真の家庭
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第六章 思春期の変化と真なる結婚


◆一 結婚の意義

 結婚とは幸福な宮殿の門を開けて入っていく儀式であるといえます。それゆえ、結婚は人生における重大事となるのです。愛は時空を超越し、人間にとって最も偉大なものであり、結婚はそのような愛を現して確認する儀式なのです。

 なぜ結婚式を「祝福を受ける」と言うのでしょうか。私たちの原理から見るとき、アダムとエバが堕落せずに完成していたなら、祝福の席に参加していたはずです。言い換えれば、アダムとエバは神様の実体対象として、神様が主体であれば彼らは対象になるのです。そして、愛の主体となられる神様から対象的な立場の愛を連結させることのできるその祝福の基台は、アダムとエバが個性を完成し、結婚することによって成されるのです。

 完成とは結局、結婚のことをいうのであり、結婚とは神様の愛の顕現のことをいうのです。言うならば、結婚がなければ、今日、人間世界における愛というものが始まらなかったというのです。その愛の主人は誰でしょうか。人間ではなく神様であられることを私たちは知らなければなりません。その神様の愛が人間の中に現れるようになるとき、神様の喜び、誇りとなり、神様の愛としてこれを感じることができるのです。

 愛というものは一人で成り立つものではなく、相対的関係において成り立つものなので、男性が愛を成就しようとすれば男性自体だけではだめなのです。女性も同じです。このようにアダムとエバが愛で一つになることによって初めて、神様の愛を受けることができるのです。このような観点から見るとき、私たち人間は神様から生まれたものであることが分かるのです。(祝福家庭と理想天国I−三五六)

 天地間のすべての道理が主体と対象から成っているように、男女が結婚するのも天地間の道理なのです。男性が右側なら女性が左側になるのは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性がその対象となるのは、神様との縦的な上下関係を築くためでもあります。ですから結婚をするのは、男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもなく、天理の法度を合わせるためにするのです。それゆえ、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。

 結婚というのは、愛する二人が寂しいときは慰め合い、うれしいときは共に喜び、困難なときは助け合うことのできる相対的な位置で授け受けしながら、神様の前へ出ていく場合において、神様の愛を土台として生活するために結ばれることなのです。これがすなわち結婚生活です。

 神様が男性と女性を天に造らず、地に造られたのは、平面的基準で神様の愛を横的に成すためです。すなわち、主体と対象の関係を造成し横的に一つになるとき、主体であられる神様と、二人で一つになった愛が、縦的な愛の因縁を結び得るというのです。この事実は極めて重要です。(祝福家庭と理想天国I−三五七)


◆二 なぜ結婚するのか

 男性は女性を探すために生まれ、女性は男性を探すために生まれました。女性と男性は二人合わせて、より次元の高い神様の愛に接するために生まれました。一人ではその愛に触れることはできません。一人で接してもそれは一方的なのです。立体的で球形的な愛に接することはできません。それゆえ、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。

 本然の世界にあっては、男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用においては偉大な中心が生じ、球形になるのです。横的に連結されればされるほど、縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるというのです。そこにおいて心と体が一つになるのです。(祝福家庭と理想天国I−三五九)

 結婚はなぜするのですか。天国へ行くために役に立つから、そうするのです。なぜなら、天国には結婚をしなければ行くことができないからです。それゆえ、天国へ行く資格者になるためには結婚をしなければならないのです。天国へ行く資格とは何でしょうか。神様に似ることです。どのようにして神様に似るのでしょうか。神様のみ言を実践する人になることです。神様の愛を「私」の愛にすることであり、神様が語る言葉を「私」の言葉として語ることができればいいのです。

 それゆえ、「私」は神様に代わり世界に向かって、「人類よ、お前は天国に行かなければならない」と言うのです。その次には「天国に行くためには神様のように『私』が人類を愛して連れていく」、となればよいのです。そういう人は、神様の人であり、天の側の人であり、天国へ行くことのできる候補者だといって間違いないのです。このようになるときには、結婚する資格が整うというのです。さあ、結婚はなぜするといいましたか。天国に行くために、そして人類のためにです。

 男性の前にいるその女性は神様の娘であり、人類の女性を代表した娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければだめです。女性はその反対です。「あれは『私』 の夫である」と考えてはいけないというのです。「私」の夫であるという前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性であると考えなさい。

 人類が愛する以上に愛することができ、神様が愛する以上に愛することのできる女性になればいいのです。そして「私」が男性として右足になり、女性として左足になり、人類のため、神様のための愛の足跡を家庭を通して伝えるのだと考えて結婚しなければなりません。
結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のためなのです。そして、結婚したということはそのような証拠を見せますと宣布したことになるのです。

 結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したならば、家庭の理想を実現したと見ることができます。そして死ぬとき、これを成していたなら間違いなく天国へ行くというのです。(祝福家庭と理想天国I−三六〇)


◆三 真の結婚観

 本来、心と休が完全に一つになったアダムとエバが、縦的に完全に成熟し、新郎・新婦として神様の前に喜ぶことのできる対象圏を成し、神様の祝福を受けることを通して神様の愛による家庭が形成されていたなら、それが本来エデンで堕落せずに成されていた完成圏でした。その完成圏に現れたアダムとエバになっていたなら、それはどういう立場でしょうか。祝福を受ける立場です。

 恵みの中で一番貴い恵みは神様の愛です。その次は神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様が愛を中心としてアダムとエバを創造されたように、創造的権限を賦与されるのが子女なのです。皆さんはなぜ子女を愛しますか。神様の創造の偉業を横的に実休園で引き継いだのと同じであるため、アダムとエバを造って神様が喜ばれたその喜びを代わりに感じるためです。

 その次は、神様が天地万物を主管されたように万物を主管させるために、横的な立場にいる私たちに、神様は主管権を賦与されました。その権限をもって秩序的段階にとどまることのできる、そんな世界が理想的天国であると見るのです。それゆえ、結婚するその時には、神様の愛を相続し、再創造の権限と主管権を、完成圏に立って引き継ぐようになるのです。ですから結婚式というのは、愛の顕現をいうと同時に創造権と主管権を賦与されることなのです。(祝福家庭と理想天国I−三五六)

 私たちの結婚観は宇宙の座布団を・・。宇宙の座布団、分かりまか。宇宙で一番いい絹は何ですか。洋緞(注・高級な絹織物の一種)ですか。洋緞の布団、ねんねこを敷いておいて新婚生活をすることよりも、宇宙の洋緞布団を敷いておいて、その中で愛し合う! そう考えるのです。

 愛を中心として、所有権を「私」 一代で決定する瞬間だというのです。「私」の当代に所有権が来るのです。その所有とは女性の所有が決定されるのです。その女性はどのような女性ですか。宇宙の半分です! これをひったくる日には、私の後ろに宇宙がぶらさがってくるのです。考えてみなさい。

 また、女性はなぜ結婚をしなければならないのでしょうか。男性にくっついて、一八○度と一八○度が合わさって、二人で宇宙の価値と対等の作用圏をつくるために結婚するのです! このように考えるとき、統一教会の思想が素晴らしいというのです。

 結婚は私のためではなく相対のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、ハンサムな人、きれいな人を得ようとするのは間違った考えです。人間は人のために生きなければならないという原則が分かったなら、結婚も相対のためにするという観念をもたなければなりません。いくら醜い人でも美人よりも愛そうという信念をもつことが原則的な結婚観です。人間として生まれて相対を神様のように愛し、人類のように愛し、この世の誰よりももっと愛することができるという観念が確立しなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛することができないなら、神様と人類を愛することはできません。

 結婚は誰のためにするのかといえば、人類のためにするのです。人類の共同利益のためなのです。世界を代表したものです。その男性は世界を代表した男性であり、女性は世界を代表した女性です。(祝福家庭と理想天国I−三六三)


◆四 思春期とはどのような時か

 皆さん、思春期の時は、天下の王子になる気分なのです。すべてのことを自分を中心としてひっくり返して考える時期です。このように思春期は反駁する時代なので、自分を分かってくれなければ、いくらでも危険な道へ行く可能性があります。それゆえに今日、青少年たちの問題が世界的な問題になったのです。

 思春期の時代はどんなことでも自分を中心としなければ気に入らないのです。しかし自分と関係を結んだときは、それがいくら微々たるものであっても得意になるのです。二十歳前後の女性たちをよく見ていると、訳もなく「ふふふふふ・・」と笑います。秋に葉のすべて落ちた柿の木から、熟した柿がぽとんと落ちるのを見ても、「はほほ」と笑います。

 それは何か分からなくとも通じるというのです。すべてのものが、全部自分と関係を結んでいるので最高の感情が誘発されるのです。ですから、思春期というのはすべてのものに接して因縁を結ぶことのできる転換点なのです。それはなぜでしょうか。神様の愛を中心として男性と女性を完全に百八ーセント一つにするための神様の創造本性が基盤となっているからです。

 いくらきれいな娘でも思春期はただ一時しかありません。その時は一番の花の時であり、一生で一番貴い時なのです。それにもかかわらず、「私一人で生きよう」という女性がいるでしょうか。それは女性ではありません。また、男性たちの中にも格幅のよい十六歳前後の青春期に、自分一人で生きようという者がいますか。そのような時には必ず相対を探すようになるのです。誰に似てそうなのですか。神様に似て、そうなのです。

 神様がそうでないのに、そのような人間ができるでしょうか。神様がそうなのです。一生のうちで一番貴い時である青春時代に、相対を探していくのは男性でも女性でも同じです。

 最も美しい花のような時期、花がぱっと開いた青春時代がいつかといえば、思春期の時代です。その時期がまさに十八歳から二十四歳までの七年間です。この七年間は一生に二度とない愛の花が咲く時期です。一度しかない花のようなこの時代がどれほど貴いでしょうか。

 皆さん、芍薬の花を知っているでしょう。その花のつぼみに色の違う黄色の花房があるでしょう。それは何枚から成っているでしょうか。花に全部しっかりと取り巻いているのです。それを押し開くことができますか。たやすく押し開けないようにしっかりと取り巻いているのです。男性や女性もこれと同じです。皆さんの赤い愛、黄色い花のようなその愛のつぼみ、その愛のつぼみをいつ、ぱっと咲かせるのですか。

 天地の調和の中で美しさが最もよく現れる時がその時期です。人間として見ても最高の時です。神様の傑作品になり、最も中心の、絶頂としてきらめく期間です。大きくなりながら最もきれいな花のような時代、一番美しい時代が青春時代です。

 その青春期の姿は最高の花のつぼみです。それを十分に愛することのできる人がいるなら、その人は神様の部屋に招待を受けることができます。そのように愛することのできる男性と女性は、神様の恵みを受けることができ、神様の部屋に招待を受けることができるというのです。それを知ったなら皆さんは、男性なら男性としてそのような準備をしなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−三六七)


◆五 思春期に起こる身体的変化は何のためか

 少年期には漠然とした夢の中で健康に育つことだけを望みますが、思春期になり身体的、生理的変化が生じるようになれば、異性に対する関心が高まり、瞳は好奇心と美しさできらきら光るようになります。体もおしゃれをするため、着物の身だしなみを整えるようになるし、顔もよりきれいにするために、整えることに余念がなくなるのです。そのような時に唇を見れば彼が思春期にさしかかっているのか、そうでないのかを知ることができます。

 女性たちにおいても、思春期にさしかかれば月経が始まり、身体的に多くの変化が起こるよう
になります。お尻が大きくなり、胸がふくらみ、唇は赤くなり、瞳は神秘的に輝いたりします。そのような女性の変化は、どうして、誰のために起こるのでしょうか。女性の身体的変化は、直行していた道をくるくる回るための変化なのです。くるくる回っていくことのできる運動を始めるための変化だというのです。

 直行する道には何の調和もありません。直行する道は二回行ったり来たりすればすべてのものが消耗され、何も残るものがないのです。直行する道を行ったり来たりすれば環境を破壊するだけで、環境の調和は起こりません。環境の調和と保存のためには回っていかなければなりません。それゆえ、すべてが回っていくべきです。回っていく場合は、自分を中心にしては回っていくことができないので相対を中心として回っていかなければなりません。

 回っていく場合は相対とぶつかってこそ、回っていくことができます。相対者とぶつかれば自動的に反作用が起こり、回る運動が始まります。これは天地の道理です。それゆえ、女性に身体的な変化が起こるのは相対者と出会い、回っていくためです。ぶつかれば回っていくための力が生じるようになります。女性が化粧をしてきれいに飾るのは、自分のためというより相対のためであるといえます。

 美しく身なりを整えた女性を見ると、その女性が男性を見る目はひときわ輝きます。自分の相対を見つけるため、自らをきれいに装うのは自然の現象といえるでしょう。しゃれた男性に出会うため、理想的男性に出会うため、心を焦がしながら歩き回るようになります。

 皆さんのような思春期の独身男女がともに会って話をする時は胸がはずむのです。はずむでしょう。はずみますか、はずまないですか。分からないのですか。はずみますか、はずみませんか。(はずみます)。それみなさい。興奮するでしょう。そして興奮するようになれば心のうちに変化が生じます。ところが、その心が神様を中心とせず、反対の立場に立てば悪になるのです。心は誰を中心とするのでしょうか。神様です。その神様を中心とした心と心情が、一つになることのできる所に上がれるようにするのが愛です。何の話か分かりますか。

 このような立場で一つの生涯を送らなければならない人間であるために、人間は愛を中心とした理想と希望をもたなければならないのです。そして、最後の場で輝くことのできるのが愛なのです。(祝福家庭と理想天国I−三五七)


◆六 思春期の初恋

 思春期には愛を探して心と体が衝動を起こすようになります。父母の言葉を聞かず、自分勝手に歩き回ります。心の目と体の目が一つになって動きます。また、愛の鼻をもてば、ふだん嫌いだったにおいまで好きになります。愛の口をもてば、ふだん嫌いだった味までも好きになります。夜を徹しながらでも愛の話を間きたがります。愛する対象は、触れば触るほど、もっと触りたいというのです。このように思春期になり、愛の感情に襲われるときは、目がおかしくなり、すべてのものを良く見ようとします。

 心と体が一つになり、愛の銃を撃てば、愛という弾丸が相手の心臓に打ちこまれるようになるのです。男性のそのような愛、女性のそのような愛を願う人は手を挙げてみなさい。愛は消化できないものがありません。すべてのものをおいしく食べることができ、すべてのものをみな消化することができるのです。真実の愛をもったなら、いくらぶ男であっても美男に見えるようになります。愛は驚くべきものです。ですから、良くても悪くても思春期時代に結んだ初恋は、男性でも女性でも永遠に忘れることができません。

 死ぬほど好きな恋人のいる女性が、父母の反対で別の男性に嫁いだとしたら、その女性は一生の間幸福でしょうか、不幸でしょうか。その女性は、自分が初めて愛した男性がたとえ鼻がつぶれ、目が不格好だとしても、花のように良く見えるのです。父母が決めてくれた男性は外見からしても学閥からしても、千人なら千人がみないいと言える人であり、昔自分が心の中でささやき、愛した男性は至って不出来なのにもかかわらず、その初恋の男性のほうが良いというのです。初恋はすべてを占領するのです。

 愛の主体は誰ですか。神様です。愛の主体が神様であるために、愛することができるのも神様お一人しかいないのです。元来、初恋は神様とするようになっていました。ところがそのようにできなかったことが堕落です。エバは誰と愛し合いましたか。(天使長と愛し合いました)。ところが喜びながら愛さなければならないのに、顔をしかめて泣きながら愛し合ったのです。

 皆さん、堕落するときエバが「あかいいわ! 善悪を知る木の果を取って食べると本当においしい、おいしいわ」と言ったでしょうか。エバが天使長に強姦されたとき、その心はどうだったのでしょうか。良心の呵責を受け、嫌がりながら天使長の誘惑に引かれていったのです。すべての細胞がうれしくて花が早春を望むように愛し合うべきであったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた場で顔をしかめながら愛し合ったのです。

 もし堕落しなかったなら、誰と初恋をしたのでしょうか。神様としたはずです。アダムとエバの神様を中心とした初恋には、すべてがつまっているのです。初恋を中心とした父母の愛、初恋を中心とした夫婦の愛、初恋を中心とした子女の愛、すべてに神様の愛と根がしっかりとくっついているのです。皆さんのように何千年の歴史的距離をおいて、個人復帰や家庭復帰という段階を経なければならない愛ではありません。一遍にぱっとくっつく愛です。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がひとまとめに全部くっつく愛なのです。(祝福家庭と理想天国I−三七四)


◆七 結婚の適齢期−愛はいつから連結されるのか

 全知全能の神様は、人間において華やかに花開くことのできる時を造られました。その時期が青春時代だといえます。神様は愛の青春時代を中心として、自ら幸福を培っていくように造られたのです。それゆえ、神様が存在する同一の理想的な人間世界にあって、男女が華やかな青春の時期に幸福になることができる関門として、結婚という祝福をしました。この世に存在するすべてのものは、相対的理想を経なければ存在価値がなくなるのです。ですから人間が成長したのちに祝福を受けて結婚をするのは至極自然の摂理なのです。(祝福家庭と理想天国I−二七こ

 愛はいつから連結されるのでしょうか。愛の力はいつから押し出してくれるのでしょうか。男女も思春期を迎え、すべての器官が百パーセント完成圏に到達するようになるとき、停止状態へ入っていくのです。すべてのものが飽和状態になります。運動というのは必ず飽和線を経ます。それで、いったん停止して、また回るようになります。そのような飽和状態に入っていって停止します。そのような飽和状態に入っていく前段階が何かといえば思春期です。思春期というのは「私」の肉体の発育において、すべての器官が完成した時期をいいます。気球でいえば空気がなくてぺちやんこの状態から、空気を入れてぱんぱんになり、破裂する直前になったということです。もう少し入れば破裂します。

 その破裂するとはどういうことでしょうか。それが愛が完成して破裂するのならどれほどいいことでしょうか。同じく人間も十八歳ぐらいになればゴム風船のように張り詰めてきます。そして破裂直前の立場まで行き、そこから見事に永遠に転がっていくことができます。

 霊肉が完全に一体となるときは、本然の愛が私たちの中に訪れてくるときです。堕落した世界の人間たちの場合も、思春期とは霊と肉体の細胞が和合する平行線上に立つこのとできる時期であるというのです。思春期のときの霊と肉体の細胞は、すべての門を開き喜んで迎えるのです。神様を中心とした思春期時代に人間世界を眺めるとき、喜びと幸福のみが満ちるようになるのです。

 愛するようになれば幸せになり、愛に酔って感じる感情は、実に、のぞきめがねのようだといって、早く経験してみようと飛びつけば、それは大変なことだと言わざるを得ません。愛の門は時になれば開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主体になったと思った時、堂々と開かなければならないのです。

 結婚適齢期はいつごろだと思いますか。心と体が最も完成した力をもつときが結婚することのできる最適齢期であるといえます。青年期を越えればだんだんと気力が衰えていくために、いくら純情を保ったといっても相対者を求めるのが難しくなるのです。(祝福家庭と理想天国I−三六九)

 それでは完成した人、すなわち完成した男性と女性が住むようになる場とはどのような場でしょうか。天の公的なみ旨を中心として神様の愛を受けることができ、心と体が完全に一つになり、神様を主体として侍ることのできる場です。このような場に住むようになるとき、完成したアダムとエバの立場に立つようになります。このような人々が家庭を築いて出発するのが歴史的な出発なのです。これが歴史的な人生行路の第一歩です。(祝福家庭と理想天国I−三七八)


◆八 心と体が一致した愛

 皆さん、三点が分かりますか。三点。この三点が一つになれる点は、神様とアダムとエバが一つになれる場です。神様がアダムとエバと一つになれる場は、彼らの心と体が一致する場です。

 男性は、心と体が主体と対象の関係になっていますが、心と体は縦と横の作用を継続することによって存在の力を発生させます。女性もやはり心と体が縦と横の関係をなしており、存在の力が起こってくるのです。男性でも女性でもすべて縦横の相対的関係をもっていますが、その力は愛なのです。愛だけが心と体の理想的関係を永遠に成すことができます。

 貧しい農夫として田舎で草を取り、農作業をする場にいたとしても、その農夫の心と体に愛の情熱が燃えあがれば、心の五宮と肉の五官が完全に合わさって、これ以上にない喜びを味わうようになるのです。このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点を皆さんがもっているなら、時計の振り子の振動のように、神様の心が一度揺れれば皆さんの心が一度揺れ、それゆえに皆さんと神様が一緒に回っていくというのです。

 一度回り始めればどんどん回っていきます。行けば行くほど加重された力、遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになるのです。

 皆さん自身の心と体が一つになる中で愛の門が開かれる時が近づけば、皆さん自身の心が宇宙に共鳴して小説家や詩人になったりするのです。愛を主題として詩や小説を書くことができるのは愛を美しく幸せに結んでゆく資質を発揮するようになるからです。人間が愛の目を開けるようになれば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な関係を結びたくなります。そして秋風に舞う落ち葉を見て自然の道理を悟りほほえむようになり、春の園に咲く花の中に美しさを見詰めたくなって、自分が一輪の花になったりするのです。

 男性も女性もどうして愛を好むのでしょうか。人間の身体はおよそ一億兆にもなる細胞から構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するかといえば愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かすことのできる時が、まさに男女が愛し合う時であることを知らなければなりません。心と体が一つになって恋しい涙を流すようになれば、骨が鳴り騒ぎます。動物の場合においても同じです。皆さんも知っていると思いますが、雌牛が発情すると、どうなりますか。食べることさえ忘れてしまいます。

 その時、すべての神経がそのことだけを願うようになります。それと同じで、心と体が一つになった場所で愛し、互いに恋しがるようになれば、体の中で動かない細胞はありません。細胞の一切が本来の方向感覚を忘れてしまい一つに集中されます。こうして相対に出会うようになれば爆発するようになります。その爆発力はものすごい力になります。そのように愛して何をしようというのでしょうか。神様に似ようというのです。神様が喜ばれることに同参することのできる場に出ていこうとするのです。言い換えれば、神様が喜ばれることをともに感じようとするのです。(祝福家庭と理想天国I−三七八)


























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