真の家庭
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第七章 真なる夫婦の愛


◆一 創造本然の夫婦関係

 神様はプラスとマイナスの二性性相であられます。これをプラスに分立させたのが男性のアダムであり、マイナスに分立させたのが女性のエバです。一男と一女は、無形であられる神様の実体対象として現れた息子・娘です。男性は神様のプラス(十)の性稟を、女性は神様のマイナス(この性稟を代表した実体対象です。

 創造理念は、両性の中和体としておられる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化するものです。一人の男性と一人の女性は、おのおの神様の一性に似て現れました。したがって、彼ら一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(この性稟が一つになることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。それゆえ、人間の二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体です。

 男性は神様のプラス(+)の性稟を代表することによって真の父の分身となり、女性は神様のマイナス(この性稟を代表することによって真の母の分身となるのです。彼らはおのおの神様の身代わりでもあります。夫婦が愛で一つになることは、天宙を抱くことと同じです。これは宇宙的な出会いです。

 夫は多くの男性を代表して現れた存在なので、夫であると同時にお父さんの身代わりでありお兄さんの身代わりであって、妻は多くの女性を代表した存在なので、夫人であると同時にまたお母さんを身代わりし、同時にお姉さんを身代わりしているので、互いに愛し合い尊重しないようにしようとしても、せざるを得ないのです。

 男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は天下を一枚のふろしきに包んだのと同じです。ゆえに夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つとなって調和を成し、平衡線を成さなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−八六八)

 夫婦というのは自分一人に限った夫婦ではありません。天地を代表した夫婦だということを知らなければなりません。男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて台無しになります。男性と女性が互いに好きで抱擁すること自体が、宇宙が一体を成す場となります。神様の理想の中で成される創造本然の姿がそうなのです。

 人間が男性と女性として生まれたのは愛のためです。愛は夫婦となって一つとなることにより、実を結ぶことができます。男性と女性は神様の愛が二性性相によって分立した実体なので、分立した実体が合性一体化するために、神様の愛を尋ねていかなければなりません。

 神様の愛に出合おうとするなら、男性と女性が愛で一つとならなければなりません。男性と女性が一つにならなくては、神様の愛に出合うことはできません。神様の愛に出合うことによって、私たちは神様の同位圏にとどまるようになるのです。

 同位圏とは、神様の横に立つことのできる位置をいいます。夫婦が完全に神様の愛を中心として一つとなるようになれば、その夫婦は神様の位置まで出ていくことができるということを知らなければなりません。神様の位置に上がっていくことができるだけでなく、神様がもっているすべてのものが自分の所有圏内に入ってくるようになるのです。愛の力はこのように驚くべきものです。

 神様が皆さんに同参的権威を許されると同時に、皆さんは神様がもっておられる所有権限全体を伝授されるようになるのです。アダムの願いは天宙を治めることでした。アダムが愛した夫婦の価値は、世界の中心的価値を代表したものです。堕落しないで神様が立てる本然の人、すなわち本然の男性と女性を中心としたその愛はどのくらい貴い価値があるのかをはっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−九六九)


◆二 夫婦の愛が必要な理由

 皆さんは、天国がどのような所だとお思いになりますか。天国は一言で言って、完成した人が入り、暮らす所だということができます。天国が真なる愛を備えた完成した人が入る所であるとするならば、その真の愛を備えた人とは、どのような人でしょうか。

 人間は男性と女性で成り立っています。神様の理想的愛の完成が、地上でどのように成り立ち得るかを見るとき、男性と女性を離れては成り立ち得ないという結論に至るのです。完成した愛の主体性を備えた男性と女性でなくては、神様の愛が完成されません。(祝福家庭と理想天国I−九五一)

 真の家庭は家庭天国を築かなければなりません。家庭天国を築くようになれば、間違いなく地上天国が築かれます。なぜ、そうでしょうか。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激しようとするので、不可避的に相対が必要ですが、家庭において相対からその刺激を受けることで、未来の天国理念を今日の生活感情から体得することができるからです。それを体得するために、夫婦が必要なのです。その刺激によって、夫婦は永生することができます。発展は刺激がなくてはできないのです。

 夫婦の愛は、理想天国を建設することのできる刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引き込み、刺激を与えて推進力を補給させ、その場まで行くようにするのが夫婦の愛です。その愛の中には、国の愛も入っており、世界の愛も入っており、神様の愛も入っています。したがって、その愛はどこでも無事通過です。

 結局、天国には互いに愛し合う夫婦だけが入ることができます。それゆえ、この地上でそのような思想をもって互いに愛し合う夫婦は、いつも天国生活をしているのです。イエス様は「天国はあなたの心の中にある」と言われたでしょう。けれども今日、統一教会では、「あなたの家庭に天国がある」と言うのです。

 家庭で天国を築くことができないというときには、統一教会のみ旨が成されないのです。けれども、築くことができるというときには、そのみ旨が成されます。このような観点から、皆さんは原理を中心として正道の道を選んでいかなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−八七五)

 今後、天国を築こうとするなら、夫婦同士が愛し合うのと同じように、結婚した男性は世界のすべての女性たちを自分の妻を愛する心で愛そうと思わなければなりません。「世界のすべての女性の中から代表的な伴侶として私は妻を選んだのです」。このように考えなさいというのです。

 また女性たちは、自分の夫なら夫に対して、ただ一人の夫としてではなく、全世界の男性の中から代表として選ばれた人が夫だと考えなさいというのです。女性の皆さんがどうしなければならないかと言えば、一人の男性を愛しますが、その男性一人としてだけ愛するのではなく、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性はお父さんを代表し、お兄さんを代表し、夫を代表するのです。

 それはどういう意味でしょうか。夫をお父さんのように思い、おじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように思い、弟のように思わなければならないということです。このような縁を通してお父さんを愛し、おじいさんを愛し、お兄さんを好きになり、弟を好きになることのできる、そのような女性こそ相対を迎えることができるのであり、「お父さんも嫌い、お兄さんも嫌い、おじいさんも嫌い、弟も嫌い、みんな嫌い、ただ自分の夫だけ好きだ」、それは神様の公約を外れた立場です。

 だから、どうしなければならないかと言えば、全世界の男性すべてをも愛することのできる心を内包し、その結実のような男性を「私」が抱いて愛するのは、全世界のすべての男性を代表して愛するのだという観念をもたなければなりません。「私」のお父さんのように、「私」のお兄さんのように、「私」の弟のように万国を超越して、国境を超越して愛し得る心をもつようになれば、その人は神様の息子だということができ、娘だということができます。これが統一教会の思想です。(祝福家庭と理想天国I−八七五)


◆三 理想的な夫婦の関係

 真の夫とは「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもつことのできる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭であらざるを得ません。

 男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性のために生まれたというのです。女性がいなければ男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、「私」がアメリカのある俳優だと誇っても、その女性は女性のために生まれたのではありません。

 ですから男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを合わせれば、よく合うようになっています。それゆえ真なる愛の妻、真の理想的な、幸福な妻と夫はどこに存在するのでしょうか。「私」のためにではなく、互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。それは間違いない事実です。

 このような原則から見るとき、理想的な愛や、また幸福で善なる人をどこで探すことができるかといえば、自分のために生きようとするところでは探すことができず、人のために生きようというところに根拠を置けば探すことができるのです。夫は妻のために、妻は夫のために生命を捧げることができなければなりません。その夫婦は神様の愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので、堕落はあり得ません。(祝福家庭と理想天国I−八八二)

 男性が自分の妻を愛することにおいては、世の中のどの男性が自分の妻を愛するのよりも愛さなければなりません。女性も自分の夫を愛することにおいては、世の中のどの女性が自分の夫を愛するのよりも愛さなければなりません。それが真の家庭を築いた夫婦が守るべき愛の倫理なのです。

 真なる父母は、子供のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫とは、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れ得るのであり、また、それが理想的な夫婦です。

 新郎・新婦はお金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体とならなければなりません。この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、その妻の姿を見て夫も力が出るようになっています。

 ですから、彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。真なる夫婦は、神様を中心として愛の一体を成し、愛を中心として前進的発展を成していかなければなりません。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中で、一級の夫婦が神様を愛する家庭をつくり上げていかなければならないのです。

 夫と妻が互いに愛し合うことにおいても、神様の身代わりとして夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。

 最近、済州道の娘が嫁ぐとき、田畑を与えれば登記するのに娘自身の名前でするというでしょう。いつでも夫と別れれば自分の主張をするために、そうするのです。それは本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金、これは自分のお金、お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金・・。それは愛ではありません。

 お金の包みを広げて使っても「どうなった?」「私が使った」「そう? いい時に使ったわね・・。もっと使って・・。」これでこそいいのです。口をぶるぶる震わせ「ああ、また使ったわね・・!」これでは落第者です。ですから、いつも与えても、無限に与えることができ、いつも思いのままに、深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授け受けることができるようになるときに、幸福なのです。

 それゆえ、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときも不幸なのです。(祝福家庭と理想天国I−八八二)


◆四 神様も酔うことのできる真の夫婦の愛

 私たち個々人は心と体が相反しているので、心を中心として体を一つにし、心の中に神様が臨在できる相対的基盤を造成しなければなりません。このような男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けながら喜びを享受するとき、神様がご覧になると、地上に咲いた花のようだというのです。

 また、彼らの愛によって築かれたすべての調和的万象は、神様には香りのようなものです。このような美しい花と香りの中に神様は暮らしたくて、訪ねてこられるのです。神様の愛が訪ねてくることのできる土台が、すなわち夫婦愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が調和する場となることでしょう。このような内容と道を教えてくれるのが統一教会であり、統一教会の原理です。(祝福家庭と理想天国I−八八九)

 神様が最高に喜ばれるメロディーが何かといえば、男性と女性が互いに好き合って喜ぶ永遠なる夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦が世の中を理解して抱くことができ、宇宙全体を受容できる心で生を営むとき、笑いは自然発生的となりまず。そのような男女の美しい姿が、神様の前に一輪の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想でも抽象でもありません。本然の世界を語っているだけです。

 夫婦同士、家の前にある山を眺めながら、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ねてみて、全宇宙を考えながら、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねてみます。そうすれば、自分のためであると同時にあなたのために生まれたのだと答えるのです。夫婦とはまさにこのようなものです。この宇宙の存在価値を重要視することが、夫婦が一つとなる道です。夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話をするのです。夫婦は同じ道に行くのです。

 田舎者の娘だといっても、大臣と結婚すればどうなりますか。同じ道に行くのです。その田舎者の女性が小学校も出ていないといっても、すべての人が大臣の奥様だといいながら、頭を下げなければならないのです。このように夫婦は共に行くのです。夫婦に「あなた」の愛が別にあり、「私」の愛が別にありますか。「あなた」の愛であるとともに「私」の愛なのです。「お前」の愛であるとともに「私」の愛なのです。心情と血統がすべて一つになって愛するのです。

 このように愛し合うことができる人は誰ですか。夫婦です。夫婦なき世の中ならば生きる味わいがありますか。愛し合う夫婦が対話する姿を見れば世の中のどんな詩や絵よりも美しいのです。また「愛し合う者同士、私たちだけ、私たち二人で」という言葉がどれくらい美しく素晴らしい言葉ですか。

 良いには良いのですが、その中で最も良いものは何でしょうか。相対者しかいません。私が「あなた」と呼べば、相対的に「お前」と答えるし、「やあ」と呼べば「うん」と答えるのです。
夫が愛する妻を慕わしくやさしく「お前」と呼べば、親しくやわらかく「どうしたの」と答えます。しかし、無愛想に呼べば同じように「何だよ」と答えるのです。山びこと同じで、みな相対的だというのです。

 愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は笑うとき目を一層大きく開くのに、女性は笑うときそっと目を閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦は愛に酔った幸福な夫婦だということができるでしょう。(祝福家庭と理想天国I−八八八)


◆五 会えば会うほどいっそう会いたいのが夫婦の愛

 男性が幸福な時はいつであり、女性が幸福な時はいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授け受ける時が、幸福な時だということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的な力を動員するなら、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょ男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるでしょう。男性と女性の間の愛において、力だけでもだめであり、心で愛するといって、それだけでいいのでもありません。

 愛する心を、力をもって確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるでしょうし、また、女性が男性に対して心と体で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。(祝福家庭と理想天国I−八九〇)

 人はいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには築かれません。刺激がなければならないというのです。いつも食べるご飯も、食べるときごとにおなかがすいていてこそ、新鮮であるように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。

 妻と夫が互いに見詰め合えば見詰め合うほど、もっと見詰めたいし、一日中共にいたくなければなりません。愛は互いに恋しがるとき価値があります。口があれば口を広げ、目があれば目をあけて愛をくださいといえば、愛をくれる人も気分が良いでしょう。ぼうっとしていると、愛が来ても逃げていくということを知らなければなりません。

 愛する人が真剣でなく、消極的に出るとどれだけ気分が悪いでしょうか。皆さんは愛する者同士共にいることがいいですか、離れているのがいいでしょうか。近くに共にいればいるほどいいのです。なぜでしょうか。すべてのことが一遍に作用するのでいいというのです。

 一番いいことが何でしょうか。食べることですか。おなかがすいた時、ご飯を見てよかったといって食べますが、そのようなことは一時的だというのです。飽きるほど食べたのに、また食べ物を上げれば嫌になります。けれども、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。

 愛する人を「私は忘れてしまいたい。嫌い」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしょう。見てもまた見たいし、また見てもまた見たくなるのです。だから互いが、お前が前に立ち、私が後ろに立つといいながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。

 愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こったりもします。それは幸福に酔って、ふらふらになるからなのです。結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫となってからは、会いたくて一日に何度も見なければだめなほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。だから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと呼び出したりもします。

 愛を知った男性も、同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして、眠りたがります。だから昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間があれば家に飛んできたりします。また、結婚する前には「そのようなことは女性がやることだろう、男がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことが、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化だといえます。

 神様は人間をお造りになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようにしてくださいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」などなど、互いをたたえ合う甘い話だけだというのです。

 この世に愛の蜜語ほど甘ったるいものは存在しないでしょう。夫婦が寝床に入っても、ささやく蜜語はこの世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。(祝福家庭と理想天国I−八九四)


◆六 夫婦の愛の発展過程

 男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするでしょうか。愛の発展過程を見れば、最初が口であり、二番目が胸であり、三番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口であるので、手で口を覆うのです。

 愛が口付けから始まるからです。愛が次第に成熟すれば、その結実として息子・娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は、愛の聖所ですが、その門を開けることのできるかぎは、夫だけがもっているのです。

 夫が妻の愛の聖所を開けることのできるかぎを二つやそれ以上もっているなら、その夫はサタンです。また妻の聖所が開くのは、夫がもっているかぎだけでなければならないにもかかわらず、どんなかぎでも開くならば、それもまたサタンなのです。

 夫がもった愛のかぎが妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子・娘が誕生するようになるのです。その息子・娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶体なのです。息子・娘を通して、神様が人類の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体得するようになるのです。だから父母は、息子・娘を見ながら「こう見てもわが愛する人、ああ見てもわが愛する人・・(パンソリ『春香伝』)」と歌い、喜ぶようになるのです。

 愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎くなくてひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして愛でつくられた分身体であるからです。小便をし、大便をし、鼻を垂らしても、ただひたすらかわいく愛らしいのです。それらの中に愛が染み込んでいるからです。(祝福家庭と理想天国I−八九四)

 夫と妻の関係でも、愛の強力な力で結ばれたなら、相対が何をしようと、どのようなことをしても、うれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だといったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。

 結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様がともに喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合うことのできる関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。男女が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしがることではありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れてきました。

 エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから人かいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸で踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし人が見る前でそうであるなら、それは社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけでこそ、裸になって踊るのみでなく、何かをしたとしても誰が干渉するでしょうか。

 ですから祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊りなさい。夫婦同士なのに何のかかわりがありますか。この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。精誠を尽くすその女性しかいないという思いの中に、精誠を尽くすのが原理です。(祝福家庭と理想天国I−八九一)

 真実の幸福といえば、相対者とともに愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。愛する恋人からささやきの言葉を聞くことのできる人は、幸福な人であるといえます。耳元で愛をささやくことは、まさに夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。(祝福家庭と理想天国I−三七一)


◆七 愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか

 夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになるという、そのような漠然とした理由のためだけではありません。愛は四方性を備えなければなりません。

 そうしながら、立体的に前後・左右と相関性を備えなければなりません。このような愛であるので、夫はその女性と左右の側で、相対として愛の四方性を成すようになるのであり、したがって、このような妻は夫がいないことによって、全宇宙が保護するその立場から、保護を受けられない立場に落ちることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。

 愛する妻を見れば、なぜいいのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護され得る基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受ける横的な愛の関係を結び、縦的な宇宙の力と接することのできる場をもつようになることで、宇宙の保護力によってその相対をもつ者は、無限にうれしくなるのです。

 ですから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。ですから、踊りを踊り、歌を歌うようになり、共に一団となって回るのです。

 踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことをなぜ、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡大するためです。多くの人々がレバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーンがアメリカに行って、アメリカの若い彼らと徹夜しながら、彼らを教育して運動をさせながら、時には彼らとともに踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何のためですか。保護圏の拡大が私と関係があるからです。宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとしても、恐れることなく押し続けていくのです。

 いくら幸福をうたい、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦のうち、一人が死ねば悲しくてわあわあ泣きます。一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方だけだとかわいそうだといいますか。天地が喜ぶことのできるすべての重要な日々の前に、不合格者であるからです。天地法度の規律の前に外れたというのです。明らかにその法度を通してだけ、天地の運勢は回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。

 悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみが生じるのは、天地法度とは順応しない立場にあるということです。心がうれしく、いいというのは何ですか。その人を世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲しみがそのように分かれるようになっているのです。夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば、泣くようになります。

 なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法の前に不合格の基準に該当すれば、この宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、またそのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。それでは、喜びはどのようにして生じるのでしょうか。そのような宇宙の公法に一致する自分となれば、宇宙の力が彼を抱こうとします。

 その力が大きければ大きいほど、強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、彼はその内的な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこから生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として生じます。

 それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が最初から最後まで一致していく道であり、またこの道は、天運が行く道です。一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫婦が一心となって行く道です。

 皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。ですから互いに争い合い、泣きわめき、死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品として見なされるのです。そうして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知っているので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。(祝福家庭と理想天国I−九〇二)


◆八 死ぬときまでに永遠に成すべき夫婦の愛

 夫婦が互いに愛し合うことにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若いときだけ愛するというなら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠に」とも言いますが、死ぬときまで、その次に永遠に愛することを望むというのです。永遠は未来を中心として、全体をいうのです。

 死ぬときまで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。そうでしょう。「永遠に」は全体的であり、「死ぬとき」まではすべて愛するということです。そうしてこそ、相対が喜ぶのです。

 この場にいる娘たちが今からお嫁に行けば、夫に間違いなく「あなた、私を愛しますか」と聞いてみることでしょう。愛するといえば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋ねたとき、すべてを愛すると返答してこそ、気分をよくするのです。男性もそうです。仕方がありません。神様の調和がそのようになっているのです。

 人々は結婚するとき、互いに死ぬまで愛するといいます。愛するという言葉を語るとき、ただ死ぬまで愛するという言葉と、「ずーっと」十年、百年、億万年愛するという言葉の中で、どれを願いますか。ただ死ぬまで愛するという言葉を願いますか。ここにいる女性たち、返答してごらんなさい。ただ死ぬまで愛するという言葉より、ずーっと億万年愛するという言葉を語れば、もっと喜ぶことでしょう。これが十年、百年、このように長くなるほど、もっとよいのです。

 夫が妻と出会い、「ずーっと」、その次に十年が過ぎても「ずーっと」、また五十歳、年を取っても「死ぬまで愛する」と言うことができるなら、その妻は、自分の年取った旦那さんがどれほどいいか分からないのです。そういうものです。おなかが出て、うんうんとうなるとしても、喜ぶのです。(祝福家庭と理想天国I−八八四)

 真の妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人はある程度成熟すれば家庭を築くようになりますが、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラスされる愛の家庭を築かなければなりません。

 その家庭的な愛が拡大され、氏族を成し、永遠に愛を拡大させていくことのできる、永遠なる愛の実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。また、そのような夫婦が神様の愛に同参できるのです。(祝福家庭と理想天国I−八八二)

 妻の目には夫が最高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなければならないのです。初恋で結ばれた縁が最高の縁です。人が何をいおうと最高です。このようなものは何億上げても買うことができないのです。

 このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、どれほど素晴らしいことでしょうか。すべての人がその程度にはならなければならないというのです。妻は夫によく従い、よく助けなければなりません。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。

 現実に一生の間、そのように暮らさなければならないのです。最高の歴史と最高の文化が崩れたので、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために、新しい歴史を創造してきたのです。

 統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体をもって展開することのできる夫婦です。最高の文学を展開することのできる夫婦です。最高の理想と世界最高の文化世界に触れる前に、最高の愛で夫婦が授け受ける甘い愛が、世界最高の芸術作品とならなければならないのです。それ自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I−八八四)






















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