真の家庭
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第八章 真なる父母の愛


◆一 父母の限りない愛の心

 子供を産んで育ててみた親たちは分かるでしょう。愛している大切な息子・娘を通じて恵みを受けたいし、幸福も感じたいのです。また、うれしいこと、恵みを受けることがあればその息子・娘に永遠に残してあげたいでしょう。

 そのような希望の心を抱いてその息子・娘がまっすぐに育ち万国から崇められ万世にたたえられる息子・娘になることを堕落した人間も願っています。夜も昼もその息子・娘がけがをしないかと保護し、切ない心情でもどかしがるのが父母の心です。堕落した父母の心でさえもそうだというのです。

 胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、子供が大便をし、おしっこを漏らしてにおいがしても愛でその環境を忘れることができるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心がそうであるならば、ましてや愛の主体であられる神様が本然の心情を通じてアダムとエバを愛されたかったそのお心がどれほど切なかったでしょうか。

 皆さん一度考えてみてください。皆さんが子供を抱いて育てるとき子守歌を歌ってあげ、独り言で話しかけ、立派になることを願うその心は父母ならば誰でももっていることでしょう。いくら甲斐性がなく、足りない父母でもその子供に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙でずぶ濡れになるほど、この上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれればその苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから神様のご心情はいかばかりでしょうか。(二〇−二○九)

 父母は息子が罪を犯して牢獄へ行けば「あの野郎よく行った」と言うのではなく、その子を許し、涙を流して愛そうとします。それが父母の愛です。それで父母の愛が貴いのです。もしもその息子が死刑囚になって死ぬ時刻となれば、息子の死刑執行の時をお母さんが知っていれば、慟哭するでしょう。

 この世のすべての法をみな変えてしまうことがあったとしても、息子を救うことのできる道が一つでもあるならばどのような冒険でも生命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっているので、父母の愛は貴いのです。自分の体を打ち、自分の体を失ってでも自分を犠牲にしながら子供のためには死んでもかまわないというのが父母の心情です。(九一−一四八)

 子供を愛する父母は子供を愛するとき、「私がお前に何日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したんだ。その価値は何千何百何十銭だ」と言って帳簿に付けますか。

 父母が子供を愛するのに、この世の王宮の王子・王女以上にしてあげたいのですが、それ以上してあげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしてもこれだけしかできなくてすまない」と言うのです。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。

 それで父母の愛を好むのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛しても愛し足りないことがないかといってもっと愛したい心、与えてからも物足りず、やりきれない思いこのようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属することができるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。(六〇−八四)

 父母は子供に対して自分の一番いいものを全部あげたいのです。それが父母の心です。これは誰に似てそうなのかといえば神様に似てそうなのです。それでは神様はどのようなお方でしょうか。子供となる人間が本当に現れれば彼には自分よりもっと貴いものをあげようとずるお方が神様なのです。(五六−一四七)


◆二 子供がより素晴らしくなることを願う父母の心

 ここで中年以上の皆さんに「昔、若い時に自分の相対を探すのに自分よりできの悪い人を求めましたか、それとも自分より素晴らしい人を求めましたか。」と聞くならば、答えはみな同じことでしょう。できの悪い人ではなく、素晴らしい人です。東西洋の誰に聞いてもそのような結論を下すことでしょう。ましてや、愛する父母が子供に対する時は、その子供が父母である自分よりもできの悪いことを願う父母はいないのです。

 ある美男・美女が結婚して初めて子供を産んだ時、その子の顔を見るとその父母の順に比べると何でもないようなでたらめな顔でもその父母に対して、あなたの子供はあなたよりもきれいだと褒めれば褒めるほど、その父母はとても気分がよくなるのです。

 父母の心情について考える時、おばさんの顔がきれいだとしてもそのおばさんが抱いている赤ちゃんを見て通り過ぎるおじさんが「わー! この子はお母さんより何千万倍もかわいい」と言えば喜びます。それは、お母さんがその赤ちゃんよりも何千万倍もブスだという言葉です。

 でもそんな言葉を言われて「何ですって? 私より何千万倍もかわいいって? そんな私は何千万倍もブスだってことじやないの?」と言いながら食って掛かるお母さんはいません。ただうれしくてどうしていいか分からないのです。これが母親の心です。このような心は誰に似たのでしょうか。お母さんは結果的な存在であって、動機的な存在ではありません。

 息子が父親よりもできの悪いことを願う家庭があるならばその家は滅びるのです。父親は大統領なのに息子がそれより劣るようになって、そのような形態が数代か続けばその家はだんだん滅びるのです。しまいには肩身の狭い立場になるのです。息子がお父さんに「お父さん以上にやりたいのですが、いいでしょうか。」と言えば、お父さんが「やいこの野郎!」と言うでしょうか。「そうかやってみなさい」と言うでしょうか。後者を選ぶのです。(四一−二八三)

 どのような父母でも家庭の責任を任せるために自分の身代わりを立てる時は、自分よりもできない者を身代わりに立てることを願いません。なぜそうなのでしょうか。子供が自分より優れてはいけないと考える父母は絶対にいないからです。また国を中心として見る時も、やはり同じです。
国の主権者は、自分以上の主権者が現れることを願う主権者にならなければなりません。家庭においても、国家においても、誰彼を問わず、自分より素晴らしく、自分よりすべてのものを備えている後継者が現れることを願わなければなりません。これは歴史の変遷を超越する、永遠に近い要求条件です。

 父母の愛が永遠に持続するためにはその伝統を継承した誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが相続者です。私たちが子女たちを、そのような伝統の相続者になるように教育しなければなりません。そしてその伝統をより高い価値に向上させることのできる方法が私たちには必要です。

 各世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならないし、その伝統を継承するだけでなく未来に向かって発展させなければなりません。そのような伝統は、いつも父母が自分たちよりも子女の勝ることを熱望する、そのような真の家庭からのみ出発することができます。

 このような熱い望みをもった父母たちは絶えず、子女たちに注意を傾け励ましてあげることでしょう。そのような父母は子女たちが彼らよりもっと素晴らしくなれるその日を待ち望んで、子供たちにできる限り最善の条件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母は子女たちの幸福のためにすべてのことを犠牲にするでしょうし、甚だしくは子女たちを父母よりもっと素晴らしくしてあげる方向に、進んで強要したりもするでしょう。

 父母は子供が自分より素晴らしいとき幸福を感じます。ですから女性として生まれて自分よりもできの悪い息子・娘を産めば、天の国に入る面目を失います。お父さんとお母さんは、自分を愛する以上に自分の息子・娘を愛することができなければなりません。また子女もそのように考えるとき自動的に愛の世界が現れて、天国が築かれることでしょう。(祝福家庭と理想天国II一〇〇七)


◆三 父母の愛は永遠不変の愛

 父母が子供を愛する愛のその起源的な動機はどこから始まったのでしょうか。男女を中心とする愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子・娘を中心とする愛はなぜ変わらないのでしょうか。これは、その男女を中心とする愛から来た愛ではありません。変わらない愛は横的な夫婦の因縁でできたものではなく、縦的なある流れの起源を通じて関係ができたものに違いありません。そのような縦的な主体は誰でしょうか。

 そのような主体を私たちは神様といいます。その愛は夫婦が思いのままにできる愛ではありません。その愛の前に私がしたければするし、したくなければしない立場には立つことができません。それは切っても切れないものです。横的な因縁では触れることができません。ですから、父母が子供を愛するその愛は永遠不変です。

 今日、民主社会において、個人主義思想が澎湃したこの時代において、子供たちは「新時代と旧時代は次元が違う」と言いますが、子供たちはそのように変わってもその父母の心は旧時代であるとか新時代であるとか叫ぶからといって「お前がそうなら私はこうしよう」と言うようにはなっていません。父母の愛はそうではないのです。それは動物も同じです。赤ちゃんを愛するにも自分の生命を超越するのです。(四八−一五五)

 それではそのような愛はどこから来たのでしょうか。私自身が第一のある相対的な結果の存在ならばそれは第一のある力の因縁の中から来たものです。それは、私たち人間として触れることができるものではありません。ですから「父母が子供を愛する愛を革命しよう! 革命の旗手になろう!」と言う入を見ましたか。

 もしある父母がこの愛を革命して人類歴史を改造してしまうといって「私は父母は父母だけれど、子供を愛さない」と主張したとしましょう。しかしその父母は、子供のへその緒が離れる瞬間、子供を愛する心が自然に湧くことでしょう。すべての生物はものの高低を問わず自分の子供を愛さざるを得なくなっているのです。

 愛するために生命を投入して、生命を踏み台にしてでも愛したく思う作用があるのを見る時、永遠不変という概念に近いのが父母の愛です。それは「絶対性」を求めていくにおいて「絶対」それ自体にはなれませんが、人間の前に一番近い支石にはなれます。ただ一つの土台になり得るのです。その次に、これが人間の世の中においてそれでも、歴史を見るとき永遠の土台になっているのではないかというのです。

 そのような父母の愛はどこから来たのでしょうか。それはお父さんから何か勧められて習ったのでもなく、自分の相対に忠告されて習ったのでもなく、自分自身がこうだろうと思って出てきたのでもありません。自然にそうなるのです。愛というものは自然にそうなるところで成立するのです。(四八−一五六)

 本質的な愛を分析してみれば愛には革命がないことを知ることができます。父母が子供を愛するのは真の愛に該当します。ですから人間始祖の時から人が子供を愛した心や数千年後の後孫である私たちが子供を愛する心は同じなのです。また数千年後に私たちの後孫たちが子供を愛する心も同じことでしょう。

 愛には発展もなく終わりもないのです。革命の必要のない純粋なものが真の愛です。それでは神様の愛とはどのようなものでしょうか。神様がある存在を絶対的な基準の立場に立ててその存在性を認定し、彼を愛されるならばその愛は、それ以上革命の必要のない愛です。(一八−一二)


◆四 すべてを投入する父母の愛

 愛は一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成り立たないのです。親子関係の愛を見てみてもそこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の因縁の中で希望をもっている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。生命の因縁を離れては愛の関係を結ぶことができないのです。ですから愛には必ず生命の因縁が投入されなければなりません。また生命をどれほど投入して愛するかによって、より価値を感じるか感じないかという問題が決定されるのです。(三二−一五)

 例えば、子供に対する父母の愛はただ単純に生活的な因縁だけを通じて愛する愛ではなく、骨から湧き出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切ろうにも切れない愛の心を父母はもっているのです。それで生命の余力が残っている限り父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母からは子供を愛する心が自然に湧き出るのです。

 あの子は私の息子だから愛するという意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりも、その因縁よりも先立った自分の生命力が子供と連結されているので愛さざるを得ないのです。このようなことを私たちは家庭生活でよく感じているのです。(三二−一五)

 それでは神様はどのようなお方かという時、千年万年与えてもまた与えたいそのような心を絶えずもっていらっしゃるお方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであって、与えてから「ああ、これはいくらいくらだ」と言われる商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。万民はなぜ神様が好きで、ついて行かなければならないのでしょうか。

 神様をなぜ愛さなければならないのかというと、神様は万民のためにすべてのものを下さり、また下さりながらも恥ずかしがり、「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍何千倍もっといいものを上げるから・・」とおっしゃりながらきょう現在、下さったことで満足するのではなく与えられながらも未来にもっといいものを上げると約束され、与えることのできる心の余裕をもっていらっしゃるお方だからです。

 そのような方と共にいればたとえ食べられず、貧しくても、幸福だというのです。食べられない立場に立つならば、未来の希望となる刺激が現実圏内に衝撃的に感じられるのです。何の話かといえぼかえって新しい決心ができるというのです。与えながらも恥ずかしがる立場、そのような父母をもった子供が「お母さん」と言って抱きつくようになれば、体だけ抱きつくでしょうか。どれほど有り難いですか。

 その場は未来のために互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望が共にあるのではなく明日の希望を現在の刺激として感じ、決意し合ってぶつかり合い、激励することのできる爆発的な場がまさしくそのような場です。

 ですからそこで現れる現象は悲惨なものではありません。未来に対する刺激を引き込み現実圏内で価値をたたえることのできる場は、そのような愛の圏内においてのみ成されるのです。ですから愛の圏内に生きる人は不幸がないという結論が出ます。(三六−二九一)

 父母は愛する子供に対してすべてを投入しようとします。神様と同じだというのです。それは何を物語るのでしょうか。神様は神様のために投入するのではありません。自分のために存在するのではなく、相手のために存在しようとする、相手のために生きる神様の立場に立とうということです。

 神様が神様のために存在しようとすれば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子供に投入し、その子供と共にいようとするところに愛が、生命が、希望が成されるのです。(六九−六二)


◆五 子供に対する父母の愛は絶対的

 先生は幼いころ、かささぎのような鳥の巣をたくさん見ました。鳥の巣を見ようと木に登ってみると親鳥が来てつつきます。ですから、それは決死的です。一度だけではありません。追い払うとたたかれながらも飛んでいってまた来ます。これを見る時、自分の生命を越えて、愛する雛を保護しようとする動物世界の力があることを否定できません。

 人も同じです。愛のために生命を投入できなければなりません。そのような人が真の人です。本当に善なる人とはどのような人でしょうか。愛を根本とし、自分の生命を投げ出して、愛する人を保護しようとする人です。そこには主体的な善があるのであり、相対的な善の論理を立てることができるのです。これは永遠不変です。(一八六−一八)

 私がアメリカのダンベリー刑務所にいた時おもしろいものを見ました。坂道を平たいテニスコートにするために毎日ブルドーザーで押す作業を、長い間しました。また、雨期になると作業が中止になったりし、乾期になるまで待つのです。二、三週間ほどたってから作業をする時そこに水鳥が雛を生んでいました。そこに囚人たちが運動がてら散歩するコースがあるのですが、そこからわずか三メートル離れた所に水鳥が巣を作りました。

 その水鳥の色がちょっと見ただけでは分かりません。ですから通り過ぎる人には分かりません。その保護色がどれほどよくできているでしょうか。卵から生まれ、割れるまでは人々が通りながらも分かりませんでした。うつぶせになった姿を横から見ると黒い砂利の色のような保護色だったので分からなかったのです。それから雛が孵化し、何かをくわえて食べさせ声がちゆんちゆんとして、ようやくみな分かるようになりました。

 意地悪い者たちは、いろんなことをしてからかっていました。しかしその水鳥が自分の子供たちに対してどれほど保護力があるのかといえば、えさを探してくわえてくる時絶対に自分の子供の近くに飛んできません。他の所に下りて、雛がいる所まで引きずってくるのです。

 なぜそうするのかといえば、雛たちを保護するために方向を変えるのです。そのように雛を育てていきます。この雛たちがだんだん大きくなって、人がそのそばに近づこうものなら親鳥がつついて大変です。雛を見るなというのです。

 誰がそのように教えたのでしょうか。それが宇宙の力です。神様の愛を軸としてすべての水は平面的位置にあるので位置は低いですが、その平行線上の基準は変わらないようになっています。
二三六−二三)

 蜜蜂が花を探し回って蜜の味を味わったら足を深く入れ、お尻を突き出して吸いつきます。先生は蜂についてよく知っています。蜜を吸う蜂をピンセントで引っ張ると尾が取れても花から離れません。真の愛はそのような愛です。自分の生命までも忘れて捨てられるのです。

 計算していくらの利益になるからというものではありません。生命までも捨てて忘れていくことのできる道が真の愛の道です。父母はその道を行きます。子供を愛する父母は子供が死地に行くなら子供のために死地に立とうとします。愛の前に自分の命をうずめていこうとするのが父母の心です。その愛が真の愛です。

 ある人がこの世で誇ることのできる金銀財宝を得て血と汗を流して多くの財産を築いても、子供が死ぬ運命にさらされたならその子供を生かすためには外的なものが問題ではなく、自分の生命までも投入して生かそうとします。(三四−一六一)


◆六 限りない父母の愛

 私たちが愛というものを中心として見るとき、父母の子供に向かう愛の限界点はどこまでなのでしょうか。父母は子供が幼い時だけ愛そうとするのではなく、生涯を通じて、さらには永遠を通じて愛そうとするのです。愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによってさらに価値を感じることのできる親子の関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かがその関係圏内から生じるというのです。(祝福家庭と理想天国I−一〇一九)

 お母さんの愛やお父さんの愛は人間世界において最も偉大な愛の中の一つです。この世でいくら高い地位にある人も、自分の子供の前ではどうすることもできません。父母の愛は子供の前に無条件であり無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。

 ですから父母の愛を受けられずに大きくなった孤児たちは何よりも父母の愛を渇望するようになるのです。孤児たちは寝る家があり、食べものがあったとしても、彼らの胸にいつも満たされない思いと慕わしい気持ちがありますが、それが何かといえば父母の愛です。

 皆さんは愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受けて育てられ、大きくなったことを知るようになります。年を取っても若くても父母はその子供をいつも愛するようになっているのです。もし七十歳になる息子がいたとしても昔自分が育てたその基準をもっていつも子供を見つめるのが父母の心なのです。

 年を取っても心情はだんだん近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど息子に尽くす心はもっと広くなることを私たちは、この世で子供に対する結びつきを見るとき、よく知ることができるのです。(祝福家庭と理想天国I−一〇二〇)

 父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、疲れることを知りません。なぜですか。愛するからです。自分の骨身を削ってその代価がいくらか帳簿に付けておきますか。そうしないでしょう。かえって、すべてを与えられないことをもどかしく思うでしょう。赤ちゃんに乳を与えるのに、飲まなければどうして飲まないのかともどかしく思います。

 乳を飲むことは、実は、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていくことではありませんか。ある意味ではどろぼうの中の最高のどろぼうではありませんか。それでもそのお母さんは赤ちゃんが乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。(祝福家庭と理想天国I−一〇二一)

 お母さんの胸に埋もれている赤ちゃんを見るとき父母は愛を中心として愛の感触に触れ、またその赤ちゃんを抱くことによって自分の幸福よりも天地が平和の境地に入るので、いい雰囲気が芽生えることを感じるのです。

 それゆえ、赤ちゃんがいくら気性が激しくても「さあさあやってみなさい」と言うことのできる雅量の心があるのです。ですから父母は、子供を無限に愛することができるというのです。ある意味ではその赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐です。しかし、そのように考える人はいないのです。

 それは何かといえば、お母さんとしての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ちゃんによって見つける新しいものが多いからです。そのような時には通じる何かがあります。その境地は、誰も思いのままにすることができないものです。(祝福家庭と理想天国I−一〇二一)


◆七 父母の愛はすべての愛の基準であり、伝統になる

 何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機としてその愛で円満に育った人なら愛がどのようなものかということを知っています。お父さんとお母さんを愛するので、父母の間の愛がどのようなものかを父母を通じて習うのです。それが子供には二つとない喜びになるのです。愛を体得することは、父母をもった立場でなければできないことです。

 子女の間の愛はどうでなければならないでしょうか。何を基準にして愛さなければならないでしょうか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟姉妹たちも愛し合わなければなりません。愛は誰から習うのかというと、それは父母から習わなければなりません。息子・娘がお父さんとお母さんに対して「私のお父さんとお母さんは世界で一番素晴らしい人だ。神様のような存在だ!」と言うことができなければなりません。

 夫婦間の変わらない心といちずな愛を見て、子女たちが「その愛を見本として、子女である私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭を築くことができるのです。また子供が成長して思春期になれば、心と心情が一つになることのできる相対を求めるようになります。これは結婚を通して成すことができます。

 ですから相手をこの上なく大切にして、愛と心情の基準を立てるために努力する道は男性が行くべき道であり、女性が行くべき道でもあります。ですからお母さんとお父さんも神様の心と神様の愛に一致し、子供も父母に似て、神様の心と神様の愛に一致できる家庭にならなければなりません。

 父母の愛を中心として兄の立場に立った人が自分を犠牲にしつつ、父母の身代わりとして弟たちを愛するのが愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は兄弟たちの中で一番苦労をたくさんしなければならない責任ある立場です。父母の立場も同じです。子供に代わって、子供よりももっと苦労する立場が父母の立場です。父母が愛を中心として子供のためには、涙が交差する場をも甘受しようとするなら、子供たちは涙を流しながらもその父母についていきたく思うのです。

 神様を中心として一つになるとき、千態万象となって回るようになるのです。ですから兄弟間で愛することも、父母が子供を愛することに倣って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛し、一元化した家庭には家庭愛が花咲くのです。これがまた社会愛になります。これがさらに民族を愛する民族愛になります。そして、このように愛すれば世界愛になるのです。

 皆さん自身が父母の愛を受けるのはなぜでしょうか。夫婦であるお父さんとお母さんが互いに支え合い、愛し合うその動機が皆さんによって成されるからです。分かりましたか。ですからその動機を中心として兄弟同士愛し合うその愛は変わらないでしょう。

 それを中心として隣人を自分の体のように思って生活するとき、正しい社会環境が展開されるのです。家庭を中心として見ればその家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずそのような過程を経なければなりません。家庭と家庭をみな合わせなければなりません。そうすればこそ、その中で愛が広がるのです。

 こうして国家の範囲でも一つに合わさるのです。ここで社会はいろいろな階層に分かれるようになっています。会社には社長という代表者がいるでしょう。そうでしょう。国家の責任者が今何人ですか。一人でしょう。一人の責任者がいます。このような姿に統一されるのであり、形だけが大きくなるのです。このように、分かれていても一つになるのが四位基台の原則です。(祝福家庭と理想天国I−九一七)

























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