御旨と世界
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復帰の道

1972年4月1日 フランス パリ教会


 堕落によって、我々はサタンの血を受け継いでしまったのです。父母なるアダムとエバが、もし堕落しなかったならば、罪のない神の子女であったはずでありますが、堕落によってサタンの子女となってしまったのであります。本来ならば、主符は神からのみくるものであり、神のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのであります。

 愛は統制力、支配力を伴うものであると原理が語っているように、たとえそれが不倫なる愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威とか権利をもったわけであります。ところが、創造原理によれば、あくまでも神が本来の主人なのですから、結局、この両者は共に人間に対してその所右を主張することができることになります。しかしながら、だからといってアダムを三つに切断して、神とサタンの問で分け合うことは、物理的に不可能であります。そこで神は、原理的観点から、人間を二つに分立するためにあるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神はその分立のルールを定められました。すなわち神は、堕落したアダムとエバを、彼らにより生まれた二人の子供を通して、分立されたのであります。

 復帰の公式

 カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側であります。次男(アベル)を神は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第二の愛を表示しているのであります。アベルは、第二の愛の実でありますが、一方のカインは、第一の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのであります。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神側に取れたわけであります。

 さて、本来の命令系統は、神から始まり、アダムヘ、アダムから天使長ヘという順序だったのですから、この場合には、その関係は神からアベルへ、アベルからカインへという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係であります。そこで神は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのであります。堕落行為によって、人類の血統は交叉されました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのであります。それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼってなされなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのであります。

 堕落は、原点であるところの母の胎内で起こりました。それゆえに復帰もまた、母の胎内からなされなければなりません。そこが悪の原因となり、出発点となったのでありますから、復帰においても我々は、その原因に戻っていかなければならないのです。そこで、神はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのであります。すなわち、カインはアベルの位置に下りなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのであります。ところが、カインはアベルを殺してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復であります。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのでありました。この辺はなかなか、理解の困難なところですから、図解して説明しましょう。……このように年齢の違う兄弟を用いたのでは、あまりに距離がありすぎるので、神はもっと近いものを求められました。すなわちこの復帰摂理をもっと近い基準、原因により近い基準にまでもってきて行おうとするのであります。最善の方法は、カインとアベルの生命を引き戻して、母の胎内にまで立ち返らせることですが、それは物理的に不可能であります。

 (黒坂に……これは中央でたたみ込むような形になっています。TとUは互いに一致するものであります。Tの部分はUの領域に反復されているのです)。そこで、その神の摂理は、エサウとヤコブという双子の兄弟を用いて現れてきました。カインとアベルに対して用いられたと同じ原理で、ヤコブは兄エサウの位置に復帰されなければならず、エサウは、弟ヤコブの位置に下りなければならないのであります。

 双子の兄弟の母はリベカでした。彼女が身ごもっていた時、その胎内で、二人の子供は互いに争いました。そこで彼女は、主の所に行き、主に尋ねました。主は答えて「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る、一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と言われました。これは、神御白自身が語られたことなのであります。

 ヤコブの勝利

 ヤコブは讒訴を免れる条件を立てていたので、レンズ豆のあつものを売ることによって、ヤコブがエサウから長子権を買い取ることができたのであり、それゆえに、ヤコブがエサウから長子権を奪い取っても、サタンは彼を讒訴することができないのであります。かくして長子権は復帰され、父親からの祝福はヤコブに与えられたのでした。ところが、エサウは、あまりに怒り狂って、かつてカインがそうしたように、ヤコブを殺そうとしたのです。

 ヤコブは失われたアベルの位置と同様、アダムの位置をも復帰すべき立場にありました。そのために彼は二十一年間、ハランに逃れていかなければならなかったのです。そのために当然彼は、その間は、自分のその全使命を完全に果たすことはできずにいたわけであります。二十一年ののち、富を蓄えて、彼は故郷カナンの地に帰りました。堕落の過程において母親が、その堕落行為を先導し、息子がその行為を完結したのでありますから、両者は協力し合って、人間に堕落をもたらしたことになります。ゆえに復帰の過程においては、この逆の経路をたどらなければならないのですから、ヤコブの時には、母リベカと、次男ヤコブが、ヤコブの目標達成のために共に協力し合ったのであります。

 堕落の過程において、エバは父親にうそをつき、自分の兄アダムにうそをつきました。ゆえに復帰においても、リべカは、ヤコブに祝福を得させるために夫にうそをつき、長男にうそをついたのであります。二人の兄弟の父親イサクは、神の立場であり、その息子エサウは、カインの立場であります。

 さて、このようにして基台は立てられましたが、まだ実体としての復帰はなされていませんでした。つまり、その時までにヤコブの母は、その使命を全うしていましたが、次は、ヤコブの番だったのであります。ヤコブの使命とは、天使によって侵害されたアダムの位置を復帰することであり、また、カインによって殺されたアベルの位置を復帰することでありました。そして、ヤコブは、エサウの位置に帰り、ヤコブの位置に下りたエサウを屈服せしめなければならないのであります。

 さて、二十一年後のヤコブの使命は何であっのでしょうか?皆さんは、アダムがどのようにして失われていったかということを考えてみなければなりません。なぜなら、そのアダムの位置の復帰ということが、まず第一に重要な彼の使命であったからであります。アダムは誰に主管されたのですか?天使に主管されたのです。ですから、その立場を復帰するためにヤコブは天使と闘わなければならなかったのであります。これがヤボク川で起こったことであります。彼は天使と一晩中闘いました。その結呆、何が起こりましたか?天使は、ヤコブの勝利を求め彼を祝福したのであります。

 このようにして、本然の位置関係は復帰されたのでした。では、なぜ、天使はヤコブを祝福する前に、彼の腿(もも)を打ったのでしょうか?人間の堕落行為は、体のその部分、腿の誤用からもたらされたものでありました。それゆえに、その罪ある部分を打つことにより、償いの法則は全うされたのであります。すなわち、旧約聖書にある「眼には眼を、歯には歯を」という法則からなされたわけであります。それゆえに、天使は、ヤコブを祝福することかできたのでありました。

 ヤコブの第二の使命とは何でしょうか?天使に勝ったのであります。ですから、勝利――すなわち内的勝利は獲得され、アダムの位置は復帰されました。そこで次に、その条件のもとで、彼は、アベルの位置を復帰すべき立場にあったのです。そこでヤコブは、二十一年後にハランから帰り、兄エサウの心を和らげるために自分の全財産を贈り物として与え、自分はただ、兄から祝福されることを求めたのでした。そのために、兄エサウは、彼を受け人れ歓迎したのであります。

 かくして、エサウは弟の位置に下り、ヤコブは兄の位置に上ったのであります。それゆえにこういう事情から、ヤコブは、その係、すなわちヨセフの子供を祝福した時、腕を交えして、左手を長男マナセの上へ、右手を次男エフライムの上に置いたのでした。ヤコブはエサウの位置を復帰していたので、そうすることができたのであります。

聖書によると、ヤコブの性格は非常に狡猾に思えます。なぜ、神が、このような狡猾な男に恵みを与え、用いて、さらに祝福を与えられたのか、それは、不思議なことではありませんか。それは、このような理由があったからであります。原理がこのように解答を与えているのであります。ヤコブはこのようにして、神から与えられた使命を全うした立場に立ったのでした。

 皆さんは、このようなことが信じられますか?それとも、これは先生の作り事だと思いますか?これらの出来事は数千年も前に起こったことであります。しかしながら、原理が解かれるまで、誰一人として、その本当の意味を知るものはなかったのであります。このようにして、この図の(D)点から、イスラエルという名は出発しました。しかし、ヤコブが勝利の基台を立てても、それはまだ、この(E)における原因そのものの立場には帰っておらず、そのためにさらにこの位置まで復帰してくる路程を通らねばならなかったのであります。すなわち、この距離(D)を復帰するために、さらにもう一つの業がなされなければならなかったのであります。もし神が、その摂理を、ヤコブの年齢のその時点で止めてしまったならば、ヤコブのその時の年齢以下の基準は、復帰されずに残ってしまうことになるからであります。

 神の摂理が、ヤコブの時に始まって、彼のある年齢において完成されたと仮定してみましょう。そうだとすると、完成された時の、そのヤコブの年齢以上のすべての世代はこの条件により復帰されますが、その年齢以下の世代、すなわち生まれたばかりの年代から中年に至るまでの世代は、復帰されず、触れられないままになつてしまうのであります。それゆえに、さらに徹底した摂理が、原因そのもの、すなわち母の胎内において始まらなければならないのであります。

 ユダとタマル

 かくして、神の第三次の摂理は、もう一度堕落の原因そのもの、母の胎内において始まったのであります。最初の母エバは、神を不信仰したために堕落したのでありますから、その、エバの位置を復帰すべきタマルは、逆に神に対する絶対的信仰を貫かなければならなかったのです。そのために彼女は、自尊心も、誇りも忘れ、さらに命さえも捨てる覚悟をしなければなりませんでした。エバは、不信仰により父なる神を捨て、その代わりにサタンを父として受け入れ、神の立場に置いたのであります。それゆえに逆にタマルは、父なる神と共に歩まなければならなかったのであります。エバは父親と一つになることができませんでした。これが堕落であったのです。それゆえにタマルは、父親と一つにならなければならなかったのです。ユダはタマルの義父の立場にあり、父親の役目にありました。父親と娘が一つになることによって、彼女は身ごもった。つまり、タマルは、義父によって子を身ごもったのであります。

 創世記三八章を参考にして、さらに見てみましょう。ユダには三人の息子があり、タマルはその長男の妻でした。ところが彼女の夫は死に、このような場合、普通ユダヤの習慣ではその次男によって子を生まなければならないのですが、次男も死に、三男は、あまりにも若すぎました。そこで、タマルは、神の復帰されてきた血統を継続することが、何より重要であり、必要なことであると考え、義父ユダにより子を身ごもるという最後の手段をとらねばならなかったのであります。その時、彼女は、誇りも捨て去り、その命をすら懸けていたのでした。彼女は遊女を装い、義父の通る道のかたわらに座っていました。そして、ユダが農場へ行く途中、彼を誘惑し、関係を結んだのであります。

 ユダは、彼女が、自分の義理の娘とは気づきませんでした。賢い女タマルは、後々のために、三つの証拠品を要求しました。一つは印、もう一つは杖、そしてもう一つは紐でした。なぜ、彼女はこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。当時のユダヤの律法によると、もし寡婦が、夫をもたずに身ごもった場合には、石で打ち殺されたのであります。月日がたって、タマルの妊娠は人目につくようになってきました。そこでうわさは広まり、ユダの耳にも入ってきました。ユダは非常に怒り、その義理の娘を連れてきて、火で焼き殺そうとしました。その危機的な瞬間に、タマルはもっていた証拠品を取り出して人々に示し、自分はその品の所有者によって身ごもったと言明したのです。タマルは、自分の使命を全うするために命を懸けたのです。そうじゃないですか?

 彼女は、神のみ意を成し遂げるということ以外には、何の目的も、何の考えもなかったのです。このようにして、タマルは、エバと全く逆の経路をたどることにより、堕落したエバの位置を復帰する条件を立てたのでした。ここに集まってきたエバさんたち、タマルは、よくやったと思うでしょう。そうは思いませんか?

 このことは、神のみが知り、神以外には誰も知るものはなかったのです。皆さんは、その隠されてきたなぞと、秘密をほんの三十、四十分で知ることができるのですから、最高に恵まれた幸運な人たちなのです。

 このようにして、タマルは身ごもり、その双子は母の胎内で争いました。そこでタマルが祈ると、主が現れて、リベカに語られたことと同じことを言われました。「二つの国民があなたの胎内にあり、一つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と。皆さんは神が、そう言わずにおられたと思いますか。神は二〇〇〇年間、その成就の瞬間を待ってこられたのです。出産の時が来て、長男ゼラがその手を押し出したので、産婆はその手首に緋糸を結びました。これは、終わりの日には、共産主義がまず最初に現れるということの象徴的な予言であります。これは、歴史の七〇〇〇年(六〇〇〇年復帰歴史プラス千年王国───歴史の完成)の象徴として、サタン的共産主義の歴史が、七十年目にして滅び去るということを示しています。一九七八年という数字が出てくる理由はここにあります。すなわち共産主義は一九一七年に始まったのでありますから、大体それから六十年間持続してピークに達し、その七八年を境として、その後は下り坂になつていき、七十年目には絶滅するということなのであります。これは真実であります。それゆえに今は、共産主義を学んでいる人々がそれを棄て去る時なのであります。

 さて、争いは母の胎内で起こりました。次男ペレヅはゼラを押しのけ、先に出てきました。この復帰、この逆転は母の胎内で起こったのです。イエス様がユダの血統から生まれてこなければならなかったという原理は、この点において打ち立てられたのであります。

 さて、この一点から、カインは下になり、アベルが上になってきたのです。そして、この点から歴史はさらに広い範囲、すなわち、家庭から氏族、氏族から民族、民族から国家基準へと進行してきたのです。それと同時に、サタン世界の拡大もまた、それに並行してなされてきました。そして、この二つの異なった陣営は、国家的レベルまで進行して、二つの異なった地域へと分立されているのです。図の(F)はイスラエルの歴史であり、(G)はイスラエル民族を示しています。

 サタン世界は、家庭的基準から氏族、民族、国家基準まで拡大して、サタン国家を形成しています。小さな、家庭的基準から、氏族、民族的基準へと拡大している円の(H)はカイン国家であります。したがって(G)はアベル国家、すなわちイスラエル選民国家でなければならず、やはり、家庭から氏族、民族、国家へと拡大してきたものでなければなりません。神は、その一つの国家として形成されたイスラエル選民を二〇〇〇年間待ってきたのであります。サタンが既に、一つの国家を形成していたために、神は二〇〇〇年間待たねばならなかったのでありますから、神の国家は、サタンの国家よりも優れたものでなければならないのです。ところが、イスラエル民族は、家庭的基準から、氏族、民族、国家的基準へという歴史路程を通過する過程において多くの過ちを犯しました。

 洗礼ヨハネは、キリストなるメシヤが、完全に確立された基台の上に来られるように、イスラエル民族の犯したすべての過ちを復帰すべき使命をもって来たのであります。洗礼ヨハネは、カインの立場で現れ、一方、イエス様は、アベルの立場で来られました。そして洗礼ヨハネと一体となったイスラエル選民は、アベルとして(+)となり、そこで、イエス様がメシヤとして、この民族の上に来られたのであります。ひとたび、イスラエル民族がイエス・キリストと完全に一体となったならば、彼らは、絶対的(+)を形成し、そこで絶対的(-)が形成され、決して破壊されることのないものとなったはずであります。

 来られる真の父母

 かくして出発した神の摂理は、最後に、絶対的(+)と絶対的(-)であられる真の父母において頂点に達し、完成するのであります。イエス様の時は、イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の父母は実現されませんでした。すなわち、神の血統は打ち立てられたけれども、霊肉ともの真の父母の、肉身をもっての顕現は実現されなかったのであります。図の(I)は、キリスト教の歴史を示していますが、それは霊界のみに限られており霊的救いのみなしてきたのであり、肉的救い、すなわち肉身の贖いは、実現されなかったのです。つまり今日まで、キリスト教には霊的なる父と、霊的なる母しかなかったのでした。ですから、真の父母が来られて、我々はすべてその父母により、霊肉共に再び生まれるために、我々は条件的、あるいは象徴的に母の胎内にあることによって、新しい生命として新たに生まれるべく、そのための路程をたどりながら歩んでいるのであります。今日までのキリスト教においては、聖霊は、母親の役目をなしてきました。母なる聖霊を通過し、父なる霊、すなわちイエスの霊を通過して、我々は、霊的基準において新生するのであります。

 もちろん我々は、母の胎内で生まれたわけですが、さらにもう一歩深くさかのぼって考えてみると、生命の起源は父親から出発するのであります。母親の胎内までさかのぼることによって、血統は交叉し、復帰されましたが、この場合、まだ父親を迎えていないのであります。それゆえに、今日まで、クリスチャンは、母の霊による聖霊の力により、根源そのもの、すなわち、生命の起源であるところの父なる来たるべきキリストのもとへ帰ることを待ち望んできたのであります。堕落する前に、既に息子や娘の生命は、すべて、父親なるアダムの体中で、一つの種として出発していたはずであります。すなわち、息子や娘になる種は父親の体中にあるのです。

 このように、根本的に考えてみると、我々は、霊的にのみ生まれるということで満足はできません。霊と肉すなわち霊肉共に生まれなければならないのであります。そのために、我々は霊肉共に再出発するために、種の立場にまで立ち返らなければならないのであります。その摂理を成就するために、イエス様は、真の父母となるところの花婿と花嫁が来て、その真の父母を通して我々は再び蒔かれる種に立ち返り、新しい生命として、この世に生み直されて出てくるということを約束されたのであります。ゆえに、我々が再び生まれてくる時には、一つの、新しい復帰された生命として生まれてくるのであります。では今まで述べたことからすると、再臨の主、新しいメシヤは、必要であるか、必要でないか、おのずから分かってくるのでありましょう。

 新しいメシヤ

 イエス様の時、この現象界は完全に復帰されなかったので、そのまま今日まで拡大を続け、世界的基準にまで拡大してきました。そのため、終わりの日には、世界は二つに分けられ、一方はサタンを代表し、もう一方は神を代表して、それ以外のものは存在しなくなるのです。そして、その終わりの日には、大きな混乱と危機があるのです。新しいメシヤは、これらすべての背景と、基台とを相続しなければなりません。新しいメシヤは、霊的に、イエス様の体中にある種の立場に立っているクリスチャンのすべてを相続しなければなりません。クリスチャンはいまだ完全には生まれていないのです。それゆえに、彼らは、イエス様の体中にある種のようなものだといえます。しかし、彼らが、このような要素をもっているのは、あくまでも霊的にのみでありますから、まず、実体なる父が初めに現れ、基台を立てるのであります。図中の(E)において、母親がその使命を全うしましたが、(J)においては父親が大きな使命をもっているのであります。

 このようなわけで、誰でも、母親が現れる前に、真の父と一体化しなければならない七年期間があるのであります。ですから、皆さんはまだ結婚していないので、完成したアダムの体中の種の立場に帰っていくのです。恨源そのものにまっすぐ立ち返っていくのです。すなわち、我々はみんな、堕落しない人間である父親から出発しなければならないということです。つまり、堕落しない独身のアダムの体から出発した種が、母親の胎内に身ごもられねばならないのであります。そこにある種は、本物であり、我々はその位置に帰らねばなりません。そして、正にその仕事は統一教会によってなされたのであります。

 イエス様は、イスラエル民族に排斥されたのでありますから、そのイエス様の位置を復帰するためには、再臨による困難な仕事が残されているのです。もちろん、既に肉身をもって生まれ、成長してしまった我々は、文字どおりに、完成したアダムの体中の種の立場に返ることはできません。ですから、我々は、真の父母および、その父母から生まれられた真の子女と一体化することによって、再び生まれるための条件を立てていくわけであります。カインとして、完全にアベルに屈服することによって、両者とも復帰されるという原理があるので、この原理により、我々カインの立場にあるものは、アベルであるところの真の父母、真の罪なき子女と一体化しなければならないのであります。彼らと一体化することにより、我々は復帰された子女として、同じ恵みを受けることができるのであります。それゆえに、真の罪なき子女が、真の父母を通して生まれられる時、我々は、食物やその他、同じ成分のものを分かち受けるための条件を立てなければならないのであります。このようにして、我々は真の子女の立場に参与する路程を通過していかねばならないのであります。

 真の子女様との一体化

 皆さんは、誰を通じて真の子女と一体化し、新たに生まれたる子女となる条件を立てるのですか?父親だけでは十分ではありません。真の父母を通じなければならないのです。いかに父親が重要であるといっても、父親だけではなく、父母とその子女を通じなければならないのであります。では女性は誰を通じて―─もちろん真の子女を通じてでありますが、真の父母は、男の子女様と、女の子女様をもっておられます。だから、女性はみな、真の父と真の母と、その女の子女様と一つにならなければなりません。では男性は?それは真の父母とその男の子女様と一つにならなければならないのです。女が先に堕落したので、女の復帰が先になされ、その次に男の復帰がなされるのです。

 では、その最初に復帰された女の立場に立つのは誰でしょうか?それは、真の父母から生まれた最初の女の子女様なのです。最初の男の子女様は、真の父母の第二子であります。これらのことは、ほんの骨組みであり、非常に簡単な説明であります。これらの説明の背後には、非常に深く複雑な過程があることを知らなければなりません。

 これらの罪なき真の子女の誕生により、天的四位基台は、歴史上初めて復帰されるのであります。これが、我々統一教会における天的四位基台の復帰であり、サタン世界の何ものも、この基台に対して触れることはできないのであります。選民国家が復帰されなかったために、天的四位基台という一点から始まって、家庭的基準から氏族、民族さらに国家的基準へと拡大していく路程を通らねばならないのであります。その中心核となるのは、四位基台をもって復帰されたところ天的家庭なのであり、そこに築かれる国家こそ、最も強く、無敵の国家であり、それこそイスラエル国家の勝ち取ることのできなかったものであります。

 国家的勝利基盤

 その国家は、他のあらゆるサタンの主権に打ち勝って、外的世界の中心となるでありましょう。図の(L)は、サタン世界を示しております。ひとたび、天的国家が復帰されるならば、それは二つの主権へと拡大し、さらに三つ、四つと、やがて全世界を覆い尽くすまでに拡大していくでありましょう。そして、その天的国家に属する民族は、自動的に何もかも一緒に復帰てしまうでしょう。その一つの神の主権を復帰するまでは、絶頂を行くような路程を通らねばならないのです。一つの国家主権を復帰するところまでいかない限り、いかに多くの復帰の業をなしたとしても、もし、サタン元首あるいは政府が立てば、すべてのものは崩れていく可能性があるのです。

 それゆえに、一つの主権を復帰することが、我々の最も緊急な任務なのであります。そのことのために、我々は、真の父母と完全に、絶対的に一つにならなければなりません。そして、韓国、日本、その他の世界中の食口たちと、完全に一つにならなければならないのであります。

 このような過程を通して、皆さんは、この復帰の道が、いかに困難な道であったかを悟るでありましょう。イエス様はニコデモに対して、「あなたは新しく生まれなければならない」と言われました。これに対してニコデモは、「人は年を取ってから生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎内に入って生まれてくることができましょうか」と反論しました。するとイエス様はさらに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことが分からないのか」と言われたのでした。この時、イエス様は、正に、この原理を語っておられたのであります。

 キリスト教における復活と新生という言葉は、すべてこの同じパターンを意味しているのであります。図の(E)点、すなわち、血統の復帰は、ついに母親を通してなされ、原理は復帰されて、汚れた血統は、天の血統へと復帰されたのであります。しかしながら、我々が完全な新しい生命として、新たに創造され、根本的に新生されるのは真の父を通して、真の父の体を通して初めてなされるのです。ゆえに、その新しい創造の時から、初めて霊肉ともの贖いによる完全なる救いは、可能となるのであります。かくして、我々の子供たちは、救いの過程を通らずして天国に行くようになるのです。

 皆さんは、復帰ということが、どれほど困難な過程であるかを知らねばなりません。先生は、真理を見いだしただけではなく、その真理のすべてを成就しなければなりません。今、先生はそれを皆さんに無償で教えているのです。皆さんはまるで、何もしないで卒業証書をもらう大学生のようなものです。ですから、この立場がどれほど貴重な価値あるものであるかを知らねばなりません。

 統一戦線守護

 統一教会の今年の標語は、「統一戦線守護」であります。これは、我々が、この天の基台を守り、防御しなければならないということを意味しているのです。ですから、どこにいようとも、我々すべての統一教会の食口たちは韓国の食口と一つになって、統一戦線を守護するために共に前進して行かねばならないのであります。全世界的な状況から見て、我々の歩みの中で、韓国は最も強固なる基台が打ち立てられている国であります。もし、他の国において、新しく摂理を始めようとするならば、すべての路程を最初の出発点からやり直さなければなりません。

 第二次七年路程の終わる一九七四年までは、これはヤコブの第二次七年路程に相応する期間であります。この期間が過ぎると、次は世界的基台をつくっていくようになり、天国の復帰のための十分な経済力をも、もつようになるでしよう。一つの国家さえ復帰されたなら、すべての国家は復帰されていくのであります。
















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