御旨と世界
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復帰と祝福 

1969年2月2日 東京 東京教会


今まで歴史上において、人類歴史は復帰歴史であるということを知った人はいない。歴史の背後関係を、復帰という問題で決着をつけたということは、我々統一教会が歴史に残した大きな功績である。 この歴史の背後の大本となるのは神であり、神が責任を担当して、今まで歴史をずーっと支配して発展させてきた。そのために、数多くのいわゆる「復帰」という使命を負わされた個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによつて段階的に歴史は発展してきた。この復帰歴史の完成、復帰の目的をいつ成し得るのか、これが歴史の問題であり、あらゆる問題解決の基準になっている。


 統一教会の使命
 
 復帰完成ということを考えた場合、完成されなかった基準、アダムにおいて堕落した基準、イエス様において成就できなかった基準、それらすべてを現世に引っ張ってきて、解き明かし、再び蕩減して、復帰していかなければならないのが統一教会の使命であり、先生は自らそれを実行し、先生のあとをついてきてくれる世界に広がった統一教会の食口たちに、それを行わせるのが先生の使命である。あなたたちは命令されて、それを行うのが使命である。 そういう立場に立つ男は、アダム以上の、イエス様の身代わりとして不足のない基準に立たなければならない。そういう立場に立つ女は、エバ以上の、イエス様の新婦として迎えられるに不足のない基準に立たなければならない。統一教会の使命はそのような男女を誕生させることである。イエス様は十字架に追われていく結果になって、いわゆる地上的基盤を完全に失ってしまった。こういうイエス様の成し得なかったすべてのことを一人一人が蕩減し、イエス様以上の基準に立たなければならない。


 すべてに反対される道

 蕩減するには数多くの混み人った歴史的背後関係によって、現世に基準を立てねばならない。そういう立場において、すべての者から反対され、これと戦って屈服させなければ、蕩減復帰はできない。統一教会の今までの道は、そういう反対される道だった。ただ追いに追われ、打たれに打たれて、それでも何の弁解も許されなかった。個人から、家庭から、氏族、民族、国家から追われた果てに、最も孤独な立場に立たされ、そして最後の心情をもって神を慰めなければならないのが統一教会の歴史であるということを、あなたたちは知らなければならない。それは誰にも分からない。先生にしか分からない。イエス様においては、最後には三人の弟子からも反対される結果になった。だから、この道を世界的に開拓していく時、三つの国家から反対されなければならない。 三人の弟子は世界的国家の代表として象徴されるから、三つの主権から反対される。一つの民族内、すなわち、長成圏内で迫害されるのではなくて、これは全体的、世界的情勢の波のまっただ中にあって、そういう蕩減条件を立てなければならない。こういう中にあって、勝利の基準を積んできたのが第一次七年路程であった。一九六八年からは第二次七年路程が始まった。このような蕩減の道を先に勝利していかなければならないのは、イエス様の失敗の基準を取り戻し、アダム、エバの堕落の基準を取り戻し、内外ともの蕩減基準を通過し得なければならないからである。 今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、これをいかにして湯減すべきかということについては、まだまだ述べていない。それは先生自身が闘って、勝利して切り開いていく。韓国においても、今や統一教会は、いかなる力を合わせても、どうすることもできない、この地上から抜き取ることのできないその基準を完全に勝利した。もしも悪のほうから統一教会を打とうとすれば、神御自身がこれを守ってやらなければならない。神が守って、サタンのほうから讒訴することはできない。そういう貴重な勝利圏である。これは、先生を中心として二十一年間で成してきた。神がイエス様を中心とした2000年間、あるいはそれ以前の4000年の間望んできた、イエス様の実体を中心とした過去の失敗の基準を、我々が終末の時期において成就し得たということは、歴史的、世界的、天宙的に喜ばしいことである。福音といえば、これほどの福音はない。 いかなる人間といえども、縦的讒訴条件を免れることのできる者は一人もいないこの地上において、縦的讒訴条件ばかりではなく横的讒訴条件までも、我々は飛び越えることができる、こういう時を迎えたということは、これ以上の幸せはないということを、まず分からなければならない。蕩減復帰は反対であるからである。 アダム家庭においては、アダムの堕落をカインとアベルを中心として反対に上がっていって復帰する。だから、カインとアベルを蕩減しないと、真の父母なるメシヤを迎えることはできない。そういう立場から考えると、来たるべき再臨のイエス様、神の心情に一体化し得たそのお方の来られる道は、平担な道ではなくして、イエス様の最後に負った十字架から戻って来なければならない。ゲッセマネやカルバリの最高の苦しみのまっただ中から、生死の問題、のるかそるかの問題を通過して、勝利し得た生きた祭物として立ち返らなければ復帰の足場はできない。


 牢屋から出発した統一教会

 だからメシヤとして来られる方の最初の道は、一番近いところ、一番遠いところ、すべてから反対される道である。まあ、日本にはそういうような歴史はなかった。世界的な摂理に対する神のみ旨は、先生を中心とした韓国にあったからこそ、そういう環境がつくられたのである。そういうことを考えてみるとき、我々は苦労のどん底から復活の道を開拓していかなければならない。だから、最初の統一教会はどこか?牢屋である。福音の初代教会はどこから始まったか?牢屋である。牢屋から第二イスラエル歴史は始まった。それを復帰するには、自然になっていくのではない。蕩減という問題が引っかかっている。だから統一教会も牢屋のどん底において、神直接に働いて、共に基盤を成すような過程を通過しなければならない。 イエス様が牢屋に捕らわれた時には、弟子たちも追いに追われて、みな逃げてしまったけれども、今度はそれと反対である。恐ろしい、命懸けの立場において、みな、真正面から一体となって、自分から死の境地を責任をもって先頭に立ち得る者でなければならない。 もともと、どん底から上がってきて七年で通過すべき神の摂理であったけれども、二十一年もかかった。民族共に迎えたならば、民族を代表し得る中心の宗教が迎えたならば、七年間でよかったのだけれども、我々はその環境を得ずして、二十一年間という路程を通過するようになった。 あなたたちが知っているのは、一九六〇年からの第一次七年路程だけれども、その背後関係は知らない。その背後は神の家庭の歴史であり、この地上における神を中心とした氏族の歴史である。だから、この歴史を知るに
は祝福されなければならない。歴史基準においての相続権を受けなければ、それを教えることができない。その路程を完全に知った時、ああ復帰の歴史はこういうようにつらい道をたどってきたんだな、ということを感ずることができる。だから祝福がいかに貴いかということを、我々はさらに考えなければならない。


 生死を乗り越えよ

 そういうような立場を望んでいる我々にとって、まず第一に問題になるのは何か?み旨のための生死の問題である。イエス様のゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いではなく神のみ旨どおりになし給えという基準、それ以外にない。個人の願いにおいては十字架の道を願わない。しかしこの道を行かなければ、神の摂理は成されない。白分はみ旨のために生きている以上、み旨のために行かなければならない。そういう基準において、生死の問題を乗り越え得るだけの確実な自信をもたなければ、復帰の道を迎えることもできなければ、行くこともできない。 だから、いわゆるみ旨のために命を捧げ得るような自主性があるか。それも、自分一人ではなく、それを万民に訴える立場で、自分のあとに続く弟子たちを、その平安な心情で慰め得るような余裕しゃくしゃくたる態度をもち、しかも命を懸けた自主性をもつ者となり得るか。それが問題である。私はこういうような若い娘であり、こういうような美しい容貌をしていて、どこへ行っても、誰からも迎えられるにふさわしく、特に欠点もない、そういう乙女が命懸けの仕事など気に食わない。あるいは、我は男として、これだけの体格があり、家柄やその他の外的条件から見ても、天下どこへ行っても不足なところはなく、我願うことはことごとく成し得る。このような素晴らしい男が、みすぼらしい格好して、惨めな命懸けの仕事など、という方向に考えてはいけない。冒険の道、命懸けの道を行くにはつらい顔をしてはならない。 もしも、イエス様が十字架を背負ってカルバリ山上へ向かう時、ああ悔しい、こういうことをやるんじゃなかった。男が三十三歳にもなって結婚もせず、こういう運命になってしまった。これでは男の使命は、男の価値はどこにあるかと考えたら、嘆息の種はいくらでもある。しかし、それは問題ではない。我は行く。襲いかかる十字架の重荷も、それが問題ではない。体力尽きて倒れても、その内心は倒れない。堂々たる気迫をもっている。道端に自分の母親や僕のヨハネを発見して、今後の問題を頼むような余裕のある態度、世界の歴史のいかなる偉大な人物といえども、その内心において神と通じた強い決意をもった男は一人もいない。その恩恵によって歴史は新しい命の方向に向かい、そこから地上における神の出発点となった。 現在までに、2000年の歴史が通過したけども、イエス様の精神は汚れずにそのまま受け継がれているこの時代に生きる我々は、いかに幸福な者たちであるか。その伝統を直接受け継ぐべき偉大な使命をもった我々は、命一つぐらい問題ではない。だから、死の暗闇の中に叫び上がって、神の心情の光でその暗聞を切り裂き、そして世界にその光を輝かせるような、そういう内的歴史をもった男になっているか、女になっているか。それが問題である。 もともと堕落は死の境地に陥ったものであるから、救いはその境地を乗り越えなければならない。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、気持ちよく、男らしく生きる若者たち、青年たち、壮年たちにならなければならない。これがあれば世界は新しい方向に進む。我々はその母体をなす心情に燃え上がっている。あなたたちの内心には、そのような生死の境を乗り越える自信があるか。先生は何十、何百、何千、何万と生死の境をにらみつけて対決してきた。そういうような運命が、いつ再び来ても、たとえ足を切られても、目玉を抜かれても、首が飛んでも、出発した決定の路程に消えていく。そこには何一つ条件はない。だから死んでしまわなければ勝つ。


 神の願う勝利

 この前、五十名近くの一行が韓国に来て、釜山の聖地の所へ行ってみただろう。そこは墓場の側で、石ころだらけの谷で誰もいない。そういう所に先生は豚小屋みたいな、仮小屋を作った。しかし、その小屋の中に寝る時でも、この地上のいかなる栄光の宮中に住む人より、神の子として親孝行し得る第一の道を歩んでいた。そして、誰も追いつくことのできない深い内心の基準に到達することが望みだった。 その当時は、見ただけで外面的に何でもない、一文の価値もあるようには見えない。ひげが伸びているし、顔は黒くなるままになっているし、服装は西洋式を混ぜている。しかしその話は、これはでっかいものだ。大砲より、原子爆弾よりも大きい。あんまり大きいものだから、みな驚いて逃げてしまう。先生はそういう環境を味わってきたのだけれど、君たちはそれは分からないだろう。そういうことを話したら、五十年もかかるよ。 君たちはいくら苦労して活動してその環境から追われても、自分自体を神の前に永遠に残さなければならない。イエス様は外的に、十字架路程に消えていったのだけれども、内的に神の心情に焼き付いた基準は、神御自身報いざるを得ない。イエス様がそれを願わないと言っても、神の心情を抜き去ることはできない。イエス様は四〇OO年の歴史上、最初の子供である。ここには300人近くいるだろう。この人たちがこういう決心だけするならば、日本四十三県の問題はふっ飛んでしまう。勝利というものは過程において決まるものではなく、出発の時の内的基準によって決定された結果、表れてくるのが勝利である。これが分からなければならない。その勝利が、生死の境を何百回も見て成し得たものだという場合には、それを奪い返すためにはそれ以上の決意が必要である。神は永遠なる勝利、サタンも追いつけない勝利を願っている。 日本の現状にあって、まあ先頭に立って、厳しいつらい中を自分ながら苦労してきたけれど、ここでいいだろうか、効果があるだろうか、と思うかもしれない。しかし先生にはちゃんと計算の世界がある。だから統一教会が教えているすべてのものが、歴史を動かし歴史に残っていく。考えもしなかった、思ってもみなかったことをあなたたちに教えているんだよ。日本でも、相当統一教会はうわさになっている。若い青年時代をみな費やして、苦労の道を重ねていったいどうしようか。やっと東大に入学して、親兄弟や知人からたたえられていたのに、統一門下に入って、家中がめちゃめちゃの結果になってしまった。そういう人がたくさんいる。 しかし、男であるならば世界を舞台にしなければ狭い。いくら苦労しても、日本圏内における苦労は神の理想圏に入り得る苦労ではない。統一教会は何か。神の理想圏に入り得る基準を目的とするから、それを知った我々は、より大いなる価値を中心とせざるを得ないという結論に達する。


 迫害される道を行こう

 イエス様の死の立場において、神はこれを復活させられた。ここから新しい世界が出発してきた。これを反対に蕩減していかねばならない。3人の弟子の信ずる立場、12弟子、70門徒、120門徒、反対からいうならば、120から追われ、70から追われ、12から追われ、3人の弟子から追われて十字架まで行かれてしまった。これを蕩減しなければならない。そのためには、死ぬか生きるかの問題を中心として、神の立場に立ち返るか、立ち得ないか?これをまず決定しなければ復帰の路程はもどかしくて仕方がない。 そして、その基準が立った場合には、迫害の道を通らなければならない。今は民族的立場に立っている。国家基準を中心として我々は責任をもつ。自分の三代圏以内において、完全にそこまで復帰させ得る決意をもたなければならない。なぜ三代かというと、それは原理数で、四位基台というのは三代である。そういう決意をもって乗り越えて行かなければならない。


 蕩減献金と三子女

 イエス様は真の親として、真のお父様として来られた。その方をユダが売って、死の谷に陥れたその行動は、結局、世界万民がなしたと同じになってしまう。それをなしたる子孫として、摂理圏内にあるすべての民が、自分の真の親を売った結果になってしまった。これを蕩減しなければならない問題として、蕩減献金の問題がある。真の親を売ったのを蕩減しなくてはならない。一人の行動によって、真なる親をこの地上から追い払う立場になり、四方八方に神の摂理は完全にふさがれてしまった。その結果、四方八方にサタンははびこってしまった。 これを蕩減しなければならないのが蕩減献金で、4年間3数に値する金額を、真の親を売ったその実体の値として、神のほうにお返ししなければならない。四年間というのは東西南北に値し、韓国においては三OOO円を
四年間、そのお金は汗と涙と自分の死の値よりも精神のこもった、神のみ旨を思う基準において、勝ち得たお金を天の前に棒げる。この問題が蕩減路程に残っている。 その次は三人の弟子、三主弟子の問題である。イエス様を中心として一体となるべき弟子が、イエス様を裏切るような立場になったのだから、これを復帰しなければならない。それから12弟子、70門徒、120門徒という問題になっている。これが蕩減路程において果たさねばならない我々の路程である。我々においては三人の信仰の子供を立て、それを中心として12人、70人、そして120人の門徒を立てねばならない。 これが、先生の今まで成してきた二十一年間の路程であった。イエス様がこの地上で果たし得なかった運命は、神の悲しみであり、イエス様の悲しみであった。これを我々は解決しなければならず、それが統一教会の使命であり、我々の行くべき公式路程である。そして氏族を復帰して、新しい先祖の基準をつくっ民族復帰をし国家、アジア、世界という基準に立って発展させていこうというのが、神の摂理の行くべき路程である。


 迫書の中での聖婚式

 1960年の聖婚式の背後には、過去4000年に重ねて、イエス様から2000年という、歴史の週程に引っかかったすべての蕩減条件を果たさねばならなかった。そロ内容において世界的であり、天宙的立場に立たされているにもかかわらず、現実には数少ない人々によって成してきたのであるが、その迫害たるや想像に絶するものであつた。 1953年から60年までの準備の期間は、迫害の時期だったのである。そこには、少なくとも360万以上の入が迫害の旗を立てて、教派としては三つ以上、そして、その時代の国家としては三主権以上の数多くの迫害のまっただ中におかれて、それでも蕩減条件を勝利の圏内に立たせられたのが、1960年における先生の聖婚式であった。これが、統一教会の運命を決定した最初の日である。 これは、この地上において記念すべき世界的天宙的大事件であった。世界的基準における、縦的蕩減条件を横的にこの地上に解決する実体として、霊肉ともにおいて勝利の基準を成したということになる。それをするには、先生の聖婚式の前に三人の弟子を、反逆したその弟子を復帰しなくてはならない立場にあった。目的は何かというと、我々の親たるアダム、エバが大婦の関係において堕落した。堕落は大婦を通して成されたのだから、復帰は→人ではなされない。男一人では復帰できない。男一人では救いは完成されない。女一人でも天国にいかれない。したがって、二人でもって解決していかねばならない。真の父母がアダム、エバの基準を、この地上において立てなければならない。それには、三人の弟子の約婚という問題を中心としなければならない。


 イエス様の三弟子

 復帰はアダム家庭復帰を目標として成されるから、それがノア家庭に移され、ノアの家庭を中心として、世界のすべての人々を、洪水の裁きにおいて減ぼし、サタン侵入の条件を離れて乗り越えた家庭基準を立たせて、摂理の基盤を地上に置こうというのが神の摂理であった。それがアブラハムに、イサク、ヤコブを経て、モーセの時代に移り、イエス様へとずーっと延長されて、我々の時代まできたのだから、その道を蕩減しなくてはならない。アダムの家庭基準を蕩減しなくてはならない。その失った三人の子供を復帰せずして、真の父母の立場に立ち帰ることはできない。 イエス様において、三弟子は絶対必要であった。その三人は何を象徴するかというと、アダム、エバにおいて三人の天使長がいたというんだね。三人の天使長が一体となってアダム、エバに服従し得なかった、侍らなかった。その結果堕落世界になったのだから、完成する父母の境地を乗り越えるには、三人の弟子の基準として、完全に侍り得る三人の天使長たるものがなければならない。これを果たさなければ、サタンを地上から追い払うことはできない。霊界において三天使を象徴し、堕落圏内において三時代、旧約時代、新約時代、成約時代の三時代を通過しながら、カインがアベルに服従し得なかった歴史を、完全に蕩減するには、第一のアダムの家庭におけるカインの代表、イエスの時代におけるそういう代表、再臨の時代におけるそういう代表、この地上に縦的歴史過程を通過し得るアベルに対して、カインの三人の代表を縮小したその三人が、いわゆる主弟子である。 霊界においては三人の天使長、地上界において服従し得なかったカインの代表が、旧約、新約、成約の過程において、縦的歴史観をつくってこられた再臨の主によって一時に屈服される。アダムの身代わりはイエス様であり、イエス様の身代わりは再臨の主である。そのアベルに服従し得たという三人の信仰の子女をもたなければ、真の親の立場に返ることはできない公式となっている。自分の生死の境を乗り越え、迫害のまっただ中にも従いゆく、親孝行になりきれる三人の弟子をもたなければならない。その基準が1960年の4月に立った。 復帰路程においては逆に上るんだから、祝福は子供の立場に立っている者が先に祝福される。家庭圏はヤコブの家庭だから、十二基準を基盤としなければならない。三人の弟子、三人の子供を中心として、そのような基準を通過しなくてはならない。


 十二弟子の祝福

 アダム家庭において、カイン、アベル、セツの三人の復活体として相対基準を成し、それを約婚の立場を乗り越えて実体的に親の立場を決定したのが、一九六〇年の聖婚式である。神の恨みとするアダムの家庭における三人の子供と父母が一体となったということが、地上において歴史始まって以来、初めて1960年に韓国で成就できたというのは世界的なことであり、新しい歴史の運勢が回り始めたといえる。すなわち、1960年4月、十二数を中心として祝福した。 この基準は歴史的に見て何に値するかというと、イエス様の十二弟子復帰の基準に値する。聖書にも十二真珠のたとえ、イスラエルの歴史も十二数を中心として問題になっている。だから、二〇〇O年前イエス様が成し得なかった、二番目の天の息子としての使命を蕩減しなければならない。それを天地に解決しないと、主的キリスト教の理想が、霊肉の地的基準の基盤をつくることはできない。神の悲しみは何かというと、地上において足場となり得る個人、家庭、民族、国家がないことである。これを立たせるためには、足場の基点となる個人、家庭の基準を成さねばならない。その家庭はノア家庭、ノアの三子息を中心として、アダムからノアまで十代、そこにカイン、アべルを兼ね、ノアの子供セムとハムを兼ねて十二代。そしてノアからアブラハム、イサク、ヤコブまで十二代になる。 ここにおいて十二人を復活させたのは何かというと、アダム家庭からアブラハムまでの失った先祖たちを復活成し得た結呆となる。言い換えれば、縦的蕩減を横的に成し得た結果となる。だから、アダムからノアまでは十代だけれども、摂理上双子を中心として、カイン、アベルの基準を見た場合、十二代になるというんだね。その横的関係を実体圏において、十二の弟子を祝福して蕩減したということになる。サタンがいつも讒訴し得る第二の位置を、勝利圏に収めた結果になる。 ノア家庭はアダム家庭の身代わりであり、ノア家庭を中心として復活させる基盤をつくったのだから、アダムよりノアまでのカイン、アベルを合わせて、すべて十二代を復活させることができる。霊界に行っている霊人体の立場を、地上において復活し得る窓口が開かれ、霊界解放の基準が、地上に決定することができたということである。


 三種の家庭

 アダム家庭、アブラハム、ヤコブ家庭という十二数を地上において初めて、縦的関係を横的関係において成し得たその基準がヤコブ家庭の祝福であって、統一教会の本部においては、アダム家庭、ノア家庭、ヤコブ家庭を第一家庭、第二家庭、第三家庭という。第一家庭は既に結婚していた、自分の気ままに結婚した人たちを祝福した十二人の人たちであり、ノア家庭というのはイエス様の立場に立っているような条件に引っかかっている者。それは何を意味するかというと、イエス様は2000年間何を願ってきたかというと、結婚式を願ってきた。祝福のその一日を願ってきた。その立場から、愛の問題を中心として関係はもっていたけれども、結婚式を成し得なかった者たちを引き集めて祝福したのがノア家庭である。これはイエス様がずーっと望んできた立場であった。ヤコブ家庭は、これは善なる男女を中心にして、三十六家庭を祝福した。
 ここにおいて統一運勢、天地ともの天宙統一の基盤を、地上において決定することができたということになる。三時代を通して先祖が目的を果たし得ず、失敗してきた神の悔しい歴史を横的現世において勝利成し得たというのが、統一教会の先生の成してきた歴史である。霊界が地上に降臨した結呆になっているというんだね。だから、神様はどこにおられるかというと、神臨在なし給う所は天上ではなく地上圏であるという、その基準が成し得たという結果になってしまう。神様が地上にいまし給うようになったのだから、地上的世界発展基準がそこから始められることになる。 1960年からの七年間は、神の地上降臨の基盤を完成する期間であったというんだね。


 七十二双と一ニO双

 次に子女の問題がある。カインとアベルの闘いにおいて、カインがアベルに服従し得なかった先祖たちの立場であったのが、今まで延長の歴史となってきた。それを蕩減するには、先祖たちの一家庭、一家庭の前に、カインとアベルの服従の基準の蕩減をなさなければならない。それが七十二家庭である。三十六の二倍である。先祖の成し得なかった四位基台、サタンの譲訴条件となっていたものを、神のほうに勝利圏を成し得たのであるから、サタンは後退せざるを得ない。縦的関係を全部地上に引き降ろしてしまった。父母の地上的世界的発展の基準を立てた統一教会におきまして、七十二双の祝福とともに一二O双の祝福がなされた。一二O双は何かというと、世界万国の代表を象徴したものである。 イエス様は、霊的において、世界的出発するには一二〇の門徒を世界代表の勝利圏の立場に立たせなければ、
世界発展をなすことはできないわけで、これを霊的でなく実体的に、先生が統一教会において呆たさねばならなかったのが二十一年間の使命であった。それが成されたのだから、次に何が始まるか?万物祝福。つまり聖地決定ということになる。神の願う人を探すことができたのだから、次に万物を得なければならない。これは一九六五年の世界聖地、四十カ国を中心として、一二〇カ所の聖地決定であった。これを世界的に成して、その運勢を大きく転換させるポイントとしてきたわけである。


 神の日の決定まで

 次に、素晴らしい日の一つに「父母の日」がある。我々堕落した後孫において、神から喜ばれる父母をもつことができなかった。しかし、これを復帰することができた。再び迎えることができた。これ以上の喜ばしいことはない。そして「子女の日」を迎えた。こうした、堕落の結果において失われた日を人類は迎えることができなかったのは、復帰の路程が分からなかったからで、これを成し得たということは、歴史的福音である。 これによって、一九六八年一月一日「神の日」が決定された。「神の日」の決定とともに、地上に神の臨在の基準を立たせることができた。したがって、統一教会の発展は、地上において急速に日を追って進むであろう。そういう基準を成し得たのだから、統一教会の真理を中心として、霊界解放とともに地上解放、地獄を解放ということに発展していく。なぜかというと、神の日を迎えるその時には、地獄もサタンもない基準に立ち帰るということは理論的に可能だというんだね。「神の日」の決定とともに、先生の使命は完成された。

 イエス様の失敗を復帰

 先生は韓国に追われ、既成教会に追われたけれど、イエス様においては、ユダヤ教に迫われるようになり、その身において公式路程を開拓しながら、新しい、ユダヤ教を乗り越えて、ユダヤ教の失敗を収り除き得るイエス様の福きを中心とした、第二の新生のユダヤ教を立てようと出発したのが公式三年の路程である。それは個人から家庭、家庭から氏族、そして新しい民族と・・・・・・。これは、イスラエル圏のサタンを屈服し得る、霊肉ともの永遠の勝利の基準を立たせようとしたのだが失敗した。 先生は、ユダヤ教においてイエス様が反対されたのと同じように、既成教会に反対されて、サタンのまっただ中に人って闘って、そうして反対に元に帰さなければならない立場に立ってしまったのだから、追いに追われるような身になって、先生は、北韓の怨讐の本拠地である平壌への道をたどらなければならない。神が祝袖して、今まで基盤をつくっておいた本郷の地である白分の故郷のソウルをあとにして、怨警の本拠地であるところに行かねばならない。そこにおいて闘って、また闘って講訴条件を乗り越えてこなければ、第二の出発をなし得ない。それが、先生の共産圏においての獄中生活であった。 獄中生活においては、イエス様が追われ、弟子がみな反対するというような立場ではなくて、その牢屋の中においては歓迎されるように十二数以上の弟子を霊界から伝道し、先生に結ばれる基準が成された時、そこから、それ以上の基準が、新しい歴史が出発していったというんだね。 そのようにして、南のほうに来て、新しく反対する既成教会を押しのけて、先生を中心としてあらゆる新しい教派、いわゆる今までの世界的基督教のすべての使命を一人において呆たし得、結合させようとする神のみ旨を行ったのだけれども、彼らは迎えなかった。そこで、我々はそれを押しのけて新しい教派の基準として、彼らに比肩するような教派圏をつくっていった。彼らなくしても、我々は神の摂理を受け入れて呆たし得るょうな基盤をつくったのが、韓国においての統一教会であり、統一教団である。 そして、一九六八年をして既成教会とアカデミーハウスの問題が始まった。九月十日だったかね。あの時、既成教会の博士や、統一教会の先生に対して反対してた筆頭者ばかりが集った。約四十人ばかりだった。大きな顔をしているそこへ堂々と入っていった時の気持ちは悪くなかったね。 我々はもう時勢において、こういう時を迎えなければならない。その人たちは今から何年か前に、自分の気ままに反対したその者である。あなたたちは〈今〉吹けばプッと飛ぶようなみすぼらしい者であるけれど、時来たり、時節過ぎてみた時に自分たちの思っていた男じゃない。今その両襟を正して、前に現れる立場になってしまった。結局その人たちが先生を迎え、統一教会の真理を推挙するようになったことは、勝利的な段階に入ってきているということである。そういう結果になった。だから韓国において、非常に問題である。統一教会が一番怖い。文先生は最高の総司令官である。キリスト教においても手のつけようがない。理論的にもとてもかなわない。だから相手にするなと、今まで烏合の衆みたいにガヤガヤやってきた。

 勝利の基盤

 そうした迫害の道をたどりながら、復帰の道は開拓されてきた。
 天下すべてが立って反対しても、これを太半のごとく肝っ玉をもって迎えるよ。我、何遍死しても天のみ旨は果たし得る圏をつくり得た。これがなぞであった。既に、神の六OOO年の歴史を通過し得なかった歴史的問題すべてを、先生一代において成し得た。成功した。今は死んでも統一理論は世界を制覇する。いくら一億ガヤガヤ動員して反対しても統一主義には絶対勝てない。 日本を神が必要とするのか。日本自体を要求するのではない。世界を必要とするからだ。霊界、地界、天宙を必要とするからだ。世界的環境を神はまずつくった。今はちょっと動けば、世界がすぐ動きだすような時代圏に入っている。私たち統一青年において、神がいないということは夢にも思わないだろう。神はいるが、観念的神ではなく、生活圏内においての神である。その心情たるは感傷的心情ではなくて、実証的な心情を兼ねている。これこそ素晴らしいものである。


 祝福の基準

 復帰の路程を完全に通過しなければ、個人、家庭、氏族、民族、天宙すべての圏内に入って、サタンに讒訴されない基準を立たさなければ、祝福の条件を立たすことはできない。 一九六〇年が、いったいどの基準であったか?堕落したアダム、エバの立場、長生完成級の基準である。長成期完成級基準を中心として完成圏まで上がるには、七段階の七年の期間が必要である。それが第一次七年路程であるというんだね。完成基準に立ち入る時は神の直接主管圏に人る。直接といえば内外ともの直接だから、心情、生活圏ともに主管成し得る基準である。
 完成基準を残して祝福した基準が、一九六〇年である。しかし、その圏たるは今まで堕落したアダムにおいて、堕落した圏内に入っているのだから、サタンの主管圏にある。この主管圏内において、サタンを打ち壊す大物が現れてきたのだから、その家庭に対してサタンは総攻撃してきた。しかし、反対に追い払って闘ってぶつかって蕩減し、神の日の決定、子女の日、万物の日、父母の日と、四つの日の決定をこの七年間に成し得たのである。 神からサタンが奪っていったものを、奪い取った基準が立ったのだから、そこにおいて完成基準が完全に地上に決定権を成し得ることができた。 花婿と花嫁がサタンを押しのけて出会う。その一日が神の願いであり、二〇〇〇年のキリスト教の歴史であったが、花婿はイエスで、天を指し、聖霊は女性神で、地を指し、空間のサタンを突き破って天地が一つに成り得た宗教人の最高の目的を、我々統一教会が成し得たというんだね。だから、ここにおいて始まった先生の家庭を中心として結び合っている家庭は、一つの氏族である。それが日増しに発展していけば、これは民族になる。もう少し発展すれば国家、世界圏を成し得る。 だから新しい民族、第三イスラエル民族ということになる。今までの歴史過程の先祖より受け継いだ血統による子女でなくして、新しい血統圏を受け継いだ神による子女圏となり得る立場を授けるのが統一教会である。我々の立つところは違う。サタンの讒訴を防ぎ、勝利圏を成し得た内容をあなたたちに教えましょう。どの基準にあなたたちはいるか。長成期完成基準にも上がってこないというんだから、祝福ということが問題だというんだよ。二人の男と女が追い出されてしまったのが堕落だから、二人は歓迎されない境地を乗り越えなければならない。それが祝福である。


 第ニ次七年路程

 祝福というのは完成基準における祝福じゃないよ。 先生においての神の日、先生においての父母の日、先生においての子女の日、先生においての万物の日は世界的、天宙的に決定された。あなたたちはその圏内において祝福し得る、参席し得る立場に立っているというんだけれど、参席はし得てもその道はまだ行っていない。本当はあなたたちの父母の日、新しい氏族の先社として立ち帰る時が、あなたたちの真の父母の日であるというんだね。木村だったら、木村氏においての真の父母のHが生れてこなければならない。真の子女の日、万物の日をこの木村氏を中心として、そして神の日の決定という白い旗を立てて、永久に翻るその日を我々統一教会は迎えなければならない。 この旗を掲げて出発したのが第二次七年路程である。それは長成期完成圏において勝利した男、堕落した後孫であるけれど堕落しないアダムより以上の立場、エバ以上の立場で、完成に向かって堂々と行軍し得る立場、サタンの邪魔があれば屈服させるその権威で押しのけていくのが、我々の唱えている全面的進撃である。それは先生だけに限るんじゃないよ。全世界的になっているんだよ。男も女も老いも若きも行かなければならない。第二次七年路程も全面的進撃の年である。


 先生の氏族

 そして、この第二次七年路程においても、先生の恨み、イエス様の恨みは何かというと、親戚関係を中心として真理を語り伝道したことがない。自分の使命も話すことができない。主張したことがない。先生の父母とか、先生の兄弟たちに、どういう使命を〈先生が)もっているかは分かってもらえないけれども、兄は「自分の弟は何か大きな人間というか、大きなことをやる。」「世界的な弟をもっている」と言ってくれたんだね。まあ、そういうことを知ってくれる兄さんや、お母さんに対しても、先生は八人兄弟だが、誰よりも愛したその肉親に対しては、この貴重な原理の内容を打ち明けることができない、悲運な男として立っている。これが先生の悩みであったo 自分の血統的に近い、愛の関係をもっている父母とか、兄弟を中心として、血縁のものを愛することができずして、反対のサタンのほうに、カインその者を、自分の血統の親より以上、兄弟より以上愛さなければならない立場をたどってきた。それが今日の統一教会の発展となった。ちょうど自分の嫡子より以上に愛さなければならないようなものだ。自然屈服させなければ、アベルとして蕩減復帰はできない。だからカインがなければ、アべルが立たない、ということになるんですね。 自分の血統的嫡子より以上の心情でもって、自分に孝行し、尽くしてくれる者を伝道しなければ、蕩減復帰はできないのだから、そういう立場を立たせるということはいかに苦労であるか。食べることも、寝ることも忘れて愛さなければ、彼らは心情的に屈服しない。そういう環境をずーっと広げて、勝利圏をつくってきたのだということを知らなくてはならない。


 氏族的メシヤになれ

 あなたたちにおいては、先生と違って、今から第二次七年路程が始まった以上は、自分の血統的、親、兄弟に対して自分の尊いものを直接与えることができる圏内にあるのだから、統一教会の食口たちは結局氏族のメシヤの立場に当たる。氏族のメシヤとして、第二次七年路程において成すことは、先生の成し得なかった、イエス様の成し得なかったことをあなたたちの氏族を中心として、親を中心として、兄弟を中心として、新しく成すがため、あるのであり、それによって神のほうの蕩減をみな完成させよという。そして個人から、家庭、氏族、民族、国家基準を愛したという基準を立たせるんだから、完全に個人から家庭、氏族、民族を通過する道が、世界までの道ができたということになっている。 イエス様が四OOO年の歴史の末に、ヨセフの家庭において、み旨をマリヤとヨセフに打ち明けて、協力して果たし得る基準を取り継いだ立場に立たせるのが、第二次七年路程の出発の基準であり、使命である。 先生もそうであったけれども、神様も自分の近親の者を愛したならば復帰はできなかった。愛する民族を引き裂き、犠牲の立場に立たせて、十字架を背負わせてきたんだね。サタンのほうの家族を、サタンの氏族を救うために自分の一番近い、子供、家庭、氏族を犠牲にしてきたのが今まで神の摂理の路程である。 だから、神様は愛だというんだね。十字架につけられる。その怨讐たちに対しても祝福をしなければならない。神に彼らの罪を、「彼らは分からないから赦してほしい」「助け給え」と祈りをなしたのも、神の心情圏を知ったイエス様であったからこそ、そのような祈りができたわけだね。
 復帰路程は拳による力ではない。心情的力によってすべてを屈服させる基盤をつくらなければ、蕩減完成は成し得ないということを、私たちは知らなければならない。結局、「復帰と祝福」という問題は、イエス様が成し得なかった祝福を我々として果たし得るところに、復帰完成と祝福完成があるということが分かれば良いという結論に達する。












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