真の家庭
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第十一章 家庭は永遠の幸福の土台


◆一 家庭はなぜいいのか

 家庭はなぜいいのですか。家庭では、愛を互いに授けて受けることが自然にできる基盤になっており、栄えることができるからです。それゆえ、人は自分の故郷がなつかしく、父母と兄弟がいる所を恋しがるのです。(三八−二三八)

 家庭はいい所です。なぜいいのでしょうか。お母さんとお父さんがいていい所であり、お姉さんとお兄さんがいていい所であり、弟と妹がいていい所であり、親戚がいていい所です。ですから人間なら誰でも本郷の地、故郷に対してなつかしい郷愁の心情をもっているのです。国よりも故郷をもっと考えます。大韓民国に住みながらも懐かしい所は故郷です。(二三−一五一)

 皆さん! 家庭がなぜいいのですか。それは父母の愛を中心として自由運動の価値になるからです。同じように神様が自由に活動できなければなりません。どんなに見た目にはみすぼらしくても、光る愛の核をもった内的な人間が成し遂げた社会になれば、神様は自由です。皆さん、そうではありませんか。どの家でもお客様として行けばお金持ちのようでしょう。なぜそうですか。それは愛の因縁がないからです。愛の因縁が四方性を備えられないので、ぎごちないのです。ですから、私たちが行くべき道は人格の道です。

 一つの家庭を中心として、一番いいものは何かというとき、一番いいものは皆さん自身で決定することではないのです。それでは、家庭の最上の価値は何でしょうか。父母です。皆さん一個人を見ても、皆さんにとってあらゆる権力や知識、または名誉やお金が貴重なものになるかもしれませんが、そのあらゆるものよりも、もっとも大切なものは「父母」以外にはないのです。次には、皆さんの妻や夫になるでしょうし、また次には、皆さんの子女になるでしょう。

 事実、皆さんの家庭で皆さんの父母や妻、そして子女たちよりもさらに大切にしているものがありますか。ないのです。では、なぜ父母がいいのでしょうか。そして、また夫と妻、そして子女がなぜいいものになるのでしょうか。「愛」があるからです。父母の愛、これは子供にとって絶対に必要なものです。そして兄弟間の友愛などや、子女が父母に対してもつ真心も一つの家庭に絶対的に必要なのです。(二二−二九〇)

 皆さん、家で一番いい人は誰ですか。父母でしょう? なぜ父母が一番いいのですか。愛を中心として、一生涯関係を結ぶことのできる最も近い立場にいるからです。その次は、愛する夫と妻になるでしょう。その夫と妻の愛は、ある条件的な愛ではなく無条件的な愛、この愛は、たとえ絶対的に天が下さった永遠の愛と密接な関係ではなくとも、夫婦間の相対的関係から結ばれる愛になるならば、その愛がその家庭に幸福と和睦をもってくる最も、よいものではないだろうかとみるのです。

 その次は、父母に対する子供の愛、父母のための子供の愛です。絶望ではなく、あすの望みとして芽生えることのできる理想的な環境を慕いながら、肯定的な姿勢で子供が父母のために犠牲になり、愛することができるなら、その子供の愛は、その家庭の幸福のための純粋で真実な価値としての愛となるでしょう。

 このように父母の真の愛と夫婦の真の愛、そして子女の真の愛が完璧に具備された家庭があるなら、その家庭は私たち人間世界の中で、最も理想的な家庭だと言わざるを得ないでしょう。(祝福家庭と理想天国I−九一四)


◆二 家庭は永遠なる幸福の基盤

 人間の生活で、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸福といいますか。外的にある能力、権勢、権威を備えたなら、幸福な人だということができますか。そういうことはあり得ません。また、他人がうらやましいくらいお金があったとすれば幸福な人ですか。そうではありません。また世界的な知識をもっていて、世界を思うがままにできる位置にいるとして、彼が幸福な人になることができますか。決してそれだけで人が幸福なのではありません。(二三−一一)

 ある人がこれくらいなら天上天下にうらやむものはないといって、幸福をうたうとしても、そのような外的なものは幸福になり得ません。幸福を見いだす条件にはなり得ますが、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは何が決定すれば、幸福を感じることができるでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これはどこの誰も否定できません。ここにその一つだけでもなければそこに該当する比例的な悲しみを感じるでしょうし、比例的な不満がその胸の中に残されざるを得ないでしょう。(祝福家庭と理想天国I−九一三)

 この地のすべての人間が、幸福の基盤は家庭だと一般的に感じています。家庭には父母がいなければなりません。世の中では父母かいない子供は孤児と呼ばれ、その孤児はかわいそうな人として扱われます。家庭には父母がいると同時に夫婦の因縁があります。父母がいないのもかわいそうなことですが、夫婦で片方がいないのもかわいそうなことです。どんなに愛おしく暮らした夫婦だといっても、愛する配偶者を失うときは、この上なく悲惨で不幸になるのです。それだけでなく、夫婦が子女を身ごもることができなければ、それもやはり不幸でないわけがありません。三三−一一)

 家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そうしてこそ、その家庭が幸福の土台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様ご自身の幸福を模索するためであることに間違いありません。それゆえ、神様ご自身が幸福の土台を探し求めるには、人間を離れた場では、そのような理想があり得ないというのです。

 人間とともに関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭で、情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同様に、神様もやはりそのような立場で幸福を感じられるのです。

 幸福はどこから来るのでしょうか。鼻歌を歌いながら迎えることのできる、そのような環境はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成され得ません。また心情、愛がなくても、成され得ないのです。父母の前に子女がいないときには、その父母の幸福はあり得ません。子女に父母かいなくても、子女の喜びはないのです。あるいはある男性がいれば、相対たる女性がいなくてはならないでしょう。女性も同様です。

 ある夫婦がいれば、その夫婦の願いは、彼らの主体と対象の関係をおいて、より高い次元で愛を維持することです。そして、夫婦の前には必ず子女がいなければなりません。そうしてこそ一つの家庭が築かれますが、上には父母がいて、下には子女がいなければならず、また夫婦がいなければなりません。このようにして、一つの家庭は縦と横に一つとならなければならないのです。それでは、誰を中心として一つとなるのでしょうか。

 人間だけでは不可能です。人間だけでは、より高い価値を追求することができないので、絶対的な愛の主体がいるなら、その主体を中心として、父母は一つとなることを願うでしょう。そこで、夫婦と子女がその主体を中心として愛で一体となった場が、幸福の場であり、望みの場となるでしょう。すべてのことを一つに帰結させ、より価値的で、刺激的な面で統括させなければなりませんが、それは、私たち人間の愛だけではいけないのであり、絶対的な立場でこそ可能なのです。(祝福家庭と理想天国I−九一三)


◆三 家庭は天国完成の基本単位

 私たちの家庭と天国は、類型のようなものです。私たちの家には父母がおり、夫婦がおり、子女がおり、兄弟がいます。私たちの家は愛で一つにすることができます。ここでは統一が成され、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから皆さんは、夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ、天国に行くことのできる資格者となり得ます。

 祖父母は父母の前に愛を相続させてあげています。ここでどの愛を否定しても天国は成されません。自分たち夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におじいさんとおばあさんを愛さなければならないという結論です。これがすべての天国の核心となり、理想的モットーとなるのです。(祝福家庭と理想天国I−九四六)

 天国の起点は個人でもなく、国家でもありません。家庭なのです。それゆえ、イエス様は新郎・新婦の因縁を尋ね、この地上に来られるのです。個人が天国の起点ですか。家庭が天国の起点だというのです。家庭は天国完成の基本単位です。天国は一度行ってみれば帰りたくないし、十遍、百遍会っても、また会いたいその方がおられる所です。

 万民共通にそこに行きたがり、その方に会いたがり、その方と共に暮らしたがるなら、世界は統一されるでしょう。しかし、それは一度に成されるのではありません。まず個人の基台が立ち、その次に家庭の基台が立ち、その次に民族、国家、世界に伸びていかなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I−九四二)

 天国はどこにあるのでしょうか。空中からどさっと落ちてくるのではなく、お父さんとお母さん、そして子供の間に授け受ける、その生活的な舞台を育て、またその中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件に利用する面白み、その面白みを一〇〇パーセント享受することのできる所が天国です。(祝福家庭と理想天国I−九四五)

 皆さんの家庭は、天の国の主権を代身した立場であることを知らなければなりません。父母は主権を代身するものであり、子女は国民を代身するものであり、物質はその国の地を代身するものであるため、父母に孝を尽くすことが国に忠を尽くすことであり、父母に孝を尽くすことが聖人の道理を果たす道と通じるのです。今、家庭があらゆる醜態に満ちたものの起源となっていますが、神様は家庭が聖なる土台となることを望んでこられたのです。

 人間たちは、必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心として見れば、家庭には父母がおり、子供かおり、物質があります。それでは、旧約時代、新約時代、成約時代においての縦的な歴史全体を、横的に展開させて代身することのできる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子供と彼らの所有物です。これらは家庭の一つの囲いの中で必要なものです。(祝福家庭と理想天国I−九四三)

 神様の愛を中心として二人が一つとなる所でのみ、夫婦天国は成されます。一つとなったものを、その誰も引き離すことができないし、別れたり離れたりする心配がありません。皆さんはどのような愛を求めましたか。神様の愛を求めたなら、皆さんの心と体が完全に一つとなって、神様の愛が臨むことができなければなりません。

 ですから、夫婦天国が生まれ、家庭天国を成さなければなりません。お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し合うようになり、その息子・娘もお母さんとお父さんのような対象を得てこそ、家庭天国が実現されるのです。父母がプラスとなり、息子・娘がマイナスとなれば、家庭天国となるのです。(祝福家庭と理想天国I−九四三)


◆四 愛の理想実現は家庭から

 愛の理想実現はどこからしなければなりませんか。私たち統一教会からですか。国からですか。世界からですか。世界をどんなに統一したとしても、自分の家庭を統一できない人は不幸な人です。愛の理想実現は家庭からしなければなりません。家庭は幸福のすみかです。それゆえ、天国は家庭から始まるのです。この地上に天国を築こうとして来られたイエス様が「私は新郎であり、あなたがたは新婦である」と語ったのも家庭を標準としたことです。

 家庭には誰がいますか。第一に父母がいて、第二には子女がいて、第三には夫婦がいて、その次には兄弟姉妹がいます。では家庭は何で絡み合っていますか。愛によって絡み合っています。ゆえに、家庭は何によって一つにできますか。愛で一つになります。愛は変わらないので、祖父母の愛が一つになり、父母の愛が一つになり、夫婦の愛が一つになれるのです。愛には統一性が介在されるので、おじいさんとおばあさんの生命が連結できるのです。そして、理想がここに連結できるのです。

 祖父母は父母に相続してあげるのです。すなわち、子女に相続してあげるのです。祖父母の子女は父母であり、父母の子女は私たちです。このように、愛を中心とした所が天国です。そこであることを否定すれば天国は成されません。神様は愛の主体であられ、過去、現在、未来を統合できるお方なので、自分たち夫婦同士が愛し合う以上に、お母さんとお父さんを愛さなければならないし、自分のお母さんとお父さんを愛する以上に、おばあさんとおじいさんを愛さなければなりません。

 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。男性は主体なので、誰かの干渉を受けることを嫌います。女性は愛するよりも、愛されることを好みます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴するので、男性と女性が一つになることは宇宙が一つになることです。愛することによってのみ宇宙を主管できるので、愛することによってのみ宇宙の主体になれるのであり、自分の相対を宇宙よりもっと大きいと考えなければなりません。天と地、この二つの世界を連結できるのは変わらない愛です。地上で愛によって育まれた人生を生きた人は天国に行くことができます。愛を中心とした世界を霊界というのです。

 神様と人間の個人個人が完全に一つになれば、自動的に男性と女性が一つになるようになり、完全な夫婦が生まれれば天地は統一されるようになっています。神様はどこにいることを願われるのかというと、愛は男性と女性の二人の中から生じるので、真の男性と真の女性が愛し合う所にいることを願われるのです。神様がおられるので、その愛が永遠であり得るし、その愛が永遠の統一を成し得るし、その愛が永遠の生命をもつことができるし、その愛が永遠の理想をもつことができます。

 それゆえ、その愛をつかむ者は、すべてのものを占領できます。真の愛を中心として成された家庭の目的は、家庭だけのためではなく、天国を築くためのものです。宇宙が一つになるために、このような目的が一致するよう標準を合わせて、家庭から民族、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。そして、世界まで行ったなら再び、帰ってこなければなりません。(四八−一〇)


◆五 天国は家庭単位で入る所

 天国とは何でしょうか。極楽または天堂に行くといいますが、自分一人で行く所ではありません。自分の父母と兄弟が一緒に行かなければならない所が天国です。天国に行く秘訣は何でしょうか。天国は個人だけが入るのではありません。家庭的に入らなければなりません。家庭的に入らなければならないだけではなく、血族を率いて入らなければなりません。この地上で神様の前に多くの血族をもったということは、福を受けるということです。

 ある家庭に息子・娘が多く、財物が豊かなら、福を受けた家庭だというでしょう。このように福を受けて、天国に入ろうとすれば、個人が一人で行くのではなく、家庭的に入らなければなりません。天の国には絶対に個人では入れません。先生が探ってみると、天国は今までキリスト教徒たちが信じている、そのような妄想的な所ではありませんでした。

 本来、天国は家庭単位で行くようになっている所です。家庭が行くようになっているのです。家庭が行くのです。お父さんとお母さんと息子・娘が共に行って、神様を中心として共に暮らすことのできる所が、理想的な世界なのです。ところで、お父さんは地獄に行き、お母さんは天国に行き、兄姉は地獄に行き、弟妹は天国に行く、そのようになれば、自分は天国に行ったとしても、うれしいでしょうか。天国は家庭として行くのです。家庭が行くのです。(祝福家庭と理想天国I−九四八)

 天国とは、人間が堕落しないでこの地上で神様の愛の懐において聖婚をして、神様が好まれる息子・娘、神様が喜び得る孫たちを迎え、神様の愛を受けてその家庭がみんな一緒に入る所です。子供が入ることができなくても、自分だけ入れば天国ですか。しかし、楽園はいくらむつまじい夫婦や父母、子供でも、別れて入る所です。家庭とは何ら関係がありません。そのような所が天堂ですか。

 父母に侍り、全家族すべてが入り、神様を中心として授け受けることのできるその世界が天国です。息子が地獄で死ぬと騒いでいるのに、父母は天国で満足に生きればいいのですか。そのような所が天国ですか。

 統一教会でいう天国は、一人で入る天国ではなく、家族が一緒に入る天国です。神様の創造理想を見るとき、男性と女性が別れて入る所が天国でしょうか。違います。二人で入る所が天国です。お父さんが入ればお母さんも入り、父母が入れば子供も共に行く所が天国だというのです。お父さんとお母さんが一緒に行ってこそ天国であり、お父さんは天国に行くのにお母さんが地獄に行けば、天国になるでしょうか。(祝福家庭と理想天国I−九四九)

 本来、創造原則による天国は、家庭を中心として入る所です。父母が入り、子供が入り、自分の一家全体、一族が入ってこそ幸福なのであり、父母は地獄に行き、子供だけが天国に行くなら、それが何の天国でしょうか。ですから、統一教会がこれから天国に行くことのできる道を立てるためには、家庭的な基準を立てなければなりません。そうでなくては、天国に行くことはできません。家庭を中心として、サタンが讒訴できる基準から脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−九五〇)

 本来神様は、夫が天国に入り、妻が地獄に入るように創造なさったのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち、父母と息子と娘が、氏族を成し、民族を成し、国を成そうというものでした。それでこそ、いいのではないでしょうか。ところが、人間が堕落したために地獄が生じたのです。(祝福家庭と理想天国I−九四九)


◆六 愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか

 愛する人が死ぬと、なぜ悲しいのでしょうか。愛する人が死ぬと、それを即時に感じますが、それはこの宇宙に満ちている超人的な力の作用によってです。人は自分にこの力が入ってくれば入ってくるほど、神様との縦的関係を中心として、宇宙的な力を感じるようになるのです。ところで、愛する人が死ぬと、その力が自分から離れるようになります。そして、離れた結果を即時に感じるようになるのです。

 これは悲痛なことです。自分が完全な合格品にならなければならないのに、それによって不合格品として決められるのです。私たちの人生は、完成を追求します。ところが、それと反対の不合格の要素をもつときは、そこに比例する要件を宇宙の力が追い出すのです。そうなれば、それが苦痛として現れるのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−九〇一)

 愛する父母を失ってしまえば、言葉にできない悲痛さを感じてこそ孝子です。父母も子供を失ってしまえば、悲痛さを感じます。夫婦同士も、同様です。私たちの後孫たちも、同様です。これは千年万年変わらないのです。

 皆さんの夫や妻が死ぬと悲しいでしょう。なぜなら、宇宙の原則は父母と夫婦と子女・・。三段階が一つとなって、神様を中心として四位基台を形成するようになっています。この宇宙の原則によって、不合格者は合格圏内から追放されるので、苦痛と悲しみを感じるようになるのです。

 皆さん、妻が死ねば、夫がなぜ涙を流すのでしょうか。第三目的である、息子・娘を得ることのできる道がふさがれたからです。それを成すことができなければ、倒れるしかありません。死ぬしかありません。ですから、泣くしかないのです。電気を見れば、陽(十)電気と陰こ)電気がありますが、この二つのうち一つがなくなれば、残りのものも何の作用もできないのです。人が行く道もそれと同様です。(祝福家庭と理想天国I−九〇三)

 自分の息子・娘がいなければ、不幸を感じるのです。「息子・娘がいなければ、夫婦だけで仲良く過ごせばいいだろう」と考えるかもしれませんが、そうではありません。天理法度が四位基台原則になっているために、男性と女性が出会って一つとなったなら、必ず息子・娘を生んで、四基位台を成さなければなりません。これが宇宙の公法です。四位基台を成すことができなければ、合格できないのです。

 また、息子だけいてもいけません。息子だけいれば、息子に対する愛の味は分かりますが、娘に対する愛の味は分からないからです。皆さん、蜜の味がどうだと、誰かが説明して分かりますか。それは、説明だけではだめなのです。説明する前に、直接口を開けて食べさせてあげてから、これが蜜の味だと教えてあげなければならないのです。

 それでは、息子がいなければなぜ寂しく不幸だというのでしょうか。娘だけをもった人は、息子をもった人を見れば、この世でそれ以上望むものはないといいます。西洋の人々は、そのような面で少し鈍いです。彼らは個人主義思想を強調して、そのような感情はすべて失ってしまったのです。失ってしまったために、再び探さなければなりません。ですから、今それを再び探すために、東洋思想に帰ってくるようになるのです。

 ですから、夫がいて、妻がいて、息子・娘がいる家庭にならなければならないというのです。そうして、彼らが完全に一つとなって、初めから目的地点まで天運と歩調を合わせていけば、この家庭は永生するのであって、一人では永生できないのです。たとえ永生するとしても、永遠の世界で苦労というふろしきを包んで、行き来するようになります。幸福という要件を受けることができません。(祝福家庭と理想天国I−九〇四)


◆七 家庭を通して人間が行くべき天道

 人間は自分の父母を愛するかのように隣り村の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するかのように隣り村のおじいさんを愛さなければならないし、自分の息子・娘を愛するかのように隣り村の息子・娘を愛さなければなりません。そうすれば上下関係が広がり、左右が広がり、前後関係が広がるのです。それが繰り広げられ、この縦的な心情の基準が築かれ、天道が生じるのです。ですから、それを実践しようというのです。私たち統一教会はそれを実践するために理想的な家庭を建設するのです。そのようになるのです。教会という所は、その縦的な基盤を横的に四方化させることができる所です。その数が多くなるほどいいのです。

 なぜ多いといいのですか。家庭時代から氏族圏を越えて、氏族圏から民族圏を越えていくからです。それゆえ、伝道をたくさんするほど天的な基盤が自分を通して繰り広げられるので、神様の前に人格的価値基準が前進するのです。それで、私たちは、この縦的中心で何をしなければなりませんか。これを横的に再現させようというのです。(七〇−一五二)

 お父さんとお母さんが一つとなる日には、その家庭は発展し、子供と父母が一つとなる日には、より次元の高い家庭に発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚間において一つとなる日には、どのようになるでしょうか。そこには新しい民族の正気が起こるでしょう。それがより高い次元に向かっていこうというときには、環境的に全部結束し、国家基準まで忠臣の血族として残されるようになるということを忘れてはなりません。(祝福家庭と理想天国I−九二一)

 もう先生は、遠からずおじいさんになります。皆さんも年を取ると、おばあさんやおじいさんになります。同じです。息子・娘に生まれ、結婚してお母さんやお父さんになり、おばあさんやおじいさんになっていくのが一生です。それゆえ、おばあさんやおじいさん、次にお母さんやお父さん、その次に自分たち夫婦、その次に息子・娘、これが人生の公式的路程なのに、それを愛さなければ天道にはずれるのです。これを根本的にまとめておかなければ世界を収拾する道がありません。

 西洋のような所を見ると、おばあさんやおじいさんがかわいそうです。彼らは東洋の風習がどれだけうらやましいか分かりません。「ああ! 東洋思想は、おばあさんやおじいさんたちに神様のように作り、七十、八十歳の老人のすべての世話を息子がするのだから、それがどれだけいいだろうか」そう思っているのです。

 それゆえ、おばあさんやおじいさんを愛することが分からない人は、神様を愛することができないのです。一番、年を取ったおじいさんは誰でしょうか。そのお方は神様だというのです。おじいさんよりも、お年寄りの方が神様であり、子供よりも若い方が神様なので、すべての人を愛さなければ神様を愛することができないのです。

 それゆえ神様が年を取っておられるとすれば、一番、年を取っておられる方ですし、未来に対する青春ならば、誰よりも青春です。その方を私が愛するために、その中にいるどんな人類も私が愛さなければならないし、歴史の時代に霊界に行った方たちも、その圏内で今、希望を求めて生きようとしているので、その方たちまでも愛すべきであり、神様に従って愛することのできる道を求めていくというのが理論的です。(七〇−一五二)


◆八 統一教会は家庭天国を築こうとするもの

 私が今、教会をつくらないのは、すべて考えがあってのことです。教会にたくさんの人が必要なのではないからです。天国は教会から成されるのではなく、家庭から始まるのです。家庭、すなわち新郎・新婦から始まるのです。女性は男性に巡り会うために生まれ、男性は女性に巡り会うために生まれました。

 赤ん坊が眠りから覚め、初めて目を開けながら呼ぶのが、「お母さん」です。赤ん坊がお母さんを呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。このように呼んでみなかった人は、かわいそうな人です。また、妻も夫以上にそう呼ばなければなりません。互いがそうできる夫婦として対さなければならないのです。

 琴瑟之楽(=夫婦仲がとてもよいこと)の夫婦として、互いにそのように呼び合いながら暮らさなければならないというのです。そのように千年万年暮らせば、老いても青春がうらやましくないというのです。(祝福家庭と理想天国I−九四四)

 男性と女性はみ言の時代を経て、実体の時代を経たのちに初めて、相逢うひと日が成されるのです。そして、相逢うひと日が成されたのちに初めて、天国生活をすることができるのです。相逢うひと日には、彼の心が「私」の心であり、彼の心情が「私」の心情であり、彼の姿が「私」の姿であり、彼の困難が「私」の困難であり、彼の傷が「私」の傷として感じられ得る境地にまで入らなければなりません。

 そのような境地に入って、彼の心情も「私」の心情となってこそ、天国家庭が成されるのです。これがこの地上で完結されてこそ、天国家庭が生まれるのです。

 真の愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は互いが犠牲になる伝統を備えなければ、長くは持続できず、壊れる定めです。父母が子供のために犠牲になるがゆえに、父母が子供を愛する因縁は壊れないのです。そして、真なる父母の愛を受けて育った息子・娘なら、自分の父母に絶対に不孝をすることができないのです。

 また、夫は妻に、妻は夫に対して「あなたは私のために生きた」という立場で、互いが与え合い、一層犠牲になる立場が広がるようになるとき、その家庭には福が訪ねてくるのです。そのような家庭が、神様が訪ねてこられる福地なのです。

 天国生活はどこから始まるでしょうか。家庭からです。ほかの所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけであり、家庭圏を外れたものではないのです。それゆえ、皆さんが自分の妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つとなるのだという考えをもたなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、まさにこの家庭です。

 今、先生は家庭に対する規範、天国家庭としてもつべき生活に対する規範を教えてあげなければならないということを感じています。わが統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主とするのです。これからは、わが統一教会で礼拝を捧げるのも、説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。

 ですから、家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうしながら、立派な家庭を見ては倣い、劣った家庭を見たならば、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そうして、家庭天国を建設しようというのです。家庭天国を先に成せなければ、地上天国は成されないということを、はっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−九四五)


























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