識の争いが続いています。まだ愛の争いができる時にはなっていないのです。ですから、宗教指導者たちは末世になれば、自分の時が来ると言うのです。その末世になれば、こぶしの力や知識の力の時代はすべて過ぎ去り、愛の力だけが残るのです。そのような最後の世界的な覇権時代、その時がまさしく終わりの日になるのです。

 力の強いお兄さんが家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。いくら力の強いお兄さんでも家に帰ってくれば、大将の役ができません。リングでは世界的なチャンピオンになることができても、家に帰ってきては、大将になれないのです。また、博士の学位を数百個ももったお兄さんでも、家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。なぜ、できないのでしょうか。父母がいるからです。(五〇−一三五)


◆四 兄弟姉妹が必要な理由

 兄弟がなぜ存在するのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかというと、男の人には妹や姉を見ながら、「うちのお母さんがこんなにして育ったんだなあ!」ということが分かり、また、女の人にはお兄さんや弟の意地悪な姿を見ながら、お父さんが育った過程が分かるようになるからです。それが兄弟愛というものです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。

 そして、父母を愛するように、兄弟を愛することを学ばなければなりません。学ばなくては、愛することができないのです。ですから、兄弟たちをお母さんとお父さんが育ったその時の姿だと思って、愛することによって、あの世に行っても、いつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。恥ずかしがらずに愛することのできる主人になるために兄弟が必要なのです。

 では、兄弟たちが、お母さんとお父さんを愛するよりも彼ら兄弟同士がもっと愛し合うのがいいでしょうか、愛し合わないのがいいでしょうか。もっと愛し合うのがいいのです。なぜでしょうか。子女にお母さんとお父さんの育つ時の姿を見せてあげ、彼らを愛することによって、生まれてから死ぬ時までお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心として因縁づけられたそのような兄弟たちなので、そのように考えるのです。

 それから、父母においては、子女が多ければ多いほど、お母さんが思うに、男の子たちがあのように意地悪く育つのを見ながら、「ああ、うちの夫はああして育ったんだなあ」と分かるようになるのです。ですから、子供たちを愛することは夫に会う前の夫を愛する立場になるのです。また、男性は「ああ、あの女の子を見ると、お母さんがああだったんだなあ! 幼い時のお母さんを見せてくれているんだなあ」と、学ぶのです。彼らを愛することによって、今までのお母さんの全体を愛したという条件が成立するのです。

 父母は「おい! 男の赤ん坊だけかわいがって、女の赤ん坊はかわいがるな」とはいいません。父母は子女を同じように愛するのです。区別なく愛するのです。ですから、このように兄弟をもつのは家庭に美しい愛の円和、丸い球形を形づくるためなのです。

 父母は、兄弟たちが、父母に対するのと同じように、互いに接してくれることを願います。すべての父母がそうです。ですから、兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも大きな罪です。これが家庭教育において第一条です。今まで、皆さん、兄弟同士争い、仲が悪くなっているなら、行って、宴会をして、満足させてあげ、許してくれといいながら、うちのお母さんとお父さんを愛するように愛し合おうといわなければなりません。

 兄弟がお母さんとお父さんの身代わりなので、残されたお母さんとお父さんに侍ろうといって、兄弟が貧しければ自分が助けてあげ、お母さんのためにしてあげたように、してあげるなら、それより美しいことがないのです。そこから天国が始まるのです。(一八四−六五)


◆五 おじいさんは家の神様の立場

 今日のアメリカの制度は、全部、若い人たちの天国であって、おじいさんとおばあさんの天国ではありません。幼児たちの天国ではなく、おじいさんとおばあさんの天国ではなく、若い青年男女たちの天国なので、全部、滅びの地獄の穴を掘っているのです。それは本然の形態に合わないからです。(一〇七−三二八)

 アメリカの家庭ではおじいさんが息子たちの家に行くとき、電話をして行きます。人間なら、どちらを好むでしょうか。皆さんはどちらを好みますか。

 美しい嫁が白髪まじりのおばあさんとおじいさんに、愛らしい気持ちをもって愛する夫よりもいいものを買ってあげようとすれば、それがどれほど美しく、どれほど愛らしいかというのです。美しい嫁が、老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃであるにもかかわらず、何かを買うのに自分の愛する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげるその場面がどれほど素晴らしいかというのです。そうなれば、おじいさんとおばあさんは隠してあったすべてのものを、愛に関するすべてのものを全部、与えるのです。

 世の中で年をたくさん取ったおじいさんはだれでしょうか。神様です。ですから、そのおじいさんのために尽くす愛を自分のおじいさんから学ぶのです。このような伝統を学び、おじいさんである神様のすべての秘密の倉庫にある愛の宝物を自分がもらうことができるのです。どれほど素晴らしいかというのです。(一〇七−三二九)

 世の中で一番経験が豊かで、豊富な経歴をもった神様がだれかというと、おじいさんとおばあさんです。年を取っているので、あまりたくさん寝ないのです。ですから、「ああ、おじいさんはわが家を寝ずに守ってくれる神様だなあ! 私たちを守ってくれるために、こんなに年を取ったんだなあ! しわを見ると、年を取ったなあ!」と、そう考えなければなりません。それが美しいのです。そのようなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに仕えるなら、火事にもならないし、泥棒にも遭わないのです。

 おじいさんとおばあさんが寝なくて何をするのでしょうか。祈祷をするのです。「神様、うちの子女に恵みをお与えください。恵みをお与えください」と、祈祷するのです。祈祷して、「おい、だれそれや! おまえ、きょう、出歩いたら危ないよ。言うことを聞きなさい」と、このようにすべてを教えてくれるのです。「きょうは出かけてはいけない! けんかをしてはいけない! 息子よ、どこかに行かないようにしなさい、娘よ! 嫁よ! きょうは遠くに行ってはいけない」このように教えてくれるのです。

 ですから、孫たちにそのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか、必要ではないでしょうか。愛をもてば、おばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も小躍りするのです。このような形態を備えて暮らす人は、宇宙が保護するのです。だれかがその人を殺そうとすれば、自動的に宇宙が防いでくれるのです。(一〇七−三二七)

 父母は孫をどこか送ろうとすれば、必ずおじいさんの承諾を得なければなりません。父母の勝手にはできません。おじいさんが神様の立場になるのです。(一〇七−三二六)


◆六 祖父母と孫との関係

 考えてごらんなさい。孫がですね、よちよちと歩き回る孫が家に入ってきて「ああ、おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った」といえば、どうですか。お母さんとお父さんも座っていて、自分の兄弟たちもたくさんいますが、入ってくるやいなや、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」というなら、それがふさわしいですか、変ですか。それはどれほど変でしょうか。言葉もぞんざいに使って。「おじいちゃん、どこ行った」

 では、その言葉を考えてごらんなさい。今、八十歳を越えたおじいさんとおばあさんにこれはほんの子供が大胆にふんぞり返って、突っ立って、お父さんとお母さんも全部いるのに、お兄さんとお姉さんが自分よりも立派なのに、そこにふんぞり返って、突っ立って、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」といっても、全部、目をまん丸くして、「おい、こいつめ! この子は! 何だ」と、叱る人はいません。

 それはなぜでしょうか。ふつうならば、ほかの所からほかの人たちが来て、そういったなら、「うちのおじいさんに向かって、おまえ、そんなことがいえるか」と、大騒ぎになるはずですが、孫がふんぞり返って、突っ立って、そのような話をすれば、喜びます。「そうか、そうか、おじいさんに会いたいのか」となるのです。

 それが何かというと、おじいさんに対して、「どこに行った」というのが、餅をくれということですか、ご飯をくれというのですか。その内容が問題です。内容が何かというと、おじいさんに会いたいということです。そうなれば、会いたがるのはいいことですか、悪いことですか。それはいいことだというのです。

 天下が会いたがり、また、会いたいと同時にその次には、どうしたいのですか。じっと四方を見渡しても、お兄さんをじっと見て、お姉さんをじっと見ても、今、どこかの膝のところに行って少し座りたいのに、こちらを眺めても、あちらを眺めても、お兄さんの顔色をじっとうかがって、行って三分だけ座れば、追い払われるのが分かり切っているのです。また、お父さんもよく見ると、忙しくて疲れたお父さん・・。それは皆、経験を通して知っているのです。行って、お尻を載せて十分だけ座っていても、嫌がります。それは、皆、測定感覚が早いのです。さっと見て・・。

 けれども、おじいさんは、おじいさんをよく見れば、おじいさんのように年を取った人たちは、膝に座れば、一時間座っても、じっとしており、二時間座ってもじっとしているのです。そのように座っても、家族の中で一番自分をたくさん抱いてくれるのです。抱いてくれて、「この子はどうで、この子は耳がどうで」といいながら、触ってくれるのは嫌ではありません。整えてくれ、なぜてくれ、触ってくれ、あるときは、触らないところがないくらい、すべて触ってみますが、それでも嫌ではありません。それがどれほどすてきですか。どれほど素晴らしいかというのです。それは木の一番てっぺんが、本の幹のてっぺんが根と一つになろうという、その話と通じるのです。

 では、中心の根と中心の芽とが愛し合うようになれば、どのようなことが起こるでしょうか。そこにつながったすべての根とすべての枝は、愛し合うまいとしても、愛し合わざるをえなくなるのです。それを考えてみなさい。中心の芽と中心の根とが愛し合うようになれば、それが何かというと、全体を抱くことのできる因縁だというのです。このように見るとき、根の中で中心の根が家庭の中でだれですか。孫、長男の長男だというのです。それゆえ、おじいさんはいつも目を開けて長男の長男を見上げ、また見下ろすのです。これを知らなければなりません。(一三九−一五)


◆七 家和万事成の真なる意味

 わが東洋の教訓の中で「家和万事成」という言葉がありますが、それはとてもいい言葉です。家といえば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子供、このようにいますが、それだけではありません。家自体は万物を縮小したものです。そこにすべて集まっているのです。

 そのように考えるとき、わが家といえば、ふつう「そこは父母がいるところであり、妻子がいるところである」と考えるのです。しかし、わが家といえば、それだけではないというのです。おじいさんとおばあさんがいて、そのほかにも家があり、庭があり、すべてのものを縮小したものの中に環境がよく調和しています。そうしてこそ気分がいいのです。合わない環境に、うちのおじいさんとおばあさんがいれば、気分もよくないのです。

 おばあさんとおじいさんが互いに向かい合いながら笑う姿は、若い夫婦がうれしくて、大声で「へへへ」と笑う姿とは比較できません。「ほっほっほっ」といいながら、しわが寄ったおじいさんとおばあさんが笑う笑みはすてきだというのです。知らないからそうなのであって、全部、和合する、互いが相応する立場で笑うそのおじいさんとおばあさんの笑みがあることによって、すべてのことが和動するというのです。おじいさんの笑いは深くて、「はっはっはっ」と笑います。手ぶりをしても、動作はのろいのですが、広く、気高く、深く、大きくするのです。

 すべてのことが上・中・下の三段階で連結されてすべての調和が始まらなければなりません。それゆえ、調和というものは一線上の二点では成されません。二点を通過するものを線といいますが、二点上では調和の美がないのです。直線なのにどうして調和の美が生まれますか。ねじれ、曲がっていてこそ調和が生まれるのです。それゆえ、三点以上を経る、ここに調和が生まれるのです。ですから、おじいさんがいるかと思えば、中間にお父さんがおり、次には、その下がいます。だいたい家庭を四代として見るのです。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、それから自分の夫婦、それから子女がいます。

 層々侍下(父母・祖母など世話すべき人が元気でいること)という言葉があるではないですか。層々侍下が何層になるでしょうか。いくら多くとも、もちろん四代、五代まで暮らす家庭がときどきあるでしょうが、ふつうは四代です、四代。おじいさん、お父さん、それから私たち、子女、このようになっているのです。こう見れば、私たちの統一教会の原理は三段階です、三段階。蘇生、長成、完成。

 ですから、「和」する家庭、「家和万事成」といいますが、その「家和」になれば、なぜ「万事成」でしょうか。「家和」になれば、すべてのことが成されるというのですが、なぜそうでしょうか。言葉でだけでそうでしょうか。詩的で詠みたくてですか。そういうことではありません。違います。「家和」、これはおじいさんとおばあさんを中心とした四代が上に、下に、東西南北に、前後左右上下に和合して、笑顔の花が咲くことをいうのです。(一三九−一二)





















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